巻29 天正12年5月~6月
天正12年(1584)
5月小
朔日 秀吉は、昨日の命令を変更して、砦に兵が出過ぎているといって、早朝より順番に砦の兵を引き取らせた。朝早くから準備をして戦いを始めようとしていた諸軍は仰天した。
後殿の1番手は細川越中守忠興、2番は日野根兄弟、木村常陸介重茲、神子田半右衛門正治、3番は長谷川藤五郎秀一、加藤作内光泰、蒲生忠三郎氏郷などだった。
秀吉は青塚の上に登って、遥か先の小牧山を監視し、徳川が追ってくるれば交戦するために、黒田勘解由孝高と明石左近實則を残し、全軍は丹羽郡楽田まで撤退した。そこでまた堀久太郎秀政を残し、犬山城を加藤作内に守らせて、更に鵜沼の舟橋を渡って大羅まで撤退した。
信雄は家康に「小牧山から兵を出して追撃させよう」と提案したが、家康は「敵は大軍を引くときに伏兵を置いているはずだから、無謀に追撃するな」と諸軍に命じた。
しかし、その命令が出される前に、大槻助右衛門や大原久蔵など信雄の家来は、斥候だといって20騎あまりで敵の芝土手まで進み、土居の中まで大槻と大原は馬を降りて競い合って出て行った。
大槻は紙羽織を着て槍で突撃すると、細川勢の内から澤村木八(後、大学)は日傘に2尺余りの白絹の印に天道という文字の入った指物で走り出て、すぐに大槻を刺殺した。彼はそばにいた山本又三に首を取るようにいって、また、黒吹貫の大原久蔵のところへ駆けてきた。大原は槍の柄で振り払って後退し、芝土手まで来ると、久蔵の徒士が馬を用意していたので、その馬に乗って退却した。信雄方が得た首は10個ほどであった。
この時小牧山からは、徳川の大軍が出撃したというという流言を流したので、秀吉方は混乱する中、蒲生隊だけは整然としていた。山本又三が大槻の首を取ったほか、忠興の家来西川興助も手柄をあげた。大石清蔵、園部與一、日下部興助も槍で対戦し、細川の隊だけが今回の撤退で手柄をあげ、首を6個取った。日下部と木村は動揺した兵をまとめて立て直し、日根野の兵の弓削将監も織田方の首を1つ取ったという。
夕方になって、秀吉は今朝の撤退の功労者を調べ、細川家の山本又三に金熨斗(*のし)の刀、同家の中西川與助に脇差、日野根家の弓削にも褒美を与えた。神子田半右衛門は秀吉から「備えが崩れた時に立て直せなかったことが見苦しい」と責められたが「自分たちは兵が特に少なかったからだ」と陳謝した。秀吉は「お前が家来になったころは、お前の家来は10人ほどだったぞ。今は何倍にもなっている」と激怒した。結局彼は後に殺された。
秀吉は今晩から大羅の寺内、戸島東蔵房の館の砦に駐屯した。
3日 秀吉は中島郡富田の寺院に陣を移した。信雄は小牧山から伊勢の飯高郡大河内まで兵を引いた。(その後長島の城まで帰ったという)
4日 秀吉は「大阪より遠征しながら数か月も戦って、ただ池田と森を討っただけで何も得られず帰ってきた」のでは笑いものになると、信雄の領地の加賀野井と竹が鼻の城を抜こうとした。
ところで、尾張には4家7名惣、合わせて11党というものがあった。4家とは大橋、岡本、山川、常川である。7名は堀田、平野、服部、鈴木、眞野、光賀、河村である。この11家をまとめて吉野の11党とも、宮方の11党とも呼ばれた。彼らは南朝元中年中尹(*いん)良親王(*後醍醐天皇の孫)が吉野から上野国に下った時(*途中浪合で戦死)に随行し、活躍した後、北朝永享7年から尾張海東郡津島に住んで、以来今日まで尾張と遠州の間に住んでいた(詳しくは、『波(*浪)合記』にある)。
彼らは有力な信雄の味方として、加賀野井に立てこもっていた。秀吉は彼らを非常に憎んで、洲股川を渡って明け方にこの城を包囲し急襲した。
城では主将の加賀野井駿河守、その子の彌八郎秀望、濱田與右衛門、楠十郎、小坂孫九郎雄吉、嶺與八郎、植木清十郎、小泉甚六郎、千草三郎左衛門、林與五郎、岡重蔵、加藤太郎左衛門、更に4家7名の兵が粉骨防戦した。その勢力は1千人ほどだったという。
5日 寄せ手は城に攻め込んで、特に細川家の澤村才八が一番乗りし、二杉新六、新藤久五郎、宇治甚助、有吉太郎助、松田吉兵衛、秋田助太夫が活躍した。
二の丸門で平井駿河と澤村才八が槍で対戦して組打ち合いになったが、日傘の大指物、虎落ち竹の間に挟まって動けなくなった。その時才八が下になって危うくなった時に、城兵が飛び出して間違って平井を突いてしまった。そのとき澤村の味方が救いにきたので、城兵はすぐに城へ引き返した。お陰で澤村は偶然助かり、平井の首を取って引き返した。寄せ手は二の丸を打ち破った。(細川忠興は平井の首を今日の一番首として、才八に持たせて秀吉に贈った)
6日 城へは和平と提案したが、秀吉は認めなかったので、城兵は明け方に大手から退去飛び出し逃げだしたいと考えながらも、一か八かで戦った。
林新右衛門はこのとき新蔵といったが、敵に突撃し敵も束になって応戦した。中でも蒲生氏郷が駆けてきて兵を激励すると、向こうから2人の兵が来た。彼は「誰か」と問えば、「浅野彌兵衛、生駒五左衛門だ」と答えた、氏郷はこれが嘘だと悟って、上坂文郷可坂と小坂郷喜とともに槍で突いて2人を殺した。その他、闇の中で突き捨てた者も何人かいて槍の先が曲がった。
嶺彌三郎と楠十郎は非常な美少年だったが、蒲生の手で殺された。千草三郎左衛門は氏郷の親戚だがこれも殺された。そして植木清九郎をはじめ400人余りが戦死した。その間に城将加賀野井父子と林與五郎(神戸の城主)は裏門から逃げ去った。そうこうしている間に夜が明けたが、この戦闘で蒲生方は牧林掃部など100人余りを斬り殺した。
7日 昨日秀吉が昨日出て下見をした美濃の竹ヶ鼻城へ、今日は数万人を出して城を包囲し、四方に町割りを設けて11通りに小屋を建て、町場には堤を築いて木曽川の水を導いて城を沈めようとした。(堤の高さは26間、幅は15間)
11日 竹ヶ鼻の堤ができて水を流し込み満たした。この戦法は天文のころ、近江の佐々木が六角承禎父子と戦った時にその子の義弼の居城肥田を承禎が水攻めをしたことから始まり、秀吉が備中の高松城を水攻めで落とした戦法だが、秀吉は以来水攻めが有効と考えていた。
14日 御家人、三枝土佐虎吉が死去した。(享年73歳、武田の家来だった)
〇この年、信州福島の城主須田左衛門尉は、密かに家康の味方、依田、小笠原に近づいていた。彼は上杉の家来だったので、景勝は怒って兵をあげた。川中島の海津の城代上條山城守義春(後畠山入庵と号した)も謀反の噂があるというので、景勝は長沼の城代、島津淡路規久に預けて摩瀬、寺尾、保科左近、春日右衛門を副えて、海津を抑え、福島の城を攻め落として、城主の須田を軽率の長武藤團兵衛に撃たせたが、相討ちして死亡した。城兵は討たれたり逃亡したりした。
6月小
7日 竹ヶ鼻の城主不破源六郎光治(兵は700あまり)は、水攻めによって筏で美濃部彦兵衛を乗せて城の外へ出し、和平を要請させた。秀吉は了承した。
秀吉は加賀の金澤の利家へ返事を送った。
〇『渡辺家傳』と『久保家伝』によれば、尾張の羽栗郡黒田の城は、信雄の家来の澤井修理が守っていた。援兵として佐久間駿河守正勝、久保勘次郎勝正、花井右衛門、家康の援将、菅沼藤蔵定政、渡邊半蔵守綱を家康は送り、半蔵は本丸に立てこもって澤井修理が二の丸をまもって防戦した。
秀吉はまたこの城を水攻めにした。しかし、澤井は地理が詳しくて、堤を崩して水を引かせ、寄せ手には夜討ちをかけて13人を斬って首を取り、久保勝正に持たせて、家康の清州の陣と信雄の居城長島に送った。家康は大久保新十郎忠隣に書状を持たせ勝正に届けた。
家康は、北方の城に配した日下部左近が澤井と不仲で危険だという報告を聞いて憤慨し、信雄に日下部を殺すように連絡した。久保は家康に頼んで、澤井と日下部を和融させた。家康はこの結果を聴いて久保勝正に「十文字の槍」を贈ったという、これはこの頃のことと思われる。
10日 竹ヶ鼻城の城将、不破源六光治は、城を逃れて清州に帰った。秀吉は一柳市助直末にこの城を仮に守らせ、三軍を大垣城へ収めた。
11日 秀吉は大垣から多芸へ兵を進め、伊勢の桑名郡縄生に砦を築いて、丸毛三郎兵衛親吉に守らせた。
12日 酒井忠次を小牧山の陣に残し、家康は清州城へ帰った。
13日 秀吉は、蒲生氏郷に伊勢の桑名郡松ヶ島船江12万石を与え、関田、丸澤、秋山、芳野、野津川三松、同謙入、神田修理、中村仁右衛門、本田左京親康などを氏郷につけた。一方、秀吉は、田丸中務少輔直昌を田丸城に戻し、関右兵衛尉一政には亀山城を与えた。氏郷は今日松ガ島に移り、飯高郡河股城は、生駒彌五郎左衛門が抜いたのでそのまま彼にこの城を与えた。
〇この月の中旬、信雄は伊勢の桑名郡長島城にいた。
佐久間駿河守正勝(右衛門尉信盛の子で、最初は甚九郎という)は、信雄の長臣として尾張の海東郡蟹江の城を守った。
葉栗郡前田城には前田甚七郎長種(後対馬守、利家の一族)、下市場城には同與平治貞利(長種の弟)、中島郡大野城に山口長次郎重政(後修理亮)がいたが、信雄は佐久間正勝を同郡菅生に要害を築かせ前田與十郎種利に守らせた。彼は佐久間正勝の母方の叔父で、滝川右近将監一益の従弟である。
かねてから滝川は正勝の隙を伺っていたが、與十郎が菅生に行くのを幸いとして、彼を誘って信雄を裏切り秀吉方についた。與十郎種利はすぐに佐久間の近臣1人を殺害し反旗を翻した。
滝川は前田と諮って、山口長次郎市政へ使いをやり、「信雄と佐久間には恨みがある。前田父子も一益とともに秀吉に降伏するので、すぐに同意してほしい。そうでないと人質として蟹江にいるお前の母を殺害する」といったという。
重政は頭を振って、「自分は子供の時から正勝に仕えていた。今どうして裏切らねばならないのか。お前は褒美にくらんで主人の恩を忘れ、秀吉について、正勝に預けた質人を殺そうとしている。自分は母を顧みずにこの城を守る」と答え、清州、長島、菅生へ援兵を求めた。
15日 夜になり滝川左近将監は九鬼右馬允の軍船数10隻を呼び、これに乗り込んで九鬼とともに3千の兵で大野川にこぎ入り、大野の城壁に迫って攻撃を始めた。山口重政は松明を投げ入れて、敵の船2艘を焼いた。敵は慌てて堤に上がったところを、今度は山口が火砲を放ち、槍で敵をすべて殲滅した。
井伊兵部少輔直政は、松葉の郷に駐屯していたが、山口の連絡を聞いて早速兵を送り、海の中に柵を建てて、船の通路をさえぎったので、敵が再び襲来することはなかった。その間に信雄は梶川五左衛門秀盛と小坂孫九郎雄吉を、大野に送り山口を救った。
16日 秀吉は大垣城へ帰った。
今朝滝川一益は、蟹江の沖に着いた。家康は一益が沖に来たと聞いてすぐに出撃した。各隊へは「可出馬由」と書いた指令を送った。それによれば、「斯く如き時は、一字を以て人疑、可の字にて其機緩し出馬する者也と、決定の文字を書すべき」とあった。
家康の命令で井伊兵部少輔忠政、成瀬小吉正成(後隼人正)と家臣は、わずか3騎で家康と出発した。旗本の武将は12町あとから順次に馬を馳せた。(小幡勘兵衛景憲の説では、「上方の兵は、関東の武士の操船技術が進歩して迅速に行動することはあるはずがない」と思っていたが、家康としてはここで滝川に勝たせると、長久手の大勝が水の泡になるとして、このような戦法を取ったのである。不思議な英知である」)
信雄も兵を出した。家康は蟹江の浜手に急いで漕ぎ着いた。ちょうど引き潮どきで大きな船は入れないので、滝川は小舟に乗って川口へ臨んだ。そこへ伊賀の兵が追撃し立ちふさがり、一益はたった2隻で蟹江城へ戻って城の中へ入ろうとした。そこを今度は井伊直政が待ち受け、彼を大手に追い詰めて奮戦した。
味方は本多八蔵が戦死した。伊賀衆は大手のわきから攻撃した。水野藤十郎勝成(後日向守)は父惣兵衛忠重と仲が悪かったので、伴をさせてもらえず、伊賀の兵に交じって出陣したが、槍で戦ったものの火砲に当たって傷をした。
滝川方の兵が矢や鉄砲を撃っている2艘の船へ、味方は乗り込んだ。それ以外の船は皆逃亡した。一益は嫡子三九郎が後殿してようやく城へ入った。
17日 明け方には、かねての約束通り、滝川と九鬼の兵は、下市場の城を加勢するために船をつけようとした。岡部彌次郎長盛は津島に駐屯していたが、大野城の山口重政とともに駆けつけた。一方、信雄の兵も10艘の船で到着し、一緒になって滝川と九鬼の船を乗っ取った。岡部は一益の馬印を奪い取り、長盛の家来の朝比奈兵衛は、九鬼の甥の長兵衛を討ち取り敵は大敗した。
18日 家康の武将、石川伯耆守、安倍彌一郎信盛と信雄の軍勢は、前田甚七郎の前田城を急襲した。城は耐えられず、甚七郎は和を申し出て城を開けて美濃へ退却した。
〇ある話では、信雄が大野城を訪れて、山口長次郎の働きを大いに褒めた。
家康は戸田に駐屯したとき、本田忠勝に命じて山口重政の呼び、「以前佐久間信盛父子が流された時に、自分の考えを変えずに彼らとともに高野山で苦行し、今度は佐久間正勝のために忠誠を尽くしたことに感銘した」と述べて駿馬を贈った。その後彼は、家康とは親しい仲となり、修理亮に任じられた。
〇別の話では、戸田三郎右衛門忠次、向井兵庫守忠安、間宮酒之丞信高、小濵民部光隆らは、このとき援兵として大野城へ向かったが、九鬼大隅守が伊勢の生津と松浦を襲撃すると聞いて、兵船10艘を小濵の浦へつけて敵と交戦した。
向井忠安が一番槍、酒之丞信高(33歳)が一番の活躍をし、小濵光隆は敵を多く討ち取った。九鬼は敗北した。(向井、小濵、間宮に家康は感謝状を贈った。この戦いは20日ごろと思われる)
和泉の布施左京亮(筒井順慶の甥)とその子、宮内など3千あまりは、伊勢の桃取に出撃したが、戸田忠次と向井、小濵、間宮は駆けつけて彼らをすべて追い払い、布施宮内を兵庫守忠安が討ち取ったという。
19日 家康は酒井左衛門忠次、大須賀五郎左衛門康高、榊原小平太康政、岡部彌次郎長盛、山口長次郎重政を先鋒として、尾張の下市場の城を攻撃させた。大須賀と榊原は早々に海の方を固め、敵の後援の道を遮断した。敵はこれほど急襲されるとは予想せず仰天した。
夜になって家康はこの城の後ろの沼に以前から葦が茂っているのではないかと調べさせた。するとやはり根は竹簀の子のようになっていて、沼を簡単に渡れることがわかった。このことを城兵たちは知らず、城の後方の衛は固いと思っていた。味方はこの沼を渡って水野彦一が馬標を掲げて一番乗りし、諸軍が後に続いて城に攻め込んで、城はたちまち陥落した。城将の前田與平治が逃げ出したところを、山口の家来の竹内喜八郎が追いついて討ち取った。
20日 家康の命令で、18日から今日までに討ち取った敵の首、120あまりを小牧山に送って、楽田の敵陣に向けて晒した。
22日 蟹江の寄せ手として、大手海門寺口からは、酒井左衛門尉、東方は服部半蔵の伊賀の組と松平上野介康忠と信雄の家来天野周防守雄光、西方は信雄勢、乾の方は大須賀五郎左衛門康高が包囲した。城の兵は千人ほどで三方の門を固め防戦した。
丹羽勘助氏次は、出丸を乗っ取った時に2か所を負傷した。従者丹羽平五郎など多くが戦死した。大須賀の隊では、久世三四郎廣宣は白い四半の指物で軽率を指揮して、すぐに竹把(*竹の塀)にとりついた。
徳川勢が競い合って竹垣を破ると、城兵は少ないので守り切れず、夜に紛れて三の丸から二の丸へ退却しようとした。しかし敵が付いてきて攻め込まれてはと恐れて、城から飛び出して戦闘中に移ろうとした。海門寺口からは谷崎忠右衛門、前田口からは日置五左衛門、本丸乾の方の固めは滝川彦次郎法忠として一斉に飛び出した。寄せても乱れず対抗して敵を城の中へ追い込んだ。
前田口の城兵は簡単に二の丸へ退却できたが、海門寺口の寄せ手は後から城へ入ろうとし、松平善四郎康安と谷崎忠右衛門が木戸口の橋の上で槍で抗戦した。善四郎は火砲で負傷して撤退した。
酒井與七郎忠利(後備後守)は進んで城兵と戦っている時に、滝川彦次郎法忠が飛び出してきて横から追い払おうとした。松平源次郎家乗(後和泉守)は幼少で、陣代の同五左衛門近正が奮戦した。
家乗の家来川合帯刀と同才兵衛が、槍で対戦して松平久助、同隼蔵、鈴木佐左衛門、今井嘉兵衛、梅村喜八郎が負傷した。武井覚右衛門、大橋新三郎が戦死した。
近正の家来の春田久三郎、同太郎左衛門、大鳥新左衛門、山岸彦太夫が活躍した。本多忠勝の家来植村庄蔵、蜂須賀金左衛門、内藤平十郎は首を取った。安藤治右衛門定次とその子、與十郎正次(後治左衛門)が勇ましく戦った。正次は股を射抜かれ、父が助けて退却した。
酒井忠次の勢力は疲れてきたので、榊原康政の兵が交代し、伊藤今雁助や安松孫右衛門などが活躍した。伊賀の衆も本城櫓の張り付いて攻め破ろうとした。服部源兵衛(味方が原で討ち死にした孫兵衛の子)など多数が火砲で殺された。家康は憐れんで鉄の盾30枚を送り、これを使って激しく交戦した。その後榊原康政などが井櫓に登って、城の中を見通して火砲を発した。
夜中には康政の家来、新屋傳蔵、中野庄右衛門、佐塚九郎左衛門などは、堀の底に潜って脇差で敵の船の錨綱を切り、船を引き寄せようとした。
城からは炬(*かがり)火を焚いて火砲を撃ったが、味方は怪我することなく、ついに本丸と二の丸の間の堀に着き、糧米、弾薬を積んだ大船18艘を乗っ取った。家康は大そう喜んでそれぞれに1艘ずつ与えた。
井櫓からは火砲を発したが、午後10時ごろで撃つのを止め、今度は火の矢を多数打ち込んだので、城兵は片時も休めず疲労して訳が分からなくなった。滝川も困って九鬼に船を回してもらって脱出しようとした。しかし、九鬼嘉隆が志摩の鳥羽の居城から大船で蟹江の沖に来て一益を救うために城へ連絡しようといる間に、夏の短い夜が明けてきて一益を救うことができなかった。しかも九鬼は船を戻そうとしたが、ちょうど引き潮でうまく進めななかった。そこを家康の御家人の間宮酒之丞信高と野見の松平新助忠綱が小舟で九鬼の大船に鍵をかけ引いた。しかし、火砲で両人共に命を落とした。他の味方が大船を激しく攻撃したので、九鬼は大船を棄てて小舟で逃げ去った。
〇また別の話として、蟹江の攻め手、石川伯耆守の部下の内藤彌次郎右衛門家長は、伯耆守の命令に反して先に城へ乗り込んだ、その次に松平三郎四郎定勝(後隠岐守)が乗り入れ、伯耆守の手勢はようやく三番手に乗り入れたので石川は醜く怒ったという。
29日 信雄は織田源五長益の家来、鳴海喜太郎を蟹江の城内へ行かせ、「前田與十郎を殺し、神戸と木造の城を渡せば許す」と滝川に諭した。一益はこの提案を受け入れ、津田藤三郎を城外へ出し、「家康の先鋒の侍大将を1人よこせば、一益も質子を2人出し、前田を殺して、蟹江の城と河曲郡神戸、員部郡木造の城を明け渡す。そして一益はこれからは信雄の家来となる」という証文を提出した。
武徳編年集成 巻29 終(2017.4.14.)
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