巻22 天正10年6月~7月

天正10年(1582)

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9日 以前、蒲生右兵衛太夫は、3歳の稚児を伊勢に送って質として北畠信雄に救いを求めた。信雄は疑いを解いて、伊勢の松ヶ島の城を出て今日上山まで来た。しかし、伊勢から急使が来て、伊勢で一揆が起り、丸山の城が抜かれて平楽の城が攻められているという。

信雄はすぐに、和泉の宇多郡の三人衆の澤源六郎、秋山右近、芳野宮内、それに本田左京親康、天野佐左衛門雄光、下村仁助、名倉喜八郎、甲府の川尻肥前守などを、伊勢に向わせた。

10日 本多百助と名倉喜八郎は、甲府の川尻肥前守鎮吉の許を訪れた。地元の士はかねがね鎮吉が厳しすぎるのを嫌っていて、この機会に川尻を滅ぼそうとした。しかし、家康の使いが来るので遠慮して、計画を延期した。

家康は12日に上方へ出撃すると、今日命令を発した。

13日 秀吉は山崎で明智方と戦い、明智方は大敗した。光秀は逃げたが、夜に小栗で里人に殺された。享年57歳だった。

光秀は実母を敵の餌食として殺した37ヶ月余りの後に、今度は信長を殺害し、今日までの12日間で天誅を受けた。

14日 家康は明智を倒すべく岡崎を発った。先鋒は尾張の鳴海に進んだ。

甲州の国人は、「家康の使いが来て、家康が川尻肥前を滅ぼせといったと甲州中へ命令した」といいふらしたという噂を、川尻が真に受けて、今夜川尻の家で本多百助信俊が寝ているところへ侵入し、薙刀で蚊帳の釣手を切って殺害した。(この時、百助は庄左衛門となっていた

〇この日、秀吉勢は、丹波の亀山城を落とし、光秀の長男十兵衛光慶は自害した。

近江の坂本城を堀久太郎が攻撃し、光秀の妻(妻木勘解由範照の娘)、二男小阿古(11歳筒井順慶の養子となる約束があった)、三男乙壽丸、明智左馬助光春が自害した。

近江の山本山の城主、阿閉萬五郎長之(淡路守といった説もある)は、京極小法師高次(後の若狭守)と謀って、秀吉の近江の長濱の城を攻めた。しかし、秀吉の母や妻はまだ播州の姫路城には移らず、子供などが残っていた。そこで秀吉は敵が来る前に、彼らを伊吹の麓にある廣瀬の山中に隠したので、長濱城は無人だった。

萬五郎は無人の城の資財を奪って山本山に戻ったところ、三七信孝や秀吉が琵琶湖を渡って長濱へ向っていた。阿閉は塩津に渡って敦賀へ逃げようとしたが、里人に首を取られた。秀吉は阿閉の親族を捕らえて磔にした。明智の家臣、斉藤内蔵助利三は捕虜となって、京の大路で磔にされた。

15日 甲陽の国人は、「川尻肥前が家康に逆らっている」といって、競って肥前に襲い掛かり、山縣の家来三井彌一郎が川尻を討取り、川尻の家来3千あまりは、全て逃亡して残ったものはみな斬り殺された。

北条の家来だった浪人の大村三右衛門と伊賀は、郡内の口刈坂口で一揆を起こして笛吹川で蜂起した。しかし、穴山勝千代の部下の穂坂有泉などが出兵して、一揆衆は全て敗北した。

17日 家康は熱田で陣を構え、今回功労のあった伊賀の武将たちを集めた。伊賀越えの伴をした米地半助など多くを大番衛にさせ、拓殖から帰ってきた人たちにも少々の禄を与えて、服部半蔵の組に入れた。(この人数は100人だったという)

19日 羽柴秀吉から急使が家康の許に着き、「13日に明智は戦いに敗れ、地元民に殺された。亀山と坂本の城は陥落し、親族は殺され、光秀の遺体は磔にされた」と家康に伝えられた。家康は非常に喜んで、「こうなった上は兵を戻そう」と下津島へ進んだ。家康は酒井忠次を熱田まで呼び戻した。

京極、山崎、池田、多賀など明智方だった近江と美濃の武将たちは全て降伏して、若狭守長弘父子も城崎真木島の城を筒井順慶に明け渡して降伏した。

〇この日関東の菅領として信長に任命されていた上野の国主、瀧川左近将監一益は、北条勢と武蔵と上州の国境の神流川で戦った。これには次のような経緯があった。

去る7日、上方から急使が滝川に書簡をとどき、また杉山小助貞次が訪れて、「信長父子が殺された」と報告した。一益の老臣は一旦これを伏せようとしたが、一益は「悪事は千里を遠しとせず」隠すことはないとして、すぐに自分の管轄する上州嶺の城主小幡上総介信眞、鷹巣城主同三河守信尚、金山の城主由良信濃守国繁、館林城主長尾但馬守顕長、小股城主瀧川相模守義勝、倉賀野の城主倉賀淡路守秀景、白倉の城主白倉左衛門佐、藤岡の城主内藤大和守秋宣、安中の城主安中越前、高山の城主高山遠江守重光、五閑の城主五閑刑部、小泉の城主富岡六郎四郎(初め清四郎)、石倉の城主長根縫殿助(本氏は小林)、大戸の城主大戸民部直光、木部の城主木部宮内貞利、和田の城主和田右兵衛太夫信業(左衛門太夫の養子、実は跡部正秀の子)、那波の城主那波対馬宗元、武州恋の城主成田下総守氏長、深谷の城主深谷左兵衛憲盛、松山の城主上田又次郎政朝入道安獨斎などを招集して、その報せを見せ、「こうなったからには各人から預かっている人質は返す。自分は京都へ赴いて明智を倒したい」と述べた。

諸将は感激して、「この一大事に人質を返すとは、なんという義理堅い人か」、また、人質は「そのまま家来でいたい」と異句同音に返事した。

一益は頬を赤く染め涙を流して、「皆の心は骨身に徹して忘れない、明智を滅ぼすことは京都近辺の問題ではない、柴田や羽柴も遠からず明智を滅ぼしに参加するだろう。ただ、北条としては、信長が殺されたことを喜んで自分を捕らえ、上野を取りにくるのは間違いない。そこでこちらから(*先手を打って)兵を武蔵へ出して、交戦しようと思う」というと、皆は納得して軍を厨橋に集結させた。

一益は瀧川の居城を瀧川苗彦次郎に守らせ、松枝の城には津田小平次長興と稲田九蔵を置き、1万8千の軍勢で武蔵と上州の境、神流川、島川あたりに出てから、「自分は信長の敵を討ちに京都へ行きたい。早く来てこちらにあるいろいろな城を引き取って欲しい」と小田原へ連絡した。

北条方は武力は衰えていたが、義理を棄て利益を求め、「ここで瀧川を討取り上州を治めてやろう」と大いに喜び、氏直はさっそく小田原から出撃して武蔵の児玉郡本庄まで進軍した。先陣として男衾郡鉢形の北条安房守氏邦が上州へ軍を進め、神川の東に陣を張った。後陣は武蔵の榛澤郡深谷に駐屯し、残りは賀実郡石神、児玉郡富山に陣を次々と張った。

今日19日、氏邦勢は小島原の瀧川勢に対して突撃してきた。しかし、上州と北武蔵の軍が正面で待ち受けて、たちまち戦いに勝利し、北条方の石田大學、穂坂以下200余を討取った。

鉢形勢は八幡山に撤退した。しかし、上州勢も勝ったとはいえ佐伯伊豆守など多くが討たれ、またあまりの暑さに耐えかねて、鳥川の水辺に将兵は集まって渇きを癒した。

小田原方の2陣、松田大道寺などが雲霞のように深谷から押し寄せてきた。一益はここで勝負を決めようと手勢の3千余の軍勢で、神川を背に玉村へ向い、準備を整えて敵を待ち受けた。

坂東の武士は乗馬が得意で騎馬戦を好んだ。北条方は主力を投じて交戦し、瀧川勢をおびき出しては左右から奇兵で挑んできた。一益方は、瀧川儀太夫、稲生対馬貞置、津田次右衛門、同八郎五郎、同修理、富田喜太郎、牧野伝蔵成里(後伊予守)、谷崎忠右衛門、粟田金右衛門、日置文右衛門、岩田市右衛門、弟の平蔵、大田五右衛門以下が奮戦したが、大軍と巧みな騎兵に翻弄されて戦いに敗れ、津田兄弟、岩田兄弟、粟田、大田など500騎が討ち殺された。

一益は部下に使いを送って更に一戦を挑みたいと頼んだが、「真夏の戦いで兵の疲労が激しく、もう勘弁して欲しい」という答えに、やむなく厨橋の城へ帰り、今日戦死した将兵の実名を書いて、黄金を添えて寺院に送って供養を依頼した。また将兵を呼んで夜通し酒宴を開いてどんちゃん騒ぎをして、絵や書、太刀、薙刀など秘蔵の品々を全部将兵に分け与え別れを惜しんだ。

20日 瀧川は厩橋を出て倉賀野の城へ入った。

21日 家康は尾張の熱田から岡崎に戻った。

朝方、瀧川一益は倉賀野を出るときに全ての人質を国人へ返したが、彼らは人質を受け取らず、むしろ駅馬などを用意して一益へ贈った。

松枝城からは、城兵と共に信濃の碓井に行き、ここで一益は城兵の質子を全て返してから、木曽路についた。その後、上野と武蔵の国人たちは北条に敵対できず、皆北条の家来になった。

〇ある話によれば、瀧川は戦場から倉賀野城へ撤退し、城主の淡路守に「吉光の刀」を与えた。また、翌日の20日には津田小平次と稲田九蔵を後殿として、笛吹峠を越えて信州追分の宿に泊まった。21日には小諸に着いて5日間人馬を休ませ、26日に出発した。
真田昌幸が兵を出したので、27日には下諏訪に行き、祝部と木曾義昌へ使いを送った。28日には福島(*木曾福島)に着き、ここで信州の人質を全て返し、翌月の初めに伊勢の長島の居城へ帰った。

厩橋に残っていた瀧川彦次郎は、一益の長男三九郎と次男の八丸を連れて木曽路に向った。八丸は一揆に捕まったが、家来の古市九郎兵衛が一揆衆を追い払って兄弟は無事長島へ帰った。世間では瀧川はまさに武士の鑑だと賞賛されたという。

〇信州の川中島の新守護、森庄蔵長可は、越後の関山三本木まで攻めていたが、信長の事件の知らせが届いたのですぐに貝津の城へ戻り、伊奈郡の毛利河内守秀頼、佐久郡の道家彦八郎正榮らと共に京都へ向って明智を討とうとした。その時、国人の春日周防などが、「早く川中島の4郡の質人を返せ。ぐずぐずしていると帰路の邪魔をするぞ」と直訴した。長可は怒って、「俺を侮るな。さっさと兵を起こして自分で質を取り返してみろ」と答え、兵を従えて川中島を出発した。

国士らが行く手を遮ると、襲い掛かって彼らを全て追い払い、険しい山を越え急流を渡って猿が馬場まで行くと、一揆はもう追ってこなくなった。長可は十文字の槍で、春日周防の子や国士の質子を刺し殺して深志へ行き、木曾義昌の質子は返して美濃の金山へ帰った。そのため彼は世間で「鬼庄蔵」と呼ばれた。後の武蔵守である。

22日 家康は穴山梅雪の家来に手紙を送り、これまでの功績を褒めた。また、織田三法師(信長の孫、信忠の子)の居城、美濃の岐阜へ大軍を率いて訪れ、「甲州の一揆が広がってきたので、美濃口から家康軍と共に出兵して一揆を潰そう」と勧めた。(穂坂と有泉は穴山の与力である。)天正10年6月22日 家康ー穂坂・有泉・梅雪.jpg

〇信州の新守護、森長可正榮、毛利秀頼(後の秀氏)などは、信長が殺されたので領地を棄てて京都へ戻ったが、天文11年に信玄に滅ぼされた信州高島の諏訪刑部大輔頼重の伯父の新次郎満隣の子、安芸守頼忠は、一族を率いて諏訪郡へ攻め込んで高島城を奪回し、20年来の憂憤を晴らした。

信玄に領地を取り上げられた小笠原大膳太夫長時の三男、喜三郎貞慶は、今月上旬故郷に戻って国人を集めたが、何か特別な事情があったのか一旦京都へ帰った。すると北国にいた長時の弟の清蔵貞種入道洞雪を上杉景勝が取り立てて、梶原某ら6千人とともに木曾左馬頭義昌が信長からもらった土地の松本(深志ともいう)城を何度も攻撃した。

城兵は和平を申し出て、寄せ手の百束掃部を質にとって城を明け渡した。しかし郷民と瀬黒の正徳寺が追ってきて、村井で百束を取り返し、洞雪は小笠原の居城深志に再び入った。この様子が越後に伝わると景勝は非常に喜んだ。

往年川中島4郡の守護だった村上信濃守義清も、信玄に所領を取られ越後の上杉謙信に身を寄せていたが病死した。彼の子、源五国清は越後から7人の知り合いを誘って出兵し、真田安房守昌幸と謀って川中島を犯した。一方、真田はその間に上州の沼田城を瀧川儀太夫から奪って自分のものとした。

北条氏直は、国人を集めて甲州や信州を狙い、甲州に向って小佛峠口からは北条左衛門太夫氏勝(兵は8千)が恵林寺筋へ、横山口からは同十郎氏房(兵は7千)、刈坂口からは同安房守氏邦が乗り込むこととした。ところが先に手を結んでいた笛吹あたりの一揆衆の樋口某を、穴山が討ち滅ぼしたために、計画が進まなくなって北条方は困った。

家康は、1番手に酒井左衛門射と大須賀五郎左衛門、2番手に岡部次郎右衛門正綱、日下部兵右衛門、成瀬吉右衛門、穴山勢ら、3番手に大久保七郎右衛門、石川左衛門太夫、本多豊後守父子、曽根下野正清や武田の家来などを集めて、甲州を征服するために兵を派遣した。

また、家康は本多佐渡守正信に、信州の浪人依田右衛門佐信蕃(初めは幸致)に対して、かって大久保忠世が家康に進言したように佐久郡にはあちこちに味方の士が多数いるので、彼らを早急に組織して5騎、10騎を援兵とし、信州を各人の実力で攻めさせるようにと命令した。

柴田七九郎康忠は譜代の中でも目立った勇者だったが、家康の怒りに触れて蟄居していた。しかし、大久保忠世が家康に頼んで許してもらい、家康は彼を右衛門佐信蕃の監軍とした。柴田は心配がなくなったので、白地に黒の輪貫の旗、晴明の判の馬印で依田と共に柏坂峠に陣を張って国中の士を呼び寄せた所、最初に横田甚五郎(後の甚右衛門)尹松が駆けつけた。その外甲州の兵が踝を揃えて参集し、その数は千人ほどになった。依田柴田はすぐに信州佐久郡に向かい、足高山の麓の天神川に砦を築いて稲垣平右衛門長茂を配した。(後に渡邊半蔵守綱に交代した)

深志の小笠原政康の二男、遠江守光康は、伊奈郡松尾の住人である。5代目の掃部助信嶺は一族と離れて信玄に付いたが、今度は菅沼藤蔵に囚われて家康に付き、妻を質としたので家康は彼の領地を与え、弟、鞆負長清も領地千石をもらう保証を得た(後の鉄斎というのはこの人である)

24日 桜井の松平與次郎忠吉死去が死去した。25歳だった。その子の信吉は藤井の松平勘四郎信一の嫡子となった。忠吉の養父、與一忠正(監物家次の実子彌一郎が桜井の家督を継いだ)の実子の亀千代家廣が、桜井の家督を継いだ。

〇能登では信長に滅ぼされた衆が蜂起した。守護の前田又左衛門と援将の佐久間玄蕃允は、5千の兵を引き連れて敵と柴峠で優勢に戦い、荒山の険しい道でなお抗戦し、一揆の棟梁温井、三宅、般若院を討ち捕らえ、能登は平定された。

〇今月武田の浪人、向井兵庫助忠安が家康の御家人に加わり、俵米200表を与えられた。

〇伊賀と一宮の城を信雄勢が攻めた。伊勢船江の本田左京亮親康が先鋒し、従兵の高橋次郎左衛門、同椋右衛門、同孫兵衛が活躍して城を抜き、城将の森田浄雲など一揆衆を多数討ち取った。音羽の城は瀧川三郎兵衛雄雅の武力で陥落した。これで伊賀は北から南まで一揆が打ち負かされた。

7月小

3日 家康は甲州と信州を支配するために、浜松を出陣し、掛川に着いた。

先月から浜松に滞在していた水谷兵部大輔正道入道蟠龍斎は、甥の皆川山城守廣熙とともに同行した。

4日 家康は駿河の田中へ着き、この城と領地1万石を高力與左衛門に与えた。又、長久保興国寺の城を牧野右馬允康成に与え、沼津三枚橋の城を改修して4万石を松平甚太郎忠吉とその後見人である周防守康親に与えた。天神尾の砦は修理してから伊賀の士を配置した。これは伊豆の韮山の敵兵を抑止するためである。

5日 家康は江尻に着き、その城を本多作左衛門重次に守らせた。

7日 大宮に着いた。

8日 甲陽の八代郡精進(または庄地)に着いた。(この地は木巣と柏坂の中間である)

9日 甲府に着いた。諸士や人々が集まって食料を献上し、柴や薪を運んだ。

氏眞は津金(甲信の境目)の郷士、小尾監物祐光にたびたび手紙を送って味方になるように誘ったが、応じなかった。彼は阿部善九郎正勝にたよって妻子を質として駿河に献じたので、家康は援助として曲金と長崎の郷の一部と米を与えた。今日家康はその証文を与えた。

家康は八代郡の本巣の渡邊豊後縄の子、因獄を呼んで、故郷に戻って駿河と甲州の主要道路の警護をするように命じた。家康が柏崎峠を過ぎ小田原勢の領地へ攻め込むと、吉田、精進、西海の三箇所の村の地下人が一揆を起こして砦を築き、因獄が帰ってくれば殺そうしているとの話を聴いて、因獄は甲府の新府へ行って大久保忠隣から家康に伝えた。

家康は阿部彌一郎信盛を派遣して、因獄と共に本巣に行き小田原勢と一揆を撃破した。因獄は13の首を討ち取り砦を抜いたことを家康に伝えた。家康は感心して、この地を因獄の領地とした。(信盛も11の首を献じた)

12日 家康は甲州の本巣の辺りの山中に住む17人の騎士を、渡邊(*因獄)の家来とし、彼らに朱印を与えた。(徒同心20人も加えた)天正10年7月12日 家康ー渡邉次郎左衛門他.jpg

14日 家康は酒井忠次に信州一円を与えた。天正10年7月14日 家康ー酒井忠次.jpg

〇大須賀康高は甲州の八代郡市川に駐屯し、岡部正綱と穴山の家来は山梨郡古府に陣を張った。石川康通と本多廣孝は信州に進軍するために巨摩郡若御子に陣を張った。

〇小幡景憲によれば、この時家康勢はみな野陣だった。甲陽の軍制によれば15日~20日間敵国に陣を張るときは、必ず5間に1堆を築く。また、備えの大小、上下皆脇差の鞘(*さや)に左巻きをつけて印とする。家康は今月からは武田信玄の使った三巻きをつけて印とすると改め、家康は信玄の武道を継承すると述べた。

〇大久保七郎右衛門忠世は、新府から梶が原に行き、諏訪安芸守頼忠の許へ使いを派遣して家康へ投降するように勧めた。頼忠はすぐに応じた。

忠世は役行者という場所に出て、仇志小原に赴いた。

菅沼小大膳定利、柴田七九郎康忠、依田右衛門佐信蕃に攻撃され、野澤の兵は賽を投げて逃亡したので、忠世は野澤城へ移った。しかし、佐久郡の内の野澤12里の間の砦や城の12~13箇所には敵がいるので、これらを全部落そうと計画した。

信州の伊奈郡知久の大和頼元とその子、式部頼氏らは忠世に投降したのですぐに家康に報告すると、彼らはその地を与えられた。忠世の策略によって信州の多くの郡は、全て家康の支配下に置かれた。

この頃家康は武田の以前の家来を呼んで家康の御家人にした。特に辻彌兵衛盛昌は信州の小諸、與良から駆けつけたが、彼には800貫与え井伊直政の家来にさせた。また先方の士40騎を家来にさせた。

今井主計、加賀美七郎右衛門、依田三郎左衛門、市川勘兵衛、佐々木與左衛門、佐藤左衛門、大澤新兵衛、山本次兵衛、窪田庄助、中根與右衛門、樋口藤右衛門、荒川八兵衛、北村九左衛門、小宮山貞右衛門、鮎澤源左衛門、逸見太兵衛、高山彌五左衛門、島田市兵衛、飯塚半兵衛、田中九郎左衛門、筒井権兵衛、後藤庄兵衛、西宮甚左衛門、関口十郎兵衛、津田半左衛門、平井郷左衛門、近藤市郎右衛門、古川八郎左衛門、中条新左衛門、岡部武左衛門、朝比奈内蔵、小島源太左衛門、吉村綾部、伊藤勘兵衛、大島伝右衛門、長坂吉右衛門、戸田孫左衛門、加藤治左衛門、松井宮内左衛門、荻野庄左衛門

〇彌兵衛盛昌が妻子を質として、上の40人を連れて北条の支配地の信州の小縣郡へ出陣するとき、家康にいつも使ってきた金制札の指物を見せたところ、今回もこの指物で活躍するようにと命じられた。この指物は、天正元年4月1日に信玄が彌兵衛を呼んで弓持ち50張りの隊長として、佐藤権左衛門、荻野庄左衛門、大澤新兵衛、窪田庄助、久野源兵衛の5人の騎兵を家来にして恩賞80貫をもらい、制札の指物に「能武者不死今月日辻一楽」と信玄が自分で書いて、仮のお守りとして与えたものである。

〇『三枝家伝』によれば、土佐守虎吉は孫の彦兵衛守吉を連れて成瀬吉右衛門に、「亡くなった息子の勘解由左衛門守友の領地千707貫800文と家来の55騎兵は禄とともに保障してもらったが、彦兵衛がまだ子供なので、成長するまでは伯父の平右衛門昌吉を代理として欲しい」と家康に願い出て許可されたという。

〇寺島甫庵は信玄に親しい武将で、勝頼が没落するまで傍に付いていた。その子の藤蔵は勝頼と共に死んだが、甫庵は中風で体が動かなかったので西府の山小屋に入って療養していた。そのため生きながらえた。

家康は彼に御家人になるように命じた。しかし、病気のために駆けつけることが出来ず、甥の森本助左衛門が代理で奉仕することになった。甫庵の本名は森本であるが、舅の後を継いで寺島になったという。

15日 甲陽の巨摩郡の武川津金の一族は、阿部善九郎正勝に身を寄せて駿府に人質を献じた。そこで家康は当座の経費を支給し武川の七棟梁、米倉折井に感謝状を授けた。天正10年7月15日 家康ー米倉・折井.jpg

〇今日、酒井忠次は信州の大河原白州へ着いた。北条氏直は武川の諸士を招こうとしたが応じなかった。酒井は、北条の浪人たちが立て籠もっている信州の境の小治小屋を攻め、柏坂の際の勝山の砦を修復した。家康は信州へ移り城を敷こうとした。

17日 松平主殿助家忠の将兵は河原へ着いた。

武徳編年集成 巻22  終