巻20 天正10年正月~3月  武田氏滅亡

天正10年(1582)

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元旦 諸将は浜松城に集まり、家康に新年の挨拶をした。

2日 謡い始めを例年通り執り行った。

6日 信州、木曽福島の木曾左馬頭義昌は、武田信玄の婿であるが、四郎勝頼を恨んでいて美濃の親戚の城主、遠山久兵衛友政に付いて織田信忠方になびいていた。義昌の妻の実家の家来の千村左京はこのことを勝頼の家来の安倍加賀に伝えた。しかし、長坂跡部が鈍感でこれを信じなかった。一方、岐阜の信忠は、平野勘左衛門にこれを安土へ伝えさせた。信長は質人の管理を厳しくして、軍勢を信州へ向かうように命じた。

14日 家康は岡崎の城へ来たが、その日の内に浜松へ帰った。

15日 紅気が天に渡る。(西川如見によれば、地中の湿気が温められて蒸気が空にたなびき、日光が当たって紅色に見えるという)

25日 伊勢ニ所(*内宮と外宮)皇太神宮(*伊勢神宮)の宮の建替えは、数100年途切れていた。信長は平井久右衛門を奉行として、永楽銭3千貫を寄付し、建替え作業をするように右上部太夫に命じた。また遷宮費用が必要になれば、かねてから岐阜の金庫に置いている1文銭、1万6千貫から少しずつ寄付して使うように、信忠に命じた。この使者は森蘭丸長定だった。

28日 木曾の謀反が現実になったので、甲陽からは武田左馬助信豊3千人、仁科五郎信盛と諏訪越中昌豊など2千人が急いで出撃し、神保治部を監軍として、義昌を討とうとした。しかし、義昌は険しい鳥居峠で抵抗したので、信豊は敗北した。又神保らの多くが戦死した。

2月小

朔日 信忠の先軍として、瀧川一益、川尻鎮吉、毛利秀頼、水野忠重を木曾へ出撃させ、降伏した者の質子を受け取った。そこへ突然木曾の弟の上松蔵人義豊が到着した。そこで彼を直ぐに菅谷長頼に預けた。

2日 勝頼の兵(2万)は、木曾を滅ぼすために甲陽の新城を出て、信州の諏訪と上の原に陣を構えた。

3日 信長は出撃を指示した。「和泉勢は筒井順慶が指揮せよ。しかし、高野に抑止兵は残して吉野口で守れ。摂津には池田庄三郎信輝が尼崎で守り、2人の子と中川瀬兵衛清秀は信州へ出撃せよ。三好笑岩斎は四国へ渡れ」

紀州の雑賀の土屋平治が信長に叛いたので、去年、雑賀孫市重秀(元は鈴木)は信長の密令で平治を攻め滅ぼそうとしたが、2人の子供が根来寺の千職坊へ逃げ込み衛りきったので、津田左衛門佐は援兵を向かわせた。一方信長は、河内の烏帽子形の兵を送り、「直ぐに土橋(*屋の誤植)の一族を滅ぼし、そのまま紀州の敵を征圧せよ」と命じた。

6日 「信州の木曾が武田と戦っているので、早く駿河へ出兵すべきだ」と酒井左衛門尉が家康に進言した。

9日 織田信長は「武田を滅ぼすために、7万の兵で信州伊奈口から攻める」と述べ、「嫡男の信忠は5万あまりで木曾口から攻めよ。家康は3万5千で駿河口から甲州下山筋から攻めよ。金森五郎八長近は3千で飛騨口より攻めよ」と命じた。そこで家康は配下の諸士に「戦の準備を整え出撃の合図を待て」と連絡した。北条氏政はこれを聞いて、3万の兵で駿河と武蔵の口から甲州へ攻め込むことになった。

12日 信忠は岐阜を出て上田に着いた。それを聞いた勝頼は驚き、信州の筑摩郡深志(*松本)の城を馬場民部丞昌房、多田治郎右衛門、横田甚五郎尹松に守らせた。また、伊奈郡高達の城主、仁科五郎信盛への援軍として、佐久郡内山の城主、小山田備中、羽切九郎次郎、渡邊金太夫照、小菅五郎兵衛元成を送った。

伊奈郡大島の城将、日向玄東斎は、伯父の逍遥軒のために安中左近春隆、小原丹後、依田能登を加えた。飯田の城将、保科越前正と直坂西織部の方には、小幡因幡と波多野源左衛門を加勢した。駿河の持船田中にも兵を増やした。鞠子の城には諸賀兵部を配置した。

信州の伊奈口と三日路の間は、東山道第1の難所で、尾張と美濃の兵を防ぐために伊那の下条伊豆信氏と同兵庫が平谷滝澤に砦を築いて駐屯していた。しかし、一族の下条九兵衛と従士の佐々木某、原民部、市岡某、熊谷玄蕃などが造反して、寄せ手の先鋒、瀧川一益と毛利河内守秀頼に通じて田尻與兵衛鎮吉の兵を引き入れた。そのため、寄せ手はこの難所をなんなく越えた。下条信氏は遠方へ逃亡した。松尾の小笠原掃部助信嶺は20数年の間武田の家来で、信玄の姪の婿として腹心だった。しかし、この人も信長に降りると約束した。

信長衆の團平八景春と森庄蔵長可は、妻児口から攻め入り、晴多賀寺筋から木曾峠を越えて梨子峠に登ると、信嶺は味方としてあちらこちらに狼煙を上げた。勝頼の2万の兵は諏訪で対策を協議したが、対応できなかった。

13日 信忠は美濃の高野に着いた。

14日 信忠は岩村に進軍した。信州の飯田の城将、保科越前正直や坂西織部などは夜中の内に城を離れて逃亡した。

15日 森庄蔵は伊奈郡市田まで進軍し、飯田の敗残兵を追撃して首を10ほどを取った。これはこの戦いでのはじめての首だった。勝頼は対抗策に時間を費やし、上の原に駐屯して作戦を練った。典厩信豊は病気と偽って同席しなかった。城織部昌茂と阿部加賀は夜戦をしようと進言したが、典厩はこれを拒否した。

16日 遠州の小山を守っている武田の勢力は、城を棄てて逃亡した。勝頼は、今福筑前に信州鳥居峠へ行かせた。

木曾義昌と信長の親戚の久兵衛友政は大勝し、敵の首570ほどを取った。また、有賀備後、小山田左京、跡部治郎など宗徒40余人の首を信忠の許に運んだ。信忠は友政に感謝状を贈り義昌の援兵とした。

織田源五郎長益は、津田赤千代、同孫十郎信次、稲葉彦六郎貞通、梶原平次郎、塚本小大膳、小野木藤次郎、築田彦四郎、丹羽勘介氏次を木曾に行かせた。彼らは義昌と鳥居峠を守った。

一方、勝頼方の木曾を防御するために、深志城には馬場民部丞昌房、多田治郎右衛門、横田甚五郎、尹松(後、甚右衛門)が立て籠もっていたが、何もできずに日が過ぎたという。

19日 家康は牧野の城へ着いた。諸軍は駿河の島田と金谷へ進んだ。

20日 明け方から家康軍の先鋒、大須賀、酒井、本多、榊原は、駿河の志田郡田中の城に進軍し、大手の曲輪を破って首を80ほど取って城下に吊るした。

城主の依田右衛門佐信蕃と援将の三土佐虎吉は、城に残って降伏しなかった。

信忠は信州の伊奈郡平谷波合へ行き、飯田城へ入った。同郡大島の城主、日向玄東斎宗英は夜中に逃亡した。

21日 大島の地下人が上方勢を引き入れたので、逍遥軒が滅びたことを川尻鎮吉が信長に書簡で報告した。信長は直ぐに返事を出した。

『書状』c3bf7490ba6b23c4de1bdffc1aab14b93116728a.jpg

22日 家康は駿河へ向けて出撃した。

家康の先鋒はすでに藤枝まで進軍したと聞いて、庵原郡持船の城主、朝比奈駿河政貞(始めは氏秀)と長臣の奥原日向は、数100人を連れて遠目峠を越えて抗戦した。

家康軍の石川、酒井、本多、大須賀、榊原は奥原を撃ち破って、80ほどの首を取った。石川又四郎重次は初陣だったが、首藤左門という豪傑を槍で突いて首を取った。

遠目の峠を守っていた屋代越中正国、歩将、関甚五兵衛は、鞠子を守った。諸賀兵部は甲州へ逃げた。

23日 家康は持船に着いた。すぐに先発隊の5将に城を攻めさせた。

25日 駿河の庵原郡江尻の城は、甲州下山の領主の穴山梅雪斎がなった。

家康は長坂血槍九郎信政を派遣して味方につくように彼を勧誘した。長坂は7日間城に泊まって梅雪と協議した結果、勝頼を恨んでいた梅雪は誘いに応じた。そして忍者を送って甲府に囲われている人質を今夕の雨にまぎれて連れ出して、坂東道30里を経て自分の城へ連れ込み、自分も今夜には駿河の岩原の地蔵寺の民家へ逃げ込んだ。かねてからの密約によって、家康はそこまで出かけ梅雪に面会した。

27日 持船の城兵は大方敗北し、城将朝比奈駿河は家康へ降伏を求めて久能の城へ退いた。家康は松平主殿助に朝比奈を久能まで送らせた。久能の城将、今福丹波昌和も家康に降伏する意向だったので、城を開けるように本多八蔵秀玄(一代目)から命じたが、八蔵は計略で今福を刺殺し、三河へ帰った。久能は寄り合い勢で守っていたが、隊長の今福が殺されたので全員が逃亡し、城は陥落した。

勝頼の叔母婿、穴山梅雪は、江尻の城を棄てて甲州下山の居城へ帰った。

織田信忠は信州の飯島に陣を置いて、信州全域を支配しようとした。人々は日ごろ勝頼の虐政に困らせられていたので、皆が信忠に従って道案内をして武田を襲った。

28日 典厩など勝頼の家来が全て叛いて自分たちの領地に戻ってしまったので、武田の勢力が失われてしまった。そこで勝頼は信州の諏訪上の原には居れず、甲州の新城へ退却した。

この日、信長は川尻鎮吉へ手紙を送った。これは鎮吉が信忠の先鋒として深く敵地に進んでいたからである。

『書状』天正10年2月28日 信長ー川尻輿兵衛鎮吉.jpg 

29日 家康軍は持船の城へ入って守った。

3月大

朔日 家康が江尻に到着した。

成瀬吉右衛門正一を田中の城の城将、依田右衛門佐信蕃の許へ行かせ、「甲陽の諸臣はみな勝頼を裏切ったので、勝頼が滅びるのは時間の問題だから早く城を開けて味方に付くように」と誘った。しかし、依田は勝頼に義理立ててその勧めには応じず、「武田の幹部からの連絡を受け取って話の真偽を調べたい。またその後で去年遠州の二股の城を渡した縁もあるので、大久保忠世に城を明け渡したい」と述べた。

家康は喜んで穴山から書状を送らせた。家康は「信蕃が疑いを解いて城を大久保に明け渡して味方になれば、信州の領地を間違いなく彼にあてがう」と述べた。依田は、勝頼がどうなっているか自分は今は知らないが、もし滅んだときには自分はすぐ徳川に仕える」と述べ、信州の佐久郡蘆田へ向かった。

田中の城の小股平内左衛門政重などが家康方に付いた。

今日信忠は信州の伊奈郡沼原に行って高遠城をその日の内に落し、勝頼の弟仁科五郎信盛、小山田備中、渡邊金太夫、照羽切九郎などの兵2千580人ほどを討ち捕らえた。(高遠城で共に死んだ武将や兵卒については『武家閑談』に全て書かれている)

2日 騎士15人と軽卒30人の隊長の曽根下野正清なども、駿河の興国寺の城を家康に渡して味方になると伝えた。駿河城の武田上野介信龍と同左衛門太夫信光は、城を棄てて甲陽へ逃げた。そこで、家康は駿府へ入城した。

3日 信忠は諏訪の上の原に駐屯し、諏訪神社などあちらこちらを焼き払った。

上野の国士、安中左近春隆は、始め信州の大島の城に居たが、今は高島の城を本拠としていた。しかし、高遠の城が落とされ兵が皆殺しにされたと聞いて、城を津田源三郎勝長に渡して信忠に降伏した。

上方勢は木曾筋の鳥居峠から深志の城へ攻め込んだ。城主の馬場民部丞昌房は、城を織田源五郎長益に渡して逃亡した。比企の城主の小野周防は城内で戦死した。

勝頼は高遠などの城が落とされたのを聞いて、僅か3千ほどの兵では新城を持ち応えることはできないので、真田昌幸の上州の吾妻の城へ退却しようと考え、まず真田を城へ戻らせようとした。しかし、長坂釣閑はこの案を制止した。そこで、勝頼は小山田右兵衛尉信茂の領地である甲州の都留郡へ移転し、険しい地形を利用して防ごうとした。

そしてまず信茂とその妻妾叔母妹など女性を200名と一族500人ほどが新城を発つときに、勝頼を裏切った木曾(*木曾左馬頭義昌)の質子を殺し、その他の裏切り者の質子300人ほどを新城にいれて全て焼き殺した。また10人余りの裏切らなかった者の質子にはお金を渡して、甲陽の古城の一条右衛門太夫信就の館にしばらく留まらせた。しかし、地下人が村を焼いたので山に逃れて隠れた。

勝頼は今日古城からも逃れて一条小路を過ぎた時、駿河の先方の侍がその有様を笑った。勝頼は怒ってこれを斬り殺させた。山縣昌景の息子2人とその部下の廣瀬美濃昌房と三科肥前形幸が勝頼に随行していたが、勝頼は彼等を疑って三科と廣瀬を放逐した。

小幡豊後昌盛は病気だったので、何とか勝頼に面会した後に泣く泣く退いたが、6日に黒駒の村で死去した。(49歳、この人は景憲の父である)。

勝頼は恵林寺へ行ったが、僧が入れなかった。

勝頼は敵が急襲してくると聞いて、轟村の満福寺という一向宗の寺に山縣源四郎と左衛門を残し、500人ほどで鶴瀬に行き、駒迎の郷に赴いて小山田の迎えを待って7日まで滞在した。(ここも山梨郡の中である)

4日 穴山梅雪が江尻より来て家康に会い、貞宗作の太刀と馬鷹を贈った。

5日 家康の武将、酒井左衛門尉が駿河蒲原に陣を敷いた。ここ数日の間に三河と遠州の兵は蒲原に集結した。

今日信長は大軍を引き連れて近江の安土を発ち柏原に泊まったという。

6日 信長は美濃の昌久川の渡りに来た。

信忠の使者が仁科信盛の首を持ってきた。信長はそれをすぐに美濃へ運んで長良の河原につるすように命じた。そして使いのものに黄金を与えた。

雨になって今晩は岐阜に泊まった。

7日 家康勢は興津に駐屯した。

今日信忠は上諏訪より古城に行き、一条信就の館で、逃げ遅れていた武田の一族や宗徒を捕らえた。

8日 味方の先陣の酒井、石川、本多、大須賀、榊原は駿府の井山に行き、河内を経て甲州の西郡満澤に駐屯した。

家康は興津に本陣を設け、井山の地元の士、斉藤彌右衛門が道案内すると申し出たので喜んで行政の許可を与えた。

今日、信長は尾張の犬山に着いた。

9日 家康は本陣を萬澤に移した。

穴山梅雪を道案内として先隊は身延まで進み、八代の文殊堂市川口から攻撃した。

今宵、小山田右兵衛尉は、同八左衛門婿の武田左衛門太夫信光と小菅五郎兵衛元成に、自分の人質を奪い取らせ、駒迎の東にある篠子に兵を出し、鶴瀬と柏尾に向けて柵を設けて火砲を発すると、武田家の重臣長坂跡部をはじめ全てが殺されてしまった

信長は今夜美濃の金山に泊まった。

10日 勝頼は多葉山を経て武蔵の日原越えから秩父に出て、上野に行こうとしたが、秋山摂津と山田将監らが逃亡した。

結局、土屋総蔵と秋山紀伊だけが残り、阿部加賀と温月常陸が槍をもって従った。小宮山内膳友信は冤罪によって蟄居していたが、義を守って出て来て随行した。

都留郡天目山は信玄が崇拝していた険しい道場で、一行はここへ登って休憩して旅の用意を整えた。そうして、山梨郡駒迎の郷から16町離れた鶴瀬の関から笛吹川に沿って北に向かい、都留郡田野村へ先に行っていた甘利甚五郎と大熊新右衛門を天目山に来させた。

今日家康は甲州の市川へ着いた。

御家人の成瀬吉右衛門正一は以前浪人となって信玄に仕えていたとき、甲陽の巨摩郡武川の諸士と仲がよかった。彼は家康の命令によって武川へ来てみると、知り合いは皆逃亡して誰も居なくなっていた。成瀬は「武川の士は、早く自分に付いて市川に来て徳川につくように」と門に張り紙をして市川に戻った。

家康は「部下には恩恵によって御し、民衆は法によって監督して乱れを救い、暴を懲らして民を安心させよ」という聖文勇武を敵国に伝え、時期を待って支配しようと考えていたた。

武川の士の長折と米倉は、張り紙を見て喜び疑うこともなく、今晩市川に直行して家康に会い、早速武川へ戻って諸士を誘い各人の質を家康に渡した。

11日 家康は穴山梅雪を連れて信忠の陣所、山梨郡古府を訪れ、信忠に対面した後、信州の諏訪で泊まった。

信忠の家来の瀧川左近将監、川尻與兵衛、北畠信雄の陣代、津川玄蕃允義冬は、勝頼の行方を捜したが、都留郡田野の観音堂にいると聞いて朝に兵を出した。また、甘利甚五郎、秋山摂津、大熊新右衛門も信忠に随行して、天目山関山渓の僧徒や小山田右衛門尉勢とともに観音堂に押し寄せた。

勝頼は勇猛な武将だったが、3日以来流浪して来たので疲れて戦う力がなかった(『甲陽軍鑑』の記述は間違い)。彼は小原と丹後とその妻を殺し、その他婦女10人を全て刺し殺してから自分で戦いに挑んだ。嫡男太郎信勝は非常に賢くて敏捷な人で、その上ハンサムだった。彼は十文字の槍を揮って3度突き出た。瀧川の臣、津田小平太長興、稲生対馬貞置、弟の儀左衛門が戦ったが、土屋惣蔵の放った矢で儀左衛門は死んだ。対馬貞置は馬を射られて倒れたときに、勝頼の馬が離れて駆けてきたのでそれに乗った。勝頼は鎧の櫃に腰をかけて瀧川の臣、伊東伊右衛門長光と刀で戦い、首を取られた。瀧川儀太夫は土屋惣蔵を討った。その他の勝頼の家来は全て戦死した。

武田四郎勝頼(37歳、景徳院頼山勝公居士)、同太郎信勝(16歳、○雲院甲岩勝信居士)、勝頼の正室(北条院横安妙相大姉)

家臣:

土屋惣蔵昌恒(27歳、忠庵存孝)
河村下総 (河白道張)
安倍加賀 (慶室道節)
温井常陸 (常叟道張)
跡部尾張 (跡叟道張)
小宮山内膳友信 (忠叟道節)
金丸助六郎昌好(金渓道助、土星昌恒の兄)
小山田平左衛門国則(忠原實寶)
同  掃部助義次(洞岩宗谷)
同  彌助(明監道白)
同  於皃(久桂芳昌)
秋山紀伊守(秋峯道紀)
同   木工助(水村山谷)
小原丹後 (鉄岩恵加舩)
同 下総(空岸東海)
安西伊賀(西安道伊)
岩下総六郎(月窗江海)
秋山源三景氏(賢英可推、土屋昌恒の弟、17歳)
同 総九郎(傑傳宗英)
同 民部 (観應月心)
同 宮内 (清寒霜白)
小原源五左衛門(實山金性)
多田久蔵 (円應寒光)
斉藤作蔵 (即應浄心)
小原下野 (一峯宗誉)
山野居源蔵(虚屋道幽)
神林清十郎(清神道林)
小原清次郎(原清道實)
有賀善左衛門(賀屋道漸
土屋源蔵 (源興道屋)
窪澤治太夫(天真了然)
皆井小助(本光道如)
貫名新蔵(松峯道鶴)

享保16年(1731)に勝頼の150回忌があり、追福の為に甲陽の家臣の子孫を明確にすることになり、田野の景徳院の僧侶が持ってきた過去帳ではこのようだったという。合わせて33名だった

〇伝るところでは、勝頼と死を共にした者は、上の33人の他に、
小原忠五郎(丹波の子)、小山田大學(20歳)、高尾伊賀、多田角助、
寺島藤蔵、伴 又一郎、甘利采女、同彦五郎、川村五兵衛、曽根内膳、
安田十郎左衛門、同源三郎、雨宮織部、同善次郎、小尾五郎助、
同十兵衛、浅羽右近、麟岳和尚(信玄の甥)、弟円首座(秋山民部光明の子)などがいたという。

考えてみると、田野で勝頼と死んだものは33人で、残りは天日山の麓のあちらこちらで戦死した者のはずである。

〇ある説によれば、田野で勝頼は妻(*継室の北条夫人:北条氏康の6女)を小田原に行かせようとした。しかし、彼女は「自分の実家は弟三郎景虎が越後で景勝と戦ったとき、長坂跡部の謀略に落とされ金銀を貪って領地が増えることを喜んで理由なく景勝に加担して三郎を滅ぼそうとした。自分は何度もそれを止めたが受け入れず景虎を失った。このため北条家の恨みは骨髄にまで沁みこんだのだ。今、何の面目があって小田原へ行くのか」といって、家来の早野内匠助、剣持但馬、清水又七郎に遺物を渡して小田原へ帰した。しかし、剣持は1人戻ってきて勝頼夫妻と死をともにしたという。

〇『辻家伝』によれば、彌兵衛盛昌は勝頼に罰せられて、天正3年7月に甲府から逃げ出し、信州小諸の與良遠江の許で蟄居していた。しかし、勝頼の死後、家康に仕えたのは確かである。『甲陽軍鑑』では、勝頼は勝沼へ行くときまでは、廣瀬、三科、辻彌兵衛が随行した。辻は一揆の長となって田野を攻めたというのは、大間違いである。甲州の東條に辻の一族が多いので、その内一揆の長になって彌兵衛の名を冒して勝頼を攻めたのではあるまいか。

〇世に誉高い小宮山内膳友信は讒臣(*ざんしん:他人の悪口を言って主人におもねる家来)によって勝頼に勘当されて蟄居させられた。しかし、田野ヘ出て来たので、勝頼は喜び、自分の失敗を謝まった殉死させた。家康は後日この人を気の毒だと思い、弟又七郎昌吉19歳を呼んで碌を与えた。

勝頼父子の遺骸は田野にあったが、信長を恐れるあまり恵林寺始めとして供養する僧が居なかった。そこで田野から西北4里ほどの中山というところに住んでいた甲州洞家の僧録は廣厳院で、勝頼夫婦と信勝、そして殉死した者の遺骸を集めて埋葬した。この秋、家康が甲州と信州を掌握した後、ここに寺を建立して天童山景徳院と命名し75石の田を寄進し、小宮山内膳の弟の僧をここの住職とした。

〇曽根下野正清は6年以来、菅谷九右衛門行清を通じて密に信長へ通じ、その働きによって穴山、木曾、小笠原掃部助などが信長に付いた最初の例となった。彼はその功績によって領地を確保したいと思わなくもなかったが、むしろ、今回武田が滅びる時期を見計らって勝頼を叛いて一族の身を守ろうと、肥えた馬の塵を望んで、周辺の付き人にひざまずいて媚びることに熱心だったという。

12日 信忠は武田父子の首を確認して、滝川一益に褒美として、吉光の脇差、馬(一戸鹿毛)黄金500両を与えた。

13日 家康は諏訪より市川の陣まで帰った。

この日信長は甲州の根羽根に着いた。この時越中から急ぎの連絡が入った。それによれば「信長父子が甲州と越後の境で武田に大敗した」という嘘の情報で一揆が起き、富山城内では小島六郎左衛門、唐人民部が11日に城将、神保越中守氏春を本丸に閉じ込め、城は一揆に占領された。そこで柴田、佐々、前田、佐久間玄蕃允盛政などが急いで越中へ出撃したという。

14日 信長は平谷を経て波合に着いた。信忠の使いが来て勝頼父子の首を献じた。信長は大いに喜んで、「羽林(*皇帝の兵)が出陣して30日も経たないで甲信を制圧し敵の大将の首を取るとは、その手柄は比べるものはない」といって、使いの者に福富半左衛門定次を添えて古府へ行かせ、剣(荒波)と馬(板屋驩)と美服百着を信忠に贈った。又使いの関喜平次と桑原助六郎にも馬を与えた。

家康の親戚、大給の松平左近太夫眞乗が37歳で死去した。家康は子の源次郎8歳に家督を継がせた。(後、和泉守宗乗)

15日 信長が豪雨のために飯田に留まっているときに、下曽根覚雲軒が武田左馬助信豊の首を献じた。この信豊は信玄の弟で、典厩信繁の子である。今回信豊父子一族は20騎ほどで佐久郡小諸の城へ逃げてきたとき、覚雲軒が欺いて二の丸へ呼び入れて暗殺し、家来の朝比奈孫四郎や白井など総勢11人が自殺したという。

信長は長谷川宗仁に、勝頼父子、仁科五郎信盛、典厩信豊などの首を京都へ運び獄門に吊るさせた。(川尻與兵衛を肥前守とした)

17日 信長は伊奈郡大島を経て飯島へ着いた。

19日 信長は上諏訪法養寺に陣を張りしばらく留まった。大小21名の馬廻りと弓と鉄砲の軽卒だけが陣に留まり、後の者には休暇を与えた。

この日、信長は、舎弟 源五郎長益と森庄蔵長可に上野の嶺の城主、小幡上総介信眞のところへ派遣し説得して降伏させた。

今度の戦争で、勝頼を裏切った信玄の舎弟の信綱入道逍遥軒は、信長の命を受けた森長可の家来の各務某に立石において暗殺され、逍遥軒の伯父の一条右衛門太夫信就は市川で家康に殺された。信就の自宅では長坂釣閑父子が殺された。釣閑の伯父の武田上野介信龍、同左衛門太夫信光、勝頼の弟、葛山十郎義久と小山田右兵衛射信茂、同八左衛門昌時、小菅五郎兵衛元成、朝比奈兵衛太夫信置(駿河の子)は善光寺で殺された。諏訪越中頼豊、小山田出羽、秋山摂津、同内記、大熊備前朝秀、清野美作、今福筑前、山縣源四郎などは伊奈郡のあちらこちらで殺された。跡部大炊信元は諏訪で殺された。諏訪刑部と同采女は三河段嶺長篠の住民に斬られた。飯狭間右衛門は以前美濃の明智で謀反を起こし、坂井越中守一族を討ち取って武田についていたが、今度信長は越中守に殺させた。

信長は「今回勝頼と戦わなかった者でも、武田の家来を家来にしてはならない。特に有力な武将は全部殺せ」と命令した。しかし、家康はこの人達を惜しんで憐れみ、信州の蘆田の依田右衛門佐信蕃を市川の陣に呼んで、密に主従6人を遠江城飼郡二股の奥川村に蟄居させ、三枝土佐虎吉は駿河の藤枝東雲寺に隠した。家康は彼らに米を与えた。

巨摩郡武川の諸士には、遠江桐山の辺りに蟄居させた。

岡部次郎右衛門正綱や渡邊囚獄守(後、豊後縄の子)を始め、甲州先方の士は家康に助けられ、三河や遠州に蟄居するものも多かった。

武徳編年集成 巻20 終