巻13 天正元年正月~11月 足利幕府崩壊
天正元年(1573)
正月小
武田信玄は遠州の引佐郡刑部に駐屯した。浜松に近いところである。先月22日に味方が原で家康軍は大敗を喫したが、その翌日にもかかわらず、石川日向守家成が、加勢の為に夜中に兵を率いて浜松城へ来たので浜松城内は大いに意気が上がっていた。それには武田方も感心した。
7日 武田信玄は遠州の刑部を発って本坂を越え、井谷、三河の長篠を経て、奥郡へ攻撃を仕掛けた。
上野中務大輔秀政が信玄に将軍義昭の書状を届けた。それは「織田・徳川と和融して天下を平定するよう」と命じたものだった。しかし信玄はこれには応じず、言葉巧みに信長と家康の五章(*御託?)を並べた。そうして刑部の陣から平手汎秀(*織田の武将で家康とともに三方原で破れ、武田信玄に討ち取られた)の首を岐阜へ送り、信長が家康へ援軍を送る妨害をした。
信長はもともと謀略を常としていたので、織田掃部助信昌を信玄の備えとしていた。信玄は前に信長の計略にかかったことに後悔して、今回は将軍の命令にも耳を貸さず、以後信長と絶交した。(信玄は刑部を正月3日に出発させたという説は間違っている)
11日 信玄は3万5千余りの兵を率いて奥郡へ進んだが、途中の藪の中で野田の城を見つけた。
この城には城主菅沼新八郎定盈と援軍の将、桜井の松平與一郎忠正、川路の設楽甚三郎貞道らが400人ほどで立て籠もっていた。信玄は直ぐにこの城を攻めて、昼夜を分かたず鐘や太鼓、法螺を吹き鳴らし、竹を束ねて亀の甲羅をたたき、しきりに鉄砲で攻撃を加えた。彼らは数日間で2~3の曲輪を破ったが、守りは鉄壁で城兵たちは命がけで防戦した。
武田軍は城の堀まで迫って、城を囲んで出入りを閉ざし、巽の側から城に攻め込み、井戸の水を流した。そのため城内には食料も水もなくなり、浜松へ救援を求めた。家康は大敗の後ではあったが、かまわず出撃して笠頭山まで進軍した。しかし、敵の反撃が激しいので吉田の城に入り、小栗大六重常を使いとして、信長へ援塀の派兵を要請したが、信長は援兵を送らなかった。
さて、野田の城の中にはたまたま伊勢の山田の住人で村松芳休という者が来ていた。この人は見事な笛を毎夜奏でるので、敵方も喜んで聴いていた。ある日のこと、信玄の兵が紙を竹の笠につけて丘の上に建てた。これを鳥居三左衛門が城内から見つけ、「ひょっとしてあそこに信玄が来る合図ではないか、これを的として鉄砲を撃てばよい」と考えて銃を携て待っていた。
その夜、芳休が笛を吹くと、予想通り信玄がその丘に出てきて笛を聴いた。そこを鳥居が狙撃すると弾丸が信玄の耳をかすり、彼は倒れて気絶した。敵は大慌てで信玄を陣へ運び入れて傷の手当てをした。信玄は、軍を動かすことにおいては誰よりも優れた武将であるが、どうしてこのような失敗をしてしまったのだろう? もっとも、彼は父、信虎を追放し、跡取りを殺し、甥の氏眞の国を奪い取たりする酷い人物だから、天罰が降りたのだろうと自分(*高敦)は思う。
15日 菅原定盈の甥、菅原弾正左衛門貞俊は、信玄に「定盈と援兵の松平忠正は自殺する。だから城兵の命は助けてくれ」と頼んだ。信玄は彼らの勇気に感心して、定盈と忠正を殺さず城兵の命も助けて逃がした。そうして、定盈と忠正を二の丸へ軟禁して、山縣の兵に守らせた。
17日 武田信玄が前に幕府へ送った訴状に対抗して、信長は信玄の暴虐を訴える9カ条を記して、上野中務大輔秀政に託して義昭に伝えた。
〇信玄は野田から菅沼新八郎、松平與一郎を長篠の城へ送り、篭城での飢えと渇きを癒させるので自分の味方につくように勧めた。ところが両者は考えを変えなかった。
一方、去年山家三方の豪族で、筑手の奥平監物貞勝、同じく美作貞能、同九八郎信昌、多嶺の菅沼刑部定吉と息新三郎貞忠、長篠の菅沼新九郎正貞らは家康に叛いて信玄に付いたが、その質子が今も家康に囚われていた。そこで彼らは「この機会に定盈と忠正を浜松城へ帰し、その代わりに家康から人質を取り返してほしい」と信玄に頼んだ。これを信玄は了承した。また、去年信玄が氏眞を放逐したときに、以前家康が今川氏眞へ送った酒井左衛門尉の女を信玄が捕らえて甲府に連れて帰っていたので、「これも定盈や忠正と一緒に浜松へ送るから、山家三方の人質と交換しよう」と家康に提案した。家康は直ぐに了承した。
22日 宇佐美助右衛門長元が家康の御家人になった。
2月小
7日 奥平久兵衛貞直が死去した。この人は三河の日近村の生まれで、最初長助貞次と呼ばれ、また貞頼とも呼ばれた。その長男の貞友が家督を継いで藤兵衛といい、天正13年享年40歳で死去した。
14日 家康は書簡を越後の謙信へ送った。
『書状』
15日 家康は2千余りの兵で山家三方衆の人質を警護して、長篠の馬場、廣瀬の川端に行った。武田も2千の兵で菅原新八郎(後の綾部正に任じる)と松平與一郎を警護し、酒井左衛門尉の女とともに廣瀬川の中洲において、双方は人質の交換を行った。家康は菅沼の忠義に感銘して遠州に領地を与え厚遇した。
信玄は長篠に陣を敷いて城の増強をしていたが、野田で受けた弾丸の傷が痛むので、援兵を作手の城に置いて甲州へ兵を引いた。(或いは信玄は2月15日の夜に傷を受けて16日には甲州へ帰ったという話もある)
3月大
9日 信玄は傷が癒えたので三河の野田へ向かう照山に出て城を築こうとした。その時高坂弾正晴久が夢で「家光る山の松の枝、千代の春」を見た。弾正はこれは非常に悪い夢だと不吉を憶えた。しかし信玄は東美濃へ出撃した。
この頃、本多作左衛門は出撃して、寺の宮という南朝の天皇家の末裔を追放した。この人は遠州に落延びて、浜松から3里ほど離れた入野に4百石の領地を40年前から持って、家康についていたが、去年信玄方に転向したためである。彼は追放された後、京都へ逃れて程なく死去したという。
15日 信玄は美濃の岩村の城を攻撃した。城主遠山内匠助は死去したが一族は防戦した。信長が1万人の偵察部隊を送り込むと、馬場美濃氏勝の雑兵800ほどが駆けつけた。信長は武田の猛威を恐れているようなふりをして、信玄を霍乱するために兵を分散させた。予想通り敵は勝ち誇った。
別の説ではこれは馬場の威勢に押されて、信長が戦わず引いたのだとして、信玄は彼に信の一字を美濃に与え、以来馬場は信房と名を改めたという。
16日 武田家の武将、秋山伯耆晴近の策略で、遠山の一族7人と和融し、信長の援兵35騎を討ち取り岩村の城を受け取った。また内匠助の後室を自分の妻とし、養子御房丸を甲陽へ送った。
この子供は実は織田信長の庶子だったので、後日信長は激怒した。信玄は喜んで秋山を岩村の城代に任じ、土岐と遠山の統治をさせた。また、三河の鳳来寺に向かわせ、牛窪の長澤を見回らせて設楽郡宮崎に砦を築き、信州の浦野兵部および東美濃の落人と山家三方の役人30騎に守らせた。
更に、加茂郡足助の城代、下條伊豆信氏を岩村に行かせ、足助の兵士、鈴木彌兵衛と信州伊奈郡平谷玄蕃、浪合備前、駒場丹波、その外、孕石主水、由比市之丞、同彌兵衛、小林正林、城所高尾郡内安左衛門など76騎と軽卒頭、小幡又兵衛昌盛に足助の城を警護させた。更に西江山に本陣を置いて、山縣の組に上野の信濃駿河の寄り合い衆を加え、吉田城を攻めようとした。しかし、信玄の傷が再び悪化したので、ついに信州の平谷浪合へ兵を移した。
信玄は三河の一ノ宮鳳来寺、遠州可久輪、六笠天方などの城を修理して、昨年家康と戦って負けて甲陽へ逃げ込んだ連中や、去年の冬以来信玄の道案内をした者たちを、それらの城に置き、二股城の守護にも加えた。
家康は彼らを敢えて攻めずに孤立させることとして、息子の三郎信康を設楽郡へ出陣させた。初陣のために野見の松平次郎右衛門重吉がこれまでの勲功によって彼に鎧を着せる係りを務めたので皆は羨んだ。
三郎(14歳)はまず嶺の内、武節の城を攻撃した。菅沼刑部貞吉の兵はすぐに敗退した。(伏せ地の城とはこの城のことである)。更に足助へ軍を進め、城将の鈴木彌兵衛と援兵は逃げ去った。家康も後から出陣したが、敵が敗退したので、鈴木越後重直と同喜三郎重時にもう一度領地を与え、足助を復帰させた。
遠州の周知郡天方へ平岩七之助親吉に攻撃させた。援将の久野弾正宗政は大手門から飛び出して応戦した。味方の先陣の大久保新十郎忠隣は敵の首を取った。渡邊半十郎政綱は苦戦した。兄の半蔵守綱が救援に来たが、弾丸に当たって傷を負った。しかし彼は敵を追い払って平気で引き戻った。親吉の部下の遠州先方の兵が城の外郭を打ち破って、城へ攻め込んだ。
2日の間、久野宗政と城主、天方山城守通綱(本氏山内田領3千石)は防戦したが、城壁の修理が間に合わず、その上兵力も少なかったので、山城守は再び降参して残兵は裏門から甲陽へ逃げ去った。
久野弾正は永禄11年に今川についたが、甥の久野宗能に追われてからは甲州へ行き武田についていたという。
可久輪の城を、石川日向守と久野三郎左衛門宗能が宵に攻撃して、明け方に城は陥落し、城兵を切り殺した。すると六笠と一宮の城は戦わずして逃亡し、砦はどれも落とされた。(この時蓬莱寺の城は落ちていない。落城と記した書物は間違いである)
24日 征夷大将軍権大納言源義昭は、織田信長のお陰で足利幕府を再興し武家の棟梁となったが、浅はかで密に甲陽の武田、三好などと結託して、三井寺の光浄院、近江山中の磯貝、渡邊らを味方につけて堅田と石山に城を築いて信長に戦いを挑んだ。信長と柴田、丹羽、明智らは、今日石山城を攻撃して落としたという。
29日 信長勢は堅田の城を攻撃した。
4月小
4日 信長は二条城の御所を包囲し、義昭は講和を申し出た。信長は了承し包囲を解いて兵を引いた。
12日 駿河、甲州、信州三国と上野、飛騨の各半分を押さえていた大膳太夫従5位下源晴信入道信玄の傷が再発し、信州平谷波合の陣で死去した。享年53歳。
孫の信勝が相続したが、遺言により信玄の死は死後3年間は隠して病気中だとして勝頼が陣代を務めた。信玄は戦いに120回ほど出て、38年間に兵学を拓き後世まで伝わっている。彼は部下を愛し民を豊かにしたが、甲州と越後の2家は戦いを繰り返し、政令が厳しすぎて人望を失ったという。
〇『甲陽軍鑑末書』によると、山縣三郎兵衛の部下の盈石主水の取った首を、一条信就の家来の須賀左衛門が子分7人ほどを連れてきて奪い取った。しかし、そのことが明るみに出て須賀一族は磔にされた。
小田切某は首を奪ったことで、頭髪を半分剃られたままで甲陽へ連行され、身体の筋を切られた上に7日間甲府を歩かされ、穴山小路で妻子とともに竹の鋸で切り殺されたという。乱世の掟は厳しいものとはいえ、他人が取った首を奪ったというだけの罪が、主君を殺したり親を殺したりすることと同程度の罪として刑に処してよいものだろうか。希庵和尚を殺し盲人を焼き殺すような残忍さではなかろうか。信玄が没して10年も経たずして、武田家は滅亡し、甲斐の国は滅び、武田一族は途絶えた。後世の人はこのことをよく憶えておくべきである。
5月小
6日 家康は岡崎城から出撃した。
9日 大井川を越えて駿河の岡部へ進軍し、敵地を焼き作物を刈り取った。これはこの時点では家康は信玄が没したことを知らず、信玄とは絶対に和融しないと誓っていたためである。
10日 遠州 掛川の城まで兵を引いた。
13日 三河の吉田の城に駐屯し、長篠の民を呼んで敵の城の情報を集めた。
14日 武田方が立て籠もる長篠の城へ偵察に行った。
28日 武田四郎勝頼の軍勢が三河と遠州へ向かって出撃した。その軍勢は武田逍遥軒信綱、一條右衛門太夫信就、山縣昌景など4千ほどだった。
〇『甲陽軍鑑』によれば、この時三河の森の郷で、逍遥軒は徳川勢と交戦して敗北したが、山縣が救援して本多廣隆の兵を追撃し、首を32個得て、翌日に甲州へ帰還したというのは間違いで、森の戦が終わったのはこの年の秋である。
6月大
〇家康は二股の敵城に対抗して、社山と江台寺島の2箇所に城を築いた。(『武徳大成』に一屋城山の城とあるのは、昔のひらがなの書を写したために間違ったものである。よく調べると本文のようになる)(*この書物は林信篤,木下順庵(新井白石の推薦者)らによって編纂され貞享3 (1686) 年完成した。彼等は官学派の儒学者である)
7月大
6日 将軍義昭は再び信長に対して兵を挙げた。今日から信長は京都に入り、義昭のいない二条の陣を激しく攻め、日野大納言藤原輝資、高倉宰相藤原永相、伊勢守貞徳、三淵大和守藤英が応戦したが耐え切れず降参した。
7日 義昭の立て籠もっている宇治槇島の城へ信長は出撃した。宇治川を梶川彌三郎高盛が先に進んで、各軍勢は中島を西に向かって進軍し一時坂を抜こうとした。将軍方は耐え切れず和融を申し入れて城を開けて河内、若江へ敗走した。尊氏以来、足利家は234年で途絶えた。(*足利幕府崩壊)
19日 家康は武田方の菅沼新九郎正貞と援軍の弾正左衛門貞俊、諸賀、小泉らが立て籠もっている城、長篠へ進軍した。
20日 家康は長篠城を攻撃したが、城兵はわざと旗を揚げず音も立てなかった。そこで家康は試しに火の矢を二の丸へ射込むと、南風に乗って火が広がり二の丸の外郭は燃えてしまった。城兵は本丸で何とか防戦したが、兵器や食料が燃えてしまったので困った。家康は久間山と山中山の2箇所に城を築いて、酒井忠次と菅沼定盈に守らせ、滝川を隔てて有見原、古昌水坂、篠原、岩代という要所に兵を配置させて浜松へ帰った。
〇ある説では、家康は長篠の城を攻めるときに、遠州先方衆で高天神の鋭兵、坂部又蔵は城兵が発した銃弾に当たって兜も打ち抜かれ気絶した。薬で息を吹き返したが、岡崎に帰ってから5日目に死亡したという。
27日 信長は公方衆が立て籠もる淀の城を陥落させた。
細川藤孝の家来、下津権内は、城将の岩成主税助左通を討ち取った。その後、信長方の荒木摂津守村重は、和田伊賀守惟政の城、摂津の芥川の城を急襲し合戦となった。惟政は荒木の甥、中川瀬兵衛清秀に首を預け、息子の八郎惟貞は近江矢島に逃れた(後年家康の御家人となる)。摂津の伊丹兵庫守親興は信長によって滅ぼされた。
〇今月 家康は使いの者に書状を上杉謙信へ届けさせた。謙信は大いに喜んで、返事とともに家康に馬を贈った。植村家政にも激励文を贈った。
〇信長は、細川六郎昭元を従5位下に叙し、右京太夫にして宇治真木島の城代にした。(諱を贈り信意とした)
8月小
〇家康が去年から武田方の長篠城を攻撃してきたので、羽書(*羽激、急ぎの連絡)が甲陽に届き、武田勝頼が再び数千の軍勢で城を救おうと出兵した。大将は武田左馬助信豊である。小山田右兵衛尉信茂、土屋右衛門尉直村、穴山梅雪らは大通寺山、醫王寺山、君ヶ伏床、姥ヶ懐、岩代川辺りに駐屯し、馬場氏勝は内金村小福寺の上にある二ツ山に陣を張り、長篠の寄せ手と数回交戦した。家康方の久間山の附城に甲州方が押し寄せて、酒井・菅沼勢と戦った。この戦いでは天野宮内右衛門景貫や天野小四郎などに功績があった。
8日 家康は設楽郡で、長篠城の援軍である武田軍と対峙したが、馬場氏勝の二ツ山のなど、敵の城はみな有利な場所にあるために城兵を誘き出して討ち取ろうと考えた。
幸い風が強かったので松葉を積んで火をつけ、陣を焼いて撤退したかに見せかけ伏兵を配置した。しかし、馬場は煙が白く見えるのは陣を棄てる煙ではなくきっと罠だろうと兵を出さなかった。
小山田と穴山勢は追撃して功績を上げようと5騎、3騎と飛び出てきた。伏兵は飛び出したが、早く飛び出しすぎて敵はわき道に逃れたので討ち取ることは出来なかった。また、敵ももともとは長篠を救うために来ているので、ここでの合戦を避けて黒瀬へ退いた。また、穴山や山縣も兵を遠州へ向かわせ、その地域を焼き払った。
〇小幡景憲による『中興源記』によれば、家康は長篠を攻めたとき武田方を追い詰めるために、旗本と酒井左衛門尉、石川伯耆守の3隊で天地人の備えをしたという。『甲陽軍鑑』に記された甲州方の退散の月日は大いに間違っている。
12日 夜、朝倉と浅井の兵が守っている江北、大嶽の城で火事が起きた。信長は当時虎御前山に駐屯していたが、早速出撃して二の丸と三の丸を急襲して落とした。越前の援軍の城将は、斉藤と小林が城に迫ってきたので、浅井の武将千田や井口とともに城を棄てて退去した。
13日 信長勢は江北、丁野の城を攻撃した。
城将中島惣左衛門と援兵の越前の玉仙房實は實光院の城へ退避した。
朝倉義景は9日より2~3万の兵を率いて田神山に陣を敷いていた。各軍隊は、地蔵山、徐湖、木の本あたりに駐屯していたが、大嶽と丁野が落ちたのに気落ちして、夜中に陣に火を放って柳ヶ瀬へ退却した。信長はこれを予め察して味方の軍に命じて待ち構えてさせていたが、煙を見るや信長は馬に鞭をいれて追撃した。諸軍は油断して彼に従うのに間に合わなかった。しかし、前田利家、佐々成政、戸田半右衛門勝重、下方左近貞清、岡田助右衛門善教、湯浅甚助一忠、福富平左衛門定次、赤座七郎右衛門、高木左吉、岡田助三郎善同は信長より先に飛び出した。また、兼松又四郎正吉は草履もはかずに信長について駆けた。信長は常に刀の鞆に草鞋を一足持っていて、それを兼松に与えた。
敵は中の河内と刀根口の2筋に分かれて退却していたが、信長方は刀根口へ追撃して、朝倉治部大輔、同土佐守、同掃部助、一色治郎少輔、斉藤右兵衛太夫龍興、後殿の将、山崎長門守吉家、詑美越後守を始め3千800ほどを切り殺した。
14日 信長は越前の敦賀の港に着いた。江北の7~8箇所と越前の数箇所の敵城は戦えず全て逃亡した。信長は今度の戦いで得た首を残らず検分した。
15日 朝倉義景は居城の一乗谷へ帰ったが、味方の将兵がすべて敗北して散ってしまったので防戦もかなわず呆然としていた。
この日、三河の長篠の兵は、家康軍の攻撃に耐えられず甲陽の加番の諸賀入道一葉軒は、秘蔵の鷹を本多忠勝に渡して家康に贈り、城将菅沼新九郎正貞とともに鳳来寺へ逃げた。ただし、別の説として、このとき甲陽の後詰の将も陣所を棄てて黒瀬に帰ったとあるのは間違いである。
16日 朝倉義景は居城を離れて一族を連れて式部大輔景鏡の大野郡亥山の城を目指し、深夜亥山の近くの東雲寺まで逃げた。しかし、一族の三郎景胤、その子孫三郎景健、魚任備後守景固など、また譜代の面々も信長に降伏して義景の居場所を教えたので、式部大輔景鏡も耐えかねて信長の追手を呼び寄せた。
20日 義景が隠れていた山田の庄六坊へ、式部景鏡が平泉寺の衆徒とともに押しかけた。義景に同行していた10人ほどの騎士が矢で防戦し、景鏡の裏切りを罵った。
朝倉義景が自殺した。享年41歳だった。家来の高橋甚三郎が介錯し自分も自害した。鳥居兵庫助など全てが殉死した。
〇調べてみると、朝倉の先祖は文明3年(1471:*応仁の乱の真っ只中)越前の牧にはじまり、それから103年で滅んだ。
〇三河の長篠の城が落ちたので、武田が劣勢であるという噂が近隣諸国に流れ、馬場や山縣は憤慨したが、勝頼が憤慨しないのを不満に思い家康と勝敗を決しようとした。
三河の作手の築手の村の奥平監物貞勝入道道文、その子美作守貞能、孫の九八郎信昌は勇敢なことで知られていた。またその一族には両山の修理定良、夏山の浄旨入道、萩の周防日近の藤兵衛などいずれも強い武将で、本家に仕えて先陣を努めることができた。ところが道文は近年信玄の強さに惹かれて、家康を叛いて武田についていた。
当時勝頼の大将の甘利が作手の城にいて、奥平父子はその城の外郭を守っていた。孫の九八郎は若いが学問が好きで、信玄が死んだという噂に兼ねてから勉強していた易道によってその噂を占い、それが嘘でないことを悟った。そこに本多豊後守廣孝と同姓百助信俊から、家康は自分たちが味方へ復帰するように勧めていると聞き、九八郎は彌祖翁貞勝や父、貞能に相談して家康に再びつくことを密に決めた。
黒瀬に駐在していた武田の将、土屋右衛門直村は作手に移り、甘利左衛門清吉は築手に陣を敷いていた。設楽へ出撃したが難所で立ち往生したが、「徳川家が吉田筋より退却するときに東西から挟み撃ちをして退路を塞いで勝敗を決しよう」と相談した。
勝頼は奥平貞能に人質を出すように命じた。貞能は疑って家臣と相談した結果、下手をすれば家が破滅するので貞能の庶子千丸(または千千代、23歳)に長臣、黒屋甚九郎を添えて武田方へ贈った。勝頼は更に千丸の母も質に出せと要求してきたので、病だとして出さなかった。その後、貞能は家臣の夏目五郎左衛門に、武田方の計略を家康に伝えさせた。そのため、家康は吉川の谷道を経て帰路に着いた。それを見て敵は貞能が内通したことを悟った。典厩信豊が黒瀬からの使いとして来て貞能は呼び出された。貞能はすぐに黒瀬に行った。
段嶺からも勝頼の検使、城所道壽が来て、典厩の老臣小池五郎左衛門とともに貞能に面会した。そして、「このごろお前は裏切っているという噂があるので神妙にせよ」といった。すると貞能は平然として、「最近は親子の間も疑わなければならないが、自分の愛する息子を人質に出しているときに何を疑うことがあるというのだ」と驚かなかった。左馬助はなおも疑って「碁を打とう」といった。貞能は承知して静かに碁を打った。そして暇を請うて、手門外に出ると、道壽が走ってきて呼び戻し、いい時節なので食事をして帰れといった。
貞能が引き返して食事をしている間に、道壽は門の外へ出て行って、待っていた貞能の家臣に、「主人は反逆が明るみになって今討ち取られた」と説いた。しかし、従者の内、奥平平六兵衛は笑って驚くこともなかった。それは貞能が予め「武田方から何をいわれても自分の首を見るまでは驚くな」と教えていたからである。
こうして、貞能は自分の居城へ帰ってから本丸に火砲を放ち、その夜の内に一族はすべて退散した。敵は貞能一族を討ち取ろうと追撃し、石ヶ根の坂あたりで貞能に追いついて交戦した。貞能はわずか200騎で500騎あまりの武田勢を撃退し、無傷で岩崎山まで撤退した。かねて家康は彼と日時を打ち合わせていたので、松平主殿助伊忠、本多豊後守廣孝、その子彦次郎康重をそこに迎いにいかせ、皆は瀧山に着いた。
翌日家康の指示で、平岩七之助親吉と内藤金一郎家永も瀧山に来て、貞能の援将らとともに浜松へ向かった。その後、黒屋甚九郎は千丸を救出しようと赴いたが捕まえられ、先に貞能の一族の奥平藤兵衛の女、於阿和も質になったが、千丸と一緒に厳重に監禁された。
21日 奥平父子は200余の兵で再び瀧山へ帰り一重の柵を作って辺りを焼き払った。
武田勢は500あまり、作手から滝山へ出撃した。その時奥平父子は瀧山の山麓に兵を配置して火砲を激しく撃ち、追撃して田原の城の辺りで3度ほど交戦した。そのとき奥平助次郎貞包など50余人が命を落した。家康は石川数正と本多廣孝に貞能を救援に行かせ、彼らを救った。築手の城から甲州勢は赤羽根に出撃し、家康軍を迎え撃ったが敗北し、貞能は敵の首を多数取り、島田の村を焼き払った。
22日 甲州方は貞能父子をひどく憎んで、貞能の子、千丸と奥平藤兵衛貞友の女を鳳来寺の旅所、金剛堂で磔にした。作手の夏山の遊仙寺には千丸の墓が残っている。日近に助左衛門という人がいて、間道からそっと貞友の女の遺骸を日近へ持ち帰り葬った。(法諱半古秀榮、天正元年9月22日と過去帳にある) 家康は藤兵衛を憐れんで、彼の娘を異母弟の長福の嫁にした。長福はすなわち松平隠岐守定勝である。
24日 信長の陣所、府中の龍門寺へ式部景鏡が行き、義景と子の愛王丸、そして捕虜を信長に渡した。信長は直ぐ義景の首を長谷川宗仁に命じて京都に運び、獄門に吊るさせた。また、愛王丸は今荘の辺りの帰る里という場所で殺害した。
信長はこの地ではきっと一揆起きるだろうと熟慮して譜代を守護とせず、浅井の落ち武者の前波九郎兵衛吉継を桂田播磨守と改めさせた上、諱の一字を与え、長俊として一乗谷に住まわせ、当分の守護代とした。
北荘は近江の要地なので、津田九郎次郎、木下助左衛門、明智十兵衛光秀を三奉行として配した。その外今回の戦いで負けた者には責めずに領地を与えて、敦賀10万石は優れた人材であるといわれていた若狭の国人の武藤惣右衛門景次に与えた。(この景次が亡くなった後、その子の彌兵衛次久が家督を継いだが、天正7年7月摂津の戦で亡くなった。信長はそれを憐れんで、彼の稚児、助十郎助友に遺領を与えた。しかし、この子は早世してしまった。そしてこの家は断絶したという)
28日 信長は数日前に越前からの帰り直ぐに小谷の城を攻撃した。
浅井父子が立て籠もる二つの曲輪の中間にある京極が嶽にいる浅井の家来は攻撃に耐えられず、木下秀吉に降伏した。そのために二つの曲輪の連絡が途絶え、遂に今日、浅井下野守久政は自害し、浅井福壽庵貞政、東野千田西山猿楽太夫、鶴松らは殉死した。備前守長政の妻は信長の妹なので、3人の娘を城内から出して信長の陣営へ送られた。
9月大
朔日 浅井備前守長政は小谷の城下、赤尾美作の宿所において自殺した。
浅井縫殿助、新七郎、木村太郎次郎、小四郎、中島九郎次郎、彌兵衛、與三、脇坂助四郎、甚助は最後まで戦って戦死した。浅井石見明政、赤尾美作は捕虜となり殺された。浅井の領地3郡の内12万石は小谷の城とともに木下藤吉に与え、また隣の村の侍を木下の捕虜とした。磯野や阿閉堀次郎などである。(磯野は新庄6万石、阿閉は山本山2万石、堀は坂田郡6万石という)
4日 信長は近江の鯰江の城を攻めて、佐々木右衛門佐義弼は降伏したが、信長は容赦せず彼らは滅びた。しかし、その父はその時も甲賀口石部の城に立て籠もっていたという。
8日 先に長篠の篭城の際、菅原新九郎正貞のところへ牧野康成と戸田忠次から、家康方になった方がよいという家康の意向が伝えられた。
菅原弾正左衛門貞俊も勝頼を見限ってこれをしきりに勧めたので、正貞も家康につくことを了承した。そこで家康は直筆の書簡を送った。しかし、菅原伊豆満直が武田を叛くことを望まなかったので、正貞は家康につくことができず、先月15日長篠を援将とともに退却して鳳来寺の砦に住んでいた。
彼には家康につく下心があることを典厩上屋が漏れ聞いたので、調査を始め今日も家宅捜査をしようとした。そこで正貞の家臣、浅井牛平は正貞の妻子のところへ来て、家康の書状、牧野などの密書を全て焼却した。そのために甲州勢が来た時も証拠が得られなかった。それでも典厩信豊は疑いを捨てず、正貞夫婦を小諸堀内の獄舎に入れた。
その後2人には1子が出来た。それから10年を経て、正貞は死去し勝頼も死んだが、正貞の後室は家康が猟で甲州へ来たとき、その子を連れて書状を牧野右馬允に託した。安藤彦兵衛直次が家康に見せると家康は憐れんで、早速駿府へ連れて帰り、三河の田口で500石を与えて田口半兵衛と改名し、牧野康成の隊に入れた。後には南龍院殿(*徳川頼宣)の家来となった菅沼半兵衛というのはこの人である。
勝頼は質として取っていた奥平九八郎の妻を磔にしたという。
10日 浜松城の留守番役の大須賀、榊原、大久保、本多作左衛門は遠州へ出撃し、森の郷の辺りを侵略している逍遥軒と堀越で合戦し敵は大敗した。
家康は長篠の城へ向けて徳川の勢力を集め、遠州へ出撃した。鵜飼山梨に進駐する一条右衛門太夫信就、武田左衛門太夫信光、山縣兵衛昌景などは長篠が既に落ちて、森の郷に向かった味方が負けたことを聴いて、戦いは不利だと陣に紙の旗を掲げて夜の内に逃げ去った。味方は逃げ遅れた数10人を斬って帰った。
信玄が死んだことは隠されていたが、先に野田の城で弾が左の耳際をかすり馬から落ちて気絶し、いろいろ治療したが、その後痛みが再発して帰国する途中、鳳来寺で休んだ。彼が輿から降りられず薬を飲んでも顔色なく憔悴している様子を寺の僧が盗み見て、早速三河や遠州へそのことをいいふらした。その後信玄は死んだが、その風評が流れて数ヶ月で甲陽の軍勢が負けたとなると、三河や遠州では武田は恐れるに足らずといわれるようになり、勝頼も業を煮やして蓬莱寺の辺りの民を募って一揆を起こさせようと企てた。
ところが植村土佐守泰忠は、去年まで蓬莱寺の長使安徳院で、今は武将となってこの謀を家康に知らせた。家康は三浦九兵衛、久貝市右衛門、福王五左衛門、渡辺半兵衛、黒右衛門に対して、鳳来寺は敵地に近いので一揆衆がそちらへ逃れて行ける様に図って、討ち取るように密に命じた。
20日 渡邊半兵衛、弟黒右衛門の力で一揆の張本人を討ち、浜松に帰った。家康はその素早さを誉めた。勝頼はこのことを知らず、兵1万5千で遠州へ出撃し、久野、溝川に向かってあちこちを焼き払いつつ本陣を見付国府に置いた。更に天竜川の上の瀬を渡って浜松へ迫り、馬籠川を隔てて足軽軍で家康を侵そうとしたが、去る7月から穴山と馬場が敗北し、長篠の城も落されて作戦がまとまらず、一揆も起こせず計画は失敗に終わったので、甘露の瀬を渡って社山を越えて、山梨へ出て、須雲原に陣を張った。
浜松の侍で池田喜平次という人がいた。彼は賭博にはまって財産を無くし、勝頼の陣営に入って馬を盗もうとして囚われた。敵が彼に浜松のことを尋ねると、城は堅固で、糧米も豊富で、兵は団結して死も伴にしようとしていることを武田は悟った。喜平次は隙を見て逃げ出し浜松に帰って家康に感心された。勝頼は結局兵を収めて二股と乾、光明、鍵掛山、相良、多々良など自分の城を見回ってから帰路に赴き、入坂の切り通しを過ぎるところで、掛川の城主、石川日向守家成は与力の味岡平定に勝頼を監視させた。味岡は鉄砲の術に優れていたからである。ところが裏切り者がいて、これを馬場氏勝に知らせた。氏勝は勝山を捜索して味岡と家来を捕らえた。勝頼は怒って彼らを殺した。
結局勝頼は敵国に攻め込みながらも兵を引いてしまった。この結果に典厩信豊と馬場氏勝は心配になって金谷の台地に堅固な城を築いた。(諏訪原の城である)。この城は高天神を落して城東郡を手に入れるためである。
高天神からはこの築城を妨害するために小笠原與左衛門を大将として渡邊、久世、坂部、渥美、本間、松下、杉浦、伊達などから選ばれた30騎と徒歩、軽卒500人が3手に分かれて攻撃した。1隊は諏訪原の南方の薬師山に登って狼煙をあげ、あとの2隊は左右から深い谷に潜んだ。
武田方は掛川城を押さえるために小夜、中山、菊川に兵を配し、高天神の軍を迎撃するために海側の南ノ原に布陣したが、徳川勢の狼煙を見て織田が徳川の救援に来たと間違って驚き、斥候を出して調べると、高天神から出た小数の兵だと知って武田の先陣を3隊に分けて討ち取ろうとした。
馬場氏勝は「この場所が慣れない所だから、相手が少ないといって勝てるとは限らない」といって交戦を止めさせた。そのため城兵は5~6日で城に戻った。諏訪原の築城はうまく捗り、勝頼はこの城に諸賀、小泉などを配置した。
〇信長は上杉謙信へ時服(*朝廷から春と秋に支給される衣服代)5重ね、洛中洛外の風景、源氏物語の屏風、2双を狩野永徳に極彩色で書かせたものを、柴田右馬助、稲葉彌助に届けさせた。この2人は、何年も前から謙信の城下に住んで、謙信の動向を窺いながら関西の様子を流していた。これはもちろん信長の計略で、上杉家を武田のように手なずけておいて、その間に関西方面を制圧するためである。
11月小
16日 信長は今月10日から三好左京太夫義継の河内若江の城を攻撃した。義継は懸命に防戦に努めたが遂に力尽き、今日天守にて自害した。この人は修理太夫長慶の養子で、長慶の弟、十河民部大輔の子である。
〇補足すると、三好家は、小笠原家と同流で、元祖、長清の次男長房が阿州の三好の郷に住んでいた。建武以来細川家の家来で陪臣になっていた。その後戦乱で細川家が衰えて、陪臣として権力を握って4代続いた。その内将軍家を蔑ろにしていたが、文治年間から14代、380余年で一族はすべて滅んだ。
〇ある話によれば、謙信入道は、甲州長延寺實了を呼んで勝頼に講和を持ちかけた。これは今年7月、織田信長が将軍義昭を追放してから後に、義昭が書状を甲州・相模・越後に送って、上杉―武田―北条が手を組んで足利幕府を再興しようと謀ったからである。勝頼は愚かにもこの提案に応じなかったという。
〇ある書物によれば、義昭が将軍を降りたのち、妹婿の若狭の武田大膳太夫義統の一族、高浜の逸見駿河守昌経とその家臣早柿の粟屋越中勝久、熊川の松宮玄蕃、名郷の熊谷大膳、高井源左衛門、香川右衛門らが、義統に叛いて信長についたので、義統の瀬上の城は陥落したという。この時期は伝わっていないが、恐らく今年だっただろうと思う。因みに義統は天正庚辰(1580)に死亡した。
武徳編年集成 巻13 終
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