巻47 慶長5年8月~9月 関ヶ原の戦
慶長5年(1600)
8月小
朔日 家康が小山から江戸へ軍勢を戻そうとすると、洪水のために利根川の栗橋の舟橋が流されたので、乙女河岸から戸川通りを経て、船で帰還した。
〇一説によれば、加賀谷重経が謀反を起こしたという連絡が入ったので、急遽船で帰ることになり、先月28日に小山と古川の間の乙女河岸から船に乗って、意識的に栗橋の舟橋を切った。そのために後続の将兵たちは訳が分からず困惑して、わずか4隻の船を探し求めて何とか渡った。家康は、今日江戸城へ戻って諸臣に、「裏切り者が出たので栗橋の舟橋をたち切ったのだ」と話した。それでみんなは納得したという。しかし、この話の真偽はわからない。
〇別の話によれば、秀忠が宇都宮にいるときに、依田右衛門太夫信蕃(初めは幸氏)の一族の四郎左衛門信次を呼び出して、上野の藤岡に領地を与え、信玄時代と同様に軽率の隊長にして、本多正信の部下にした。この人は、一族とともに天正10年に甲陽の古城で徳川家と戦って、活躍した優れた武将だったからである。
〇同じ日、伏見城が遂に陥落した。城将の鳥居元忠は必死に防戦したが、紀州の鈴木孫三郎重朝が元忠の首を取った。秀頼は報償として、白銀千枚を彼に与えた。
深尾清十郎元春と岩間兵庫助だけが降伏した。内藤家長、松平家忠、同近正、佐野肥後政信など雑卒に至るまで全員が戦死した。特に、宇治の上林竹庵(俗名は越前政重)は、騎兵13人と雑兵32人で太鼓丸を守って、茜染の鉢巻き、茶袋の指し物で戦ったが、戦死した。彼の首は鈴木孫三郎の舎弟の善八郎が取ったという。(孫三郎は紀州の雑賀の人で、初めは孫市)
3日 前田黄門利長は石田方の山口原蕃允宗永の加賀、大聖寺の城を落とした。石田方の棟梁大谷吉隆は、多数の軍勢で大阪を発ち、今日北国を攻撃するために、鯖江の宿に到着した。
4日 家康は江戸城へ帰還した。多賀谷修理太夫は先月から武蔵の府中に蟄居していたが、浅野長政に付いて家康に背かないと弁明した。家康は、2度御家人の竹尾四郎兵衛を浅野へ遣わせた。その理由は誰にもわからない。
〇この日、越前の大野城で参議従3位平朝臣秀雄が享年28歳で死去した。この人は織田前内大臣信雄の長男で、母は伊勢の国司、北畠具教入道不知齋の娘という。
10日 徳永法印は、美濃の松本の村を発って福島正則の100程の兵と合流して戦い、高州(*須)の敵城を落とし、城将の高木八郎兵衛守之は戦死した。
〇伊賀の太守、筒井定次が関東へ出撃し、異母兄弟の兄で和泉の式上郡の十市玄蕃達光を上野城の留守番としたが、達光は敵方へ回って、城を新庄駿河守直頼に渡した。
12日 小山で連判して、徳川に付いて関西へ進軍した大小名たちは、それぞれの人質を三河の吉田城に送った。仮の城代だったが、松平和泉守家乗が彼らを守護した。
〇美濃の岐阜中納言秀信は、遊興で財産をなくし、関ヶ原の戦いに出るのが遅れた。石田三成は彼をだまして秀頼方に付けた。今日三成は、こっそり岐阜城を訪れ、黄金100枚を差し入れた。秀信は金に困っていたので大喜びし、家来の木造左衛門佐具康の止めるのも聴かず、石田方に付いた。後で黄金をよく見ると、その頃石田が密かに佐和山で、職人浮貝庄助に作らせていた贋金だった。石田との約束もこのような偽物だろうと、家来たちは残念がった。
13日 山村と千村からの急ぎの連絡が来て、木曽が全て徳川の支配下になったと報告された。家康は喜んで更に東美濃の岩村などの城を攻撃するために、遠山久兵衛友政、小笠原靱負信清、下條兵庫知久、座光寺今泉五介などを、援軍として木曽へ向かうように命じた。
19日 家康の使者の村越茂助直吉が、尾張の青洲城へ行き、諸将へ密命を伝えた。
石田など多数の軍勢が、美濃の大垣の城に駐留し、岐阜の城を援護していた。家康勢は諸将が作戦を凝らし、岐阜城を攻め滅ぼすことに決定した。
22日 家康軍の大小名達は2手に分かれて攻撃した。裏側からは池田や一柳などが攻め、川に沿って岐阜から出て来た百々と木造勢を討ち破った。大手の荻原の渡りから馬筏を組んで、福島隊などが太郎堤に進軍し、夜遅くに岐阜城下の桑木原へ攻め込み、夜明け前にバリゲートを破って、町口の門まで詰め寄った。
23日 寄せ手は城の表と裏から柵を破り、また岐阜城の出城の端龍寺と獄稲葉山を落とし、岐阜城も陥落させた。
木造の申し出を認めて、城将の秀信を城下へ移し、秀信は結局断髪して高野山へ赴いた。しかし、石田三成は、岐阜城の援軍を大垣から送り出し、魁隊は河戸堤まで攻めてきた。家康軍の黒田や藤堂などは彼らと交戦して大勝した。彼らの先頭は田中吉政だったという。
24日 秀忠は木曽経由で関西へ進軍するために、3万余りの軍勢で宇都宮の城から出発した。結城秀康が4、5騎兵で出迎え、秀忠に会って密命を受けたという。
〇下旬、美濃の赤坂に陣を張っていた諸将が、掟書きを(*江戸にいる)家康へ提出して、岐阜城が落ちたことを報告した。長松の城主が城を明け渡したので、家康軍は番兵を入れた。
〇丹後の田辺城の城主、細川玄旨は、家康に迫られて寄せ手と和睦し城を明け渡した。
〇伊勢の安濃津城が石田方に取られた。城将の富田や援将の分部らは、一身田へ退却した。
この頃は至る所で戦いが起きて、城の奪い合いがない日はなかった。九州でも加藤清正は肥後の宇土の城を攻撃し、黒田如水は豊後の敵城を攻めた。
9月大
朔日 家康は、石田勢を撃退するために江戸を発ち、神奈川の駅に着いた。秀忠は栃木の三の倉から信州の軽井沢まで進み泊った。
2日 家康は相模の藤澤の駅へ、秀忠は信州の小諸に着いた。秀忠は2日滞在することにしたという。
5日 家康は駿河の清見寺に着いた。秀忠は信州の染屋に着いた。
石田方の真田昌幸は、上田城に立て籠もっていた。二男の幸村は伊勢崎の城を守っていた。家臣の根津志摩守幸直は砥石城を、池田出雲は冠者が嶺の砦で、秀忠の進軍を遮ろうとした。
秀忠の先発隊の真田信幸、石川玄蕃頭康長、菅沼忠七郎忠政が伊勢崎の城を攻撃すると、幸村は防ぎきれず上田へ撤退した。砥石城も陥落した。
上田の枝城の丸子の砦を、高力左近忠房が対応し、冠者が嶺の砦には、石川玄蕃と日野根徳太郎吉重が駆けつけた。城からは池田出雲が抗戦して、秀忠方は敗北した。これは石川の戦略がまずかったからである。
7日 秀忠は信州上田の城外まで進軍した。城将の幸村が抗戦した。秀忠の家来の7本槍が活躍したのはこの時である。
9日 家康は三河の岡崎城へ入った。この城は北条左衛門太夫氏勝が暫定的に守っていたが、ここで尾張の犬山城へ移って守るように命じられた。これは犬山城が明け渡され、美濃の郡上城主、稲葉右京亮貞通も味方になったからである。その他、長松や福束など濃尾の小さな砦は、すべて家康方に落とされたという。
12日 秀忠は信州の小諸から、長嶺へ着いた。上田の昌幸に対抗させる軍勢を配置した
13日 家康は、岐阜城の焼け跡に着いた。秀忠は信州の梶が原に到着した。
〇ある話によれば、黒田長政はいろいろ考えて家康に「畿内で一向宗の僧侶に頼んで檀家を立ち上がらせると、石田勢は敗北するのではないか」と提案した。家康は「お前のいうのは尤もだ。いいことをいってくれて嬉しい。しかし、自分は今武力で天下を掌握しようとしているので、石田のような鼠野郎を退治するのに、僧徒の力を借りたりはしないよ」と答えた。長政は頭を下げて引き下がった。
14日 家康は木田席田道から、昼頃に赤坂に到着した。この山あたり30町に、味方の諸将が陣を張った。
夜に入って大垣から石田と浮田の軍勢が、杭瀬川辺りまで出て来た。中村一學の兵50騎ほどがそこへ駆けつけた。家康は遠見櫓から様子を眺めていた。家康は「中村は非常に優れた武将だし、従兵もみな場数を踏んでいるので、今の攻め方だと一旦わざと引いているが、今度攻めると勝だろうな。特に先頭の士は老巧にみえる」と落ち着いて見続けた。
やがて杭瀬の堤を越えて味方が進むと、敵方の島左近三宗と柏原彦右衛門が雑兵140~150の率いながら火砲を発して引き取った。中村勢は雑兵200余りで追撃した。しかし、家康は非常に気色ばんで「これでは1人も生きて帰れないなあ」とため息をついた。実際、中村右近は敵将の木村喜左衛門に殺され、その他多くが死傷して敗北した。
「石田は浮田や小西などと相談した結果、自分たちは関が原へ移り、その辺りに陣を張っている数万の軍勢と合流して勝敗を決するために、夜中に暴風を凌いで、大垣から関が原へ行くことを決めた」という知らせが届いた。
家康は落ち着いていて、明日の朝に関が原で彼らを滅ぼすために、諸軍は順に徹夜で彼らを追って関が原へ向かうようにと命じた。そして久世三四郎廣宣と坂部三十郎廣勝を呼んで、席田郡、芝原の北方にいる安藤伊賀守範俊の領地までに13段に備えて、長久手の時のように2町、3町ごとに配置するように命じた。
今日、秀忠は信州の下諏訪に泊ったという。
15日 家康の大軍は関が原へ臨み、井伊直政と関などや、福島の先発隊などが奮戦してまだ勝敗が決まらないとき、石田方の金吾(*小早川)秀秋が裏切ったという。
〇ある話によれば、下野守忠吉は、井伊直政の婿で、以前直政が忠吉の隊を訪れた時に、忠吉の乗っている馬が暴れ馬だったので、彼はすぐに傍に付いていた富永三右衛門と小笠原三郎右衛門忠重(後の和泉)を叱って、「この馬は沛艾(*はいがい:暴れ馬)だから非常に危険だ。お前たちはいろいろ手柄を上げてきたといっても、この馬は扱えない。ちょうど自分はうまい馬を持っているのであげよう」といって、牛のように動じない馬を連れて来て与えた。直政は忠吉を連れて先に出ようとすると、富永と小笠原は「大将がいないと戦いができない、何処へ行かれるのか」と尋ねた。直政は「少し思うことがあって、家康の命を受けて先鋒へ行くところだ。お前たちのような歴戦の勇士に守られているのだから、大将の代わりに全軍を指揮すべきだ」と忠吉を連れて戦いを始めた。すると島津の陣から、朱色の具足を着て白布で鉢巻をし栗毛の馬に鞭を打って1町ほど離れたところから攻めてきた武将がいた。忠吉はこれをめがけて駆けていき名を名乗ると、相手は馬を降りた。彼は松浦兵衛だった。忠吉も馬を降りて刀で斬り合った。忠吉は左手の指の根元に相手の刀が当たって傷を負ったが、備前の兼光の刀ですぐに相手を切り伏せた。冑の左の耳にも相手の太刀が当たったが肌には届かなかった。忠吉には、島澤九兵衛と阿知波角右衛門が付いていたが、忠吉は刀を角右衛門に渡して傷口を包んだ。その間に島澤は松浦の首を取った。
〇本多忠勝は猛勇を揮った。秀吉の家来だった諸侯も、今回は家康の家来となって初めての戦いなので大きな手柄を上げようと活躍した結果、とうとう石田勢は敗北した。
大谷吉隆は自殺した。浮田秀家と石田三成、小西行長は逃げて、行方不明となった。家康方は3万5千370余りの首を取ったという。
〇ある話では、島津義弘は負けたが、残兵を2手に分けて川上左京と同四郎兵衛は伊勢路へ向かい多羅山の方へ逃亡した。義弘父子は山道から山中筋を撤退した。井伊直政は父子を追ったが、沼越の火砲に当たって右腕のひじより上にけがを負った。戦いが終わって彼は右の腕を靱の車皮(*?)にひっかけて、家康に会ったというのは本当だという。
〇家康は戦況が勝ちに転じたころに、関が原へ移った。戦いが終えてからは山中宿で駐屯した。
秀忠は信州の本山に泊った。
〇ある話では、三河の吉田の城主、牧野左衛門佐成時の子、田蔵成三は、昔清康のために戦死した。彼の孫の田蔵成里は尾張に住んでいたが、16歳の時のこと、父の田蔵成継の復讐として、三河の室崎の城主の石川筑後守の子で非常に強かった隼人が、大勢で一緒に城外で放鷹をして遊んでいるときに、彼1人で隼人を討ち取った。
付近に潜んで来た家来たちが駆けて来て、護衛しながらその場から離れ、瀧川一益の200人の兵にも助けてもらって長島へ行った。
しばらく滝川一益の世話になり、長谷川秀一の妹が成里の妻でもあるので、秀一の家来にもなっていた。朝鮮遠征中に秀一が死んだが、秀吉の耳に成里が非常に勇敢な武将だということが聞こえていたので、秀吉は成里に秀一の兵を指揮させた。
朝鮮から帰ったのちは、関白秀次の家来となり2万石をもらった。しかし、秀次が自殺して成理が失職すると、石田三成に付いて復帰を求めた。しかし、秀吉が死亡した後、石田は彼が勇猛なので秀頼の家来にさせるのを好まなかった。しかし、今度の戦いでは、秀頼の援兵だとして三成は彼を自分の隊に取り込んだ。
この話が関東へ伝わったので、家康は密使を送って数回家康方に付かないかと勧めた。しかし、彼は二股をかけているといわれるのを恐れて、断った。今度の戦いが終わろうとするとき、成里は討ち死にしようとした。これは彼が三成に応じたことを後悔したからである。
このことを家康は事前に知り、池田三左衛門(*輝政)に密かに連絡すると、三左衛門の老臣は荒尾但馬守を派遣して、成里の生死を調べさせた。幸いなことに彼は成里を見つけ出し、死ぬのを制止させ連れて帰った。輝政は非常に喜んで、荒尾から家康に仔細を報告した。家康は今回の石田の敗軍の中で、成里が兵を連れ矢砲を携えて踏みとどまって活躍したことに感心して、荒尾を帰し成里を家来にするまで、一時輝政の許で養うように命じた。
家康は成里の異母兄弟の弟の牧野清兵衛を呼んで、「お前は長らく兄に会っていないだろう。早く行って再会して、自分の希望を伝えるように」といわれ、彼は急いで駆けつけたという。家康は敵の武将たちをもこのように大切に扱った。(その後家康の家来となって、5位になり伊予守となったのは、この成里である)
16日 家康は佐和山城の南の野原に進んで陣を張った。井伊直政に命じて、石田を裏切った金吾秀秋、脇坂、朽木などに城を攻めさせた。
家康勢は大垣城も攻撃した。
秀忠は、今晩木曽福島の山村入道道祐の宅に着いたとき、妻児城を守っていた道祐の子甚兵衛良勝と千村兵右衛門良重らが会いに来た。秀忠は木曽の山中を徳川勢によって支配した功績を褒めた。(良勝には金熨斗の甘利の刀を贈った)
17日 佐和山城が陥落して、三成の一族は全て殺された。
秀忠は今夕、妻児城へ着いた。そこで関ヶ原で敵が敗れたことを知らされた。
18日 家康は佐和山から5里18町西の八幡山に着いた。小西行長が捕らえられた。
秀忠は可児の大寺に着いた。
19日 家康は5里18町を進んで、草津へ到着した。そこへ勅使が来て、公卿や僧侶が戦勝を祝した。
家康は今度の戦いで特に貢献した福島、池田、浅野を京都へ呼び、彼らが今後御所や大政所を守り、街を取り締まることを京の街に布告させた。
大垣城も落とされ、松平周防守康重が城を守った。その後、相坂の新しい関所で、伊奈図書今成の家来が通行人を検査したが、福島正則の使節を間違って殴った。
秀忠は今日美濃の赤坂に到着した。
20日 家康は7里5町を経て、園城寺に本陣を置いた。奥平美作守信昌を京都所司代に推薦し、加藤喜左衛門正次、大久保兵衛長安を副えた。これまでは徳善院玄以を所司として、代行を丹波の住人の松田勝右衛門と小池庄左衛門某が努めていた。今回、松田、小池を奥平の配下の役人として禄を与えた。
福島左金吾は、今回の大活躍を誇りとした。もともと豪傑の気性の武将だったので、昨日伊奈の同心が法を犯していることを家康に激しく訴え、ついに伊那図書は殺された。
前田利家長は大津まで到着した。彼に任された北国の諸将は皆彼に従った。家康は特に利長の協力に感謝した。
田中吉政が反乱軍の頭目石田三成を捕えた。
秀忠は、近江の高宮の駅に到着した。
〇この日、奥州の南部領の和賀郡二子で、先に滅びた和賀主馬忠親が、伊達政宗の密書によって一揆を起こし、南部信濃守利直の家来、北松齋信愛が守っている花巻城を夜討ちした。
北松齋は優れた勇士で、わずか100人ほどで奮戦して、中島才兵衛(15歳)、岩間次郎助(16歳)が最初に攻めてきた敵を討ち捕え、和賀は勝てずに撤退した。
自分(*高敦)は『武徳安民記』を編集して再三校正したのちに、『南部伝書』から和賀の一揆の詳細を知ったのでここに記した。
21日 家康が先発隊を大阪へ向かわせるという知らせに、大阪城の毛利輝元と増田は、井伊直政の河内の葛葉の陣へ使節を送って降伏を申し出た。
秀忠は高宮より草津の駅に着いた。大津から家来が迎いに出た。
秀忠は草津から3里8町を経て、三井寺に向った。しかし、彼が真田の小さな砦を攻めて日を費やしたために、関ヶ原の戦いに参加できなかったことに家康は憤慨して秀忠に会わなかったので、秀忠は草津へ引き返した。
本多上野介正純は、「これは馬鹿な父の正信らのためであって秀忠に非はない」と家康に何度も訴えた。秀忠は正純のこの時の貢献によって、禄を大幅に増やしたので、彼の勢力も大きくなり、贅沢が極まって結局は没落することになった。
〇この日、奥州の上館の鹿鼻で、和賀忠規が南部方の花巻勢と戦い、又成田八森にても防戦したが勝てずに、二子へ撤退したが結局敗退した。
22日 奥州の和賀主馬忠親は、昨日二子の陣が落とされたので、岩崎彌右衛門の岩崎城へ逃れてしばらく疲れを癒した。伊達家の白石右衛門宗玄から、精米5石と弾薬2荷が贈られた。
そもそも忠親は幼名が又四郎といい、和賀郡二子の城主薩摩義治の3男である。天正19年の奥州の一揆の頭目の稗貫又次郎廣忠も、実は義治の次男である。一揆の際には忠親も兄とともに一揆を主導し、次男が滅ぼされたのちは、政宗について岩出山に行き、親族の柏山中務の領内の、伊澤の大森に蟄居していた。
去年家康は会津へ出撃するときに、政宗の領内を巡視したが、その時大森で忠親に対面して「南部氏の大形は景勝が支配すべきだ。お前は知り合いを集めて、本来の領土である和賀を奪い取って秀忠のために働くべきである。まず南部の要城である花巻を落とせ」と命じた。忠親は歓んで南部信濃守が最上へ援兵として出たすきに乗じて、和賀を奪い取った。
政宗はさっそく南部の家来の江刺美作の東境新掘の城を軍を進め、故大迫の子又三郎又左衛門方へも猪倉伯耆を援軍として送って、南部の家来の田中藤右衛門の大迫城を夜に乗っ取った。ところが和賀主馬は二子で敗北し、城を落とされて岩崎へ来たので、白石右衛門が上のように精米と弾薬を送ったわけである。
23日 石田三成が囚われて三井寺の家康の陣へ連れて来られ、すぐに獄に入れられた。京都で安国寺も囚われた。
福島、池田、浅野などが大阪へ向かって出陣した。井伊と本多が監軍だった。家康は秀忠に会った。家康は秀忠に大阪へ来るように命じた。
京極高次は、高野山へ行く途中で引き返し家康に会った。家康は籠城の苦労をねぎらい、「15日まで大津の城を守り切れず、敵に明け渡したのは残念だ」といった。
24日 秀忠は醍醐へ着いた。
毛利黄門輝元は、大阪城の二の丸を逃れて木津の砦に退いた。これは後に降伏して許しを請うためである。
25日 増田長盛は大阪城を出て、高野山へ赴いた。
26日 家康は園城寺を発って、狼越えから伏見へ赴いた。秀忠は道に出迎え面会した。家康は淀の古い城で泊った。
〇『樋口家傳』によれば、石見守知秀は、秀吉に非常に可愛がられ山城の120石、摂津の天川村700石を領地として近郊の租税を掌握していたが、ちょうど病気だったが、山科へ出かけて家康に面会したという。
27日 家康と秀忠が大阪に着いた。伏見の城が焼失したので、新しく造営するまでは大阪城の西の丸に住んだ。
28日 家康は今回の戦いは、石田らが企てたので秀頼が気にする必要はないとしたので、世間は安心した。
〇伝えられていることによれば、大阪城の西の丸で家康は、自分の後継者を、秀忠、結城秀康、下野守忠吉の何れに決めるべきかと、大久保相模守忠隣に尋ねた。大久保は「秀忠が良い。その理由は今まで一つも失敗をしていないからだ」と答えた。
後日、家康は井伊、本多、榊原、平岩、大久保、本多正信を集めてもう一度尋ねた。そこで6人は退席して相談したところ、正信は三河守秀康が最も強力なので、後継者にふさわしいと述べた。直政、忠勝、康政、親吉もそれぞれ見解を述べた。
忠隣は「3人共に家康の子であり、武術については論じる必要はない。秀忠は智と勇を兼ね備えて徳もあるのでふさわしい」と述べた。康政も同じ意見だった。そこで6人は家康の前に出ると、家康は前もって正信の意見を聴いた。正信は前と同様に秀康がふさわしいと答えた。しかし忠隣が秀忠の方がよいと進言すると、家康は俄かに機嫌か変わった。正信と忠隣は何度も意見をいい合った。
忠隣は「国を平定するときは武力が重要であるが、天下を治めるとなると、文武が兼ね備わっていないとできない。自分が家康の命を受けて秀忠に仕えている上は、領地の配分に関しては贔負偏頗(*ひいきへんぱ:えこひいき)するだろうが、国をすべて委託する日に及んでは、えこひいきはできない。彼を推薦するのは、徳川家の将来の事を考えてのことで、私心などありえない」と、宣誓書を家康に渡した。
家康は「皆は退席するように、自分でよく考えたい」と述べた。一両日後、家康はもう一度6人を呼んで「自分は忠隣の意見に従って、秀忠を後継者として政を任す」と結論を出した。忠隣がこのように家康に進言したことを秀忠は知らなかったので、後年彼は、忠隣よりむしろ本多父子を厚遇したという。
武徳編年集成 巻47 終(2017.5.6.)
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