巻36 天正18年4月~5月
天正18年(1590)
4月小
朔日 家康の魁の井伊直政は、小田原城へ攻め込んだ。
第1陣は松平周防が務め、佐野口から宮城野へ兵を動かして北条の軍を追い崩し、首を80あまり取った。一緒に行動した小笠原安芸信元の兵も首をいくつか取った。
榊原康政と同行した大須賀出羽守忠政、小笠原兵部大輔秀政、岡部内膳正長盛らが競い合って攻撃すると、宮城野、湯元、竹浦の城兵はすべて敗北して小田原城へ撤退した。本多彦次郎康重は天王口から攻め込んで活躍したが傷を負った。
近江の野洲郡から家康方として参戦した吉川源次郎廣末は、勢いに任せて無理に突撃したので火砲に当たって命を落とした。この一族の吉川半助(半兵衛好春の子)は兜首を取って、国宗の刀と永正祐定の小脇差をもらった。
〇東海の要路、伊豆の下田へは、秀吉の水軍、志摩の鳥羽城主、九鬼長門守嘉隆が、軍艦数10艘で攻め込んだ。この城には北条の家来、清水上野介正令と江戸摂津守朝忠が600人ほどで守っていたが、城を棄てて逃亡した。
家康の水軍の向井兵庫忠安は、田子の砦を攻撃して矢傷を負った。城主の山本信濃常任は逃亡した。本多作左衛門重次は阿蘭の砦を攻め抜き、梶原景宗と三浦五郎左衛門茂信は滅びた。
三好黄門秀次は、家康に続いて宮城野口へ向かうように秀吉は命じたが、先を急いで軍勢を箱根の山下へ行かせ駐屯させた。家康は村越茂助直吉を使いとして秀次の許へ送り、「秀吉から先鋒の命は自分が受けている。若いお前がこれを羨んで先に行きたいのはわかるが、夜になって敵の城の下に陣を張るのは兵法にかなっていない。早く兵を引いて箱根の中腹へ駐屯するように」と忠告した。秀次は血気盛んだったので、自分の思うようにならないのが不満だったが、家康の忠告に屈して秀吉の命令に従った。
〇この日、秀吉は、野洲の大関土佐守晴増に指令を発した。
2日 家康は箱根山に登って陣を張った。内藤彌次右衛門家長は金の操、半月の指し物を付けて、家来50騎と数100人の雑兵を率いていた。秀吉は遥かににその様子を見ていたが、あまりに格好がいいので使いを遣って彼の名前を尋ねさせた。家長は弓の腕の立つ武将で馬の上から弓を構えて返答をした。秀吉は感心して桐の紋のついた鳥銃30挺に狒々の緋の袋をかけて贈った。これから家長は家紋に桐を使い、鳥銃の袋にはすべて狒々の緋を付けた。
秀次など諸将は、山に勢ぞろいした。
秀吉は馬を進めて湯元の堂に登って家康など諸将へ酒をふるまい、秀次に盃を家康に献じさせた。秀吉は胴着を3着用意して、家康に好きなものを選ばせた。家康は1着を取り、秀吉の勧めに従ってもう一着を秀次に与えた。秀吉はすぐに秀次に「お前は徳川殿を手本とせよ」と述べ、更にもう一着は中村式部少輔一氏に与えて、山中城攻めの功績を褒めた。
3日 家康は兵を進めて小田原口へ配した。堀秀政らは日金越えから箱根の南方の険しい山に沿って、3日目にようやく小田原へ参戦した。
〇この日、秀吉は関八州の城を攻めるための指針を発表した。
1)地下人や百姓は速やかに自分の家にもどること。
2)兵はどのクラスの者でも百姓の家に立ち入ったり、そこで陣を張ったりしてはならない。
3)住民や百姓、自然物に対しては、みだりに悪事を働いたり盗んだりしてはならない。
4日 寄せ手は箱根山の東の山麓に勢ぞろいした。家康の御家人の今井と一色は海岸に集結した。
秀吉は「この大軍を秀忠に見せよ」と家康にいった。家康はすぐに駿府から秀忠を呼び寄せて、秀吉の陣へ連れてきた。その途中では戸田備後守重之が秀忠に鎧を着せ、大久保新十郎忠常(七郎右衛門忠世の孫で相模守忠隆の子、後の加賀守)当時21歳が伴をした。秀吉は小さな鎧を持ってこさせ、自分で着せ替えた。そして「自分にあやかって強くなれ」といった。
内藤三左衛門信成は、甲州常光寺の砦から参戦した。秀吉は遥かにこれを見て家康に名前を尋ねた。家康は、「あれは自分の家来だ」と答えると、「名前が知りたい」と本人を呼んで、青江の刀と陣羽織を自らの手で与えた。
5日 上州松枝の城主、大道寺駿河守政繁は、息子の新四郎政貞とともに利家、景勝に城を開け渡し、寄せ手に加わって先鋒のメンバーになった。
今日秀吉は小田原城の攻め口を決めた。
伊豆の韮山城の外郭は、破ったものの落とせず城兵が守りを固めているので、福島と蜂須賀などが砦を遠巻きにして柵を建て、通路を遮断した。
尾張、内府、信雄、蒲生、細川、稲葉を小田原口に配置し、特に細川には「自分は備前早川口の松山が見晴らしがいいので陣所にしようと思ったが、お前のために開けておいた。早く行って陣を張って戦え」と命じた。忠興は喜んで土俵や竹束をもって行き、早川口に備えを置いて松山を本陣とした。
秀吉は関東の城と小田原との通路を遮断するために、家康の家来から選りすぐりの武将を選んであちらこちらに配し、出入りするものを捕えて本陣へ連れてくるように命じた。
榊原康政からは鈴木藤九郎、伊藤雁助(2代目)、前島庄左衛門、江坂次郎太夫、同四方之助が、又、大須賀忠政からも人が出て「かまり」とした。(兵を森や蘆の深い原に伏せておくことを、当時のことばで「かまり」という)
下総の住人、山岸主税助は、城内で大須賀の家来に包囲された。山岸は彼らを切り殺して馬で駆け抜けるとき、前島庄左衛門が駆けてきて交戦した。山岸は太刀を抜いて片手打ちで切り払い、藤九郎は7か所傷を負いながらもなお斬り合った。そこを伊藤雁助が槍で突いて首を取ろうとした。山岸は、「あちらこちらの伏兵と戦ったので疲れているので早く首を取れ」といって刀を放り出したので、雁助は主税を生け捕りにして秀吉に献じた。
秀吉は雁助に感謝状を与えたうえ、山岸を助けて小田原の城内へ行って火を放つように密かに城へ行かせた。しかし、城では不審に思って山岸を牢に入れた。この秋、小田原と和睦し手城を開け渡したとき、彼は牢から出された時に、「故郷に帰って最後には榊原康政の新しい領地、上州舘林に行って仕えたい」と申し出たので、康政も彼の勇気にほだされて禄を与えたという。
6日 秀吉は箱根と小田原の間にある湯元の南方の山に登って、家康と信雄を招き、榊原に印章を与え、家来たちの健闘を褒めた。
8日 細川忠興隊は昨夜、先隊と馬周りが争って堀際まで6,7間ほどのところに塹壕を作った。秀吉は「向こうの大きな松のそばに立っている旗は城兵が出てきて立てたのか」と尋ねた。大谷刑部少輔は「昨夜細川忠興が決死の覚悟で指揮して、至近距離に塹壕を作ったのだ」と答えた。秀吉は手をたたいて「越中守の塹壕は天下一品だ」と答えたという。
〇細川家の説によれば、ある夜忠興の隊は夜討ちに会った。しかし夜の番兵が堅く守って首を3個取ったという。
〇今夜、城の中から皆川山城守廣熈が100騎をつれて家康の陣を尋ねて秀吉に降伏した。彼は前から密かに秀吉に贈り物をしていたので、秀吉は彼を受け入れて家康の配下とした。
9日 水軍の長曾我部土佐守元親と加藤左馬助嘉明は酒勾川の河口へ向かい、城の海側の櫓を大砲で打ち崩した。元親の家来、池六左衛門は18端帆の大黒丸という船に乗って指揮する様子を眺めて秀吉は感心し、きれいな服を6着与え青銅300貫を船頭の頭に贈った。
家康の諸軍は小田原城へ接近し、榊原康政は酒勾川を越えて城の傍まで竹の柵や塹壕を作った。阿部左馬助正吉は進み出て火砲に当たり傷を被った。
小田原城の中からは松田尾張憲秀が密かに使いを秀吉の陣所に送り、「この城の近くに石垣山という重要な場所があり笠掛山ともよばれている。ここからは城内を眼下に見渡せて寄せ手には便利だ。箱根山から木こりの道があるのでそれを使って本陣とすれば城内は困るだろう。時機を見て自分は裏切って城を落したい」と伝えた。
秀吉はその使いのいうことを確かめるために斥候を笠掛山に行かせて地理を調べさせると、松田のいう通りだった。そこで秀吉は湯本の眞覚寺に陣を敷いて人夫を笠掛山に登らせ、林を伐採し陣営を設けて櫓を作り、杉原紙で城郭の張りぼてを作ってから小田原の方に向う木を伐採した。この様子は城の中からよく見えるので城兵は仰天し、「秀吉は神ではないか、初めて東国へ来て要地を探り当て、一夜にして白壁まで作ってしまうとは」と驚いた。
秀吉はここに本陣を移して家康を呼んで小田原城を指さし、「北条はもう自分の足元にある。滅びるのも時間の問題だ、彼の領地の関八州はお前が治めてよい」といった。家康は厚く感謝した。
10日 大道寺駿河守政繁は嫡子新四郎政貞とともに利家と景勝の関東の道案内として先鋒として進んだ。大道寺の祖先は近江の出だが、北条早雲に従って伊豆へ移り、正成は最初の7人の家来の1人の4世である。関東に勢力を広げ10万石を領していた。彼は「戦いに参加せずに敵方に味方する」として世間では評判が悪かった。
11日 利家と景勝など北国勢は、大道寺を魁として武州比企郡松山城を包囲した。この城はその昔、太田道灌が築いた城で、扇谷上杉の長臣、上田左衛門太夫が改築し、難波弾正左衛門廣宗に守らせていた。それから数年は戦いの舞台になり、江戸への道筋の東には根小屋を備え、西は川で、険しい崖が屏風のように立っている堅固な城である。
しかし、天文15年7月20日の川越の夜戦の時、廣宗は燈明寺口の古井戸に落下して死去した。彼の養子、隼人は大森式部少輔實頼の嫡男だったが、彼もその戦いで戦死し、その後實頼の分家の難波が家を継いで、因幡憲次という名前で城主の上田上総介朝廣の家来となっていた。今回朝廣は小田原方として、難波田、毛呂八郎、山田伊賀直安、若林和泉直則、金子紀伊家基、木呂丹波友則、根岸主計定直、山田市兵衛、田中傳左衛門、羽生平四郎、森兵庫、長居市右衛門、小藤帯刀など200騎、男女2千300人で籠城していた。兵糧も十分で、攻めても数日はかかるというので、寄せ手は大道寺を城へ派遣して城を明け渡すように要請した。
上田は元は上杉の家来だったが、時の勢いで北条に属し、一旦信長の命令でその土地を治めた滝川にもついた。しかしこの時は、朝廣はしかたなくまた小田原方となっていた。しかし家来はみな土地の武将ばかりで、北条家の恩恵にも預からなかったので、ここで命を懸けて戦って命を捨てるのはよして和融することにした。
16日 利家は松山の城を受け取り、信州深志〈*松本)の城主、小笠原右近太夫貞慶の兵をこの城に配した。この城兵200騎余りは魁隊に加わった。(諸士の妻や子は三の丸に置いた)
19日 利家、景勝、畠山は木田の郷を経て鉢形の城主、北条安房氏邦の付属城の西山を襲撃し、城兵は敗れて鉢形へ逃げ込んだ。
日尾の城には諏訪部宗右衛門定吉の身内、根小屋の城には渡邊監物正と浅美伊賀信忠、田野の城には三上外記と安藤兵庫が籠っていたが、いずれも逃亡した。また、天神山と花熊の城も陥落した。
上杉景勝は大道寺新四郎と難波田らを道案内として、濱海道を経て南方大手から出発し、先隊の藤田能登信吉は八形城へ進軍して遠巻きにした。
毛利河内守秀頼と真田安房守父子は山田伊賀と木呂子丹波を道案内に、棒澤野から小前田を経て寄居山に駐屯し、荒川越しに火砲を発した。
前田利家は裏に回って大道寺駿河などを道案内に東から攻寄った。
城主の北条氏邦は小田原にいて、黒澤上野、井上参河、島村近江、簗瀬中務と花園修理、吉田源太左衛門、三上文右衛門、高橋平六、蒔田彦五郎、小園図書、秋山善九郎、金尾右馬助、藤田右衛門太郎、日野次郎三郎、寺尾彦三郎、大輪主殿、八木一族など330騎と地元の勢力2700人、猪俣能登範直の300余人が城には立てこもっていた。寄せ手はすぐには攻めず遠巻きにしていた。上州、厩橋の安中七郎太郎景茂は城を明け渡した。
21日 北条左衛門太夫氏勝が降伏した。そのわけは、氏勝は箱根の山中城が陥落して相模の甘縄の城へ帰ったが、氏直は粟田某を使いに行かせて「山中の陥落は北条家の運が悪かったので、おまえのせいではないので早く小田原へ合流するように」と伝えた。氏勝は地黄八幡の左衛門太夫網成の子で、2代目の武将の意地で今回山中で死ねなったことを恥じて小田原へは行かなかった。粟田は帰って「左金吾(*左衛門)は豊臣に降伏したが本心ではない」と述べたので、氏政と氏直は不審に思った。
秀吉は明敏な人で、去年家康と相談して氏勝を味方につけようと考えた。家康はもともと彼を知っていたので、そのことを本多忠勝に話した。忠勝は家来の都筑総左衛門秀綱と松下三郎左衛門を甘縄に派遣して、左衛門太夫の伯父の了達法師に接触し降伏を勧めた。しかし、氏勝は前に負けたことを悔いて「この城で死にたい」といって同意しなかった。それでも、3回目には家康の考えを納得して人質を出し、今日小田原に来て家康に面会した。その後、彼は笠掛山に登って秀吉に面会した。秀吉は厚くもてなし、都筑と松下の努力に感心し、家康にも「いい家来がいるな」と褒めた。
22日 武蔵の江戸城は遠山左衛門景政の居城である。景政は、伊豆との境の新庄の城を守り、今は小田原に立てこもっていた。弟の河村兵部は江戸城の留守番をしていた。しかし、別の弟遠山丹波直景と真田隠岐信尹が家康に通じて戸田三郎左衛門忠次を呼び込み、景政の兵を追い出し、江戸城を忠次に明け渡した。
26日 浅野長政と木村重茲は内心では利家や景勝のような武将の配下にいる限り目立った働きができないと思っていたところ、秀吉の軍監の森豊前守勝永と眞野豊後守頼包、また家康の援将、本多忠勝、酒井忠次、鳥居元忠、平岩親吉などが応援に来たので、非常に喜んで上野へ進軍し、箕輪の城を立て直し松平修理太夫康国の兵を入れ、和田(高崎の城ともいう)、板鼻、三蔵、布川、藤岡、大戸、五閑、碓井、那波、善山、上小泉などの城を陥落させた。
家康勢は武蔵の筑井の城を攻めた。鳥居元忠の組の犬塚又内は敵の隊長、長野牛之助を討ちとって元忠の隊へ首を与えた。この城には内藤大和守宣が藤岡の兵を分けて立てこもらせていたが結局降参した。
このように城を次々と落していったので味方になった城兵は合せると3万にまでになり、武蔵の木田の原に来た。そこで秀吉は、山崎志摩守と岡本下野守に浅野、木村などや家康の援軍は急いで利家、景勝と合体して武蔵の重要拠点である鉢形城を陥落させるように命じた。しかし、浅野と木村はもっと目立った働きをしようと利家と景勝の間へ割って入った。
今回の出陣に際して、本多豊後守、菅沼小大膳、牧野右馬允の3隊は、二の先にも脇後の備えにもエントリーされなかったので皆が不思議に思っていたが、今度本多、鳥居、酒井、平岩の4備を敵に向かわせた後に遊軍としてこの3隊が採用されたので、皆は疑問が晴れてほっとしたという。
29日 朝方、武蔵の鉢形城から先鋒の34、5の騎兵が2列に分かれて上杉景勝勢へ突撃してきた。それを見張りが連絡してきたので、直江山城守兼続と泉澤河内の隊が逆襲して、城兵を撃退し7,8町追撃して21騎を討ち取った。
同じころ前田利家の陣へも敵が乗り込んできたが、守りを怠っていたので二手から攻め込まれ、前田家の雑兵50人ほどが討ち取られ、敵はすぐに撤退した。これは猪俣の指揮によるという。
上杉軍の備えは7人の大将の内2人の分隊を戦闘を行う当番として、その内1人は昼の当番、もう1つの分隊は夜の当番として、順番に戦闘に参加した。このような備えの他に、それぞれの分隊に別動隊が付けられていて、この体制が厳格に守られどのような敵にも対応できるようになっていたので、この時もすぐに勝利を得た。実に甲州と越後の構えは戦い手本である。
〇上野の西牧の城には多目周防守長宗の従兵と大谷帯刀左衛門嘉信の400あまりが立て籠っていたが、松平修理太夫康国がこの城を攻め落とし、城兵など93人が討ち取られた。この成果を今日秀吉に報告し、秀吉は康国に感謝状を送った。
〇秀吉は、駿河の清見寺の梵鐘を伊豆の韮山の寄せ手に与えて時の鐘をつかせ、兵がさぼらないようにしようとした。今日、石川兵蔵、新庄庄三郎に清見寺の和尚に借用書を出して貸してもらうように命じた。
〇上野の佐野の辛澤山の城主、佐野小太郎宗綱は天正13年正月元日に戦死したが、子供がなくて家が途切れそうになった。そこで彼の長臣で、免取の城主、高瀬伊予(紀伊守の子)、奈良淵の城主、飯塚兵部、赤見の城主、赤見刑部などが連著して嘆願書を小田原へ送り、氏政の弟の右衛門佐氏忠に佐野家を継いでほしいと頼んだ。しかし、宗綱の叔父の天徳寺了伯は以前から佐竹右京大夫義重に通じていて、佐野家の一族か跡目を継ぐべきだと止めたが、老臣たちは応じなかったので氏忠が佐野家を継いだ。
その後、天徳寺は京都の黒谷(*北白川)に移って住んでいたが、秀吉は彼を今回の関東攻めの道案内に登用した。天徳寺はこのことをあらかじめ佐野家の家臣に漏らしていた。そして北条を裏切った大胡の城主、山上郷右衛門に佐野家の家臣たちの人質34名を取らせたので、北条へ人質を出したのは2人だけだった。
佐野家の人々は小田原に行き天徳寺についたものは100人程度だった。しかし、氏政父子は、天徳寺と山上藤七郎氏秀入道道及が秀吉の道案内をして小田原へ攻めてきた上、小田原にいた100人ほどの佐野家の家来たちが天徳寺の誘いに応じたので憤慨し、佐野に残って北条方について裏切らなかった家族たちを間違って小田原城の追手口で磔にしてしまった。そこで佐野に残っていた佐野の家来たちは皆天徳寺を迎えいれ、辛澤山の城を秀吉に渡すことに決めた。しかし、その時大貫越中だけが義を重んじて佐野の城を守った。天徳寺は佐野の家来を使って城を攻めさせると、大貫勢は力が足らずで防ぎきれず、「命は義より軽い」と大声で叫んで自殺した。そして天徳寺が佐野城を手に入れたという。
〇上野の金山城の城主、由良信濃守成繁(國繁の子、250騎)、弟で野洲、足利、桐生の城主、長尾但馬守顕長(250騎)、末の弟、渋川相模守義勝(100騎)の3人は北条系へ人質を出した。しかし、彼らの母親は非常な才人で勇気があることで知られていたが、彼女は北国から小田原を攻めていた上杉や前田へ援軍を派遣し、孫の新六郎定繁を連れて小田原の秀吉の陣まで来て、「由良国繁の後室が秀吉に会いに来た」とその理由を述べた。秀吉は喜んでさっそく面会し、「小田原が落ちた後には必ず定繁に領地を与える」と約束した。(実際北条が滅びてから由良兄弟は家や領地を没収されたが、定繁には常陸の夘宿5千石が与えられた)
5月大
3日 北条十郎氏房は、夜になって小田原城の持ち場から力丸藤右衛門を出して、寄せ手の蒲生飛騨守氏郷の陣へ火砲を撃った。夜半過ぎには廣澤兵庫守重信(初めは尾張、後には越前黄門秀康に仕えた)を大将に100人ほどの兵で、氏郷の陣へ夜討ちをかけようと、その先発隊50人が門からでてきた。氏郷の斥候の回り番の町野萬右衛門が通りかかって、弓を取って矢を激しく射てから撤退した。しかし、廣澤の後陣の50人は密かに前進して(*藤右衛門が)火砲を15挺ずつを引き取る場所に2段構えに布陣した。その時先陣は、氏郷と土方勘兵衛雄久の陣の陣の境の柵を破って、乗り入れるところだった。蒲生源左衛門郷喜と田丸中務少輔直昌、町野左近幸和が駆けつけて、ようやく防いだ。
氏郷の陣の一方の側には雑木林があり、深い谷に続いていた。彼は夜にここから敵が攻め込んでくると予想して防備を薄くしていた。はたして今夜敵がそこから乱入しようとした。氏郷は力の強い武将で、この時のために用意していた5mほどの長い槍で、柵の陰から乗り入れる敵を谷へ突き落した。しかし、続いてくる敵はそんなことはわからないので、次から次へとこの槍で突かれた。氏郷の傍には島村氏一がいた。そこへ門屋左衛門が走ってきて「暗い、何も見えん、味方はどこにいるか」といった。島村は大声で「親方は後ろにいる。早く来い」というと敵は退却してしまった。
蒲生の先隊の兵は、氏郷の前に出て敵を追撃した。廣澤の家来たちが2段に火砲を構え、待ち受けて放ってきたので味方は躊躇した。廣澤は槍で味方の兵をたたき返し、堀切の中に構えて氏郷と槍を合せた。さらに廣澤の組の安田大八、安納彦内など4人が突撃してきた。蒲生左文郷可、同五郎兵衛郷治、北川土佐、佃又右衛門が、氏郷と並んで槍を合せているところへ、「今夜の大将の廣澤兵庫だ」と名乗り出て来たので、氏郷はこれを撃とうとして飛び込んで突き倒した。武蔵の住人の富永孫左衛門重久の子の主膳重吉ともう一人が、氏郷の槍をたたき落とそうとした。そのとき左文は「城へ攻め込め」と大声で叫んだので、敵はついに城へ引き下がった。
氏郷は虎の口まで追ったが、門の扉が閉められ、城兵は火砲で撃ってきた。そこで氏郷はすぐに本陣へ帰った。陣へ帰って兜や鎧を見ると、鎧には胸板の下に4か所槍の傷があった。氏郷はいつも短い鎌槍をつかっているので、その他に5mの槍をどうして持てたのかと皆が怪しんだ。しかし、今晩の戦いで長い槍で殺された敵は30人ほどもいたという。
氏郷は今回の出陣の際して、故佐々内蔵助成政の三階笠の馬印を持たせてくれと秀吉に頼んだ。秀吉は「佐々は信長の家来として非常に勇猛な武将だった、氏郷も今度の戦いで手柄を上げたら、その馬印を使ってよい」と約束した。そこで氏郷は自分の姿を描いて、近江の日野の菩提寺に奉納して必勝を誓って出陣した。今夜の勝利によって秀吉は約束通り、その馬印を氏郷が使うことを許した。(この夜襲について、北条方はすでに和睦が終わっていたが、あまりに穏便に城を開けるのもどうかということで、7月初めに板橋口から蒲生の陣に向って、340人余の少数の雑兵で襲ったという。これが正しいかどうかは不明である)
〇利家と景勝は、武蔵の本庄、八幡山、東方、深谷などの城に軍勢を配したり、砦を受け取ったり人質を受け取ったりと大いに活躍した。
上州の名倉の城主、寺尾左馬助も降伏を希望したので、城を受け取るために信州佐久、小縣の郡の主、松平修理太夫康国(本氏は依田)が総社に駐屯した。長根の城主、長根縫殿助(本氏は小林)は康国に降伏して陣所に来た。
徳川の本多三彌正重は、一向宗の一揆の時に一揆衆方に加わり、結局近江へ逃亡して蒲生氏康の家来となった。今は前田利家について総社から16町離れて陣を張ったが、家来が喧嘩をはじめて騒動になった。そこで康国の弟の新六郎康貞が、そこへ行こうとして馬と従者を呼んだ。ところが長根は自分が殺されるのかと恐れて、康国の陣へ手紙を書いて、康国がいるのを確かめてから康国に切りつけた。康国も脇差を抜いて長根を突いたが、傷が重くてその場で死亡した。そこへ康国の伯父の依田善九郎が駆けつけて、縫殿助を討ち取り、新六郎は長根の従者たちと交戦して、10人ほどを斬り殺し家康に報告した。
10日 家康は、松平康国の遺領を弟の康禎に継がせ、その勇気を褒めた。
15日 家康の家来たちは、小田原の城内の築地に駐屯した。
〇秀吉は小田原城がなかなか落ちないのを見て、尾張の清州城を守っている小早川左衛門督隆景を呼んで、「お前の亡くなった父元就はこのような堅固な城はどのように攻め滅ぼしたのか」と尋ねた。隆景は「尼子晴久の出雲の富田城を7年間飽きることなく遠巻きにして悠々としていた。そして、まずは今様の小歌、次に踊り、次に猿楽能を催して、敵の心をかく乱し、結局落城させた。この城も同様にすれば必ず落とせる」と答えた。
秀吉はいたく感心して、まずは今様の小歌で陣中の退屈さを慰めるように命じた。更に、陣中に数寄屋を建てて、自分で茶をたて家康をもてなした。長岡二伯法印幽斎と大村由巳法橋が同席した。この時「橋立の臺」「玉堂の陶器」などを使った。また、信雄を主客として、細川忠興、蒲生氏郷、羽柴下野守勝雅を同席させた。更にあるときは、各陣へ千利休を招いて茶会をしたり、ある時は謡曲や歌舞を催したりして、兵たちの憂さを晴らそうとした。
城からはるかにこの様子をみた城兵たちは大そう驚き、「寄せ手は兵糧も間断なく運び込まれているし、この様子では何か月も退屈もせず長陣を覚悟しているのは確かだ」とため息をついたという。
〇大友豊後侍従義統は、今度の東国攻めには参加していないが、30騎あまりで小田原を訪れた。秀吉は遠路はるばる訪ねて来たことを喜んで、「鎌倉はお前の先祖の地だから、この機会にまずはその地を見物するように」といった。義統はありがたく鎌倉見物をしたという。
武徳編年集成 巻36 終(2017.4.27.)
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