巻18 天正7年正月~12月
天正7年(1579)
正月大
17日 越後の喜田川の館にて、上杉三郎景虎が上杉喜平次景勝に敗北して、その日に自殺した。
〇そもそも上杉謙信は、姉婿の長尾越前守政景の息子喜平次と、北条氏政の弟氏秀の2人を跡継ぎとして、景勝と景虎とした。去年3月13日に謙信が亡くなり、遺言がなかったので、2人が相続争いで、戦争を始めた。
景虎は春日山の城の二の丸から脱出して喜田川の館に立て籠もり、防戦しようとした。東上野の鎮衛の越後、栃尾の領主、北条丹後長朝は、大軍を越後の善光寺府内の城に置いて、喜田川の館を援護して膠着状態が続いていた。
三郎(*景虎)の兄の氏政は弱虫で怠け者だったので、景虎の救援が遅れた。そこで景虎はとりあえず妹の婿の武田勝頼の領土が隣にあるので、救援を求めた。
その時、喜平次景勝の計略によって、勝頼の嬖臣(*寵臣)の長坂跡部は景虎に、「武田の家来にしてやるから、東上野の上杉の領地を全て黄金1万両で勝頼に売る」という証文を書かせた。長坂らは、その約束を無視し上杉のことなど考えず勝頼に進言して、援軍を景虎へ出すのを止めさせた。
織田信長は、上杉家の家督相続争いに乗じて、神保正武など多勢を越中に出撃させ、礪波、射水の2郡を侵略した。
北条家は、勝頼が敵にまわることに激怒して、今月7日に武陽の兵1万5千を越後に派遣した。しかし、雪が深くて馬が進めなかった。
17日の夜、喜平次景勝は春日山より喜田川の館を夜襲し、後援として来た府内の北城丹後長朝を、萩田主馬助(17歳)が槍で突き、その傷によって丹後長朝は死亡した。景虎は味方を失い敗北した。それで彼は妻子と共に自殺したわけである。
〇『甲陽軍鑑』では徳川家の猿楽師、蓑笠之助は発句を夢見た。
「駿河なる富士のお山を甲斐食て」
徳川家はこの縁起の良い夢を、金熨斗(*のし)付きの刀を授けて買い取ったという。しかし、本当かどうかはわからない。
20日 家康は三河の吉良へ行き、29日まで鷹狩をした。
2月小
21日 浜松城の乾、本多作左衛門重次は、自分の宅地の周囲に堀を設けて離れ郭にするように、9日に家康に命じられた。そこで今日から造作を始めて、
3月大
7日 松平主殿助は牧野の城へ行き、西郷孫九郎家員と交代して警備に加わった。浜松の城壁の建設は彼の従者にやらせた。
25日 勝頼は高天神の城下の国安に出撃したので、家康と信康は夜に馬伏塚に入って対陣した。
26日 戸田新六郎康長が牧野の城へ行き、松平家忠と交代した。
27日 勝頼は国安の陣を去った。
28日 勝頼は大井川を渡って駿河へ入り、家康と信康は兵を戻した。
そもそも家康は、勝頼の父信玄を攻めるために、永禄12年以来北条家と組んで東西より駿河を攻めてきた。しかし、氏康が亡くなった後、息子の氏政は弱体で、信玄と和融し今川氏眞を追い出した。このため家康にとって北条は敵になった。
勝頼は(*上杉)景勝の謀略にはまって二郎景虎を殺し、前に約束していた東上野の地と黄金1万両を景勝から取り上げ、跡部大炊と長坂長閑斎は黄金2千の賄賂を手に入れた。そのため北条一族の恨みは深く、武田と手を切り、上州小幡境、武蔵の那珂郡廣木大仏に城を築き、岩付の北条新太郎氏邦の勢力を配した。
勝頼の命令で、典厩信豊は氏邦が建設中の未整備の城を撃破しようとしたが、岩付勢が防戦に努めたので信豊は敗北した。氏政は今川の臣、朝比奈彌太郎泰成を仲立ちで、家康と再び和平した上で、家康の紹介で信長に服従しようとしたという。
『甲陽軍鑑』によれは、長篠に敗れた後、武田の古くからの家来は織田城介信忠に通じて、駿河のある路筋から、徳川家へ密通するものが少なくなかった。
関甚五兵衛は信玄の代から甲陽についていたが、織田御坊の臣の五十君久助を頼って信長に通じた。彼一族は、長坂跡部に媚を売って可愛がられた。孕石(*はらいし)忠彌、皆井靭負、曽根一郎、落合市之助などは、罪もないのに8年間に23人が冤罪によって死刑にされた。
この春以来、駿河の富士権現の大杉に煙が上がり、勝頼の領地のほとんどの社で妖怪が現れた。勝頼も殃(*禍)が身に及ぶことを察して、織田、徳川、北条の連合を警戒したという。
4月大
7日 浜松城内にて秀忠(後の徳川2代将軍、台徳公)が誕生した。母は西郷局(一説には隊四郎左衛門忠家の妹)、幼名は長丸。 お産の守り神として、家康は城中の五社大明神に15石の地を寄進した。後に於義丸(後、越前黄門秀康)も生まれたが、信長には報告せず隠し子とした。
土井甚三郎利勝(11歳)と小左衛門利昌は養子であるが、実は水野下野守信元の息子で、家康は彼らを長丸の家来とした。彼らは非常に優秀な家来として名高く、執政のブレーンとして大炊頭に任じ、正四位少将までになった。
23日 勝頼が駿河の江尻に出撃するという知らせが届いたので、三河と遠州の諸将は浜松に集結した。
26日 昨日勝頼は国安に駐屯したので、家康は今夜馬伏塚に行き、信康も明け方にこの地へ到着した。味方の先隊は目附の宿に陣を張った。
27日 徳川軍は袋井の宿に進軍した。勝頼は国安を去ったという知らせが届いた。
29日 勝頼は大井川を越えて駿河に入った。家康軍は兵を引いた。
5月小
4日 信長勢は数万の軍勢で丹後口、但馬口、東丹波亀山口から丹波へ攻め入った。
羽柴秀吉の陣代、弟の小一郎秀長は、丹波、丹後、但馬、播磨の落ち武者を先隊として、西丹波に攻め込み戦いに勝利した。そして城の地下人を味方につけて、綾部と福知山の城を落とした。
5日 西丹波、氷上の城主の波多野主殿助宗長と同美作守宗貞は、八幡山に陣を張り戦死した。信長方も若干名が討たれたが、戦いには勝利した。
そもそも丹波は惟任(*これとう)日向守光秀が、信長の厳命によって征服するはずだったが、うまくいかなかった所である。しかし、羽柴秀長がここで手柄を上げそうだったので、光秀は(*自分が果たせなかったことが)信長に聞えるのを恐れたか、または腹が立ったのか、東丹波峠、沓掛、細野、西岡、本目の城を全て陥落させて木目城に住んでいた。
後年、信長は摂津の能勢口から多数で攻め込んで光秀を救出し、その後光秀は虎杖、天王寺、丸山、岡山の城を陥落させた。
19日 久下の城で波多野美作と久下越後重氏が自殺した。続いて氷上の城で波多野宗長が自害して、丹波を信長が制した。
6月大
2日 光秀は修験者の仲裁によって、丹波の守護、波多野右衛門太夫秀治へ自分の老いた母を人質として送り、偽計によって彼らを負かした。
秀治が弟の遠江守秀尚とともに木目の城にきたところで酒宴を設け、その最中に伏兵にこの兄弟と従者11人を捕虜として安土に送った。秀治は伏兵と激闘の末傷を負って道端で死んだ。
4日 信長は、安土城下の慈恩寺で、波多野秀尚と従士11人を秀治の遺骸と共に磔にした。そのために丹波の残党は光秀の母を磔にした。光秀は羽柴に後れを取るのを恐れて、母を敵の餌食とし磔にまでさせたのは酷いことこの上ない。
信長は光秀の母を葬りもせず、光秀には波多野の残党の赤井などをもっぱら撃たせ、8月ごろには丹波一円を光秀に授けた。
〇家康の正妻、築山殿は今川義元の姪で、義元一族の関口刑部少将親永の娘である。
彼女には悪い性格があって嫉妬心が非常に強かった。家康はこれを嫌って、伊勢と伊勢と越前の間の地に追いやった。しかし、息子の三郎信康は母を気遣って家康に頼んで、岡崎に連れ戻した。
信康の正室は信長の娘で、永禄10年に9歳で輿入れた。2人には2人の娘が生まれた。しかし、築山殿は男子が生まれないのを不服とした。また、彼女は、彼女の親が先に徳川と今川に叛いたために氏眞によって殺され、しかも、自分は家康の正室にもかかわらず、このような目に遭わされてきているのであれば、いっそのこと武田勝頼と組んで家康と信長を滅ぼし、彼を遠州と三河の守護にしようと、いつも考えていた。又彼女は減慶という唐人の医者と浮気をして、その上この医者を甲陽に通じさせた。
信康はそのようなことは知らなかったが、日ごろは勢いのままに乱暴で、踊り子の衣装が悪いといって撃ち殺したり、狩場で僧侶が呪い文を唱えて、殺生をしていけないといっていたという告げ口をする者がいて、信康はこの言葉を信じて、その僧侶を捕まえ馬の鞍に縛り付けて走らせてひき殺した。それで酒井と大久保らは眉をひそめた。又、信康の放蕩な振る舞いのために、自然に夫婦仲も悪くなった上に、築山殿が甲陽へ通じているというので、妻は信康の罪を12か条にまとめて信長に訴えた。
徳川の棟梁、酒井家次は、家康の伯母婿である。信康の侍女に不宇という美人の誉の高い三十路の女がいて、彼は彼女と恋に落ちた。そして織田家に媚を売っていた。信康の妻は不宇を密に忠次に通わせ、彼女に信康の酷さを打ち明けさせた。
一方、石川左衛門太夫康通は、前に家康に追い出された女を京都から迎えて、妾としていた。忠次もこの例に習って不宇を自分の家に取り込んだ。
家康は内々にそのことを聞いていて喜んでいなかった。中でも信康は非常にこの状況に憤慨したので、忠次は信康を殺そうと思うようになった。(忠次の女で、五井の松平外記伊昌の妻も不宇というので誤解のないように)
16日 酒井忠次は、家康の使いとして安土に行き、駿馬を信長に贈った。また、忠次と兵九郎信昌も良馬を贈った。
その時信長は忠次を別室へ連れて行き、信康の妻から贈ってきた12か条の件を尋ねた。忠次は10か条についてはその通りであると述べた。しかし、信長は残る2条の事は隠して忠次にいわなかった。そして、「信康の不仁で暴虐なことは、家康も知っていることである。武勇に優れた男なので自分の将来のためにも、どこかに幽閉しておいても自分は困らないが、家康はこの件どのように思っているのか?」と尋ねた。
忠次は、「家康はおっしゃるように彼を蟄居させて改心するのを待つのもいいが、強くて短気で孝行心がなければ、敵に回ってか謀反でも起こさないかと、虎の尾を踏まないように気を使っている」と答えたという。
信長は「徳川家の老臣が10か条までを認め、家康も危険を感じている程の者ならば、考えを変えなければならない。家康は早く信康を殺すように」と命じた。忠次は承知して直ぐに浜松へ行った。信康は酒井が岡崎に来なかったことから、彼の讒言を悟った。
忠次が信長の命令を家康に伝えて退席した後、家康は傍の家来に述べたという。「子供を憐れむのは誰でも皆同じだ、まして優れた器を持った子ならばなおさらだ。しかし、家次が10か条まで同意してしまったのでは、信長が信康を殺せと勧めてくるのもありうることだ。信長としてはいちいち面倒なので、そう決めてしまったのだろう。自分は信長に恨みはない、敵といえば目の前の忠次だが、大敵を前にして信長を叛く訳にもいかない。やむなく殺す他ない」と。
すると、信康の家来の平岩七之助が進み出て、「信康を殺せば後で必ず後悔するだろう。自分、親吉は、傍に居たものとして、信康の非を諫められなかった罪として、自分を殺して首を安土に送り、あなたの家来には信康の罪は親吉にあるので罰したのだといって欲しい。あなたには信康以外に嫡子がいないのだから、当面は捕らえておいて、許されるまで待つといえば、信長の怒りも薄れるだろう、一時も早く自分に暇を与えて信康の罪の償いをさせて欲しい」と訴えた。
家康は「お前には責任はない、よく考えてくれ、自分も不幸にして優れた1人子を殺すことは忍び難いので、これから悲しみ続けることになるだろう。しかし、お前の首を信長に送って、『三郎の罪を償うために、老臣の左衛門尉を殺した』という嘘を重ねることは許されない。今回の件は実に損な上の損、恥の上の恥だ」と涙を流して親吉の願いを認めなかった。
7月小
〇武田勝頼の妹、菊姫(母は油川氏)は、上杉景勝へ嫁ぎ越後へ輿入れした。永井丹波、佐目田勘五郎が付随した。
景勝の領地、能登の七尾の城代、有坂備中と棚木の長与一景は、信長方の前田、菅谷、福富のために滅ぼされて越後に帰った。しかし、国中で一揆が起きて信長には付かなかった。(佐渡の国人が景勝を叛いたので、彼は兵を出して滅ぼした)
8月大
1日 家康は信長の命令に応じて「信康を罰する」と信長に返事した。
3日 家康は岡崎に行き信康を大濱の郷に行かせた。
5日 信康は岡崎に行って家康に、「母が甲陽へ密に通じていて、近々、小山田高重と再婚するという話があったこと」などを自分が知らなかったと詫びた。しかし、家康は考えを変えず、信康は空しく雨の中を大濱に戻った。
今日、家康は松平主殿家忠を深溝から呼び、矢砲で武装した軽率をつれて、西尾城を守るように命じた。すぐに、家康も西尾城へ行った。
7日 家康は西尾城から岡崎城へ行き、本丸は榊原小平太康政と松平上野介康高に、北畠の丸は松平主殿助、同玄蕃頭家清、同八郎三郎康定に守らせた。
9日 信康を大濱から遠州の堀江の城へ移した。
10日 三河の諸将を岡崎の城へ呼んで、信康の消息を尋ねないという誓約書を書かせ、信康を遠州の二股城に移して、大久保七郎右衛門忠世に預けた。
〇伝わっている話では、「家康の真意は忠世に三郎を連れて辺境の山林に隠せ」ということだったが、忠世が「信康が生まれつき出来が悪く、大物の器でないので徳川家の厄介者になるのを察して、そのようにしなかった」のか、「信康がいつもだらしなく、功臣に対しても冷たいのを不満に思っていた為なのか」今では調べようもないが、信康の魂が祟るとすれば、忠世に罪がなかったわけではない。大久保一族は前の代から、それほど家康に尽くしてきたわけではないので、そこに訳があるのかもしれない
〇別の話として、後年に家康が年幸若太夫義門の満仲の舞を鑑賞したとき、「昔は藤原伸光のような家来がいたが、最近はこういう家来はいないなあ」と涙を流した。これを聴いて酒井忠次は非常に赤面したという。あるとき福島左衛門太夫正則が家康に、「酒井忠次はお宅の家来だが、あまり厚遇されていないのはどういう訳か?」と尋ねた。家康は「忠次は自分の腹心の家来で、戦に長けている。お前が忠次と仲がよいのであれば、親として自分の子を憐れむことはないのか?と彼に聞いてみよ」と答えた。正則はまずいことを尋ねてしまったと、それ以上は尋ねなかった。築山殿と信康の霊は忠次の家に長く祟ったという。
11日 大須賀勢は高天神の城兵と新川村で戦った。久世三四郎廣定が首を獲った。
12日 家康は岡崎の城の本丸を本多作左衛門重次に守らせ、三河の諸士の質子を守るように指示し浜松へ帰った。
29日 遠州の敷智郡昌塚で、家康は築山殿を石川太郎左衛門と岡本平左衛門に殺させ、同郡の西来院に葬った。法諱、清池院潭月秋天大姉。(ある話では撿使は村越茂助直吉だったという)
〇今月勝頼方は、高天神の城番を岡部丹波眞幸ら千余人に交代させた。監軍は横田甚五郎(後、甚右衛門)、戸松、江馬右馬允直盛という。
柴田修理亮勝家は再び加賀を攻め、阿多賀、本折、小松あたりを侵略した。
9月小
2日 荒木摂津守村重は、摂津伊丹の城に長期間篭城していたので疲れ、妾と乾助次郎など4~5人で城を密かに脱出して、尼崎の城へ逃げた。(または備後の鞆か陸奥の津軽に逃げたが、捕まった)
4日 家康は暫く体調を崩していたが、回復してから北条家と和融を整え、互いに契約書を交わした。家康の推薦で氏政は信長に会い息が合った。氏政の弟、五郎氏規は、信長へ大鷹3つがいを贈った。信長は京都でこれを愛玩した。
勝頼はこの連合を耳にして、「自分はきっと滅ぼされるだろうが、信長の家来には絶対になりたくない」と決意したという。
12日 先月以来、勝頼は1万6千あまりの軍勢で、駿河の沼津へ出撃した。北条氏政は大軍を率いて、の三島で対峙した。一方、駿河では、重要拠点の江尻三枚橋の清水には勝頼軍が配され、北条方の押さえとなっていた。駿河の長久保、伊豆の泉頭、戸倉、獅子濱などは、北条方の領地である。氏政の計略に応じて家康は17日、勝頼に対抗するために駿河へ行くことを諸将に通知した。
この日、大須賀康高は高天神城下の三峰山に伏兵を配し、城兵をおびき出して撃とうと考えた。これを敵のスパイが見抜いて城へ伝えた。そこで城から出てきて対抗したが、味方が地の利を見て兵を配置したので有利となり、敵兵を沢山討ち取った。残兵は這いながら城へ帰った。
今日久世三四郎廣宣は矢を放って敵、数10人を射殺した。坂部三十郎廣勝は槍で首を取った。去年から廣勝は戦がある度に首を獲らないことはなかった。
〇武田方の説によれば、先月勝頼は沼津に城を築き、高坂弾正晴久の次男は、兄の名前を盗んで源五郎となり五分一(*地名)の軍役として沼津の城を守らせた。
15日 服部半蔵正成は浜松から二股城に行き、信康に家康の厳命を伝えた。信康は自殺した。享年21歳。遠州の住人、矢方山城通綱が「千子村正の刀」で介錯した。二股城に続く山で火葬し、遺骨を滝の上の松林の庵の傍に埋葬した。(法諱、勝雲院隆岩長越居士、家康は後にこの場所に清瀧寺を建て、近世ではこの寺に産敷村61石を付けた)
信康には2人の娘が居た。後年それぞれ小笠原兵部大輔秀政と木多美濃守忠政に嫁いだ。
長臣の榊原七郎右衛門清政は、悲しみのあまり禄を棄てて、弟の小平太康政の許で蟄居した。(慶長10年駿州の久能城5千石を贈られた。その子は若狭清定大内記照久である)
信康の付け人30騎は内藤彌次右衛門家長の組に入れられた。
加藤播磨景元、河澄又五郎(後、五郎左衛門)、石川陣四郎、糟屋作助、同作十郎、同十三郎、大岡孫太郎、安藤治右衛門定次(治右衛門正次の子)、松井茂兵衛、中根甚太郎、新美助六郎、渡邊加兵衛明綱、山口無右衛門、藤江小兵衛、松平清十郎(後、鈴木太郎左衛門、又七衛門)、原田次郎太夫、伴助左衛門、植田源助、野々山藤兵衛元政、鳥井亦兵衛、伊予山由右衛門(一二左衛門入道観休の父)、上田甚右衛門(内記の父)、原田彌之助(五太夫の子)、成瀬藤次郎、松平又十郎の25名は、家康の命で家長に付属した。
米津三十郎、石川與次右衛門、石川八左衛門政次、林又兵衛、浅羽八十郎の5名は家長に付くのを不服として禄を棄てて逃げ出した。しかし、後に御家人となった。
〇ある話では、家康は信康の家来50名は石川数正につけ、10名ほどを平岩親吉につけた。石川数正が逃げた(*秀吉に付いた)後は、この50名の内30名を家長につけた。
〇ある説では、大坪道禅の伝〇伊勢家の鞍鐙作の矩尺を、朝倉右京進豊高の子の勘解由豊方から天方山城が習熟して受け継いで製作していた。その後その子の備前守通直も、越前の秀康に仕えて、通直の子の主馬通信は秀忠に仕えた。朝倉豊高は水戸黄門頼房、その子の豊方は紀伊亞相頼宣に仕え、平賀(鹿)・東條などはその門下だという。
17日 酒井左衛門尉忠次は、「敵の城、小山、高天神から険しい山を越え、大きな川を渡って駿河に深く攻め込むのは賢明ではないので、しばらく瀬戸崎に駐屯して、東国の様子を見たほうがよい」と進言した。しかし、家康は北条と約束しているので、その進言には従わず、今日掛川から出兵した。忠次は進言を聴いてもらえなかったのにがっかりして、「自分はここで家康の帰りを待つ」と瀬戸崎にとどまった。
18日 家康は田中の敵城を左に見ながら海に沿って進んで、山西に陣を張った。諸軍は二山に駐屯した。
〇『内藤家伝』によれば、この年の始めに家康は自分で斥候を務め、密かに5~6騎で田中の城を窺った。敵が追ってきたので「誰かあれを撃て」と命令した。彌次右衛門家長が1騎で馬を返して矢を立て続けに射ると、敵将は怯んで退却した、とある。これはこの時の話だろうか。
〇この日、北畠信雄は伊賀を滅ぼそうと出馬した。この地には、前の国主、仁木左京兆長政が滅びてからは、拓殖、河合、服部、福地、福富、森田、森岡、名張、上野、山田、吉原、下田、福田、山村、西岡、以下66人が割拠していた。彼らは合同で名張、場尾の切りとおしを守って防戦したので、寄せては大敗北を喫し、信雄の参謀の拓殖三郎左衛門など多くが戦死した。
19日 家康は駿河の敵地に侵入し、遠州の牧野の城の松平甚太郎家忠、同周防康親、牧野右馬允康成を先鋒として、菴原郡持船の城を攻撃した。康成が一番に水戸を破った。匹田水右衛門、徳増彌七、山本勝七郎が戦死した。家康軍は城に火を放って陥落させた。城将の三浦兵部義鏡を康親の家来岡田竹右衛門元次が討取った。
一色左京は前に家康の怒りに触れて康親の家来となっていたが、武右衛門の親戚なので、三浦の首を一色に送って家康に許してもらったらといった。一色はすぐに一志郡田中赤池の本陣へ首を献じた。家康は元次の機転を察して、着ていた火威の鎧の片袖を取って、葵の紋の旗と一緒に元次に贈った。
松平甚太郎の家来の尾崎半平が、城主の向井伊賀勝政を捕まえた。(半平は後、甚太郎の死後、尾陽忠吉朝臣に仕え、続いて義直に仕えた)星野角右衛門は向井伊兵衛を討ち取った。雑兵も400人あまりが戦死した。この城は敵の領地の中にあり、味方が維持できないので家康は焼却した。家康は浅間の宮、由比、倉澤までを焼き払った。
この日、沼津の城が完成し、勝頼はそこからこの煙を見た。そして蒲原から知らせに来た地下人から仔細を聴いて、長坂跡部の勧めによって北条へ使節を送り、「氏政と連合して、三河と遠州勢が一万の兵で由比、倉澤までを焼き払っている今、氏政と一戦を交え黄瀬川を北条家から取り上げるべきか、それとも今から決戦に挑むべきか」と返事を求めた。すると先方からは、一対一の対決なら準備ができているという返事があった。
松田尾張憲秀には甲陽郡内の小山田、
大道寺駿河政繁には山縣源四郎、
遠山左衛門景政には高坂源五郎、
北条右衛門佐氏忠には武田左馬助信豊、
北条陸奥守氏昭には穴山陸奥入道梅雪斎、
北条助五郎氏規には一条左衛門信就、
笠原新六郎範貞には土屋惣蔵昌恒、
北条左衛門太夫氏勝には馬場民部昌行
と対戦の組み合わせが決まり、氏政の旗本へは勝頼が向うと話が決まった。
穴山勢は数が少ないので、氏昭の大軍とは戦えないと辞退した。一方、北条方は自分の国の境界から出て、無理に敵国に進入するつもりはないので戦わないと答えた。勝頼は北条の弱虫を笑ったという。
20日 勝頼は、典厩信豊、高坂源五郎、軽卒頭の織部景茂入道意庵、その子織部昌茂など3千を沼津にとどめて、1万2千ほどの兵で家康を迎え撃とうとした。長坂釣閑は、「4万の敵が後ろに控えているときに徳川と戦うのは危険だから、今日は浮島に駐屯して、北条家の動静を見たほうがよい」と勝頼に進言した。そこで勝頼は川鳴に陣を敷いた。ところが昼ごろから暴風雨で富士川の水が増水し、川の瀬が見えなくなった。勝頼は怒って自分で馬を川に乗り入れ、1万2千の兵も続いて川を渡った。しかし、徒士が多数が溺れ死んだ。
家康は38歳だったが、この数年の間に戦いの技術を磨いていたので、石川数正と大須賀康高が「田中の城を後ろに控えて敵地で戦うのは賢くない」と進言すると、藤枝の稲を刈り取らせ、大須賀康高と松平康親を後殿として兵を引いた。その時、大久保忠世の家来の島孫左衛門の甥で、越後という僧が駿河から駆けつけ、勝頼が攻めてきていることを告げた。そこで「馬筏を組んで諸軍を、大井川の上流の伊呂の瀬を越えさせて、遠州へ引き取るべきだ」と話が決まり、瀬戸崎に待機していた酒井忠次が後を固めた。
勝頼が安倍川を越えるこ、ろ味方で理由もなく騒ぎが起きた。牧野半右衛門が駆けまわってまわって制止したが鎮まらなかった。大久保七郎左衛門が大提灯を2個竹棹の先に立てて諸隊を走りまわり、「これを見よ、今敵が来れば直ちに決戦に挑むので本陣の様子をよく見よ」と叫ぶと全軍は落ち着きを取り戻し、馬筏を組んで伊呂が瀬を渡った。大須賀康高と松平康親は全軍が渡り終わってから引き取った。見事なものであった。
家康は川を渡ったところで軍を整えた。大久保忠世は枳殻(*きこく:からたち)の実が暴風に揺れて音を出し、これが伏兵がいるように聞こえたので騒ぎが起きたと報告した。「枳殻」は「帰国」とおなじ発音なので、これはいい知らせだと軍を引くことにしたという。
勝頼は夕方に駿河へ来て、家康が軍を返したと聞いて、「長篠ではまずいところで勝負をして負けてしまった。今日は大水のお陰で勝負ができなかった。運が悪いことだ」と嘆いた。又しばらくして「徳川は英雄だけれど兵力が少ない。北条の兵力は非常に大きいが親分が弱い。だから今に自分が天下をとる。これが使命だぞ」といった。聴いていたものは皆感激した。北条も武田も兵を引いた。
29日 家康は牧野の城へ入った。
10月大
朔日 家康は浜松へ帰った。
〇『甲陽軍鑑』では、今月家康が駿河の持船の城を陥落させたとあるのは間違いである。
9日 浜松の城で家康は今川氏眞をもてなした。
19日 家康は掛川の城へ移った。
21日 遠州の上川村で、大須賀らは伏兵を4隊配し高天神の城兵を待ち受けて負かした。坂部廣勝など敵の首を7個を取った。
26日 牧野の城番が交代し、松平丹波守康長が城へ入った。
11月小
4日 松平主殿助家忠は、家康の命令で伊呂が崎に伏兵をおき、狼煙で合図して敵を撃つことにしていた。ところが鳥居元忠の軽卒が誤ってその辺りの原に火をつけて煙をたててしまったので、作戦は失敗した。家康は怒って、放火した者を見つけて死刑に処した。
7日 主殿助は再び瀧坂に伏兵を配して、駆けてくる敵を急襲した。武田勢は驚いて逃たが、味方が追撃して騎兵の首を5個取り、牛を20頭を奪い取った。
11日 家康は浜松から掛川へ移り、諸軍は村に駐屯した。
12日 家康は横須賀に進み駐屯した。諸軍は翌日に到着した。
15日 家康は浜松へ帰った。
20日 諸軍は休暇をとって、それぞれの家へ帰った。
21日 徳川軍は川上村で高天神の城兵と戦った。久世、坂部、鷲山、氏家金次郎、近藤武助、菅沼兵蔵が活躍した。
25日 勝頼が駿河の田中へ出撃したことが牧野城から連絡されたので、全軍が召集された。
〇『家忠日記』によれば、家忠は天野康景から家康の命令を受けて、深溝を出発して今晩新井の宿に着き、翌日に浜松へ到着した。
26日 敵は高天神の城下、国安に陣を敷いたという知らせが届いた。
27日 味方の諸将は目附の宿に来てみると、敵は国安から駿河へ帰ったという報告が届き、諸軍は浜松へ帰った。
12月大
13日 荒木摂津守村重が信長に歯向ったので、信長は怒って伊丹の一族の妻子30人あまりは京都に監禁され、その外、宗徒の妻子122人を尼崎の敵の城の近くの七本松で磔にし、召使の女388人、付き人の若い衆120人あまりを焼き殺した。
16日 荒木村重の妻と荒木志摩守元清の息子、渡邊四郎次郎、荒木新之丞など一族の妻子男女合わせて30人ほどは、京都の街を引き回され、六条河原で吊るし首に処された。その残忍さは言語に尽くせないほどで、信長の滅びるのは近いといわれた。
〇この年、29世平将門は、相馬長門守守胤の下総で没落して浜松で御家人になった。(天正18年に本国で領地をもらった)
〇『松平康親家伝』によれば、周防守康親と牧野康成は、田中藪田の城を夜襲しようと、諏訪原からひそかに軍を出したが、企てが漏れた。敵は道に兵を配置して、両将が引き下がると千葉坂まで追ってきた。味方は朝まで交戦したが、敵を負かせず、岡田竹右衛門元次を後殿として少しずつ撤退した。この時、牧野の隊から山本萬五郎という兵が元次に代わって、後殿を所望して何度も元次の隊へきて頼んだが、竹右衛門は許さなかった。こうして全軍は諏訪原の城へ帰ったという。ただ、この話が何時の事かは伝わっていないが、ここに記して後の人の吟味を求めたい。
武徳編年集成 巻18 終
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