巻31 天正13年正月~12月
天正13年(1585)
正月
16日 家康は浜松城から岡崎城へ入った。
2月小
朔日 家康は浜松城へ戻った。
5日 三河の人夫を集めて、額田の吉良の城を築かせた。
3月大
10日 儲王(*皇太子)周仁は、成人したので即位してもよい頃だが、院御所が廃止されていたので居場所がなくなっていた。そこで羽柴権大納言秀吉は、天皇の意向を受けて、「前田徳善院玄以を民部卿法印に任じて、修理職の太夫に就任させ、院御所を再建させるので、即位して昔のように儀式を執り行ってほしい」と申し出ると、天皇は非常に喜んで、秀吉を内大臣正2位の叙した。大変な厚遇である。
北畠参議信雄が権大納言に転任した。
秀吉の医者、徳雲軒は大脉を穿つべし(*医者であるべき)だが、髪を剃っているので、その子の秀隆を施薬院代とし、徳雲軒は施薬院の主典に任じされ、昇殿を許された。
21日 秀吉は6万余りの兵を率いて、和泉の岸和田城まで出撃した。
そもそも紀州那賀郡一乗山根來寺は、覚鑁(*かくばん)聖人以来440年間続いている冨饒(*ふじょう:裕福)な寺で、衆徒は戦闘的で乱世を利用して強敵は避け、敵が弱いと攻め滅ぼして土地を奪い取り、強力な武将が信徒となって、天正4年に信長が雑賀まで進攻したときには、狭い土地を利用して抗戦した。彼らは南海からの援兵や糧食の自由な輸送の便を握っているので、信長は攻め落とせなかった。そこで信長は計略によって城を1つ落して和解して、兵を撤退させた。しかし、同10年に信長が殺されてからは、僧侶たちの猛威は増し、教徒は一揆衆として非常な威力をもって和泉方面に兵を出していた。
この寺は東には山が険しく道もなく、西は海で船を着けるのが難しく、山と海の間の50町ほどに田畑や民家、森林があり、川に堤が築かれた要害である。彼らは裏の山手の5、6か所に城を築き、城と城の間には堀を切り、柵を設けていた。去年、彼らは家康の計略によって、秀吉の要城の岸和田まで出撃した。
和泉の日根郡、近木庄橋本村の積善寺には、近木郷吉が住んで千手観音を安置していた。天正10年に根來寺はここを城とした。城の東には78間の二重堀があり、西には93間の三重堀があり、ここから地蔵堂丸山の要害までは270間、南には120間の三重堀がある。外郭には池があって、北には130間の三重堀があり、外郭は大きな川が流れ、水は深かった。
34間四方の本丸には、井出源右京、山田蓮池房、三位房、野原大部房、長橋正池房が、東方の櫓には山田の長寿院と山下の南坊が、北の櫓には西蔵院正徳院、南の櫓には近木忠次郎と熊坂房が護っていた。
城にはいつも360人の兵とそのほか9千140人がいたが、今回は根來からも加勢し、総勢9千500人が立て籠っていた。また、この城に付随する城には、高井に200人、畑中に1500人あまり、澤村には6千人がいた。
22日 秀吉は弟の小一郎秀長と孫七郎秀次を千石堀の城に向わせ、細川與一郎忠興、大谷刑部少輔吉隆、稲葉彦六典通、筒井順慶、佐々淡路守行政、伊藤彌吉を積善寺城へ向かわせ、蒲生忠三郎氏郷、中川藤兵衛秀政、高山右近友祥を濱の城に向わせ、長谷川藤五郎秀一と堀久太郎秀政の1万5千人を根來寺へ向わせた。
愛染院や福永院などが立てこもっている千石堀からは、500人ほどの兵が秀政の陣へ横から攻めてきた。秀次はこれを見て田中久兵衛吉政、渡瀬小次郎詮繁、佐藤隠岐守の3千人あまりで秀政を救い、撃ち破った。筒井と長谷川は更に奮戦して、敵の首300余りを取った。また逃げる敵を追って千石堀の城を直接攻撃したが、堀が深く矢砲が激しくて寄せ手が多く討たれ、攻めあぐんだ。そのとき筒井順慶の放った火の矢が、城の弾薬庫に命中して爆発させたので、城が燃えてしまった。城にいた1千600人ほどが戦死したという。その他の兵もすべて討ち取られた。
積善寺の城兵は、細川忠興に火砲を放った後に飛び出し、味方も抗戦した。武藤喜左衛門と松原傳八郎が戦死し、負傷者も多く出た。牧新五は敵の隊長と組討して白旗と共に分捕った。敵は城へ引き取り、火砲をしきりに発したという。
〇この日秀吉は、紀州で白樫氏功を滅ぼしたという報告があったので、感謝状を送った。
23日 根來寺は完全に焼払われた。
金や銀で飾られた仏閣や住居などは、3昼夜の間にすべて灰燼に帰した。この寺に頼って活動していた衆徒や浪人たちは、あるものは討たれ、あるものは逃亡した。その中の多くは、以前から伊勢の内宮の腹巻太夫や岩崎太夫と縁があったので、伊勢に逃げて、彼らの下で生き延びたという。
一方、この根來寺の最も立派な伽藍の伝法院だけは、毅然として延焼を逃れた。秀吉はこれを京都の太平山南禅寺に移設し整備した。
〇この日、秀吉の大軍は、何度も新賀に出て城を攻撃しようとした。当地の豪士、雑賀孫一重秀(後の鈴木孫三郎重朝)、松田源三太夫、宮本兵太夫、葛城左衛門太夫、粟村次郎太夫、岡崎三郎太夫と、故土橋平次の2人の子などが秀吉の猛攻を恐れて、すべて投降した。
秀吉は土橋の城を補修して旅営とした。石垣島屋の城主の神保式部大輔春茂と堀内安房守氏房(後の氏善)、玉置庄司などは、投降して生き延びた。(神保には和州高市で5千石を得た)
24日 秀吉は白樫方からの注進状に返事を送った。
〇北雑賀大田の地士や民は、怨みを持って戦いに挑んだが、秀吉の猛攻を恐れて降参したものの、あちらこちらに残党が潜んで、秀吉軍の陣地へ出てきては荷物を奪った。そこで秀吉は太田を攻め滅ぼそうとしたが、要害の地で、民の意気も盛んであり、矢砲にたけた民も多く、彼らの一揆によって秀吉軍に損害が出ることを憂慮した秀吉は、彼らを水攻めにして溺れさせて壊滅しようと考えた。そして当地の家の屋根よりも5尺上まで水が溜まるように計算して、周り18町、高さ6間の堤を築かせた。堤の幅は基礎の厚さは18間、上部では5間だった。
秀吉は見回って、明石興四郎則實の分担カ所の作業がはかどっているということで、1万石を与えた。一方、近江の甲賀の人夫は決まりを破ってさぼったのを秀吉に見つけられ、主人は親族と一緒に流刑にされた。このように秀吉に賞罰が即決されるので、皆は戦々恐々としながら、功を競って建設作業を進めた。秀吉は増田仁右衛門長盛に命じて、須磨、明石、兵庫、西宮、尼崎界隈の港の船を調達し、毎日白米10俵、大豆100俵を作業員に与えた。
しかし、もう少しで完成するという時に、豪雨で紀伊川(*紀の川)が満水となって、堤が150間分が流されて、そこが深い淵になってしまった。ここであきらめると味方への策が無くなるので、あちらこちらに船を浮かべ、俵6、70万個に土を入れて淵に投げ込み、ようやく堤が完成した。その時には水はすでに太田の民家にまで迫って村が浸水し、人々は非常に困り、少しずつ投降を申し出た。秀吉は棟梁50人を捕えて磔にし、残党は釈放されて船で逃亡した。地士の松本刑部や同雅樂助助持らのわずか2,3千人である。
この頃、秀吉は熊野まで征服しようと、中村孫平次一氏、仙石権兵衛秀久、九鬼右馬允嘉隆を部将とし、小西、石井、梶原などを舟奉行として、由良の渡り、那智の沖の海を越えて、熊野浦まで行かせた。
湯川庄司直清と山本庄司の一族は、この地の深山幽谷で鹿や熊でなければ通れないような、人呼んで親不知子知らず、犬戻し、兀(*ごつ)子、投左鞆という林の中の険しい岩場に家を建て、段々の土地を領地として、昔から外敵を守っていたが、そこに秀吉軍は猛牛雲霞のように攻め上り、湯川の城を焼払ってこの一族を滅ぼした。
〇秀吉は紀伊と和泉を甥の小一郎秀長に与え、紀州の中央に岡山城を築いて秀長の居城とした。(後にこの城は和歌山城となった)、秀吉はこの城を巡視する前に、玉津島を観光し茶店を設営して諸将を呼んで労をねぎらい、和歌を詠んだ。
うち出でて玉乃島より眺むれば、みどり立そう 布引の松
〇京都紫の野大徳寺の古渓和尚が来て、即興の絶句を詠んで祝辞に加えた。
書工於景未能濃 浦號和歌誰后蹤 神祝吾君玉津島 緑新布引千年松
〇秀吉は熊野を支配しようと思っときに、新宮と本宮の舎人が農民と共に出てきて降伏することを申し出た。熊野には関所が多くて旅人が困るので、秀吉は別当實報院に命じてところどころの関所を廃した。
〇今月、家康は疔腫(*はれもの)を患った。本多作左衛門重次と糟屋政利は入道長閑という医者を紹介したが、この薬を塗るとますます痛みが増したので、この薬をやめた。重次は、「長閑は腕の立つ医者といわれているので、彼の薬で治療した方がよい」と勧めたので、もう一度その薬を塗り灸治療も施したが、痛みが取れなかった。しかし、ようやく膿が噴出して、まもなくはれものは治癒したので、家康は重次に感謝した。
〇ある話で、家康の腫物が重いということが越後へ聞こえた。上杉景勝天晴は「家康はまれに見る優れて武将だ。天が彼を休ませたのだろう」といったという。これが家康に届いて彼は感激したという。
4月小
4日 中村と九鬼からの急ぎの連絡があり、秀吉は返事を出した。
10日 秀吉は高野山へ要請令を出した。
1)真言宗の法師は登録しなければならず、これまで所有していた寺領は速やかに秀吉に返還しなければならない。高野山全山でこの要請を守れば滅ぼされることはない。
2)僧侶や信徒が学問をせず、武具や武器を蓄えることは誠にけしからんことである。今後は学問にはげみ兵器弾薬を所持してはならない。
3)朝廷や国賊が寺を訪れた時に彼らを助けた場合には、今後は本人だけでなく親子までも同罪に問われる。頭を丸め信心に努める者は、山に居ることが許される。比叡山や根來寺の事例を各人の戒めにせよ。
以上の条項を全山が心から認めれば、秀吉はすぐに高野山を庇護する。
天正13年4月10日 朱印
16日 学僧方、検校法印、良運行人、方眼空雄などは協議して、細井新助を訪れ、禁令を今後長く守りことを約束し、寺領1万8千石の保証を得た。(後に秀吉は3千石を寄付した)ここで難渋した紀州を秀吉はすべて支配し、日を待たず帰還した。
〇秀吉の根來寺や熊野の征服の話は、家康と関わりがないのでここに書く必要はないが、昔からこの件は文献に記述されていないのが遺憾なので、自分はここに記して後世の参考にする。(大村由巳の『聞書』と松平忠冬の『豊臣通記』をもとに記述した)
〇この月、家康は甲州を巡視した。巨摩郡武川の折井市左衛門次昌の子、九郎三郎昌勝に証文(*領地の保証)を与えた。(26歳)
5月大
〇家康は幹部の禄を増やした。酒井左衛門尉には2千500貫文、本多平八郎、榊原小平太、大久保新十郎忠隣にはそれぞれ1千貫文、鳥居新太郎忠政(彦右衛門元忠の子)100貫文、永井傳八郎直勝2千石、安藤彦兵衛正次、平林金次郎重之、鳥井金次郎にはそれぞれ500石を与えた。
〇ある話では、本多作左衛門重次に禄を加えるのは止めて、別人の活躍を評価した方がよいとなったという。
27日 甲州巨摩郡武川の折井九郎三郎には、もっと働けと家康は手紙を送った。
〇今月 秀吉は、弟の秀長を頭に大軍を四国へ出兵させた。長曾我部元親が近年勢力を伸ばして四国全域を支配しているからである。(香西氏の著、『南海治亂記』に詳しい。これは実録として幸い出版されている)
(*『南海治乱記』 (原本現代訳 26) (単行本)香西 成資 (著), 伊井 春樹 (翻訳))
6月小
7日 家康は甲州から浜松へ帰った。
7月大
2日 四国の戦いで秀長が勝利したという連絡が入ったので、秀吉は出撃しなかった。
11日 秀吉が関白に任じられた。このとき徳川於義丸も従4位下、左近衛少将に任じられ三河守となった。
秀吉は参内にて猿楽を催し、天皇に京極黄門定家の真筆の古今和歌集を献上した。天皇は非常に喜んだという。
〇秀吉の給料が200万石になり、金銀が非常に溜まった。秀吉は「倉庫に貯めていても瓦や石と同じなので、最近戦いが多くて武将たちも困っているから」と、徳善院玄以と大村由巳法眼に命じて聚楽城総門の南に仮の小屋を建てさせ、朝から黄金5千枚、白銀3万枚を旗本に配り、総門を開けて京都の民に見物をさせた。(その後諸侯に配分した)
17日 上杉景勝は信州へ出兵して、上田の城主、真田安房守昌幸を救った。
昌幸は海野小太郎幸氏から数えて21代目の子孫で、父の海野弾正幸隆は信州真田に住み、この地名を屋号として武田信玄の家来だった。彼は天正2年5月19日に死去し(52歳)、長男源太左衛門信綱は長篠で戦死、次男、武藤喜兵衛昌幸が家督を継いで、真田安房守と名乗っていた。
勝頼が滅びてからは信長に付いたが、まもなく信長が殺され、その後は(*上杉)景勝、(*北条)氏直、家康に降伏しながら信州に3万石、上州吾妻郡の奈久留美の73の村1万千石あまり、そのほか、利根郡に1万8千200石、勢田郡6か所の村698石を支配して、三郡の内、沼田、中條、小川、猿ヶ京、新城、岩井、九高、森下の8か所の城を以て、沼田を主城としていた。
しかし、北条と家康が和融したときに、上州の真田の領地と今度北条が取った甲州都留郡と交換することが決まった。したがって、北条はしきりに真田の領地を要求したので、家康は真田には沼田を明け渡すように命じた。しかし、昌幸は、「自分は徳川に忠誠を誓うが、上田と沼田だけをもらって不満だっただけでなく、特に沼田は自分が戦って奪い取った場所なので、代わりの領地もなく明け渡すわけにはいかない」と思案した。その結果、秀吉方に付くことを景勝の家来の須田相模と島津淡路規久に頼んで、大阪へも連絡した。
秀吉は、家康が大阪に挨拶に来ないのを恨んでいたので、密書を送って景勝が真田を救援するように命じた。
家康は家来の松平源十郎康国(本姓は依田)が1千500あまりの兵で小諸城から上田領の矢澤に出撃して、矢澤但馬800人余りの兵と戦っているときに、景勝から河田摂津、本庄豊前、安田上総、信州川中島の地士、栗田永壽、板谷修理、綱島豊後、寺尾傳左衛門、小田切安芸、市川対馬、武者横目、宮島将監など6千500あまりが、今日17日に真田の居城の上田の救援のために到着した。
また藤田能登信吉の1千300は、猿が馬場の北方の山麓、小市場に駐屯した。これは川中島の先方の兵が上田に向うのを予想して、深志の小笠原右近太夫貞慶が海津の城を狙うだろうと考えをめぐらせたからである。(後日貞慶は景勝について秀吉方となった)
19日 家康は駿府に行き、「真田が1年も経たない間に上杉、北条、徳川と敵味方の間を3回も鞍替えした上に、礼を失する行動に出た」と憤慨し、大久保七郎左衛門、鳥居彦右衛門、平岩七之助、柴田七九郎を主将として、甲信先方の岡部彌次郎長盛、諏訪小太郎頼永、保科越前守正直、松平源十郎康国(後の修理太夫)、そしてこの4人の武将の備えとしての屋代左衛門勝永(後、越中守)三枝平右衛門昌吉、城 和泉昌茂、根津、下條、曽根、駒井、横田、大草、遠山知久、座光寺、武川衆など総勢7千で、上田の城を攻撃するように命じた。
晦日 家康は、甲州八代郡本巣の関所を警護する渡邊囚獄に領地の印章を与えた。
〇この月、四国を攻めていた羽柴秀長は、ついに長曾我部元親を降伏させた。秀吉は土佐の一帯を元親に与え、そのほかの3州を除いて蜂須賀、仙石、福島、戸田民部少輔勝重などを与えた。
8月大
6日 秀吉は越中の国主、佐々内臓助成政を攻撃するために、今日京都を出撃した。
越前、能登、加賀の勢を先鋒とした。佐々は倶利伽羅峠の左右36か所に砦を築き、木船、森山、益田、富山を根城として防戦した。しかし秀吉の兵10万あまりは険しい道を凌ぎ、川や沼、野に押し寄せて越中へ乱入し、成政の城や砦は落とされたり、降伏させられたりした。
22日 伊勢に隠れていた根來寺の生き残りの衆徒、愛染院根來大膳、同小道者や、福永院の和泉房帰一、房順一、房無、玉房、鳴神左衛門、赤堀など200人あまりが浜松へ来た。彼らは火の間で成瀬吉右衛門の取り計らいで家康に面会した。家康はそれぞれの名前を尋ねて、あとで禄を与えるといって、熨斗袋で生活費を与え、料理を提供した。また退席後は成瀬の家にて酒肴で接待させた。宗徒は上も下も共に初めて魚を食べた。また棟梁の2人は家康の近臣に加えられ、そのほかは皆、由右衛門正一、伊奈図書今成の組にいれられた。
29日 佐々成政は頭を剃り、秀吉の陣にきて降伏した。秀吉は紫の布団に寝そべっていたが、その傍に成政を呼んで、「お前は自分に反抗したので領地の越中を失った。しかし、信長と信雄への忠義は失わないだろう」と、越中の新川に1郡だけを与えた。
この戦いで、越前若狭と加賀の半分を領土とする丹羽五郎左衛門は、従軍の掟を破って魁をした。秀吉はかねがね彼の土地を没収しよう考えていたので、これを機会に越前と加賀を取り上げ、しばらく小国と若狭の領地だけを与えた。越中の佐々の領地の3郡は前田利長(利家の子)に与えた。
秀吉は石田三成や木村彌一右衛門秀俊(後の伊勢守)など上下38人と、越後の墜水域に行き、当時糸魚川の城にいた上杉景勝に使いを遣り同盟を申し込んだ。
景勝は去年から秀吉に好意を抱いていて、秀吉が敵国に忍び込んでいく勇気を感じていたので、すぐに直江山城を引き続き持つことを条件に、墜水域にきて同盟に応じた。
秀吉は金森五郎八長近などに、飛騨の国の司、姉小路左京太夫頼綱朝臣を滅ぼさせ、そこを金森に授けた。
閏8月小
2日 徳川方の4将の大久保、平岩、鳥居、柴田は、甲信の先方の将を率いて信州上田の城へ攻めよった。真田は上杉景勝の援軍と共に寄せ手に対抗した。千曲川の支流の加賀川は、城から1里離れているが、昌幸はここを敵が渡っている最中に撃とうと考えた。
甲州の浪人の板垣修理は、「途中で攻めるのでは勝てない、できることならば敵に川を渡らせてから、見せかけの兵を出して弱いと思わせて引き寄せ、城まで来させて敵が砲火を発したら幸いである。その煙の下から味方が飛び出せば、寄せ手は狼狽するので負けたと思うだろう。勿論三河や遠州の強兵に甲信の横田城や曲淵などが加わっているので、武田の兵法を熟知しているベテランが多い。渡る途中を撃って仮に勝利を得ても、敵の後陣がこちらの乱れたところを襲われると、きっと負けてしまう」といった。
昌幸はこのアドバイスを受け入れて、城に近い砥石城に嫡子源三郎信幸(後の伊豆守)700人、大澤の砦に家臣の矢澤但馬守500人を配置した。そして「この城の後には大きな川が2重に流れていて、寄せ手はきっと一本木染屋筋方向だけから攻めてくる。だから丸棒山口、海野口、鴇田口の口から急襲して敵を打ち崩そう。そのとき砥石矢澤からも攻め込んで敵の退路を断ち、前後から挟み撃ちにする。また城外の小野山の陰には郷人を隠しておき、犬間村にも軽率を30人あまり隠しておいて、一挙に敵をせん滅しよう」といろいろと作戦を練った。
寄せ手(家康勢)は参遠駿甲信の大勢の武将たちで昌幸勢より多く、多勢に頼むところがあった。昼前に染屋筋から攻め込んだが、城外に敵はいなかったので、競い合って宿城の町の入口まで進んだ。当時の諺に「宿城とは総曲輪内武士屋敷市鄽(*みせ)ある處」とある。
そのとき大手の門を守っていた時田出羽、高月備中、中西はわずか400人で細々と出撃しては退却した。味方はそれに乗じて宿城の中へと攻め込むと、町の小路には柵を入れ違いに並べて簾(*すだれ)がかけられ、その陰に軽率が隠れていて鳥銃を発したので、味方に死傷者が多数出た。そこで寄せ手は宿城を放火しようとしたが、柴田七九郎は「いたずらに放火すると、そこに敵が出てきたら進退窮まる」と制止させた。
真田は本丸に上杉勢を配置し、昌幸は二の丸の正門にいて、寄せ手が二の丸まで攻めてきたときには合図の狼煙をあげて昌幸など総勢が、棒山、海野、鴇田の三か所の口から飛び出して来た。また、高月勢が遊撃兵として攻撃をしてきた。そのため味方は大敗して城から引き下がろうとすると、今度は小路の柵に邪魔されて討ち取られるものが多数出た。そうしてようやく広い道に出て逃げ出せた。
すると合図の旗があげられ、砥石城から兵が攻撃してきた。また小野山の郷人が火砲を撃ちながら攻め寄せた。大久保七右衛門は14,15騎で抗戦した。彼に従っていた本多主水と平岩親吉の兵の尾崎左門兄弟は踏みとどまって鉄砲兵を集めようとしたが、味方はバラバラで集められず、この3人だけで後殿を務めた。
また、忠世の兵の乙部藤吉は弓を携え、黒柳孫左衛門は火砲を構えて踏みとどまりつつ徐々に撤退した。乙部は矢を発したが当たらず、2の矢を構えるところを敵が来て斬り伏せた。そこを黒柳は火砲でその敵を撃ち殺した。御家人の酒井輿九郎重頼は首を取った。
味方は加賀川の向こうまで撤退した。鳥居元忠は高い場所を引き取ろうとすると、砥石城の兵に阻まれ、彼の家来小見孫七は戦死した。鳥居勢は敗北した。酒井輿九郎はもう一度引き返して交戦しようとしたが鳥居勢から離れ、そこへ犬間村の郷人が3人谷から出てきて追撃して来た。尾崎兄弟は抗戦したが戦死した。味方は5、6町の間で300人ほどが戦死した。
加賀川の向こう側で兵を整えようとしたが出来ず、大久保忠世は鳥居勢が敗れたのを見て1騎だけで引き返した。弟の平助(後の彦左衛門)忠教は黒い鎧を付け、銀揚羽蝶の9尺あまりの捺物をつけて駆けつけ、馬より降りて槍で戦うと、敵が14、5人駆けてきた。彼はその中の黒い兜の武者を突き殺し、首は取らずになお敵に立ち向かった。
忠世の捺物を見つけて松平七郎左衛門、足立善一郎政定(大河内善兵衛の嫡子)、木下隼人、本多源蔵、松井與兵衛、波切孫蔵、石川彦助、後藤総平、気多甚六郎、枝坂茂助、大方喜三郎などが駆けつけたので、忠世は河原に踏みとどまった。平助忠教は一段高いところに陣取って指揮すると、残りの兵100あまりが駆けよって来た。真田も加賀川が前にあるので思案して、それ以上は進まなかった。
忠世の陣の左手には昌幸の旗本があり、右には真田の従軍が控えていたが、そのわずかな隙間は5間から10間だった。忠世は少人数だったが勇気をもって対峙した。敵の日置五右衛門が味方の陣の前を通り過ぎようとした。大久保平助は、「お前は敵か、三つ巻(*?)をつけていない」というと、敵は真田の味方勢と間違って、「日置五右衛門だ」と名乗って通った。足立善一郎政定は槍で鞍の後輪を突いた。五右衛門の家来が槍を持ち直して善一郎を少し突いて並走する平助の前を駆けて通った。平助がまた突くと、敵の兵が槍4,5本で向かっていて、3本で平助の槍を挟んで捨てた。その内、五右衛門が駆けて抜けて、気多甚六郎の前を通過した。
忠教がこれを撃てというと、甚六郎が突いたが、後から追ったので股の端が脇差に当たって外れた。そのとき五右衛門は振り返って、彼らが川中島の救援と思い「危ないぞ」と怒鳴った。17、8人の子供が五右衛門の跡について通過した、平助は子供だからと彼らを突くのを止めさせた。結局大久保の家来などの味方は、20騎あまりが本道を石橋まで退却した。平助と天方喜三郎はこれに合流しようと駆けたが、隊は乱れ、敵は5,6間までに追いついてきた。石橋では天野金太夫、小笠原越中、波切孫蔵との連絡が取れ、平助とともにこっそりと退却した。
大久保忠世は平岩の陣に着いて体勢を立て直し、川を越えて跡をくらました。敵もちりぢりになって味方を追ってきたが、距離が空いてしまった。そこで味方は攻めかかって1騎も逃がさないようにしようとしたが、(*平岩)親吉は、「真田の兵は少なくても非常に強力に抵抗するので、どうしても援兵が必要だ」と許さなかった。忠世は鳥居と保科の陣に来てこの作戦を主張したが、2人は同意しなかった。そこで忠世は川を越えて川の端で陣を敷こうと提案したが、これも拒否された。曲淵左衛門吉景など武川衆、小尾、津金の味方も踏みとどまっていたが、このように作戦がまとまらない間に昌幸は城へ引き返してしまった。
今日の戦いでの功名は、御家人では酒井與九郎だけだったので皆はよくやったと褒めた。
〇ある話では、この年丹波から三河に来た赤井藤右衛門幸長(小笠原左衛門佐組)が戦死した。この人は赤井悪右衛門直正の弟の刑部少輔幸家の子で、幸長の子石川彌左衛門貴成、赤井七郎兵衛善幸とともに家康に仕えた。今日甲州衆の小尾監物(*けんもつ)祐光も負傷した。
3日 大久保忠世と柴田七九郎康忠は、信州の国人を率いて真田の枝城、丸子を攻めるために筑摩川(*千曲川)を渡り、八重原に駐屯した。真田はこれを見て海野町へ兵を出し、八重原の下を一気に手白塚へ攻撃した。
忠世は岡部彌次郎、松平源十郎康国、諏訪小太郎頼永の兵が一体となって敵の中に攻め込み、根津原に追い込んで壊滅せよと命令したが、鳥居と平岩はこれを聞かなかった。忠世は怒り、使者を派遣して「進めないのならこの山の先で自分の後を守れ」といったが、両人はこれにも従わなかった。その間に真田は撤退した。
味方は丸子へ攻め込み、八重原に駐屯して敵の隙を窺った。真田は引き返して城から10町ほどのところで駐屯し、軽率を出して駆け引きをしながら味方の陣を窺った。信世と康定は斥候を2人置いて交代で守った。
19日 諏訪小太郎が斥候の当番のとき、真田と足軽が戦った。
20日 岡部彌次郎長盛(29歳、後の内膳正)は、柴田七九郎康忠とともに斥候の当番が当たった。真田安房守は歩兵に紛れて、柴田の陣に来て攻撃を加えた。康忠は飛び出て奮戦したが、敵の兵は旗を奪って逃げ去った。
岡部長盛は隊を離れて川を越え、兵を進んで堤の陰から真田の兵の後を遮ろうとしたとき、真田の馬足軽が岡部勢に向ってきた。岡部もまた馬を進め真っ先に乗り込んだ。その従軍、松井與兵衛、杉山総蔵、所 藤内、千野十助、内藤平太、望月七郎左衛門、大塚兵右衛門、小鹿又五郎、植松彌蔵、小泉次太夫が一緒に進んだ。
敵兵は、真田父子の危険を察して救援に来た。藤内平太と十助は槍で対戦し、100人の首を取った。杉田総蔵は兵を指揮して競い合って進み、松井孫一郎などが手柄をあげて、敵の首を数10取った。
真田は8間ほど退き、信幸も戻ってきて戦おうとしたが、父の昌幸は制止して2人で退却した。今日も大久保忠世は、岡部の後から敵を追って討とうと鳥居、平岩と相談したが、2人は賛同しなかった。その間に戦いは終わった。
「岡部は少人数でありながら戦いに勝っていたので、こちらが続いて攻撃していれば、向ノ坂まで行く前に、真田父子の首が取れたはずだ」と忠世は非常に残念がった。
その後諸将は芝土居を築き、柵を付け、刈り田をして陣にとどまった。真田も数回城から出て、味方の隙を狙ったが守りの堅いのを見て、深く攻めてくることはなかった。
〇松平源十郎康国と大久保平助忠教は、天神林で敵に備えて諸将が堅い陣を張った。北条氏直は家康の味方として、上州沼田へ出兵し、真田の森下の砦を落とした。
〇『甲陽兵家者流』によれば、真田は軍議を凝らして「敵は土居柵を作って長く陣を張るつもりなので、その内きっと家康が出てくるだろう。それを確かめるために敵を1人捕まえよう」と決め、家来から透波(*とうし:忍び)を出して、三河の兵を1人捕えて尋問すると、「家康は出てこないが、井伊と本多が援兵として来る」と白状したという。昌幸は「思った通りだ、ここは戦わずに守りを厚くして、越後の援兵にも敵の陣へ手を出すな」と制止したという。
22日 浜松から井伊兵部大輔、大須賀五郎左衛門、松平周防守康重、牧野右馬允康成、菅沼藤蔵定政など5千余りが上田に行き、20日ほど陣を張った。このとき牧野康成は自分で敵の城の際まで巡視した。城和泉昌茂は「大将に似合わない」といった。弟の玉虫次郎九郎重茂は、「謙信だって毎度敵の城を巡視したのだから、康成だって悪くはないだろう」といったという。
26日 岡部長盛の丸子城での活躍を検証し、家臣松井與兵衛は魁の功績、大塚と藤内は槍の交戦、小鹿は槍脇の弓(*槍で戦う傍で弓での援護)、望月は場中(*戦場)の功名、植松、小泉は撤退の際の功名、内藤、杉山、千野の3人は、打留の功名その他を家康に報告したところ、家康から感謝状が与えられた。
28日 家康は大久保忠世に感謝状を贈った。
9月大
11日 松井與兵衛宗直(今川の家来左衛門宗保の子)に感謝状を贈った。
この日、秀吉の命令で、上杉の大軍が上田を救援にくるという連絡が入り、味方の諸将たちは相談して、隊を整えながら順次陣を払うことにした。
真田源次郎幸村(後の左衛門佐)は彼らを追撃しようとした。井伊政具と甥の松平周防守が相談して敵をひきつけ殲滅しようと、味方を離れて別動隊も配備し、4,5町を引き下がり、近藤石見康用と岡田竹右衛門元次が後殿した。それを見た父の昌幸は幸村を制止して兵を収めた。味方は丸子の町を焼払ったのち駿遠へ帰った。鳥居と平岩は勝間の砦にはいってから甲州へ帰った。
真田を牽制するために、大久保忠世は小諸城を護り、小幡藤五郎昌忠などの甲州の先方の士は、真田に面した渋谷村の砦を護り、信州の保科、諏訪、知久、大草、下條などはそれぞれ居城に戻って護った。
家康の諸将が陣を引いた後のこと、真田は感心して「家康はすごい奴だ、井伊と大須賀を派遣して窮地にある味方を援護し、改めて上田を攻める構えを見せた。そのおかげで自分たちはその策にかかって、防戦の準備をした。まさか夜にきて朝に帰ってしまうとは夢にも思わなかった。このように自分を欺いて急に大軍を無事に引き払うなど、自分には考えられないことだった」といったという。
真田は上杉が好意で後ろ盾をしてくれたことに感謝して、真田の次男の源次郎幸村を春日山に送って質とした。景勝は喜んで屋代の土地3千貫の内100貫を授けた。それは川中島の中である。
〇ある話で、今回の岡部彌次郎長盛の丸子での手柄は、世間で称賛された。後日、家康に面会したとき、家康は非常に褒め、家臣たちも岡部を褒めた。そして、家康は「大塚平右衛門とは、父の次郎右衛門正綱が14年前の味方が原の戦いで、家康方の杉原十度兵衛を討ち取った人なのか?」と尋ねた。長盛は、「その通りです。その日大塚は、今度濱松衆の3人が唐の頭(*ヤクの毛の兜飾り)をつけていつも戦いにでているのを見て、彼らはきっと隊長だろう、戦場で普通に手柄をあげるのでは目立たないので、戦いが始まると普通の相手が100人いても相手にせず、あの中の1人を討ち取ってやろうと豪語した。実際十度は兵衛の首を取って、唐の頭と共に杉原治部右衛門に見せた。勝頼はこれを聞いて、「唐の頭は見たことがないので見せてくれ」と治部右衛門から譲り受けて秘蔵した。もっとも杉原は、勝頼に大塚には感謝状を与えるように申し出ました」と答えた。
18日 家康は参州渥美郡田原で狩りを10日ほどした。
10月小
3日 田原から家康は帰還した。今回狩場で手負いの猪が暴れて、家康の馬の近くへ来た。春田與八郎将吉が駆けてきて、これを取り押さえた。家康は喜んで、彼の名を猪之助と改めた。
28日 列国から秀吉へ質子が集められた。家康は諸将を集めてどうするべきか意見を聴いた。そして「質子は出すべきではない」ことで意見が一致した。それで家康は秀吉の命令を無視した。
北条左京太夫氏直の家来20人が、家康に対して「北条家は下心なく家康につく」という誓約状を送った。家康も老臣と駿遠参の国士たちに連盟を約する証書を小田原へ送らせ、両家はそれに違反しないことを告げた。
11月大
13日 石川伯耆守数正は昔からの徳川の長臣だったが、去年の小牧山の戦いの後、秀吉に通じていることが明らかになった。家康は認めなかった。
案の定、彼は今日の昼に、妻子家来を連れて岡崎の城から逃げ出した。大給の松平源次郎家来が幼かったので五左衛門近正が城代だったが、数正は家臣の大野又左衛門から近正に自分に同調するようにと命じた。近正は相手にせず追い返した。
杉浦藤次郎時勝は城下に住んでいたが、数正は逃げ出すと、城下の御家人の決まりに従って早鐘を撞いて事件の起きたことを城下に通報した。そして杉浦は急いで数正の逃げ遅れた家来や家財を差し押さえた。
この事件は、午後10時ごろには三河の深溝まで伝わり、城主の松平殿助家忠は兵をあげて3里ほどを駆けつけ、岡崎に駐留して家来に城を守らせた。
松平五左衛門近正は、その子新次郎一生に家乗の家来2人を副えて濱松へ行かせ、石川の一件を家康の詳しく報告し質として、一生浜松へ留まりたいと告げた。家康は去年近正が蟹江城で活躍し、今回も隊長の石川に同調せず、さらに質子まで出すことに感心して、一生と留まることはないと帰した。
近正は元亀3年に三河、加茂郡の領地を武田信玄に侵略され、一族は松平家乗の援助を受けたので、家康は後日、大給の内、新開地千500石を近正に与え、家康の近くで働かせた。
〇伝わる話として、大蔵平蔵という士はかねてから石川の家来で、今回石川の保証を得て三好孫七秀次につき厚遇を申し出た。家康はこれを耳にして、「あれは剛士とはいえない、出世はしないだろう」と述べたが、確かに大成することなく死んだ。数正は大阪へ行き、秀吉に付いて大きな領地を要請したが、秀吉の対応はかえって薄く、非常に落胆した。世間ではこの人を指して、次の狂歌を彼の門外に建てた。
とくがわの家に伝わるふる箒 落ちて後は 木のしたを掃く
家やすの掃きすてられし古はふき みやこへ入りて塵程もなし
伯耆守もさすがに恥ずかしくて、家から出なかった。
15日 信州深志の小笠原右近太夫貞慶は、家康について諸将と共に質子を岡崎城に納めていたが、前から秀吉に通じていたのか、その質子を石川数正へ送ったので、今日家康は手紙を小田原の氏直へ送った。
16日 岡崎城には家康の支配している5州の人質を受け入れていたので、今日家康は岡崎城を視察した。三河の諸将は城へ集まった。松平家忠は真っ先に来たので褒められ、休暇をもらって領地へ戻った。
家康は内藤彌次郎右衛門を呼んで、石川に預けていた騎馬兵80騎兵を与えた。
18日 家康は三河衆から人を出させて岡崎城を補修した。松平主殿助の家来は、手早く仕事を完成させたので、家康は平松金次郎重之を深溝に遣わせて褒美を与えた。
〇この頃、家康は信州小諸城にいる大久保七郎右衛門忠世に、すぐに濱松へ帰るように命じた。これは石川数正が大阪方へ付いたためである。
信州の小笠原貞慶も秀吉方になり(*上杉)景勝の家来となった。
信玄の二男、海野太夫は盲人で、髪をそって龍芳となっていたが、「景勝が彼を担いで甲州を再興しようとしている」という話が家康に聞こえた。そこで、家康は、信州、小諸には城将、松平源十郎康国(本来は依田)が配備されているが、勢力が小さいので、忠世が抜けて景勝が盛り返せば、天正10年から続けていた努力が無駄になる。そこで忠世の一族の誰か1人を小諸に残し、康国を援護して時機を見て真田を撃とうと考えた。ところが石川数正が敵方に回って岡崎を去り、岡崎には三河と遠州の質子が置かれている。大久保の一族は上和田に住んでいて岡崎に近いので、彼らが妻子のことを案じ、安否を尋ねて危機感を持っていた。しかし、忠世の弟、平助忠教(後の彦左衛門)は「自分が小諸に残るのは恩賞狙いではない、家康のため兄のために残るのだ」といったので、忠世は非常に喜んで、忠教を小諸に残して濱松へ赴いた。
上杉、真田、小笠原は、雪が深いので結局小諸へ出撃できなかった。
21日 家康は三河の諸将を呼んで宴会を催し、食事をふるまい、西尾城で7日間滞在して放鷹をした。
28日 羽柴内大臣秀吉の密命によって、北畠大納言信雄の使いとして羽柴下総守勝雅と土方勘兵衛雄久が家康のところへ来て、「信雄はすでに秀吉と和融している。徳川家はもともと秀吉に恨みはないのであれば、すぐに京都へ行ってほしい、これは秀吉だけが望んでいるのではない。信雄も何度も望んでいることだ」と弁じた。
家康は、「去年長久手の戦いで池田と森を拿捕した秀吉が、自分に復讐しないということを信じられない。どうしてわざわざ京都へ行かねばならないのか?」と2人を帰した。
29日 大地震が起きて、飢餓や疫病が流行し数え切れないほどの死者が出た。(*天正地震、天正13年11月29日(1586.1.18.)中部日本で発生した巨大地震)
12月大
朔日 家康は秀吉との合戦のシミュレーションを行った。
そこで、「武田信玄の国法や遠征軍の備えなどの書物があるはずなので、探してくるように」と浅井雁兵衛に命じた。彼は甲州の守護、平岩親吉と郡代の成瀬、日下部に探させた。彼らがこれらを持参したので、今井九兵衛信俊、遠山右馬助、曽根下野正清が書き写して家康に献じた。
信玄旗本人番六備の軍令は、折井市左衛門次昌が、分国の政務掟書と信玄・典厩信繁九箇条の書2冊は、米倉主計忠継が、また元亀庚午壬申の二度の備定は荻原甚之丞昌支、原大隅が提出した。
これらの書物はすべて雁兵衛が濱松へ運んで、家康に見せた。(信玄の詩作の書を、甲陽の圓光院誰山和尚が捧げた)
2日 この秋に信州上田での戦いの後殿で貢献した大久保忠世の部下、林権蔵、金澤武兵衛、松井彌四郎忠行、気多甚六郎と甲陽の武将小尾、小池などに、家康は感謝状を贈った。
3日 今度上方についた小笠原貞慶は、上杉の援兵を得て3千あまりで信州高達の城主、保科越前守正直を攻撃した。正直は槍弾正の子で勇猛でならし、城門を開いて突撃して敵を撃ち破り、多くを切り殺したという。(弾正は後、越前守となった)
6日 家康は戦いの準備を完了した。
〇『甲陽兵家傳』によれば、家康は甲州の先方、今井、遠山、曽根を浜松に呼んで、「信玄の備は万全である。中でも元亀、元庚の昼から旗本軸に備えた。これでどの戦いでも勝利を得た。味方が原では信玄の備えが多く、一の備え、二の備えでは一手は2,3隊で構成されていた。法螺や太鼓の合図で進退を律し、戦いに先立ち物頭が勝敗をシミュレーションするのは戦いで非常に大切である。御家人が兜を最重要視したり、六十二間の筋(*?)や星参州矢作鉢(*?)を使ったりすべきではない」と全地域に告げたとある。
8日 家康は家来を岡崎に招集し、「岡崎は累代の城であるし、上方への重要地点である。また、皆の質子を預かっている場所でもある。ここを誰が護ればよいか」と尋ねた。
本多彌八郎正信(後の佐渡守)は、躊躇なく「身を城になげうつ者を選んで命じればよいだろう」と末席から述べた。家康は「本多作左衛門重次はどうか」提案した。これに皆は同意してすぐに重次が任命された。そして「秀吉がもし攻めてきた場合には、この城で抗戦して衛るように」と命じた。重次はこれに過ぎるものはないと興奮した。家康はすぐに100あまりの騎兵を彼につけた。(石野彦八郎がその手配をした)
家康は万が一、今度秀吉が岡崎に攻めてきたら、重次は危険にさらされるので、それに備えて彼の子々孫々のために感謝状をあらかじめ授けた。
重次の子、仙千代は去年秀康について大阪に行き人質になっていたが、重次は策を講じて密かに三河へ連れ戻した。家康は仙千代を呼んで自分で元服させ、本多丹下成重と命名した。(丹下は後年越前家の元老となって、飛騨守として丸岡4万石を領した)
10日 従3位行権中納言豊臣朝臣秀勝が死去した。この人は信長の子で、秀吉の養子になって丹波の国主であった。(最初は次丸といった)
14日 信州高達の保科正直に、家康は感謝状を贈った。
〇この年、青山藤七郎忠政(後常陸介)と内藤彌三郎清成(後修理亮)が、秀忠の傳(*?)となる。浅井半兵衛、鶴田権右衛門、瀧六蔵は同じく秀忠の負垉の役(*?)となる。
〇織田九郎信治(故人)の子、柘植半右衛門正俊(27歳)、山口勘兵衛雅朝、加藤源太郎成之が、家康の御家人になった。雅朝は駿河の長久保興国寺の城番に加わって松平玄蕃家清の部下となる。
〇渡辺半十郎秀綱が15歳で初めて家康に仕えた。彼は新左衛門(始め半十郎)政綱の子である。
〇『皆川家傳』によれば、山城守廣照は上野の長沼に住んで、武蔵の近境に勢力を広げ、家康に惚れて数年にわたって使いを送り、天正10年には自分で戦いに参加したので、家康に可愛がられていた。今年北条氏政が大軍で長沼へ攻めてくるという報に、家康は中川市右衛門、天野孫三郎、内海與三を遠路援軍として派遣した。廣照は居城から1里進んで大平山に城を籠城した。北条の大軍の昼夜にわたる攻撃にもかかわらず城は固く守られ、落ちなかった。その上、城からは夜討ちをかけて寄せ手を撃退したので、北条は結局撤退した。家康の援軍は帰還して家康に報告すると、家康は北条家と皆川家を融和をさせた。氏政は中御門権大納言宣綱の娘を養っていたが、彼女を廣照に嫁がせた。彼女は志摩守隆庸を生んだという。
武徳編年集成 巻31 終(2017.4.15.)
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