巻23 天正10年7月~8月

天正10年(1582

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18日 家康は、信州川中島の4郡の士が上杉景勝方へ傾いているので、先日村上源五国清と岩井備中政房を水内郡長沼城へ派遣して、その真偽を確かめさせた。

16日 家康は4千300の兵を率いて春日山を発ち、長沼に陣を張った。味方の大久保忠世は、甲州八代郡姥口から信州諏訪に着いた。奥平信昌は、信州伊奈口から攻め込んで伊奈郡を押さえてから、諏訪に着いた。かねてから「反抗するものは反抗せよ。降伏するものには領地を与える」と命じていたので、国士たちは全て降伏した。忠世は、諏訪安芸守頼忠を家康の家来にして、別の村へ進軍した。

酒井忠次は遅れて諏訪へ来た。彼の東三河の軍団は、伊奈口から攻め込んだ。忠次はすぐに3頼忠へ使いを出して、「信州12郡を与えるので、これからは自分の命令に従え」と命じた。頼忠は激怒して、「自分はすでに忠世の勧めで徳川についている、どうして忠次の命令に従わなくてはならんのか。自分は大久保を裏切るわけにはいかない」と罵り、高島城に立て籠もって、抵抗した。忠次は高島城を包囲した。小笠原掃部助信嶺を先頭に国士が続いて攻撃した。

22日 頼忠は、他の北条家の属していた国士が酒井に従おうとすることに憤慨して、ことごとく反抗したので、家康は忠次の信州の封を取りやめた。

家康は伊豆の柾(*まさ)戸に城を築いて、長久保興国寺城の守護、牧野右馬允康成をここへ移動させ、久野三郎左衛門宗能を援兵として、北条への備えとした。

今日、川中島4郡の地士、大室、市川、須田、綱島、春日、小田切、尾味、屋代、栗田、清野、蹈瀬、芋川、西条、板屋、青柳、寺尾らが長沼に集まり、(*上杉)景勝に謁見した。景勝は上条義春に海津城を明け渡させた。

23日 景勝は海津城に入った。

北条氏直は甲州と信州を支配しようと、関東勢5万6千を率いて、馬場右馬助房勝(美濃氏の二男)やその外の国人を道案内に、碓氷峠を越えて信州佐久郡へ進軍した。

川中島の地士の高坂源五郎や尼が淵の真田安房守等は、氏直に通じていた。彼らは「氏直が川中島の屋代、善光寺へ進軍すると、景勝が出てきて交戦するだろうから、その時に高坂は海津の城に火を放つので、その煙を合図に、真田が景勝の本陣に攻め込もう」と氏直と約束した。この2人は先月景勝の家来になったばかりであったが、さっそく裏切ろうという勇気はあるが、義のない輩である。

この頃大久保忠世は、先陣の兵を率いて佐久郡蘆田の小屋の敵を攻め、辻彌兵衛の部下、今井主計と依田三郎左衛門に軍功があった

〇この日の頃、丹羽長秀は若狭へ攻め込んで、武田孫八郎元次が滅んだ。元次は若狭の看守、武田大膳太夫義統の遺子である。

24日 家康は、甲州八代郡柏坂の麓の樫山に陣を敷いた。巨摩郡武川の柳澤兵部信俊、伊藤三右衛門、曲淵庄左衛門吉景、曽根孫作、曾雌民部定政、折井九郎三郎、同長次郎、曾雌新蔵、有泉忠蔵、山高宮内信直、青木與兵衛信秀、同清左衛門、馬場右衛門尉、多田孫三郎ら64人が、家康に降伏した。家康は、彼らの城や陣は服部半蔵正成を物頭として、伊賀の軍士に守らせた。古府の一条右衛門信就がかって住んでいた館を、家康は陣とした。

北条勢の攻撃から古府守るために、家康は若御子口には榊原小平太康政、大須賀五郎左衛門康高、本多豊後守廣孝を置き、山梨郡恵林寺と同郡大野筋には砦を設けて、松平玄蕃清宗、内藤彌次右衛門家長と先陣の三枝土佐守虎吉に守らせ、八代郡鶴瀬と山梨郡初鹿野の刈坂口を塞ぐ、八代郡の屋代の山には、鳥居元忠の騎兵130と雑兵600を配した。(後から菅沼藤蔵と三宅惣右衛門が加わった)

今夜、諏訪頼忠の兵が、酒井忠次も加勢している松平又七郎家信の陣を襲った。家信はわずか13歳だったが、家来たちと奮戦して寄せ手を撃退した。

25日 真田昌幸は上杉の陣を放棄して、北条方についた。

かねてから景勝は忍びを使って、高坂源五郎が昌幸と通じていることを察知していたので、本丸で高坂を捕らえ、夕方にはその密書を探し当てた。それは「28日に氏直が出撃したときに、自分は景勝を裏切る」と真田が高坂へ送ったものだった。そこで高坂とその妻子など全員は、海津の城ではりつけに処された。

26日 家康は依田信蕃に佐久郡の領地に加えて、諏訪を与えた。天正10年7月26日 家康ー依田信蕃.jpg

今夜、松平主殿助は伏兵を使って、高島の城を落とした。

28日 氏直は真田を先方として、尼が瀬を出て筑摩川(*千曲川?)を渡って、岩鼻から屋代に集まり、夜中に善光寺へ陣を張った。

景勝の先隊の直江山城守兼績と川中島の先発隊は、旗本勢2千500の兵を2手に分けて、1隊は岩鼻へ赴き千曲川と團平川に向って兵を配した。また、村上源五国清と埴崎彌次郎泰家は、川中島の先方を加えて千曲川の下流を越えて、川を背に陣を張った。こちらの隊は泉澤河内が仕切った。(これらをあわせた兵力は4千である)上条義春と岩井備中政房は、300の兵で海津の本丸を守り、川中島4郡の人質を収容した。

さて、北条方は、高坂が約束した合図の狼煙を待って30町ほど離れて待機して動かなかった。上杉方は大関彌七郎親憲と河田軍兵衛に、北条の陣の近くに高札を立てさせ、高坂夫婦と3歳の娘の首を置いて帰った。

朝になってこれを見た氏直はあわてて、尼ヶ淵へ退却しようとした。景勝は先の2人に50騎兵を添えて2町あまり離れた場所に兵を残し、氏邦の陣へ乗り込まさせて、「ここで戦わないとは理解し難い。高坂の裏切りだけを当てにしていたとは何たる弱虫、千曲川を越えて陣を張るなら一戦を交えるべきだ」と申し出た。氏邦は「上杉は思いのほか少人数で、大軍に戦いを挑まなかったのには感心した、氏直はここを去って甲陽へ進軍する」と答えた。

両使が陣地へ戻ると、北条方は、真田と松尾尾張憲秀の兵が合わさって後殿しながら退却するのを見て、大関と河田が追撃して後殿へ攻め込み、歩兵を踏み倒して首を20ほど取って帰った。すると真田と松田の兵が踏みとどまった。直江はそれを察知して、銅鑼や太鼓を合図に攻め込んだ。

北条方の軽卒の頭の長尾藤八は、河田や大関の攻撃を受けても交戦せず、魔術を使ったように、長尾の陣と敵の間を河田と大関に向って取って返し、走りきって騎兵を退却させると、藤八の5千の軽卒も徐々に退却した。そして昼前には景勝も海津の城へ帰った。

こうして景勝は、川中島の4郡を手に入れた。彼はこの4郡は村上義清の領地だから、更科の1郡を村上国清に与え、海津を彼の居城として千曲川の西側の先方衆とともに守らせた。

残りの3郡は、上条義春、藤田能登守信吉、上倉治部少輔信綱、島津淡路則久入道月下斎に与えた。先方の士も備えに加えて、各士は自分の領地に住わせ、交代で海津城を警護させた。(小幡山城は今まで川中島高坂の付城だったが、その後は春日山に属し、名前を下野と改められたという)

〇北条氏直は尼ヶ淵から軽井沢へ着いた。氏直は信州の浪人の保科越前守正直を連れて来て、伊奈郡高遠城に住まわせ、甲州と甲斐を手に入れようと狙っていた。しかし、平澤まで進撃したときに、「上杉景勝は家康と謀って北条を後ろから討とうとしているという」噂を聞いた。氏直はそれを聞いて、真田安房守を信州尼ヶ淵の城へ戻して景勝の抑えとした。

小笠原喜三郎貞慶は先ごろ京都へ戻ったが、すぐに溝口美作1人を連れて再び信州へ戻り、塩尻に潜伏して、高井、手熊、青柳、瀬黒などの郷民を従え二木豊後には指揮をさせず、箕輪、下条、溝口、林、犬甘などの小笠原の子孫の国士を魁として、筑摩郡深志(*松本)の城を攻め落とし、本城だけにした。城将の小笠原洞雪斎は、先月既に越後の兵の応援を得てこの城を守っていたが、とうとう持ちこたえられずに、家来の命ごいをしてから自殺した。貞慶は景勝の加勢を全て越後へ送り返して、父長時が領地を失ってから33年目にして、この城を奪回して過去の恥をぬぐったという。

〇ある説によれば、木曾と小笠原貞慶は、信州薮原で交戦し木曾方は敗北した。木曾の家来、山村道祐の子、甚兵衛良勝は、当時は十三郎といって19歳だったが、馬に槍を横たえて殿した。小笠原方の江原三左衛門が追ってきたが、良勝は馬上で槍で応戦して相手を追い払った。また、甲陽の浪人、古畑伯耆の指物が道端の木にかかったのを本人が気づかず帰ったが、彼はそれ見つけて取って、古畑を呼び戻し手渡した。里人は良勝の勇気を賞賛した。

さて、貞慶の伯母婿、藤澤次郎頼親は、伊奈郡箕輪城に住んで近辺を占領していた。

小笠原の一族の伴刑部は、小縣郡上田の前山城に立て籠もっていたが、小諸城は上杉の浪人宇佐美藤三郎に落とされて奪われ、飯山城も景勝に奪われた。

因みに小笠原家は、甲斐源氏の始祖、治部少輔義清の孫、信濃守遠光から代々信州の豪族として兵法を伝え、京都や鎌倉に勤め、朝廷や幕府の恩恵を厚く受けて、21代目の大膳太夫兼信濃守長時の代になって、武田信虎と晴信と同盟した。しかし、数年間を経て、長時の一族で親戚でもある仁科道外とその家来の三村や山辺などが謀反を起こして、数代にわたって続いた深志を追い出され、同国の村上義清の家来となった。

長時はそこで仲間を集めて、晴信と上野ヶ原で戦ったが負けて、彼の家来ニ木豊後の中撘城へ退却し、さらに越後から伊勢に逃れ、京都へも行って三好長慶に身を寄せた。長慶が滅びた後に三好一族が将軍を殺害したので、長時は今度は会津に行って、家来の星味庵の許に当時住んでいた。(天正11年2月25日、長時は65歳で家来に暗殺されたという)

長男の右馬助長隆は、上杉家に仕え、天正8年に越中富山城で戦死した。二男専壽丸は、武田信玄が育てて出家させ、年堂と号した。(後年還属して右馬助貞助と称した)三男喜三郎貞慶は、生来武将の器量を備えていたので、父長時から家の書類や什器などを受け継いでいたが、国を離れて諸国を流浪していた。しかし、元亀の頃に家康にスカウトされて、姉川の戦いで戦功を上げた。

こういう経緯があったので、当時酒井忠次と奥平信昌が相談した結果、信昌が深志に入れて、貞慶とともに信州の賊徒を征伐させようと計画した。しかし、貞慶は北条氏直と通じ出ているらしいので、信昌は塩尻に駐在して彼の動向を窺っていた。 

家康は信州榛名郡を信昌に授けた。

8月大  

朔日 北条左京太夫氏直が信州小縣郡海野口から甲州巨摩郡若御子へ出撃するため、信州平澤を出たという報せが届いた。そこで諏訪郡に駐屯していた酒井家次以下は、白州まで戻り、奥平美作守信昌は塩尻から飯田へ戻った。氏直は信州道の役の行者という場所に出て、楫ヶ原に陣を敷いた。

3日 酒井忠次、大久保次郎右衛門忠世、大須賀五郎左衛門康高、本多豊後守廣孝、石川左衛門太夫康通、岡部次郎右衛門正綱ら3千あまりの兵は、白州から音骨に着いた。

6日 氏直の4万あまりの大軍は、鍛冶ヶ原に陣を敷き、その備えとしては西上野の士と北条安芸守が、野陣5間一堆の陣法を採り、東上野の士は5間一堆には囚われなかった。家康方は、北条方と1里しか離れていなかったが、山が険しくお互いに近くに居ることが分からなかった。

大久保忠世の家人の石上角之助という者が、佐久郡蘆田の小屋を攻めていたが、八個獄(八ヶ岳)を難渋して越えて、音骨に来て敵の近いことを伝えた。そこで味方は音骨の庄屋の太郎左衛門を道案内に、1人の武将を出して様子を伺わせた。すると、敵は味方の20倍と多勢であることがわかったので、夜中に甲州の新府へ引き返そうとしたが、酒井忠次は「夜中に帰ると敵に追撃されて皆死んでしまう。今宵は輸送隊を返して、明日に帰ろう」といったので皆はそれに従った。

7日 敵が接近していた。しかし、先日大久保忠世は諏訪頼忠を降参させたが、後から来た酒井忠次が自分に無礼なことをしたために、頼忠を敵に回し高島を撤退することになったことがあった。当時このことで2人は口論したが、その恨みが今も残って消えず、大久保と酒井は今日の後殿を取り合って争い続けて朝になった。

その間に北条の兵は、向ノ原に近づいてきた。

諸兵は2人を諭して、1番に酒井と大須賀を退却させた。2番は石川、3番は大久保、4番が本多、5番が穴山の兵士、6番は岡部と決め、各隊は陣をたたんで軍列を整えて「くりびき」にした。(*交代で後ろを攻めながら撤退する方法)

敵は4万3千の軍勢を山道に沿って先を遮って、家康方を討ちに来たが、味方の領地の勝沼の村へ人を送って、郷民の老若に「槍がなければ竹竿を持たせて大勢に見せかけるように」と命じたところ、村人は承知したので、敵から見えるところでひっきりなく行き来させ、里には沢山兵が居て敵を窺っているように敵に見せた。はたして敵はなんだろうと止まった所を、味方が火砲を浴びせて急いで退却した。

敵はしばらく追ってきたが、味方の後殿の岡部次郎右衛門はわずか30騎兵と600の雑兵と足軽を率いて10町ほど下がって旗を立て、坂東道7里の間に12回火砲と退却を繰り返した。

次の穴山や酒井、大須賀もいたるところで、交互に敵に応戦して、全体で12里(36町が一里)退却する間に、敵が先路を遮ると全員が応戦し、敵があきらめたのを見ると、大須賀には坂部三十郎廣勝など、甲州方には渡邊善三郎などの武将が、のべつ応戦したので北条方は茫然として、彼らを討取ることが出来なかった。この様子が新府に届いたので、家康は石川伯耆守に救援させた。

しかし、三河勢は地理が分からないので、板垣の曲淵庄左衛門吉景が道案内となり、新府から若御子まで2里、そこから巨摩郡長澤へ、2里半の間を吉景が地理を見積もり、それを基に数正が備えさせたのが理にかなっていて、氏直の旗本の氏忠、氏邦と黒澤、上野、風間右衛門の4つの隊が、自然に一箇所に集まってくる形となった。これは庄右衛門が戦いの場数を踏んでいたためである。また吉景は氏直の軍使、山上郷右衛門顕右衛門と言葉を交わして、馬上で槍で戦った。石川勢が救いに来たので、氏直方は兵を収めて若御子に布陣した。

〇『曲淵家伝』によれば、家康は「斥候として出ている軽卒に、敵が接近すると鉄砲で合図させよ」と命じた。庄左衛門吉景とその子の彦助吉清は指物で連絡を取りながら、斥候のいる場所を駆け回った。その様子を家康は見て、机を立てて二度三度杖で叩きながら、「あのすばらしさを見ておけ」と近臣に命じた。又「吉景は年季の入った武者で落ち着いている。それは比べるものがなく、子もまた父に劣らぬ武将だ」と感心したという。

〇この日、北条方は、新府の近くまで進軍した。家康方は中山を出て10町あまり敵とはなれ、川をはさんで駐屯した。平岩七之助親吉は伏兵を山ノ下に配置して、敵を7人討取った。御家人の天野小麦右衛門重次と近藤登助秀用に戦功があった。筒井内蔵忠次は戦死した。

家康は甲州先方の辻盛昌に朱印を、曲淵吉景には感謝状を与えた。天正10年8月7日 家康ー辻盛昌.jpg天正10年8月7日 家康-曲淵吉景.jpg

8日 氏政が新府を攻撃する様子だったので、家康は大斥候として兵500~600で巨摩郡浅生原に出撃し、酒井、大久保、本多廣孝、大須賀、岡部と穴山勢に、伏兵をあちらこちらへ配置するように命じた。

氏直は、高見澤越前に敵の様子を伺わせた。高見澤は帰ってきて、「霧が出て敵の備えはよく分からなかったが、浅生の台に一備が黒く見えた。威風がみなぎっていて思わず戦慄した。徳川が自ら兵を出しているので、戦っても不利になる。いたずらに兵を動かさない方がよい」と報告した。

北条陸奥守、同安房守、松田大道寺、遠山などは、高見澤の話を聴いて躊躇し「戦いはよそう」と氏直に進言した。

氏直は怒って、「戦場で敵を恐れて戦わなかったら天下の笑いものである。今この一戦に挑まなければ面目が立たないではないか」といって、刀を抜いて髪を切ろうとしたが、誰も戦わなかったので、氏直は空しく時間を過ごした。

この頃、北条の忍びが味方の陣を窺っていたので、成瀬正一が捕らえて磔に処した。

9日 北条方は、武蔵の風間孫右衛門が率いる200騎で、大野の松平家清と内藤家長の陣を夜討ちし、張り番の30人あまりを討取った。また残りの兵を陣へ追い込んで帰った。三枝土佐虎吉以下、先方の士は、勝沼の町で敵に追いついて、味方の御手洗五郎兵衛直重と風間の婿の三澤勘四郎が首を取った。その外3人を討取った。

10日 家康は新府に陣を移動し、鳥居元忠、三宅康貞、松平清宗、水野勝成、内藤信成を古府に残し、残りは新府へ移った。

氏直が古府から郡内へ引き取ろうとしているとの報があり、家康はそれなら向ノ原に砦を築いて、氏直が通れば砦から兵を出して交戦することにして、今日向ノ原と若御子に兵を配し、夕方になって、松平上野介康忠と大久保七郎左衛門忠世の隊を分けて、この砦に配置し堅い守りとした。康忠は弟の孫三郎信重を出し、忠世は弟の平助忠孝を出して守らせた。

11日 家康はこれらの砦を急いで築かせ、各隊から24時間交代で守らせた。
今日、御手洗直重に領地と刀を与えた。

今夜、柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀、池田庄三郎信輝入道、羽柴筑前が相談して、信長の孫、三法師秀信のために、安土城の焼け跡に御所を設けた。そして彼を天下の武将と仰いで、近江の公田30満石を厨料とし、信長の二男畠山信雄、同三男神戸信孝を家来とした。また、政務は上の4人老臣が取り仕切り、家臣の内の有能なものを、京都の所司代にすると決めたという。

また、尾張は信雄、美濃は信孝、丹波は次丸秀勝、江州長濱6万石は柴田勝家、摂津尼崎、大阪、兵庫12万石は池田信輝、その子紀伊守之助、若狭と志賀、高島両郡(坂本の城も含む)は丹羽長秀、佐和山城は堀久太郎秀政、領地5万石瀧川右近将監一益、3万石蜂屋出羽守頼隆に与えることとした。

秀吉は、信長からもらった領地の他は1郡も受け取らなかった。また、彼は備前と美作の領主の浮田八郎秀家と丹後の国主、長岡兵部大輔藤孝などを家来とし、えこひいきなしにことを処理した。このため秀吉の威望は日ごとに高まり、翌年の春からは、丹羽や池田も遠慮して、所司代を置かなかった。その結果、秀吉の所司代だけが長く京都に置かれることになったという。

〇東奥は辺境の地で、天文に日本に伝来した火砲が、ようやく今月になってこの地へ流布した。(葛西の浪人、大田藤右衛門は、志田郡大崎に寛文まで住んだ長寿な人で、彼がこう語ったという)

〇武田の家来たちは信長に付くものが多かったが、曽根下野正勝は勝頼に対する態度が悪かったので、家康は彼を叱り、家康の家来にもかかわらず駿河の富士東郡の領地を追い出し、甲州の領地に戻した。このため彼の石高は著しく減ったが、天正18年まで家康の家来でいた。彼は家康が江戸に移ったときに、徳川を離れて蒲生氏郷の家来になったという。

武徳編年集成 巻23 終