巻12 元亀2年正月~元亀3年12月
元亀2年(1571)
正月小
元旦 武田信玄は3万5千の兵を率いて、駿河の勝山へ進軍した。
2日 信玄は深澤の城に入った。
〇以前、織田信長が伊勢を侵略した時、神戸蔵人盛友と和融して信長の三男、三七信孝を神戸の嫡子としたことがある。ところが信長は下心を抱いて、蔵人がこの正月甥の蒲生定秀を年賀に訪れたところを捕らえ、日野に監禁したという。
5日 家康は従5位上に叙された。
北条は既に武田に和融い出ているが、信玄は信用せず、小田原へ向かうといって小山田右兵衛尉信茂には飛騨の勢力を加えた1万4千の兵で鷹巣城を急撃して城将の北条左衛門太夫を引き出して戦え、又、山縣には1万の兵でを先導者を使って、小田原の諏訪原山を乗っ取らせることを決めた。
北条側は、甲州郡内の上野が原の加藤丹後へ、北条家の人質として北条右衛門佐氏尭をさし出した。加藤はすぐに北条の使い(長尾藤右衛門、日向藤十郎)と一緒に深澤へ行って、信玄にこのことを伝えた。信玄は2人の使いに荻原甚之丞昌支を添えて氏政の許へ送り、念のためにもう1人人質を加えるように要求した。そこで北条側はすぐに北条助五郎氏規をさし出した。
〇ある話では、以来北条側は、信玄が出陣するときには必ず氏政より大藤、清水、笠原の3隊を援兵として提供したいと申し出て、信玄もこれを了承した。信玄は深澤へそれら3人の武将を呼び寄せ、甲府の古籠屋小路に屋敷(30間四方)を提供し、右衛門佐氏尭を留め助五郎氏規の方は返した。
〇伝えられているところによれば、この頃、味方の高天神の兵は、弓や銃の訓練をしていた。小笠原與左衛門が毛森村の奥山から放った矢が、5町ほど飛んで南の田中まで届いたので、そこに矢塚を設けて記念とした。
7日 北条氏政は小倉資久へ感謝状を贈った。しかし、資久は北条の武力が低下しているのを見て、結局妻子と一緒に小田原から深澤へ来て、信玄の家来になった。彼は天正3年の長篠の附城、山中山では、浪人部隊として参戦し戦死した。その子は家康の隊長、森川金右衛門氏俊の与力となった。
11日 家康は侍従に任じられた。
2月大
16日 信玄は甲府を出撃した。
23日 信玄は田中の城に移った。
24日 信玄は遠州に入り、大堰(*井)川の下流の西端に駐屯して、付近を巡視してから能満寺に城を築いた。また、相良と勝間田の間の瀧境という場所に握奇(*あっき:陣形)陣を構え、砦を築こうとした。手狭な土地ではあるが、北側には山がそびえ東は海、伊豆や駿河を眼下に眺められる。西は平地が広がり、金谷、日坂、小夜、中山、諏訪原までの見通しがよい。そこで、馬場美濃氏勝に命じて、少数の兵力でも十分守れる城を築かせ、そこを相良の城とした。このため近郷へ勢力を伸ばしやすくなり、榛原郡鎌田、相良の庄を統治した。
この辺りの地士は信玄についたり、逃げ出したりといろいろであった。菅谷の川田平兵衛は小笠原長忠の勧めに応じて、家康方につくために高天神へ赴いた。この人は歴戦の勇士なので、小笠原長忠は非常に喜んで領地を与えた。
〇この日、松平兵庫親廣が死去した。
25日 信玄が近日中に高天神の城を攻撃することを、小笠原彦七郎貞頼の家来、相田又兵衛と伊野治郎右衛門が浜松の家康へ連絡した。
3月小
5日 高天神の城には、本丸に小笠原與八郎長忠が住み、渥美源五郎勝吉、村松郷左衛門、福岡太郎八、大村彌兵衛、曽根孫太夫長一、三井孫左衛門を武者奉行として500余りの兵がいた。
三の丸の備えは、小笠原與左衛門を主将として、小笠原庄太夫など一族と丹羽縫殿左衛門、村松郷八、野々山七左衛門、鈴木五郎太夫、同権太郎、中根日根之丞、松下助左衛門範久である。
西の丸には、本間八郎三郎清氏、丸尾修理義清を大将として、丸尾三郎兵衛、同五郎三郎、同新五郎、本間源右衛門、同五太夫、同兵右衛門、浅井吉兵衛、同五六郎、権田宗右衛門、山下與五右衛門、大河内孫右衛門、福富市平、小笠原治右衛門正次、岡本藤右衛門、松島五平、大原新平、高岡七兵衛、三井孫七、百々徳右衛門、佐和戸市兵衛、芝田四郎兵衛、花井八郎右衛門、西郷市郎左衛門、岡本久彌、市川門太夫、高岡彌五左衛門、同瀬左衛門、村田八右衛門、箕浦茂左衛門、杉浦一学、同彌七郎左衛門、拓殖八左衛門、西村清左衛門、同八兵衛、朝比奈新助、同十左衛門など、300あまりの兵が控えた。
御前曲輪は、斉藤宗林、小笠原河内を守将として、村松左近、その長男六郎右衛門、馬渕半一、杉浦能登郎、武藤源右衛門、向坂牛之助、安田越前、池田抜平、伏木久内、梶川魚平、浅羽次郎右衛門、漢人十右衛門、戸塚九平、小島與五右兵衛、同武左衛門、海福久右衛門、黒田九郎太夫義則、同義得入道玄忠、永田太郎左衛門清傳、粕屋善左衛門則高、斉藤権兵衛、同左門、同五郎七郎、池田左内、同十内、村井多左衛門、浅山吉兵衛、木村長兵衛、同又右衛門、市川門左衛門、荒瀬彌五左衛門、伊藤入道、松下平八、犬塚市平、同又右衛門、田中平助、赤尾孫助など200余りが備えた。
搦め手北口裏門を、渡邊金太夫照、小笠原長左衛門、林平六を主将として、杉浦左太夫、上田新左衛門、久野平太夫、同兵三郎、同三郎五郎、戸塚五左衛門、同半彌、長坂新五郎、佐々安右衛門、河上兵太夫、佐原権右衛門、村上左太夫、宮地三郎太夫、森善右衛門、奥垣入内など、250余りの兵が守った。
土方村の入口までを城内として、そこに惣門があり、ここから「水木の用(*?)」を整える大手池の段には、小笠原右京氏義、赤堀大学正信を守将として、小笠原久兵衛、小池右近、大石外記氏久、その子新次郎久米、山下七郎右衛門、村田彌総、野間與五左衛門、小島次郎右衛門、今澤源右衛門、波切金右衛門、同金十郎、村越半右衛門、川田平兵衛、同平太郎、鈴木左内、同九郎左衛門、古川清右衛門、神野八郎兵衛、村井久右衛門、丹羽彌惣、牧野勘兵衛、八木勘右衛門、前島金太夫、加藤傳次、市川傳兵衛、戸内助左衛門、今村新之丞、久世三四郎廣宣、坂部又十郎正家、奥村仁左衛門、長坂門三郎、浅羽角平、堀田九郎右衛門、同九八、松島五兵衛、山中與五右衛門、廣田五左衛門、寺西市右衛門、松浦左太夫、門奈七郎右衛門、小柳津善太夫、村松左内、村山入右衛門、小笠原與次郎、柴田作左衛門、竹田右衛門など、300余の兵が配備された。
帯郭には吉原又兵衛の組25騎、弓や銃の兵が30人、遊軍は伊達與兵衛定鎮、中山是非之助の組の騎士、足軽270人が当たり、総勢2千ほどがこの城に立て籠もった。この軍勢は家康が近隣の小領主や駿河の浪人などを與八郎に付けたことによって大勢になったものである。
信玄は高天神の城の巽にある塩買坂の原に陣を張り、偵察隊によって地理を調査させた。その結果、この場所から城までは2里半あり、その間には城の東に川(*菊川)がある。川を下ると大きな沼池がある。池の北側の上渡りと池の下の国安村にある西渡りの2箇所だけで、川が渡れることがわかった。
信玄は内藤修理昌豊を呼んで、「小笠原は若いけれども強い武将で、姉川での活躍を誇りとしている。だからこちらが激しく攻めても落すには1ヶ月はかかるだろう。その間に織田や徳川の援兵がくれば反撃するのが難しくなり大事になってしまう。したがって、今回は敵が攻撃してきたら必ず突き破るように努めよ。万が一先鋒が敗れてしまったりすると、信玄の一生の瑕瑾(*きず)になってしまうだろう。お前はこのことをしっかりわかった上で戦いに挑め」と諭した。
内藤はこれを了承して兵を進めた。川上の渡りの獅子が鼻の方には、本間八郎三郎、丸尾修理、斉藤宗林の下に雑兵250人が弓や鉄砲を備えて偵察に出た。一方、川下の渡りの海岸側の道に沿った国安村の西側の要害の地には、小笠原右京を主将として、中山是非之助、池田抜平、容輪兵助、石野藤助、吉原又兵衛、赤鍋大學、伊達與兵衛、久世、坂部、川田、大石、小池、渥美、福岡太郎八、渡邊金太夫、村越半右衛門、荒瀬彌五左衛門、林平六、杉浦能登郎、武藤彌右衛門、黒田九郎太夫、三井孫左衛門、柴田四郎兵衛、花井八郎右衛門、杉浦一學、丹羽縫殿左衛門、村松郷八、野々山七右衛門、中根日根之丞、丹羽五郎右衛門、木村長兵衛、曽根孫太夫、大村彌兵衛、村松郷右衛門、三井孫七、馬渕半市、梶川魚平、桜井九郎右衛門、安西越後などを部隊長として、與八郎の手勢も合わせて、選りすぐりの兵500人が城の大手から大坂村と三股村の渡りまでを防衛するため、軽卒を前に出して魚隣の備えで待ち受けた。
武田方は内藤修理が川を越えて3段に兵を並べ、1隊には戦闘を始めさせ、もう1隊はそれにかまわずに南西へ進んで、城兵の後ろに回って退路を断つ。また、残りの1隊は東から北へ回って獅子が鼻から来る城兵を押さえ込むという作戦で、鶴の翼のような隊形をとった。
一方、獅子が鼻から出てきた城兵は、今日はこちらには敵が攻めて来ずに三股村で戦いが始まったら、横から攻撃しようと走った。武田の大軍は塩買坂からいっせいに降りて、国安村まで長蛇のように連なった。獅子が鼻から出た城兵は、三股村に向かって味方の後方を守るために駆けつけた。三股村に配備した兵は戦慣れした武者たちなので、矢や鉄砲を激しく放って三段に備え、獅子が鼻からの兵と一緒になって応戦した。
敵は急ぐことなくゆっくりと攻めてきた。小笠原右京は3度見回って、「敵の攻撃は後になりそうに見える、しかし、むやみに大軍に突っ込んで取り囲まれないようにせよ」と、後殿して軍を戻そうとした。また、大坂山の狭い道に味方が総出で両方の山に弓や銃を段々に構えているのを見て、右京は怒って指揮棒を振り、「老巧の諸士は急いで城へ戻れ、その方が手柄になる。甲州の三段は先頭を撃つと後方部隊が攻めてきて城の前で味方を分断してくる。そして先頭は味方の背後に回って味方の後の備えを横から攻撃してくるので早く引き取れ」と何度も怒鳴ったので、城兵はスムーズに城へ戻った。この様子には敵も感心した。
内藤は城の大手惣門まで進んで火砲を激しく発したのに対して、矢島久左衛門が勇敢に応戦すると、(*内藤)昌豊は30歩後退して正々堂々と静かに兵を引き下げた。味方はその後を追撃しようとしたが、與八郎は本城から指令を発して、「塩買坂から敵の大軍が国安村まで連なって駐屯している。ここから1里半ほどの所だ。食糧が不足がちな戦いなので不意に急襲されると危ないから、城から出ないように」と制止した。
信玄は敵も敵だ、内藤もなかなかの功労者だと双方を褒めた。
城兵は、「信玄が城を抑えるために大坂村辺りに留まったら、こちらの1隊は夜中に裏門から萩原坂を越えて大谷口から大坂村の西へ出て、浜松からの援軍を装って勝鬨を上げよう。またそれに合わせて城内からも勝鬨を上げ、東からは別の1隊を進めて、掛川の城からの援兵のように見せよう。敵が慌てなければ軽く戦おう。また敵に案内がいないときには、1騎打ちで東の大谷に引き込めば道が分からない甲州勢は追撃ができない。それでも追撃してくれば、城から総出で飛び出して、一挙に信玄軍を負かそう」と話を決めた。
また、「信玄が城を攻めずに横須賀より馬伏塚の方へ攻めてくれば、横須賀の山手から追撃して、あちらこちらに伏せて火砲を浴びせ、困る敵をすぐさま山林に引き入れ、それを追撃して撃ってしまおう」などと色々作戦を練った。
6日 信玄は軍を翻して小田松鷺坂宮口を焼き払い、久野の城の間に上州の小幡を置き、掛川の城を巡視した。又、天方、飯田、秋葉山、光明山、鑰(*かぎ)掛平の城を修理し、兵を配置してから、天野宮内右衛門景貫の乾の城に行き軍勢を休養させた。又、能満寺城郭の役目がなくなったので小山の城と改名し、越後の浪人、大熊備前朝秀に守らせた。相良の新城も完成したので駿河の各地の武将が交代で守るようにと厳命した。そして信州伊奈へ戻った。今回北条との和融によって駿河の主な城にいた武将たちも、大方伊奈に戻ったと思われる。
家康は最初信玄と天竜川を境界にすると約束したが、信玄は今では大井川が境だといって三河と遠州を攻めようと企てているという。実にけしからんが、結局信玄はそれを果たすことなく死去してしまった。
26日 信玄は軍勢が整ったので伊奈郡を出発し、西三河に向かった。その数2万3千という。
〇この月、駿河から武田の海軍が、遠州掛塚へ渡ってきて村々を荒らした。家康は本多忠勝に討つように命じた。その時、大河内善兵衛政綱は本多に「あからさまにこちらの兵を見せると敵は必ず逃げてしまうので、こちらは旗をしまって、そっと掛塚に行くように」と忠告した。
忠勝はそれを守って浜松から目立たないように掛塚に行き、いきなり旗を揚げて敵が民家を荒らしているところに襲い掛かった。敵は非常に狼狽して耐えきれずに船に戻って逃げ去った。忠勝は勝鬨を上げて陣に戻った。一方、政綱は内の海の岸を見回り、敵の乗り捨てた船が3艘あったので直ちに燃やした。そこへ忠勝も駆けつけていて、彼の働きに感心した。忠勝は討ち取った首300を持って家康に見せ、政綱が敵の船を焼いたことも報告した。
〇この春、秋山伯耆晴近は東三河の設楽郡へ侵入し、田嶺の菅原刑部貞吉、その子新三郎貞忠の家臣、城所道壽、作手の奥平美作貞能の家来山崎善七郎を信玄の家来にさせた。
更に晴近は竹廣に進入すると、家康の無二の家臣の菅沼新八郎定盈、設楽の設楽甚三郎貞通、西郷の西郷一族が駆けつけて抗戦したので撤退した。
遠州の乾より、天野宮内右衛門景貫と同小四郎景廣は設楽郡長篠の東の木村に侵入した。
城主菅沼新九郎正貞(左衛門尉貞景の弟)が兵を出して応戦した。天野小四郎が最初に岩代川を渡って槍で戦った。城方の菅沼道満が戦死し、双方に多数の死傷者が出た。
城兵が城へ撤退すると、秋山は城を取り囲んだ。その頃、田嶺から城所道壽が来ていて城中の菅沼伊豆満直を騙し、城将の新九郎を降伏させ、伊豆の子、景貫は八左衛門を証人として受け取り奥平貞能の方からは一族の久兵衛の娘を人質として出し、島田の菅沼伊賀三照(故信濃定勝の子)とともに信玄の家来となった。(三照は後の入道休也と号して越前黄門に任じられた)
菅沼小大膳定利と同十郎兵衛(信濃と呼ぶときもある)も田嶺に住んでいたが、菅沼刑部は信玄を裏切って逃亡し、野田の菅沼新八郎定盈を頼って浜松へ来て家康についた。
秋山晴近は、城所道壽を新八郎定盈に向かわせて味方につけようとしたが、定盈の意志は固く、面会することさえできず道壽は追い返された。
この道壽はもとは定盈の家臣で、野田の藤井に領地があった。しかし、贅沢三昧を尽くしたので住民が憎んで租税を払わなかった。そこで田嶺の菅沼の家来となって、野田へまた戻ろうと、最初は信玄に付いて自分の妻と当時の田嶺の家来節木久内の次男を人質として信玄に贈った。
〇伝わっている話によれば、小大膳定利は、故大膳亮定継の弟で刑部定吉は定継の遺児だという。
4月大
7日 遠州の各所の郷士は武田側についていて、三河作手口から岡崎の城を襲おうと今夜紺碧郡岩津に攻め込んで、近隣を焼き払った。
家康の命令で青山喜太夫義門、同牛太夫、卯野小兵衛、阿知和右衛門尉玄鉄が駆けつけて一揆衆を全て放逐した。碧海郡阿知和村の左右という地で喜太夫が戦死した。しかし残る武将たちが奮戦して敵が眞福寺へ撤退するのを追撃して、餘喜土岐山で戦い一揆衆の残党をすべて吉田口へ追い払った。家康は非常に喜んだ。(阿知和玄鉄は野見の松平の庶流で、青山義門は渥美郡百々村の領主である)
15日 信玄は、武田上野介信光と駿河に住む武田方の武将たちに駿河を守らせ、遠州乾に穴山梅雪を主将として、信州の定番千貫100騎と10貫一匹の寄り合いに、小田原からの援兵3千を城主天野につけて家康の抑えとし、今日、西三河、加茂郡足助の城を襲撃した。この城の鈴木越後重直、喜三郎重時、兵庫助某などは砦を棄てて逃げた。一揆衆の内の彌兵衛某などは信玄についた。
信玄は下條伊豆信氏を足助の城代とし、更に同郡浅谷(城主は瀬九郎左衛門入道道悦)、八桑(那須惣右衛門)、太代(松平傳蔵近清)、足利(鈴木忠兵衛、原田彌五平)、大沼(木村藤九郎安信)の各城を攻撃した。これらの城の城主はいずれも碌が3千石未満で、もちろん兵力も少なく、大敵を相手にはできない。そこで城を放棄して浜松の旗本に身を預けた。家康は彼らが敵を負かせることができなかったのを同情して、直ぐに堪忍料を贈った。(木村安信は彌十郎高敦の先祖に当たる)彼らの中で、太代の松平傳蔵近清の子、五左衛門近正は、宗家大給の松平左近眞来の部下になったという。
〇『鈴木家伝』によれば、三河、一木の鈴木内蔵助重信(民部丞の子)は、足助城での戦いで討ち死にしたとある。
『甲陽軍鑑』では、その後信玄は鈴木党の降参した者たちを道案内として、設楽郡野田を攻めたところ、城主の菅原新八郎は退散し、山縣が37の首を取り、29日には二連木を攻めた。そこで家康は浜松から城を救おうと援兵を送った。信玄は諸軍を城の正面を攻めさせ、三方方や信州松尾の小笠原掃部助信嶺に城の後ろから攻めさせると、城兵は耐えられないと見て逃げたという(ここでは話を省略して述べている)。
この話は、徳川の『実録』や『菅沼家傳』などにも記載がなく、菅沼の野田の城が落ちたのは翌年の春である。よって『甲陽軍鑑』の記載は大きく間違っている。ただし、二連木(*野田の誤り?)の落城にはこのような間違いがあるが、二連木の落城についての記述には間違いはない。
〇この月、家康は浜松から吉田に移動し、城外に5千ほどの兵を駐屯させた。
信玄の一の先手、山縣三郎兵衛昌景は濱名峠越えて攻めてきた。二連木の援将として出ていた酒井左衛門尉忠次の家来、宮藤焼内と弟の甚太夫が駆けつけ、焼内が一の矢を発した。彼は曲輪の上から突撃してきた山縣の家来の刀まで射通し、甚太夫は次に来た武者を矢一本で射落としたので、山縣勢はそこで攻撃を止めた。その間に宮藤兄弟は二連木に帰り、左衛門尉も兵を引いて吉田に帰った。
1陣の山縣、2陣の勝頼(8千500)、あわせて1万3千の兵は、高い場所に並んでデモンストレーションを行った(これを立くらべという)。
家康は吉田城へ入った。敵が襲ってきた。戸田左門一西、大津土左衛門時隆、三宅彌次兵衛正次が後殿して、山縣方同心、広瀬郷左衛門景房と戸田が対決し、三科傳右衛門形幸と大津が槍で対決した。そこへ山縣の家来孕石源右衛門と小菅五郎兵衛元成が駆けつけた。家康は吉田城の大手の門櫓に扇の馬印を立てて状況を眺めていた。戸田や大津、三宅など山縣の兵と4度戦ったが決着はつかなかった。
信玄は敵ながらも戸田や大津、三宅らの奮闘に感心して、あのような武将を討ち取ってはならないと命じた。家康も武田の武将たち、特に廣瀬の武者ぶりに、近臣の菅沼藤蔵定政(21歳)に「廣瀬」と名乗るように命じた。三宅彌次兵衛正次(20歳)も大声で呼びかけると、廣瀬は馬上から会釈して名を名乗ったということである。
〇『神武雄備集』によると、このとき孕石と三科は白歯者(*下級の兵卒)を撃ち捕らえ、廣瀬は首を取れなかったが、信玄は三河の兵を追ったことに感心して、廣瀬を褒めて自分の咽輪を当面の褒美として与えた。甲陽の説では、信玄は戦いが終わってから廣瀬と三科を吉田城へ行かせて大津三宅を呼び出し、彼等の武勇を誉めて金の咽輪を贈ったそうである。
5月大
6日 以前信長が朝倉浅井と和融したのは信長の計略だったが、それでも信長は一応同盟を破らないように、あえて江北を攻めることを控えていた。しかし、浅井長政は耐え切れずに先日石山本願寺と謀って、江北3郡の一向宗門の信徒を動員して一揆を起こし、今日信長方の鎌羽の城を繰り返し攻撃した。横山の城に居る木下藤吉(*後の秀吉)は後詰として一揆の猛勢を破り、鎌羽の城兵と樋口三郎兵衛や多羅尾右近も突撃して、寄せ手を撃退した。秀吉勢は首を200ほど取った。以後信長は「浅井との同盟を破棄する」と宣言して再び兵を挙げた。
10日 信長は5万ほどの兵を率いて、伊勢長島の一向衆を攻撃するために出撃し、多芸と中筋の両口から3万人を進軍させて島々を焼き払わせた。
12日 信長勢が引き取り、後攻めは一は柴田、二は伊賀伊賀の守範俊、三は氏家と決められていたが、大田川の上流で一向衆による50~60艘の早舟による横からの銃撃に会って大敗し、全員が戦死した。
〇この頃、武田信玄は東三河に侵略した。家康は出撃して一宮で応戦した。小林傳四郎吉勝は家康の馬の前で敵と組み合い、片腕を切り落とされた。(中旬に信玄は本国へ帰還した)
6月小
7日 武田勝頼が幕下の天野景貫に書状を送った。
「書状」
14日 従三位行大膳太夫兼陸奥守、大江朝臣元就は、享年75歳にて安芸の吉田城で死去した。「寛仁大度深智絶才」と世にいわれる通りの人物で、普段は和歌を好み歌集を一冊残しているそうである。
7月大
〇織田家から、「浜松は信玄の領地に近いので岡崎へ移住するように」と申し渡された。家康は「浜松から岡崎へ移るのは遅れるだろう」と返事した。そして側近には「信長はなんてことをいう、この城を出て行くぐらいなら、刀を折って武士を廃業するわ」と述べたという。それを聴いて一同感激したという。
25日 遠州濱名の郷士、大屋安芸政頼は永禄12年から家康の家来だったが、叛いて信玄方についた。そこで家康は彼から没収した領地を戸田三郎右衛門と本多百助に与えた。
〇ある話として、越前の朝倉の武将、山崎魚住や半田又八郎などが、今年3月ごろから今月まで若狭の佐柿の城主、粟屋越中守勝久を攻撃した。
城には勝久と国士の山本豊後、同上野など少数しかいなかったが、越中の兵は強くてなかなか屈しないので、寄せ手はあきらめて中山というところに城を築いて、天正元年まで遠巻きにしていたが結局退散した。その後木下秀吉が来て、「城兵の勇気は武士の鏡だ」と粟屋の手を取って誉めたという。
そのころ明智光秀は、ある大きな野望を持っていて密にいろいろな武将に根回しをしていたが、かねてから秀吉が将兵の功績を手厚く誉める様子を聴いて驚嘆した。秀吉はいつも勇士をこのように誉めたという。
8月小
21日 信長は近江の新村の城を落として、新村筑後守資良など670人余りを討ち取った。嫡子の資則と次男五郎助氏秀は駿河へ逃れた。
26日 信長は小谷の城と山本山の通路を断って、余湖(*余呉)、木の本辺りを焼き払った。
9月大
朔日 信長勢に屈して、小川の城主、小川孫一裕忠(後土佐守)や金森の城主など全てが降伏した。
5日 上杉謙信は、家来の萩田與三兵衛に家康への書状と贈り物を届けさせた。特に植村出羽守家政には「備前長光の刀」、修験者の出立に使う板具足を贈り、酒井忠次と松平眞来へも書状を送った。石川家成への手紙が伝わっているのでここに示す。
13日 信長は偵察によって、「比叡山の衆徒が企みをしている。去年は朝倉浅井を比叡山に呼び込み都を犯そうとした、今度は武田信玄と通じて彼の上洛を促した。これは下道の大敵、仏法の大魔なので、早くその根を取り除いて葉が茂らないようにすべきだ」として、今日に未明から比叡山を取り囲み攻撃した。3千の大衆が防戦したが、あちらこちらに放火され、山王21社、根本中堂、文殊楼、三撘(*とう)などすべてが灰燼に喫した。死傷した僧徒は数え切れなかった。
金剛相模という大力強弓の僧が、如意が嶽から信長のいる東坂本の大鳥居に弓を放つと、信長の馬の太腿に命中して馬は死んだ。また、信長が大鳥居の石の上に腰を掛けて、山の上の炎を見渡していると、相模は二の矢を発してその石に当たり鏃が裂けた。近臣が鳥銃をいっせいに如意嶽に向けて発射すると、相模はさっと逃げ去った。この矢の根は1尺2寸もあり、後年京都の大仏殿の宝庫に収められたという。
信長は比叡山を征服して坂本に城を築き、明智光秀に滋賀郡を添えて与えた。比叡山の宗徒の反乱はこれ以来起きなくなった。
〇信長は永禄12年から朝山日来上人、島田民部に命じて、御所や仙洞御所の改築をさせていたが、今年ようやく完成した。天皇や上皇は非常に喜んだ。信長は戦時なので日ごろ所領からの年貢も一揆で得難いだろうと案じて、京都の大商人などに金を貸して、毎月の利子を天皇へ納めるように厳命した。
12月小
〇武田信玄は三河を攻撃しようとした。その関係で家康は吉田の城で新年を迎えようと浜松の城から移動した。(または、上旬だったという話もある)
28日 信玄は6~7千騎で二連木へ出撃した。今夜、本多忠勝は敵陣へ夜討ちを掛けた。河内善兵衛政綱が活躍した。
29日 早朝に信玄軍は吉田の城へ押し寄せた。
大久保彦十郎忠為(26歳、後権右衛門と改名)はただ一人総門から飛び出して、槍を倒して武田の斥候を待ち受けた。続いて大津土左衛門時隆と大久保甚七郎忠長(後甚右衛門と改める)が馬を降りて、忠為の左右分かれて片肘をついて待った。
家康は彼らを見殺しにするなと命じて、味方も大勢加勢し、敵の大軍に怯まず応戦したので、武田勢は引き返した。家康は忠為を呼んで、「今日吉田の城を守れたのはおまえ一人のお陰だ」と誉めた。また、土佐左衛門甚七郎にも、「忠為が死ぬところをおまえが早くかけつけ、それによってみんなが奮闘して大敵を退却させた。なかなかの勇敢だった」と褒美を与えたという。(この件は『甲陽軍監』の『興源記』にはないが、徳川家の書籍によった)
信長は口では甘いことをいうが腹には危険な下心があって、甲越の2雄(*信玄と謙信)を欺いて倒そうと企んでいたが、今のところ両者が信長を攻める様子がないので、両家に親しく接していた。そして甲州へは漆を所望した。信玄は青沼助兵衛忠吉に命じて漆3千樽を用意して、信長の使節に渡したという。
元亀3年(1572)
この年は10月の一言坂の退却から、12月の味方原の戦いがあった。このことは『四戦紀聞』に詳しいのでここでは概要だけ述べる。
正月大
〇上旬 信長の3人の息子が元服した。嫡男奇妙(*丸)を勘九郎信忠、次男茶筅(*ちゃせん)丸を三之助信雄、三男三七郎を信孝とした。信雄は北畠具教の養子、信孝は神戸蔵人盛友の継子である)
13日 家康は駿河へ使いを出すために遠州金谷に出かけた。
酒井左衛門尉忠次と小笠原與八郎長忠は井呂ヶ瀬を渡って、島田河原に陣を敷いて巡視して帰った。本間八郎三郎清氏には亡父長季の領地を与えた。
19日 家康は浜松へ帰った。
武田信玄は、家康と上杉謙信とが密かに通じていることは知らなかったので、「今回徳川が大井川を越えて駿河へ侵入したのは、前に大井川を境とすると約束しながら自分が三河と遠州へ兵を出したので、その憂さ晴らしにきた」と考えて、「これを塩に兵を挙げて三河と遠州を略奪しよう」と使いを浜松へ送り、「前に天竜川までだと約束したのに、この約束を破って駿河へ出陣したのはおかしい」と申し送った。
28日 越中の椎名肥前守泰胤は甲府へ急使を派遣し、「徳川家は去年遠州秋葉の加納坊熊谷小次郎直包を越後に派遣して、謙信と連合を組んで武田家を滅ぼす計画をしている」という話を聞いたと告げた。これで信玄は徳川勢が駿河へ出てきたわけを悟って、家康と謙信に組まれては武田は危ういと考えるようになったという。
4月大
28日 上杉謙信は家康の味方として信玄の分国、信州の長沼へ出撃し、放火や乱暴を避け、相手の武器の備えの様子を調査した。そこへ伊奈から武田四郎勝頼が800あまりの兵で出撃してきた。謙信は味方が少いのでこれでは8千の敵と戦うようなものだと柿崎景家を後殿として兵を収めた。
7月大
江北の浅井の勢力が衰えているので、朝倉義景は援軍として2万の兵で今日柳カ瀬まで出兵した。彼らは一両日その地に滞在して、小谷の辺りの大嶽の麓に駐屯した。しかし、朝倉の兵は弱く信長が小谷城を攻略するために頻りに増強している虎御前山の城の建設を妨げることもできず、時が過ぎていたという。
8月小
中旬のこと、家康は植村彌三郎と中川市助を使節として、越後の春日山の城の謙信へ書状を届け、互いに協力し合うことを約束した。その時輝虎は菅沼定盈と植村家政にも書状を送った。
10月小
3日 武田信玄は3万5千の兵を率いて甲州を出撃し、山縣三郎兵衛昌景に5千余の兵を加えて信州より直接東三河へ向かった。この頃は雪が深いて謙信が信州と上野の間に攻め込んでくる心配がないからである。
信玄は遠州に到着して、乾の天野宮内右衛門景貫を道案内として、多々羅と飯田の城を抜いて、久野の城を攻めた。一方、家康は浜松から内藤三左衛門信成らを斥候として見付の原へ向かわせた。ところがそこにはすでに敵が木原と西島に着いていた。
浜松から本多平八郎忠勝らが駆けつけた。それに力を得て信成が引き返そうとすると、敵が襲ってきた。味方は「見付の町に火を放って煙にまぎれて逃げれば、敵は道が不案内であわてるのでそのとき引き返して撃退しよう」と相談して火を放ったが、意外なことに敵は地理を心得ていて、見付の台に押しかけてきて、一言坂の下まで乗り込んできた。
味方の梅津某はようやく岩や石を落とし、大久保勘七郎忠正は火砲を、都築藤一郎は弓を構えて後殿した。味方は励ましあって戦った。勘七郎は12間離れて鳥銃を発したが、敵を撃ちはずした。藤一郎は矢を発し、大久保治右衛門忠佐、同荒之助忠直、渡邊一族は槍を取って返すときに、本多忠勝(唐の頭懸し兜をかぶっていた)は敵味方の間に駆け込んで、縦横に駆けまわり味方を1騎も討たせず兵を全て帰還させた。
家康は成瀬吉右衛門正一に、「忠勝の働きは八幡宮の化身のようだ」と誉めた。甲陽の小杉右近による「家康の過ぎたる者は」の狂歌は、この時のことである。(*家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八)
〇大久保忠教による『参河記』によれば、家康は勘七郎を呼んで、「何故12間あまりの距離なのに敵を撃ち損じてしまったのか?」と尋ねた。忠正は、「都築が弓で後殿しているのに安心して火砲を発したが、すこし躊躇して打ち損じてしまいました」と答えた。藤一郎は、「勘七郎が後殿しているので自分も踏ん張って矢を放とうとした」というと、
忠正の兄の治右衛門忠佐は、「藤一のいうのは弟に任してくれたためだろう、どうして一人で後殿をしなかったのか?」と尋ねた。(*後殿は名誉なので譲ってくれたのだろう?の意味)都築は、「そうではない、忠正は坂ノ下口で弓入れの緒が解けるのを見て、自分も踏ん張ったのだ」と答えた。
家康は笑って、「お前たちは互いに謙遜しているな、忠正は鳥銃の中間部分に手を掛けて火皿の下を支えて撃ったのではないか?」と尋ねると、勘七郎は「そうだ」と答えた。
家康は「見付けの台から退いて息が高ぶっていたから、いつもとは照準が狂うのだ。お前は隠すことはない。息が上がっているときには、火皿の下を持って狙えば息をはいた時には筒が上がって、息を吸った時には筒が下がるのだ。このように息が上がっているときには、両手で引き金の下を持って放てば、筒の先は狂わずに標的をはずすことはないよ」と教えた。
因みに調べてみると、浜松から見付けの駅までは3里7町(*約15km)ある。木原、西島、三賀の橋は袋井と見付けの間となる。
〇その後、信玄は遠州豊田郡二股の城を穴山梅雪と典厩(*信玄の弟、信繁)で攻撃した。しかし、この城は城壁が高く城将の中根平左衛門正照、援軍の武将大草の松平善四郎康安(後の喜兵衛、石見守)、青木又四郎貞治が激しく防戦した。山縣馬場は巡視して、「この城の東は小川があり、西には天竜川がある。城は高い所にあるから櫓を立てて、岸からつるべで天竜川の水をくみ上げている。もっとも天竜川の流れは速いが、上流から大縄で筏をたくさん流してつるべの綱を切り、城兵の水を断てば、別に血を流さずとも城は落ちるだろう」として、その方法で給水を断った。家康は救援のために笠懸山まで来ていたが、城には伝わらず、結局渇きに耐え切れず、彼らは城を開け放して浜松に帰った。
一方、武田方は、濱名郡宇都山の城は敵陣に近いので孤立させようとした。松平備後守清喜は竹谷の領地を嫡子に譲って隠遁していたが、宇都山に救援して守りたいと申し出た。
家康は感心して、友長村千貫の領地を与えた。桜井の松平與一郎忠正と設楽甚三郎貞通は三河野田の城の援兵として赴いた。本多太郎左衛門と青木所右衛門一重は遠州高天神の小笠原を加勢のために立て籠もったという。この一重は、徳川を離れてから秀吉に仕え、七隊の一将として民部少輔に任じられた。服部権太夫政光は海と陸の防衛として、東村の砦に立て籠もった。
11月大
〇上旬、信長の援兵、九頭と荒井は本坂から浜松へ徐々に進軍してきた。
26日 信玄は美濃の岩村の関山派大園寺の希庵和尚をたびたび甲州へ呼んでいたが、この和尚が余りに残忍で乱暴なので怒り、秋山伯耆に命じて信州下伊那の忍び、松澤源五郎、小田切與助、林甚助を刺客として、今日希庵を暗殺した。
〇小幡景憲の伝記によれば、信玄は希庵を殺させた月から歯草の疾(*歯槽膿漏)に侵されてなかなか苦しんだという。
〇下旬 信玄の使節、日向玄東斎宗英は、遠州の陣より朝倉義景の近江大嶽の陣中を訪れ、朝倉に会って信玄宛の返書を受けとった。
「返書」
〇細川六郎昭元(後の右京太夫)は家康に急ぎの連絡を入れた。彼は三好方の武将だけれども、3月以来信長についていたからである。この人は右京兆晴元の子で、幼名を聡明丸勝之という。
12月大
21日 信玄3万5千の兵で浜松城外の村に放火した。翌日には井谷に向かって長篠へ行こうと味方原(*三方が原)の辺りの前山村に駐屯した。家康は打って出て戦おうと思ったが、信長の密命によって、11月以来援軍の武将たちは家康に戦わないように何度も仕向け、1か月以上とどまらせた。今日もしきりに戦いを始めないようにと働きかけたという。
22日 信玄は味方が原へ進軍して長者原に向かうために堀田へ下がろうとしたところへ、浜松の兵士が5騎、10騎と出て雑兵を進めて石を投げさせた。甲陽方からも多数が出て石を投げあった。味方が2千騎兵を出撃すると家康も出撃した。
武田勢は兵80騎兵を一列に並べ、信玄は斥候を出してその様子を偵察して「ここは広い平原で座して戦いやすい」と考え、家康軍の強さも知っているので、全員が表には出ず低く構えた。しかし、家康側は敵に対応できないほどの微力で、初めは何とかなったが結局は大敗した。家康の一世一代の大失敗というのはこの戦いである。
幸いなことに彼は浜松城へ戻れたものの、死傷者が多数出た。大久保忠世らが後殿して兵を浜松城へ収めて防戦に努めたので、敵は城の傍まで攻めてきたが落とされずに済んだ。戦いが終わった夜に、家康は松平玄蕃允清宗を堀江の城主、大澤左衛門佐基允の援兵として送った。
〇伝わるところによれば、渡邊半蔵の働きに対して、家康は遠州浜名郡吉備村70貫、豊田郡立野村30貫を加えて与えた。榊原九右衛門政吉は味方が原にて敵と槍で対戦し、その子八兵衛政成は首を取った。家康は感謝状と赤根の羽織を与えた。杉浦八郎五郎鎮貞、筧又蔵両人は進んで敵を射払った。家康はそれぞれに矢を2本与えた。
菅沼藤蔵定政は大久保五郎右衛門忠勝が怪我したのを助け、鞍の前に抱いて味方の陣まで戻った。忠勝がその事情を家康に伝え、家康は彼に「長光の刀」を与えた。水野惣兵衛忠重の功績に対して、頭型の兜と佛胴黒漆で紺の紐の鎧を与えた。
鳳来寺薬師堂別当安養院は兵を集めて軍功があった。このため遠州捧原郡に領地を与えられた。この僧は植村帯刀の子で、還俗して土佐守として非常に勇敢であった。
〇斯波治部大輔義遠の弟、津川彌太郎義長、次男牧喜右衛門長治の養子、右衛門四郎長定は榊原康政の家来で、味方が原で怪我をして危なかったところを、丹羽六太夫、酒井與九郎重頼が救って浜松に返したが瑕が深くて遂に死亡した。享年42歳、その子又十郎長次、瀧川一益の部隊に属して功績があった。一益は沈淪(*ちんりん:落ちぶれる)してから後に御家人になった(助左衛門長勝と改名)。
〇甲陽の説に、岡部治郎右衛門(次郎左衛門長勝となる)と落合市之丞は、信玄の予想に反して馬場の部隊に加わって一番乗りを狙った。彼らは浜松の軍団の中の金の制札の指物(*のぼり)と金の桃燈の捺物の武将に目をつけて襲い掛かり、岡部は制札の指物の武将を討ち取り、落合は桃燈の指物の武将の首を取って指物を添えて持ち帰ったが、その時馬場には見せなかった。
そうして2人は手柄を一緒にあげようとあらかじめ約束していたかのように「がんばろう」と声を掛け合って勇名を上げた。しかし、敵が弱くてばらばらになって逃げれば、味方にどんな援軍がいてもそんなことは出来なかっただろうが、浜松方が勇敢に戦いながらも勝てずに整然と退却したおかげで、2人は思うようにことが運べたという。
〇信長の使節として大橋與左衛門重賢は20日岐阜をたって、今日夕方味方が原の陣で家康に会った。しかし、そこへ武田方が攻めてきて、重賢の家来、吉田市三郎、妻木彦八が戦死した。重賢は家康とともに妙光寺口から浜松の城へ逃げ込んだが、後日家康は彼に「国行の刀」を褒美として与えた。
〇『夏目家記』によると、次郎左衛門吉信は浜松城の留守番役だったが、櫓から戦場を眺めていたが、急いで家康のところへ駆けつけ、「敵が勝ち戦になっているのですぐに城へ帰るように」と進言した。すると家康は、「自分の城で負けてしまうと生きていても仕方がない、また敵を背中にして戻るのも難しい」と伴に「馬の口を放せ(*自分は敵に向かいたい)」と鐙で伴の者を蹴った。吉信は「馬を放すなと叫び」続けて馬を降り、轡に飛びついて家康を諌めた。また、「家康の名前を語って身代わりになるので城へ戻って欲しい」と懇願した。家康はしぶしぶその願いを受け入れた。そこで吉信は柳助九郎などを従者として家康を城へ戻らせてから、槍を鞭として馬を馳せ、「家康だ」と十文字の槍で敵を二人倒して突撃し、味方32~33人とともに戦死した。(55歳)
〇一説に、今日は福釜の松平三郎次郎康俊が300人で浜松の城の留守番をしていたという。
〇外山小作正重は、以前家康の使者として信玄の元に行き「当麻の槍」をもらった。今日その槍で一番乗りをしたが戦死してしまった。上方の浪人の中川上元兄弟は家康に仕えて浜松城にいたが、彼らだけが掛川へ逃亡したという。
23日 敵はまだ味方が原に陣を張り、名栗に穴山の勢力が張り番をしていた。家康方の兵が出撃して敵を7人討ち取ったという。信玄はこの見張り役を日に2度3度交代させていたと『甲陽軍鑑』には書かれている。
24日 信玄は結局浜松城を攻めずに、平口村を経て引佐郡刑部村に行き、そこで年を越した。
〇ある説に、山縣三郎兵衛が井平に駐留しているとき、井谷の近藤右衛門秀用と家来の長瀬與兵衛があちこちに潜んで敵を6人討ち取った。山縣は怒って隣村の住民に尋ねたると、近藤平右衛門が犯人だと矢文で知らされたという。
〇『松井家伝』によれば、石原三郎右衛門の子、茂兵衛一次の母は、松井左近忠次の妹である。そこで一次を忠次の子として松井の姓を与えた。一次は味方が原の戦いに参加し、10数人の仲間とともに奮戦したが命を落とした。その時彼は25歳でまだ子供がいなかった。そこで、家康は、野見の松平越中守の長男、茂兵衛一定に松井家を継がせて、領地を与えた。しかし、この人も慶長庚子(慶長5年:1600年)伏見で戦死した。
武徳編年集成 巻12 終
コメント