巻63 慶長19年正月~2月

慶長19年(1614)

正月大第63.jpg

朔日 譜代の大小名や近臣、番頭、物頭、諸役人、諸番が、江戸本城へ登って秀忠に新年の挨拶をした。家康は江戸に滞在中なので、秀忠、大獣公(この時は竹千代、11歳)、国君(9歳、後の駿河大納言忠長)が、新年の挨拶に西の丸を訪れて、家康に対面した。秀忠は家康に太刀(守家作)と馬代として白銀千両を献じ、大澤少将基某が披露した。

祝いの歯固(*歯固め)と、献杯の儀式が例年通り行われた。陪膳は金森左兵衛重義、喜多見長五郎重勝、内藤掃部助、酌は松平右衛門太夫正綱、御加(*添い寝)は水野隼人正忠清という。

2日 外様の大小名以下で本城へ出仕したものは、、例年通りであった。昨日本城へ登った者は、今日は西の丸へ出仕した。

秀頼の名代の薄田隼人正は、秀忠と家康に拝謁した。

今夜の恒例の謡い始が催され、着座の次第は、左は松平和泉守家乗、松平甲斐守忠良、松平丹波守康長、松平下総守忠明、加藤左馬助嘉明、小笠原左衛門佐信之、右は松平山城守忠国、小笠原兵部大輔秀政、松平外記忠實、松平阿波守定行、藤堂和泉守高虎、牧野駿河守忠成だったという。

3日 昨日、本丸へ出仕したものが、西の丸へ登城した。

5日 秀忠は本城で家康をもてなした。秀忠と大獣公が同席した。猿楽が催され、国君が高砂百萬を舞った。大御台所が観覧したので、諸士の見物は許されなかった。

6日 神官と僧侶が西の丸へ登った。(本城へ9日に出仕するように命じられた)

7日 家康は葛西へ放鷹のために、今日から18日まででかけ、下総の千葉や東金などで放鷹を行った。

14日 村越茂助直吉は、領地の相模の中原まで家康に従ったが、病気が重くて駿府へ引き返したが、今日亡くなった。

17日 大久保相模守忠隣は、京都と堺のキリスト教徒を牢屋に入れ、長崎へも船で渡って、教徒を取り調べるように命じられたので、今日京都へ赴き、藤堂高虎の館へ入って、監使と京都の役人に切支丹の寺を急襲させた。しかし、西の京と四条西寺の宣教師は、すでに九州へ逃亡していた。そこで西の京の切支丹寺を焼払い、四条の寺院は、類焼を避けるために取り壊してから焼却して教徒を捕えた。(*『当代記』と一致)

〇蒲生家の騎兵の佃亦右衛門は、当時福島正則に仕えていたが、キリスト教徒だったので厳罰に処されるはずだった。しかし、家康はこれまでの武勇を惜しんで、しばらく刑の執行を猶予させ、主人から本人に改宗するように何度も意見したが、愚かにも洗脳によって改宗しなかったので、ついに死罪となった。

18日 家康は葛西から江戸城へ戻った。去年の冬に駿府を発ってから今日までの間に、鷹が鶴を25羽、白鳥を8羽、鴨などを多数獲り、13羽の鷹が傷ついた。

〇この日、出羽の山形城の城主従4位下侍従兼、出羽守源朝臣義光が享年65歳で死去した。この人は、最上修理太夫義盛の子で、勇敢な武将だった。家臣の寒河江肥前、同十兵衛、三家河内、長岡、但馬が殉死した。

義光は情け容赦のない人物で、悪い家来の讒言を信じて、嫡男の修理太夫義康を高野山へ蟄居させ、その上、高野山へ向かう道中の庄内丸岡という場所へ、家来の戸井半左衛門を行かせてて、義康を射殺させた。二男の駿河守家親は、天正19年から家康に仕えていたので、この子に家を継がせることを望んでいたという。

〇ある話では、大阪の長臣たちは、強野望を抱いて、父や兄が家康に恨みがある諸衆の庶子や諸弟、或いは浪人や、家康に滅ぼされた武将たちをサポートした。最上家親の諸弟の清水大蔵少輔や、息子の彌一郎も、内々に彼らの誘いに乗っていた。大蔵は妹を関白秀次の妾にしたが、文禄4年に秀次が秀吉に殺され、畜生塚に遺骸を埋められたにもかかわらず、その恨みを棄てて秀頼に内応している。実に人の為すことではない。

〇越後の上総介忠輝の居城福島は、水害の多いところなので、高田に新しい城を築くよう、家康は北国と奥羽の諸侯、前田、溝口、村上、眞田、仙石、上杉、蒲生、伊達、南部、津軽、相馬、佐竹、最上などに命じた。

19日 家康は藤堂高虎を呼んで、大久保相模守忠隣の罪を密かに説明して、納得させた。

20日 家康は本多佐渡守を呼んで、大久保忠隣が、秀忠に無断で山口修理亮重政の子、伊豆守重信と勝手に婚姻を結んだ罪によって、彼の領地を没収し、近江の彦根に蟄居させるように命じた。そこで正信など老臣たちは、早速京都の板倉伊賀守の所へ連絡して、その命令を忠隣へ伝えるように命じ、忠隣の居城の小田原にいる家来や使用人までを全て追放した。(*『『当代記』では21日)

21日 安藤対馬守重信を頭に、本多出雲守忠朝、高力左近太夫忠房、松平越中守定綱、牧野駿河守忠成、浅野采女正長重を派遣して、小田原城を受け取り、本丸は3月から松平丹波守が当番となり、城郭が広すぎるので、いくつかの曲輪は取り壊すように命じた。

早朝、家康は江戸城を発って、道中で放鷹をしながら、神奈川の宿に泊まった。去年の冬から、駿府から馬廻りがすべて関東へ駆り出されて越年させられたことを、人々は大そう怪しんだが、ここで全員が駿府へ戻ったので疑わなくなった。

22日 藤澤の宿に泊まった。

23日 中原の御殿に着いた。秀忠は江戸城を発って駿府へ向かった。

24日 午後、家康は小田原城へ着き、護衛として弓鉄砲隊が駿府から来た。

25日 午後、秀忠が小田原城の二の丸へ着いて、本城で家康に対顔し、藤堂和泉守、本多佐渡守など諸侯と歓談した。秀忠は安藤次右衛門を監使として、二と三の丸を明日から駿府の人夫を使って急きょ破壊させ、明日の朝城を発つので、夜明けから西は三島まで、東は大磯平塚までに衛兵を配置して、街道の通行を遮断するように命じた。

このとき佐渡守は、最上出羽守が死去した知らせが来たことを家康に伝えたので、関東で勤務していた子の、駿河守家親を急遽山形へ帰るように命じた。

27日 家康は小田原を発ち、箱根山を越えた。山の中では5間ごとに鉄砲を持った兵を配置させて警護させ、三島に着いた。この護衛については、保田甚兵衛則宗、島彌左衛門が昨日から仕切った。秀忠は小田原から江戸へ向かった。秀忠は成瀬豊後守正武を三島に遣って、家康に食事を献じた。

28日 家康は善徳寺を宿にした。

29日 家康は駿府へ帰った。尾張参議義直、遠江参議頼宣が、川口の橋まで出迎えた。

2月小

2日 京都で板倉伊賀守勝重は奉書が届いたので、大久保忠隣の館へ赴いた。ちょうど忠隣は碁を囲んでいた。従者が来て勝重が来るのは、「主人を流刑させるための使いであるらしい」という話を伝えた。忠隣は慌てず、碁の対局を終わってから勝重に対面した。そこで彼は近江の彦根で蟄居すべきという命令を下された。京都の商人たちは、忠隣が怒って叛逆すると喧伝したので、私財を洛外へ疎開させようと大騒ぎが起きた。忠隣はこれを聞いて、準備していた武具をまとめて所司代に提出したので、洛中はすぐに収まった。そして彼が忠誠を棄てなかったことに感心した。

そもそも大久保家は、代々徳川家の重臣で、家康に尽くすことにおいては比べる者がいないほどだった。特に忠隣は11歳の秋から手柄を上げて家康に近く、武略も智謀も兼ね備え、52年間も彼の功績が際立ち、秀忠の補佐として世の尊敬を一心に集めていた。そのために自然と讒鋒(*冤罪)に陥って、奢侈僭上(身分を越えて出過ぎ、身分を越えた贅沢をしている)の汚名を被った。

彼の叔父の治右衛門忠佐は、昔からの家臣で、駿河の沼津に2万石を領していた。しかし、子の彌八郎が享年病死し、忠佐もこの春に死去した。そこで遺言で、末の弟の彦左衛門忠教に遺領が与えられることを望んだが、本家の相模守が左遷されたので、忠佐の跡式は幕府に没収され、本多上野介、安藤帯刀は、彼の沼津の城を破壊するように命じられた。

更に忠隣の嫡子加賀守忠常は、4年後に早世し、孤児となった仙丸8歳が亡父の2万石を相続した。しかし、仙丸は今年12歳になったばかりで、仙丸の母は奥平美作守信昌の娘で家康の外孫女だったので、2万石を与えられ、江戸の六本木の別宅に蟄居させられた。

忠隣の次男、石川主殿頭忠総は、外祖父の石川日向守家成の嫡子となったので、この人の禄も没収せずに東武に蟄居した。

三男の右京亮数隆、四男主膳幸信は捕えられた。五男内記成堯(石川氏)と六男刑部忠政、七男主計忠勝、妾の子の平右衛門忠尚は罪にはならなかったが、蟄居したという。

3日 浅野但馬守長晟は、去年兄の紀伊守幸長が死去したので、遺領の紀伊一円を受け継いだ。その謝礼として幕府に黄金3千両と時服20着を献じた。

4日 彗星が東から出現した。

5日 午後、大阪城本城の天守から黒い気が立つのが外から見えた。煙らしいというので、城中も城外も大騒ぎとなった。秀頼は驚いてすぐに片桐主膳正貞隆に命じて朝鮮の浪人、李文長に易林で占わせたところ、八面九口、長舌為斧、劉(*劈)破瑚璉、殷商絶後というフレーズに当たった。これは大凶の印という。秀頼は驚いて領内の神社や寺で祈祷をさせた。家来たちも住民たちも眉をひそめて訝った。

〇秀忠の近臣の青山大蔵少輔幸成とその実弟朝比奈彌太郎泰重(権左衛門泰成の養子)、森川内膳正重俊(後の出羽守)、大久保與市郎忠晟、同半助忠富、日下部河内守などは、3年前に大久保加賀守が亡くなった時、悔みを忠隣へ伝えるために幕府の許しを得ずに、密かに小田原へ行ったことを本多上野介(*正純)が秀忠に伝えたので、彼らは所領を没収された。

7日 家康は、浪人の宇都宮末房を松平虎之助忠昌(越前忠直の弟)の家臣とした。

〇『宇都宮家傳』によれば、彌三郎朝房は、去る天正17年秀吉のために滅ぼされたが、その時、妻が妊娠していた。黒田長政がそれを憐れんで筑前彦山に隠し、彼女は男子を出産した。彼は三郎未房といったが、表に出られなかった。慶長5年の関ヶ原の戦いでは、戦いに参加させる様に、長政は芳賀権之助を家康の陣へ送った。近衛信基が彼を家康に推挙したので、家康は権之助を忠昌に付けたが、そのとき末房は彼の陪臣となり、本名を避けて城井彌三郎と改名したという。

14日 執事、奉行に起證文を書くように命じた。

『敬白 起請文 前書

一、奉対両御所様 御後闇儀毛頭不可存事雖 為親子兄弟奉対両御所様 御為悪舗族並背御法度輩於有之者在様ニ可申上之事

一、今度大久保相模守〇御勘気之上以来相模守父子者不通可仕事

一、公事批判御定之儀知音之好之儀者不及申雖 為親子兄弟無依怙贔負様ニ可申付事

一、於評定所批判相談之時通ニ心底存寄之通不依善悪毛頭不相残可申出事

一、於御前被仰付候儀 就善悪無 仰其間者不致他言餘人ヘ被仰付候儀承候トイフ共當人不申出前者他言任間鋪事

一、知音立ヲ仕申合一味仕モノ人精承之可及言上候事

一、背上意候ハ知音之好タリトイフ〇入嵬〇間鋪候事

一、此衆中或背御法度儀 贔負偏頗就諸事悪事有之由達御聴候ハハ御穿鑿之上何様ニモ可被候付候

右條々於相背者罰文如常

慶長十九年二月十四日

島田兵四郎
米津勘兵衛
井上主水頭
水野監物
安藤対馬守
土井大炊頭
酒井備後守
酒井雅楽頭』

慶長19年2月14日執事・奉行起證文ー誓約書.jpg

〇『成瀬家傳』によれば、大久保相模守は、讒言者によって無実の罪に落とされたことを憂えて、歎願状を送ったという。そこで自分は祖先から何代も徳川家に仕えて、馬鹿だけれども下心も持つこともなくここまで来た。忠隣は懸命に執政に努めて、主君の恩を受けて来たが、思いがけず罪を受けることは極めて無念であり、極刑に処されようと叛心は全くないので、もう一度よく調べていただくことを嘆願したいと述べ、駿府へ願い出た。しかし、諸臣は家康の怒りを憚り、本多佐渡守父子の怒りを避けて、これを家康に達する者はいなかった。しかし、成瀬隼人正正成が、忠隣の訴えを家康に示すと、家康はこれを読んで怒らず、忠隣は贅沢をした罪は逃れられないが、逆意がないので、疑いを解いた風に見えた。皆は成瀬の勇敢さに感心した。

南光坊天海も忠隣が無実の罪に落ちたことを憐れんで、調べ直しを求めたが、家康は許さなかった。秀忠は本多正信が悪口を吐いたのを信じてしまい、忠隣を憎んだ。忠隣は彦根の中村郷に蟄居していたが、翌年井伊掃部頭直孝が兄の兵部少輔直勝に代わり、彦根を預かった。

ある時忠隣に向って「あなたが冤罪でこの地に幽閉されているのを世の人は憂っている。どうしてもう一度嘆願しないのか?」と尋ねた。忠隣は「家来が罪もなく左遷されるのはよくあることだ。これも天の思し召しだ。ここで敢えて申し開こうとするのは、上の罪をあげつらうようなものだ。だから再審は望まない」と答えた。直孝は涙を袖で拭いて退席した。

忠隣は後に彦根の石が崎という場所に移され、蟄居していたが、汚名がようやく消えるのが近づいたのか、孫嫡の仙丸忠任は名前を新十郎と改め、寛永2年に許しを得て出仕し、従五位下になり加賀守に任じた。同5年6月に忠隣は病気になって、伊勢から久志本式部大輔が来て治療を尽くしたが功がなく、その月の27日に享年78歳で死去した。法諱は渓庵道白と号した。

加賀守は忠任は、徐々に禄を得て晩年には肥前唐津城、8万石をもらって九州の探題に準じられた。

15日 家康は、近臣が夜に詰めるのを解除した。

18日 秀忠は、武蔵の浅草寺に印章を与えた。慶長19年2月18日秀忠ー浅草寺.jpg

19日 濃尾の岩村の城主、従5位下行和泉守源家乗が享年40歳で死去した。(この人は大給松平左近太夫貞乗の子である)

〇この日、佐竹右京大夫新知は、出羽の秋田から銀が産出したので、南鐐200貫を家康に献じた。

21日 秀忠の使いの大炊頭が駿府へ向かった。

22日 米津清右衛門頼勝(あるいは政信)が配所の阿波の撫養で殺された。(ある話ではこの人は武功のあった清右衛門清勝の嫡子という)

26日 松前茂廣が従5位下志摩守となった。(伊豆守慶廣の子)

この日 江戸で大火事が起きた。

27日 菅沼左近定芳が従5位下織部正となった。そして松平因幡守康元の娘を娶るように命じられた。

3月大

朔日 佐野修理太夫正綱は、去る26日の江戸城下の火事のとき、急いで居城の上野の佐野の辛澤山を発って翌日江戸城を訪れ、自分の城は高台にあって、江戸の火事が眼前によく見えた。葛西の詳細が分かったので急いで報告に来たとことを老臣に伝えた。ところが秀忠は非常に怒って、まず何事につけても命令を受けないで在所を離れるのは規則違反であるとして、辛澤山の城を破壊せよと周囲の諸侯に命じた。

そもそも天正13年、佐野小太郎宗綱が戦死してから、北条氏政の弟の右衛門佐氏忠が家督を受けたが、同18年宗綱の伯父の天徳寺了伯が京都の黒谷に住んで、太閤秀吉の道案内で小田原へ向かおうとする佐野の家来を騙して、佐野の城を奪い取った。しかし、出家した身でしかたなく、秀吉のお気に入りの富田平右衛門知信の二男を引き受けて、了伯の領地を譲った。それが今の匠伯正綱である。

彼は宗綱の娘を妻としたが、歳を経て正綱は妻と不和で家がめちゃくちゃになった。しかし、忠輝の母の甥の花井主水と男色に交わり、大久保石見守と親しくなった。

妻は我慢していたが、石見守が死去し、その子も罰せられたので、正綱の妻はこの時と正綱の亂行を訴えて、彼を隠居させて嫡男吉之亟正秀に家督を継がせる様に歎願していた。

秀忠は、正綱が大久保石見守と懇ろだったことを嫌っていたので、ここで彼の代々の領地を取り上げて、信州松本に移すように命じたということである。

3日 江戸から水野監物忠元が秀忠の使いとして駿府へ行き、城を訪れた。

6日 両傳奏廣橋権大納言兼勝、西三条権大納言實條、および廣橋辨兼賢、日野辨光慶、四辻宰相季継、高倉少将永慶は、秀忠を一品右府に叙すために江戸へ向かったが、先ほど駿府へ寄って家康に面会し、家康はもてなした。

京都の五岳の長老と祝學の徒10人が駿府を訪れた。これは金地院崇傳長老が家康に勧めたのでやって来た。

駿府ではすぐに為政以徳という題で句を作らせ、實樹多華果という題で頌(*君主を愛でる歌)を作らせた。また江戸へ行かせて秀忠は、君子徳風也小人徳草也草尚之風必〇という題で頌を作らせた。

家康は比叡山の宿老、正覚院僧正など数人を選んで来させ、高野の学僧大楽院、多門院、菴室院を呼び、更に後では興福寺の惣将院、喜多院、阿彌陀寺、東大寺の清涼院、大喜院、真言には智積院、観誠坊、長故坊、圓福寺、また、浄土宗の學匝など博洽の称のある者を呼んで、それぞれの議論法問を聴いた。

家康は各宗門の学派の僧たちに、幕府の繁栄のために独自の秘術を説くように命じた。すると真髄を説けない者や、概論ばかりを説く者の中で、天台の碩学の南光坊天海は非常に闊達に、天下の主は菩薩であると、何もかも隠すことなく要点を家康に話した。

7日 板倉伊賀守から急な知らせが届き、キリスト教の禁制を厳しくするため、この春加賀守利常はバテレンの高山右近有祥入道南坊や内藤飛騨守如安などを禁固し、京都へ送った。その後細川忠興も加々爪隼人を捕えた。更にキリスト教徒170名ほどが獄舎へ入れ、山口但馬守雅朝と調査した罪の仔細を報告した。

更に間宮楯左衛門伊治を呼んで吟味し、彼らの内高山右近の一族と、罪の重いもの男女100人ほどを、山口と間宮に長崎へ連れて行かせて、西洋国へ追放すること、残りの70人ほどは、奥州津軽の外浜へ流す様に老臣から命じるように、板倉へ奉書が送られた。

〇去年暫定的に泉南の堺の政所に補充された、柴山小兵衛正和を正式に任命した。中坊事18年の内に出るのでこれを除く(*?)。

(*『当代記』でも、3月の記述として『柴山小兵衛為2代官1自2去年1江戸朝倉藤十郎被✓遣、堺に有りけるか、渡小兵衛東下、先年於2伏見1逢2横死1中坊飛騨守守男、奈良為2代官1、是皆人之所存他と云々』とある。つまり、どちらの記述も、以前に伏見で横死した中坊飛騨守守男が今年奈良の代官になったという話は間違いだというコメントと思われる)

13日 伯耆の大山の寺務所に法令5箇条の印章を与えた。慶長19年3月13日秀忠ー5か条法令伯耆大山西楽院.jpg

武徳編年集成 巻63 終(2017.5.30.)