巻25 天正10年12月

天正10年(1582)

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3日 甲州で松平主殿助は、陣地を姥口へ移動した。家康は辻盛昌の部下、依田氏に領地の印章を与えた。fb4c7b204420657f6a7516af932b1fbe49512dd8.jpg

9日 辻盛昌にもう一度印章を与えた。天正10年12月9日家康ー辻彌兵衛.jpg

11日 家康は古府に駐屯して、三河と遠州の諸将に帰国するための休暇を与えた。(明日各隊は古府を出発する)

柴田修理亮勝家の使者が来て、唐織20反、綿白把、鱈5尾を家康に贈った。これは家康が甲州と信州を支配したことの祝いである。

信州小縣郡上田の城主、真田安房守昌幸は、家康の味方として兵を挙げ今月から年越しで信濃の境、上州の城や砦8箇所を落そうとした。

〇家康は甲州と信州の先方の士たちを甲陽の古府に招集し、戦いでの成果を糺して領地を与えたり、領地を減らしたりした。

平原宮内(依田の一族、)は待遇を保障されるはずだったが、以前笛吹川の戦いで彼は一揆の長の木村三右衛門の家来だったと、保坂金右衛門と田村の郷民が訴えた。そこで両国の士たちを呼んで家康の前で訴人2人と平原とを対決させた。平原は、「叛意はなかった」といって退出した。しかし、判断がつかなかったのでもう一度審問するために呼び返された。平原も訴人たちも長袴に短刀をさし太刀を従者に持たせていた。

平原は元々下心があったのか、それがばれるのを恐れたのか、奥山新八郎の子が主人の刀を持って控えているとその刀を奪ってその子を斬り殺し、家康の前へまっしぐらに駆けてきた。甲陽の小幡藤五郎昌忠と辻彌兵衛盛昌は臺子の間(家康の座っている部屋)にいたが、2人は平原に向い藤五郎は短刀を抜いて平原の刀を受け止めた。しかし、左の指を4本を切り落とされた。続いて彌兵衛は短刀を鞘を翳(*かざ)して飛び入ろうとして額に傷を蒙った。その血が流れて目に入って前が見えなくなったとき、甲州と信州の士たちは長袴を着けていたので動きがとれず、死傷者が27人になってしまった。そして宮内は家康に近づいたところを、土屋権右衛門昌為は急いで雨戸で遮った。

三河衆の永見新右衛門重頼は傍の槍をとったが、平原はすきなく進んできたので槍を取り直す間がなく、槍のいしずき(*槍の刃の根元に横に出ている刃物)で彼を突き倒し、榊原康政の部下の伊藤雁助が組み付いた。重頼は脇から平原を斬ろうとして間違って刀が雁助を斬ってしまった。(この傷で後日雁助は死亡した)。辻彌兵衛はようやく目を開いて平原の刀を押さえて殺した。

家康は永見と土屋の働きを誉め、木幡の深傷を案じて、医者の丸山萬太郎と山本大琳をつけて治療させた。また、佐橋甚五郎を使いとして小幡の陣へ見舞いに行かせた。藤五郎は29歳だったが少しずつ傷は治り、彼は後に又兵衛と改名した。彌兵衛は勇敢ではあったが、刃物を持った相手に素手で立ち向かって傷を負ったことを家康は評価しなかった。また、家康は彼が3月に家来になる時に800貫を要求したり、織田信忠には勝頼を討つといって300貫を出させたという噂もあったりしたので、家康は彼には木綿の着物一着と黄金一枚だけという僅かな褒美を与えた。

〇ある話では、平原の狼藉事件が起きたのは、家康がこの9月に新府で仮屋を設けて、甲州と信州の先方の武将たちを謁見したときとなっている。また、このとき彌兵衛は改易されたという話もあるがいずれも間違いである。

19日 家康の使いの朝比奈彌太郎泰成(後の彌惣右衛門)が小田原へ行った。これは今月上旬から、北条が結納品として浜松の娘へ石巻隼人と川尻下野が十種類の荷物を送ったので、その返礼のためである。氏政氏直は朝比奈をもてなして刀と馬を贈った。

〇この話は北条家の説である。このとき家康はまだ甲州の陣に留まっていて、浜松は留守だった。北条が留守中に家康へ結納品を贈ったりするものだろうか?

〇『岡野家伝』によると、板辺岡江雪斎は氏直の使者として浜松城へ赴き、結納の日取りを決めた。家康の使節が小田原を訪れた時、江雪斎は使節を氏直に面会させ、その時の饗応を取り仕切ったという。江雪斎は後日家康の命で板辺岡を岡野と改めた。

21日 家康は甲州と信州へ指令を出して、古府から浜松へ凱旋した。そして戦いに貢献した諸将に感謝状を贈った。

大久保忠世(1通)、同従者(3通の内2通は一番槍の者へ)、鳥居元忠(1通)、同従者(2通)、三宅康定(1通)、その外甲州と信州の多数の諸将が感謝状をもらった。平岩七之助は甲州の番鎮となって領地を少しもらった。

家康は成瀬吉右衛門と日下部兵右衛門を検断職とし、後年、根来同心50人を成瀬に付け、先方の士の小濱民部左衛門景隆と間宮造酒丞信高を添え、また桜井安芸信忠、市川伊清斎、工藤元随斎、岩間大蔵左衛門、小田切大隈、豊島作右衛門正吉に国中の巷の噂を集めさせて報告するように命じた。

渡邊善三郎は甲陽の町司として、信州に至る地域の盗賊を退治し租税を集めさせ、同心50名をつけた。その子彌兵衛には奸盗(*知能犯)を退治させた。信州の番鎮として佐久郡を大久保七郎右衛門に与え、柴田七九郎と菅沼小大膳に領地を与えて彼につけた。

〇この日、朝比奈(*彌太郎)泰成は小田原を発った。

〇巷に流れた怪談によれば、彌太郎が小田原からの帰路に、箱根の日金峠で黄昏に鬼に出会ったというのは、この日あの山で不審な事件が起きたのでこの話ができたという。

〇『保科家伝』によれば、越前守正直の子、甚四郎正光は駿河の城に出て初めて家康に拝謁した。

〇家康のお気に入りの家臣、井伊兵部直政はまだ若いが英雄の器なので、先に滅んだ山縣昌景、源胤廣、一條信就、土屋昌恒の家来の中から優れた実績のある者74名を、また関東の浪人で優秀だといわれる者43人、合わせて117人を彼の同心とし領地4万石を与えた。

亡くなった山縣三郎兵衛の上州先方、小幡上総介の装備は、旗から六具、鞍、鐙まで全て赤である。家康は彼の武功にちなんで直政の装備を全て赤とした。また、廣瀬左馬助と三科肥前の2人には、信玄の時代に歴戦で知れ渡った捺物である赤の中に白い縨張りを廣瀬が、金の輪抜きを三科がをそのまま使うように命じた。また、山縣の部下の石原主膳と盈石備前を廣瀬、三科と一緒に呼び、お前たちはプロの武将なので、22歳の直政を鍛えるための補佐とする。だから、兵法の道においては甲州や信州、また越後家の(*信玄や謙信の)悪い所は棄て良いところは取り入れて、普段からしっかりと道を究め、100人ほどが心を合わせて直政を一人前に育てるように命じ、金を打って(*神仏に誓って)約束させた。

〇ある話では、翌年の正月11日から2月28日まで、廣瀬、三科、石原、盈石は、毎日会合して兵法の書をまとめ家康に見せた。家康はこれを読んでところどころを修正し、捺印をしてただちに直政に与えた。また、一冊ずつ家来の大将にも与えたという。直政は武術だけでなく夙夜(*一日中)謙虚に仕事をし、人を敬い家来を愛し精進して、とうとう徳川家第一の家来となった。

〇甲陽の武将たちが今後家康への忠誠を誓わせるために、遠州秋葉山において成瀬と日下部に誓約書を書かせた。署名した者は次の通りである。

今福新左衛門、曽根下野守正清、駒井右京昌直、青治助兵衛、小菅又八郎正盛、三枝松監物、跡部九郎右衛門、河窪新十郎信正、下曽根源六郎信辰、跡部民部正秀、油川刑部、大井監物、岩手助九郎、油川彌平次、粟屋日向、三枝松平右衛門、以上が武田親族衆である。

長澤佐左衛門、竹居郷右衛門、窪田彌平左衛門、白澤傳兵衛、天川平次郎、今井彌四郎、以上を20人頭衆という。

源三右衛門、山本源三郎、跡部源左衛門、高室清三郎、栄倉造酒丞、同姓半兵衛、牛奥織部、岡野神太郎、平林藤助、山中主水、以上を近習衆という。

土屋三郎左衛門、岩間将監、窪島惣左衛門尉、小宮山又七郎昌親、窪島平五郎、有賀式部種行、高林又十郎昌重、須田惣一、市川内膳清成、石原孫八郎、飯室庄左衛門、同姓輿左衛門、河西孫右衛門(肥後満秀の長男)、三田大蔵、御手洗藤十郎、横地彌兵衛元貞(後の太郎左衛門)、横地喜三郎(後の所左衛門)、内藤織部、白澤久助、長井又五郎、河野庄右衛門盛政、中澤摠九郎、同姓主税助幸次、鎌田権左衛門、内藤源助、飯田右馬助、今福求之助、同姓彦蔵、五味主殿助、保坂監物、青沼縫殿助、雨宮十兵衛、風発兵助、南角十左衛門、牛奥輿惣左衛門、水上六郎兵衛、向山新之丞、窪島與市郎、安倍源太郎、保科新兵衛、小田切大隅、山本主殿助、武藤松月齋延子、駒井宮内、工藤市兵衛、同姓彌左衛門、同姓甚太郎、市川宮内、同姓喜三郎、小畑藤五郎昌忠、窪田内記、塚原次左衛門、以上を同じく近習衆という。

荻原甚之丞昌友、窪田助之丞、同藤左衛門、中村甚六安忠、石坂勘兵衛森通、志村又右衛門貞時、山本孫右衛門忠房、河野傳之丞通里、以上が小人頭である。

大志萬輿次郎、海野市助、甘利六之助、中澤市左衛門、大窪惣右衛門、今井主計助、青沼與兵衛、長谷輿摠右衛門、河合作兵衛、塚田内蔵助、志村善右衛門、五味源兵衛、市川新右衛門、鹽里屋久兵衛、荻原市之丞、岩下七郎左衛門、惣田七兵衛、南宮佐左衛門、窪田平右衛門、野呂瀬庄之助、杉田次左衛門、南切源右衛門、宮澤善兵衛、三澤佐右衛門、同姓四郎兵衛、鮎川新五兵衛、小池主計助、河西喜兵衛、天川兵部、島田外記、岩下又左衛門、渡邊半左衛門、村松喜太夫、安倍式部、塚本喜兵衛、雨宮源之丞、鮎澤善左衛門、同織部、深海民部、今井兵部末吉、宮内澤藤兵部、川口彦三郎、山村彦兵衛、加々爪右衛門、中山久右衛門、高野清七郎、初鹿庄右衛門任連、本郷左衛門、太田宮内、小林主税助、小田切主税助、若槻次郎左衛門、小池四兵衛、河野又一郎、細野源五右衛門、安倍惣十郎、須田民部、植原市之丞、岩下郷左衛門、山下彌兵衛尉、樋口三郎右衛門、飯田甚五右衛門、飯島作右衛門、河野好右衛門、花岡藤兵衛、若槻主計助、一瀬彌五左衛門、小宮山郷左衛門、折井民部、廣瀬美濃、三科傳三郎、石黒将監、石原五郎左衛門、藤堂新兵衛、油川宮内、中込又兵衛、小澤佐左衛門、石原郷右衛門、保科善右衛門、飯室宮内、同姓八郎兵衛、薬袋原庵之助(薬袋原は巨摩郡延山西北の地名である)、花輪又三郎、横田善次郎、飯川彦四郎、河手又左衛門、荻原孫兵衛、小澤喜平次、大窪式部、三井勘三、大島居藤太郎、長坂十左衛門、上杉右近丞、斎藤修理亮、廣瀬市右衛門、本郷源三郎、秋山権之助、原帯刀、成島勘五郎、福島十左衛門、磯野左太夫、内藤主膳、長井傳内、窪田又右衛門、折井市之丞、北村源右衛門、同姓八左衛門、横村彌兵衛、穂坂主計助、志村清三郎、中込加助、金丸助七郎、細籠稚楽助、小林彌右衛門、菊島彌助、藤田彌三郎、今村三郎、須澤又兵衛、風間甚八郎、武藤久左衛門、吉田三郎、岩間作内、武川市兵衛、以上を山縣衆という。

落合摠兵衛、禰津宮内、柏原平兵衛、小田切次太夫、河野内記、小倉将監、古谷織部、河野鞆負助、平尾三右衛門、飯島作三郎、金丸善次郎、清水主膳殿助、小池又右衛門、古屋助之進、田澤茂右衛門、清水庄五郎、丸田甚四郎、向山又八郎、細野彌左衛門、一瀬傳右衛門、初鹿野近兵衛、古田作太夫、岩下惣太夫、今井清十郎、須田彌次右衛門、河西輿太郎、三井平次郎、東條民部、饗庭民部右衛門、内田市之丞、関口惣十郎、岡角三郎、塚原新四郎、山本源三郎、切部次右衛門、前島半兵衛、平林作兵衛、飯田市右衛門、角田主計助、市川四郎右衛門、切部助七郎、篠木彌助、東條角右衛門、河西甚兵衛、以上を原隼人附衆という。

青柳内匠助、青沼郷左衛門、安倍七郎兵衛、矢島長助、横内民部右衛門、坂本清三郎、秋山九右衛門、横内作之丞、荻原作左衛門、高軽藤十郎、志村久右衛門、渡邊藤三郎、中込藤之丞、飯田民部、以上は青沼助兵衛の同心の士である。

和田主計助、須田長助、石黒輿三兵衛、水上藤兵衛、深津藤兵衛、松原平助、丸山市兵衛、山本源三郎、窪藤右エ門、内田新十郎、同姓又三郎、向山宮内右衛門、大村六右衛門、一瀬清四郎、小瀬村右近、薬袋七郎、古田善助、同姓小兵衛、小宮山新七郎、大窪権右衛門、高野輿十郎、塚原藤八郎、橋森織部、雨宮七左衛門、村田市左衛門、窪田小七郎、牛尾源三郎、樋口次左衛門、大澤半左衛門、風間藤七郎、廣原庄右衛門、上野助之丞、岡市之丞、細田六三郎、中村九右衛門、俵田縫殿丞、中澤輿八郎、同姓善七郎、野澤彌左衛門、水上久助、青柳平五郎、飯田摠兵衛、小澤彌兵衛、筒井藤七郎、荻野助之丞、鈴木輿三兵衛、川西作右衛門、金子助右衛門、風間七郎右衛門、中村孫兵衛、古屋五郎、辻甚内、細野作左衛門、金丸藤七郎、大島平五郎、千野源之丞、鮎澤猪之助、長澤孫左衛門、同姓雅楽助、同姓彌右衛門、穂坂彌助、高野五右衛門、穂坂彦次郎、依田善五郎、塚本源助、窪田久右衛門、野澤次郎、岩本又次郎、内藤久左衛門、以上は一條衆という。

蘆澤左近、松原宮内、安藤織部、下條九左衛門、同姓作兵衛、窪南藤三郎、相原次左衛門、千野左門、同姓又右衛門、同姓七左衛門、鹽入久左衛門、石原次右衛門、相原内匠、深澤市右衛門、渡部三左衛門、相原兵部、同姓摠左衛門、同鞆負、同九右衛門、井上市右衛門、以上を御嶽衆という。

三木助左衛門、高橋次左衛門、岩間惣一郎、谷尾総兵衛、石黒吉兵衛、矢田佐左衛門、原助兵衛、長澤庄兵衛、坂本傳助、澤加右衛門、高野彌左衛門、西山金兵衛、廣瀬主計助、同市助、塚本勘七郎、福島三郎右衛門、竹田助十郎、山田源三郎、野口又左衛門、河野助右衛門、三科惣七郎、甘利民部左衛門、切原宮内、以上を小山田衆という。

三科孫兵衛、大島五兵衛、五味與左衛門、鮎川次郎左衛門、総田加兵衛、須田市左衛門、窪田孫七郎、竹田左吉、藤堂孫四郎、饗庭主税助、石井三右衛門、大窪四郎兵衛、同姓新兵衛、横森甚九郎、原監物、斎藤四郎左衛門、古屋新九郎、薬袋勘左衛門、同與助、須田淡路、原田仁兵衛、細野新右衛門、山田惣右衛門、小野喜兵衛、岩下清八郎、平井作左衛門、荻原大炊助、中田清兵衛、丹澤主計助、坪内彦一郎、串村新兵衛、以上を遠山衆という。

倉林主水、神宮右近、寺島孫右衛門、橘田三郎右衛門、風間作左衛門、岡勘兵衛、羽蓮善次郎、渡部總兵衛、小池七郎右衛門、各越肥後、林主水、駒井兵部、石村源五右衛門、下條主水、穂坂清左衛門、岩村清兵衛、若名新九郎、内田善十郎、荻原次兵衛、坂本竹右衛門、長田九助、以上を栗原衆という。

土屋才兵衛、同姓與助、深登左近、水上藤六郎、井上三郎兵衛、丸山治右衛門、向山采女、小田切雅楽助、前島宮内助、同姓輿左衛門、同姓織部、若尾藤三郎、同姓惣三郎、伊奈半兵衛、乙黒彌三郎、内藤又七郎、白井内三郎、小池十兵衛、飯田助左衛門、小柳津右衛門、大関五兵衛、矢津庄右衛門、小野助太夫、竹川新三郎、古屋六兵衛、同輿十郎、中村清三郎、高田新七郎、飯野助右衛門、篠本新九郎、以上を典厩衆という。

金西甚九郎、安藤佐左衛門、伴惣助、尾崎彦八郎、入戸野四方之助、多田九右衛門、下條久助、松原権兵衛、中澤波之助、同姓聡助、中山佐平次、原田権右衛門、塚田善内、竹内作右衛門、駒澤五郎左衛門、間宮甚六郎、小林加兵衛、木村仁兵衛、荻原久右衛門、檜原甚右ヱ門、春日四郎兵衛、山下新三郎、大橋八兵衛、杉〇次郎、細野彌右衛門、金尾靭負助、高砂太十郎、大窪甚助、岩間郷右衛門、島野傳之丞、平井十左衛門、小池監物、小倉清三郎、窪田與太夫、荻原治右衛門、同姓彌兵衛、大村治左衛門、鶴田次右衛門、小澤源兵衛、古屋小兵衛、鈴木孫次郎、石原角兵衛、中込喜兵衛、雨宮七左衛門、日貝喜五郎、町田縫殿助、以上は城綾部昌茂同心の士である。

落合九兵衛、奥山作右衛門、向山一平、土屋新太郎、河西源五郎、小田切久七郎、井門彦一郎、渡部善三郎、金丸藤蔵、志村半兵衛、下新兵衛、甘利帯刀、志村九兵衛、篠原藤蔵、小田切平次郎、河西又兵衛、塚原輿三次、野呂瀬平作、佐原十助、鹽木善三郎、市川新七郎、河村新三郎、以上は今福筑前同心の士である。

小宮山淡路、奥山織部、森主水、古屋宮内、森源之丞、飯島傳三郎、鷹野傳左衛門、野澤半左衛門、霍田曽七郎、前島源次郎、樋羽三蔵、三井三郎、楠織部、山下三右衛門、太多木好吉、奥山曽三郎、小濵宮内、石原日向、薬袋帯刀、橘田孫兵衛、渡邊又左衛門、雨宮孫九郎、古屋助左衛門、高野外記、石橋忠左衛門、岩間木工左衛門、竹内某、小島某、横井某、野口某、北川某、横森某、白井某、以上は曽根下野同心の士である。

大蔵兵部、河野又兵衛、荻原喜兵衛、樋口又兵衛、柏原平四郎、大村藤四郎、田中作兵衛、中澤新三郎、斎藤彦兵衛、同善助、小宮山小兵衛、田中藤右衛門、同姓善五郎、同姓勝之丞、井郷綾部、竹野源之丞、小野市之丞、鷹野右馬助、同姓戸兵衛、同彌兵衛、治上新十郎、野澤宮内、善尾清七郎、三科清五郎、中澤角右衛門、鹽入兵衛、横森兵左衛門、藤堂藤兵衛、志村惣十郎、同総兵衛、中澤清三郎、同藤七郎、内藤摠兵衛、矢澤清五郎、佐熊甚右ヱ門、同輿三兵衛、名取善次郎、同彌左衛門、石原善衛、田中多門之助、以上は今福新左衛門同心の士である。

向山久兵衛、関主水、渡部鞆負、脇又一郎、土屋次郎右衛門、早川彌三左衛門、中村與兵衛、後藤輿三右衛門、梶原肥後、飯島宮内、早川半兵衛、上澤美濃、細野豊後、橘屋市左衛門、向山佐渡、落合将監、丸山半右エ門、渡部右馬助、田中源左衛門、後藤久左衛門、高塚七郎兵衛、川野作右衛門、四宮藤右エ門、水口半太夫、原田右衛門、田村助三郎、禰津小兵衛、土屋甚五兵衛、鶴田内匠助、矢田儀左衛門、小池水右衛門、小倉源兵衛、同姓彌助、荒川善之丞、細野勘三郎、青柳源三郎、井上権兵衛、大塚新之丞、関新兵衛、横田新八郎、千野牛之助、柳澤市右衛門、土橋助太夫、平井十右衛門、細野藤右エ門、中村平右衛門、古屋輿兵衛、飯野藤右衛門、小倉又四郎、相良左近、一瀬平三郎、伴嘉右衛門、川口藤左衛門、武藤長助、渡部左太夫、篠木彌三左衛門、岩木図書助、矢島小右衛門、神山惣太夫、清水勘七郎、神戸左門、野田助三、渡部清七郎、金丸四郎兵衛、古屋七郎、薬袋九兵衛、以上を土屋衆という。

西山十右衛門、同八兵衛、同又六、同源蔵、山本十左衛門、阿部源一郎、薬袋靭負助、以上を武田直参衆という。

太田監物、加々美源次郎、今福右馬助、依田三郎左衛門、御手洗新右衛門、横田彦八郎、石原茂助、南角甚七郎、古屋作兵衛、鹽屋市之丞、河野三右衛門、飯田雅楽助、河西善十郎、山下彌右衛門、阿部又六郎、野呂瀬右近、以上は跡部大炊助同心である。

窪田平左衛門、同姓作右衛門、常田次左衛門、渋江藤七郎、中島勘三郎、金治惣右衛門、古屋八兵衛、同姓民部、竹井織部、樋田五郎右衛門、西川新兵衛、以上は駒井右京進同心の士である。

荻野宮内助、橘田亦左衛門、塚越彌三郎、井口輿兵衛、大蔵角左衛門、坪内善之丞、穂坂清九郎、遠藤四郎兵衛、深澤清三郎、清水又兵衛、同姓庄右衛門、折井織部、飯室次郎兵衛、加々美六左衛門、市川清兵衛、長坂右近、村松勘五郎、岩下市左衛門、中島左近、同姓宮内助、石原二郎三、若見兵助、古屋惣左衛門、以上が跡部九郎右衛門同心である。

釜場彌八郎、五味四郎右衛門、竹川監物、羽中四郎右衛門、田邉新兵衛、太田平左衛門、森出雲、丸山治兵衛、三村清右衛門、朝比奈権右衛門、小林内臓助、辻次郎兵衛、以上が甘利同心である。

これらの人々はすべて領地をもらって、家康の世話になることになった。曲渡庄左衛門吉景は武川の武将に準じて、今福求馬は近臣となった。

〇先に亡くなった伊勢の国司の北畠黄門具教の弟具親は、この頃中国の毛利家に世話になって住んでいたが、密かに三七信孝の反逆のために南伊勢に来て、稲生雅楽助、安保大蔵、片山大炊助、山副などを誘って、五箇、六呂木、佐奈、大西、丹生、射沢の士を100人ほどを集め、北畠信雄の領内の多気郡野呂にある越前守元直の砦、五箇の篠山を修繕し、立て籠もり大河内辺を焼き払った。(これは朧月の晦日であった)

武徳編年集成 巻25 終(2017.4.9.)