巻28 天正12年3月~4月 長久手の戦

天正12年(1584

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17日 (今日から長久手の戦が始まった。詳しくは『四戦紀聞』に記す)

秀吉方の美濃の金山の城主、森武蔵守長可は優れた武将で、味方を集めて丹羽郡羽黒八幡に駐屯していた。しかし、この城は深い森から離れているので、敵からはその様子がよく見えた。そこで酒井忠次は家康の許しを得て、大須賀康高や奥平信昌など5千あまりで襲撃し大勝利を得た。これ以来、上方勢は、家康軍を脅威に思うようになったという。家康は小牧山から清州へ兵を戻し、小牧山には榊原康政が陣を張った。

〇この日、岡田庄五郎善同は、愛智郡星崎の城を棄てて伊勢に逃げた。寄せ手の水野惣兵衛忠重がただちに星崎の城を占領した。

葉栗郡當鍋の城には、岡田某(竹右衛門の弟というのは間違いである)が立てこもった。家康は長澤と大給の両松平家と水野忠重に、この城を攻めさせ城将を斬らせた。

18日 家康と信雄は、かねて紀州の前の守護、畠山の末裔の畠山左京太夫尾張守高政や、根來寺の僧徒と雑賀の一揆衆へ、井上嘉兵衛を行かせ、出撃して大坂の城を攻めるように命じていた。そこで紀州勢の2万ほどが、和泉の岸和田から出撃した。しかし、海上から土佐の長曾我部方の淡路の、菅平右衛門や同三郎兵衛が兵船200艘で堺に攻撃をかけて来たので、岸和田城の兵の中から3千を分けて四国勢に抗戦させると、四国勢は退散した。

19日 秀吉が今日尾張へ向かうために大阪を出撃するという話がかねがねあったが、昨日の堺での騒ぎのために出発が遅れた。

20日 松ヶ島城において、本田左京亮の家来の高島次郎左衛門は、日置大膳亮の俄か家来となって活躍し、千勝丸を城から連れ出そうとした。しかし、城兵に油断はなく、城外も隙間なく敵に包囲されていたので、今日まで果たすことができなかった。そこで命がけで日置に本心を告げると、大膳亮は彼の志に打たれて、ようやく彼の望みを許した。高島は非常に喜んで、千勝丸と乳母の和泉小児姓、中西與次郎、幼童六郎丸を連れて城から脱出した。高島の弟、椋左衛門孫兵衛は、この6日間従者2人と夜になると寄せ手に紛れて、堀の際に忍び寄って様子を窺っていたが、高島らが脱出したのを見て非常に喜び、船江の城へ帰った。本田左京亮は国司、畠山家の家来で世間で名が知れていたが、今回は質子を盗み出しながら、どういうわけか秀吉方にも付かず、むなしい日を送っていた。そのうち領地も没収され、不名誉を末代にさらし、家来の高島の忠義だけが、世に伝えられたという。

21日 尾張の羽黒での森長可が敗北したというニュースが、昨20日に大阪城へ届き、秀吉は怒って今日大阪を出撃した。紀州の一揆衆はこれを聞いて、夜中に2万3千余りの軍勢を二手に分けて、岸和田城を襲撃するために和泉へ向かった。

22日 岸和田の主将、中村式部少輔一氏は城外で抗戦し、片方の寄せ手1万4千を撃退した。一方、残りの9千は堺を荒らしていたが、彼らも岸和田へ押し寄せて一氏と戦った。黒田勘解由孝高の兵700が、大阪から救援にきて奮戦し、大勝利を得た。(このことは『武家閑談』で述べた)

23日 家康は春日井郡蟹清水、外山村、宇多津村の砦を改修した。

24日 春日井郡小幡の古い城を修理して、本多豊後守廣孝、新見勘三郎正勝と甲州の穴山の元の家臣で守らせた。これは三河への通路を確保するためである。

〇この日、春日井郡比良の城を築き、安倍彌一郎信盛(後丹羽守)と森川金右衛門氏俊、同弟、新左衛門、真野五左衛門重信(新左衛門は氏俊の弟、真野は氏俊の妹婿という)に守らせた。

すでに秀吉の先陣は美濃の垂井赤坂洲の股に達した。後陣はそのころまだ京都の醍醐山科あたりにあった。

秀吉は出撃前に、陣営の順序を決めた。魁は筒井四郎定次(後の伊賀守)で、部隊を4小隊に分けた。伊藤掃部助が監使だった。

2陣の右は山崎源太左衛門片家、池田孫次郎秀氏、多賀新左衛門秀家、左は浅野彌兵衛長政、一柳市助直盛であった。

3陣は三好孫七郎秀次の大部隊で、両翼に一列に並んだ。

4陣の右は長谷川藤五郎秀一、左は日野根備中守弘就と木村常陸助重茲、

5陣の右は堀久太郎秀政、左は細川越中守忠興、

6陣の右は氏家内膳正と瀬田左馬允伊繁、左は木下半右衛門、徳永石見守昌時、小川孫一郎祐忠、

7陣の右は牧村長兵衛政玄と甲賀の士、左は蒲生忠三郎氏郷、

8陣の右は伊藤牛助、高田小五郎、谷兵助吉衛、左は藤掛三蔵長勝、石川小七郎、田中小十郎吉政、

9陣の左右は、毛利河内守秀頼、生駒甚助正俊、拓殖與八郎、矢部善七郎、池田久左衛門友政、蜂屋五郎八郎、古田左助重勝、松下嘉兵衛之綱、滝川義太夫、津田四郎左衛門、

次に旗本の前備えで、右は木下與右衛門、生熊源助、野村内匠(後の肥後守)、伊藤彌吉長實、多賀宗十郎高賢、同左は木村彌一右衛門秀俊、船越左衛門長通、宮城藤左衛門であった。

秀吉の馬周りは、従士、歩卒、足軽などが取り囲み、後の備えは織田三郎四郎、富田平右衛門知信、小野木清次郎重勝、福島市兵衛正則、木下仙蔵、間島彦太郎、片桐助作直盛、早川喜八郎長敏、津田小八郎、(以上が右軍である)、そうして(*左軍は)吉田彦三郎、糟屋助右衛門武則、川尻興四郎、戸田三郎四郎勝重、赤松彌三郎則房、加藤虎之助清正、加藤孫六郎嘉明などで、総勢は12万5千余りだったという。

25日 紀州で秀吉方の白樫氏が、湯川砦を攻めて勝利したとの報告を受けて、秀吉は今日感謝状を白樫に送った。天正12年3月25秀吉ー白樫左衛門.jpg天正12年3月25秀吉ー白樫左衛門2.jpg

26日 秀吉が美濃路へ入ったという報告が届いた。

27日 秀吉が鵜沼川の船橋大豆の渡しを越えて、昼に犬山城に着き池田に面会した。そして池田が速やかにこの城を抑えたことを大いに褒めて早速犬山から小牧山へ進軍した。

秀吉は諸将を連れて有利な地形を探して、小牧山を落そうとした。しかし、すでに徳川の旗が小牧山に翻っているのを見て悔しがり、小牧山に対抗する数か所に砦を築くことした。彼は敵と味方の先陣の間に二重の堀を設け、柵を張って、砦には日野根一族5人の2千ほど、岩崎山には稲葉一鉄父子、4千、小松寺山には丹羽五郎左衛門長秀の8千、青塚には森武蔵守長可、内窪山に、蜂屋出羽守、金森五郎八長親の3千あまりを立て籠るように命じた。そして秀吉は犬山に戻って泊った。

28日 家康は清州の本城を内藤三左衛門信成に、二の丸を三宅惣右衛門康貞、大澤兵部大輔基宿、中安彦四郎定安に守らせ、本陣を小牧山へ移した。

秀吉は海東郡小口末田に出て、諸軍は小牧原に進軍して、春日井郡二重堀を背に家康軍を遥かに望んだが、先に進軍して戦うにも、陣を張りに行くにもよく見えなかった。

味方は小牧山の麓へ降りて槍を構えて、敵が攻めてくるのを待ち受けた。家康は酒井左衛門尉を呼んで、「敵は戦う積りか」と尋ねた。忠次は、「すでに昼を過ぎても進軍しているので、陣所を設けようとしているように見える。また、秀吉は戦術にたけているので、うかつに戦ってはならない」と答え、使いを清州へ行かせて、雑具を運ばせた。予想通り秀吉の12万の軍は陣所を設け、夜になるとかがり火が晴天の星のように見えた。

家康は、武田の時代には馬場美濃氏勝の家臣で今は井伊兵部少輔の家来になっていた廣瀬美濃景房と、三科肥前形幸の両人を呼んで、上方の大軍を望ませた。2人は「大した勢力ではない」と述べた。家康が「どうしてか」と尋ねると、「秀吉側には遠征に詳しい者がいないので、100万の兵でも恐れることはない、上杉謙信は8千で武田の2、3万、北条の4、5万に対しても負けなかった。軍というのは数の多少とは関係がない」と答えた。そのとき酒井忠次は、「長篠での経験からみて、勝頼の1万5千は秀吉の今の大軍よりは勢いがあったようだ」といった。

家康は本多重次を水野忠重に代わって、星崎の城を守らせた。

今夜、家康軍は夜中に小牧山から二重堀へ出て火砲を発すると、秀吉方は大騒ぎとなった。秀吉は稲葉一鉄に軍隊を落ち着かせるように命じ、一鉄は二重堀に行って、「敵はいないので慌てるな」と大声で叫んでまわったので、ようやく騒ぎは収まった。本当に廣瀬や三科のいう通りだと、味方の士気は高まったという。

29日 信雄は伊勢の大河内の城から、小牧山へ移って陣を張った。

4月大

5日 池田勝入は一計を案じた。「徳川は今尾張にあり、三河には衛兵がなくて手隙である。これに乗じて岡崎に攻めたい」と秀吉に提案した。秀吉はこれに応じて、三好孫七郎秀次(後、関白)の下に森武蔵守長可と堀久太郎秀政を援兵として、勝久の勢力3万ほどで三河へ攻め込めと命じた。

この日秀吉は本陣を春日井郡楽田へ移した。

この日榊原康政は楽田二重堀の諸軍に手紙を送り、「秀吉は主君(信長)の恩を忘れて信雄へ兵を向けた。これほど非道な事はないではないか、諸士はこのことを忘れてどうして秀吉につくのか、早く過ちを正して信雄を支持すべきだ」と伝えた。秀吉はこれを聞いて非常に怒って、「康政の首を獲って自分を喜ばしてくれたものには、好きなだけ禄を与える」と宣言した。

6日 三河の岡崎の商人が小牧山にきて、「近日中に敵が岡崎に攻めてくるという話が伝わり騒ぎが起きている」と述べた。家康は「よく知らせてくれた」と褒めて、「皆は心配するな。おっつけいいことがあるので、敵が帰り道をふさぐ前に早く帰るように」と述べ、敵にスパイを放った。

7日 尾張の春日井郡篠木柏井の郷民が、家康に敵が岡崎を狙っていることを報告した。篠木柏井とは庄の名前である。野口、大山、明智、神尾、和泉、南津、一色、八草、下原、久木、下市場、松木、庄名、迫間、神名、白山、出川、桜佐、関山、野田、牛毛、堀内、名栗、神領、上大、留下、大留、足振、高蔵寺、玉野、外原などの村は、皆篠木庄の中にある。

今日夕暮れ時、池田らは三河へ出陣した。楽田から合図の狼煙をあげたスパイが帰ってきて、状況を報告した。そこで家康はすぐに榊原康政、大須賀康高、水野忠重、本多康重、岡部長盛に命じて3千850ほどの兵で、およそ4千の敵を追撃するために密かに小牧山を出撃させた。敵は気づかなかった。

〇甲陽兵書では、家康はこの間、小牧山に「目印の旗」という計略をした。この計略は立影とか立陰という。

8日 尾張春日井郡岩崎の城主、丹羽勘助氏次が家康に謁見した。家康は急いで帰って城を守るように伝えた。家康は氏次の家来の丹羽半左衛門と鈴木吉左衛門を呼んで、岩崎への行き方を尋ねた。彼らはそれを説明した。家康は急いで兵を小幡へ出すことを密かに近臣に伝えた。

午後9時が過ぎ、秀吉の魁隊の池田父子4人、2陣の森武蔵守、3陣の総大将三好秀次は、龍泉寺を出て三河へ向かった。家康は酒井左衛門尉の3千、石川伯耆守の2千500、本多平八郎の500と信雄の兵とを小牧山に残して、深夜に井伊萬千代の2千を魁として旗本3千は旗を隠して密かに小牧山を発った。信雄も少人数で続いて出撃した。明け方には榊原と大須賀以下6将は、春日井郡小幡城を出て彦次郎康重などを率いて稲葉村に向った。

9日 明け方、池田勝入は愛智郡諸和村岩崎の城を攻撃し、抜いて大喜びし、後陣の三好秀次は春日井郡稲葉村にて朝飯を用意していた。そこへ家康の6将が攻め込んで敵の1万余りを打ち破り、追撃して首を取り、敵を霍乱して岩崎の北の山手、堀秀政の陣へ迫った。しかし、秀政が防戦したので、味方は負けそうになった。そのとき家康は猪越の東南まで来ていたが、岩崎城の方で砲声が激しく聞こえ、明け方に右の山の下にある春日井郡の勝川に達した時に岩崎城から煙が上がった。

石黒善九郎は、ぶぶづけを家康に献じた。午前10時ごろ白山林で家康は鎧を着た。

先鋒の6将の勝利の一番首を、水野藤十郎勝成が持ってきた。

ここで旗本はさらに進軍したが、今度は6将が負けているという知らせが入った。井伊直政の2千を愛智郡矢作村を北に進ませ、旗本3千は長久手村へ進軍し、井伊の赤備えが戦いを始めた。

旗本は2の味(*?)として突撃し、池田と森の猛勢を打ち破った。非常に神業のような戦い方だった。

堀秀政は少し前には勝っていたが、体勢が整わない内に家康の馬印を見て驚き、池田や森の隊に合流しようとしたが、兵が弱腰になって崩れているので秀政も逃げ去った。森武蔵守は火砲に当たって戦死した。池田勝入と嫡子の紀伊守之助も戦死した。次男の三左衛門輝政が敗北したとき、従者に父兄の生死を尋ねた。すると従者は「勝入は死んだ」と述べた。そを聴いて輝政は死を逃れて逃亡した。三男の備中守長吉は最初に傷を負ったが、一足早く楽田に帰っていたので命拾いした。

秀吉は三好秀次が敗北したことを聞いて、昼過ぎ頃に早法螺を吹かせて長久手に向い、勝負を決するために楽田を出撃した。かねがね秀吉の軍隊は動きが素早いのをもっとうとしていたので、大軍はすぐにこれに追随した。

本多忠勝は、石川左衛門太夫康通、松平上野介康忠など300人程が軽率100人を連れて春日井原を経て小幡に行くとき、秀吉の大軍とはわずか4~5町しか離れていたに過ぎなかった。彼らは全員で秀吉の大軍を打倒そうとした。秀吉は忠勝の豪傑ぶりに感心して戦わなかった。世間で忠勝を褒めないものはいなかった。

尾張の葉栗郡黒田から信雄の臣、澤井左衛門尉が長久手に来た。家康は「お前は信雄から国境の守りを預けられているのになぜ来たのか」と尋ねた。澤井は「自分の城は四方が沼で火砲が10挺あれば千人が攻めてきても守れるので、家来によくいってある。味方の勝ちが覚束ないのに耐えられなくて来た。黒田を固く守っていても味方が敗れれば意味がないので、無断ではあるが決死の覚悟で来た」と答えた。家康は感心した。

家康は信雄と共に小幡の城へ入った。秀吉は春日井郡龍泉寺でこれを聞き、憤慨して小幡城へ攻め込む協議をした。稲葉一鉄はしきりにこれを制止した。

家康は小幡から斥候を龍泉寺へ送り、敵が今夜襲ってくるかどうかを窺わせた。しばらくして斥候が帰ってきて、「敵は攻めてこない」と報告した。家康はもう一度菅原藤蔵に敵の動静を探らせると、「鎧を脱いで食事をして休んでいるのですぐに攻めてはこない。きっと明け方に襲ってくるだろう。だから、この小さな砦に滞在するのはまずいので、小牧山へ陣を戻すのがよい」と進言した。諸将も「もっともだ」と進言した。家康も承知して、夜中に信雄とともに小牧山へ兵を移した。

秀吉は家来を集めて尋ねると、「信雄は家康とともに小幡にいる。明朝あの砦を包囲して両人を一挙に討ち取れるのはラッキーだ」と喜んでいると、「徳川と信雄は小牧山に軍を返した」という報告が入った。秀吉は手を打って「家康の兵の使い方は神業だ。自分にはできないな」と感心し、龍泉寺を離れて田中の郷に移動した。

〇伝えられているところによれば、この日、味方が獲った首は1万3千500余りであったという。

〇初鹿野傳右衛門正備が手柄をあげたので、以前家康に叱られたことが許されてまた、勤務できるようになった。

〇菅沼織部正の使節の堀田備中と鈴木金左衛門が、旗本隊で手柄をあげた。

〇『茶屋家伝』によれば、家康が﨔(*けやき)林の陣に着いたとき、黒母衣の一隊(森武蔵守の勢力)が山から攻めてきた。成瀬小吉、大久保新十郎、渡邊忠右衛門が活躍して、首を本陣まで持ってきた。茶屋四郎次郎清延はヒヒの頭巾をかぶり繻子の羽織を着て、家康の床のそばで挨拶をすると、家康は「おれの馬に乗って先に攻めよ」と命じた。清延は早速飛び出し、紛れ込んでくる敵をすぐに討ち取った。今村次郎四郎と加藤左衛門が彼の証人となった。

〇『上林家伝』によれば、丹羽の士で当時は三河の土呂の郷司であった上林越前政重も、森の騎兵2人を討ち取って家康から感謝状と槍をもらった。彼は後に山城の宇治に住んで、茶の師匠をしているふりをして、畿内と中国四国、鎮西の諸士の動向を監視し、更に駿河から江戸に行って髪を切って竹庵と称していたが、伏見で戦死したという。

11日 秀吉は田中の郷から龍泉寺へ軍を移動した。

12日 前に伊勢の嶺の城を落とされて滅ぼされた佐久間駿河守正勝は、今回再び城を奪回し立て籠っていたので、蒲生勢の関や田丸などが包囲して攻撃し、関萬鉄斎と蒲生家の坂源次郎が七日尾から攻め込んで、ついに城は乗っ取られ、城将の正勝は尾張へ退却した。

この日、河曲郡神戸の城主、林與五郎と同郡西の方の城主、神戸蔵人友盛、鈴鹿郡国府の国府四郎次郎、楠、千種、濱田、上水も滅ぼされ、美濃の加賀野井の城へ移って籠った。しかし、神戸蔵人は心を変じて、織田信兼の穴津へ逃げた。

14日 秀吉は尾張の丹羽郡羽黒の城を修繕し、堀尾茂助、山内猪右衛門、伊藤掃部助を配置し、同郡犬山の抑えとして、奈良と高田に城を設けて稲葉貞通と長谷川秀一に守らせた。秀吉自身は小松寺山に駐屯して、西は日保曼荼羅、東は二重堀、北は海東郡青塚小口までの地域に砦を10か所築き、東西中の3軍を割り当てて、互いに援軍となって助け合うように命じた。

秀吉軍は長久手で大敗を喫したとはいえ、東の備えは2万五千、西方は2万六千500、中陣は秀吉の旗本と前隊両脇の備えとして4千あまり、後陣は浅野、福島の1万あまり、全部で8万の軍勢で小牧山を囲んでいたという。

15日 梁田鬼九郎は豪傑で長い刀を好んだ。彼は井伊直政の家来で念願がかなって、出羽月山の刀を書簡を添えて家康にもらった。

「はらい切 三尺五寸月山刀、日比其方望之由 只今、萬千代申伝聞候、異国の黄帝は髭を切り灰に焼 我朝の源公は次信(*佐藤継信)に太夫黒を牽せたもう 義経にあにをとらむ やと くにきりて 腹立候則遣候 

さきかけて火花をちらす武士は 鬼九郎とや 人は いわまし

4月15日 家康
屋なだ鬼九郎殿」天正12年4月15家康ー梁田鬼九郎.jpg

この手紙と剣は貞享元年、松平越前守網昌の家臣で、梁田太郎太夫(鬼九郎の後孫)が今も所持し、常憲公(*綱吉)に見せたという。

〇『高木家記』によれば、秀吉は高木権右衛門の兄弟一族に使節送って招待した。権右衛門はこの誘いを断り、美濃の狩野の城に弟を残して小牧山に来て家康に報告した。家康は深く感激したという。

17日 家康は春日井郡外山の砦の警備を松平主殿助に命じた。また、譜代の3人の武将に5日交代で守らせた。

22日 家康は信雄の軍勢1万8千を16隊に分けて、酒井忠次と井伊直政を先鋒として、二重橋の砦の前から東の野に進んだ。

二重橋を守っていた蒲生氏郷と堀秀政や甲賀の兵合わせて1万余は、小松寺山の本陣へ使いを走らせ、「早く家康軍を討つべきなので早く援軍を送ってほしい」と頼んだ。しかし、秀吉は「敵が攻めてくれば備えを固めて防戦せよ、絶対にこちらから戦いを始めるな」と厳しく命じた。

味方も「二重橋の敵が動揺しているので攻めたい」と家康に頼んだ、家康は「小松寺山の秀吉の旗本が二重橋まで出てくれば一戦を交えるが、来なければ急いで戦う必要はない。敵陣が騒ごうともこちらから攻めるな」と何度も厳しく命じた。味方先鋒の将兵は何とか戦おうと望んだが、家康は許してくれなかった。

両陣営は小川を隔てずっとにらみ合っていた。味方の将兵はいらだって「敵を討たないのには耐えられない」と罵った。しかし、昼頃に家康は命令を下し16隊を整然と小牧山に引き戻した。

家康が戻ったころ、北条氏直の使者が来て、長久手の戦いの戦勝の祝いを述べた。(この帰陣を『家忠日記』や『豊臣通記』では11日~12日の間だろうと述べているが間違いである。秀吉が日保曼荼羅寺に10ヶ所程の砦を設けた後のことである)

〇ある話によれば、文禄元年、肥前名護屋で秀吉が家康と夜に会話したとき、秀吉は家康に「お前が二重堀に兵を出してこちらの兵が慌てたとき、どうして攻め込んで討ち取らなかったのか」と尋ねた。

家康は「こちらの兵はその時攻め込みたいといったが、自分は小松寺山の砦の兵を二重堀に呼び寄せてから決戦したかったので、戦いを避けたのだ」と述べた。

秀吉は手を打って「自分も二重堀の兵を餌として、家康軍が出撃してこの兵を破って、軍勢が乱れたところを小松山から大軍で出撃して家康軍を一騎も逃ささず殲滅したかったのだ」といった。これを聞いた者は、家康は「餌兵を食べてはならない」という教えに精通してると感心した。

〇山鹿義臣がいわく、「昔から武力で抜きんでた英傑は多いが、大抵は敵将がバカであることが多い。しかし、長久手の戦では、秀吉は下賤の出ながら生まれつき武略に優れ、賢くて鋭い感覚を備えている。その上家康方の20倍の大軍がついている。

一方、家康の片腕である信雄はバカで話にならないが、家康は池田の謀略を暴いて、敵の軍勢が三河へ向かうと聞いて大須賀と榊原によって敵に不意打ちを食わせ、その勢いをかって最初は勝っていたが、後では敗北したという話を聞いても恐れず、険しい地形でもない戦場で、敵の武将の首を1万3千も取ってしまった。こんな武将はこれまで見たことがない。

また家康は小牧山という土居や柵もない場所に駐屯した。一方、敵方は二重堀で要害を修理し、12万の兵を備え、武田流の三段三所、五段五所や対重等の布陣に似せて幾重もの防衛線を設けた。そのため二重堀を攻めても、上方の勇猛な武将が防戦し、あちらこちらの柵から兵を出して左右から撃たせる。

しかし、家康軍は味方が勝っているときには、敵は必ず二重堀の兵を餌兵として別の多勢で攻めるてくるので負けることを察して、攻撃を止める。又、敵が深く攻めてくれば抗戦しながら、秀吉の旗本が出てくるのを待って戦い。敵が間違って深追いしてくると、今度は二重堀を急襲して追撃し、上方衆の軍団たちが長久手の大敗に懲りて互いに崩れるところに、襲い掛かって勝ちを得るという戦術は、神業で前代未聞である。

秀吉は弱そうに見えるが、謀略がうまく運ばなくてもめげない。又家康が英雄であることや、本多忠勝が抜きん出ていることを敵ながら称賛できる大物で、めったに出ない逸材というべきである」と。

〇松平康重の老臣、岡田竹右衛門元次は、駿河の三枚橋の城から家康の勝敗を窺うために出てきた。康重は「地の利と敵の勢力を見積もれ」と、阿部善右衛門正勝や西尾藤兵衛と一緒に行かせた。元次は丹念に調べて帰り、「地の利もよいし、兵力も自分たちと同じぐらいで、敵は5万7千と考えてよい。こちらは5万ぐらいだが、こちらが1人で敵の2、3人を相手にすれば必ず勝てる」と述べた。これは敵は10万だと見届けてきたが、このようにいって皆の意識を鼓舞させるためだったという。

25日 三雲成持が信雄に会いたいときた。家康は感激して書簡を送った。天正12年4月25家康ー三雲成持.jpg

〇『土岐家傳』によれば、家康の命令で菅沼藤蔵定政(後に本姓土岐にもどした)は、小牧山から家臣の井上九左衛門を敵陣へ忍び込ませ、白馬に乗った敵を捕虜にして、家康に献じた。九左衛門と小笠原内蔵助は敵のスパイを味方の陣の中で捕えて、家康に献じた。又、敵の通信使を捕え、持っていた密書とともに家康に献じて褒美をもらった。(小笠原内蔵助は木曽義仲(*利?)の叔父で、義仲は昌義の子である。

28日 長久手の戦で永井傳八郎直勝が獲った池田入道勝久の首は、遠州荒井(*新居?)の町中の篠瀬彌三郎という人の家に埋められたという。

〇ある話では、秀吉は「鵜沼に船橋を架けよ」と命じた。木村常陸介重茲は「これほど皆が戦っているときに逃げ道を作るとは、味方は腰折れになる」といった。秀吉は一言も返事をしなかった。この理由は、秀吉が家来たちが噂に翻弄されている様子に、秀吉の英気が失せたためという。

〇伊勢の松ヶ島に立て籠もっている瀧川三郎兵衛と日置大膳および家康の援将の服部鬼半蔵は、40日間も防戦に努めたので、数万の寄せ手も攻めきれず、比丘尼慶寶に和平の交渉をするように依頼した。城の中の糧米が切れて来たので、和平を受け入れた。寄せ手は船を雇って武装し人質を受け取って、敵とにらみ合いながら海路尾張へ帰った。

家康は城将たちが奮戦したことを高く評価し、信雄の許しを得て日置を家康の家来とした。しかし、彼は間もなく死亡し、子孫も無かったという。瀧川三郎兵衛は、後年秀吉お抱えの家来となり、羽柴の名前をもらって下総守となった。

29日 秀吉は大羅の寺内の戸島東蔵房の館を砦としたが、この辺りは敵はいないものの、念のために於次丸秀藤を住まわせた。

〇秀吉は諸将に「明日世紀の決戦をするので用意の法螺を待て」とまず浅野長政に命じた。各隊が軍列を守るためである。このとき木村常陸介は先隊を望んだが、秀吉は最初から戦う積りがなかったので、返事をしなかった。諸軍は明日の戦いはほとんど勝ち目がないといった。

武徳編年集成 巻28 終(2017.4.13.)