巻53 慶長12年正月~12月
慶長12年(1607)
正月小
朔日 秀忠が年賀のために家康を訪れた。恒例の行事がいつものようにとりおこなわれた。
家康の娘が駿府で誕生した。母は遠山丹波守直景の娘という。昨年末から頼宣朝臣は痘瘡(*天然痘)を罹った。
6日 江戸で大地震があった。その上、吹雪に見舞われた。(*当代記:『6日江戸大地震、但他国へ不動、江戸計也』、この辺りの記述は『当代記』が詳しい)
(*因みに余談だが、『当代記』のこの地震の記述の付近に、「正月に伊勢でクジラを突いたところ、このクジラは口に鮫を3~4尺(1m程度)くわえたままだった。そこで鮫も突くと24~25尋(*尋は6尺)ばかりあった。わにさめということだ」とある)
11日 家康は昨冬以来痳疾(淋病)を患い、今日は病状が悪化して、非常に苦しんだ。
18日 加藤肥後守清正の幼い息子は人質として江戸にいたが、疱瘡(*天然痘)で死んだ。(9歳)
20日 頼宣朝臣の天然痘が好転して、酒の湯を浴びた。
22日 尾陽中納言忠吉が、江戸への参勤によって清州を発った。(去年までは下野守だったが、薩摩守と変わった)
23日 家康は、駿府で隠居するために駿府城を拡張することに決め、諸将の住居を建設するために、瀧川豊前守忠往、佐久間河内守政貫、山本新五左衛門正成、山城宮内少輔忠久、三枝助右衛門昌吉を奉行とし、越前、美濃、尾張、三河、遠江の大小名に命じて人夫を出させて、来月7から工事を始めるように命じた。
2月大
6日 尾張忠吉朝臣が江戸に着いた。しかし、まだ家がないので、芝の大久保加賀守忠常の家に滞在した。去年痩毒を患い、危険だったが回復した。彼が江戸城を訪れた時、秀忠は非常に喜んだという。
12日 近江の彦根の井伊右近太夫直勝の家来の、西郷勘兵衛と鈴木三郎太夫(石見守重路の子)が口論して、治まらなかった。2人は家康の直属の、選りすぐりの武将だった。
慶長7年の春に直勝の父の兵部少輔直政が死んで、家臣たちが分裂して諍いが起きた。一昨年、家康が京都へ行ったときに、鈴木石見を追放したが、去年江戸へ戻るときに、尾張の清州からその石見を江戸へ連れて帰った。しかし、今度またその子と西郷の確執が起きたわけである。
13日 江戸城の本丸で、観世金春の両太夫などが家康の命で、勧進能を催した。家康と秀忠は桟敷で、譜代の大名は高みの席で観た。
入場料は1貫文(*永楽銭)で、今日から4日間は猿楽を上演した。通しの桟敷料はすべてで60貫文、芝居料金は全部で120貫文という。
昨年来不作で、コメの作柄が悪く米の価格が高騰していた。そんな時に、このような贅沢は控えるべきだった。しかし、「家康が痲疾を患っている」という話が、京都や畿内では「相当病状が悪い」という噂となって広がり、遠国にもその噂がしきりだった。そこでこの春3日から7日まで、江戸で猿楽を催し商人などにも芝居の観劇を許していたが、今また勧進能を催した。そのことを京都へも宣伝したので、噂はすぐに消えたという。
〇伝えられることによれば、秀忠や彼の一族や譜代大名31人が桟敷に並んだが、家康が入場して「水谷と皆川がいないのはどうしてか? 彼らは、自分が三河と遠州にいた時からの仲間だから、諸士に準じて呼ぶべきだ」と述べた。
本多正信と大久保忠隣は、「水谷は今常盤の笠間の番衛で勤務中である」などと答えた。家康は「武士という者は名を後世に残すのが本意だから、仮に江戸にいなくても代わりが来ればよい」といって、出席リストから2人を退かせて水谷と皆川に桟敷を与えた。
17日 諸侯の家来の中で、弓の腕自慢が京都へ集まって、得長壽院堂の縁で、通し矢を催し優劣を競った。(*得長寿院はこの時代にはないので、三十三間堂の誤りでは?)尾陽侯の家来の上田角左衛門が126本の矢を通して、天下一となった。
20日 江戸城の本城と西の丸の間で、猿楽の花道を使って歌舞伎が催された。(国という妓女の芸が堪能であった)(*出雲阿国)
24日 平岡石見守頼勝(または重定)が享年47歳で死去した。彼の遺領の美濃の1万石は、嫡子の牛右衛門がわずか3歳で受け取った。(後の石見守忠常)
26日 忠吉は前に江戸を訪れたころに、天然痘が再発したが、ようやく回復したので今日江戸城を訪れた。秀忠は大変喜んだが、家康は近々に駿府へ移る都合で忙しいと、会わなかった。しかし、巷では「忠吉の病が治っていないのを察して、会わなかったのだろう」という噂が盛んだった。
28日 忠吉の容体が悪化して、危篤となったことが家康の耳にもはいり、すぐに家康は忠吉の宅を訪問し見舞った。
秀忠の親戚は多いが、忠吉は特に同僚として親しみが深かったので、芝の館へ何度も使いを送って食事や薬の詳細を尋ねた。彼の様子が知らされると、心配で食事も喉を通らない有様だったので、周囲の者は心を打たれた。
29日 家康は江戸を発った。
相模の中原に着いて少し滞在し、放鷹を楽しんだ。ところが宿で金の釜と金の天目、水差し、茶拓などが紛失した。当番だった書院番の会田庄七郎、岡部藤十郎、落合長作は、辻相撲を見物に出ていて気が付かなかった。翌朝ある人が藪の中から金の釜の蓋が落ちているのを拾って持ってきた。それで茶器が無くなったことが家康の耳に入った。
家康は蓋を届けた人に黄金3枚を与えて事情を調べたところ、書院番の3人が当時いなかったことがばれて、厳罰を命じられた。3人は武士の法に照らせば死刑も仕方がないとのべた。家康は正直だと、落合を駿河の田中へ、岡部を沼津へ、会田を遠州の掛川へ蟄居させた。(後年泥棒が捕まり3人は許された)
〇この年、蒲生の家老、蒲生源左衛門郷成と岡半兵衛重政の仲が悪く、家中が分裂した。そしてついには郷成方の小倉作左衛門行陰と関十兵衛一利などが、主人の秀行が岡重政を可愛がって源左衛門を嫌うことに怒って、会津を逃げ出した。そこで郷成は禄を辞退した。このことが家康の耳に入り、郷成が優秀な武将だったのを惜しんで、秀行にいいつけた。よって郷成は会津から退去できなくなった。
3月小
朔日 越前中納言秀康は、伏見城に住んでいたが、天然痘に罹って国に帰ることを、使いの者が家康へ伝えた。
秀康の長臣の本多次郎太夫富正(後の伊豆守)は、駿府の城の建設のために人夫を連れて富士山へ行き、大木数100本を切り出して沼津へ持参したいと家康に申し出た。家康は非常に喜んだ。富正は才能のある武将で、家康は関が原で自分が持っていた左文字の刀を与えた。
3日 江戸城建設のために、関東の家来に1万石の石高あたり石20坪分を船5隻に積んで、上野の中の瀬から毎月2度江戸へ運ばせることに決めた。この規則によって1万石以上の大小名は、次々に船で運ばせた。(1坪は深さ2尺1間四方の箱3個分である)
5日 午後9時ごろ、江戸の大久保忠常の家で、尾陽侯太守従3位行左近衛権中納言兼薩摩守源朝臣忠吉が享年28歳で死去した。秀忠は非常に悲しんだ。この人は非常に強い武将で、関が原では島津の堅い守りを破って、自分でも太刀打ちし、家康軍の片腕として働いた。しかし、女を漁り男色に溺れて、虚損の症や天然痘(一作唐*?)に罹って寿命を縮めた。世の人は惜しんだり誹謗したりした。
この日、井伊右近太夫直勝の母(松平周防守康親の娘)が、近江の彦根から江戸へ来るときに、家康は直勝の馬の飼料代として与えている上野の安中の村に住むように命じた。
6日 忠吉の近臣の石川主馬吉信と稲垣将監忠政が殉死した。
7日 土井大炊頭利勝が急いで伊豆の三島の家康の宿に来て、忠吉の逝去を報告した。家康は前から薬の効かない病気であることを察していたので驚かなかった。
秀忠は駿府にいる忠吉の家来たちを、早く尾張へ返すべきかどうかを家康に尋ねると、今のまま帰らないようにと命じたので、利勝は江戸へ帰った。
駿河の興国寺の城主、天野三郎兵衛康景は、昨6日城から逃げ出したという知らせが家康に届いた。その訳は次のような事情である。
以前康景は城の造営のために領地の竹を刈らせて置いておいたところ、近くの家康の領地の住民がそれを盗んだ。そこで番人の軽率がその住民を殺した。ところが代官の井出志摩守正次が、家康の笠を着て本多上野介正純に、「この度無礼なことに天野が軽率に我が領地の住民を殺させた。しかし、康景は住民を盗賊だといって犯人を出頭させない」と訴えた。正純はそれを信じて家康に告げた。
家康は「康景は法を犯すような者ではないので、よく調べよ」と命じた。
正純は井出の肩を持ち、康景に「自分の領地だけでなく箱根あたりの竹も刈っている」と怒って、夜中に取り返さそうとした。番衛の足軽は家康領の住人が泥棒だとして殺した。そこで正純は「殺人犯を出せ」と康景に催促した。
康景は年を取って短気になっていたので怒り、「盗人を殺すのは昔からのことで違法ではない。正純は政に関わる身でありながら曲がったことをしたのだから辞職すべきだ」といって城を出て行った。家康は憤慨しながらも、康景が昔からの近臣で何度も戦で功労があったので、老齢の彼を憐れんで城へ帰るように内密に伝えた。しかし、彼はほどなく78歳で死去した。(寛永7年7月18日、彼の子の六右衛門康正は禄をもらって書院番になった)
17日 忠吉の寵臣の小笠原監物忠重は、去年忠吉を恨んで尾張を去って奥州の松島に蟄居していた。しかし、彼の父の和泉守吉次から忠吉の逝去の知らせを受けたので、松島を発って昼夜兼行で江戸へ駆けつけ、三緑山増上寺の忠吉の安置所で、今日殉死した。彼の家来の佐々清九郎(または喜内)は、去年殺傷事件を起こしたが、忠重に逃がしてもらった。その恩義のために彼は増上寺へ行って殉死した。
〇この日、丹羽の亀山の城下を流れる保津と大井川が、山城の嵯峨野までつながり船の往来が自由になった。
20日 忠吉の遺骸が増上寺に葬られた。性高院憲蛍玄白大居士。
21日 朝鮮の通信使が京都に着いた。
22日 畿内の5か国、丹波、備中、伊勢、美濃などの給料取が、駿河城建設の土木工事の役を命じられた。石高500石あたり人夫1人の計算で、秀頼の家来たちも例外ではなかった。徳川の領地の村も例外はなく、石高に応じて人夫が徴発された。ただし、去年江戸城の建設に当たった者は免除された。
朝鮮の通信使を駿河へ招聘するための宿や人員、馬などに駆り出される岡崎、吉田、濱松、掛川などの人夫は、駿河の工事現場からそれぞれの国へ戻された。
4月大
朔日 蒲生、伊達、上杉、最上、佐竹、越後の掘、溝口、村上などに江戸城本丸の天守を建設させた。2層目は伊達政宗が1人で建設を請け負った。天守の石垣などは南部、津軽、信州、関東の譜代があたった。石高が10万石から1万石のものは合せて100万石を5組として、4組に石を運ばせ、1組に石を積ませ、更に今年建設する本城の石垣を2間高く積ませた。人夫の糧米は2月にさかのぼって支給された。
〇この日、関左衛門佐資増が享年32歳で死去した。
6日 武蔵の足立郡浦和辺りに大雪が降って、鳥が大量に死んだ。
15日 林又三郎信勝(*林羅山)は、江戸城で講座を開き、黄石公の『兵法』、漢書の『高祖本記』、頂籍、張良、韓信、陣平の列伝を秀忠の依頼で講義した。信勝は前に駿河城を訪れ家康の命で江戸へ来た。しばらく江戸に滞在の後、また駿河城へ行き当時の流れに逆らえず、髪を切って道春と号した。
16日 会津の参議蒲生秀行に松平の氏を与えた。
28日 秀行の江戸屋敷の茶会へ、家康と秀忠が参加した。
〇今月、今大路道三が玄朔法印となった。
閏4月小
6日 朝鮮の通信使の呂祐吉、副使の慶暹、および従事官の丁好寛、高級役人2人、上級役人26人、中級役人など84人、下級役人54人、総勢269人が、京都を発って江戸へ向かった。
守山、彦根、大垣、清州、岡崎、濱松、掛川、藤枝、清見寺、三島、小田原、藤澤、神奈川を宿泊地と決め、幕府領の代官などがもてなした。鞍付きの馬200頭余り、駄馬204頭余り、人夫が500余人を道中の大小名が提供した。
朝鮮王はみやげとして大鷹50組をはるばる海を越えて連れて来たので、尾や羽が抜けていたという。道中の城の鷹匠が鷹の世話をしてきたが、近江と美濃の鷹匠は江戸まで同行して世話をした。
8日 越前の福井の城で、権中納言従3位兼三河守源朝臣秀康が享年34(一作九)歳で死去した。この人は家康の次男で、秀吉の養子となり、上野の結城晴朝の家督10万千石を継いだ。非常に優秀な武将で、関が原では大敵の上杉景勝を抑えて関ヶ原へ参戦できなくした。彼は越前に封じられ、家来たちを愛したので、各地の武将たちが雲霞のように集まり、幕府の片腕となった。しかし、病弱な上に天然痘を患い、京都の成方院驢菴庵などの名医に掛かって数か月療養したが、甲斐なく死亡した。養父の中務大輔晴朝は74歳だったが悲嘆にくれたという。
9日 福居の心月寺で、黄門秀康の寵臣の永見右衛門長次(24歳、1万7千石)が殉死した。辞世の和歌が残っている。
月隠す 雲又隠す山の端を 報いと見るも 夢のまた夢
家来の田村金兵衛が介錯し、死を共にした。
11日 福居の孝顕寺で黄門の寵臣の土屋佐馬助昌春が殉死した。辞世の和歌がある。
我が身をば 奈何なるものか 宿り来て 空吹風に連て又行
家来の長沼四郎左衛門が介錯して、同様に自殺した。
そもそも永見長次は、家康の家来の永見中務の子で、土屋昌春は甲陽の右衛門尉と直村惣藏昌恒の弟の金丸助六昌義の子である。家康に仕えていたが、殺傷事件を起こして秀康に仕え、大野の城代として3万5千石を領地としていた。
24日 秀康の訃報が家康と秀忠に届いた。
本多次郎太夫富正(後の伊豆守)は、秀康の遺言を家康に伝えてから殉死するとの噂があり、秀忠は黒印を贈り、家康も今日手紙を越前の老臣などに送った。
「書状」
そのために越前の老臣たちは、何度も富正の許へ行き「あなたが死ぬと、秀康の子の忠直は親の跡を継げなくなるという重い責任がある」と殉死を思いとどまるように忠告した。その結果、富正は泣く泣く殉死を取りやめた。秀忠の黒印と後日届いた家康の手紙は、その後長く富正の家に残されたという。
秀忠の命で少将忠直の弟の五郎八直基は、結城晴朝の孫嫡の承祖として、死後に隠居料5千石を譲られた。後年の松平大和守はこの忠直のことである。
26日 右兵衛督義直は、平岩主計頭親吉の嗣子として甲州を領地としていたが、兄の中将忠吉の遺領の尾張の一円に封じられた。これによって准父の平岩親吉は、甲州の5万石に移り、尾張の犬山10万石をもらった。義直は幼い時には清州の城に住んで国務を執るように秀忠に命じられた。従って親吉は後継ぎを立てず、死後犬山城の与力も義直に継がせようとした。
27日 越前黄門秀康の遺領は、嫡男の忠直に受け継がれ、今日江戸を発って越前赴いた。後に彼は参議従3位まで昇進した。
29日 家康の異父兄弟の松平隠岐守定勝の領地、遠州掛川城地3万石は、長男の河内守定行(後の隠岐守)に譲られ、山城の1万石と近江の4万石合せて5万石をもらって、伏見の城代になるように命じられた。
〇ある話では、慶長6年以来、伏見の松丸は、関東から譜代が交代で勤務し、治部少輔丸は水野石見守忠貞、名古屋丸は日下部兵右衛門定好、江雪曲輪は成瀬吉右衛門正一、井戸曲輪は松平豊前守勝義、戸田又兵衛直頼曲輪は小笠原右衛門共次が護った。その他大須賀五郎兵衛(康高の甥)と拓殖三之丞宗次が在番した。町の司は長田喜兵衛、そして、淀川の水主の長は小笠原越中守という。
〇今月尾張の忠吉の従者は、全て尾張の太守、義直の家来とされた。
〇『成瀬家傳』によれば、隼人正正成は、堺の政所(米津正勝と同じ役)を、ある時期務めたが、その時に駿府に呼ばれて執事を命じられた。しかし、今年彼は義直の家来にされた。しかし、尾張には平岩が入るべきで、隼人正は駿河にいて義直を補佐し、家康の執事も今まで同様に務めた。
〇『渡邊家傳』によれば、忠右衛門守網と嫡男の半蔵は義直に仕えていたが、家康の命があって、「お前は右兵衛督と気が合わなければ、すぐに帰れるように武蔵の領地3千石をそのまま持っていて、その他に尾張で5千石と三河で2千800石をもらったという。
守網は三河で槍半蔵とよばれた武将で、元和6年享年79歳で尾張で死去し、長男の半蔵重綱が家を継いで義直に仕えた。二男の半十郎宗網は秀忠に仕え、慶長18年から使い番を務め、後は図書と名乗っていろいろ役職を務めて大獣公の代まで仕えた。
5月大
2日 佐渡の銀山の産出量が減ったので、その理由を調べるために大久保石見守長安が駿府を発った。
6日 朝鮮の3使が高級役人と江戸城を訪れ秀忠を拝謁した。国王の書簡と土産の朝鮮人参200斤、虎の皮90枚、絨毯20枚、唐筵(*敷物)50枚、無地の綾100巻、大鷹50対、青皮30枚を献上した。また、宗義智は叚子(*?)50巻、油布50反を捧げた。
〇日本の風習として河原の石合戦が催された。特に通信使の宿となった本請寺(*江東区清澄)の辺りでは、子供たちが盛んに石を投げ合って勝負をした。そんな時、金六という商家の子が指揮して脇差で戦い合った。これを見て通信使たちは、日本では商家の子までがこんなに強いのかと戦慄した。
7日 萬年山相国寺塔頭の豊光寺承兊は、寺の改修費として黄金をもらったが、江戸を発ってから箱根山まで来た時に、従者がその金を持ち逃げした。
〇この日、越前福居の城へ少将忠直(23歳)が到着した。
11日 黄門秀康は、先日福居の洞家宗孝顕寺に葬られて孝顕院吹毛月珊居士となった。しかし、駿府から徳川家は代々浄土宗なので改宗せよと命じられた。そこで知恩院が、京都から越前まで来て、また忠直について三河の大樹寺の乗誉上人も来て、新しい地を選んで改葬し、浄光院森厳道慰運正大居士となった。
14日 朝鮮通信使が江戸を発った。3使には白銀600枚、薙刀15本、高級役人に2人には白銀200枚、中役人26人と下級役人84人合せて110人には白銀500枚が与えられた。
20日 宗義智は、朝鮮の3使を連れて駿府城を訪れた。家康は烏帽子直垂姿で繧繝錦(*うんげんにしき)の台に座り、3使に面会した。
3使は人参60斤、白芋布(*麻の布?)3匹、蜜100斤、蠟100斤を献じ、礼を尽くして退席した。この時城の迎賓室はまだ完成していなかったので、本多上野介の家で酒席が設けられ鎧や冑が贈られた。
その日すぐに宗対馬守は、朝鮮人を連れて藤枝の宿へ赴いた。先に捕虜数100人を家康の命で返還しているので、彼らは非常に喜んだ。
〇ある話では、先に日本が朝鮮を攻めた時に残留していた日本人や、日本に亡命していて朝鮮に渡り朝鮮で役人になっていた人たちは、今度の通信使と一緒に日本へ帰国したという。
23日 駿河城本丸の天守の建設が始まった。
26日 平岩主計頭親吉の配下にいる、甲州と信州の先方の与力が、妻子を連れて甲府を発って尾張の清州へ来た。
本城には亡くなった忠吉の妻の一族が住んでいたので、彼らは北の曲輪へ入った。その時忠吉の老臣の小笠原和泉守吉次と富木丹波などが親吉に使者を送って、清州の元の家来が彼らをもてなしたいと伝えた。すると親吉は非常に怒って、「自分は義直の准父である。彼はまだ8歳なので、その補佐を務めている以上、連中と同列に扱うとは何事だ」と答えた。それ以来、尾張の家来は親吉を嫌って、深刻な確執が起きそうだったという。
6月大
13日 遠州と三河は、このごろずっと雨がなかったが、今日雨が降って人々が喜んだ。
22日 安藤次右衛門正次は伊賀に赴いて、法務を司るように命じられた。
〇この頃、京都で家康の朱印を所司代の板倉伊賀守のところへもってきて、運送業を営もうとする者がいた。家来が調べてみると盗賊の書類に間違いないので、捕えて取り調べたところ、その朱印は偽物だったのでそれを作った彫師を逮捕して、2人を斬り殺した。
7月小
3日 駿河城の本城が完成した。城は120間四方で、石垣の高さは7間から5間で天守台があり、屋敷も全て出来上がったので、家康はそこへ移った。
江戸の使いの酒井右兵衛太夫忠世と青山幸成が来て、完成を祝賀した。忠世は父の先祖の名前を継いで雅楽頭と改め、幸成は大蔵少輔と呼ぶように命じられた。諸将は全て祝賀の挨拶のために城へ集まった。
〇御所で勤修寺大納言光豊に天皇の命令があって、立入河内守康善から池田参議輝政に雄剣(*刀)龍蹄(*馬)が与えられた。今日、勅使が播磨の姫路城へ来た。三左衛門輝政は家康の婿で、播磨と備前を領土とした。
12日 和泉の長谷観音堂の修復のため、石川吉兵衛と深津八九郎貞久がこの作業を仕切った。今日すでに上棟という。
13日 家康は、人夫に駿河の清水から沓谷筋へ船を入れる運河を掘らせたが、水が不足したので一日で中止した。
27日 美濃の大垣の城主、石川長門守康通が享年54歳で死去した。彼の父日向守家成は老衰しているとはいえ、大垣で5万石を与えられ、隠居料の土地は外孫の大久保内記成堯に譲るように命じられた。康通は嫡子の弾正(29歳)は、ある事情によって父の遺領は継げなかった。
8月小
2日 高力左近太夫忠房の弟の傳十郎正重が享年17歳で早世した。後に遺領の三河高力郷は弟の虎之介正次に与えられた。後の河内守である。
4日 高力左近太夫の居城の武蔵の岩槻が、火事になり、虎之助正次は白銀500枚をもらった。
10日 家康が病気になった。(*『当代記』、「やがて回復した」とある」
12日 大番頭の水野市正は、近藤、渡邊、山城、守茂の組番の士50人を連れて伏見城へ行き勤務したという。
番頭は1年で交代し、番士は2年先までいて24か月で交代するように命じられた。(これを三年番という)
日下部兵右衛門と成瀬吉右衛門は、伏見から江戸へ帰った。(小笠原治右衛門正次は後に頼宣に仕えた)
尾陽忠吉の後室は、母親と同居するように命じられたので、舎弟井伊右近太夫直勝の領地の上野の安中へ向かったという。
〇この日、金森五郎八長近入道治部法印素玄が享年84歳で死去した。信長に仕えた優秀な武将だった。
13日
小笠原兵部少輔秀政の長男、幸松が秀忠の前で元服した。(14歳)弟の(実は親戚の兄)春松丸(15歳)も同じく元服した。それぞれ秀忠の諱の一字をもらって、兄は忠備、弟は忠貞となった。忠備は後に信濃守、忠貞は大学助となり、右近将監となってから忠政と改名した。
15日 駿河城の二の曲輪は850間四方で、一周千間にもなる。建設はおおよそ終了して、諸侯の監使は帰国した。残ったのは西国関係で来月までに終わるという。
今月、竹尾平右衛門が享年67歳で死去した。天正9年から家康の御家人で、湯治の駿河の町司だった。
9月大
11日 遠州横須賀の城主、松平出羽守忠政が享年25歳で早世した。この人は実は榊原式部大輔康政の三男である。祖父大須賀五郎左衛門康高の家を継いで、養父の代以来松平をもらった。しかし、忠政はこの春から病気で、京都の三条に住んで、名医を呼んで療養していたが、助からなかった。幼い息子の国丸が遺領をもらった。(9歳)この子は後の松平式部大輔忠次である。(後見として久世坂部渥美が、家を取り仕切るように命じられた)
〇今月、右大臣秀頼の母の淀殿の願いで、京都の北野天満宮が造営された。(ここですべての国の大社や仏閣の建設がおおかた終わったようである)
(*高敦の記述にはないが、『当代記』には、「9月5日の深夜、京都で「光物」が現れて、比叡山から南へ飛んだ。駿河でも同様で、何処の地方でも見えた。10日に愛宕山から見ると、京都に大量の松明が灯っているようだったという。この日から北野天満宮ができた。秀頼は幼いのでおふくろ(澱君)の発願は奇特だ。この頃、よく吉兆霊夢が起きたと京都で噂が流れた」などと書かれている。この「光物」は新暦1607年10月27日にプラハでケプラーが観測した彗星で、後にハレー彗星と命名された彗星である)
10月小
4日 家康は駿府を出発して江戸へ赴いた。この時、伏見に住居を持つ豊臣家の諸士は駿府に勤務していたが、暇をもらって伏見の家に戻り、家康が駿府へ戻ってくるときには、また駿河へ帰ってくるように命じられた。
この日 秀忠の娘が誕生した。和子でやがて與子となった。彼女はその後水尾天皇の女御となった。母は大猷公(*家光)に尽くした浅井備後守長政の娘である。
14日 家康が江戸城の西の丸に着いた。道草を楽しんだので遅くなった。秀忠は西の丸で迎えて家康に対面したが、その時家康は西の丸に置いてある黄金3万枚と白銀1万3千貫を秀忠に与えた。
18日 西の丸の山里の茶屋で、家康は秀忠をもてなし茶をたてた。米澤黄門景勝、秋田侍従義宣、仙台羽林政宗が同席した。
〇この日、信州飯田の城で、小笠原兵部大輔秀政の妻が疱瘡を患い、31歳で死去した。彼女は三郎信康の娘である。(母は織田信長の娘で、三郎が自害したのちに京都の烏丸に蟄居していた)
28日 秀忠は家康を本城へ招待した。
先に松平隠岐守定勝が伏見に到着し、加番の岡部内膳正長盛や小笠原左衛門信行らも来て、城の中を改めたのちに警護した。
〇駿府の城が完成した。500石の大名が派遣していた人夫が全て諸国へ帰った。
11月大
朔日 家康は江戸城を出て浦和、忍、川越で放鷹をした。
丹羽五郎左衛門長重の江戸飯田町台の家で失火が起き、隣の家が類焼し、田安門の櫓が焼け落ちた。
27日 京都で今川左馬助源範持が享年38歳で死去した。この人は上総介氏眞の嫡子である。
〇今月 家康は伏見の城番、須賀五郎兵衛(康高の甥)を呼んで、大須賀国丸の後見人として横須賀へ移って面倒を見るように命じた。そしてすぐに故忠政の大叔父の大須賀一徳斎と武藤萬休斎を横須賀の元老とすることについて、安藤帯刀と相談した。
〇この日、酒井左衛門尉家次の子、小五郎(後の宮内大輔忠勝)、金森出雲守可重の子、五郎八重次(後の甲斐守)、新庄越前守直定の養子主殿直好(後の越前守、実父は佐久間備前守安政)が初めて秀忠に謁見した。
〇池田長常(備中守長吉の子)と戸田尊次が従5位下になった。(長常は備中守、尊次は土佐守)
〇植村土佐守康忠が髪を切って二位法印となった。
〇服部一郎右衛門保英が享年53歳で死去した。彼は服部半蔵正成の嫡子で、三河の高橋で命を落とした市平保俊の子である。
12月小
12日 家康は駿府へ帰った。
〇この日 伊勢の田丸城の城主、稲葉蔵人通成が享年36歳で死去した。孤児の太夫記通(5歳)は遺領5万石を受け継いだ。後の淡路守である。
14日 名医の泰壽命院は今月11日より病気が重くなり、今日亡くなった。道三一渓(*曲直瀬道三)の門弟である。『犬枕草紙』の作者で、『徒然草』を初めて注解し、書もうまかったという。
〇この日の頃、相国寺の承兌長老寂久が死亡した。彼は密かに淫行にふけり、蓄財していたという。
(*『当代記』によれば、「相国寺の兌長老(当時家康に重んじられ洛中洛外の寺を取り仕切り、金閣寺などを領していた)が去年の秋の初めから病気になって今日死亡した。僧にあるまじき行為をして、成人とはいえないと京都では嘲笑された。金銀を多く蓄えていたという」とある)
22日 午前、駿府の本城の大奥で失火が起き、本丸、屋敷、櫓、門などが全焼した。 家康などは無事避難した。
〇ある話では、侍女が、寝具を置くところに燭台を置き忘れ、火が壁の張り紙に移って大火となった。家康は24本入った刀箱を運び出し、第2の箱には72本入っていて、非常に重かったのでふたを開けて中身を取り出して池に投げ入れたので助かった。
秀吉からもらった白雲の壺や金銀が全て焼失した。この白雲というのは、白い薬が壺の周りにまわっていて雲のように見え、帯廻山腰という名前がついていた。
天正18年武蔵の八王子城が落ちた時、城主、北条奥州が秘蔵していた大黒笛は、預かっていた士が折捨てて戦死した。これに対となる獅子という笛は、家康が春日市右衛門に預けていた。火災を畏れて毎冬に帰してもらっていたが、この笛が今夜焼失した。(大黒獅子とは、笛の首に金の高彫で獅子があるから、その名がついている)
23日 明け方に家康は、傍侍の竹腰小傳次政信(後の山城守)の二の丸の家に移った。ここは井伊兵部少輔直政の家だった(この家は昔は城郭の外だった)
24日 家康は本多上野介正純の二の丸の家に移った。本城ができるまでの暫定的なことである。
家康は諸公に火事のために会いに来るなと連絡した。城の焼け跡を調べて金銀を集め、久能山へ送らせた。ここは海岸の近くで険しい山である。榊原内記照久(当時は清久)が、父の七郎右衛門清政が去年なくなってからこの城を護っていた。家康の侍女、亀の局(尾陽侯の母)、萬の局(長福の母)、茶阿の局(上総介忠輝の母)、阿茶の局(神尾五兵衛守世の老母)の「へそくり」の金や銀も焼けたので、これらも久能の城へ送り改鋳した。
〇江戸で吉良上野介義定の子、三郎義彌が従5位下になり、侍従左兵衛督を兼任した。また、上野の大見、白石、中屋に1千石をもらった。(この時すでに3千500石をもっていた)
〇今川の親戚の瀬名十右衛門正勝が、御家人になり300石をもらった。青山善四郎重長が筒砲卒の長となる。布施孫兵衛重直(重次の子)が弓隊長となった。間宮左衛門信之(信盛の子)が秀忠の家来になった。
〇ある話では、この年大給の松平和泉守家乗と福釜の松平筑後守康親を譜代の諸大名の上席と決めた。これは石高でではなく、家格で決めたもので、石高がともなわなくても、年初めの謡いの席では五井の松平と福釜の松平は主席になることができた。両人は諸大名の上の席に座ることが決まり、後の代でも帝鑑の間(*江戸城で大名が座る間)の上席に着くことがあった。
武徳編年集成 巻53 終(2017.5.11.)
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