巻50 慶長8年正月~慶長9年12月
慶長8年(1603)
正月
朔日 諸侯は大阪城の本城へ集まり、秀頼に新年の挨拶をした。その後大阪を発って午後に伏見の自宅へ戻った。
2日 諸侯は伏見城を訪れ、家康に新年の挨拶をした。
15日 松下石見守重綱は、遠州の久野城から常陸の筑波郡古張村1万石へ移った。伊勢の3千石は今まで通りである。久野の7千石は、久野三郎左衛門宗能入道に与えられた。先に宗能が引退した後は、長男の民部大輔宗貞が殺傷事件を起こして死亡したので、領地を没収された。
宗能入道宗安は、1千石を受けて今まで蟄居していたが、もう一度家を建て直して、二男の丹波守宗俊が相続し、宗俊は後年 参議頼宣卿の家来となった。
28日 甲斐の五郎太丸義利(後の義直)の家来の平岩主計頭親吉は、家康の古くからの功臣だった。彼には跡取りがいなかったので、家康は息子の仙千代を嗣子としたが、仙千代が間もなく早世したので、義利の父代りとして元のように甲府の6万石をもらって城に住んだ。
〇今月島津少将忠恒が、休暇を取って薩摩へ帰った。
2月大
3日 家康は伏見から大阪城の西の丸へ着いた。
4日 家康は本城を訪れ、秀頼と淀君に面会した。
5日 伏見城へ帰った。
6日 上総介忠輝(18才)が上、総の佐倉から転じて信州の川中島14万石をもらった。皆川山城守廣照は上野の長沼(53の村)と信州の飯山4万石を領地として、忠輝の家来となった。(これは14万石とは別である)また、長澤の松平一族などが家来となった。
森右近太夫忠政は、川中島から転じて美作の一円をもらった。美作守と改めた。
家康の外孫の池田藤松(5歳で輝政の次男)は、備前の一円をもらった。後の松平左衛門忠継である。彼の父の輝政は、早速藤松を連れて伏見を訪れ、家康に謁見した。家康は吉光の脇差を藤松に与えた。
〇『武徳大成』には、正月25日に義利を甲斐の国主とし、池田藤松を備前の国主とし、2月6日に森忠政に美作を与えたとある。
12日 家康は右大臣に転任し、征夷大将軍となった。浄和弉學両院別当源氏長者右馬寮監を兼任して、兵杖を聴いた(*?)廣橋権大納言兼観修寺参議光豊が伏見に来て、天皇の命令を伝えた。また、宮務外記が、位記と宣旨一通ずつを箱に入れて差し出した。
長井右近太夫直勝は、武勇も態度も申し分ない人だから、それを受け取らせた。箱を返却する際には、砂金を箱に1袋ずつを入れて、宮務外記に与えた。
告使が庭に出て、家康に向って「昇進」と叫ぶと、廣橋勧修寺を武家傳奏に指名して饗宴を催した。七五三の金銀の膳が出て、その時には三寶院門跡興意が伴食をした。
越前少将秀康朝臣参議が従3位になった。播磨の侍従池田輝政が右少将になった。加藤肥後守清正、田中筑後守吉政、堀尾信濃守忠氏が従4位下となった。その他従5位下になったのは、板倉四郎右衛門勝重(伊賀の守)、松平長三郎正久(右衛門太夫正綱)、松平五左衛門正吉(若狭守)、山口勘兵衛直友(但馬守)、松平傳三郎重勝(大隅守)、赤井五郎作忠泰(豊後守、兵庫頭伊勝)、三好久三郎可政(越後守)である。
16日 上杉中納言景勝の妻、菊の御前が死去した。彼女の父は武田大膳晴信(入道信玄)、母は油川刑部信守の娘で、晴信が死去した後兄の勝頼は景勝に嫁がせた。(菊が亡くなった後、景勝は藪参議秀継の娘を妻にした)
21日 家康は京都へ赴いた。
この頃に井伊直孝(14歳)が家康に謁見し、秀忠に仕えた。この人は兵部少輔直政の落胤で、民間で育ったという。彼は後の左中将掃部頭である。
〇『本郷家伝』によれば、この時庄右衛門勝吉は、家康の命令を受けて奏者役となった。これは祖父の治部少輔信宣(後の美作守)が、光源院義輝将軍の申次役を務めて、室町幕府の古いしきたりを受け継いでいるからである。
〇伝わるところによれば、関が原以来、池田輝政の許に居候していた牧野傳蔵成里は、一向に輝政が自分を家康の御家人になるように推挙しないのを憤慨して、播州から伏見の輝政の館へ密かに訪れ、いろいろ申し述べた。輝政は驚いて「そうガタガタいわなくてよい、早く国へ帰れ。頃を見計らって意向を伝える」とのべたので、成里は了解した。
輝政はつらつら考えた末、家康は夜に世間話をするのが好きで、毎夜話し相手を呼んでは相手をさせていたので、傳蔵のことをそれとなく話題にしてもらい、その時を狙って自分が頼み込もうと考え、密かに話の相手の者に頼んでおいた。
ある夜の事、家康は三河や遠州での戦いの話をし始めた。最初はいつものように家康は相手と離れて座っているが、段々と興が乗ってくると、近臣たちをひざ元へ来させて、ふと牧野傳蔵と板倉四郎右衛門勝重の話をした。「その傳蔵は生きています」と近臣が話すと、家康はいろいろと話をし始め、皆はどうなることかとハラハラしていた。
輝政は次の間に控えていたが、こうなれば新たに自分がもらった備前国を追い出されてもいいから牧野のことを頼んでみようと、覚悟を決めた。すると、家康は「江戸から来た者はいないか」と尋ねた。近臣が「鵜殿兵庫守はどうか」と答えると、「その兵庫へ使いを出して、秀忠に掘り出しの者を1人を付けるように」と命じた。一同はほっとし、中でも輝政は次間から出て来て家康に会い、配慮に感謝した。家康は「傳蔵は優れた武将だ、生きているとは嬉しい」とのべた。輝政は「早速成里に会ってもらえないか」と頼んだ。家康は「自分は会うまでもない、早く江戸へ行かせて秀忠に会わせる様に、幸い明日酒井忠世と井伊直孝が江戸へ向かうので、成里も彼について行くように」と命じた。輝政は大喜びで次の間へ下がった。
すると近藤石見の関係者が輝政の袖を引いて、石見秀用の改易を解除してほしいと頼んだ。輝政は「自分が面倒を見ている牧野について、自分の国を賭けて頼みこみ苦労をしたのだ。自分は秀用に面識もないし、どうして家康にそんなことを頼むことなどできようか。もしそれで家康が気分を害したら、傳蔵の事も水の泡となる」といって承知しなかった。しかし、近藤の一族は引き下がらず、「今のように家康が機嫌のよい時はなかなかないし、自分たちも輝政のような家康に信頼の厚い人に会えることがないので、この際ぜひ頼んでみてほしいといった。輝政は仕方なく家康に事情を話すと、すぐに石見を許してくれた。(板倉勝重の母は、成里の祖父の傳三左衛門成三の外孫である)
そんなことで翌日成里は忠世について江戸へ向って、ようやく秀忠に会い、傳蔵の名前を復帰する約束と長袴をもらった。その後、彼は関東で3千石をもらって秀忠に仕えた。
〇近年松下關翠齋という者が妄作した『牧野の傳書』には、慶長9年の成里が召し出されて、翌年に長袴をもらったとあるが大間違いである。ここに書いたことは、自分の実父の根岸直利が古老から聴いたものである。自分も牧野越前守成熈に尋ねると、彼の家に伝わっているのは、ここに書いた通りだった。
25日 家康の参内の行列の順序は次の通りである。
1番:雑色(*下級の役人) 12人 2行
2番:調度 公人朝夕(*トイレ係)
3番:調度 朋谷全阿彌 騎馬
4番:京(*兆)尹 板倉伊賀守勝重 騎馬
5番:随身8人 騎馬2行
左行:山上彌四郎、島田清左衛門直時、高木久助、近藤平右衛門秀用
右行:本多藤四郎正盛、渡邊半蔵重綱、鵜殿善六郎、横田彌五左衛門
6番:白丁 7人
7番:諸太夫 16人 並んで歩行
左行:佐々木忠水、永井右近太夫直勝、三浦監物正次、
右行:竹中采女重規、森 筑後守、三好備中守、三好越後守可政、内藤右京進正成、秋元但馬守泰朝、松平右衛門太夫正綱、松平出雲守乗高
8番 陌刀(*薙刀矛)
9番 布衣 2人 成瀬小吉正虎(後の半左衛門、米津清右衛門正勝
10番 家康の車と牛2匹、傘
11番 布衣 18人 2行
左行:安藤彦兵衛直次、榊原甚五兵衛、阿部左馬助正吉、高木善次郎正次、豊島主膳信満、林藤四郎吉正、朝比奈彌太郎泰重、石川半三郎康次、都筑輿五郎左衛門為政
右行:中山左助信吉、柴田左近、横田甚右衛門尹松、花井庄右衛門信吉、日下部五郎八重好、谷川久三郎正吉、伊奈熊蔵忠政、加藤喜左衛門正次、鳥居九郎左衛門
12番 剣役 本多縫殿助康俊 騎馬
13番 諸太夫 10人 騎馬2行
左行:井伊右近太夫直政、松平飛騨守忠治、松平玄蕃頭家清、本多豊後守康重、本多中務大輔忠勝
右行:里見隠岐守義高、松平甲斐守忠良、大須賀出羽守忠政、本多上野介正純、石川長門守康道
14番 少将以上 5人 塗輿 1行
越前参議秀康、豊前参議忠興、若狭参議高次、播磨少将輝政、安芸少将正則
家康の車は御所へ入って、天皇に謁見して盃を受けた。天皇は「戦争が速く終結して、世の中が収まる基礎を開いたのは、全て将軍の功績である」と述べた。家康は拝聴して、白銀を千枚(銀1万両に相当する)を献上し、皇太子へは白銀100枚、皇后へは白銀100枚、内親王には200枚、女御へは100枚を進呈して、その他の官女たちにも白銀を与えた。すべてを終えて帰った。
〇『羅山文集』によると、(*藤原)惺窩の許しを得て、林又三郎信勝(*林羅山)が京都で朱學(*朱子学)を拓いた。船橋三位秀賢はこれを憎んで「彼は天皇の臣下にもかかわらず、天皇の許しも得ずに学問を教えることはできないので罰すべきだ」と家康に申し入れた。家康は「教師はもっとも尊敬すべきである。秀賢はなんて固陋(*度量が狭い)なんだ」と述べた。これ以来林氏の教えは世の中に広がって『四書章句集注訓點』が流布した。
〇菅谷左衛門太夫範政は、旧領の常陸の筑波5千石をもらった。(天正18年以来上総の平川で1千石をもらっていた)
〇秀忠の射撃の師範の佐橋甚兵衛吉久が、弓隊の長となった。(初は亂之助)
〇伊達政宗の次男の虎菊(5歳)が初めて家康と秀忠に謁見した。家康から刀(守家の作)をもらった。秀忠からは刀(眞永作)をもらった。政宗はまもなく虎菊を宗子とした。
〇松浦法印鎮信は、孫の隆信(24歳)を連れて肥後から江戸へ来た。遠方から来たので家康は餕餘(*食事の余り)を3人に与えた。また休暇を得て帰国するときに、隆信に法印の家督を譲るように命じた。
〇鳥居彦右衛門元忠が伏見城で戦死したことを悼んで、子供の左京亮忠政の上総の矢作2万石を転じさせて、奥州の岩城の10万石与え、去年以来岩槻城にいた駒木根右近利政を近臣にした上で、奥州の遠野の3千石を与え、近くの郷の6千石の税を仕切らせた。
〇那須太郎資晴が従5位下、大膳太夫になった。
〇小笠原為宗入道一庵が法印となって肥前長崎奉行となった。翌年に死亡した。
〇山口長次郎重信(後の伊豆守、修理亮重政の子)が秀忠の近臣となった。
3月小
〇豊臣家の関西の諸侯が江戸を訪れて、直ちに秀忠に拝謁した。特に池田輝政は次男、藤松(後の左衛門督忠継)を連れて拝謁した。秀忠は遠方からの訪問なので、酒井右衛門太夫忠世から駄賃を与えた。輝政もいろいろ贈り物をした。
秀忠は饗応の後、輝政に利刀を1本、馬を2匹、虚堂和尚の墨蹟を与え、国へ帰るときには、大久保加賀守忠當と安藤五左衛門重信が箱根まで見送った。
輝政は伏見へ着いて、藤松(5歳)が成長するまでは、兄の右衛門利隆(20歳、後の武蔵守)に備前を治めさせたいと家康に頼んだ。家康はこれを許可した。利隆は家康の外孫ではなく、輝政の先妻の中川瀬兵衛清秀の娘の生んだ子で、幼名は新蔵である。
4月大
16日 家康は京都の二条の館から、伏見城へ戻った。
21日 権大納言豊臣秀頼が内大臣になった。
28日 家康の妹、太田の方が死去した。三河の山中法蔵寺に埋葬し、長光院と号した。この人は長澤の松平上野介政忠の後室で上野介康忠の母である。
6月小
4日 本多作左衛門重次の子、丹下成重を越前黄門秀康の元老として付けた。後の飛騨守である。
〇今月、秀忠の妻や娘が京都へ行った。これは娘が来月大阪へ輿入れして、内大臣秀頼に嫁ぐためである。秀忠は江戸にいるので、家康がもっぱら婚礼を取り仕切った。
この頃、福島左衛門太夫の勧めで、「秀吉の家来だった大小名たちが、今後秀頼を裏切らないように起請文を書かせている」という噂がしきりに流れた。そもそもこの(*福島)金吾は、関ヶ原の戦いでは家康方として最も活躍した武将である。しかし、この働きは、ただ彼が石田と仲が悪かっただけが理由で、彼は強いだけで大物ではなかった。そうして彼は実は秀頼を盛り立てて自分が権力を手にしようと望んでいた。しかし、後に秀頼が兵を挙げて、大阪城へ籠城した時には、人が皆家康に付いたので自分も家康に付いて豊臣家を殲滅しようと働いた。家康はいろいろ考えた結果、彼を江戸に閉じ込めたので、彼には結局権力を振うチャンスはなかった。
7月大
3日 家康は伏見から二条城へ行った。
10日 施薬院候典薬頭、和気姓 半井驪庵利親が享年25歳で死去した。
〇 この日、連歌師の里村法橋正昌叱が享年65歳で死去した。この人は法橋昌琢の父である。
20日 秀忠の娘(7歳)が、豊臣秀頼に嫁いだ。伏見から船で大阪へ赴いた。(『武徳安民記』の付録に記した)
23日 娘が大阪城へ輿入れた。大久保相模守忠隣が、輿を片桐市昌且元へ引き継いだ。彼女は秀頼が没した後は、本多中務大輔忠刻と再婚した。天樹院である。
8月小
10日 家康の息子、鶴千代が誕生した。母親は柾木左近康永入道環齋の養女である。彼は後の水戸中納言頼房である。
14日 信州小諸の城主、松平因幡守藤原康元が享年52歳で死去した。この子、甲斐守忠良が封を奪った。康元は久松佐渡守俊勝の二男で家康の兄弟である。
18日 関ヶ原の戦いの後、薩摩へ逃れていた前の黄門浮田秀家の子の秀親が、八丈島へ流された。島津忠恒の嘆願によって死刑を免除されたからである。
〇今月 小出遠江守秀家が死去した。この人は播磨守秀政の二男で大阪の老臣である。
〇久我尚通の孫の大友参議義鎮入道宗麟の外孫、一尾小兵衛通晴が御家人になった。(後の淡路守)
9月小
3日 豊後の杵筑の城主、従4位下行侍従兼右京亮越智典通が享年61歳で死去した。この人は稲葉一鉄の長男(初めは彦六郎)で、母は斎藤利之入道道三の娘である。
11日 家康の息子の武田萬千代信吉が死去した。(浄銘院英誉喜香崇岩大居士)21歳だったが病気によって彼は役職に付いたことはない。
〇伝えられるところでは、家康の姉の市場殿は、穴山梅雪の娘を養っていて、萬千代を婿にしようと決めていたが、早世によって彼女は髪を切り、天正院となった。
〇付考:萬千代は、家康の妾であった武田信玄の娘、良雲院(良正院は西郷の方である。鵜殿長助の娘で、長助は西郷の城主で代々今川の家来だった。したがって彼女は西郷の方と呼ばれた。浅草西福寺の墓はもしかしてこの夫人の墓かもしれない。または良雲院という別人がいたのかどうか調べる必要がある)が生んだという説がある。しかし、貞享の夏に黄門光圀が萬千代の母の墓を改葬したときの碑文を、ここに写してきたが、これに事情が明らかにされている。
秋山夫人碑陰
夫人 姓源氏秋山諱都摩號下山 甲州人 越前守虎康女 其先出目 清和帝七世孫新羅三郎義光五世 孫光朝號秋山太郎 是其始祖也 世為甲州豪族光朝十九世 孫信任 称新左衛門 有二子 長友称伯耆守 知濃州岩村城 次 信藤称平十郎 共仕 武田信玄累立戦功虎康 信藤 第一子也 及武田氏滅事 東照宮公夫人 年甫 十六侍 公左右
天正十一年癸未 生萬千代君 初 武田族 穴山玄蕃 信君属公 有忠不孝無後 公命 萬千代君 継 其家 冒氏 武田名信吉 十九年辛卯十月六日 夫人病卒 於 其采地 下総葛飾郡小金邑葬 干郡之本土教寺 蓋以秋山氏 世信 法華宗為 身延山 檀越也 夫人 法名日上 號名真院 其墳土有 一松樹 土人呼曰上松武田君 曽封常州水戸 卒無嗣 公令先考威公 食水戸 於其 威公為君創浄鑑院 以故 予於夫人不敢自 今見 墳墓荒廃不堪 感慨 乃ト寺中高燥之地 擢日改葬 以封以樹 建石 記其履歴
貞享元年歳次甲子夏五月七日
参議 従三位 兼行 右近 近衛権中納言 水戸候 源 光圀 建
22日 江戸から安藤治右衛門正次が、目付役として伏見へ赴いた。(初めは與十郎)
〇今秋 大河内善兵衛政綱が、家康の家臣に復帰した。彼は慶長4年に彼の末っ子の平次郎が、政信の親戚の大久保庄右衛門を斬りつけたために、秀忠の怒りを畏れ、政綱も逃亡した。しかし家康の許しを得て、再び御家人に戻り、(*大久保庄右衛門の)子の足立右馬助遠定は大河内平十郎政勝人と近い関係となった。
10月大
3日 家康は、山岡道阿彌の家を訪れて、武田家重吉元の脇差を与え、その子の新太郎景本(8歳)に常陸の古渡1万石を与えた。彼は道阿彌の甥の主計頭景以の実子である。
25日 立花左近将監宗茂は、関ヶ原の戦いで石田方についたので領地を没収され、頭を剃って立齋と号して加藤清正の許で蟄居していた。家康はその能力を惜しんで呼び出し、彼には奥州の栃倉で1万石を、弟の高橋主膳統益には2千石を与えた。
この日、三河の加茂郡松平の村主、松平太郎左衛門在原山重が享年81歳で死去した。この人は永禄2年に三河の刈屋の石ガ瀬の戦いで傷を数か所被って、歩けなくなったので引退した。家康は一昨年から彼に松平郷を与えて、出仕を免除され隠居していところで亡くなった。その子の太郎左衛門は今も健在である。
11月大
7日 秀忠が右近衛大将になり、右馬寮監となった。水戸城の土地25万石を家康は長福に与えた。
〇後に彼は封を遠州と駿河に移され、更に紀州へ移った。この人が後の南龍院である。
〇最近は江戸に蟄居していて、関が原では石田方に付いたことを謝罪した丹羽五郎左衛門長重の戦闘能力が評価され、秀忠から常陸の古波1万石をもらった。
11日 松平久助忠直が死去した。この人は長澤の松平兵庫頭一宗の次男で、次郎兵衛親昌の孫、上野介政忠の婿である。政忠が隠居したのちは、外孫の市郎右衛門直信を彼の子とみなした。(直信は久助忠直の子である)
16日 安房の国主5位下侍従源義康が死去した。この人は里見右馬助義の長男で、その子の梅鶴丸(後の忠義)が禄を奪った。
〇この年の冬、家康は伏見から関東へ赴いた。
〇北畠の庶流の長野内臓助が、伊勢の山田の奉行となった。
〇京都と伏見の盗賊を取り調べるために、市中10人組を定めた。取り調べは厳格に行われ、盗賊らは全て殺された。
〇杉浦善右衛門吉成に100俵が加えられた。奉米は合わせて400俵となった。
〇徳山五兵衛則秀入道2位法印秀現が死亡した。23歳。
慶長9年(1604)
正月
朔日 江戸の諸士は江戸城の本丸に秀忠を訪ね、新年の挨拶をしたのち、西の丸を訪れ家康に挨拶をした。
秀忠の新年の連歌:
春の夜の 夢さえ浪の枕かな
曙ちかく かすむ江のしま
一村の雲を離るる 雁鳴て
15日 新庄駿河守直頼は、以前石田方だったので領地が没収された。しかし、関西一円の石田方に加わっていては逃げる道がないので徳川に降伏したいという希望が詳しく秀忠の耳に入ったので、秀忠は彼を呼びよせて領地を与えた。
27日 松前志摩守慶廣に、蝦夷での数行の決まり事を通知した。
2月大
4日 秀忠は東海道、東山道、北陸道に一里塚を設けた。
天正に織田信長は自国内に一里塚を設けた。それまでは里という単位はあったが、一里が何町に相当するかが決まっていなかった。そこで36禽を36町として、塚の上に榎を植えた。今回もそれに準ずるように命じた。この作業は夏までかかって完工した。
28日 和泉の葛丁郡布施の桑山修理太夫一晴が死去した。享年33歳。子供がなかったが、関ヶ原で活躍したので弟の左衛門一直に遺領の2万石が与えられ、秋には従5位下とされた。
3月小
朔日 家康は五郎太丸義利と長福丸頼宣を連れて江戸へ向かったが、伊豆の熱海の温泉で17日間滞在した。
24日 筑前で黒田勘解由孝高入道圓清如水(初めは小寺勘兵衛祐孝で播州の赤松氏の一族である)が享年69歳で死去した。
〇この春、秀忠は関東のすべての大社の造営を済ました。母の寶臺院の廟のある駿河の金榮山龍泉寺へ、寺領30石を寄付し印章を与えた。
4月大
朔日 今年の新年は、家康は江戸にいて留守だったので、今日と明日は新年に準じて諸侯が伏見城へ赴き、家康に挨拶をした。家康は5位以上の者に時服を与えた。総数98人だったという。
12日 相模、伊豆、駿河の徳川領の租税の司の長谷川七左衛門長綱が死去した。相模の三浦の古寺、海寶院を再興して葬った。
20日 越前の秀康が江戸に来た。秀忠は厚くもてなした。
21日 家康は、浅野紀伊守幸長の宅を見舞って、丁重にもてなされた。尾陽侯薩摩守忠吉(最初は下野守)は摂津の有馬温泉に入浴した。瘡疾(*皮膚病、梅毒)の治療のためである。
25日 伏見で戦死した松平近正の長男、新次郎が享年35歳で死去した。
6月大
5日 越前の秀康が江戸から京都へ向かい、今日、美濃の岐阜に到着した。ちょうどその時は福島左衛門太夫が関東へ参勤するために川手に宿を取っていたので、二人は宿屋で会った。正則は「あなたは秀吉の養子だから秀頼とは兄弟である。家康が死んだ後にはあなたが秀頼を補佐するのが良い。自分は精一杯尽くす」と述べたという。以来秀康は正則と絶交したという。理由はわからない。
10日 秀忠は京都へ行き伏見城に着いた。
16日 秀忠は参内すると決めたが、大雨で延期となった。
この頃 安藤治右衛門正次は監使として水戸へ赴いた。
17日 家康が熱中症になったがすぐに治った。
21日 秀忠が参内した。松平又八郎忠利(家忠の長男)と水野三左衛門分長がそれぞれ従5位下となった。(忠利は主殿頭、分長は備後守となった)
7月小
15日 伏見城下で拓殖宮之助が、家康の小姓の花井小源太に恨みがあって斬りつけ自殺した。この宮之助は平右衛門正俊の子である。3年後宮之助の領地500石は兄の三四郎の領地に加えられ、今年の年貢を集めた。
この頃に伏見城の城壁が着工され、西国の諸侯は京都へ来て、その作業に従事した。
17日 早朝、大樹公(*家光)が誕生した。
母は秀忠の妻、すなわち浅井備前守長政の娘(*江)で、秀吉の養女である。妊娠10か月未満の未熟児だった。酒井右兵衛忠世(後の雅楽頭)が胞箟(*?)の役(*?産婆)を務めた。
この日、伏見では家康と秀忠は、越前秀康の館へ行き、宴会をしたのちに相撲の観戦をした。諸公や諸将が全て集まって壮観だった。
平力士の取り組みは終わって、秀康の相撲の長(*横綱?)の追手「前の嵐」と前田利長の相撲の長の「加賀の順禮」の対戦があった。
観客は拳を上げ牙をむいて熱中した。しばらくして追手は奥の手を出して順禮を投げた。すると皆が大騒ぎを起こして見張りが制止しても収まらなかった。その時秀康が庭に降り立つと、皆が平服して騒ぎがたちまち収まった。その後相撲が再開したが、今度も追手が順禮を投げた。
家康と秀忠が館へ戻った時、家康は近臣に「今日一番面白かったのは秀康の睨みがすごかったことだねえ」といった。
18日 伊勢の長島城の城主、菅沼織部正定盈が享年63歳で死去した。三河で家康が初めて戦った時代からの家来で、強い武将だった。
21日 江戸から急ぎの連絡が入り、秀忠の息子が生まれたことを家康は知った。非常に喜んで幼名、竹千代を与えた。
安藤治右衛門正次が伏見に来て、家康に挨拶をした。また、今日尾張薩摩守忠吉が伏見を発って帰国した。
25日 大河内長三郎信綱が9歳で竹千代に仕えた。この子は金兵衛久綱(入道休心)の二男で、伯父の松平平右衛門太夫正綱(*長澤の松平家の分家の養子)の養子である。後に伊豆守になり、晩年は執政の臣として、従4位侍従に任じられ非常な才人で人気者になった。
〇今月秀忠は江戸へ向かった。
8月大
4日 出雲と隠岐の太守、従4位下行信濃守橘朝臣忠氏が死去した。彼の父の堀尾帯刀吉晴は存命で、忠氏の稚子の小太郎が6歳で家督を継いだ。(後の山城守忠晴)
10日 大久保石見守長安は、自分が仕切っている佐渡の山に砂銀が大量に出ることを、伏見で家康に報告した。
5年前から関が原までは上杉景勝が佐渡を支配していた。その時にはわずかに砂銀が出ていた状況だったが、慶長6年から家康の領地となって石見守が調査した結果、慶長7年だけで満貫目の産出量となった。石見の銀山も、関が原前までは毛利輝元の領地だったが、その時の産出量はわずかだったが、家康の領地となってから長安が仕切って、慶長7年には4千貫目になった。これはひとえに家康の徳のおかげである。
〇この月、宗対馬守義智が朝鮮の使節の僧、松雲と秘書の孫文彧を連れて京都へ来た。家康はかねてから「来春には右幕下(秀忠の意味)も京都へ来るように、その時、着飾った一行を朝鮮の使いの僧に見せた方がよい」といった。それで所司代の板倉勝重が大徳寺を宿舎の鴻臚館として費用を出して、年を越えて準備して来た。
これは以前に宗義智に対して家康は「秀吉は朝鮮を攻撃して国交が途絶えた。自分は朝鮮国に対して怨みはない。お前が和平を望むのであればそれに従おう。しかし、自分から和平を申し出ているのではない。お前は国に帰って使節を朝鮮へ派遣し、先方にその気があるかどうか調べてくるように」と命じていた。
義智は帰国後、和平について先方に問い合わせた。しかし、朝鮮王は決めかねてそのままになっていた。ところが明は、慶長3年のようにまた日本が朝鮮を襲ってくるのを阻止しようと、朝鮮の各所に防衛軍を置いた。
しかし、中華の威光に甘えて贅沢三昧をし、朝鮮人は困って、日本と友好状況を築いて、明の援兵を来ささないようにしたいと考えた。そこで今年の夏から義智に贈り物をして和平を提案し、同時に捕虜の返還交渉のために松雲と文彧を日本へ派遣したという。
〇浮田秀家の家来の花房志摩守正成に備中猿根の7千石を、岡越後守貞綱に備中成羽7千石を与えた。花房は慶長4年に浮田と意見が違って家を出て、去年に家康に仕えた。岡は花房の仲間である。正成の領地は1万8千石の他に1万2千石の追加があった。貞綱には2万8千石に2万2千石が加わった。
閏8月小
3日 松平清蔵親定入道念哲が死去した。(三河の長澤の松平の庶流で岡崎あたりの租税を司っていた)
14日 家康は伏見を発って、江戸へ向かった。
9月小
14日 井上半右衛門清秀が死去した。この人は実は阿部大蔵定吉の遺児で、大須賀五郎左衛門康高の家来である。彼の長男、太左衛門重成は越前秀康に仕え、二男の半九郎正就といい、秀忠に可愛がられ後に主計頭になって、その後は執事職となった。
20日 遠州生まれの勝屋甚五兵衛重利が死去した。彼は最初信長に仕え、後に徳川の御家人となり、本多忠勝の組のメンバーだった。
27日 家康が伏見城へ着いた。
29日 池田輝政の家に家康が訪れ、盛大にもてなされた。彼の妻は家康の娘だから、終日飲み食いをして、娘には黄金3千両をプレゼントした。
10月大
29日 経営奉行の伏屋左衛門佐が死去した。
〇高力傳十郎正重が27歳で死去した。
12月大
15日 榊原康政の嫡子、伊予守忠長が死去した。享年20歳。そこで三男の小十郎が家督を受け継いだ。後の遠江守康勝である。
20日 山岡備前守景友入道宮内郷法印道阿彌が死去した。
〇今月中村伯耆守忠一(松平)が、伯耆の米子の居城で元の家来の横田内膳村詮を斬りつけた。この人は最初三好山城守康長入道将笑岩に仕えた人で、非常に強い武将だった。今回の不法行為を責めた内膳の子の主馬は、浪人の柳生五郎右衛門厳勝(65歳)の飯山城へ入って自衛した。忠一は隣国の堀尾氏の援兵を得て飯山城を攻め、主馬と厳勝は殺された。
〇五郎左衛門は、但馬守宗厳の長男で最初は新太郎という。この時、藤井勘兵衛という士が五郎左衛門の首を取った。
この事件を家康が聴いて、忠一が忠実な家来を殺したことを憤慨したので、忠一が参勤の時に、品川の宿に住んで歎願した結果許してもらい、江戸へ入ることができたという。
〇この年、渡邊忠右衛門守綱の三男、忠四郎成綱(13歳)が秀忠に仕えた。この子の母は駿河の武将、岡部丹波守眞幸の娘である。
〇酒井宮内大輔家次は、下総臼井5万石から転じて上野の高崎城7万石をもらった。((臼井の城郭は破壊された)松平三郎四郎定綱(後の越中守)は下総の山河邑5千石をもらった。永井傳八郎尚政(後の信濃守)は常陸の貝原1千石をもらった。
〇土佐の山内一豊が従4位下となり「四聖坊肩衡の茶入れ」をもらった。〇松平伊豆守(最初は勘四郎)信一が従4位下となった。この子の勘四郎信吉(安房守)と安藤五左衛門重信(対馬守)がそれぞれ従5位下となった。
〇西国の諸侯が江戸に常駐するために、江戸の住居を建設し始めた。
〇月初めや中ほどの忙しい時に、江戸城で諸公や太夫の刀が鉛の刀にすり替えられ奪うばわれる事件が相次ぎ、皆が不審に思った。中川左助信守(後の備前守)が知恵を絞った結果、ついにその盗賊を捕え、彼の持っている鉛に刀を証拠として取り調べて家康に報告し感謝された。この賊は八王子の戦いで戦死した、勘解由家範の二男である。
〇越前秀康の3人の妾がそれぞれ男子を生んだ。吉松丸(早世)、五郎八(後の松平大和守直基)、直久丸(後の但馬守直吉)、その内五郎八(母は三好越後守可政の娘)は、秀康の養父、結城晴朝に養育され、甲冑や衣服に左巴の家紋をつけて結城の嗣子になることを望んだ。
〇米津勘兵衛由政が江戸の町司となった。彼は味方が原の戦いのときに旗奉行を務め、戦死した小太夫政信の子である。
〇甲陽の武将で、日向半兵衛政成が伊勢の山田奉行となる。(この人は長野内蔵助の後任で、元和3年まで務めた)
〇大御番の松平石見守康安の組の三雲新左衛門成持は、近江の伊賀郡で千石を加えられ、組頭にされた。(総高は1千500石)
〇岡野江雪の子、半兵衛房徑の三男、三右衛門房次は、北条十郎氏房に仕え、小田原に籠城したが、結局左京太夫氏直が高野山へ赴くときに父の命で随行し、氏直が亡くなった後、北条美濃守氏規を氏直の後継ぎと秀吉が決めたので、また氏規に付いた。家康は房次を常陸介頼宣の家来にさせた。
今年、江雪の臨終の際の願いによって、房次の子の権左衛門英明5歳を家康に会わせ、祖父の江雪の職を継がしてもらった。ただ、幼い間は頼宣に仕えて、元和18年から幕府で働いて大番頭になった。
〇天正18年から、甲州津金の士たちは関東で給金をもらっていたが、後に甲府城が勤務場所に定まり、結局大納言忠長の家来となった。
〇杉浦彌一郎親正が享年41歳で死亡した。
武特編年集成 第50巻 終(2017.5.10.)
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