巻30 天正12年7月~12月

天正12年(1584)

7月大巻30.jpg

3日 滝川一益の甥の儀太夫津田藤三郎は、質として蟹江城から出た。大須賀康高は、自ら家康に志願して質として城へ入った。

前田與十郎は、身の危機が迫っているのを察して、密かに城から逃げ出したところ、一益の甥の源八郎が後を追って取り押さえ、首を一益は家康に献じた。家康は全ての城兵の命を助けて、伊勢の木造城へ送り、途中で人質を交換して返した。

秀吉は蟹江の後援として出撃したが、家康に城が落とされたという知らせに歯ぎしりをし、伊勢の桑名の上の嶺で陣を張った。

木造の城将富田平右衛門知信は、一益が逃げて込んできたが、彼の下心を察して城には入れなかった。そこで一益は神戸の城へ向かって城を信雄に献じた後、京都の妙心寺で蟄居した。

秀吉は「一昨年の鳥川の戦いで、厩橋から撤退するときの一益の活躍ぶりに比べて、今はどうしてこうもヘタレなんだ」と非常に怒って、すぐに親戚の丹羽長秀の領地、越前の五分一という土地へ、一益を流した。一益は次の年の春に、当地で死亡したという。

5日 秀吉が伊勢の桑名に陣を張ったので、家康は桑名へ向かって出陣し、桑名の城を石川数正に守らせ、海を渡って神戸に赴いて、城へ兵を入れた。薬王寺の砦を服部半蔵の組、伊賀の士が急襲して、手柄をあげた。

家康は、松が鼻の敵地(このときは蒲生忠三郎氏郷が城にいた)を見回り、白子を経て三重郡濱田に砦を築き、信雄の家来の滝川三郎兵衛と三雲新左衛門成持を配した。(三郎兵衛は松ヶ鼻の水攻めに懲りて、大船を城下に繋いでおいた)

秀吉勢は伊勢から美濃へ帰った。

13日 家康は清州城に軍を収めた。

15日 楽田の斥候と味方の斥候が遭遇して交戦し、味方が勝って敵を数10人討ち取った。

16日 家康は、駿河と甲州の要路である甲州巨摩郡本須の関所を、渡邊が護り警護した。本須の先方の士に印章を与えた。天正12年7月16日家康ー甲州本須.jpg

〇この月、家康は妹を信州高遠の城主、保科越前守正直へ再婚させて、高遠に輿入れさせた。後年彼女は男子2人(保科肥後守正光と北条出羽守氏重)、女子4人を儲けた。

〇ある話では、家康は丹羽勘助氏次が何度も戦いに貢献したことを評価して、もう一度信雄に仕え、恩賞を得るように信雄に命じたので、信雄は伊勢に領地7千石を与えたという

8月小

〇伊勢の北畠の親戚、木造左衛門佐長正(この人は具康という左中納言具政の子)は、一志郡戸木と新美の城を信雄方として守っていた。

彼は蒲生家が新たに得た同郡の松が鼻と、織田上野介信兼の安濃郡、津の間に挟まった地域で勢力を張っていた。(*蒲生)氏康と信兼はそれぞれ自分の領地の城を整備して、精鋭に守らせていた。すなわち、氏郷の領地の成畑には生駒彌五左衛門、小川には谷崎忠右衛門が城に詰め、信兼の領地には、別堡の上野に分部左京亮光嘉、半田神戸には長野内蔵允、浄土寺には守岡金助、連部に家所の一族、林の城には信兼の嫡男三十郎信勝(後民部大輔)などが、それぞれ堅く守っていた。

木造は非常に強い武将で、両家の領地へ時々夜襲をかけてきて変化自在に脅かした。彼の家来の畑作兵衛(29歳)は非常に剛力強弓の武将で、今までに取った首は20個に達した。畑勘太郎(28歳)も、大勢力を従えた強力な武将で刺術に優れ、今までに首19個を取った。その他、堀金右衛門や田中仁左衛門などには多くの戦績があり、特に地理に詳しくて、戦いごとに成績を上げた。

東方の土臺口からは、(*蒲生)氏郷と田丸中務少輔直昌が出撃して、野邉の河原に駐屯した。南方からは和泉宇田郡澤、秋山、芳野、宮内などが高野日置に陣を張った。西方からは、伊勢の国士、榊原刑部、伊奈が白川の上葉野に出陣した。北からは、家所参河が当初風早の地から乾に陣を張ったが、戸木の出城、宮山を攻め取ってそこに陣を移した。

風早から、織田上野介と分部左京允光嘉が何度か戸木を攻撃した。この城の南には雲出川があり、岸が険しくて淵も深く、西は谷が深く伊奈、白川があり、北は深い田で、寄り付くのが難しいので、進軍しても十分に攻撃することが難しい。一方、東側は広い野で広々しているが、1町半ほどの幅の堀が切ってあるので、大軍では押し入るのが困難だった。結局何度も攻撃したが攻めきれず、各隊は自分の城へ戻った。そこで合図の火砲を置いて、もし木造勢が襲って来れば、これを発してその音を合図に敵を討ち破るようにという命令を出した。木造方の金子十助、中川少蔵、島貫作右衛門、畑千次郎(後土左衛門)、大塚彌三郎や、近郷からやってきた浪人たちが夜襲して、隣の領地を侵略することは、今月になって止まったという。

14日 蒲生氏郷は、一志郡小倭の住人岡村修理と長野左京を味方につけ、彼らを道案内に千人ほどの兵で、口佐田の城を攻撃した。城兵は城から出て応戦し、音地内匠の備えを討ち破った。氏郷は近臣の馬周りの衆を送って、救援した。和田亀壽丸、岡田甚兵衛、池田楽源寺などが討たれたが、それにひるまず、水堀を越えて場内に突入したので、城将森長越中は逃亡した。

南出丸の将、吉掛三太夫入道は潔く戦死し、首を八角内膳に与えた。その子市の丞は、敵の中を突き切って撤退した。この時戦死した城兵は70人余りであった。結局城は落ちた。氏郷は更に奥佐田の城を攻撃した。城将の堀山次郎左衛門はよく防戦した。

伊勢からは北畠具親(大納言晴具の庶子)が来て、安保大蔵を氏郷に送って「信長父子がわれらの敵である。したがって自分は秀吉につきたい。しかし、伊勢は昔からの領地なので愛着を持っている、氏郷がよければ仲介をして、この城を降伏させる」と述べた。

氏郷はこの誘いに応じて、すぐに具親に連絡し、城将の堀山と講和して城を受け取り、小倭の士も堀山について尾張へ撤退した。

木造は、戸木の城から葛原の砦の蒲生家の上坂左文へ使いを送って、今日から雲井川で鵜を使って鮎を取ると伝えた。左文はこれを氏郷に伝え、忍びを送ってその真偽を窺った。戸木の侍と鵜の名人200人ほどが、鵜を2-30羽連れて雲出川を上り、一晩中鵜を使って鮎を取った。

15日 木造長正は敵の氏郷へ鮎を贈った。木造はこのように装いながら、夜になると城兵の田中仁左衛門、畑作兵衛、金子十助、堀金右衛門、中川少蔵、天華寺勘太郎、畑千次郎などが、小川表に出てきて散々田を刈って引き返した。

近辺の地下人は現場へ駆けつけて、散々に彼らを撃退した。氏郷はかねがね「敵が出て来たらすぐに火砲を撃って合図せよ。松が島からは出兵して一挙に敵を負かす」と厳命していた。

氏郷が松が島で月をめでて和歌を詠んでいた時、小川から砲声が3度響いたので、すぐに鎧をつけて城門にいき、法螺をふかせて単独で馬を駆って門を出た。門の外では、近臣が7人追随した。木造勢はあらかじめ兵を菅瀬口に伏せていたので、氏郷が真っ先に出てくることを知って、火砲を雨のように放った。弾丸が氏郷の鯰尾の兜に3度命中したが、良質の兜で肌には届かなかった。

氏郷は乗馬の名手で、中堀の槍術の奥儀を極めていた。また、大坪流の騎馬術にも秀でていたので、八方を駆け回り、鎧で体当たりしたり、鎌槍で突き倒したりと、向かう所敵はなかった。深田六兵衛がしきりに挑みかかったが叶わなかった。

木造の士、中川少蔵(18歳)は、地面から長刀で氏郷の馬の平首を切ろうとした。氏郷の家来の田中新平は、氏郷に並んで抗戦したが討たれた。氏郷は菅瀬の高橋にて少蔵と出会い、槍で少蔵の兜を飛ばしたが、少蔵は何度も襲ってきた。黒川某が立ちはだかったが、これも少蔵に殺された。庄村あたりで少蔵は、氏郷に再度斬りかかった。氏郷は馬を飛ばした。少蔵は徒歩ゆえに追いつけなかった。

蒲生方は外池惣左衛門、岡平蔵、吉村彌五兵衛が活躍した。外池長吉らが戦死した。菅沼助右衛門、結解孫之丞、赤座四郎兵衛郷安(後蒲生)が首を取った。

岡源八郎(28歳、後義太夫)は、畑作兵衛と組みあって危うかった。そのとき弟の半七重政(後半兵衛)は、子供にもかかわらず首を取って帰る途中だったが、兄の状況見て畑を一太刀で切り殺した。源八郎は起き上がって作兵衛の首を取った。

庄村辺で、木造方の大塚彌三郎や天華寺勘太郎なども討たれた。その他40名が命を落とした。そこへ刈り田をしていた者も駆けつけて、残兵をすべて城へ追い込んだ。死傷者は雑兵200程だったという。

16日 昨夜中川少蔵が取った田中と黒川の首を、堀金右衛門が奴隷に持たせて氏郷に届けた。氏郷は堀を味方につけ、2人の首を奴隷に持たせて木造方へ返し、敵ながら中川を賛美した。氏郷は桑名郡縄生の砦に入って護った。秀吉は再び美濃から出陣した。

19日 秀吉の先隊は尾張海東郡小口、丹羽郡羽黒へ進軍し、秀吉は本陣を二宮山に敷いた。

21日 秀吉は丹羽郡上奈良村五郎丸、久地、三井、茂吉に進軍した。信雄は秀吉を迎え撃つために、郡や村に陣を張った。家康は小牧山の駐屯地を動かず、奈良村近辺水石に砦を設けた。

22日 秀吉は丹羽郡上奈良村、中島郡大野村、葉栗郡河田村に2、3の砦を築かせた。

27日 家康は松平主殿助家忠に、羽黒と楽田を巡視させ、秀吉も楽田の山に登って、その様子を監視した。(楽田には丹羽長秀などが陣を張っていた)

28日 秀吉は小堀へ出兵して方々を焼払った。家康は清州から丹羽郡岩倉へ帰った。

この日、越中の国主、佐々内蔵助成政は、家康と信雄の味方として、加賀の前田利家の家来の村井又兵衛長頼と高畠平左衛門、原田又右衛門が守る朝日山の城を急襲した。しかし、守りが堅くて城を落せなかった。さらに彼は利家の家臣奥村助右衛門丞福(後摂津守)、千秋主殿、土居、伊予などの立てこもっている能登の末森の城を攻撃し、外郭を破ってあと堀一つというところまで攻め込んだ。

城将の奥村は必死に防戦した。利家はこれを聞いて、父子ともに鎧の上帯を結んで余りを切り取って」必死の意気込みを兵士に示し、疲れた馬にも鞭を打って、前田右近秀継の津幡城へ行き末森城が落ちていないのを確かめて、何度も末森へ駆けつけた。

山崎彦右衛門長徳と野村傳兵衛が槍で対戦した。半田半兵衛は一番乗りしたが、火砲に当たってけがをした。篠原勘六、北村三右衛門、富田六左衛門は首を取った。成政は大敗して末森の城兵は危機を脱した。

佐々の領地の越中蓮沼は、能登との国境で近いので、利家は夜に家来村井又兵衛長頼を行かせて、郷や港を焼払い破壊した。利家は後に村井に4千石の領地を与えた。

〇今月、関安芸入道萬鉄斎は、伊勢の木崎に城を築き、蒲生氏郷は縄生の砦にいて、信雄方の伊勢の諸城と戦いを続けた。

〇『剣光禄』によれば:家康の家来の本多三彌正重は、一向宗一揆の際に頭となったが、永禄7年に三河を離れて、諸州を遍歴していた。当時彼は氏郷の家来となっていた。あるとき信雄方のある城を巡視して帰った時に、「あの城には堀があって、攻め込むのが難しい」と報告した。氏郷は、「十聞くも一見にしかずと古いことわざにあるけれども、あそこには恐らく堀はないと思う。お前と賭けをしよう。自分が勝てばお前はうまい魚を一匹もってこい、もしお前が勝てばなんでも与えよう」と冗談をいった。城が落ちてよくみると、やはり氏郷の思った通りで間違いがなかった。三彌は鮓魚で償ったという。

9月大

7日 秀吉は茂吉に陣を敷いた。家康と信雄は秀吉を追って茂吉まで来た。

16日 秀吉は前田利家父子が末森を援護したのを褒めて、書状を送り、家来の奥村助右衛門永福を従五位下、摂津守に叙任した。

17日 家康の陣所から、大久保治右衛門忠佐が斥候に出て、敵の中に乗り入れ、軽率を蹴散らかして、奴隷に首を取らせた。

今日家康は8千の兵で敵陣を巡視した。金の扇子の馬印を見て、秀吉方の4万5千はなんとなく動揺して崩れそうになった。秀吉は怒りながらも勝ち目がないのを察して、夜には陣を数里引いた。家康は返り討ちを案じて、茂吉に陣にとどめた。

25日 秀吉は上奈良村、大野村、川田村に砦を築いて、兵を置き、数日間陣を張っていたが、結局何の役にも立たずに大垣に兵を収めた。

27日 家康も信雄と共にしばらく清州に兵を収めた。

〇『久世坂部家伝』によれば、この秋、楽田の敵が一宮に出た。味方は競い合って戦いを挑んだが、敗北した。久世三四郎は病気にもかかわらず駆けつけて、追ってくる敵を討ち取った。坂部三四郎も敵に駆け込んで撤退させて1つ首を取った。

〇今月、家康方の信州の木曽左馬問頭義昌が裏切って秀吉につき、妻子のために砦を築いて、山村甚兵衛良勝に守らせた。家康は味方の信州保科、諏訪、伊奈の菅沼小大膳定利を大将として、この砦を攻めたが、美濃の金山の城主、森右近忠政がこの砦に援軍を送ったので、すぐに攻め落とすことができず、攻め手は包囲を解いて退却した。敵は追ってきたが、保科越前守正直が後殿して全員が帰還した。

10月大

〇朔日、秀吉が伊勢へ出兵したという報告が入った。

4日 家康は小牧山の砦を補修した。

6日 秀吉勢は伊勢の桑名郡羽津に到着し、蜂須賀彦右衛門正勝(後阿波守)を同郡桑名の城に守らせた。信雄も秀吉に続いて、同郡へ向かい対陣した。桑名城は三河の石川伯耆守、三重郡濱田の砦は滝川三郎兵衛が守った。

11日(あるいは14日) 家康は小牧山を巡視した。

16日 家康の命令で、酒井左衛門尉は清州城を護った。榊原小平太康政は、小牧山の砦を護った。もともとこの砦は、水が乏しく堀なども粗末でここに配属させられた武将たちは苦労してきた。そこで、家康は康政を呼んで、武将たちにこれからもこの砦を使うかどうかを相談させた。

康政は老臣や隊長などを集めて意見を聞いた。すると「ここは防御の備えも貧弱で、修理するにも困難で、秀吉の猛攻には耐えられない。しかし、家康のためにこの砦でも命を捧げてもよい。秀吉のような相手と戦って死んでも悔いはない」と異口同音に答えたので、康政は感激して家康に報告した。

家康は「お前には素晴らしい部下がいるので、事情をよく分ってくれると思っていた。早速、別の場所を用意するように」と述べた。小幡の砦は小牧に比べて三河にとっては重要な場所なので、松平主殿助と菅沼新八郎定盈に今日から護らせた。

17日 家康は岡崎へ帰って休養した。

榊原康政は小牧山を護っていたが、岡崎近郊の白い土を取り寄せて、半切り樋というものを用意して、この土を水で柔らかくしてすべての城壁に塗ると、酒や油のようにはいかないが、どの櫓も一晩で真っ白になった。秀吉はこの城をじっくりと巡視して、「こんな粗末な砦に立てこもって、天下の猛軍を受けて立つとは、徳川家はなんという不敵な奴か」とため息をして、これ以来家康との和睦を考えたという。

23日 秀吉が三重郡羽津に進軍したという信雄からの急告があったと、清州の酒井忠次が岡崎に連絡した。

26日 小幡市場で失火があって、民家が少々焼失した。

28日 以前から秀吉についていた脇坂甚内安治(後中務少輔)が、わずか20騎あまりで和泉の笠置から伊賀に攻め込み、国人をだまして味方につかせた。特にこの地の士は信長父子には恨みを持っているので、多くが安治に従って質子を出した。安治はすぐに上野の城を乗っ取り、さらに伊賀の地元の士たちを取り込んで質を取った。秀吉は非常に喜んで、後日占領した信雄の領地を諸将に分配した。

秀吉は伊賀と伊勢の5万石と山城の2万石を筒井定次に与え、大和からここに移した。大和での持ち分は大抵は、地元の国人が所有していて定次の取り分は乏しかったので、彼は今回の国替えに不足はなく、早速伊勢の上野を居城とし、伊賀の守に任じられた。

大和から定次に従って伊賀へ移ったものは、松倉右近重政、片岡主膳俊宣、中坊飛騨守秀正、中西伊予元勝、辻子和泉秀俊、山崎石見勝秀、森縫殿助好高だけだった。

今まで大和は筒井の領地と家来の大小名の領地、そして織田信雄の家来、澤、秋山、布施の領地だった。今度、秀吉は地元の士の領地を没収して、大和一円を秀吉の親戚、美濃守秀長に与えた。国士の中でも箸尾には、今まで通りの領地に加えて、十市と布施などを与えられ、秀長の家来となったという。

秀吉は志摩一円を九鬼右馬允嘉隆(後大隅守)に与え、伊勢の飯高郡河股、河曲郡神戸は生駒甚助正俊(後雅樂頭、讃岐守)に、また、嶺、千種、赤堀、南部、木造、分部、小倭、小林などの村々は、織田上野介信兼の領地に加えた。

鈴鹿郡上野は、信兼の家来の分部左京亮光喜に与えられたという。

〇この月、秀吉は伊勢の羽津に出撃して、蜂須賀彦右衛門正勝に桑部の城を守らせた。信雄も秀吉に続いて長島に駐屯した。彼は毎日軽率を使って戦いを挑んだが、勝負はつかなかったという。

11月大

4日 家康勢は小牧山の砦を補修した。

6日 秀吉は富田右衛門知信と津田隼人を呼んで、「自分は信長に世話になったことは言葉に尽くせないほどである。信長は明智のためにアッという間に滅ぼされて、彼には明智への怨念が噴き出ているだろう。自分は信長のために尽くしたが、罪をうけるようなことはしたことはない。しかし、信孝と信雄は自分たちの非を正当化して、自分を誅殺しようとしている。だから自分は仕方なく戦っているだけで、やりたくてやっていることではない。自分に他意のないことは神が証明するだろう」といい、2人に「自分は信雄の軍門に降りてなお忠誠を誓い、信雄を天下の武将として仰ぐと帰って信雄に伝えよ」と2人に説いた。2人は歓んで桑名に赴き、上方雄久と足立清左衛門を仲介として、信雄に和融を申し出た。信雄は愚かにも家康に相談することなくこれを承諾し、すぐに会談すると返事した。これは秀吉が熟慮した結果、家康には逆らえないことを悟り、家康が三河へ帰っているすきを狙って信長の恩に託して和融を整えたのである。

9日 家康は清州へ戻った時、初めて信雄と秀吉が和融したことを知った。そこで桑名の石川伯耆守を信雄と秀吉に会いに行かせ、和融の挨拶してすぐに帰国するように命じた。

11日 愚かなことに信雄は、秀吉の計略にはまって、桑名城下の西にある矢田河原で秀吉と面会した。秀吉は少数の従者とともに信雄が来ると膝をついて平伏し、「今日天の助けを得て再び君主を拝することは幸せだ」と雄剣を献じた。信雄は、「富田と津田に犬山は自分のものだから早く返せ」と諭した、秀吉はそれを了承した。

6日 信雄と秀吉の連盟が成立し。両軍はそろって凱旋した。家康は今日岡崎へ帰還した。

〇 ある話によれば、紀伊雑賀の根来寺の僧徒が、四国の長曾我部土佐守元親に、「秀吉は大軍を連れて尾張へ行き相当日が経っている。大阪の城の衛は非常に薄いので、この機会に四国の大軍を播磨と摂津の間に船で着かせて、紀州の兵と連携して城を攻めの登れば畿内を征服できる」と報告した。

元親は大いに喜んで、同左近太夫親泰を先鋒として阿波の口まで進軍し、福富甚兵衛を紀州へ派遣して、一揆衆と攻撃の段取りを決めた。

紀州の前の守護畠山左衛門佐貞政(尾張守順長入道のひ孫)も、先日家康から手紙を受け取り、速やかに当地の浪人や地士を集めて楽田の秀吉を後ろから攻めるべきと促された。そこで彼は年末の16日に根来寺まで出陣した。

長曾我部の使いが上の房、和泉あたりで兵糧や弾薬を買い求め、貞政と相談して四国勢の渡海を促し、元親の使節の渡邊和泉と江島太左衛門を密かに小牧に送り、かねての計画の通り井伊直政を通じて家康に連絡した。しかし、家康は「この計画は10日前だったら計画通り東と西より挟み撃ちにして雌雄を決することができたが、今は残念ながらできなくなった」と返事をした。これによって畠山貞政も計画を取りやめ、軍勢は解散したという。

〇秀吉は大阪に戻り、富田平右衛門知信と津田隼人を浜松へ派遣し、和を要請した。信雄と滝川三郎兵衛勝雅も同伴した。家康は諸将を招いて意見聴いた。

石川伯耆守は列を顧みず進み出て、「秀吉は天下の半分を支配し、多くの諸公を従えている。徳川勢はそれに比べると10分の1の勢力であり、北には上杉、東に北条と三方に敵がいる。長久手の戦術を取らず早く講和した方がよい」と進言した。しかし、家康は非常に怒って、「自分は一塊の士に過ぎないが、秀吉の大軍を畏れたりはしない。秀吉との戦いをいつまでも待たすつもりか?」といって、秀吉には返事しなかった。使者たちはむなしく引き帰した。

22日 秀吉は権大納言従3位に任じられた。(49歳)

23日 越中の国主、佐々内蔵助成政は、信雄方として前田利家とずっと戦っていたが、信雄は愚鈍で彼を評価しなかった。

そこで成政は家康と組んで秀吉と戦う積りだった。しかし、成政が越中を留守にしたすきに利家に攻め込まれるのではないかと懸念して遅れた。ところがよく考えると、成政が国元を留守にすることを利家に連絡したものがいても、それを確かめるためには5,6日はかかり、またそれが確かだとわかって兵を出すにも5,6日はかかるので、なんだかんだで20日は経ってしまう。そこで成政はそれまでに国に帰っていればいいとして、留守のことは身内の5,6人と近習の士10人以外には知らせず、病気だとして、いつものように食事を寝室に運ばせておいて、100人に橇を引かせて外山城を発って、難所や深い雪の中を分けて信濃路へ赴いた。彼は賊臣(*秀吉?)が天下を掠め取ったことを嘆いて、和歌を一首詠んだ。

斯八可里 替わり果たる世の中に 志羅てや 雪の白く降けん
(*斯ばかり 替わり果てたる世の中に 知らでや 雪の白く降りけん)

12月 

朔日 佐々成政は苦労して信州諏訪に着いた。諏訪安芸守頼忠は急ぎの書簡でそれを浜松へ報告した。家康は乗り馬を50匹、荷物用馬100匹を早速送って成政を迎えた。成政が駿河に着いた頃に、ちょうどそれらが届いたので、皆が喜びこれに乗って遠州路へ赴いた。

2日 家康は三雲成持に書簡を送った。天正12年12月2日家康ー三雲新左衛門尉.jpg

4日 佐々内蔵が浜松へ着いた。大久保七郎右衛門忠世の館で宴が催された。

5日 家康は成政に面会した。

成政は、「今回信長の正しい後継ぎとして(*家康が)信雄を救ったことは世間で評価されているだろう。もう一度兵をあげて秀吉を滅ぼしてほしい」として、信長からもらった脇差を家康に献じた。

家康は「自分が秀吉と戦ったのは信雄を助けるためで、決してどこかを征服をしようと思ってやったことではない。しかし、秀吉があなたを信雄の味方をした者として滅ぼそうと越中へ兵を出すことがあれば、自分は援兵を派遣しよう」と確約した。

成政は重ねて「信長は数か国を支配していたが、謙信と信玄が連合して北陸道と中山道から攻めてくれば信長が負けるのは間違いなかった。今家康は三河と遠州の他に信玄の領土、駿河、甲州、信州も支配している。自分も謙信の支配地の越中を治めているので、信玄と謙信が手を組んでいるようなもので、勝利は手の中にある」といって、これから尾張へ赴いて、信雄にもう一度秀吉と戦うことを勧めた。しかし、家康は同意せず、彼はむなしく帰国した。

〇『高力家伝』によれば、家康は家来の高力與次郎正長(後土佐守)を呼んで佐々に会わせ、「彼は歴代続いている勇士だ」と紹介した。成政は「今どきの諸公の臣としてあなたほどの方はいない」といったという。

〇佐々が帰ったのち、酒井忠次は家康に語った。「徳川家の者で、今でも信長の武力が最上だと思っている者はいない。まして成政なんか論外である。昨日まで信長の家来でありながら、今は英雄然として謙信のつもりになり、家康を信玄と見立てて、対等に秀吉に対して戦おうなどおかしな話である。今回の彼との連合は破棄したほうがよい」と進言した。家康は三河から越中への通路の状況を調べさせたが、「非常に険しい難路で、しかも3月ごろまでは雪が深くて馬も通れない」との報告があった。そこで使節を越中へ派遣して、援兵の件は取り止めてたという。

〇今回の家康の戦いぶりが世間に広がり、当時秀吉方だった武将たちの中にも、家康に密かに通じる諸将も少なくなかった。また、諸国の諸公も密使を送って、家康に関係を結ぼうと求めた。蘆名、伊達、長曾我部、吉川などがそうだったという。

北条左京太夫氏直の家来20名は、連署して家康に嘆願書を送り、「氏直は決して家康を裏切らない」と表明した。家康も主な棟梁や牧野、奥平、菅沼などに命じて、北条を裏切らないことを表明した。

以前から紀伊の国士などは、秀吉に激しく反抗してきたが、白樫左衛門尉だけがこの春から秀吉方に鞍替えし、秀吉が紀州へ兵を出すときには先鋒として働くことを志願した。これで秀吉は有田郡と奈良の天野の庄野、土山、東郷を白樫に与え、さらに秀吉に鞍替えするものを募らせた。

今回、根來寺雑賀の一揆が秀吉が尾張へ出兵する隙を狙って、堺や岸和田へ出てきた。秀吉はこの一揆衆をひどく恨んでいたので、白樫が内応したことを非常に喜んだ。

14日 信雄は家康の救援に感謝するために浜松に来た。彼は酒井河内守重忠の館で休息し、城へ赴いて家康に面会した。彼は「徳川のおかげで秀吉が家来に戻り、自分が主人となった」と述べた。

15日 家康は浜松城で信雄をもてなした。信雄は「徳川家はもともと秀吉を敵とせず、ただ自分のために兵を出してくれた。今は秀吉を講和しているので、この上は秀吉と講和して、誰か1人を秀吉に送って養子にしてくれないか」といったという。その後、秀吉の使いとして、土方勘兵衛雄久が数回浜松へ来て、「秀吉には今も子供がいない。そこで徳川家の庶子を養子にしたい」としきりに頼んできた。そこで家康はようやく了承して、異父兄弟の三郎四郎定勝を送ると答えた。信雄は喜んで浜松から大阪に報告した。

25日 信雄が浜松を去るときには、酒井河内守が先導して三河の吉良で放鷹を楽しませた。信雄はこれを謝し、尾張へ帰った。

三郎四郎定勝は上京の準備をしたところ、母(伝通院)は「定勝の兄の勝俊は今川へ質として出し、あとで甲州へ奪われ逃げ帰るときに雪が深くて足の爪が全てなく悲しい思いをさせた。今回の戦いでも国から外へ出して年寄りの定勝にも働かせた。さらに今度は敵の中へ送り込むとは我慢できない」と諭した。そこで家康は、秀忠の庶兄の於義丸を大阪へ送った。

石川伯耆守が道中を警護し、その子の勝千代、本多仙千代丸(作左衛門重次の子、後飛騨守)などが随行した。秀吉は喜んで於義丸を養子として河内1万石を与えた。これは後の結城少将秀康である。

〇ある話では、畠山具親は、信雄の敵で今回は秀吉についた。しかし、信雄と秀吉が講和した後は、蒲生氏郷の家来となって、有爾村で千石を与えられたが辞退して、「もう武将はしたくないので、朝廷の侍臣になりたい」と志願した。秀吉はこれを認めて朝廷に推薦した。

〇『高力家傳』によれば、この冬、與左衛門清長は家康の使いで、京都へ行った。秀吉は喜んでその後数回、清長へ手紙を送った。

〇『瀬名家伝』によれば、源五郎正は15歳で家康の御家人になった。(後の十右衛門)。この人は今川伊予守氏詮の嫡男である)

〇因幡から逃げてきた久保新三郎正友は、当時伊豆の北条美濃守氏規に仕えていたが、浜松へ来て御家人になった。その子吉右衛門正元は家康の書記を務めたという。

武徳編年集成 巻30 終(2017.4.14.)