巻61 慶長17年6月~12月

慶長17年(1612)

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2日 江戸の新開地を後藤庄三郎光次に命じて京都や堺の商人などに割り当てた。

土井大炊頭利廣の家で出火して全焼した。

〇加藤藤松(22歳、後の肥後守)、堀尾久太郎(20歳、後の山城守忠晴)を江戸城へ呼んで秀忠は丁重に扱い饗応した。8日にそれぞれは江戸を発って自分の領地へ向かった。
(*『当代記』では、6日として記事あり。また、藤松は12歳、久太郎は14歳とある)

松平丹波守康良は常陸の笠間の城へ移って1万石を加えられ(全体で3万石)、また小笠原左衛門佐信之も上総の古河の城へ移って1万石を加えらた。(全体で2万石)

14日 加藤藤松は駿府へ着き家康に会った。家康は彼に国光の脇差を与えた。

19日 飯田左馬助貞政が享年84歳で死去した。

25日 家康は林羅山に尋ねた。

曽子 子貢一貫如何 
対曰 曾子之一貫以行而言 子貢之一貫以知而言 聖門顔子之外類悟無如子貢故有租此言 

又仰曰 所謂一貫何 
対曰 聖人之心惟一理而己然 而天下物輿事於時於處其理莫不貫
而相應相當故無行 而不得處譬如春夏秋冬寒暑晝夜之運雖不同 而一元之周流無一息間断是天下之事相什佰相千萬 而我心之所應之者 惟一理耳在君為忠在父為孝在朋友為 信其理元来不異

仰曰 参也魯然所以聞一貫者何 
春対曰 以孔子年考之曾子歳殆二十歳也 豈生質實愚 而年少以傳聖人之道哉想其気象無圭角 而人以魯斥之乎 蓋篤實不巳其外似魯耳 

仰曰 湯武之征伐権乎 
対曰 君好薬請 以薬喩之以温治寒以寒治熱 而其疾巳是常也 以熱治蒸以寒治寒 是謂反治治人 而己矣是非常也 先儒権譬也 湯武之誉不私天下唯民故耳 

仰曰 非良医反治何只恐殺人乎 
対曰 然上不桀紂 下不湯武則弑逆之大罪 天地不能容焉世人以此為口實 所謂徭夫學柳下恵者也 唯天下人心帰 而為君不帰 而為一夫云々

〇この日、江戸城で蒲生秀行の遺領63万石を嫡子の亀千代(20歳)に継がせた。松平の称号と諱の1字を与え、従5位下、下野守忠郷となった。弟の鶴松丸は中務大輔に任じ、忠知となった。秀行の正室が家康の娘だったので、忠郷も忠知も家康の外孫である。

〇この日の頃、大島逸平という浪人は、大風嵐之助、大天狗魔右衛門、風吹散右衛門、大橋摺右衛門などの悪党を引き連れて街中で喧嘩を起こし辻斬りを止めないので、彼らを捕えて斬り殺す指令が下りた。御家人の奴隷にも仲間がいるというので、大御番の松平大隅守重勝の與頭の柴山権左衛門正次が調べたところ、自分の小姓がその仲間だった。

そこで外から訴えられる前に殺してしまおうと家の下僕2,3人に命じて呼び出しだしてみると全て逸平の一味だった。彼らは自分たちが殺されるので逆に主人を殺そうと相談して、早速柴山や家人を殺して逃げた。

そこで国内に多数の検問所を置いて追跡した。ある月夜に神田の町中で笠をかぶって歩いている者がいたので捕まえてみると、柴山を殺した悪党だった。そこで、彼の住処を調べてみると仲間の名簿が見つかり、500人ほどのメンバーが書かれていた。そして親分の大鳥逸平は八王子の高幡に住んでいることもわかった。その地は大久保石見守の支配するところなので、彼の下代の内藤平左衛門が高幡に赴いた。

ちょうどその時逸平は不動堂へ相撲を観に行っていたのでそこを逮捕しようとした。大鳥はもとから相撲取だったが、内藤もまた強力だったので、2人は取っ組み合いになったが勝負がつかなかった。そこへ大勢が駆けつけて取り押さえ、江戸へ送って青山権之助(図書の養子で、実は大久保長安の子)の屋敷に監禁し、水攻めや火攻めで責めても彼は仲間の名前を1人も吐かなかった。更に、本多佐渡守、土屋権右衛門昌為、米津勘兵衛由政がいろいろと尋問すると、一言「いくら拷問しても白状しないぞ」といった。米津は我慢できず、「これほど水攻めや火攻めで痛めつけても白状しないから糞を飲ませよ」といった。

大島は怒って「士たる者でそのようなことをいうのは前代未聞である。官位があったり身分の高い者にはどんなに罪が重くても屍を汚さないというのが昔からの掟だと聞いている。だから、役人は戸といって姓につけるそうだ。士にも同様な掟がある。本当に何もわかってない奉行だ。お前の子、勘十郎も自分の仲間だ。勘十郎に糞を飲ませて聴けばいい」と怒鳴って、それから一切口を利かなかった。

この男、元は二代目本多百助信勝の家にいた勘解由という卑しい使用人だった。先年、秀忠が京都へ行った時、信勝は伏見の城の辺りで毎晩使用人を集めて馬の受け渡しや草履の扱い方を教えていたが、大勢が集まって喧しいので止めさせ、親分を捕えようとした。しかし、親分の逸平は佐渡へ逃れた。彼は大久保石見守の家で喧嘩の仲裁をうまくやったので、石見守は彼の代理の大久保信濃の家で逸平を侍にした。

その後利根で弓、馬、鉄砲、槍、剣などを鍛錬して中小姓になった。しかし、主人の家で勝手なことをするというので百助の元へ引き取らせた。すると、彼は下僕4,5人を率いて犬を連れ、駄馬に乗ってやってきたので、百助も4,5日でもう一度信濃へ送り返した。

その後、放し討ちで名を上げて江戸に来て歌舞伎の一座の棟梁になった。彼は八王子下原康重作の刀に生過二十五という字を彫って喧嘩や辻斬りを好んでやっているという実にけしからん厄介者である。逸平は今年25歳である。

彼の手下70人ほどを探し出して牢に入れた。江戸の一番町の小屋に悪党が2人籠っているところを大勢で乗り込み、大久保荒之助忠當が1人を取り押さえたが傷を負った。小笠原覚左衛門が続いて突入してもう1人を捕えた。

この捕り物騒ぎは秀忠の耳にも入り感心したという。とにかく、この連中は髪を剃って異様な風体で、長い刀を横にぶら下げ、非常に奇怪な格好をしていた。しかし、御家人の中にも若い軽はずみなものが仲間になって、彼の家来に加わる者も少なくなかったという。(*『当代記』にも6月28日の記事としてこの事件が記載されている)

26日 赤生豊後守忠誉は京都から駿府へ戻り、前の天皇の病気が快復したことを家康に伝えた。

北畠中将具康の二男の木造市兵衛具次の子、市兵衛俊宣が書院番になって給料をもらった。

27日 加藤藤松は幼くして家督を得たので、彼の長臣や老中へ指南書を送った。

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7月大

7日 七夕の祝いのために使いの水野監物忠元が江戸城へ行き、まず秀忠に先の歌舞伎の一座の事件を詳しく報告した。秀忠は残党5,60人の中に御家人の家来が含まれていると聞いて協議した。保坂長四郎暴房は「一味の何人かを捕えて番頭の家に拘留し、その領地を没収すべきだ」と提案すると、秀忠は「悪党を取り締まることは政務の重要事項である。駿府にも同類がいるはずだから調べよ」と町司の彦坂光正に命じた。

秀頼の使者の佐々間孫平が訪れ七夕の祝儀黄金100両を献上し、自分も単物帷子(*夏の着物)を献上した。

18日 京都の圓光寺は、先ほど亡くなった長老の閑室(*元佶)の遺物、『黄氏日鈔』20冊を献上した。

24日 近江の坂田郡長浜の城主、内藤豊前守信成が享年68歳で死去した。この人は内藤彌次右衛門清長の外孫であるが、実は島田又右衛門景信の二男である。

〇 ある説に、家康の母の伝通院の侍女がみごもったことがあり、廣忠(*家康の父)が彼女を景信に与えて生ませたのが信成である。この子は廣忠の落胤だという。

25日 長崎より連絡があり、明の商船と呂宋国(*ルソン国、現在のフィリピン)から帰って来た26隻の日本の商船が入港し、糸20万斤を持ってきたという。

26日 家康は伊豆の三島の代官を呼んで、「10数年前に八丈島から来た桑板があるか」と尋ねた。代官は厚さ4,5寸の板が6枚あると答えた。家康の記憶が薄れていないことを皆が驚いた。

武蔵の忍の代官深津八九郎貞久と大河内孫十郎が来たので、家康は関東の今年の作柄はどうかと尋ねた。

28日 大久保石見守が中風になったと宗哲が報告し、鳥犀圓(*牛黄、高麗人参などを混合した漢方薬)を与えた。

晦日 シャムロ国(*シャム、タイ)の商人が叚子、緋羅紗、鮫などを献上した。家康は面会して近臣に諸国の事情を尋ねさせた。(通訳は長崎から一緒に来ていた)

因果居士という外国人が京都から来た。家康は以前あったことがあり傍に呼んで「今も生きていたか、何歳になったか」と尋ねた。彼は「88歳だ」と答えた。家康は彼を駿府に滞在させて時々呼んで昔話をした。

〇今月 江戸城で大島逸平を引き出して磔に処した。彼の子分300人はすべて斬り殺された。御家人の保坂長四郎(金右衛門の子)を越後の村上へ、坂部金太夫を同じく越後の新発田へ、井上左平治(半九郎の子)を佐渡へ、米津勘十郎(勘兵衛の子)を津軽へ、岡部藤次郎を南部へ追放した。これは大島の類を逃さないための処置である。(9月だったともいわれる)(*『当代記』では、越後衆の穂坂長四郎が村上周防守預かり、同じく越後衆の坂部金太夫は溝口伯耆守預かり、奥州衆の岡部藤次は南部預かり、同じく奥州衆の米津勘十郎は津軽預かり、左平次は佐渡へ流刑となったとある)

8月小

2日 14年かかった土地の年貢の改定作業が終了した。

4日 ルソン国の王という船頭が駿府へ来て純子蜜(*?)などを献上した。

先月22日には蛮船(*ポルトガル)が長崎に入港し白糸14万斤、純子など大量に持ってきたことを奉行の長谷川左兵衛藤廣が報告した。その後オランダ船が平戸へ着岸したとの報告もあった。

9日 菅沼左衛門範政行が50歳で死去した。

13日 播磨少将池田輝政が参勤で今日駿府へ着いた。

14日 春日大社造営の願いのために一乗院門主が駿府へ来たが、丁度古田織部正重然が駿府へ来ていたので、門主と日野唯心、金地院、池田輝政、藤堂高虎を家康は数寄屋へ招いて饗応した。織部正が茶をふるまった。この頃は非常に茶道が盛んだったという。

豊後竹田の城主、中川修理太夫秀成が死去した。

15日 福島左衛門太夫参向出仕、片桐市正 元参府の謝礼として白銀3千枚、胴着10着、鳥子紙6束を献じ、古田織部正重然は紫革20枚を献じて江戸へ赴いた。

明の滄浪からの客、一官(*鄭芝龍)と租官が家康に謁見した。家康は中国の話を尋ねた。一官は数種類の薬を献じた。彼は寛永の頃の閾姓爺(*鄭成功:参考『国姓爺合戦』)の父である。

16日 本多正純一條院門主の宿を訪れ、春日大社の建設費として米2万石を家康が寄付することを伝えた。

18日 京都の大商家の角倉與一郎玄之が例年のように南蛮へ商船を派遣して、紅糸、緋更紗、綾、沈香、斑猫(*はんみょう)、葛上亭などを仕入れて、後藤庄三郎から家康へ献じた。(班猫は秋になると体に斑が出る虫なのでそういう名前がついている。葛上亭は同類の虫で、盛夏に葛の葉につく頭の黒い虫である。黎民(*れいみん)に似ているので亭長という)

〇或『秘記』によれば、家康はいつも深慮して細かいこともよくフォローしていた。外交のことは長谷川左兵衛藤廣、商売や交易については後藤庄三郎、寺の関係は金地院傳長老がアドバイザーとなって、世の中の人の産業が安定し発展するように計らっていた。

19日 日野唯心叟傳長老因果居士が家康を訪れた。雑談の中で家康が幼い頃戸田又右衛門が永楽銭5貫文で家康を織田信長方へ売ったわけを話したという。

池田輝政が駿府を発って江戸を訪れた。彼は大病を治して遠路はるばる訪れたので秀忠は喜んで本多正純に接待させた。

20日 輝政は江戸城を訪れ贈り物をしたが、秀忠の饗応を受けて茶をふるまってもらった。そして参議に任じられ松平の称号を与えられ蜂屋郷の刀と馬2匹をもらった。また、古田綾部正から乙御前の釜を与えられた。

27日 輝政は江戸を発って駿府へ向かった。

(*余談:『当代記』には28日の記事として、「黒船で来た唐人が駿河へ着いた。今回来た唐船で来た人の内オランダから来た人が、生きた鳩のような鳥一羽と大鳥を一羽駿河と江戸に贈るために京都へ来た。小鳥の方は人の言葉をそのまま返し、大鳥は頭は鶴の様で、背中の毛は猪に似ていた)とある。小鳥はインコかオウムだろう)

9月小

3日 輝政が駿府へ着いた。(*『当代記」では13日とある)

4日 家康は数寄屋にて輝政に朝食と茶をふるまった。山名禅高、藤堂高虎が同席した。床にかけてあった虚堂墨蹟を輝政に与え、墨書院で若狭政宗の刀と馬や鷹を与えた。また、摂津での狩場を与えた。(*『当代記』には15日とあり、すぐに江戸へ向ったとある)

9日 輝政は駿府を発った。(17日に京都へ着き翌日参内した。これは参議就任の挨拶である)

13日 京都黒谷が火災になり、法然上人の像が焼失した。(*『当代記』と附合)

16日 蒲生下野守(20歳)が駿府を訪れ、家康の謁見し、数日滞在した。(後の会津宰相である)

〇この日、本多正朝が甲斐守、水野元網が備後守になり、各従5位下となった。

10月大

19日 越前の福居(*福井)で、少将忠直が家臣の久世但馬を誅殺した。

先考の黄門秀康は王道に努めて諸州の将が集まって仕えていた。しかし、秀康が亡くなった後は、忠直がまだ幼かったので家老たちが互いに勢力を凌ぎあっていた。家康はこの状況を知って、もし大阪の秀頼の家来が謀議をすると同調する者もありそうだとして、要路の近江の坂田郡長濱の砦を慶長12年に修繕して内藤豊前守信成を配置していた。すると予想通り、越前家でお家騒動が起きた。

というのは、この頃佐渡の金山が栄えて京都や大坂の遊女や歌舞伎の座が集まっていた。諸国からは商人が続々とやってきては遊んでは財産を使いつくして故郷へ帰れなくなっていた。そこで、「佐渡へ行く者は3年を限りに必ず故郷へ帰る。もしその時期を過ぎると死んだと思え」と父や妻子に告げて出かけていた。

さて、久世但馬(*家老)の領地に住むある百姓も佐渡へ商売のために出て行ったが、彼の妻は越前(*忠直)の家老、岡部伊予入道自休の領民の娘で、3年経っても帰らなければ他の人に嫁いでも文句をいわないことを夫と約束した。

3年を4ヶ月過ぎても夫が佐渡から帰らないので、舅の指図で彼女は他に嫁いだ。その後元の夫が帰って来た。道中で病気になったので遅れてしまったわけだが、すでに3年という約束の期限が過ぎていたのでどうにもならなかった。しかし、彼の怒りは収まらず、嫁を他に嫁がせた舅を闇討ちにしようと久世但馬の鷹匠に頼み、舅を殺害した。

しかし、それを目撃した人がいて、「斬った男が但馬の軽率の家に逃げ込んだ」といった。元の夫の弟が但馬の軽率を勤めていたという間柄だったので、これは元夫の仕業だと衆人の意見が一致した。しかし、証拠がないので地頭の刑部伊予入道自休に訴える以外致し方がなかった。

久世は、同僚(*家老)の竹島周防守と共謀してその鷹匠を密かに殺し、遺骸を埋めさせた。その後のこと、岡部は訴人を金で募った。すると、久世が妾を与えた堀内新三郎という家来がその金を目当てに応募してきて久世の鷹匠(ある話では餌差)の仕業を訴えた。また、竹島の歩卒は鷹匠殺して逃げた者を、殺された舅の親族の所へ密かに行かせて、諸事を岡部自休へ告げた。

この状況を久世も竹島も全く知らず、岡部方が数回下手人の調査を但馬に催促したが、但馬はあえて相手にしなかった。

自休は怒って、「日ごろは懇意だから黙って我慢していたが、2人の老臣が地位を利用して勝手なことをするのは許しがたい。この家の老臣たちは財産を不正に分配しているのを自分はよく知っているので江戸に知らせば忽ち罰せられるぞ」と脅迫し、牧野主水とともに近江の彦根まで行った。

ここで財産の不正とは、生前秀康が家臣の領地を増やそうと正式な文書に捺印していたが間もなく亡くなったので、その恩禄だとして、忠直に断らず家老たちが結託して倉庫の金銀を山分けして長らく隠してきたことである。

ところが今回の事件で長臣たちが分裂して、そのことが表ざたになりそうになったわけである。もしそのことを幕府に知れると越前の老臣の多くが罰せられる。そこで忠直は岡部方へ「早く戻ってくるように。この件については、幕府の裁定を受けるべきなので、その時は久世と対決するように」と命じた。そこで自休は彦根から戻り、牧野主殿は高野山へ逃亡した。

このような次第で、久世には裁定の場に出るように幕府に命じられたが応じなかった。

そこで(*岡部方は)もともと(*岡部方の家老の)林、清水、今村と本多伊豆守(*富正)の仲が悪かったので、本多に久世を討たせ両方を滅ぼそうと計画し、しきりに少将家(*忠直)に讒言をいってそそのかした。その結果、忠直は久世の討ち手として富正に命じた。しかし、富正は自分の家来たちは久世の仲間だから彼らも罪を被るといって、岡部方が人質を出さなければ福井には行かないと府中の居城から出なかった。しかし、人質が届いたので彼は彼らを府中の城へ入れてから福井に赴いた。そして彼は久世に罪状を全て申し渡した。

そのとき、岡部方ではこれできっと但馬の方が本多を殺すだろうとほくそ笑んでいた。すると、計画通り久世の家来たちがすぐに伊豆守を取り囲んだ。しかし、但馬は岡部方が謀略で本多を使いとしていることを察して、家来たちを制止させ本多を無事に帰した。

しかし、その後、(*本多の)寄せ手が四方から乗り入れて来た。遠州高天神で名を上げた高州武太夫が一番乗りしたが槍で突き落とされた。その子の半一が引き続いて槍を合せたとき、表からは多賀谷左近(300石)、裏からは古田修理や落合主膳などが堀を乗り越えて来た。但馬方はあらかじめ堀の裏に偽の垣根を設けて逃げ出すものを全て銃で撃ち殺した。また彼は高い場所で陣頭指揮を執ったので寄せ手には多数の戦死者が出た。しかし、大勢に乗り込まれ玄関の前で抗戦した。

伊豆の先隊は小田原の大石四郎左衛門だった。久世は家中の女子供を逃がし、今は味方152人で大苦戦を強いられ、結局久世但馬は家に放火し煙に紛れて自殺した。寄せ手は207人が討ち死にし、その中の本多伊豆守の損害は討ち死28人、怪我した者は42人だった。

20日 江戸で大番士の木村三右衛門吉清が死去した。彼は天正18年に彼の父が存命だったので無禄で、相模の100石をもらい、文禄元年に150石を増やして全部で250石を持っていた。今回その子の吉次がそれを相続した。(吉次は又右衛門として備後守分長組に入った)後年、吉清の父の九郎左衛門定元が死去し、その遺領480石は三男の源太郎元正に与えられた。彼は13歳で天正11年から家康に近くにいて毎日よく働いたためである。(吉次は彌十郎高敦の先祖で元正は藤九郎元直などの祖先である)

21日 越前福居(*福井)の忠直は城下で幕府に捕まるはずの弓木左衛門入道齋安の下へ、青木新兵衛入道芳齋と永井善左衛門安盛を使いとして行かせ、彼の罪を宣告した。齋安は2人に会って、彼らが自分を今日殺しに来た使いだとみると、「話を聴くまでもない。5日前に江戸へは訴状を送ったので正しい裁きを受けて今回に関わった輩は全て殺されればよい。それで自分の屍を洗い清めよ」と述べて城へ入った。両人は指図して火砲を発した。すると弓木の家来が出て来て抗戦し、両人の寄せ手の同心30人が命を落とした。弓木はついに自殺した。上田隼人も連判していて寄せ手の役人に連れられて退いたが、残った者が奮戦したので寄せ手の多くが討ち取られた。隼人も結局自殺した。(*『当代記』と附合する)

閏10月小

2日 家康は江戸へ向かうために駿府を発った。大雨のために江尻で泊ったという。先月24日に出発するはずだったが、腫物ができたので治るのを待って今日になったという。

12日 家康は江戸城の西の丸へ着き、滞在中に相模と武蔵の境の界隈で放鷹を楽しんだ。

18日 西の丸から本城を訪れた。秀忠は厚くもてなした。

家康は越前の長臣、本多伊豆守と竹島周防の取り調べのために江戸へ来た。越前家中の騒動で、林伊賀信縄、志水丹後、今村掃部が結託して本多と竹島を罪に落とそうと駿府へ行ったが家康が江戸へ行って留守だったので江戸へ来るからである。

20日 秀忠は戸田の辺りで放鷹を楽しんだ。

22日 秀忠は川越辺りで狩をした。

25日 家康は江戸の東方で放鷹をした。秀忠は今日江戸城へ戻った。

27日 家康は忍の村で、秀忠は鴻巣で放鷹をした。

越前の臣、今村掃部、林伊賀、志水丹後が忍城へ来て家康に縷々と訴えた。一方、本多伊豆守と竹島周防も忍城へ呼び出され到着した。土井大炊頭は秀忠の命令で忍城にいて家康の用事を取り仕切っていたが、家康は大炊頭に越前の臣たちの言い分を聴かせた。

土井はすぐに今村掃部の宿に行き、本多富正も呼んで両人の間に座り、いちいち訴えを書き留めた。夜中になって家康は利勝を呼んだが、彼は慌てることなく2人の言い分を十分に聴いて詳しく記録し忍城へ持ってきた。家康はそれを2,3行読んでから、この件は江戸で秀忠と共に聴いた方がよいと利勝に記録を手渡した。

11月大

12日 竹谷の松平民部大輔家清この夏に死亡したが子がいなかった。一方、祖父の備後守清宗は隠居料3千石を次男の内記清定に渡したいと思っていたが、清宗は慶長10年11月10日に68歳で死去し、内記も同年12月11日21歳で死去したので、今度民部大輔の領地吉田の4万石を深溝の松平又八郎忠利に与えた。

この人は曽祖父の大炊頭助好、祖父の主殿助伊忠、父の主殿助家忠の3代が続いて戦死したので、又八郎の領地、三河の深溝1万石の内5千石を民部大輔家清の弟、庄次郎清昌に与え、竹谷松平の家としすぐに玄蕃と改めた。庄次郎は幼い時から秀忠の傍に仕えていたという。備後守清宗の次男の内記の子、内蔵助清信を庄次郎が養育するように命じられ、後年内臓助は與兵衛となって小禄をもらったという。

15日 浪人の大河内出雲基孝入道古頸が98歳で死去した。

20日 秀忠は戸田で放鷹をし鴻巣で2日滞在した。家康もそこで放鷹をするので秀忠は家康を待って、もてなした。

悪代官がいるという住民の訴えによって取り調べると、根拠がなかったので住民6人が獄に入れられた。

24日 秀忠は川越で放鷹をした。

25日 秀忠は江戸へ帰った。

6日 家康も江戸へ帰った。

奈良東大寺の三の倉(*正倉院か)に盗賊が入って宝物を奪った。寺の僧、福蔵院と中性院、北林院の仕業という訴えによって、すぐに3人を逮捕し取り調べると、罪を認め宝物を差し出したので、3人の僧は斬り殺された。三の倉はもともと勅封だったので、今回も柳原辨業光が鍵を持参して宝物を改めた。秀忠の使いの永井彌右衛門白元がそれに立ち会った。

(*『当代記』では、10月19日に同じ事件について記事があり、南都東臺(*大)寺の3人の僧徒と同居人1人が逮捕された。理由は6、7年前勅封の蔵の床に穴をあけて侵入し金作鶏同孟を盗み出して京都へ運び、そのまま金に換金しようとしたが、記載されている年号かを怪しまれて御物であることがばれて板倉伊賀守の番所に連絡され、取り調べによって白状したので江戸へ報告された。彼等は猿沢池の傍の籠に入れられて見世物にされたとある)

27日 江戸城の西の丸で、家康と秀忠は越前の老臣たちの訴えを直接聴いて裁いた。

本多伊予富正は、もともと岡部自休の言い分は尤もだと思ったが、久世但馬は武勇のあるもので罪に落とすのは忍びないのでわざと岡部の側について、自休の願いを果たさなかったと明言した。

竹島周防には秀康の家臣でありながら、秀康逝去の後に忠直を馬鹿にする久世に同調したことが咎められた。すると、竹島は「自分と久世は何のかかわりもなく、親しい間柄でもない。しかし、秀康が『越前へ来て嬉しいことが2つあった。第1は北陸の重要な場所に配されたこと、第2は但馬が佐々内臓助成政の優秀な士であり、越中の鳥越の城主で、彼の一族は皆が但馬を目標にしているほどの者である。大雪の中、難所を越えて濱松へ密かに赴いたときも皆が伴をしたいと望んだものだ。この時、成政が久世は富山に残すというと一同は納得して、内蔵助の選んだ者の外は皆富山の城に残った。このような有望な武将が自分の家来にいることは非常に幸いである』といつもいっていた。それほどの但馬を土民の訴えなんぞで罪に落とすことはない、と思って本多に同意して岡部のいうことを受け入れなかったのだ。自分は秀康の恩を受けた者であり、これで自分が罪を受けてもべつに困らない」といった。

28日 秀忠は今村掃部、林伊賀、志水丹後に罪があると判定した。今村は岩城へ、志水は仙台へ、林は信州上田へ流された。秀忠は本多伊豆守の言い分は理にかなっているので、これからも一段と忠直に尽くして仕事を続けるように命じた。

竹島周防も忠が厚いので元通り仕事を続けるようにといわれ国に戻ろうとしたが、前に讒言に乗せられて駿河へ行ったことを恥じて仕事は続けられないとして駿河の鞠子で自殺した。この豪放な人物が失われたのは惜しいことである。

12月大

2日 家康は江戸城から周辺へ出て放鷹をした。

3日 信州の伊奈から材木を供出するように、眞田、諏訪、仙石、保科などへ五味金右衛門政義から命じさせた。

8日 家康は岩槻の城へ行き狩をした。城主の高力摂津守忠房が面会した。家康は三河の伊奈の本多家の様子を尋ねると、彼が詳しく話したので非常に喜んだ。忠房の嫡子、隆長(後の左近太夫)が家康に会った。

12日 来年の春から、御所の造営を始めるので、大名などに分担を命じた。

南方:米澤中納言景勝、仙臺中納言政宗、山形少将義光、安芸少将正則、豊前少将忠興、紀伊侍従幸長、秋田侍従義宣、美作侍従忠政、安房侍従忠義、加藤藤松、南部信濃守利直、奥平大膳太夫忠昌、松平摂津守(本氏は奥平)忠政、松平飛騨守(本氏奥平)忠治、井伊右近太夫直勝、本多美濃守忠政

西方:越前少将忠直、播磨宰相輝政、生駒讃岐守正俊、寺澤志摩守廣高

北方:右府秀頼、尾張宰相中将義直

東方:長門少将秀就、黒田筑前守長政、丹後侍従、高知堀尾、山城守忠晴、加藤左馬助嘉明、蜂須賀阿波守至鎮、藤堂和泉守高虎、鍋島信濃守勝茂、松平土佐守忠豊、有馬玄蕃頭豊氏、田中筑後守忠政、鳥居左京亮忠政、富田信濃守知治

15日 家康は駿府へ戻った。

17日 黒田筑前守長政の子、萬徳丸(21歳、母は家康の養女の、実は保科弾正忠正の娘)が初めて家康に謁見した。父子が数品を家康に献じた。

18日 家康は諸公に茶をふるまった。唯心禅高が同席した。それぞれが退席した後、黒田萬徳丸が元服し、長光の刀、正宗の脇差、馬と鷹をもらい、右衛門佐となる。(諱と称号は後に秀忠からもらった)

19日 新庄駿河守、直頼入道、宮内法印、歳珊が享年75歳で死去した。

22日 江戸で秀忠は、南部信濃守利直の桜田の家を訪れた。浅野弾正少弼長政と古田綾部正重然も同行した。

利直には、白銀500枚、狒々緋(幅一間、長さ28間)、時服50着、大段子30巻、夜具5通りを与えた。

利直は、領内で算出した根吹の黄金50枚、馬2匹、内一匹は驪作の鞍置き、もう一匹は〇(*馬扁に卯)唐織の馬着をつけていた。嫡子重直(後の山城守)が初めて秀忠に会い、新藤五国光の短刀をもらった。

27日 秀頼は、鷹が獲った黒鶴の家康に献上した。形原の松平又七郎(若狭守になる)、松平隆信(壱岐守になる)、戸田忠能(因幡守になる)、畠山彌五郎義眞(長門守になる)が、それぞれ従5位下となる。

〇この年、家康の命令で、島津家久が密かに、琉球国の尚寧王の手紙を明の福建軍に送った。それには、「琉球国は日本呉薩摩からわずか300里ほどにあり、300年来ずっと日本国へ貢物を献じ友好関係を持ってきたが、ある時に出来の悪い王がいて貢物を届けなかった。そのために薩摩が出兵して琉球国を征服し、不幸なことに自分は捕虜となって薩摩で3年暮らした。しかし、島津家久の許しを得て帰国したが、その時に家久が「日本は貧乏ではなく、衣食もあるが、文化の程度は低く、中華のような文化の蓄積はない。できれば昔のように日本の商船の出入りを許可してもらって、交易をしたい。これは家久の願いではなく、日本の徳川将軍の意向である。交易によって得た金や織物、食料、陶磁器を、国内へ配分して不足を補いたいからである」とあった。(『南浦文集』に書かれている)

〇生駒讃岐守正俊が、従4位下となった。

〇土井大炊頭利勝に1万2千600石が加えられ、全部で4万5千石を領した。

〇安藤対馬守重信には、下総の小美川5千石を与えられ、全部で1万石となった。

〇大番頭の松平大隅守重勝を、越後少将忠輝の家来とし、三条の城へ住ませた。この人は勇猛だった能見の松平次郎右衛門重吉の4男である。

〇三浦亀千代正次は五左衛門正重の子である。母は土井利勝の妹で、土井甚太郎と改名した。しかし、元和7年にもう一度三浦に戻り、後に志摩守になった。

〇大久保主膳正幸信が花畑番頭となった。

〇青山大蔵幸成に下総の高崎村千石を追加された。

〇阿部四郎五郎正之が秀忠の使い番となる。

〇太田新六郎資宗が下野の皆川、須葉山300石を追加され、全部で800石を領した。

〇甲斐庄喜右衛門正房は、領地として河内の烏帽子形2千石をもらった。彼は父の兵右衛門正治とともに、それぞれ300石を持っていたが、慶長4年8月に父が亡くなり、その遺領を合せて600石を今まで領して来た。この人は元は、楠氏につながる一族だそうである。

〇布施仁兵衛がプロモートされ、大番衛となった。

〇逸見左馬助の長男の八左衛門義持が、初めて家康に謁見した。

〇森対馬守政行が64歳で美作の津山で死去した。

〇新藤三左衛門政次(初めは乙部源次郎)が享年49歳で死去した。宇喜多秀家が没落するまで仕えた人で、家康は見込んで御家人にしていた。

〇北条新左衛門繁廣が享年39歳で死去した。この人は左衛門太夫氏勝の子である。この人の孤児の新蔵氏長は、2歳で家を継いだ。(後の安房守)

武徳編年集成 巻61 終(2017.5.23.)