巻85 元和元年5月7日~9日 豊臣秀頼・淀殿死去

元和元年(1615)

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7日 昼過ぎになって越前の部隊が城に火を放った。幌の士の石川佐左衛門と小栗治右衛門は、墨楊枝で「忠直が今城を乗っ取って火を放った」と書いて、馬を馳せて家康の本陣へ駆けつけた。

家康は茶磨山へ行く途中だったが、彼らは道端にひざまずいてこれを提示した。家康は馬の傍へ呼び寄せ仔細を尋ねてから「お前たちは勘気を受けて追放したので何処へ行っているかと思えば、少将にこっそり仕えていたとは不届きな奴だ。しかし、天下分け目のこの戦いで少将が城を乗っ取ったことを知らせてくれたので許してやろう」といった。彼らは礼を述べ、放免された。1~2町進行と10軒ほどの家があって、そこで鉄砲を10発撃ったような音がした。2人は馬を家の傍に止めて急いで馬から降り、刀を構えて中に入って見たが誰もいなかった。

家康は団扇をかざしてそれを見ていて感心し「あの少将の家来たちの様子を見よ。若い時から自分が教えた連中だ」と自慢し、板倉内膳を秀忠の陣へ送って、大阪城の落城を祝わせた。秀忠も同じ趣旨を使いの安藤対馬守を家康に送ったが、途中で板倉に会った。

家康が茶磨山から4~5町のところまで来たところ、本丸から煙が立ち昇った。これは大隅與五左衛門が放火したものである。

ちょうどこの頃小出大隅守三伊が家康の許に駆けて来た。家康は「煙を見よ」というと、三伊は「自分は近頃さっぱり笑えない状況だ」と答えた。周りの者は「変な話だな」と驚いたが、家康は「お前は秀頼へ縁があるから尤もだな」と同情した。(家康は後々まで三伊は律義者だと仕えさせた)

ここで茶磨山に朱色の旗が揚げられたので、家康はあれは本多正信が揚げたのだろうと急いで馬を出して田の中に立った。家康は本多に、山の下には敵がいるので尾張と遠江の参議に急いで軍を回して敵を討ち取れと命じた。

頼宣はここまで諸軍を指揮していて、喉が渇くのを我慢して駆けて来たので、馬の上から水を求めた。三浦長門守邦時の家来の柾木治兵衛が馬に乗ったまま近づいて濁水(*川の水?)を汲んで献上した。

頼宣の遠州国附の部下に大須賀国丸という人がいた。この人は幼いが祖父の五郎左衛門康高以来、横須賀の鬼武者と呼ばれた武将である。また松平玄蕃清昌にも竹谷の武士たちが生き残っていて、田や畑を踏み越えて茶磨山の麓に着いたとき、本陣からも安藤帯刀直次が駆けて来て、頼宣に「敵はもう負けてしまった、いいところを逃がしたのは惜しいことだった。山の上に家康と秀忠がいるので会われるのがよい」と述べた。頼宣も帯刀も馬を降りて山に登った。

そのとき天守の炎上するのを見ようとしてみんなが山に登ろうとしたので、板倉内膳正重昌が金の抱半月の標の赤い幌を上げて、竹杖で止めるところだった。帯刀は大声で「常陸介頼宣だ」といえば、重昌は敬服して通した。

両参議は家康に対面した。頼宣は若いので家康は彼の髪を撫でて「今日は戦えなかったのは残念だったな」というと、頼宣は「先攻めではなく後攻めにされたので仕方がなかった。ただ、道中に時間がかかったので戦いに間に合わなかったのは非常に残念だった」と答えた。

松平右衛門太夫は「今日の戦に間に合わなかったとしても、まだ若いのでこれから先何度も戦いに会うだろう」と慰めた。すると頼宣は目を伏せて「14歳の時がまた来るかしら」と頬に涙を流した。家康も涙を流した。

先鋒から戻ってきた水野日向守などは、頼宣が非常に勇敢だったことに感心した。2人の参議は去年の冬に駐屯した場所へ行くように命じられたので、退席した。全軍はこれに従って速やかに陣を整えた。

〇本多忠勝の長男、美濃守忠政の嫡子の平八郎忠刻(後の中務大輔)は、勇ましく自ら敵と交戦して最初に首を茶磨山へ持ち込み家康を喜ばせた。

この人の弟はわずか14歳で、白糸の鎧を朱色に染め、敵の木村彌一右衛門秀里の首を取って家康に献上すると、「おまえは代々の名誉を守って幼いのによく頑張った。英雄の器だ。何かいい名前を付けたいが希望はあるか?」と尋ねた。彼は「弁慶はどうでしょう」と答えた。家康は「弁慶は下端だから武将とはいえんな」といった。すると「鎮西八郎為朝能登守教經は臂力抜羣で後世に誉れ高いので羨ましい」とのべた。そこで名前を能登とし、家に忠の字を与えて歴代の誉れを加えたいい名前を早速選ぶように林道春に命じた。道春は「忠義」がよいと進言した。傍にいた者は素晴らしいと称賛した。

諏訪部宗右衛門定吉が呼ばれ「軍旗は行軍ではもっとも重要な目印である。今日穂坂や庄田などは水澤に出くわして進軍できず遠回りをした。今後もし水澤や沼地に出会ったらまず1の旗を東の岸に立て、2の旗を捲いて西の岸へいってから開き、東の旗を捲くとよい。そうすれば諸軍は迷わないものだ。これは昔から知られたことである。お前は関東で数々の戦いでこの辺りをよく知っているので、今日の旗の件を皆に教えてくるように」と命じた。聞く者は皆、定吉のこれまでの実績に驚き称賛した。

〇越前少将忠直が茶磨山に来て家康に会った。家康は手を取って「今日敵の城へ一番乗りしたのは素晴らしい、流石は秘蔵の孫だ」と自慢げに褒めた。

畠山義春入道入菴が家康を訪ねた。家康は入菴の手を取って「また勝ったぞ。これは謙信の親戚が勇敢でよく戦ってくれたので関ヶ原に続いて昨日も勝ったのだ」と自賛した。

〇秀忠は岡山から茶磨山へ来た。家康は立ち上がって戦いの勝利を喜んだ。そして「2年にわたって出兵して今回の大勝利を得たのは、若い近臣たちに世話になったからだ」と秀忠がいうと、家康は糒(*ほしいい。おやつ程度か)を与えて、「もう日が落ちようとしている早く岡山へ戻れ。警護を厳重にするように」と命じ、秀忠は岡山へ帰った。

各隊から首が届けられた。中でも本多伊勢守康紀の子の彦次郎忠利が首を献じた時には、家康は歳を尋ねた。16歳だと知って「その年にお前の祖父の縫殿助康重は、自分が掛川の城を攻めた時に初陣で活躍した。お前の活躍はそれに劣らないな」と褒めた。(この年6月に伊勢守になり、父は豊後守となった)

横田甚右衛門尹松が、家康に会って諸軍の手柄を吟味した。問題のあった隊には注意をした。

安藤治右衛門正次の平野の陣には使いを送り、一族が十分正次の看病に努め、療養させるるように命じ、医者を送った。(正次は今月19日に死亡した)

〇藤井の松平山城守忠国と桜井の松平安房守忠吉も、自分の手柄を披露して家康を喜ばせた。

〇越後少将忠輝が家康に会いに来た。本多上野介が家康の傍へ連れて行くと、家康は「上総介、今日はどうして来たのか」といい、花井主水義雄に「堺の方に落人がくる間は、せめて忠輝の兵を行かせて治めさせよ」と命じた。上野介は「失敗をしでかしたのだから、忠輝は早く陣へ戻って謹慎するように聞き分けてほしい」と述べたので、忠輝は恥をかいて退去した。忠輝は家康の庶子の中では越後という大国を預かり、大勢力で力もあったので今回の戦いでは大活躍が見込まれていた。しかし彼はその期待に反して戦いでは血を流さず、後世に汚名を残してしまったので、家康は頭に来ていたという。

〇ある話で、秀頼方の織田主水信重は残兵を集めて城内へ引き取った。家康はそれをはるかに望んで「この期に及んでそんなことをするのは誰か?」と傍の者に尋ねた。村田権右衛門は「あれは武光式部ではないか?」と答えると「いや、赤白の段々の旗だから織田家の者だろう。お前は行って「織田家の者なら淀殿の親戚だから籠城するのも尤もであり、恨んだりはしない。命は許すといって連れ戻せ」と命じた。彼は出かけて尋ねると「主水信重だ」と答えたので、家康の意向を伝えて茶摩山に連れて来て家康に会わせた

〇毛利秀元は伝法院口へ着岸して、早速上陸し、敗残兵300人ほどを討ち取った。

〇加藤佐馬助嘉明の子の式部少輔明成は、領地の伊予の松山から大阪へ渡り今福へ向かおうとした。しかし、梅雨で神崎川が増水して渡れなかった。どうしようかと思案しているときに城から煙が上がったので、明成は身をひるがえして渡ろうとした。従士の川本五郎左衛門と黒川嘉兵衛は川へ馬を入れたが、水の流れが速くて押し流され、結局死亡した。なんとか馬筏を組んで激流を渡り敗残兵109人を討ち取った。

〇家康は、本多佐渡守の父子から城内の南部左門、中川小右衛門、村井喜兵衛、堀内主水氏久へ「落城の時には秀頼の妻(*千姫)を脱出させるように。そうすれば敵だったことを許して受け入れる」と密かに伝えていたので、本城に火が回った時堀内主水は千姫を負ぶって、南部は刑部郷の妻を負ぶって脱出しようとした。

速見、甲斐守はこれを止めようとしたが、大野修理は「それはいい。妻は秀頼の助命することを家康に頼んでくれないのか」といって彼らを城から出した。堀内と南部はようやく石垣を伝って掘りの端までたどり着き、寄せ手の坂崎出羽守に向って「これは秀頼の妻だ。間違いなく秀忠の娘だから本陣へお連れするのだ」というと、坂崎は喜んで頭巾で妻の顔を隠して、局と2人を連れて岡山の陣所へ連れて行って御家人に引き渡して、いろいろと手柄話をしたという。

〇浅井石見明政の娘の田屋茂右衛門政高の妻も、千姫と同様死を免れた。彼女は淀殿の従弟で夫の政高は今日の戦いで戦死した。妹の饗庭局は、淀殿と死を共にするために城に残った。

〇坂崎はその後茶磨山の家康の陣へ行って、自分で取った首2個を従者にもたせ、騎士を1人連れて家康の馬印の傍で馬から降りいつものように寸志を述べた(*?)。大平角介という相撲取りと鳥見の3,4人が彼に立ち向かって「礼を失する」と咎めた。すると槍の穂先を向けて寄ってきた。皆が「やめろ、やめろ」と止めたので、恥じながら首を献じて引き下がり、また岡山へ行った。

〇本丸に火が移った頃、淀殿と秀頼は2人で天守に登り自殺しようとした。大野と速見は戦いに惨敗しても援兵が来て助かることもあろうと止めた。そして母子は城からかなり離れた場所にある山里の帯曲輪は延焼を遁れられるので、そこにある倉庫へ向かった。今まで彼らについていた者は5、600人いたが皆離散して20人ほどと幼子が6,7人となって、その倉庫に隠れた。

〇夕方大野の使いの米村権右衛門が茶磨山で家康に会い、大阪方の譜代や直参は皆命を落とした。秀頼と淀殿は山里曲輪の倉庫におり、千姫はさきに岡山に逃れた。もし淀殿と秀頼の命を救えば修理亮と速見などを自殺させると申し出た。

家康はそれを聴いて了解したが、「秀忠の意向を聴きたいが夕方なので、使いの米村は後藤庄三郎光次に預け、井伊直孝の兵に倉庫を包囲させ、安藤対馬守、渡邊図書、石川八左衛門正次、今村彦兵衛重長を見張りとした。

〇ある話として、片桐且元は病気で苦しんでいたが、案内人として輿に乗って場内を見回って、焼け残りにところどころに放火したが、倉庫に人がいるので見ると秀頼なのですぐに秀忠と家康に連絡した。世の人々は市正の不義を憎まない者はいなかったという。

〇家康は小笠原信濃守と大学助の陣営に山岡五郎作景長を行かせ、父の兵部大輔秀政の戦死を弔問と両者の傷の様子を尋ねさせた。信濃守は今夜享年21歳で死亡した。(大学助は傷が治り、後年豊前の小倉で15万石を領した右近将監である)

〇安芸備後の太守、福島左衛門太夫正則の子、備後守正勝は急いで廣島を出帆したが、順風に恵まれず遅れて今日兵庫に着いた。真鍋五郎左衛門を斥候として大阪へ行かせると、天守から火が赤々と上がっているのを見て駆け戻り、秀頼が自害したことを報告した。

小関石見は「どうやって大阪城が落ちたのを知ったのか」と尋ねた。真鍋は微笑して「天守が炎上した時は城主が自殺するものだ。自分に落ち度はない」と答えた。聞く者は感心した。

8日 家康は本多上野介正純に大阪城の山里曲輪の倉庫にいるのは秀頼に間違いないかどうかを確かめさせた。そうだと分ったので加々爪甚十郎直澄と豊島主膳信満に大野修理亮治長を呼び出させ、倉庫の中にいる従者30人ほどの名前を尋ね、秀頼の命を救って高野山へ送り、淀殿には1万石を与え、女中や子供の命を救うと連絡させた。

2人は倉庫へ行き大野を呼び出すと、治長は黄色の陣羽織を着て浅黄色の鉢巻きをし、顔に膏薬を張って出て来て20間ほど離れて応答した。そうして「秀頼をどうやって説得するかが問題だ。淀殿は承知しないだろう」といって倉庫に戻った。今度は速見甲斐守時之が黒い袷を着て両使いと話し合った。その結果「二位の局に淀殿へ家康の考えを伝えてもらおう」ということになった。そこで二位の局を迎えるために片桐市正は肩輿に乗って茶磨山へ赴いた。

これは秀吉が存命の時、家康は彼女にいつも秘密事項を伝えさせていたので、今も彼女の子の川副式部を御家人にしていた。そこで今回二位の局を助けるために彼も呼び出されたという。そうして淀殿も了解したが、歩いて出るのは困るので肩輿2台を送ってほしいと修理亮と甲斐守が要請した。しかし今は肩輿が一台しかないので馬ではどうかと提案した。

ところが掃部頭の安藤対馬守重信と近藤石見守秀用が相談した結果「家康は正直で憐れみ深いので、血のつながらない母子をも救おうとしているようだ。しかしこれは後で困ったことが起きるに違いない。今のうちに母子を始末しておこう」と火砲を倉へ撃ち込んだ。すると、倉にも火薬があったらしく突然爆発が起きて、淀殿や秀頼など全員が死亡した。このため豊臣家は断絶した。(*『駿府記』では切腹を要請されて自害したとあるが、詳しいことはわからないともある)

右大臣正2位 豊臣秀頼(享年23歳)

母堂 通称淀殿(享年40歳)謚(*おくりな)大廣院 浅井備前守藤原長政の娘、母は織田備後守平信秀の娘

大野修理亮治長(48歳)、速見甲斐守時之、森豊前勝永、津川左近親行、氏家内膳入道道喜、堀対馬守、眞田大助幸昌、片岡十右衛門、伊藤武蔵守、森島長以、植原八蔵、植原三十郎、中高将監、中高平兵衛、寺尾庄右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎(17歳)、加藤彌平太、高橋半三郎(15歳)、高橋十三郎(13歳)、成田左吉三信、

乃不輿九郎後室 (織田信秀の娘で淀殿の叔母)
饗庭局 (浅井石見明政の娘、淀殿従弟)
宮内卿局 (秀頼乳母、享年39歳、木村長門守重成の母)
大蔵卿局 (大野修理亮の母)
久我女﨟、
右京大夫局
伊奈局
和期局 (伊勢国司 北畠の一族)
正榮尼 (渡邊内蔵助の母)
玉局  (紀州湯川孫左衛門の姉)
国局
由利局
壽元尼

以上の37人が全て倉庫の中で死亡した。(*『駿府記』の名簿では、32人ですべて自害とある)

〇ある話として、浅井因幡守、今村源右衛門、別所孫右衛門重棟、京極備前守は秀頼の使いとして城外にいたので死を免れた。

〇別所蔵人信正も使節として出ていたが早く帰ったので殉職した。

〇倉庫が爆発する前に逃げた2人の奴隷は堀に飛び込んだが、井伊の家臣の中村内記が火砲で撃ち殺した。どうして生け捕りにして秀頼の最後の様子を聴かなかったのかと人々は残念がったという。

〇今日早朝、蜂須賀阿波守至鎮は茶磨山と岡山を訪れ、家康と秀忠に面会し、「先月24日に阿波を出帆したが連日順風に恵まれず、遅れてようやく27日に淡路に着き29日に和泉の田川に着いた。しかし、国許に船が不足して軍勢は今も全部が着いていない。その間に浅野長政は樫井で敵と戦い勝利したが、国許の紀伊で一揆が起きて長晟が兵を出したが、田川辺りでも一揆が起きた。至鎮はその辺りの人々から人質を取って池田宮内少将忠雄の家臣の乾半左衛門に預け、淡路の由良の城に送った。浅野も紀州の一揆衆を滅ぼしたという連絡が入った。そうこうしている間に阿波からの従軍も到着したので、昨日の7日に軍勢を摂津に進軍させた。そこで大阪城に煙が上がったので落城したのに間違いないと夜を徹して進軍して来た。しかし遅れて来たので一戦も交えられなかったのは実に残念である」と述べた。

〇朝、秀忠は茶磨山を訪れ家康と会った。尾張、遠江、両参議、藤堂和泉守、本多佐渡守、安藤帯刀、成瀬隼人正が同席した。秀忠の伴の土井大炊頭などは次の間に控えた。

家康と秀忠は眞田や御宿などの首を眺めた。家康は越前家の西尾久作(後の仁左衛門)に彼等の首を取った時の様子を尋ねた。

彼は「左衛門佐は激しく抵抗したので、自分も怪我をしてようやく首を取った」と答えた。

家康は「眞田は早朝から三軍を指揮して何度も戦ったので、最後にどうしてお前のいうように戦えたのか」といって、眞田隠岐守信尹を呼んで「幸村の首に古傷があったか」と尋ねた。彼は「はっきりとは覚えていない」と答えると、「去年の冬にお前を2度左衛門佐のところへ使いにやった。その時にあったと自分に報告したにもかかわらず、その傷を覚えていないとは、いったこととえらく違うじゃないか」と咎めた。

信尹は「自分は2度とも夜中に会って話をしたが、自分も身を守るために遠くに座っていて顔には傷があったが、首までは見なかった」と謝った。

越前家の野本右近は御宿越前を討ち取った時の状況をすべて話したので、家康から褒美をもらったという。

〇昼頃、秀頼がすでに自殺したのは間違いなく、また夕方には暴風雨が来るというので、家康は急遽茶磨山を発った。

午前中は晴れていたが、やがて北から小雨が降り始め、橋本を通る頃には大雨になって駕籠を担ぐものが動けないほどになった。そこで淀の木村與総右衛門の家に立ち寄って、笠と腰蓑を付け馬に乗って進み、夜になって下鳥羽までくると、ようやく雲が晴れて星が出て来た。

二条城の大手に着くと、番兵は驚いて城代の松平隠岐守定勝に連絡する間一行は待たされ、ようやく門が開けられて寝殿に入った。そこで阿茶局が打蚫を食べさせた。機嫌は上々だったという。(慶長日記に書かれている)

〇伝えられているところでは、家康の侍女たちは伏見の城にいたが、大阪の戦場を見物しようとして、伏見から大阪へ向かっていたが途中で金地院傳長老林道春に出会い、今日昼頃に家康が茶磨山から京都へ戻るという話を聞いた。

侍女たちが引き返している時に、家康の使節の落合小平太次通と天野小三郎長信が来て、早く伏見から二条城へ行くようにという家康の命を伝えた。侍女たちは大急ぎで京都へ戻り、二条堀川筋の門へ来て入ろうとしたが、夜中で番兵が勝手には開けられず、仮の城代の定勝に連絡すると、定勝が自分で出て来て確認して入れようとすると、大手門には家康が着いてしまってバタバタした。本多佐渡守は伴の御家人に、「暴風で刀の鞘に水が入って抜けなくなるので早く抜いてみて拭き取れ」と教えたという。

9日 秀忠は安部備中守正次や高木主水正成などに命じて、大阪城の中の大手、玉造、京橋、青屋口の4か所の門に柵をして守らせ、関ヶ原の時のように凱旋歌を歌わせ、軍神の血祭の行事をしてから伏見の城へ凱旋したそうである。

秀頼の妻、千姫は大阪から二条城へ帰った。(その後伏見城へ移った)

秀頼の妾に男子が誕生したが、千姫に気兼ねして、京極若狭守忠高の母の常光院のもとへ密かに送り、領内の硎屋(*とぎや)源右衛門の後家の子として、国丸と名付け、去年で7歳となった。

秀頼が兵を挙げたとき、常光院は、国丸とその母および忠高の家来の田中六左衛門と大垣屋敷を、宗語の子(当時10歳)と共に秀頼の許へ送り帰したという噂があったので、今度の落城の騒動の時に、京尹の板倉から5歳から10歳までの子供を差し出す様に催促したという。

武徳編年集成 巻85 終(2017.6.22.)