巻21 天正10年3月~6月 本能寺の変

天正10年(1582)

3月巻21.jpg

19日 家康は甲州市川の陣から信州へ赴いた。これは信長に会うためである。

この日、木曾左馬頭義昌は、諏訪に向い来国行作の太刀と馬二匹、黄金200両を信長に献上した。信長は木曾一族が以前から自分に内通していたことに感謝して、彼に信州の木曾を領地として与え、更に筑摩と安曇の2郡を加え、黄金千両と刀を贈った。この刀は後藤源四郎徳来の作だったという。

20日 家康は上諏訪に着き、信長に対面した。信長は「長篠では、徳川家の活躍で武田の家来を粉砕し早く相手を落とせた」と何度も誉めた。そして奥平信昌にも、長篠で篭城した功績を誉めた。

21日 家康の紹介で穴山梅雪が信長に面会した。梅雪は「国久の太刀」と黄金300両を信長に献上した。この人は武田を裏切った功績によって、駿河の領地をもらい、さらに甲州の下山満澤が彼の領地だったので、結局巨摩郡をすべて支配した。また、「国光の脇差」をもらって、家康の家臣となるように命じられた。

小笠原掃部助信嶺も信長に面会し、「久国の太刀」と馬を献上した。そして信州諏訪郡松尾を領地としてもらった。

北条氏政は、端山大膳亮師治に託して、太刀と馬、黄金千両、相模江川の酒10樽、白鳥10羽、漆20樽、生きた白鳥を信長に献上して、戦勝を祝した。信長は意気揚々だったという。

23日 信長は駿河を家康の領地にすると宣言した。

家康は「今川氏眞の元の家来が千程度、富士の麓辺りまで進軍しているので、自分が前に約束したように駿河の半分を氏眞に与える」と答えた。信長は怒って、「駿河の持船や田中の城を落とし、他の砦を落としたのは徳川家ではないか。だから徳川家が駿河の7郡をすべて支配しても誰も文句はいわない。すぐに駿河一円を支配すべきだ」と命じた。

今回の戦いの落人となった曽根下野正清は、駿河の河東1万貫を領地とし、穴山とともに家康の家来になった。

信長は瀧川左近将監一益を呼んで、上野の国井と信州の佐久と小縣2郡を与えた。また、「一益は老年なので遠方に住むので不便なのはわかるが、関東の菅領を命じる。もし離れていることによって判断が難しいことが起きれば、家康の指示を待て」と脇差と海老駵という馬と、彼の元の領地を5郡を与えた。

これ以降、瀧川は上州の厩橋の城に住んで、上野の国人と北武蔵の深谷、本庄、松山などの城主、信州の真田、木曾、小笠原掃部などが全て彼の家来となった。(この武蔵の士の多くは、当時北条の家臣だったが、信長の破竹の勢いに押されて一益の家来にさせられた。

24日 家康は、信州の上諏訪から甲州の市川の陣へもどった。今回信長が東海道を経て帰るというので、家康は駿河、遠州、三河の道を補修し、落ちた橋を直し、宿舎や茶店を設けるように命じた。

以前に信長は、信州の深志の城へ運び込んだ糧米を、陣中の部隊に配分した。

25日 上州の豪家で嶽の城主、小幡上野守信眞が、信忠の陣所に来て「貞宗の脇差」と黄金500両を献じて、領地と「左文字の脇差」をもらった。鷹巣の城主、小幡三河守信尚も来た。彼らはみな瀧川一益の指示に従うことになった。

26日 北条氏政から信長に精米2千俵が贈られた。

28日 信忠は甲州の陣を払って、諏訪で信長に会った。

29日 信長は、甲州一円を川尻與兵衛鎮吉に与え肥後守にした。ただし巨摩郡は穴山梅雪の領地としたので、信州の諏訪郡を替わりに川尻に与えた。

更級、填科、水内、高井の4郡10万石を森 庄蔵長可に与えた(後、武蔵守)。彼の甥にあたる蘭丸長定には、濃州岩村5万石を与えた。これは亡兄三左衛門可政が近江の宇佐山の城で戦死したためである。

信州の伊奈の8万石は、斯波の親戚毛利河内守秀頼に与え、飯田と高遠の城主とした。

小諸5万石は道家彦八郎正榮に与え、美濃の與奈、田島、金山を團平八景春に与えた(道家氏は尾張の春日井の生まれで、瀧川一益の甥である)

〇三河の設楽郡段嶺の菅沼刑部貞吉の子、新三郎貞定忠と伊豆満直は、元亀3年以来徳川に背いて信玄の味方になった。天正3年からは三河から逃げて甲陽に移り住み、今回は川尻鎮吉に降伏して川尻の下にいた。家康は新三郎と伊豆を殺すと、信長に告げた。(新三郎の妻は諏訪祝部の女で、非常に怪力だったが子供を殺して自殺した)

菅沼新九郎は1度武田についたが、家康に内通していることが見つかり信州小諸の堀の内の牢獄にいれられ、そこで獄死した。今回そのことを家康は知って憐れんだという。

〇信長と信忠の命令で、諸軍は木曾口や伊奈口から帰国した。

4月小

2日 信長は長年の宿敵を破り、家康領を経て帰還するので危険がないと、500ほどの兵で上諏訪を発ち大河原へ着いた。北条氏政は武蔵野で狩をして雉を500羽信長に献上した。

3日 信長は甲陽の古い城を見物した。

信忠は諏訪に陣を置いて、武田の菩提寺の恵林寺には、将軍義昭の使者の大和淡路守と三井寺の上福院、佐々木弾正少弼義賢入道承祺(当時は佐々木本次郎)が隠れていると聞いて、早く出頭するように3度命令した。しかし、寺の僧は拒んで出さなかった。信忠は、「住職らは武田家が数代の檀家にもかかわらず勝頼の死後、彼を境内で葬ることもせず、3人をかくまっている」と怒り、津田九郎次郎信治、長谷川與次郎、関 小十郎右衛門、赤座七郎右衛門に恵林寺を取り囲ませて中を捜索した。しかし3人は既に逃亡した後で、寺の中にはいなかった。僧侶達は全て山門の楼上に籠っていたが、信忠は下に草を積んで火をつけた。住職の快川智勝国師は座って合掌し、寂然として亡くなった。その他、宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山などの長老6人、単寮12人、平僧、児童など84人は、泣き叫びながら全員焼け死んだ。人々は信忠の残忍さを非難して憎んだ。

4日 北条氏政は玉林斎に持たせて、鷹3羽、馬13匹を信長へ贈ったが、信長は嫌ってすぐに返した。

5日 森庄蔵信可は信州の川中島の4郡をもらい、海津の城に入れられた。

水内郡飯山には稲葉彦六郎貞通(後、右京亮)が居たが、川中島で一揆が蜂起して飯山を取り囲んだ。その知らせを受けた信忠は團平八景春と稲葉勘右衛門、彦一、国枝頼母などを援軍として派遣し、彼らを森庄蔵勢が粉砕し、一揆衆2~3千人を討ち取った。その後、一揆衆は山中に引きこもって大蔵の古城を攻撃した。庄蔵はこれも攻撃して打ち破り、一揆の棟梁芋川など何人かを討取った。

飯山の城は天正5年に上杉景勝が築き、天正7年に戦勝して以来、奈良、澤上、南條、中曽根、小境、北条、原などが交代で入っていたが、今回織田方に攻め取られた。しかし6月に信長が殺された後は、再び景勝が乗っ取ったという。

10日 信長は(*武田の)旧城(*甲陽)を発って八代郡姥口に着いた。家康は信長一行のために所どころに休憩所を設け、大きな石を取り除き、巨木を切り払って山道を整備し、護衛をつけて接待を続けるように指示した。

〇柴田修理亮(*勝家)、佐々内蔵助、前田又左衛門、佐久間玄蕃らによって、上杉方の越中の富山と末森は陥落したが、魚津と松倉には越後の譜代が多く立て籠もっていて、寄せ手と対峙していた。

織田方は松倉は攻めずに8日から魚津を包囲し攻めると、加番の吉江善四郎は今夜敵陣を襲い、柴田右近以下200騎ばかりを討取った。

11日 家康は駿河の井出の郷士、伊出甚助正次の居宅へ寄った。信長は甲陽の阿難坂などの険しい道を経て木巣に着いた。

信忠は今回の森長可の活躍に対して、賞状を与えた。

12日 厳寒の様に寒い日だった。信長は駿河の富士の根、上ヶ原井出の野にて、近臣に馬の競走をさせ楽しんだ。また、富士山を眺め、鎌倉右大将家狩倉の遺跡、白糸の瀧などを尋ね、浮島ヶ原で流鏑馬を興じた。

この地は、去年家康が平定し民衆が安定しているが、北条氏政が出兵して、興国寺へ赴き中道を進軍して家康の領地となっていた大宮などの寺や民家を全て焼き払った。これを信長が耳にして眉をひそめた。家康は大宮の社あたりに陣を張った。

家康は信長の宿をすぐに訪れて対面すると、信長は非常に喜んで、「一文字の刀」と「吉光の脇差」、馬3匹(そのうち黒馬は信長の愛用の馬)を贈った。

13日 信長は足高山を遠望して富士川を越え、吹上六本松、和歌の宮や、興国寺、差三枚橋の城を訪ね、清見が関、田子の浦、三保などの名勝を遊覧して江尻で泊まった。

14日 信長は安倍川を越えた。家康の領内では船橋をかけ、あるいは水練の人夫を出して完璧にもてなしを整えていたので、信長は感心した。彼は田中の城に泊まった。

15日 家康は信長より3日早く浜松へ帰り、信長は大堰川を渡って遠州の佐夜中山を経て、掛川の城に入った。

16日 信長は天竜川を渡った。

信長は、舟橋の監使小栗仁右衛門忠吉と浅井六之助道忠に黄金を与えた。やがて信長は浜松城に入り、家康と面会し大変なご馳走で歓迎された。

信長は奉行の酒井忠次に向って、「今、自分が天下を取っているのは、長年徳川家が東の大敵を抑えてくれたお陰である。しかし、苦労の上駿河を支配して自分に為に宿を設けるなど奔走してくれている。どう感謝したらよいだろう。去年来、東国を征服するために三河の吉良に糧米を8千石(4斗入りで2万俵)おいてあるが、武田が滅び北条も降伏しているのでもう戦のために糧米を使う必要はない。徳川殿が東国の番鎮であるから、早く徳川の功臣にこの米を配分せよ」と命じた。このことは菅谷九右衛門長頼に伝えられた。

深夜に信長は酒井忠次と閑語した。(*密談だろうか)

17日 信長は今切の渡しを越えた。

鮒奉行の渡邊彌一郎が小賢しく世話をしたので、信長は黄金を与え、三河に入って今夜は酒井忠次の居城吉田に泊まった。そこで「眞光の刀」と黄金200両を忠次に与えた。

信長は長澤ノ松平上野介康忠に面会を申し込んだが、康忠は故あって会わなかった。信長は使いを送って黄金と刀を贈った。

18日 信長は池鯉鮒に着いた。

20日 岐阜に着いた。

21日 安土城に帰還した。

〇先日越中魚津の後援として(*上杉)景勝送った斉藤下野利實、河田軍兵衛と能登の浪人が宮崎に着いた。松倉の河田豊前守は、敵が攻めずに圧力をかけるので、城を飛び出して敵を打ち破り、宮崎の味方に加わった。

今日上杉勢は魚津の寄せ手の陣を襲った。しかし、府城が頑丈だったので効果がなかった。

河田は前田利家の柵を破って、魚津の城へ駆け込み城を防衛した。この後景勝はわずか3千人を率いて後詰とし、春日山を出発した。

5月小

〇武田の一族、穴山陸奥守信君入道梅雪は浜松へ行き、今回の謝礼として数品を家康に贈った。この度は長坂血槍九郎信政の雄弁によって穴山が最初に家康に投降した。そこで家康は長坂には領地を授け、鞍置き馬を与えた。駿河の顕光庵の僧にも老臣が書状を贈った。

9日 家康は駿河に封ぜられた謝礼として、穴山梅雪を連れて浜松を出発し安土に向った。

11日 家康は岡崎城に到着した。(1日滞在して従者を待った)

信長は高野藤蔵、長坂助十郎、山口太郎兵衛に命じて、尾張の道路では土地の人々に落ちた橋を架けさせ町を広くし、宿舎を補修し茶店を設け、道筋にいる大小の領主には家康に酒を一献振舞うように命じた。家康は急いで信長への自筆の礼状を武田の浪人の岡部正綱に届けさせた。天正10年5月11日 家康ー岡部正綱・武田浪客.jpg

14日 近江の番場では佐和山の城主、惟住五郎左衛門長秀が席を設け家康を饗応した。
織田信忠は岐阜へ凱旋した。

15日 家康は安土の城下の大寶坊に着いた。衣服を整えて城内で信長に謁見した。馬鎧300、黄金3千両を信長に贈った。信長はたいそう喜んで、今回の訪問のついでに京都、大阪、堺を観光する費用として黄金を家康に返した。

信長は、大寶坊を迎賓館として、惟任日向守光秀に家康の接待係りをさせた。光秀は京都と堺での接待の用意もした。

19日 信長は城内の総見寺で、越前の幸若太夫の舞曲2番、丹波の梅若太夫猿楽3番を開催し、家康はもちろん御家人一同をもてなした。

20日 城内高雲寺の応接間で家康は、惟住長秀、堀秀政、菅谷、長谷川の接待を受けた。
席次は、信長と家康が対座し、家康の陪膳は信長が自分で行った。次の座は穴山梅雪、次が酒井忠次、次が石川左衛門太夫康通、次が本多豊後守廣孝など、徳川の一族へ信長は自ら御馳走を授けた。

宴が終わって信長は、家康をつれて天主と仮山の風景を見せ、服を家康の伴の者に与えた。(夜になって家康は退去した)

21日 家康は畿内と大阪、堺の景勝地を観光するために安土を出発した。

〇一説に、家康が泊まっている京都の宿舎の門外に、ある夜鎧を着た武者がうろついていた。安部膳九郎正勝が訝って家康に伝えた。家康は別にかまうなと命じた。しかし、御家人は怪しいと夜通し寝なかった。深夜になってその武士は「ここにはいない」と罵っていなくなった。誰も訳がわからなかったという。

23日 関東の新菅領、瀧川一益の甥、儀太夫は、上野の国人1万人を連れて越後へ侵入するために三国峠に来た。

上杉方はこの地の防護として、長尾、伊賀、栗林、肥前が坂の半分まで寄せ手が登った時に、左右の山から矢や鉄砲を多く放ち槍で対戦した。しかし、険しい地形で寄せ手の二の手は救援できず、共崩れになって上道一1里ほどの猿が京まで撤退した。そのとき200名ほどの兵が戦死した。

25日 栗林肥前は一昨日後陣だったので戦闘に参加できなかったことを憤慨し、長尾、伊賀を三国峠において猿が京に攻め込んだ。しかし、どういう訳か瀧川方の兵は抵抗せず、栗林はあちこちを焼き払い軽く兵を収めた。しかし、彼は瀧川が三国峠を攻めてくるのではと、昼夜心配していたという。

柴田勝家などが越中魚津の城を遠巻きにしているので、上杉景勝に後援させようとした。しかし、上方勢の包囲が強固で、その上大軍のために景勝は手が出なかった。しかし、今日は天神山から兵を出して寄せ手の陣に迫った。

直江を先鋒として大砲を発した。柵の中からは、前田、佐久間盛政、柴田伊賀守勝豊が出てきて勝負した。

上杉方は本郷金七など300ほどを討取ったが、戦況が不利になり、柵内へ突入した。直江の隊では本多彌兵衛が一番槍を合わせて原田監物も最初に上方の柵を突撃した。

このときに魚津の兵が飛び出した。しかし、人数が少なく寄せての陣を破るのが難しく役に立たなかった。景勝は旗本勢で二の柵に迫った。生駒右馬が先頭に立って二の柵を打ち破り、小屋を焼き払い、700あまりを斬り殺した。しかし、交代要員がいないので天神山へ退却した。

〇この日、備中の羽柴秀吉から急ぎの使いが安土に到着した。最近彼は信長の命令で中国の毛利輝元と戦っていた。当時秀吉は毛利方の備中高松の城を水攻めにして城は落ちそうだったが、輝元は数万の軍勢で救援し、秀吉の陣から10町のところで陣を張った。そこで秀吉は「信長が救援部隊を早急に派遣してくれると、高松城を落し輝元と勝負して勝利して、今年中に西国をすべて平定にする」と伝えた。

信長はそれを読んで、「毛利が備中まで出てきたのはラッキーだ、すぐに兵を出して打ち滅ぼすべきだ。先鋒は惟任光秀として、細川忠措興、池田信輝、中川、高山、塩川などの丹波丹後、摂津の武将達は、至急国に戻って兵を準備して備中へ向かえ」と、菅谷長頼と長谷川竹丸に伝えさせた。

光秀は憤慨して、「金をずいぶん使わせて徳川の接待をさせながら、重ねてこの命令とは信長の手のひらを返したような自分への仕打ちだ」と罵って安土から坂本の城へ帰り、自分の什器などを琵琶湖に投げ捨てて、すぐに彼の居城の亀山へ帰った。光秀は以前から信長を恨んでいたので、「今度こそは信長父子を殺して、(*由緒ある)土岐家の流れをくむ自分が天下をとってやろう」と考えた。

26日 光秀は坂本の城を出陣した。

27日 光秀は、京都郊外の愛宕山で法楽百韻の連歌を夜を通して催し奉納した。

28日 家康は京都見物を終わって大阪へ赴いた。信長は織田三七信孝に四国を与え、
丹羽長秀、蜂屋頼隆、織田七兵衛信澄を従えて大阪城で陣を張ったが、信長は彼らに家康を持てなすように命じた。

信長は畿内の武将たちを招集して、「先発隊を含めて3万5千の勢力で備中へ出陣する予定だったが、家康もたまたま呼んでいるので全軍を2人で指揮して毛利に向おう」と意気を挙げていた。

29日 家康は泉南に向かい堺の港を観光した。

信長は家来たちを国に帰らせて西国への出陣の合図を待たせ、自分は150~160騎で京都へ行き、本能寺を仮の宿とした。信忠は僅かな兵を伴に上京の妙覚寺に居た。

6月大

朔日 光秀は、居城の丹波亀山の城で老臣を集めて信長に叛く意思を示した。

将兵には、「中国へ出兵する軍備を整えて京都へ行き、信長の観閲を受ける」と偽って伝え、街道を大江山から京都の七条通りまでの5里ほどのところどころに兵を配置した。

また、唐櫃越えから桂川までは小道で、番兵もいなくて僅か4里程度なので、夜に本隊は街道を進み、光秀は単騎で水尾村の南から嵯峨に出て、桂川のあたりで本隊に合流し兵に向って「敵は本能寺にあり」と伝えた。そこで一同は光秀の意思を知った。

2日 明け方、光秀は本能寺を包囲した。

信長は激怒して、西の方の本堂の番人と護衛の馬廻りの兵と共に防戦し、自分も矢で多くの敵を射殺した。

信長方は必死で防戦し、森蘭丸長定、同坊丸長隆、同力丸長氏、小川愛平、金森義八、魚住庄七、今川孫次郎、狩野又九郎、薄田與五郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀丸、山田彌太郎、飯河宮松丸、種田亀之丞、柏原鍋丸兄弟、祖父江孫丸、大塚彌三郎、同又市郎、平尾平助、同朋、鍼阿彌馬役、屋代勝助、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五、中間藤九郎、藤八、岩蔵新六、彦一彌六、熊若、駒若などが命を落とした。

高橋虎松は厨口で戦死した。中尾源太郎、小倉松壽、湯浅甚助一忠は別の宿から駆けつけて戦死した。

右大臣信長は火を発し自害した。享年49歳。(信長はじめ戦死者122人の遺骨は、貞安和尚が集めて阿弥陀寺に収容した)

〇同じ日、信長の長男三位中将信忠は、光秀の兵を防ごうと妙覚寺を出て一宮誠仁親王の居る二条の御所に立て籠もった。そこで一族近臣、馬廻りの兵士を集め、昼に光秀が来るのを待ちうけて奮戦したが、26歳で自殺。150人あまりが死亡した。(信長父子の滅亡は諸書に詳しくあり、徳川家には特に関係がないので省略する)

一方、家康は酒井左衛門射忠次、石川伯耆数正、石川左衛門太夫康通、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政、本多作左衛門重次、大久保新十郎忠隣(後相模守)、同次右衛門忠佐、高力與左衛門清長、同権左衛門正長(後河内守)菅沼藤蔵定政(後土岐となり山城守)、本多百助信俊、松平源七郎康直(後上野介)、久野新平宗秀(後民部大輔)、阿部善九郎正勝(後伊予守)、付き人は、井伊萬千代直政(後兵部大輔)、鳥居松丸忠政(後左京亮)、永井伝八郎直勝(後右近太夫)、内藤新五郎安成(後右京亮)、長田瀬兵衛、都築亀蔵、松平十三郎玄成、松下小源太郎、筑長三郎、青山虎丸、三浦亀丸、その外三宅彌次兵衛政次、高木九助廣正、牧野半右衛門正勝、渡邊半蔵守綱、服部半蔵正成、本多藤四郎政盛、森川金右衛門氏俊、渥美太郎兵衛友吉、酒井作右衛門重量、多田三吉、花井庄右衛門ほどの人数で観光のために和泉の堺の港に泊まっていた。

家康は信長の宿の京都本能寺へ使いとして本多平八郎を行かせた。忠勝は明け方に堺を出て8里ほど行き、正午ごろに河内の交野郡枚方に着いた。一方、家康のお気に入りの呉服師の茶屋四郎次郎清延は京都から早馬で堺を目指し、7里ほどの枚方で忠勝に会った。清延は息が切れて声が出なかったが、しばらく息を整えてから笠を後ろに返して、遥かに本能寺、二条の煙を指差し光秀の乱の件を話した。忠勝はすぐに彼を連れて堺に帰り家康に報告した。

家康は驚く気配はまったくなく、予め地理を調べておいた河内の飯森の社が陣地にふさわしいとして立て籠り、大坂の丹波長秀と相談して光秀と戦うために堺をすぐに出発した。

5里ほど進んで森口まで来たとき、後から合流した忠勝が「明智軍は優勢なので、このような少人数で戦ってはいけない、早く三河へ帰ったほうがよい」と進言した。酒井忠次と石川数正は、「忠勝のいうのは尤もだ。われわれはただ死はしたくない。街道は光秀軍が押さえているだろうから、わき道から一旦帰国して改めて光秀を討つべきだ」と述べた。

家康は、「自分もそれを考えないことはない、しかしここから三河までは道案内がいないし道のりも長い、一揆衆ときっと戦うことになろう。自分はむざむざと連中のために命を落したくはない」と述べた。そのとき、信長の命で接待のために同行していた長谷川竹丸は、「交野郡の津田のあたりに信長の世話になった人が多くいるので、予め話をつけて道案内をさせよう」と述べて、津田へ使いを派遣した。

そもそも家康は、道筋についてはかねてから何かの場合に備えて密に計画を立てていた。すなわち、交野郡の穂谷村、尊円寺村から宇津木越えを経て山城の相楽郡天王寺、普賢寺村、水取村へ行き、木津川を越えて白柄村、綴喜郡老中村、江野口村高尾の東南の方へ進み、宇治橋から1里9町上の瀬僧塚を渡って、近江の信楽、波多野、高見峠を過ぎ、伊賀の上拓殖鹿伏、兎越えを伊勢の白子に行き、これから船で三河へ行くのがよいと決めていた。

家康は和泉の城上郡十市へ使いを出して、村の主に道案内を出すように伝えた。本多平八郎忠勝は蜻蛉切という長い槍を持って、民家に案内を求めた。民家では恐ろしいので道案内をした。行き先々の村ではどこでもそんな様子だった。

河内の尊円寺村までは交野郡の津田から道案内が来て、また茶屋四郎次郎はアルバイトの道案内を雇って家康一同はようやく夜に山城の普賢寺谷の南、相楽郡山田村に着いた。このとき大和の城上郡十市玄蕃允達光は、吉田善兵衛とその子の主馬助、孫の次太夫を差し向けて、家康が山田村に泊まる時に護衛した。

穴山梅雪もここまでは同行したが、もともと胡散臭くて家康を疑って「宇治橋を渡って木幡越えから近江の高島へ出て、美濃の岩村から甲州へ行く」と述べて家康一行と別れた。その後山城の綴喜郡草内村辺りで、彼の従者が道案内の者の持っていた銀の鍔の刀が欲しくなってその人を殺し刀を奪った。それで案内をしていた地元民が怒って、梅雪一同をすべて殺した。(梅雪の墓は草内村の向い木津川の西南、飯野の丘に現存する)

3日 家康は山城の綴喜郡木津川の渡に着いた。柴を積んだ船が2艘来たので本多忠勝は「これを借りたいと頼んだ」。しかし、船頭は断った。忠勝は鉄砲を向けたので、船頭は船を岸に寄せて家康を乗せたが、積んでいた柴を棄てなかった。忠勝は怒って大槍を向けると船頭は恐れをなして、積荷の柴を川へ投げ捨てた。対岸に着くと敵が追ってきてはまずいと忠勝は槍で2隻とも叩き割った。

十市玄蕃は長尾村の八幡山を家康の宿舎として、懇ろに迎え入れた。(家康は馬を玄蕃父子に贈った)

4日 石原村では、地元の石原源太が数100人の手下で家康らの前方を遮った。吉川父子は柏木を馬印として御家人とともに奮戦して撃退した。本多忠勝は傷を負ったが軽かった。

物資の運搬係の高力與左衛門清長は、数回交戦して弾丸の傷を負った。家康は吉川の功績を賞して、柏を家紋とするように命じた。善兵衛はわき道を固め、賊が出てこないように八木まで引き返して、子供の馬助を家康の伴に加えた。

家康は白江村の老中村、江の口を通過した。江の口あたりから高尾村のあたりまでは宇治田原という。地元人の山口玄蕃は家康に食事をふるまった。呉服大明神の別当、服部貞信は家人を連れて山口と伴に家康の伴をした。高尾村久世郡宇治川の上流では船がなかった。酒井左衛門忠次は馬を乗り回して瀬を探すと、川の中に白い御幣が立っていた。

榊原小平太康政の部下の原田佐左衛門は、日ごろから天照太神宮を非常に敬っていて、これを見て太神宮が家康を危機を助けるために浅瀬を知らせていると感じて早速馬を入れると、確かに浅瀬だったので、康政は馬で川に乗り入れて渡った。

酒井忠次は小船を手に入れて家康を渡し、船頭は川の中で代金を要求したので、家康はかんざしを渡した。対岸へ着いたとき、鷹匠の神谷小作正次は船頭を捕まえて、かんざしを取り返した。家康は感心してかんざしを小作に与えた。

酒井忠次は小鵙(*もず)という馬に乗って川を渡った。御家人も渡った。高力與左衛門は柴舟を奪い取って、荷物や雑兵をすべて対岸へ渡らせた。

瀬田の城主、山岡美作守景隆の弟の対馬守景佐の妹は、明智光秀の息子と婚約していたが、それに囚われずに瀬田の橋を落として光秀が安土城へ向うのを遮断した。そうして宇治まで行って家康を迎えた。

ここから近江の信楽までは険しい道で、山賊が頻繁に出てくるところだが、山岡兄弟や服部貞信の知り合いが多いところだから、家康の問題なく通過した。

信楽3千8百石の地は、代々多羅尾四郎兵衛光敏の領地である。彼は山岡の嫁の実家で、山口玄蕃は光敏の三男である。そこで長男の左兵衛を朝宮まで出させて家康を迎えた。家康の家来は大丈夫かと疑ったが、本多忠勝は、「もし光敏が叛いても、被害を受けようとも、何も起きなくても、同じ道を行くしかない」というので、一同は忠勝に同意した。家康は多羅尾へ向うと、光敏が病気だったので丸柱宮内の家で休養した。家康はここで宿泊した。家康は服部貞信に来国次の脇差を授けた。(貞信の子孫服部久右衛門は、今もこの脇差をもっている)

5日 多羅尾佐兵衛と山口玄蕃が家康の伴をして、波多野から高見峠に着いた。ここで吉川主馬助に暇を取らせ、薙刀を贈った。伊賀との境、音聞峠からは山岡兄弟を引き返させた。

近江矢島の浪人、和田八郎定教は、先代伊賀守是政の子である。今回家康のために駆けつけてくれたので、家康は子々孫々まで家来にする証文を与えた。

服部半蔵正成は伊賀の生まれである。本多忠勝の依頼で伊賀の道案内として一行の先頭に進んだ。伊賀の3郡は畠山中将信雄の領地で、拓殖の城は池尻平左衛門、丸山の城は瀧川三郎兵衛勝雅、平楽の城は仁木友梅が守り、山田の一郡は織田信兼の領土である。去年9月信雄が伊勢を平定したときに、信長は皆殺しを命じていたので、逃げ隠れているものを探し出して殺害した。武将たちは三河や遠江に逃亡して家康の助けを借りたものが多かった。

拓殖三之丞清廣、その子、市之助宗久、(後の三之丞)、同伝兵衛、同甚八郎宗吉、山口甚助、山中覚兵衛、米地半助などは、そのような人たちで、山に隠れていた浪人2-300人や近隣の近江、甲賀の武将、武島大炊助茂秀、美濃青洲之助茂明らも、家康に人質を出して100人あまりが家康一行の道筋を警護した。

上拓殖から3里半の間は、鹿伏兎(*かぶと)という深く険しい山道で、山賊の住処であるといわれる場所でだったが、このような護衛がいたので問題なくここを通過できた。ただ、伊賀の衆200人は日ごろから鹿伏兎辺りのものと仲が悪かったので、迷惑がかからないようにと上拓殖で引き返して帰った。

拓殖三之丞は一族の米地半助友勝を道案内とした。この人は故あって子供のころから鹿伏兎に者として知られていたからである。そこで三之丞は他の200人よりも多い褒美をもらった。

昨日 和泉で十市玄蕃の連絡を受けて吉川善兵衛と孫の次太夫は、一揆衆の石原源太の居宅を打ち破った。また十市の家来、磯野善兵衛は源太を斬り殺した。善兵衛はその首を吉川末之助に持たせて、今日ようやく伊賀の琴弾村で家康一行に追いつき、首を家康に見せた。

ここ鹿伏兎は険しい山岳地帯で山賊が多いところである。山口、多羅尾、和田八郎定教、弟の伝右衛門維長(故和田伊賀守維政の子)など近江、甲賀、伊勢の武将たちが護衛したので、この難所を越えることができ、鹿伏兎の宿で泊まった。

6日 家康一行は伊勢の白子浦に到着した。ここでこれまで伴をした長谷川竹丸(後、藤五郎秀一)、和泉、山城、近江、伊勢の武将には務めをはずして、時を改めて浜松へ来て家来になって欲しいと依頼した。それぞれは承知して帰った。

多羅尾佐兵衛には「光世の刀」を贈り、山田玄蕃には「光忠の刀」を授けた。

信長衆の西尾小左衛門はそのまま同行した。

白子浦の商人、角屋七郎は船を用意して待っていて、家康一行は大きな船に乗って、三河碧海郡大濱に着岸した。(後、角屋には末々までの恩賞を与えた)。

こうして、家康は大濱の長田平右衛門直吉の館に入った。この人の父廣直は、廣忠(*家康の父)に通じていた人で、大濱の村の上宮社田で暮らしを立てていた。直吉の嫡子は右近太夫直勝である(直勝は長田を長井に改名した)これ以降、伊勢と尾張の国士は家康の味方となった。

〇岡田正利の『大和累記』では、十市玄蕃遠光は、和泉東の山下、伊賀との境まで4万石ほどの地頭で、5人の旗本がいて合わせて2万石ほども持っていた。城上郡釜が口の山を居城としていたが秀吉の時代に家が断絶した。

〇甲賀の士とは、六角と佐々木家の家臣で、伴西尾平岡武島大炊茂秀、美濃部清州之助、その子助三郎茂治兵衛茂時らのことである。その後次々に家康の御家人になった。和田八郎定教、同伝右衛門維長、服部別当定信もまた同様である。貞信は160石をもらった。(これは久右衛門采女の祖である)。榊原家の付け人の原田佐左衛門は宇治川の先鋒で活躍し、再び家康について千石をもらった。弟は康政の元老、原田権左衛門である。(佐左衛門には子孫がなく家は断絶した)

〇高敦は若輩のとき家康の一代記を詳しく記そうと思ったが、生きている間に無理だと思ってまず『武徳安民記』31巻を書き、関が原の大戦の顛末を扱った。また、自分の実父、平直利が書いた姉川、味方が原、長篠、長久手についての『四戦紀聞』を補充し、その合間に『武隠叢語集』を簡略にした『武家閑談』7巻とした。また『続閑談』20巻を書き、毎年これを訂正していたが、段々先がなくなったのを自覚してようやくこの『武徳編年集成』の原稿ができた。

家康は信長が暗殺されたので、泉南より山の中の間道を越えて伊勢までのこと(*世でいう伊賀越え)についてはいろいろな家の実録に基づいて『続武家閑談』に書いたが、資料によって泉南から、摂津、河内、和泉、山城の国境の間道の順路がはっきりしていないばかりか、僅か2日で伊勢の白子に着いたというのはおかしいと思った。

ただ、自分は江戸から出たことがなく、当地の地理がわからないので資料に書かれたことを信じることが出来ずここに書くわけには行かないと思っていた。そんな時、丙辰の盛夏に、ある人が和泉、摂津、河内、大和、山城、近江の地図を持ってきてくれた。この地図を見ると、家康が辿った経路を赤線で示してあり、詳細に地名もはっきりと書かれていた。
というのもこの人はその昔、その方面を旅して土地の老人に尋ねて書き込んだもので、現在の地図に書き込んでも変わらないようなものだった。家康の初期の事業を後世に残そうと、この書物を書く上で、この地図が手に入ったことは誠にラッキーなことだったといえる。

自分はこれを書き写そうとしたが出来なかったので、地名を書き写して原稿を訂正した。また『続武家閑談』の方もこれに習って家康の伊賀越えについて一章を書き改めた。しかし、自分としては未完成の『続閑談』が我が家から漏れて当時出回ってた。後に校正した版は古い版とは別物であるので、現在版が出て古いものがなくなって欲しいものだといつも思っている。

〇この頃、家康は信州と甲州を支配するものがいなくなるので、米倉主計助継忠と折居市左衛門次昌に、地元の侍たちを探すように、岡部正綱に書簡を届けさせた。天正10年6月6日 家康ー岡部正綱.jpg

〇岡部は今川の家来だった後、武田の家来になった。彼は遠江高天神の門奈左近右衛門俊政が今川時代政綱と知り合いだったので、今度も門奈が使者として本多百助信俊と名倉喜八郎信光を甲州へ行かせ、新しい守護の川尻肥前守の安否を尋ねさせた。

〇常陸の国人、水谷兵部大輔正村入道燔龍斎は、下館3万石を領地として勢力を広げていた。この人の智謀はよく知られているが、以前から家康とは意気投合していた。彼は家康の密使として安土へ行って信長に会うために、甥で上野の長沼の皆川山城守廣熙つれて近江路に入った頃、信長が京都へ入り、本能寺で明智に暗殺されたことを聞いて岡崎に引き返した。近年燔龍斎は家督を息子の伊勢守勝俊に譲り、久下田で隠居の身なのではあるが、皆川と一緒に岡崎に行き、家康の帰りを待った。

7日 家康は岡崎城へ帰った。(水谷と皆川も岡崎に宿泊した)

浪人の安藤伊賀守範俊は、美濃の河戸へ明知方として出撃したが、曽根の稲葉伊予守貞通のために敗れた。貞通の従軍も加納雅楽助重通など多くが死傷した。

〇安土城の留守番には、本丸に津田源三郎勝長、副使6人が二の丸に蒲生右兵衛太夫賢秀、副使11人がいた。信長は美濃を中将信忠に譲り地元の士を親兵としており、信長の方も安土に移るときに近江の国人を旗本にして、安土で勤めさせていた。

京極小法師高次(後若狭守)山崎源太左衛門、片家多賀新右衛門秀家、池田伊予守景雄、同孫次郎秀氏、小川土佐守祐忠、後藤喜三郎綱明、久徳六左衛門、布施藤九郎、阿閉萬五郎以下が戻ってきて、光秀の家来になろうとした。しかし賢秀は今回のようなことになっても動じることなく、安土城を守っていた。彼の息子忠三郎氏卿は居城の日野から来て、河井に駐屯し後援すると伝えると、安土城の諸士はあわてて信長の子供をつれて、蒲生の村日野へ逃げようとした。

賢秀は止められないのでその旨を氏卿の陣へ伝えると、氏卿は日野から肩輿50、鞍置き馬100匹、駄馬200匹を呼び寄せて500人ほどで駆けつけ、信長の妻や婦女子をすべて守り、金銀財宝には目もくれず、城も代官木村次郎左衛門に渡して、父子は日野の仁聖寺の居城に帰り、兵士を善隆院の上の段に立たせ大森口に柵を建て、1500人ほどの兵で明智軍の襲来を待ったという。

光秀は瀬田の橋を修理してから、安土に来て金銀財宝を奪たり兵士に分配した。しかし、仁聖寺への険しい道と蒲生の気合に気後れして、寺を攻めることはできなかった。

勅使が安土に来た。

近江の寄り合い勢は、義昭の家来だった伊勢與三郎貞興、諏訪飛騨守番頭大炊助などがきて光秀に従ったが、諸侯や太夫は誰も来なかった。更に婿の細川忠興は妻と離縁し、光秀と絶縁した。光秀が摂津を与えると提案しても爪弾きして応じなかった。

信長に所領を奪われた伊賀の老人が、光秀の家来になろうと蜂起し、瀧川三郎兵衛の丸山の城や仁木友梅の平楽の城を包囲して攻撃した。和泉の筒井順慶は光秀に同調しなかった。一方、信長から宇治槇島の城をもらった井戸若狭守良弘は、次男忠右衛門治秀が明智の婿だったのでこの城を守って光秀に付いたという。

〇武田孫八郎元次は、一昨年から若狭の内小知をもらって住んでいたが、ここぞと蜂起して近江佐和山の丹羽長秀の居城を攻撃し、留守番の兵が少なかったので陥落した。

〇家康は明智を討伐するために三河、遠州、駿河の兵を集めた。

〇信州の川中島の新しい守護、森庄蔵長可8千人は、右は妙高山、左は喜田川筋から越後へ攻め込もうとした。上杉勢2千500は大田切の切所を隔ててこれを防いだ。しかし、越後勢は兵力が少なく、夕方には大田切を退却して開山まで後退した。

早馬で越中天神山の景勝の陣所へ連絡すると、仰天してすぐに天神山から兵を連れて越後へ帰り、柴田方からも魚津の城兵に和平を求め質として、柴田の一族の専斎と佐々の婿新右衛門を城内に派遣した。本丸を占領して城兵を三の丸へ追い出し、成政が火砲を放って交戦すると、河田豊前長親、吉江織部と援将13人は右の質を刺殺して交戦し、自害した。兵士の中には敵の陣を破って本国へ帰るものもあった。

信長父子が死んだという報せで、柴田勝家もすぐに越前へ帰り、佐々成政も魚津の城を棄てて外山へ退いた。実際今までのことは何だったのかという空しいことになってしまった。

森長可も早々に大田切から川中島の海津へ帰った。景勝も春日山から出陣する必要もなく、ただ、魚津城の落城を憤慨し、将兵が戦死したことを嘆いた。

〇前田玄以は京都の妙覚寺から中将信忠の遺いによって岐阜に帰り、岐阜城から信忠の妻と幼子(三法師丸)を尾張の清州城へ移した。

〇光秀は乱を起こしたが、同調する将兵がないので策がなく、安土に明智左馬助光春、佐和山に荒木山城守氏綱を残して守らせ、一万6千ほどの兵で京都へ行き参内して、京都の地代を無料にし大徳寺へ祠堂金を寄付した。

羽柴筑前秀吉は京都へ向かって明智を討つために毛利と講和し、今月6日に備中を出発し、8日に居城の播磨の姫路に着いた。そこで数日兵や馬を休ませそれから攻め上るという知らせが来た。

〇信長の三男、三上信孝は前に備中へ出陣するために大阪に来て、先鋒の伊勢勢は堺の港に来ていたが、その中の国府四郎次郎(その時は子供)の陣代の国府市左衛門と井田新右衛門は、光秀の乱を聞いて考えを変え、関安芸入道萬鉄斎を誘って光秀について共に伊勢に帰った。また諸兵は皆逃げ出し、残ったものは80人程度だった。

織田七兵衛信澄と丹羽五郎左衛門長秀は、たまたま摂津の大阪城にいたので、信孝は大阪城の本丸に入り長秀が護衛した。

七兵衛信澄は二の丸にいたが、明智の婿で父の武蔵守信行は、信長のために殺された。その恨みによって彼は光秀に通じて信孝を殺そうとしたので、信孝と丹羽長秀は本丸から火砲を二の丸へ撃ち急襲した。信澄は敗北して戦死した。彼の首は上田左太郎重安(後主水正)が得た。

〇光秀は秀吉を山崎で防戦し、洞ヶ峠に来て二男小阿古を和泉へ質として行かせ、筒井順慶を招いたが、筒井は来なかった。ここで計画は挫折し、淀の城に入って補修しようとした。

武徳編年集成 巻21 終