巻14 天正2年正月~11月
天正2年(1574)
正月大
朔日 浜松城で諸士が家康に謁見した。
2日 夜の謡初めに諸士が参加した。
5日 家康が正5位下に叙された。
〇ある話では、今月上旬、家康は上杉謙信に備前鍛冶守家の作った徳用という刀を贈り、謙信に東上野へ仲間として出撃しよう誘うために密使を派遣したという。
8日 朝、家康の子、於義丸が誕生した。
〇ある話では、家康の侍女の於万が懐妊した。ある日のこと、彼女は家康に無断で夜中に突然城から抜け出して、伯母婿の本多半右衛門(老臣の豊後守廣孝)の家に住み込んだ。(伯母は家康の子供の頃からの付き人である)30日ほど経って、彼女は伯母の住む浜松城下の産見村で双子を生んだ。1人は早世したがもう1人は育った。(家康33歳、於万28歳)、その時、慶伸という医者が付いていた。本多半右衛門は同じ姓の苗作左衛門重次にこの話を伝え、重次はこれを岡崎三郎信康に報告した。
すると信康は、「自分は弟が前から欲しかった、大事に育てるように」と本多にいった。重次は喜んでその子をすぐに引佐郡古美村の主、中村源左衛門入道喜楽に預け、その子の幼名を於義丸とした。
彼が3歳のときのこと(天正4年)、家康が岡崎の城へ来る事があった。信康はあらかじめ家来に於義丸を連れて来させ、ふすまの陰から「父君」と呼ばせた。家康は状況を察した。信康は家康の帰り際に「自分にはかわいい弟がいてもう2、3歳になっている。ぜひ会って欲しい」と懇願した。家康は於義丸を抱いて膝に乗せ、本多重次に育てるように命じた。
後日、信康が自殺して後、家康は以前にも増して於義丸をかわいがり、天正12年には豊臣秀吉の養子として摂津の大坂に移った。秀吉は彼に1万石を贈り、秀の1字を与えて秀康とした。翌年には従4位下に叙された。左近近衛少将に任じられ、三河守を兼ねた(22歳)。同じく18年、結城左衛門督晴朝の嫡子となって下野の結城城10万石を持ち、慶長5年には家康から越前一国をもらい、遂には中納言従3位に叙された。(この人は後の越前家の始祖である。於満の方は三河の池鯉鮒大明神の宮司、永見志麻の娘で、尾張の熱田神宮の宮司ともいわれる。志摩、後に大坂に住んで医業を仕事とし、村田意竹と号した)
12日 元の将軍義昭の家来、一色式部少輔藤長は、幕府が倒れた後長岡藤孝のところへ行って丹羽の田邊に隠れていたが、家康を慕ってはるばる遠州まで急ぎの書状を送り、家康から返書をもらった。
「書状」
〇式部少輔藤長は年をとってから断髪し一遊斎と名乗り慶長元年に死去した。その子左兵衛範勝は後年家康の御家人となった。(範勝の子、右馬助範親は、高敦の外祖父にあたる。範親の孫、長七郎範永は9歳で亡くなり領地2千石は没収され家が断絶した。このため上の書状は高敦の家で今も所蔵している)
13日 武田四郎勝頼は3万8千の兵を率いて信州路から美濃へ出撃した。一昨年、彼は東美濃の岩村城を救援して秋山大島座光寺以下250騎で守らせた。信長はこの城へ対抗して、苗木、香野、串原、今、見阿寺、馬籠、大井、中津、鶴居、幸田、瀬戸崎、振田、大羅、千駄木、妻木、明智、飯挟の18箇所に砦を築いて兵を配した。勝頼の出撃はこれらの砦を攻め落とすためだった。
3月小
5日 信長父子は岐阜を出て御嶽に陣を張った。
6日 信長は明智まで進んだが、山縣三郎兵衛が60騎で行く手を遮り、鶴田山へ兵を回した。信長はそれを聞いて直ぐに撤退した。山縣は追撃して4里前進し、岩村に対する18箇所の城を落した。明智城内では飯狭間右衛門の信次が、武田に通じて酒井越中の一族を討ち取り城主、遠山勘右衛門を追い出して勝頼に降伏した。
7日 上杉謙信は書状を家康に送り、今月16日に武田の領内の西上野を焼き払いに出るので、その間に家康も三河と遠州の敵地を襲撃するようにと勧め、酒井左衛門尉忠次へも書状を送って同じ計画を告げた。そこで、家康も三河と遠州を攻めた。三河の設楽郡長篠の城は6町四方ほどの規模だけれども、周りの足がかりが悪い要害で、少人数でも大軍と交戦できる地の利がある。そこで家康は人夫を入れて改修させた。
信長は近江と越前の境の木目峠に城を築き、堀次郎、阿閉淡路守長之、磯野丹波守を交代で守らせた。これは先月中旬から越前で一揆が起きて、彼らが朝倉の元家来たちを募って騒乱を起こそうという話があったためである。
〇この春、菅沼新八郎定盈は、「去年信玄に野田の城を追い出された。しかし、甲州勢もまた出て行ったので城へすぐ戻ろうと思ったが、ここは重要な城ではないので、大野田の城所浄古斎入道の館に城壁を築き、そこに住みたい」と家康に訴えた。
家康は「野田は山家三方の守りであるから、適材の人を選んで守った方がよいので、お前は早く望みの場所に城を築いて移った方がよい」と命じた。定盈は喜んで砦を築いて新城と呼んで、その城に住んだ。
18日 信長が従3位に叙されて参議となった。
28日 信長は天皇の許しを得て、奈良東大寺の宝物である黄熟香(世にいう蘭奢香である)を前例に習って1寸8分を切り取った。(その内3分の一は信長が取り、残りを家来に与えた)
4月大
6日 天野宮内右衛門景貫は、遠州周智郡山中の三分の一を領地とする実力者である。この人は数年間今川に付いていたが、氏眞が没落する前から信玄に通じていた。一時、偽って家康についていたこともあるが、結局は甲陽の家臣として乾村に住んで2年ほどになる。
家康は彼を攻撃するために、今日浜松を出撃して山道から端雲へ赴いた。一行が領家、堀内、和田谷を進んでいるときのこと、雨が激しくて水が増し、気多川を渡ることができなかった。食料がなくなり、各人は非常食だけになってしまった。しかしそれもとうとう尽きて2日目になった時、安藤彦四郎直次(後の彦兵衛で、帯刀に任じられた)は自分の非常食を家康に与え、自分は我慢したという。
13日 六角左京太夫義賢入道承顕は、近江の甲賀口の石部城を落されたのち、密かに武田勝頼の下で名前を隠して佐々木次郎となった。このために江南の佐々木家は断絶した。
20日 家康は端雲に留まっていたが、水は少し減ったが天候が回復せず、食料も絶えたので、相談の結果晴れた頃に乾の村を攻めることとなり、大久保忠世、水野忠重を後殿として兵を引いた。
喜多村の民が天野が追ってきていることを家康に告げたので、家康は大急ぎで撤退していると、樽山と光明の城の敵軍に加えて、田野と大久保の村人が加わり、家康と後陣の間に割って入ってきた。又、乾からは大野景貫から出て、3里までに迫って後陣を攻撃してきた。前後の敵は地下人が多く、猿の皮の鞆の竹やりなどを構えて先導し、あちらこちらの峰、尾根に潜んで5人10人と矢や鉄砲で攻撃してきた。大久保や水野が応戦しようとしても、険しい山が上にあり、下は深い渓谷があり、路は狭く細く、こちらが攻めると敵は直ぐに深い谷間に逃げ込み、こちらが引けばまた追ってきた。
気多から田野と大久保村の間で、堀平十郎、同小太郎、小原、金内、玉井善太郎、鵜殿藤五郎、大久保勘七郎忠正(24歳)などが奮戦したが、平太郎は敵2人を討ち取って立ち上がるときに鉄砲の弾にあたり、三倉山の入り口、一の瀬にて戦死した。
小太郎、鵜殿、大久保、小原ら20数人は戦死した。玉井は高股を鉄砲で撃ちぬかれ、ようやく家康のところへ行こうと、三倉の庄官久左衛門のところまでたどり着いた。家康はそれを見て傷の具合を尋ねた。そのとき銃の音が聞こえ、どうしたのだろうと皆が思うと、傍まで敵がきているではないか。家康は「この馬を使え」と降りようとしたが、玉井は固辞し、家康の馬に付いて撤退した。家康が家来を大事にするので一同は感激して涙を流した。
大久保忠世と弟の権右衛門忠為、菅沼藤蔵定政は共に敵に向かって引き返して打取った。杉浦惣左衛門は後陣へ入って手柄をあげようと以前から考えていて、忠世についていた。しかし、戦いの中で数箇所の傷を負ってしまった。杉浦久蔵と石上兎角も同様に引き返して交戦したが、久蔵は傷を負って路に倒れた。
忠世は馬から降りて、「傷が痛むだろうからこの馬に乗って早く撤退しろ」といった。しかし、久蔵は、「大将なるものは馬から離れてはならない、あなたは敵の5人10人を討のも簡単だろう。今仮に自分が馬に乗って死ぬのを免れたとしても、結局は生きられないだろう」といった。
忠世は怒って、「何をいうか、とにかく自分のいう通りにせよ」といった。しかし、久蔵はどうしてもいうことを聴かなかった。その時、七郎右衛門が来て、「乗りたいと思えば乗って退却せよ、乗りたくないなら勝手にしろ」といって、馬を捨てて退却した。石上兎角(ある説では児玉甚右衛門)がそこへ戻ってきて、「忠世はもう退却したぞ、早く来い」と手を添えて馬に乗せて一緒に退却した。人々は忠世の家来たちが非常に親切であるとともに、杉浦の心に感銘した。
忠世は険阻(*狭くて険しいところ)では、金の蝶の旗をつけられないので、家来の犬若に持たせていた。敵が谷から出てきてこれを奪った。兵頭彌蔵は駆け戻ってこれを取り返そうとすると、敵が5、6人が出てきて彌蔵を斬った。七郎右衛門は駆けてきて、直ちに敵の2人を切り殺した。犬若はもう一度旗を取り返して忠世について歩いた。敵はまた取り返しに来たが、忠世が迎い撃って数人を撃ち捕らえると、敵はあきらめて来なくなった。
この時、味方は敵の首を13手にした。水野惣兵衛も家来を助けるためにもどって、相当の敵を討ち取った。榊原小平太康政も、敵に向かって引き返し20~30の首を取った。原田佐左衛門は矢継ぎばやに矢を放って、とうとう敵が追ってこなくなった時、家康は援軍を出して追撃したが、敵は険しい山の中に隠れてしまった。味方も三倉山まで退却したが、この場所も地の利が悪かったので、家康は天方の城へ兵を収めた。
28日 勝頼は美濃での勝利に勢いを得て、三河へ向けて進軍し、菅沼新八郎定盈が新たに築いた城を攻撃しようとした。典厩信豊、馬場氏勝と信州の保科弾正昌清、松岡清左衛門などは家康の援軍を阻止するために出撃した。それより先、山縣昌景と小笠原掃部助信嶺、柏木市兵衛昌朝は作手から夜中に出撃し、菅沼刑部定吉を先陣とした。また、定吉の家来の塩瀬善助、兵藤新左衛門、鈴木助右衛門、山川四郎左衛門、節木久内、塩瀬甚六は(*菅沼)新八郎の家来の中に親族がいるので道案内とした。
この6人が相談の結果、「このような大軍で新城を攻めると定盈は忽ち滅びてしまう。自分たちの主人の刑部は定盈と親子なので、自分たちを道案内にしたのには深い意味があるらしい。
幸いここは山道が険しくて迷ってしまったことにして、明朝に新城を攻めよう」と夜になって作手を出て宮崎まで兵を進めた。この辺りは定盈の領地なので、野郷村に住んでいる定盈のなじみの鞍工が宮崎に向い急いで新城の小山源三郎にこのことを伝えた。
寄せ手は朝に宮崎を出陣、隊を整えて鐘太鼓を叩いて総攻撃をした。
29日 明け方、定盈の家来が、「敵は和田岬と本宮崎の2手に分かれて攻めてくるので、早く逃げた方がよい」と勧めた、定盈はこれを聞いて、「戦わずに逃げるのは納得できない、運がなければ腹を切る」といった。家臣はそれでも、「永禄4年、駿河の氏眞が攻めてきたときは、西郷孫九郎元正が助けに来て二の丸を守ってくれた。去年篭城したときは松下與一郎、設楽甚三郎が救援にきて全員で守った、しかし、今回は元々少ない家来が方々へ散ってしまったので、このような少人数であの大敵をどうして防げるのか。早く逃げた方がよい」と何度も勧めた。しかし定盈は兵を城から出して敵の様子を探らせた。山縣勢は彼らを攻撃して小菅と盈石が手柄を上げた。
敵が急襲してくるにもかかわらず、定盈は居間で謡曲を歌って動じなかった。軽卒頭の山口五郎作はしきりに「敵が城を破壊すると逃げられなくなる。時を待ってまた運の開くのが勇士ではないのか」と諌めた。定盈は居間から出て手水を求めた。そして水を差しだすと今度は湯をもとめて平然としていた。しかし、家臣があまりに勧めるので、五郎作を残して後を守らせ、南の曲輪から馬で撤退した。
しかし途中で「皆のものは加茂郡西郷へ逃げよ、自分が寝所を焼かずに出て来たのを見ると、敵はきっと馬鹿にするので一旦帰って城に火を放ち、秘蔵の鷹を連れてくる」といった。家来の中山與六は18歳だったが三河・遠州に聞こえる勇者で、「自分が行く」と城に火を放ち、鷹を連れて帰ってきた。
その間に定盈は野田瀬を渡り、八名郡宇理を経て西郷へ向かった。甚六はその後を追って海倉淵まで来たとき、多嶺の後藤金助、これは與六の弟であるが、「卑怯者背中をみせて逃げるのか」といった。與六は馬を返して金助と組みあって首を取ろうとするときに、多嶺の小野田金右衛門や夏目市兵衛など6、7名が駆けてきて、ついに小野田が甚六を討ち取った。夏目がその首を奪おうとしたが渡さなかった。
敵軍は鳥屋、筒川、稲木村、古市場、両手まで追ってきた。味方は分散し、野田瀬、索陶瀬、中村瀬、入名井瀬、梁瀬を思い思いに越えて八名井村、中村、吉祥山へ撤退した。
なかでも小山源三郎と伊藤彦八郎は五位村の自宅に寄ってから、永徳寺前から海倉淵の浅瀬をよく知っているので馬を入れて対岸へ渡った。これを見て甲州勢は我先に川に入ったが、この川は大野川と滝川の合流するところで、淵の幅は広く流れも早かった。そのため浅瀬がわからなくて溺れるものが多数でた。
甲州方は菅沼刑部を先に進ませて、吉祥山に攻め登った。
新八郎定盈の後を守る山口五郎作は、ようやく2~3騎で索陶瀬を渡るところに敵が追ってきた。五郎作は弓の名手なので馬の上から矢を射て敵を射殺した。しかし、馬が疲れて動かず、敵が追ってくるので宇理までは行けないと、鍬田村へよって吉祥山へ向かった。敵はどんどん迫ってきて五郎作は立ち戻って弓で敵を射落としたが、馬が疲れて動かなかったので乗り捨てて吉祥山へ歩いて行った。
菅原刑部と家来の塩津伝助は五郎作を追った。五郎作は残った2本の矢で彼らを射たが当たらなかった。塩津は槍で五郎作を突こうとしたが、五郎作は手裏剣を投げると刑部をかすって後ろの栗の木に当たった。(刑部の首にはこの傷が残った)、結局五郎作は討ち取られ、彼の墓は吉祥山の麓に残っているという。とはいえ彼の武勇はいつまでも消えることはない。
こうして勝頼は八名郡山野吉田の住人、鈴木惣太夫を道案内として進軍し、山縣は兵を加茂郡に進めて西郷を攻めようとした。西郷孫九郎家員は菅沼新八郎とともに諏訪の入り口まで出て、大玉川で迎え撃った。敵は成戸と布施から攻めてきたが、矢や鉄砲で激しく防戦したので山縣はとうとう撤退した。このときの追い合いで、西郷方の中西左京が一番乗りしてきたが、鈴木惣太夫が射殺した。
〇ある書によれば、浪人の熊谷何某は勝頼方に付いて一揆を起こし、加茂郡足助城を攻撃したが、三郎信康がすぐに出陣してこの城を救援し、元の城主鈴木喜三郎に返したという。これはこの時のことのようである。
〇勝頼は吉田、二連木から遠州に侵入し、塩買坂を本陣として高天神を伺った。
5月大
〇家康は周智郡気多村へ印章を与えた。
「印章」
6月小
6日 甲州の大軍は高天神を攻撃した。
城将の小笠原與八郎長忠(始めは氏助)と一族は、監軍の大河内源三郎政局(後の皆空斎)とが相談して、城からは小笠原與左衛門と500余の兵が出て、城の東の郡川まで進み、敵が川を渡るときに鉄砲を撃って急いで城へ戻った。この城は右には深い沼があって進退が難しいので、敵はゆっくりと川を越え武器を調えて城下に迫った。しかし、この城は駿河への入り口なので、以前から本間八郎三郎清氏、赤尾の丸尾修理義清、毛森村の池田抜平、中村の斉藤宗林、丹野の永田太郎左衛門清伝、西郷村の糟屋善左衛門則高、松下の松下助左衛門範久、朝比奈の曽根孫太夫長一、三段の木村長兵衛、上方の渡邊金太夫照をはじめとして、隣村の侍の多くが家康の援軍として加勢していた。そのため城主の小笠原は首尾よく防戦できた。
10日 家康は高天神の援軍として浜松城を出撃した。
これに先立ち小栗大六重次を岐阜に派遣して信長に援軍を頼んだ。信長は了解して、「勝頼が遠方の城飼郡まで出て高天神を攻めるとは自分の望むところだ。城兵は受けて戦い、時間を稼いで援軍を待つように」といった。信長は「徳川と連合して勝頼を打ち破るのはもう手の内だ」と父子で美濃の兵2万を率いて清州を出撃した。また、諸国の軍勢にも急いで参戦するように促した。
勝頼はこれを伝え聞いて急いで高天神を攻めるように命じた。甲陽の諸士は、「この城は水は乏しいが、大手の山と西の丸山の尾崎の間に堤を築いて池として用水としているようなので、この池を破ろう」と申し合わせて、大軍を向かわせた。
城兵は西の丸、三の丸、池の段の尾崎から横に矢をしきりに放ち、池の段には鋭兵を配して絶え間なく防戦に努めた。また、大手の着到櫓の脇に吊った合図の鐘を叩き、特に鐘を吊るしている段からは大銃を撃って、寄せ手には多くの死傷者が出た。しかし、寄せ手は竹把を亀の甲状に築いた附寄門の傍まで押し寄せて塀を破ろうとした。そこへ城兵の渡邊金太夫、吉原又兵衛、伊達與兵衛などが槍を揃えて出ると、敵は内藤昌豊の組の岡部治部、同忠次郎、大塚三助が躍り出て槍で対戦した。
横合いからの銃撃されるだけでなく、上から材木や大きな石が落されて、兵が木っ端微塵にされるのをみて、寄せ手はついに撤退した。そのとき城からは30人ほどの兵が山の尾崎まで追撃して城へ帰った。そのとき大石外記氏久は深い槍の傷を2箇所受けて、もう少しで敵に首を取られそうになったが、久世平七郎長宣、坂部又十郎正家、中山小池が槍を揃えて敵に突撃し、大石の子新次郎久本(18歳)が東の尾崎から父を救いに来て、父を携えて城内に連れ戻した。(外記は3日後に死亡した。55歳)
城兵は、川田平太郎直勝など31人が戦死し、56人が負傷、軽卒18人が討ち取られた。寄せ手は252人が死傷したといわれる。
この戦いの間に、池の段の堤が壊されて水が抜かれたが、城内には西の丸と御勝曲輪の間の裏門の上にある井戸曲輪には掘りぬき井戸があって清水があった。また西の丸堂の尾という曲輪の尾崎と御膳曲輪の下の間にある裏門の下の沢の水も自由にくみ上げることが出来た。このような地形は敵には見えなかったが、ある時池の段へ馬を下ろして水浴びをさせているのを敵に見せたことがある。敵は水が不足していないことに気づかず、「米を水の代わりにしている」といった。
〇この後、勝頼は「信長の援軍が到着する前にこの城を落せ」と何度も命令した。穴山は「城の乾の方向にある林谷の対岸の山に登り、内藤の組の駿河勢は西の丸犬戻し猿戻しというところから攻めたが、険しい地形で攻め込めず最大の死傷者が出た。城中では負傷者も出なかった。
勝頼は国安村へ本陣を移してしきりに命令を出した。駿河の先陣にはこの城に詳しい者が多く、西の丸を西の尾根から激しく攻撃した。しかし、そこを守っている武将の本間と丸尾は昼夜を分かたず防戦した。
後詰を押さえるために勝頼は全軍を巽の毛森村の嶺に配備した。現在の総勢原というのはこの場所である。大文字の旗を中村の公文という地に建てた。現在この地は大旗と呼ばれている。勝頼はときどき坂口に来て兵が傷ついていることにはかまわず、「攻めよ攻めよ」と指揮した。ところが二の丸の堂の尾、犬戻し猿戻しの尾崎の横はなかなか登れず、谷から攻めるのは難しかった。しかし、穴山が陣を張った荻原山の嶺から大砲を放ったので、城中は大騒ぎになった。
ある日の早朝、待口の将、本間八郎清氏が櫓に登っているときに、金札の腹巻が光っていた。梅雪斎の家来の西島七郎左衛門という鉄砲の名手がそれを標的として柵から撃ったところ、弾丸が首の骨に当たり本間は撃ち殺された。享年28歳で巳の刻に死亡した。この弟の丸尾修理義清も、午の刻に堂の尾にて胸を打たれて26歳で死んだ。斉藤宗林が救いにきて懸命に防戦した。
寄せ手は竹束の垣根を破り城へ攻め込もうとしたときに、堂の尾の二重の吊り堀が切り落され、敵を滅ぼした。しかしながら、寄せ手は岡部丹波直保、岡部次郎右衛門、同治郎、朝比奈金兵衛が次ぎ次ぎと名乗りながら三枝勘解由左衛門の守る猿戻し曲輪堀の脇から乗り込んできた。そうしてとうとう西の丸が破られ城兵152人が戦死した。
與八郎はなお井戸曲輪を境として大敵に抗戦したが、食料も切れ弾薬も切れて兵も疲労困憊したので、「早く援軍を送れ」と密使を浜松へ送った。家康は信長が着いたら直ぐに救援に行こうと苦慮していたが、與八郎は「後詰を待って、天王山や姉川で功績をあった者を捨てるとは」と非常に怒った。
そんな時、駿河の先方岡部党の長忠は血気盛んで欲も深いが、勝頼の密告を城中に送り、「富士山の麓の1万貫を与えるので城を開けて降参しないか」と勧めた。長忠は、「今川衆は今は浜松方として自分の許で援軍として城を守ってくれているので、自分だけでは決めかねる、この際、こちらの身の安全を保障するのであれば、一同武田の家来となろう」と答えた。勝頼は了解しそれなら領地の目録を提出せよと申し渡した。長忠はすぐに目録を渡して勝頼の保証を得た。
長忠は城中の諸士を集めて、「もはや弾薬も切れ皆も疲れている。食料もない。僅か20里程の所にあるにもかかわらず浜松からの救援も来ない。本来はこの城に屍を埋めなければならないとはいえ、今は戦国の世である。幾度となく戦って身を守り家を保つにはどうすべきか考えるべきで、空しく死んでいる場合ではない。自分はそう考えたのでこのように勝頼の証文を得たのだ。早速寄せ手に降参して、後の繁栄を期待しよう」と提案した。この城で死んで名を残そうとする潔癖な人もいたが、それより気力も失せ、やる気がすっかりなくなって長忠に同意するものが多かった。そこで城外へ渡邊金太夫を出して降伏することを伝えた。
18日 信長は吉田の城を出て今切の渡しまで進軍した。家康は迎えに出て、「小笠原は既に勝頼に付いた。こちらが非力であることを知らず救援を求めてきたのを無視した」と伝えた。
信長は「勝頼はこれまで何度も参遠に兵を出してきたのを徳川家は阻止してくれた。そのおかげで自分は東のことを心配せずに諸国を支配できた」と感謝し、ここ1両年、遠参でいつも熱心に戦に励んでくれたことを労って家康に黄金2袋を贈った。(吉田城の広間に1袋を2人で持ち出し家康に渡したので、見たものは驚いた)その後で、今後の作戦を2人は相談し、信長は酒井左衛門尉にも「貞宗の脇差」を与えた。
21日 信長父子は岐阜へ戻った。
7月大
2日 小笠原與八郎が城を出て勝頼に降伏した時に、(*徳川)清康の妾の華陽院の甥の、大河内源三郎政局は監使として高天神城内にいて、勝頼に降伏することを望まなかった。
長忠は怒って彼を捕らえて石牢に入れた。勝頼は鈴木彌次郎右衛門を使いとして石牢に入り、自分たちにつけば領地を倍にしてやると説いた。しかし政局は考えを変えなかったので、勝頼は怒って石風呂の口を閉ざした。政局はその時から8年間獄中にいた。甲州の横田甚五郎尹松が高天神に在番しているとき、敵ながらも大河内の心意気に感銘を受け彼と懇意にした。
その後高天神の城が陥落して、石川伯耆数正が城内に入り、石牢にいる大河内源三郎を探し出したが、7年間も獄中にいたので足がしびれ、起きることも出来なかった。
家康の前に彼が支えられながら出たとき、家康は、「長年辛かったであろう、これは誰にもできないことだ」と非常に感激して、自分から刀一対与えて、さらに黄金を贈った。しかし、政局は縲絏(*るいせつ:牢につながれること)に深く恥じた。それを聴いて諸士はみな否定し、「あなたは敵の捕虜になったのは弱かったからではない、小笠原與八郎長忠の方が問題なんで、監軍として城にいたあなたがあの時どうしてあの大軍の間を抜け出せよう、捕虜となってむしろ名誉だったのだ」と異口同音に述べた。政局は面目ないと髪を剃り、皆空と号した。家康の命によって尾張津島の温泉に入浴すると、足の痺れが治り、遠州の稗原の地をもらった。その後天正12年、尾張長久手の合戦で家康について戦ったが、戦死した。節義の士というべきだ。
小笠原長忠の家来にされていた、城飼郡近辺の侍の久世、坂部、曽根、福岡、乃羽、渥美、小笠原彦七郎貞勝、同左衛門重廣、松下助左衛門範久、門奈左近右衛門俊政、木村長兵衛、本間権三郎政季(十右衛門長季の実子)をはじめとして多くは、長忠を棄てて自分の村へ帰り、または馬伏塚へ退いた。(当時人はこれを西退と呼んだ)渡邊金太夫、中山是井之助、斉藤宗林などは長忠に従って駿河に向かった。(これを東退という)。勝頼は彼らにも領地を与え、與八郎には駿河富士郡鸚鵡柄1万貫をあてがった。
9日 勝頼は與八郎に保証書を発行した。
「印章」
13日 信長は数万の兵で伊勢の桑名郡長島を包囲し攻め込んだ。小島を手中に入れて、篠島、大鳥居、唐櫃島、大島などの砦を撃破し、伊東屋敷の辺りに旗本を置き、長島、矢島、中江の城を落とした。
そもそも長島は以前信長が瀧川左近将監に与えたところであるが、元亀2年に一向宗徒が蜂起して長島の城を占領した。この辺りは大河を制する要地で、一揆衆はあちこちに砦を築いて勢力を広げていた。そのため信長はこれまで2度出陣したが効果がなく、かろうじて当地を荒らし放火だけをして帰っただけであった。一向衆は信長の逃げ口を追撃して勝利したことに気をよくして、今回は食料の備えもなく、ただ、長島、矢島、中江の村だけに立て籠もっていた。
信長は今月から秋までじっくりと駐屯して、攻撃を続けたので、一向衆は食料が切れて飢えてしまったという。
8月小
2日 家康は遠州の城飼郡馬伏塚の城を修理し、この郡と城を大須賀五郎左衛門康高に与えた。これは高天神の勢力を抑止するためである。
この城には、高天神から帰ってきた久世平四郎長宣(三四郎の父)、坂部又十郎正家(三十郎の父)、鷺山傳八郎、渥美源五郎勝吉、筧助太夫正重、松下助左衛門範久、福岡太郎八忠光、丹羽金十郎氏廣、同彌惣氏吉、木村長兵衛、曽根孫太夫長一、小笠原長左衛門、同與左衛門、大石新次郎、久末門奈左近右衛門俊政らを大須賀の組として配した。また、彼らの領地も保障した。
この馬伏塚には、昨年は小笠原美濃という人が住んでいた。(後世丑山村となって城の跡は50石の田圃となった)彼が家康側についたとき、福島十郎左衛門とその子の河内、安西越前には下心がある証拠があったために殺された。
伴中務盛陰は何度も戦いで活躍した褒美として、家康は馬伏塚の内井と気賀村を与えた。そして盛陰の一族10人ほどを与力とし、全体で60石を授けた。
(*大須賀)康高は城飼郡を城東と改め、馬伏塚を横須賀の城とした。この郡にある中笠の庄、大淵の庄、横須賀の三社大明神を再興して神田20石を寄付した。
この神社は文武帝の姫宮の願いによって、大宝5年(701)8月5日、紀州熊野三所大権現をここへ呼び、9月9日に正殿を建てたものである。ここに建てられた理由は、この村がその宮の領地だったためである。以来数百年間祭祀を続けてきたが、承安年間に平の宗盛が遠州の太守のとき神領が潰され、社も滅亡した。文治年間にこの国の守護だった安田遠江守義定は何度も神税を横領したのでまもなく頼朝(*源)に殺された。その後、平の時世、泰時らが長い期間太守を務めたが、誰もが神領を取り上げ、祭祀が復活することは無かった。元弘建武の乱以降は、宮殿は戦禍によって消失して、神官も散ってしまった状態が長く続いていた。応仁2年(1467)になって、斯波左兵衛督義廉がこの国の守護となり、神税を寄付し、重陽の節句には弓を射たり流鏑馬を奉じたりした。その後またこの社は廃れてしまったが、数10年後の今、康高が廃れた神社を再興したのも、家康が新祇を大切にしたからという。
〇上杉謙信から大給の松平家乗に書簡が届いた。
「書簡」
〇謙信の寵臣河田氏は書を家乗に送った。
「書簡」
9月大
〇武田勝頼は武力に自信があり戦いが好きなので、強い家康が憎くて花松の城を抜こうと2万の兵で遠州へ出てきたことがある。その時は連日暴風雨で天竜川が増水して渡れなかった。そこで見附から上流へ行って駐屯し、渡り口を探した。家康も7千の兵で9隊に分かれて小天龍の岸に陣を張った。
7日 家康は、本多半八郎忠勝、大久保七郎右衛門忠世、内藤四郎左衛門正成、渡邊半蔵守綱、服部半蔵正成、植村庄右衛門忠安、高木九助廣正、成瀬吉右衛門正一、鳥居彦右衛門元忠、大久保治右衛門忠佐、日下部兵右衛門定好、山本帯刀成氏、内藤平左衛門清久、青山藤七郎忠成、安倍善九郎正勝、榊原隼之助忠正、加藤喜助正次、村上彌右衛門、柴田七九郎康忠、小栗仁右衛門忠吉、梶 金平、滋野七兵衛、天野伝六郎、都築惣左衛門秀綱、松下加兵衛之綱、酒井與九郎重頼などが、馬を駆って大天龍川の辺まで行き偵察した。
勝頼は、佐藤一甫斎(伊予河野の庶子で鉄砲の名手)に命令して鳥銃を撃たせたが、弾は届かず水に落ちたので味方が大笑いすると、勝頼は怒って川を渡って攻めて来ようとしたが無理だった。しかし、板垣の兵の宇野、武井、志村金右衛門、平原新蔵、河野伝五郎左衛門が川に入って中の瀬を渡って来たので、味方も川にはいろうとすると5騎は引き返した。
家康は勝頼の大文字の旗を見つけて上流の瀬に向かって進んだ。
朝比奈駿河守氏秀の兵の首藤左門、石原五郎作、長谷川左近らは、その5騎が引き返した後に家康軍を追って渡ろうとした。勝頼は土屋惣蔵昌恒に「板垣らは残念ながら戻ってきたが、朝比奈があの3人を命がけで渡らせようとしている。彼らがやられたら我が家の恥だ」といって家来を選んで救援に行かせた。
惣蔵(29歳)が急に飛び出して川を渡るのを見て、甲州の諸軍は先を争って渡って来た。そこで味方の斥候たちは急いで引き返し、後軍に合流した。
山縣の一軍は下流より、馬場も同様に川を渡たり、橋坂と安岡にそれぞれ陣を張って全軍が渡って来るのを待った。小笠原與八郎長忠は天竜川の中の瀬を渡った。川向こうには遠州の匂坂党、鑰掛の城代、松井因幡が300騎で駐屯していたが敗退した。渡邊金太夫照は追撃して因幡を捕らえ勝頼は直ぐに彼を殺した。
家康は小天竜川から6~7町離れた場所に陣を置いた。酒井左衛門尉と石川伯耆守は3千騎で本陣から20町ばかり離れた小天竜川の下流に陣を張った。
家康は繰り返し備えをコンパクトにするように命じた。酒井忠次はタイミングよく馬を並べさせ川辺に近寄った。これは敵が小天竜川を渡って家康の本隊と戦っているときに、横から攻めるためである。
勝頼は忠次はむしろ川を渡ってくるだろうと予想し、小笠原と山縣の後詰として池田の郷に移動して陣を敷いた。家康は、「今日の敵は全軍が川を渡る勢いだったが、忠次が川辺に出てきたのを見て直ぐに引き返した。これはなかなかの相手だ」と感心した。
〇ある話によれば、家康は小天竜から30騎ばかりで礫場まで出陣した。柴田七九郎康忠を斥候とした。山縣の陣の2町ほど離れた場所を馬で進むと、廣瀬郷左衛門昌房は咎めて、「敵も敵だ、武田の陣の傍まで来るとはけしからん、返すな」と駆けてきて5~6間の近くまでやってきた。柴田は敵と味方が目の前で対面しているので馬を降り、「勝負しよう」というと、康忠は喜んで馬を降りた。康重はその隙に「一騎打ちはしない」といって馬に鞭を入れて駆け戻った。敵は怒るどころか彼の知恵に感心した。
家康は本多平八郎に2人の側近をつけて出かけさせた。しかし帰りが遅いので、菅沼藤蔵定政に様子を見てくるように命じた。定政が急いで見に行くと、忠勝は味方の中で疲れて動けない兵を馬の上から激励しながら帰る途中だった。しかし敵に追いつかれた。そこで藤蔵は早速敵4騎を鐙で倒し槍で付き伏せた。それから忠勝と一緒に帰還したという。
〇また別の話として、この年、山縣三郎兵衛昌景の組の小菅五郎兵衛魔元成は、稲を刈り取るために浜松の城下まで出てきた。そこで服部半蔵正成と森川金右衛門氏俊などが向かって行き、上田、丹後、福島などの敵兵と槍で交戦したという。これはこの時のことらしい。
14日 勝頼は大天竜川の高木から二股に移動し、山縣と小笠原に井谷を見回らせてから平山越で信州の伊奈に兵を引いた。
〇酒井左衛門忠次は、福釜、玉井、竹谷、長澤の松平家と設楽、西郷、二連木、野田の先方衆を率いて鳳来寺の城へ向かって出撃し、角屋村を焼き払った。城兵は防戦した。松平親俊景忠と清宗は率先して敵を撃破した。中でも三郎次郎親俊は自分の槍で100個の首を取った。家康は松平の三家に感謝状を与えた。
〇下旬、謙信から石川家成への書状が届いた。
「書状」(*右の図のように、日付が9月5日となっているので、原本の間違いか、木活字版の製作段階の間違いと推測できる)
謙信の近臣、村上源五国清(義清の子)からも、大給の眞来への激励文が届いた。
「檄文」
〇前の将軍義昭の使節がこのころ相模、甲州、越後へ向かい、互いに連合して信長を攻め滅ぼし、足利家を再興することを考えるよう指示した。その書状を受け取って勝頼は返事を一色藤長へ返した。
「書状」
〇新見勘三郎正勝が御家人になった。後で彦左衛門と改名した。
29日 伊勢、長島の一向宗徒は、信長に城を開け放して退却することを頼んだが、信長は火砲3千挺を堤の陰に隠して彼らを粉砕しようとした。しかし、彼らの千人ほどは必死に織田の本陣へ切り込んで、津田市之助信成、同弟間見仙千代、同又六郎、同孫十郎信次、織田大隈守信廣、同半左衛門秀成、佐治八郎、荒川新八郎頼季など数100人を討ち取り、川に沿って多芸山と北伊勢口へ逃げた。信長は中江と矢島の城を四方に柵で囲って火を放ち、両方の城の兵は全て焼き殺された。実に暴挙というべきである。
10月大
14日 伊勢長島の一向宗徒が武田と通じて三河と遠州の海上を通過するという話が家康に聞こえたので、寺島鉄之丞に彼らを撃たせようとした。しかし、井谷の軍に阻まれて傷を負って任務を果たせなかった。そこで彼は傷が少し治ってからもう一度行きたいと申し出た。家康は感心して了承した。寺島は与力と伴に白須賀の海上へ出て敵船と大いに戦ったが戦死した。家康は残念がってその孤児竹松に末吉の脇差を与え、亡父の遺領を相続させた。
11月大
〇今年4月20日遠州の乾の撤退で戦死した一族の子や弟に遺領を与え、未亡人や遺子には恩賜があった。堀平十郎には子供がいなかったので、亡父に書状を贈った。平十郎の墓は大樹寺の中の竹葉軒にあって、法諱は西翁心光である。
「書簡」
〇この年、戸田虎千代は家康の前で元服し、直ぐに松平の称号と諱一字と刀をもらった。松平孫六郎康長である(戸田弾正小弼の孫、主殿の孤児である)
〇武田信玄の父、信虎は流浪すること37年で信州の伊奈に来て、孫の勝頼の世話になりたいと頼んだ。その時81歳だったという。
武徳編年集成 巻14 終
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