巻16 天正4年正月~天正5年12月

天正4年(1576)

正月大巻16.jpg

20日 鎧の賀で諸士が浜松城に集まった。去年の吉例によって百韻連歌の会が開かれた。

3月大

〇上旬 勝頼は高天神へ兵糧を搬入するために山縣と小笠原長忠を横須賀城へ行かせた。筧助太夫正重が軽卒を連れて出撃し、山縣と交戦した。双方奮戦したが勝負はつかなかった。

家康は8千あまりの兵を連れて横須賀へ向かった。信康も岡崎から横須賀へ着いた。

勝頼はわずか30騎で横須賀の様子を見に向かった。高坂弾正は馬を返して勝頼に、「去年の長篠では相手を侮ったので味方の武将をほとんど戦死させてしまった。今連れてきた兵は皆若くて戦いに慣れていない。徳川方はわれらの隙を見て襲ってくるに違いないので、引き返して時機を見て出直すのがよい。」と忠告した。しかし、勝頼は聴かなかった。高坂は繰り返し忠告して勝頼を旗本へ帰した。

勝頼の旗本は8千517隊で構成され、それぞれ別々に配備された。(各隊は個別である)先隊はむしろ最後尾に控えさせた。芝原にいた家康軍とはわずか2里の位置であった。

勝頼は掛川城を攻撃しようと考えたが、家康は大久保忠世と本多廣孝に阻止させた。勝頼は家康軍が出てくるのを待って交戦しようとしたが、内藤三左衛門はそれを察して、家康に抗戦を止めるように進言した。そこで家康は山際に陣を張って、敵が出てくるのを待ち受けた。それを見た勝頼は結局攻撃を中止し、高天神へ糧米を搬入しようとした。

家康は、松平康親の兵を狭い城飼郡瀧坂と塩買坂に潜ませて街道を遮ったので、勝頼はそのルートを避けて、勝坂から海辺へ出て高天神へ着いた。

真田喜兵衛の一隊(約千人)が塩買坂を通過したが、勝頼の本隊ではないので味方は攻撃を控えた。高坂弾正は矩墨(*じょうく:墨縄 (すみなわ) と差し金)で砦を修復し、兵糧を補給して甲州へ帰った。

勝頼が遠州へ出撃するのを狙って謙信は、飛騨へ出撃するつもりだったが7月に延期した。

17日 家康は今川氏眞を駿河へ連れ戻す計画を立て、故松平甚太郎家忠とその一族の親戚である周防康親に手紙を送り領地を与えた。天正4年3月17日家康ー松平甚太郎家忠・同周防康親.jpg

23日 織田権大納言信長は、美濃の岐阜の城から近江の蒲生郡安土山へ移転した。これはこの春以来、惟住長秀を奉行としてこの城を建設し、本丸が完成したからである。来月からいろいろな郭の建設を始め、秋の初めには櫓多門天主を作る計画だという。

〇織田信長が従4位下に叙された。

4月小 

3日 武田勢は駿河に駐屯していたが、遠州の海上へ兵船を出してきた。家康は中島與五郎を隊長に、遠州の舞阪の港へ行かせて船を用意し、夜陰にまぎれて相良浦へ行かせた。

4日 明け方中島與五郎は海上で敵の船を見つけて急襲し、軽卒に鉄砲を撃たせた。敵は防ぐ方法がなくて進めなくなった。與五郎は敵の首を取った。しかし彼は更に戦いを挑んだので命を落とし、家来たちも死傷した。敵の船は退却した。家康は與五郎の子、重好(後の與五郎)を憐れんだ。

28日 奥平平九郎貞昌入道閑が85歳で死去した。この人は監物貞勝入道道文の父で、九八郎信昌の曽祖父である。この時まで4世代が生きていたという。。

30日 二条の御所は当時空き地だったので、信長の在京の館が建設されることになったという。

6月小

6日 酒井雅楽助正親が病死した。家康は彼の住まいへ見舞いに行って容体を尋ね、自分で薬を飲ませて遺命を聴いた。正親は非常に感謝して、嫡子與四郎重忠と二男、與七郎重利を呼び、この2人に見込みがあれば仕官させて欲しいといった。家康は2人を相応の職に就かせることを承知した。また、平岩七之助親吉を付き添わせて医療に務めさせ、近臣にたびたび容体を尋ねさせた。

7月小

15日 毛利右馬頭輝元は、能島と久留島から海路で大量の兵糧を大坂城中に運び込んだ。兵船は700艘あまりだった。信長は海上の防衛として、和泉の間鍋、沼野、寺田、河内の杉原、川口の兵船300艘あまりで木津川で交戦したが、敵船から鉄砲や火矢を打ち込まれ、味方は敗退した。中国勢は全ての兵糧を大坂城に運び込んだという。

〇家康は遠州へ出撃した。樽山の城を陥落させ、藤坂の砦を攻撃した。

乾の城主、天野宮内右衛門景貫は険しい潮見坂に兵を配して、勝坂の路を遮り戦った。味方の先鋒は敗れて、鵜飼善六氏長(後の石見守)などは敗走した。大原大助、大畠平右衛門などが戦死した。鳥居彦右衛門の隊長、安藤九右衛門定正(伝右衛門家定の子)が奮戦したが敵の挟み撃ちに会って危うくなり、家康の軍使の安藤彦兵衛直次は、定正の軽卒に指示して鉄砲5発放ち片方の敵を破った。水野惣兵衛忠重(白幣の指物)が後殿した。大久保七郎右衛門。同治右衛門、渡邊半蔵が逆襲して、敵を柵の中へ追い込んだ。松平康親、本多廣孝、石川数正、鳥居、榊原の兵も奮戦して敵を撃退した。

家康は大久保忠世にこの辺りの地理を調べさせ、石ヶ峰に登って敵を負かすよう命じた。忠世は石ヶ峰に登り、城の中を見下して火砲を撃った。天野は防ぎきれず、潮見坂の要害を放棄して、鹿が鼻に退いて防戦しようとした。そこは険しい所なので、家康は攻撃を止めて浜松へ兵を収めた。

〇ある話によれば、その後天野は乾の城を明け渡して家康についた。しかし、長年の敵だったので、家康に信任されず甲陽に逃れた。彼の長男の小四郎は、武蔵の岩付の北条陸奥守氏昭について天正の末から小禄の武将となった。この家は、元は遠州の地士で裕福だった。今川家の家来ではなく、菅沼定盈のように家康の家来になっておれば数郡の主となって安泰だったはずだが、家康に反抗したので結局領地と禄を失ない、家の名誉を台無しにしてしまったという。

8月大

〇家康は駿河の山西へ出撃して軽卒にほしいままに暴れさえると、勝頼が出撃してきたが、彼らが到着する前に遠州の中郡に兵を収めた。勝頼は諏訪が原の城へ入った。家康は佐夜中山に陣を構えたが、敵と戦うことはなかった。

〇家康の子、三郎信康は勇敢な武将で名高かった。しかし、ここ数年彼の城、三河の岡崎あたりでは今様の踊りが流行り、人々がこれに夢中になっていた。信康はこれが好きで、衣装を飾って近隣からやってくる踊りを喜んで観た。

ある時、踊りの衣装が粗末だったというので、彼が生まれつきの癇癪持ちだった癖が出て怒り出し、踊り手を射殺した。このため、それからというものは、彼が観覧するときには人々は彼の悪癖になれてしまった。かつて今川氏眞が踊りにのめりこんで、間もなく家が滅びたので、その轍を踏むのも近いのではないかと、徳川家の御家人たちはため息をついていた。

さて、碧海郡より踊りが起こり岡崎にやってきた人々の中に17歳位の美少年がいて、太鼓がうまくて信康のお気に入りとなった。この人は大濱の長田平右衛門重元の子の伝八郎直勝で、幼いときから父が裕福で、京都からその道の名人を呼び寄せて師匠としていた。その上賢くて学問を好んだ。信康は彼の名前を尋ねて近臣とした。(後、永井氏と改め右近太夫となった)

〇今月、上杉謙信に飛騨の国人、白屋筑前が服従した。謙信は飛騨へ攻め込み、内島出羽の帰雲の城を落し、三木大和の松倉砦も落し、遠州の豪士、高原の江馬常陸介輝盛父子を味方にした。白屋筑前がここで活躍し領地を謙信からもらった。

〇織田信忠が従4位上に叙された。

9月小

1日 上杉謙信は越中へ侵入し、金山と松倉の城を攻撃した。宿敵の椎名肥前守泰胤は耐えられず、謙信に降伏した。謙信は寵臣、河田豊前守長親に松倉を守らせた。その後、神保越中守正次と清十郎が立て籠もっている富山城を攻撃した。彼らは守山城へ退却したが、残党は斬り殺され、この城は浪人の小笠原右馬助長隆(長時の子)と氏部信定が守ることになった。

越中では7千人ほどによる一揆が、戦いの準備をして待ち構えていた。謙信は夜討ちをかけて大勝し、2千人ほどを斬り殺し、貴布禰の城を落とした。これによって神保安芸守氏春の城は守山と放生津だけが残った。

〇去年以来信長の武将、戸次右近政次は大聖寺の城を改修し立てこもっていた。

一向宗門の一揆が起きて動(*ゆずり)橋に旗を揚げたので、右近は城から敷地山へ出陣し、一揆衆の頭目、林新六郎、富樫六郎左衛門などと交戦し勝って首を250取り、安土に送った。しかし、奥郡の一揆が日ごとに激しくなり、小松、御幸塚の砦に篭って近所を荒らすので、右近は天神山に砦を築いて一揆衆を負かそうとしたが、国中に一揆が蜂起し、苦労しても功績を上げられなかった。

そこで信長に事情を報告すると、信長は「ひと戦いして手柄を上げて、それから安土に戻れ」と命じた。信長は佐久間玄蕃允盛を加賀の守護として行かせて戸次と交代させ、叔父の柴田勝家も越前から応援させて一揆衆を討伐するように命じた。玄蕃は出かけたが、ある日一揆が盛り上がり天神山の砦を陥落させた。佐久間は柴田と共に砦に戻って取り返し、動橋の砦を落とした。一揆衆はなんとか御幸塚の砦を守った。

勝家は越前へ戻り、盛政はあちらこちらへ兵を出して一揆衆を討伐した。徳山五兵衛則秀の謀略によって、御幸塚の林七助と内山四郎左衛門が裏切り、とうとう一揆衆はその砦を落とされた。

一方、戸次の軍勢は少なく、多勢の敵と数ヶ月戦って勝ったが、褒美は少なかった。その上、信長に加賀征伐の役から外され、空しく安土に帰帰って信長を恨んだまま、故郷の尾張九坪に隠れ住んで死んだという。(元は田左衛門太郎)

〇信康の家来(*森鴎外の小説では小姓)の佐橋甚五郎は、同僚(*小姓)を殺害して、三河の周辺の村に蟄居していた。家康は勝頼が領地としている遠州小山の城の甘利四郎三郎(27歳)を殺害してくれば罪を許すと密に命じた。彼はスパイとして甘利に仕えた。

甚五郎は笛がうまいので甘利も寵愛した。ある夜、甘利は甚五郎の膝を枕にして笛を聴いていたところを殺害し、帰参して封を受けた。(家康は普段義を重んじていて、むやみに刺客を推奨していなかった。しかし、甘利の場合は、自分の武将を300人も横死させ、小山城の勢力を落としたからそうした。それで佐橋を三河へ戻るのを許した。しかし、家康が彼の人間性を嫌っていることを漏れ聞いて失踪した。晩年彼は朝鮮へ渡ったと佐橋家には伝わっている。)

(*森鷗外の小説では、彼は家康が与えた封を不服として失踪し、朝鮮に渡ってから再び使節団の一員として家康に謁見して家康を見返したことになっている。家康は使いの中に彼がいることを直ぐに見つけ、(*深入りを避けたのか)丁重に扱って返した。彼が同輩を殺したのは、2人が庭の鳥を打ち落とす賭けをしたとき、同僚は当たるはずがないと思って先祖伝来の刀を賭けた。ところが彼は鳥を射落として賭けに勝った。しかし、同僚はその刀を渡さなかった。そのため約束違反だと彼は同僚を切って刀を取ったという。これが本当であれば、彼の執拗な性格を家康が嫌ったということはありうる。どうして朝鮮へ渡ったかは知りたいところである)

〇この日、野呂猪之丞正景の長男彦兵衛守景が初めて家康に謁見した。

〇下旬 謙信は越中の領地4万貫あまりを河田豊前守長親に授け、加賀に討ち入ろうとした。これは家康が参遠で勢力を増して勝頼と戦っているので、武田が越後へ攻めて来る心配がないからである。加賀では倶梨伽羅峠の麓に待ち受けていた一揆衆3千人ほどを追い落とした。

先に能登の国主、畠山義則を追い出して国を乱した遊佐、三宅平、子誉、田長、温井、伊丹、隅屋などに使いの僧を派遣して、上杉の指図に従えと伝えた。しかし、彼らは既に信長方についていたので応じることなく、能登の七尾城に立て籠もったという。

10月大

5日 謙信は能登の七尾城へ向い先鋒に攻撃させた。この時、加賀の一向宗が城を援護した。謙信は先方の兵でこれを撃退し、熊来や穴水などの城を落とした。しかし、七尾には強い敵将が多く、寒さも厳しくて攻め切れず、荒山の砦には上条織部正義辰と同民部少将義春に越中の先方の軍を加えて配備し、穴水には長澤筑前、熊来には斉藤帯刀、柵木には長與、一甲に平子和泉を入れて七尾の抑えとし、謙信は兵を引いた。

11月小 

4日 信長は上京し妙覚寺を宿舎とした。摂津の赤穂上総介義祐、別所小三郎長治、浦上遠江守、同小次郎などが入洛して信長に謁見した。

13日 信長が正3位に叙せられた。

21日 信長は内大臣に任じられた。次男、畠山中将信雄はこの頃家来2、3人とつるんで養祖父、黄門具教入道不知斎を殺した。この人は武田と通じているという噂があったが、今は力なくそんな企てはできなくなっていた。信雄の罪はもちろん信長の考えによるものである。(*こんなことをすれば)家は遠からず滅びるだろう。

〇家康は上杉謙信が越中能登の陣にいるときに、秋葉山の修験者、加納坊に書簡を届けさせた。

謙信の老臣直江大和守実綱と寵臣河田豊前守長親へ、酒井忠次、石川数正からも書簡を送った。謙信の返事は、「まもなくこの陣を引き払って雪の中でも西上野の勝頼の領内に攻め込んで焼き払うつもりだ」だったという。(この時謙信は菅沼定盈に手紙を送ったということは菅沼の家伝には書かれていない)

しかし、謙信が越後へ凱旋するころ、加賀の一揆衆1万あまりが大田の郷で蜂起して、謙信を追撃した。河田長親はこれを撃破するために5千の兵で抗戦したが、大雪と寒波で進めず、軍は寺や民家に泊まってようやく凌いでいるときに一揆衆に急襲され、河田勢は敗北して千人ほどが討たれた。河田は20余町ほど離れた場所に駐屯していたので救援しようと駆けつけたが、敵は速やかに引き取ってしまった。雪が深く路が途絶えてこれ以上戦いを続けることはできなかった。

28日 謙信は越後へ兵を収めた。勝頼の家来、高坂弾正晴久は戸隠山の顕光寺の僧に手紙を託して直江實綱へ送り、謙信が信州や上州を攻めないように依頼した。

12月大

22日 織田信長は三河の吉良で3日間狩猟を行った。家康はその接待をした。

〇今月、家康の娘が奥平九八郎信昌へ輿入れをした。織田信長の家来、西尾小左衛門吉次(後の隠岐守)が安土より三河まで輿に付き添って道中を取り仕切った。(娘の名は盛で信昌が後年美濃の加納の城主となったので、その後は「加納殿」と呼ばれた。信昌死後は髪を剃って盛徳院となった)

〇『水谷家伝』によれば、水谷兵部大輔正村入道蟠龍斎(*ばんりゅうさい)は非常に勇猛な武将だった。彼は「坂東には北条や上杉、武田、佐竹などがいたが、彼らは自分の覇権ばかりを追っていて信義を守らないので天下を治める器量はない」と踏んで、息子の伊勢守勝隆と相談して、家康がよさそうだと考えた。そして家康が浜松の城に居るときを狙い、家来の石野丹波守を巡礼に装わせて浜松城へ行かせ、「もし家康が東国へ出撃することがあったときには、結城の城の尾形晴信を先鋒にして、家康が坂東を平定する手助けをしたい」と伝えさせた。

石野丹波守は、甲斐を通過するときに疑われて捕えられ牢に入れられたが、水谷の書簡は見せず逃げ出して浜松へ着いたという。家康は感心した。その後、水谷は家康に7羽、8羽の大鷹(*大人の鷹)を献じたり、鶴捉の大鷹(*鶴を捕取したことのある大鷹で一番格が高いとされた)を8羽以上15羽も献じたりした。家康はその時には重要な使命を与えたり、お茶の道具や当時珍しかった猩々緋(*狒々の地で染めた色のあせないラシャ)を贈ったりした。

〇『皆川家伝』によれば、今年皆川山城守廣照は、家康に良馬3頭を献上し関口石見守に届けさせた。その内1頭は坂東無双の駿足の馬であった。信康にもいい馬を1頭贈った。家康は返礼に自筆の書簡と銘茶3斤を贈ったそうである。廣照は水谷蟠龍斎の外姪なので、水谷父子が推薦して、上野の生まれで当時御家人だった中川市右衛門の下に仕えて、家康に密策を連絡したという。(皆川廣照、後の入道老甫斎)

天正5年(1577)

正月大 上杉謙信は徳川家の近臣、榊原小平太康政へ手紙を出した。

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〇伝わっている話によれば、榊原康政はこの時から景勝の代まで長く上杉家との連絡係を務めたという。

〇この日、織田信忠が正4位下に叙された。

信長は天下を速やかに統一する野望をもって日ごろは謙遜に努めて、人々の心を集め遂には数国を従え、内大臣右大将を兼任して勢力を増やした。彼は謙信を討ち滅ぼす策を立てて、密に能登の長九郎左衛門重連などを引き込んで一揆を起こし、上杉謙信を討ってから加賀と能登を侵略することを計画した。謙信は信長と同盟を結んで、互いに協力して甲陽を窺おうとしていたが、信長の密かな企てが越後に聞こえたので謀略にはまったことを悔やみ怒り、信長と戦う意志を固めて、家来の武将たちに話したという。

〇一昨年、北条氏政の妹を武田勝頼の妻にする婚約がまとまったが、婚儀が遅れて今春いよいよ妹を甲陽へ送った。早野内匠助。清水又八郎、剣持與左衛門が彼女について甲陽に行かされた。

2月大

16日 このところ紀伊の雑賀の地元の侍が跋扈して、和泉の貝塚まで勢力を伸ばして城を築き近隣を侵略した。信長は彼らを滅ぼすために今日和泉の香ノ庄へ陣を張った。貝塚の勢力は、信長軍の猛威に恐怖して戦わずに敗退した。

22日 和泉と紀伊の境にある信達に信長は陣をしき、根来寺の杉坊以下の衆徒、雑賀の内三絨の人々が信長に会って先陣に加わった。

小雑賀口では、川の前に一揆衆が総出で出て防戦した。味方の先隊の堀 秀政が予め配置していた中道にも敵が向ってきて合戦となったが、長岡藤孝を先鋒として、家臣の米田助右衛門、有吉四郎右衛門、藤木又左衛門、下津権内がまず戦いに挑んだが、特に権内は一番に槍で対戦した。長岡と筒井順慶の取った敵の首は150に及んだ。

28日 信長は紀州丹和に陣を張った。一揆衆は中野の城を城介信忠に開け渡した。

3月小

2日 信長は紀州鳥島郡若宮八幡宮に陣を置き、各部隊に山手の濱から雑賀を攻撃するように命じて放火し、辺りを荒らした。

その頃雑賀を支配していた鈴木孫市郎直秀、土橋平治、松田源三太夫、宮本兵太夫、蔦木左衛門、栗村次郎太夫、岡崎三郎太夫は、今月下旬に信長に降伏した。

信長は紀州から河内の若江の城(*現在の東大阪市)へ凱旋した。その時、信長は大阪天王子屋龍雲の持っている茶入と、堺の宗久の蓋置(開山という)と茶杓(二銘という)を金を出して購入した。

この春伊勢の国司、北畠具教の弟の僧が還俗して具教となり、一揆を組織して伊勢では騒動が起きた。しかし、織田の攻撃を受けて結局収まった。

5月小

14日 家康は駿河に出撃し、黄瀬川を渡って敵地に入った。そのとき先鋒した松平周防康親の組の伊勢の浪人、野呂猪之丞正景と渡邊半蔵守綱が先を争い、正景が最初に川を渡ったが戦死したという。(『野呂家伝』による)

〇安芸の毛利元就は、英雄で天文20年から永禄12年までに山陽山陰13州を支配し、元亀2年末に死去した。孫の輝元を伯父の吉川と小早川が補佐して今も勢力を保っていた。しかし、最近、播州の住人の別所小三郎長治、小寺藤兵衛職隆、同官兵衛孝高が信長に降伏して、毛利家を落すときには先鋒となるといって人質を安土に送ったという。

16日 能登の長九郎左衛門重連は、信長の命令で一揆を組織して七尾の城にいた。

今日、一族と飯川、熊来、富木、松崎、林、井上など4千の勢力で、能登の熊来に押し寄せ、城主の上杉方の斉藤帯刀を追い出して七尾に連行し、殺害した。熊来へは元の城主、熊来左近が戻り、能登の勢力は穴水の城を包囲して攻撃した。城将、長澤筑前は抗戦して城を守った。

甲州勢は遠州の今切へ多数の兵を乗せた兵糧船を着かせ、港に停泊して風を待っていた。浜松勢は小船を5~6隻を出して敵船を乗っ取ろうとした。敵は盛んに砲火を放ったので近づくことが出来なかった。そうした隙に敵船は漕いで逃げ去った。味方は追撃したが、その時寺島釜之丞が弾に当たって戦死した。敵の船は結局逃げ去った。

7月小

23日 三河浦部村で渡邊六左衛門遠綱死去した。79歳。源太左衛門範綱の子で、はじめは平六といった。これは平六貞綱の父である。

閏7月小

7日 謙信は先月から越中氷見の庄の陣にいた。先軍に能登から越後にまたがる地域の敵の城を陥落させて、能登の大槻に進軍し、今日から七尾城を攻撃させた。

14日 七尾城からは長九郎左衛門重連は、弟の孝恩寺という武僧を近江の安土に送って、信長の後援を依頼した。信長は承知したという。

〇今月、武田勝頼は遠州へ出撃してきた。家康と信康が出撃した。勝頼は小山の城で軍の一部を大井川へ、残りを直ぐに駿河へ引かせるように命じた。穴山陸奥入道梅雪が山梨に駐屯しているというので、家康はそこを攻め、穴山は負けて駿河に戻った。

〇武田勢は駿河から出撃して、安倍大蔵定吉とその子彌一郎信勝(後の摂津守)の護、遠江樽井山の砦を攻撃した。大蔵兄弟は防戦して敵は退散した。

9月小

11日 安倍定吉へ家康は感謝状を贈った。天正5年9月11日家康ー安倍大蔵定吉.jpg

〇謙信の使者、新屋源助と七尾角助、河田長親からの副使が安土に行き、同盟の破棄を通知した。信長は例の策略で穏便に使いを迎え、引き出物を与えて帰らせた。謙信はそのころ加賀の松任に駐留していて、3人から話の仔細に聴いてますます激怒したという。

〇大和の松永弾正少弼久秀は志貴の城に立て籠もった。そこで信長は質としている彼の次男、三男(12歳)を六条河原で殺害した。また城介信忠を大和へ出撃させた。

10月大

朔日 信長の先鋒の細川大輔藤孝の長男與一郎忠興(15歳、後の越中守)、次男頓五郎與昌(14歳、後の玄蕃亮)が最初に騎馬で乗り込んで城を抜き、海老名石見守安秀など150余人を討ち取った。

5日 信忠の大軍は志貴城を取り囲み攻撃した。

9日 志貴城は大阪本願寺へ救援を要請した。その使いは元々は筒井順慶の譜代だったので、順慶と相談して筒井の兵200人を河内の平野へ来させ、久秀はこれを大坂の援軍と偽って志貴城へ連れて帰った。

10日 寄せ手は猛攻した。筒井勢が城の中から火を出したので寄せ手は急襲して乗り込み、城は陥落した。松永は天守に登ってこれまで収集してきた財宝を全て燃やしてから自殺した。この人は京都山崎の住民の子で、護国寺の八幡社僧に寵堂となってから三好長慶の執事だったが、野心が強く悪知恵によって次第に出世して三好家に入り込み、更に将軍家に取り入いって長慶の息子義永を毒殺した。その上、三好の三人衆と謀って、将軍義輝を暗殺した。その後、三人衆の確執をおこさせ奈良の大仏殿を焼き、義輝の弟義昭に取り入って信長の後援の下、大和と河内を自分のものとし信長に媚びて権勢を誇っていた。

ある日、家康が信長とあったとき、一人の老人がやってきた。信長は家康に「この者は松永弾正である。これは将軍を殺した犯人の三好に復讐したが、奈良の大仏殿まで燃やした。こんなことはこれまで誰も出来なかったことである」と述べた。久秀は恥じてひれ伏しながらも怒り心頭で、顔に汗を流し頭から湯気が出るほどだったという。そうして今度は信長に叛いたので結局こうして滅んだ。

大仏殿を燃やしたのだからこうなっても仕方がないだろう。(彼の長男、右衛門佐久通は城を脱出して一度死を逃れたが、捕まえられて殺された。末っ子の1人が生き残って永種と名乗って京都に住んだ。その子が俳諧師の貞(*原文誤植)徳である)

13日 信長が従3位に叙せられ、左近中将に任じられた。

20日 勝頼は兵を挙げて、遠江小山城へ向うという連絡が入り、家康は馬伏塚まで出撃した。信康は岡崎から浜松へ入った。

21日 勝頼は小山、高天神を見回ってから軍を甲斐へ戻した。三郎は岡崎へ帰った。

22日 家康は馬伏塚から浜松へ帰った。この城は元は引間の城と呼ばれ、要害ではないので城を南に移すことになり、今日から建設が始まった。引間の城は狭いので新しい城の総郭の脇に付属する形となったという。

24日 家康は幕下の諸将を浜松へ集めて酒宴を催した。

先月29日以来、坤(*ひつじさる:西南)に彗星が現れた。このため世の中が混乱して平和になるのは先になると、誰もが心配し巷に噂が広がった。

〇今月、植村出羽家政が死去した。この人は徳川家に尽くした家来の新六郎(法名、榮安)の嫡子で、騎士30人を支配し、酒井忠次、石川数正と石川家成と同じ立場で政務を執っていた。息子の新六郎が家督を継いだ。

11月小

16日 信長が右大臣になった。

20日 信長は従2位に叙された。

12月大

10日 家康が従4位に叙された。

22日 信長は三河吉良で3日間狩をした。

29日 家康が右近衛権少将に転任した。

〇この冬、本多豊後守廣孝は、三河の土居の領地を子の彦次郎康重に譲り、兵員をつけて軍務を任せた。

〇山田十太夫重利(十太夫重則の子)が家康の家来となった。22歳。米津勘兵衛由政(小太夫政信の子)と服部伸保(三代目)が初めて家康に奉仕した。

武徳編年集成 巻16 終