巻2 天文16年正月~天文19年10月 

修正2017.3.3.

天文16年(1547)

正月小

〇廣忠は微恙(*病気)のために、駿府の今川義元のもとへ新年の挨拶には行かず、代わりに伯父の碧海郡械木の松平蔵人信孝を行かせた。349221c19665ad8221e19d057b646008d0a663ea.jpg

岡崎の老臣、石川、本多、酒井、植村らは、信孝が駿府へ到着する日を見計らって、


「信孝は以前に功績があったので今何が悪いということはない。しかし、碧海郡岩津と三木の両松平に跡継ぎがいないのを幸いとして彼らの領地を取り上げ、自分は三木に住んで財をため、兵力を増強している。その上、岡崎の政務にも加わって勢力が日に日に大きくなっている。彼はやがて謀反を起こすに違いない。この状況は、桜井の内膳信定が先ほど謀反を企てたのと同じだろう。したがって、彼が今駿府へ行っているのはチャンスなので、この機会に彼を追放するのが良い」と廣忠に進言した。しかし、彼らは廣忠の了承を得ないままに信孝の岡崎城下の家を没収し、役人を手配して領地の租税を差し押さえた。

このことが駿府に伝わり、信孝は仰天して岡崎に戻ろうと八方手を尽くして、廣忠へも陳謝した。しかし、廣忠も老臣たちが頑強に反対するので信孝の願いを認めるわけにいかず、今や手の尽くしようのない状況になっていた。

信孝は、「以前廣忠が内藤内膳信定のために伊勢の上野へ逃げた時に、大久保一族と力をあわせて岡崎へ帰還できるようにしたのは自分の手柄だろう。

あの安倍大蔵は、彼の父が清康を暗殺したにもかかわらず罪を逃れ、今も岡崎で政務についている。このことを自分が非難していると知って、彼が失職を恐れて自分を追放ようとしている。

康忠も彼らのいうことを信じて、これまでの自分の康忠への貢献を無視し、自分が放逐されるのを黙認するのだから、自分が憤慨しないわけはないだろう」と罵った。

そこで彼はもう一度駿河へ戻って義元に事情を訴えた。義元は彼が罪なくして失脚させられる状況を哀れに思い、岡崎の元老の一人、酒井河内守がこの16日に亡くなったのを機会に、その子の雅楽助正親と、本多、石川、植村を次々と呼び寄せて信孝を許すように諭した。しかし、彼等は同意しなかった。そこで信孝は再び三河へ帰って、碧海郡佐々木の松平三左衛門忠倫が当時織田方となって碧海郡上和田に住んでいたので、そこへ行って直ぐに織田方についた。

そのとき、信孝の家来の斉藤甚蔵善教(後、甚五左衛門)と大久保三郎右衛門忠久などは、信孝が岡崎に叛いたとしても、今更信孝や忠倫に従って廣忠を敵にすることはできないとして、妻子を連れて岡崎に来た。

しかし、廣忠は彼らを信用せず、許さなかった。そこで、大久保新八忠俊(後の入道浄玄)は彼らを額田郡緘崎(*かんざき)の勝満寺に入れた。この寺に入れたのは、信孝が自分に逆らったこの2人を非常に憎んで殺そうとしていたことと、三河は一向宗の信徒が少なく、額田郡野寺、針(緘)崎、碧海郡佐々木の寺々は、昔から甲乙人不入(*身分によらず逃げ込めば逮捕できない治外法権のある)の場所だったので、信孝も手が出せないからである。

信孝は、碧海郡三木、額田郡岡崎城から追放された結果、岡崎に敵対した。

彼に同調した額田郡上野の城主、酒井将監忠尚、又、元々織田方だった加茂郡の広瀬、高橋、梅が坪、伊保、三宅の一族、擧母(*ころも:現在の豊田)の中条出羽守などがいたので、岡崎方は次第に彼らと戦いを交えざるを得ない状況だった。

〇『阿倍家伝』によれば、梅が坪の軍隊に大久保四郎五郎忠政という人がいて、彼は激しい戦闘の最中に尾張の武将を射殺したそうである。後日敵からその矢が返送され、強弓の彼のこの矢によって多くの命が落されたとして賛美された。忠政は翌年安倍四郎兵衛定次の養子になったそうである。

〇『松平記』:大原左近右衛門と近藤伝十郎は、廣忠を恨んでいたので「三河では大方は織田信秀方についているから、廣忠の勢力は少ない。この機会に岡崎城を落そう」といったという。信秀は、「それはお前たちにとっては仇を討つことになって、お前たちの以前の主人を没落させることになるので、自分としては望ましいとは思わない。廣忠の兵は度重なる戦いでも疲れを示さず、主人に対する忠誠心は非常に高い、それを無視してどうしてあの城を陥落させることなどできようか。お前たちが知恵を絞ってあの堅固な城を落すことができれば、たんまり褒美を遣わそう」といったという。信秀の言葉を聞いて大原と近藤はすごすごと退いた。


〇『松平記』:廣忠の家臣、浅井某(浅木とある書物もある)が廣忠を裏切って、松平蔵人信孝に「廣忠を殺すので褒美として領地をくれる約束をしてくれ」というと、蔵人は「自分は廣忠には恨みはない、安倍大蔵の方を斬って来い、そうすれば奮発しよう」と答えた。浅井はどうしたわけか大蔵を殺すことができないままこの企てを伏せていた。ところが、岡崎で安倍大蔵が大いに活躍しているといううわさが流れたので、彼は逃亡した。

2月大

4日 宇津左衛門五郎忠茂が死去した。法諱源秀。この人は清康によく尽くした人で三河碧海郡に住んでいた、彼は大久保忠俊の父である。

8月大

10日 この春、蔵人信孝の部下の内藤甚蔵善教と大久保三郎右衛門忠久が、岡碧海郡三木から岡崎に戻ってきて廣忠の家来になりたいと申し出ている、と安倍大蔵定吉が詳しく廣忠に伝えた。甚蔵は領地と禄をあわせて100貫文を与えられた。

『証文』天文16年8月10日廣忠ー内藤甚蔵.jpg

9月大

5日 三河の渥美郡田原本宿で戦いがあったそうである。

15日 今川義元は、麾下(*きか:側近)の遠州の天野小四郎景貫(後の宮内右資)に感謝状を贈った。b249d93fe973a5655bb9e30256ccfdf50404e403.jpg

〇天野は足利尊氏の家来だった周防三郎経政の子孫で、遠州奥山郷の三分の二を領地としていて武勇も知られている。

28日 上和田の松平三左衛門忠倫、三木の松平蔵人信孝たちの企てによって、幡豆郡西條の吉良上野介義安と東條の吉良左兵衛督義が尾張側に付き、岡崎の城を窺った。廣忠は兵を率いて出陣した。蔵人らは額田郡岡の城より渡理、河内に出て激戦となった。

渡理の城の武将、鳥居又次郎が先鋒となって、味方の武将、玉井の松平外記忠次(当時17歳)を討ち取った。忠次の弟、喜蔵信次、彌右衛門忠長、および一緒に戦っていた紀州の根来寺の衆徒2人、鳥居源七郎忠宗らが戦死した。味方の兵は敵陣を破った。廣忠はその地を鳥居伊賀守忠吉に与えた。

〇次のような話もある。忠吉は以前渡理の近くの村を領地としていたが、今度これに加えて敵地をもらった。その後、東條、吉良が滅ぼされてからは、彼は東條の城も賜った。

今回討ち死にした源七郎忠宗(あるいは元繁)は伊賀守の長男だった。五井の松平忠次の家臣、松下清兵衛は忠次に恨みがあり、五井を離れて蔵人信孝についていたが、源七郎忠宗を捕らえて翌年五井にもどり、忠次の子、彌九郎景忠の家来となった。

外記忠次が戦死したときに持っていた刀は、五井の松平家が代々伝えてきたものだから、鳥居又次郎は忠次の弟なので、これを引き取るはずだった。しかし彼はそれを彌九郎景忠へ譲ったという。

〇『阿倍家伝』によれば、四郎五郎忠政は尾州の兵を射殺した。このときは彼は大久保と名乗っていた。

10月大

19日 織田備後守信秀は尾張勢を率いて三河へ乱入した。

信秀は上和田、三木の両家と相談して岡崎城を落とそうとした。廣忠は上和田の松平三左衛門忠倫が一族を捨てて信秀に付いたのに憤慨して、刺客を送って忠倫を討ち殺し、内輪の癌を取り除こうと考えた。そこで家来の筧平三郎重忠を呼んでこう述べた。

「上和田に忍び込んで忠倫を密かに殺すことは度胸ないものにはできないことだ。お前はそれができる器だ。今夜上和田へ忍び込んでこの脇差で忠倫を刺し殺して帰って来い。もしこの脇差を持って帰れば、100貫の領地を授けよう」

平三郎は家に帰って弟の助太夫正重にこのことを話すと、正重は「ぼくも勇敢さでは兄さんに負けないので一緒に連れて行ってくれ」と頼んだという。重忠は許さず、世もふけてから弟に別れを告げて上和田に向かった。

助太夫は、兄の後をつけて上和田に行き、堀の中に隠れていた。平太郎は城に忍び込んで三左衛門の寝室に入ってみると、幸いなことに忠倫は熟睡していた。そこで直ぐに数箇所を刺し、刺した脇差を抜き取り、枕刀も獲って城を出た。しかし途中で誤って腰を痛めた。そこで助太夫は堀から出てきて兄を助け、2,3町離れてからことの次第を兄に話した。

重忠は「目的を果たしたので、お前は心配することはない」といった。助太夫は、「お兄さんはこれで褒美がもらえるだろう。すこし自分にも分け前をくれれば兄さんの面倒を見て一緒に帰るが、くれなければここにおいて帰る」といったという。平三郎は、「俺はかねがねお前の卑しい心を嘆いていた。褒美をもらったらお前にほしいだけやるに決まっているじゃないか」といった。助太夫は喜んで兄を助けて岡崎に帰った。

重忠が刺した刀を持って去ってしまったので三左衛門は大声をあげ、家来たちが刺客を探して城内を駆け回った。しかし、平三郎が運良く逃げおうせた後だったのでどうにもならなかった。三左衛門は結局死亡した。

20日 筧平三郎は松平忠倫の刀、「平安城長吉」を証拠として持ち帰り、廣忠から手渡された脇差も持って帰って事の次第を報告した。廣忠は非常に喜んで直ぐに忠倫の刀を平三郎に与え、恩賞として額田郡野羽村の100貫文の領地を与えた。

『証文』天文16年10月20日廣忠ー筧平三郎.jpg

調査によれば、平三郎重忠は後に図書と改名し、息子平三郎重成は牛之助、後勘右衛門と称して旗奉行を務めた。父子は天正戌子と天正巳丑年に相次いで死去した。重成の長男金平元成は長久手の戦いで功績があり勘右衛門と改め、台徳公(*2代将軍秀忠)の鑓奉行として元和丙辰に死去した。

21日 松平三左衛門が刺客に殺されたことが織田信秀に報告されると、彼は驚いて上和田へ行き、この要害の城を精鋭を選んで守らせた。また彼の息子の三郎五郎信廣には安祥の城を守らせた。

因みに、信秀には息子が12人、娘が7人いた、長男がこの信廣で、後の大隈守、二男は吉法師信長で彼が家督を継いだ。

12月大

織田備後守はしきりに徳川家を滅ぼそうと準備し、上和田の城の周辺の6箇所の砦を修理して兵を配置し、立てこもらせた。この辺りの人々は密かに信秀の味方になっていたので、徳川家は存亡の危機に陥っていた。

廣忠は長年今川家に付いていたので義元に救援を願い出た。義元は承知したが、直ぐに「骨を銷し笑中に刀を研ぐ」乱世だからと人質を要求した。そこで、廣忠は躊躇なく、竹千代(そのとき6歳)を駿府に行かせることにした。

石川與七郎数正(後の伯耆守、出雲守)、松平與一郎忠正、天野又五郎(後の三郎兵衛康景、時に21歳、同じく三之助、平岩助右衛門(新左衛門親重の弟)、同七之助親吉(助右衛門の甥、後に主計頭に任命された)、村越平三郎、阿倍徳千代正勝(後の伊豫守)、同新四郎重吉、江原孫三郎、榊原平七郎、金田與惣右衛門正房、上田慶宗ら28人が随行した。中でも徳千代は6歳で、竹千代と同い年でいつも一緒に遊んでいたので同じ籠に乗った。

陸路は敵地なので西郡より渡海するのがよかった。幸い田原の城主戸田弾正憲光は竹千代の継母の父なので、田原より駿府へ渡ろうという事になり、憲光は潮見坂に仮屋を設けるのに奔走した。義元からも迎えとして飯尾勘助が来ることになっていたが、急に用ができて遅れた。

弾正と息子の五郎兵衛政光(あるいは五郎正直)は、家来の戸田又右衛門を尾張へ派遣して、「竹千代を誘拐して差し出すので東三河をほしいと伝えた」。信秀は大喜びしてそれを約束し、使いの者に当座の褒美として永楽銭5貫文を与えて帰した。

岡崎の昔の家来、森新八は、そのとき信秀の元老である林佐渡通勝の家来だったが、夜中に急いで田原に行き竹千代の伴の者に事情を伝えた。

戸田は、「自分は徳川の親戚だから妙なことを考えるはずがない、森のいうようなことは信ずるな、夜が明けると弾正も来るし、天気もよく波も立たないだろう。船に乗るように」といった。

榊原平七郎は、「岡崎より吉田までは海路で、吉田からは陸路で駿府へいくべきだ」という廣忠の命令を受けていることを告げると、弾正は、「駿府までは大きな川が多く、水も深いから陸路は難しい。まずは船に乗って、風が変われば陸へ上がったほうがよい。自分は徳川の縁者だから悪いようにしたりはしない」と言葉巧みに誘ったので、とうとう竹千代を船に移した。

港を離れて漕ぎ出したところ、昨夜のうちに尾張から林佐渡通勝と岩室長門が100騎あまりを伴って田原に来て出船を待っていた。そして竹千代の乗った船の後から軍船2隻が帆を挙げ、弓を構えて太鼓をたたきながら漕いで来た。

伴の御家人たちは「昨晩森が忠告してくれたことを信じないで、虎の尾を踏んでしまった」と呆然として何もできなかった。

やがて船は尾張の熱田に着岸した。信秀勢が雲霞のように集まった。船からは林佐渡が出てきて、「岡崎と織田家は講和したので若君を質子としたのだ。ゆめゆめ危険な目に会わせてはならない」と述べ、竹千代一行全員を熱田神宮の大宮司のもとへ送った。

天野又五郎は11歳だったが、「ここでは家来を呼んで書状を書くこともできない、自分が岡崎に行ってこの状況を伝えたい」と申し出て、密かに岡崎に行って事情を報告した。

側近が廣忠に伝えると、老臣を妻(*廣忠の後妻で、戸田家から来た人)の下に行かせ、この事情を告げた。彼女は、「自分の父は情けない人だ、竹千代を敵に渡して、自分も捨てるとはなんというひどい人か。これ以上酷いことはない」と非常に驚き悲しみ、侍女たちに、「竹千代は我が家にとっては跡取りであり、かねてからこういうこともあろうとは思っていても、少しも気づかずこのような危険に会わせてしまった。なんの疑をもたたなかったのが悔しい」といって悲しみにくれた。

後々徳川の家来たちだけでなく世の人も、「戸田は外孫を永楽銭5貫文で売った」として、爪弾きにされ、誹謗されることになってしまった。

廣忠は石川安芸守清兼を駿府へ遣わせ、「竹千代が尾張の虜になる不祥事を起こしてしまったが、約束したことには変わらないので、自分は竹千代を見捨てても義元につく」と告げた。義元は感激して、「こうなった上は人質は必要ないので直ぐに兵を派遣して岡崎を救おう」と答えた。そうして朝比奈彌太郎泰成(後の彌葱右衛門)を岡崎に遣わせて廣忠の忠義に感謝を示した。

織田信秀は岡崎に使者を送って、「竹千代を虜にした、早く今川に付いているのを翻して織田方に付けば、質子を岡崎に帰す。もしそれに応じなければ質子を殺す」と伝えてきた。

廣忠は「竹千代を尾張へ遣わしたつもりはない。駿河に送る人質を戸田が途中で誘拐して尾張へ連れて行ったのだから、お前が質を殺すといったからといって、どうして今川との約束を破って尾張に付かねばならないのか」と毅然として答えた。

信秀は怒って使いの武将を追い返し、竹千代を侍女2人、阿倍徳千代正勝、天野三之助、従者1人の合わせて5人と共に熱田神宮の祠官、山口監物の知り合いの加藤図書順盛という下級役人の家に幽閉した。

監物の妻が季節に合わせて竹千代の服を取り換えて労ったのを信秀が聞いて、彼女を追い払った。

高野藤蔵は小鳥などを持ってきて竹千代の世話をした。岡崎の伴の内、金田與惣右衛門正房は密かに竹千代を岡崎に連れ帰ろうと計ったが見つかってしまった。信秀は直ぐに金田を殺害し、三田橋で磔にした。それを聴いた人々は正房の忠義の深いことを憐れんだ。

信秀は名護屋の役人に竹千代を亀岳山満松寺天王坊に移させた。

〇このような話もある。竹千代の外祖母は、三河額田郡寺津の城主、大河内但馬守元綱(後の左衛門佑)の娘である。刈谷の城主水野右衛門太夫忠政に嫁いで二男、一女をもうけた。長男は下野守信元、次男は藤次郎重次、一女は伝通院、これは竹千代の母である。なお、その他の忠政の子供は全て腹違いである。

外祖母は、忠政と離婚してから設楽郡の菅沼藤十郎に再婚したが、菅沼も彼女と離婚した。しかし、彼女は絶世の美女として知られていて、徳川清康(家康の祖父)が彼女を娶った。清康がまもなく暗殺されたので、尾州津島の川口久助盛祐の正妻となった。しかし盛祐も早世したので、彼女は川口の家で断髪して、華陽院玄應尼となった。

この尼の甥、大河内源三郎政局は、織田家の許しを得て高野藤蔵とともに天王坊に住んで竹千代の世話に励んだ。源三郎と藤蔵、および加藤図書のそれぞれの母3人と、山口監物の未亡人は姉妹である。

そのころ、伝通院は尾張の知多郡阿古屋の郷主、久松佐渡守俊勝に再婚していたが、そこから天王坊までは日帰りができたので、平野久蔵や竹内久六に食べ物を竹千代へ届けさせた。

伊勢の渥美太郎兵衛友勝は、17歳で刃傷事件を起こして尾張へ流れて来て平手中務政秀に預けられていたが、竹千代を心から憐れんだという。

〇金田與惣右衛門正房の祖父は彌三郎正興、上総の金田より三河の幡豆郡一色村に来て清康に仕え、父彌三郎正頼も彼の後を継いだ徳川の家臣である。今回、正房は志を果たせずに死去し、その嫡子、次男も清康のために命を落とした。三男惣次郎祐勝が家をついで宗八郎と改名した。

〇加藤図書には、後年家康は尾張の愛智郡荒尾村140石を与え諸役を許した。彼の子孫は、今も竹千代の遊び道具の「黒塗りの筒」を持っているという。

高野渥美、後年徳川の御家人になったが、渥美の家には伝通院が時々訪れ非常に気に入っていた。久松家の竹内平野も後で彼の世話になった。

〇この年、織田信秀の子、三郎信長は14歳で初陣した。元老平手中務政秀を率いて西三河に出撃した。紅色の筋入りの頭巾と揃いの胴着、金の馬の鎧を装って非常に煌びやかだった。吉良大濱を焼き払い、その夜は野陣して翌日凱旋した。西三河、東三河とは、二村山を境とした地名である。

天文17年(1548)

3月小

2日 織田信秀が三河を襲撃するというので、廣忠を救援するために今川から朝比奈備中守泰能、同じく小三郎泰秀、岡部五郎兵衛眞幸の部隊を義元の叔父の臨済寺雪斎和尚が引き連れて三河へ向かった。この軍隊は遠州の切本坂で二手に分かれて三河の岡崎に着いた。

4日 信秀は4千余りの兵を引き連れ、尾張の愛智郡古渡の城を出撃、笠寺、鳴海に陣を張った。

5日 信秀は三河の碧海郡安祥の城に着いて休息した後、同郡上和田の砦に陣を移動した。

10日 信秀は駿河の援軍が来たと聴いて、馬頭原に進軍して備えた。

12日 廣忠は岡崎を出撃した。駿府勢を先鋒にして額田郡藤川宿より正田原へ展開し、7段の陣を敷いた。ここから上和田までは1里ある。

信秀は弟の孫三郎信光、同苗造酒蒸政房を部隊長とした。この部隊は矢作から進軍したが山道で敵味方がよくわからなくなった。

駿河の一陣庵原安房の部隊は、同じく右近を額田郡小豆坂に呼んで斥候とした。右近は早速走り帰り、「敵はすぐ傍に来ている、彼らに小豆坂の峠を押さえられる前に、こちらが早く峠に登れば敵を見下ろして戦うことができる」と報告した。そこで、今川勢は急いで峠に上って占拠した。

尾張の先鋒の織田造酒丞は少人数だったので、早く山頂を占拠しようと急いだけれども間に合わず、敵を見上げることになった。

駿河の朝比奈泰能は自分で最初に突撃した。岡崎衆の酒井雅楽助正親は彼を救援し、自分で織田三郎五郎信廣の側近、鳴海大学助を討ち取った。そのほか、名護屋彌四郎秀宗、永田四郎右衛門重宗など尾張勢はたちまち命を落とし、織田造酒丞も傷を負った。

今川と徳川の軍勢は勝ちに転じ、盗木まで追撃したが、そこに孫三郎信光がいて、仲間一人と一緒に大声を挙げて兵に激を飛ばすと、続いて織田造酒丞政房、下方彌三郎貞清(16歳、後の左近)岡川助右衛門重善(後の長門守)佐々隼人、その弟孫助(17歳)中野又兵衛忠利(16歳)が槍で突撃して今川勢を突破した。(彼らは小豆坂の7本槍と賞美された)

織田與三郎信康、同じく四郎次郎信実、同じく孫十郎信次、川尻與四郎重次(後の肥前守)小瀬修理○ 武藤河崎伝助、大窪半助 土屋孫左衛門 赤川彦右衛門、神戸市左衛門、山口左馬助が奮戦した。今川の庵原安房を川尻與四郎が討ち取った。

岡崎方の松平三郎太夫乗遠、渡邊善兵衛雅綱(32歳)、大岡孫太郎忠俊、林藤四郎吉忠、小林平左衛門重次をはじめとして一歩も退かず戦ったが戦死した。今川の岡部五郎兵衛眞幸は敵を横から攻めて破り、近江から戦いに参加した小倉與助正孝は尾張の武藤槍三位を組み倒した。岡崎衆の榊原彦兵衛勝長は手柄を上げた。この戦闘によって岡部はようやく乱戦を収め、藤川の宿まで兵を戻した。織田方はわずかに50人ほどしか戦死しなかったが、信秀は戦いを続けられず、上和田の城に孫三郎信光を、安祥の城には三郎五郎信廣を残して尾張へ兵を引いた。

〇『小林家伝』によれば、今日討死した平左衛門重次は、親忠の家来の紀伊守重定の孫で、勝之助重時(初めは勝之助)の子である。

〇『今村家伝』によれば、彦兵衛は桁之助重長の父である。

4月小

15日 松平蔵人信孝は、尾張の援軍は帰ったが駿河の援軍も岡崎から帰ったので、その隙に岡崎を攻めようと500余りの勢力で額田郡明大寺に出撃してきた。

廣忠は酒井雅楽助正親、石川安芸守清兼に250の兵を差し向けて対峙させた。廣忠の命令によって大久保新八郎忠俊父子は石川新九郎らと相談して、70騎を選んで木の葉を塚に置いて隠れ信孝の来るのを待った。すると予想通り信孝は明大寺から出てきて鎧山に就いたころ、伏兵が一斉に矢を放って菅生河原へ飛び出し、明大寺の町へ行こうとした。それを見た信孝は追撃してきた。味方は町の中に入り、敵がくるのを待った。

信孝は町に火を放って焼き尽くすこともできたが、町の中に兵を進めて岡崎の伏兵を撃とうと激を飛ばした。しかし、道が狭くて統制がとれずもたもたしている間に、岡崎方は70人程に分かれ、町のいろいろな方向から矢を雨のように放った。そのため信孝の軍隊は混乱し、信孝は右わきを射抜かれて馬より落ちて死んだ。首は石川清兼の外孫、上田兵庫守元信が取った。味方も大田善太夫吉房(吉正の父)が戦死した。そのほかにも死傷者は多かったという。この様にして味方は敵将の信孝を始め62の首を取って岡崎に凱旋し、廣忠が首を検分した。

そのとき廣忠は酒井、石川、大久保五郎右衛門の功績を褒めたが、「信孝は自分の伯父だから、もともと恨みはない。一時的に敵対しているといっても殺したいとは思わなかった。皆が彼を捕らえて帰れば、命を救って仲直りし、親戚付き合いをしたかった。今彼の首を見て残念でならない」と涙を流した。その席にいたものはみなもらい泣きをしたという。信孝の法諱は啓岳道雲。碑を菅原河原に建てた。(この碑は明暦元年(1655)秋の洪水で流れてしまった)

廣忠はただちに松平金助を駿河に向かわせてこの件を今川義元に伝え、西三河を大方支配下に置いたことを報告した。義元は大喜びして「左文字の刀」を廣忠に贈り、金助には良馬を与えた。廣忠よりは上田兵庫元信に恩賞として碧海郡大濱に領地を与えた。

〇この頃、廣忠は大久保五郎右衛門忠勝の子、忠政を阿倍四郎兵衛定次の嫡子とした。これは四郎兵衛の子、四郎五郎定重が今年碧海郡上野で戦死したので、忠政に家を継がせ四郎五郎となったためである。(養父が死去した後四郎兵衛となった)忠政は武術を好んで弓の名手として有名である。(子孫として四郎兵衛と四郎五郎の両家が分かれて存続している)

11月大

9日 松平三左衛門忠倫が死去した後も権兵衛重弘 左近忠親、三蔵直勝(いずれも三左衛門の弟)、宮内親乗らは織田方として三河加茂郡山中の城に立てこもって廣忠に敵対した。

酒井雅楽助正親、石川安芸守清兼、同じく與七郎数正(後の伯耆守)、大久保五郎左衛門忠勝、同じく七郎右衛門忠世らは300騎でこの城を攻めた。城兵は城から出撃して防戦した。寄せ手は若干劣勢になったが、大久保の蛮勇によって勢いを挽回し谷を隔てて踏み止まった。城兵は大きな音に「誰か」と尋ねた。

そこで「大久保一族だ」と答えると、「それなら大将めがけて試しに矢を2本射る」といって、2本を発してきた。その矢は両方とも五郎右衛門に当たり軽傷を負った。そうしている間に、向こうの尾根より大久保一族が争って登ってきたが、五郎右衛門忠勝が深入りしたので阿倍四郎五郎忠政が援護して4人の敵の内2人を斬った。そこに一族が戦闘に加わり、敵はとうとう負けて城に戻った。しかしその夜、彼らはかがり火を多数残したまま城を棄て、城主権兵衛をはじめ全員が逃亡して城は陥落したという。

〇『松平記』には、この戦いが4月朔日だと書かれ、軍の前に明大寺があることになっている。この記述はよくわからない。或書には去年の内となっているが、これはおそらく間違いだろう。

この年、廣忠、加茂郡梅が坪の城を攻めた。城の三宅右近太夫は城から出て激しく応戦したが勝てずに城へ戻った。

以前この城は織田に襲われ、加茂郡八桑の城の那須宗右衛門が滅び、代わりに尾張の中条将監がこの城に立て篭もった。

廣忠はこの城を攻めたが、敵も岡崎を攻めるために軍を出し、紺碧郡重原で合戦が行われた。尾張の援軍の将、荒川新八郎頼季は西三河を侵略した中条を援護したが、福釜の松平三郎次郎康親が太刀で応戦して敵を多数切り殺した。杉浦八郎五郎鎮定、阿倍四郎五郎忠政、渡邊左衛門五郎時綱らは弓の腕を振るって敵は敗北した。中でも阿倍忠政は敗走する荒川の兵を多数射殺した。敵はその腕前を褒めて後でその矢を返してきた。

〇織田信秀の7千あまりの兵は、三河の寶飯郡西野を出撃した。廣忠は岡崎の城外で応戦し、双方は馬や足軽を出して2日間戦った。弓の名手として名高い杉浦、阿倍、渡邊は大いに腕を振るった。

信秀は岡崎勢が2千ほどしかいないと馬鹿にして柳川池を越えて出てきた。味方は弓をそろえて発射し敵は盾を並べて応戦した。長坂茶利九郎信政は相手が大勢だから先手が有利なので早く戦うことを勧めたが、廣忠は同意しなかった。

すこし間をおいて、信政は「戦うのは今だ」と一人で突撃して槍で敵の盾を打ち落とそうとした。後から続いた仲間は、「槍は斜めにして石つきで突いた方がいい」と勧め、彼はすぐそうして盾の並びを3段まで破壊した。敵があわてふためいた所を味方が総がかりで襲い掛かったので、敵は敗退したが戦死者は多くはなかった。信秀は単騎で尾張へ帰った。

この地は昔から柳が多く、柳川池と呼ばれている。このとき尾張勢に戦死者が少々出たので、土地では殿川池と呼んだ。これは日本で侍を「殿」と呼ぶことに由来している。

伝承によれば、2日 長坂信政は最初、彦九郎といって、清康の頃には戦場に出れば槍を血に染めないことはなく、清康は感激して「血槍九郎」と呼んでいた。子孫は皆、「茶利」という名前を持っていた。なぜなら、「血槍」と発音が似ていたので「茶利」としたわけである。

〇織田備後守信秀は、尾張の愛智郡古渡りの城を破棄して、同じく末森に城を築いて移った。その子信長には、尾張の名護屋を居城とさせ、信秀の弟孫三郎信光には春日井郡守山の城を守らせ、また、美濃の斉藤山城守利之道三と和融して、信長を道三の娘婿とさせた。

〇大久保家の話として、宇津左衛門五郎忠成の三男、三郎左衛門忠久(はじめは彌三郎)は、今年三河の紺碧郡三木の城を先鋒として攻撃し、堀を登ろうとして命を落とした。そこで、廣忠は大久保新八郎忠俊の次男、忠政を忠久の家を継がせ、彌三郎としたという。このように考えると、松平信孝が戦死した後に、三木の城を攻めたことは明らかである。(その時、彌三郎が主人だった)

天文18年(1549)

2月小

上旬、廣忠の病状が日々悪化した。

3月大

3日 尾張の愛智郡末森の城にて、織田備後守信秀が享年42歳にて死去した。

次男、三郎信長は16歳で家督を継ぎ、上総介と自分で名乗った。当時彼は素行が悪く放蕩であったが、生まれつき活発勇猛果敢な性分で、彼の居場所は都に近く、その内天下人になるかもしれないところだが、残念なことにいつも謀略ばかりを考え、人を欺き、しかも残酷だったという。

6日 岡崎の城にて廣忠が死去した。享年24歳 その日の内に火葬した。(現在の能美山松應寺の地)遺骨は成道山大樹寺に納め、戒名は端雲院殿應政道幹大居士である。

このことが名護屋に届くと、8歳になった竹千代が悲しみ、その様子を皆が憐れんだ。

廣忠は思いやり深く、家来や大衆を愛して、かつ武勇に優れ敵にも一目置かれていたが、反面生まれつき疑い深く親しみにくい性格で、家来が結束せず、土地の人にも心からしたわれることもなく短命に終わった。

これでは一族が衰退してしまうというので、重臣たちが集まって今後を相談した。

石川伯耆守数正、本多肥後守忠眞、天野甚右衛門景隆は、尾張と和睦して竹千代を早く岡崎に還したらいいと望んだ。

石川安芸守清兼、酒井雅楽助正親は、今川家は廣忠と懇意で、駿河、遠州と三河も大方その配下にあるので、兵力も十分だからずっと今川についていて、岡崎を固めて竹千代を帰還させる策を練ろうといった。

鳥居、植村は、今、織田家と和融すると竹千代を帰還させやすいが、今川勢が大挙押し寄せてくればもっと危険なことになる、と、なかなか意見がまとまらないうちに日が過ぎた。

そうこうしている間に、義元は岡崎の訃報を聞いて大そう驚き、信長は必ずこの異変を窺うので油断できないと、朝比奈備中守泰能、岡部五郎兵衛眞幸、葛山備中、鵜殿三郎長持ら旗本の侍300人を添えて岡崎に送り、岡崎の援軍だといって岡崎城を占拠してしまった。そのため、岡崎の重臣たちはどうしようもなく今川に従うことになってしまった。

19日 駿河の朝比奈、岡部、葛山、鵜殿は、まず岡崎に近い安祥の城を落とそうと、徳川の安倍大蔵定吉、大久保新八郎忠俊、本多平八郎忠高らを先鋒として岡崎を出撃すると、岡の砦を守っていた織田家の兵士は直ぐに退却した。

安祥の将主織田三郎五郎信廣(後の大隈守)は堅く城を守って駿河の攻撃を拒んだ。大久保忠俊の長男、五郎右衛門忠勝は敵と槍を合わせて、同じく七郎右衛門忠世が敵の首を獲た。本多八郎忠高も突撃したが、前島伝次の発した弓を胸に受けて即死した。(享年22歳)、その他、榊原藤兵衛など多くの命を失ったり負傷したりして、城を陥落させることはできず、岡崎に兵を還した。

11月大

3日 今川義元は、雪斎和尚、松井、両朝比奈の指揮の下、駿遠参の三州の兵7千で再び安祥の城を攻めた。雪斎はスパイを放って織田信長が腹違いの兄、信廣を救援するために出兵させることを知り、「要路に伏兵を配して救援を遮れば城兵も必ず出撃してくるだろうから、正面だけでなく奇襲をかけて両方の敵を打ち破ろう」と謀った。

岡崎の老臣酒井左衛門尉忠次、石川安芸守清兼は先鋒を望んだが、雪斎は後方の伏兵とした。城を攻める手順としては、大手は朝比奈、その次は雪斎、搦(*からめ)手は鵜飼三郎長持、岡部五郎兵衛眞幸、西南方には三浦左馬助義就、葛山備中、北口は飯尾豊前顕茲と定めた。

8日 尾張の援軍が安祥城へ入ろうとしたとき、三河の伏兵が出撃して遮った。城主織田信廣は強くて、僅か700人の城兵を率いて追手門から3町ほど出て援軍を引き入れようと赤川彦右衛門、都築蔵人、長谷川惣兵衛らが奮戦し、寄せ手と戦った。

その間に、徳川の親戚の竹谷の玄蕃清善、深溝の主殿助伊忠、藤井の勘四郎信一、東條の右近善春、元老酒井、石川、鳥居、大久保五郎左衛門忠勝、天野甚右衛門景隆をはじめ、伊奈、土居の両本多小栗助兵衛、村越平三郎、同じく次郎八郎、石川彦次郎、米津藤像、本橋金五郎など53人が後陣として突撃すると、遠州の兵もこれに励まされて奮い立ち、とうとう尾張の援軍は敗北し、信廣も城内に逃げ込んだ。

以前小豆坂で戦死した小林平左衛門重次の長男勝之助重正は廣忠の伝令の係りだったが、この城には大沼があり、これを越えるために民家から多数の戸を集めて沼に入れそれを渡って城へ攻め上った。弓気多七郎次郎昌利は、追手の門の一の木戸を焼き払い、とうとう二の丸,三の丸を破って敵数100人を捕らえた。城主の信廣はかろうじて本丸に立て篭もり抵抗したが、四面を鹿垣にかこまれ、鳥にでもならない限り逃げられない状況にされた。

一方、信長は安祥の城が急を告げているので、清州の城を出て鳴海まで出陣したが、安祥城の二の丸、三の丸の焼かれている煙を見て進軍を止めた。

その時、雪斎和尚の使いが来て、「信廣は既に本丸に追い込まれていて、やがて命を落とすだろう、岡崎の人質(竹千代)を返して信廣の命は助けよう」と伝えたという。

信長は怒って返事をしなかったが、平手中務政秀、林佐渡通勝は、「人質を帰すことは昔からよくあることだ、このままでは信廣が死んでしまうので、竹千代と交換して命を助けるべきだ」と何度も諌めた。それで信長は人質を帰すことを承知して、「早速、明日、三河の寶飯郡西野で双方が出向いて、竹千代と信廣を交換する」と答えた。岡崎の譜代は手をたたき、足を踏み鳴らして喜んだ。

〇尾張の笠寺観音にて信廣と竹千代(家康)の交換が行われたという話もある。

15日 今川義元は残忍で容赦がない人で、この機会に三河を支配しようと考え、「竹千代は駿河にて育てる」と命令した。竹千代は一昨年尾張にとらわれて何とか運良く今回岡崎へ帰国したが、すぐに8歳の彼を駿河に送らなければならないので、岡崎の元老たちは溜息をついて嘆いたがどうにもならず、すぐに岡崎を出発することになった。

天野三之助、安部徳千代正勝、榊原孫三郎忠政(後の準之助、その時29歳)、渥美美太郎兵衛友勝、上田慶宗、平岩七之助親吉、弟善十郎、以上7名、それに付け人として、内藤惣兵衛が従った。義元はその上に岡崎の老臣の質子として、酒井與四郎清秀(雅楽助正親の子)、石川助四郎(安芸守清兼の子)も要求したということである。

22日 竹千代は駿河に到着した。今川義元は宮ヶ崎に住居を建て、久島土佐正資に命令して、米を僅か20俵しか支給しなかった。

岡崎からは、高力與左衛門清良(後に出羽守)、植村新六郎家政、石川彦次郎、同じく内記、安部新四郎正吉、江原孫三郎、本橋金五郎、古橋総、内村越平三郎、渡邊勘解由左衛門、同じく甚平次などが、宮ヶ崎に行って世話をした、奴隷も合わせて200人余りだったという。

23日 岡崎と今川勢は、三河の紺碧郡上野の南端の城を攻撃した。岡崎の渡邊八郎義綱(後の右衛門)遠州の弓気多七郎次郎昌利(後の攝津守)は得意の弓を使って大手門で勇ましく戦ったという。

12月大

22日 今川は三河と遠州の武将に軍功に対する褒美を与えた。弓気多への義元からの感謝状は次のようなものだった。

『感謝状』天文18年12月22日今川義元ー弓記多七郎次郎.jpg

〇この年、三河の設楽郡作手の奥平監物貞勝、段嶺の菅沼大善定継、長篠の同じく左衛門貞景らは今川を叛いて尾張についた。

〇この年、織田信長は父の後を継いだが、相変わらず非常に態度が悪くわがままなので、部下や人々は馬鹿にして叛く傾向があった。それで平手中務政秀は我慢ができず自殺した。信長は驚いて後悔し、政秀の遺言状の中身をいちいち尤もだと納得し、遂に自らの過ちを認め改めた。そうして、政秀のために寺を建てて菩提寺とした。また、父備中守の城の末森を勘十郎信行に授けて、柴田権六勝家らを入れた。

天文19年(1550)

5月小

4日 近江の穴田の山中の館にて、前の征夷大将軍従2位行権大納言兼右近衛大将源朝臣、義晴が享年40歳で死去した。法諱、萬松院道照膵山

8月小

2日 大洪水があった。

10月小

12日 竹千代は去年から駿府に住んでいたが、今川義元は貪欲で無慈悲な人で、三河の徳川の領土のうち渥美郡の牟呂村だけを竹千代に与え、それ以外は幼少の間は預かるといって、各村に手下を配置して租税を全て駿府で横領した。

義元は竹千代には鳥居伊賀守忠吉と能見の松平次郎右衛門重吉だけを世話係とし、竹千代の住まいは深閑として、経費も少なく服の着替えもない様だったという。

どうやら、竹千代に与えた給金2千俵は徳川の伴の者が工面していたらしい。

そんな中、鳥居伊賀守は裕福な家来だったので、密かに金銀や衣服を差し入れた。岡崎の譜代も領地を駿府に侵され、なんとか飢えをしのいでいるということで、一体この状態がいつまで続くのかと案じていた。

そんな時、竹千代は9歳になったが非常に聡明で機智に富んだ人で、今の状況を案じ家来たちを慰問する文書を送った。天文19年10月12日竹千代.jpg元々岡崎には忠節を守る気風備わっていたので、家臣たちはそれを読んで感激して「竹千代の成長を待とう」とつつましく農作にはげみ、また、駿河の命令に背かず不本意ながら今川に仕えた。また、義元の指示に率先して尾張と戦い、父子、弟が戦死しても我慢して十数年間を徳川のために凌いだ。これは「古人の膽を嘗め、雪を食う」という節義にも劣らないほどであった。

鳥居伊賀守は常に私財を惜しまず、「皆が困っているのだから、自分は命をかけて竹千代を守る」と金銀米を差し入れた。このような次第で、後世まで、徳川の岩津、安祥、岡崎の譜代は忠臣だと賞賛された。

岩津の譜代とは、左京亮親氏の嫡男三河守泰親が三河の紺碧郡岩津の城主の頃よりの歴代の家臣をいう。

安祥の譜代とは、和泉守信光、右京亮親忠、出雲守長親、蔵人信忠までの4代同郡の安祥の城にあり、その間に徳川に奉仕した家を指す。

岡崎の譜代とは、山中譜代ともいう。これは次郎三郎清康、同国額田郡岡崎あるいは加茂郡山中の城にいるころより徳川に仕えた人たちを指す。

武徳編年集成 巻2  終