巻33 天正15年正月~天正17年5月
天正15年(1587)
正月小
7日 信州深志(*松本)の小笠原右近太夫貞慶と、同国 上田の真田安房守昌幸は、秀吉に任命された噯(*おくび:地頭)なので、家康の家来に加えられ駿府を訪れて、家康に面会した。彼らは秀吉にも挨拶に行きたいと望んだので、家康はすぐに許した。ちょうど秀吉が九州へ出兵する前途を祝うために、酒井左衛門尉忠次が京都へ向かうところだったので、忠次は2人を連れて駿府を出発した。
21日 駿府城の建設は一昨年に始まったが、秀吉との戦いのために一時中断していた。今日から再開され、城壁の建設は、松平主殿助家忠が担当した。
2月大
朔日 秀吉は島津修理太夫義久を征服するために、大軍を九州へむけて出撃させた。
今日から大阪に集合した諸将は、難波と兵庫の港に分かれて、西へ向って出帆した。彼らに続いて、その他の多数の軍勢が順次発ち、長門の門司と赤間の関へ渡った。その様子は雲霞のようだったという。
13日 駿府の二の丸の城壁が、今月5日に完成した。
3月大
朔日 秀吉は、大阪から島津征伐のために出帆した。
11日 家康は遠州のところどころで、狩を楽しんだ。
13日 久松佐渡守菅原俊勝が、享年52歳で死去した。
17日 家康は濱松へ戻った。
18日 酒井忠次、小笠原、真田が大阪から駿府へ戻った。
25日 秀吉は赤間に着いた。
秀吉は大和中納言秀長を総司大将として、8万の兵で豊後へ向かわせ、毛利と浮田の軍勢5万に、豊前から攻撃するように命じた。
29日 秀吉は豊前の馬ヶ岳へ行き、老兵20騎だけを連れて、密かに岩石の城を巡視して地理を調べたのち、蒲生氏郷と前田利長に包囲させた。
〇ある話では、東奥羽の南部大膳太夫信直の使者、北左衛門が、加賀の金澤に来て、前田利家に南部が秀吉方に付くことを申し出たことを伝えた。ちょうど秀吉が九州へ行って留守なので、彼を金澤に留め、飛脚を飛ばして秀吉の幹部へ連絡したという。(今夜秀吉から信直へ承認する書面が届いた)
4月小
朔日 岩石の城の大手は氏郷が、又裏からは利長が、先鋒として攻め込んだ。秀吉は離れたところに駐屯して、様子を眺めた。
氏郷の兵が最初に二の丸へ攻め込んだ。家康の使節の本多豊後守廣孝が一番乗りを果たした。徳川三河少将秀康(14歳)は山の中腹まで進軍したときに、本城が陥落して煙が立つのを見て、後陣だったのでやることが無くなり、悔し涙を流した。
この様子を佐々内蔵助成政が見て、「さすが家康の家来だけある」と褒めると、秀吉は、「参河守は自分の養子だ。だから勇ましいのは自分に似たのだ」といった。また、本多廣孝を呼んで、「徳川の家来たちは皆活躍した、特にお前の今日の働きを見ると、なかなかの優れ者だ」といって、金の鐔(*つば)の脇差を与えた。周囲の者はそれを羨んだという。
5月大
7日 秀吉の薩摩太平寺の陣所に、断髪した島津義久が訪れ降伏した。秀吉はすぐに同意し、肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、豊後などを没収した。しかし、これで数代続いた家が絶えてはいけないと、大隅、薩摩、日向の諸県を与た。九州の大小名は領地を没収されたり、縮小されたりしたという。
23日 竹谷の松平備後守清善が、享年83歳で死去した。この人は玄蕃頭親善の子で、非常に家康に尽くした人で、家康は非常に悲しんだという。
26日 小浦喜右衛門正高が、享年73歳で死去した。この人は最初伊豆から三河の桜井に来て住み、清康(*家康の父)の家来として、桜井の松平内膳正信の部下になった。
近江の浅井郡山本の地士、山本左衛門佐政村が初めて小浦に行き、小浦を姓とした。正高はその4世ということだ(後年山本新五左衛門正成となって使番を務めたのは、この正高の次男である)
6月小
6日 秀吉は、薩摩から筑前の大宰府まで凱旋した。
佐々内蔵成政に肥後を授け、国士52人を旗本として、3年間は国内の田畑を監査するように命じた。また夏服5着を与えて陸奥守にした。成政は前に秀吉に敵対したが、勇猛でならし、信長によく仕えたことを評価されたためである。
秀吉は、家康の使節、本多豊後守には帰国の許しを出して厚くもてなした。羊の皮の胴着と黄金10枚を与えた。
〇今月、服部仲保次が死去した。この人は永禄8年に伊賀から岡崎にきて、家康の家来としてよく仕えた人である。この人の父も仲という名前で伊豆に住んで、天正10年、家康が伊賀越えの時に活躍したのち、濱松で仕えた。保次の子もまた仲保正であった。
7月大
14日 秀吉は、九州から船で摂津の兵庫へ戻った。緇素(*しそ,僧や民)が海岸へ出迎えて凱旋を祝った。関東の宇都宮三郎左衛門国網の名代、岡本讃岐守正親も、はるばる兵庫まで出てきて秀吉に会い、戦いの早期終了を祝った。秀吉は感激して、正親の上野の塩谷3千360石を領地として保証した。(岡本は那須7人の長で最初は清五郎)
17日 家康も、秀吉の凱旋を祝うために駿府を出発した。
23日 三河の浦邉で渡邊六郎左衛門遠綱が、享年79歳で死去した。当時の平六郎眞網の父である。
晦日 三河の刈谷の城主、水野惣五郎忠重が、従5位下和泉守に任じられた。
8月小
4日 家康は京都に着いた。
8日 家康が従2位に叙され、権大納言に任じられた。秀忠も従5位に叙され、蔵人頭になり侍従に推薦された。また武蔵守を兼任した。彼は駿府で今日元服し、秀吉の諱をもらって秀忠となったわけである。
北畠権大納言信雄は正2位に任じられ、大和権中納言秀長も従2位に叙され、権大納言に任じられた。三好秀次は従3位に叙され、左近衛権中将に任じられた。
〇ある話では、この頃秀吉は、再び丹羽五郎左衛門長重の領地を削って、浅野弾正少弼に与えた。(長政の領地は近江の大津)長重の領地はわずか加賀の松任5万石だけとなった。
11日 家康は京都を発った。
14日 岡崎城へ戻った。
17日 駿府へ行って、来月の初めから城の建設を再開するように命じた。
9月大
20日 家康は田原へ狩に行った。
10月小
3日 駿府へ戻った。
7日 駿府城の駒の段に石畳を敷いた。(松平家忠が監察し、二の丸を再改修した)
10日 安倍大蔵定吉が、享年75歳で死去した。
14日 島津義久入道瀧伯が京都を訪れ、秀吉に会った。秀吉は滞在料を与えた。(摂津能勢の5千石、茅野村千800石、播州賢島の3千200石あわせて1万石という)
〇今月 秀吉は松下嘉兵衛之綱に、丹波の船坂村3千石を与え、従5位石見守に任じた。この人は秀吉の若いころの主人で、かねてから家康の家来だったが、ある時秀吉が家康に頼んで、遠州から京都へ呼び寄せ、このように官位と領地を与えることになった。
11月大
15日 家康は酒井左衛門尉忠次の駿河の陣を訪れ、猿楽を開催した。忠次は、家康に信長にもらった法城寺の薙刀を献上した。盛大な宴は夜中まで続き、その後家康は城へ戻った。
21日 北畠権大納言信雄が内大臣に転任した。
22日 豊臣中将秀次が権中納言に任じられた。
23日 家康は三河で放鷹するために、駿府を輿で出発した。
12月小
9日 家康は西尾で数日間狩をした。
18日 岡崎城で泊った。
19日 駿府へ戻った。
28日 家康は右近衛の大将を兼任し、左馬寮になった。これは格段の出世で、鎌倉や京都の代々の武将の中には先例がないという。
〇今月 宇都宮三郎正勝が、享年79歳で死去した。
〇今年、大給の松平源次郎が、13歳で家康の前で元服した。諱の一字をもらって家乗となった(後の和泉守に任じられた)
〇青山藤七郎忠成(後の常陸介)に、与力15人を付けた。久野衆という。
〇高力権左衛門正長(後の摂津守)が大番頭となった。
〇信州下條家の佐々木新左衛門一正(初めは理助)が御家人になった。そもそも、伊奈の武将だった下條伊豆信氏は、天正10年に信長に降伏し、武田が滅んでからは、武田の領地をもらっていた。しかし信長が殺された後は、再び家康について3,4年を経た時に、信氏が死去した。その子がまだ幼少だったので、老臣の原備前、林丹波、林久左衛門が好き放題に振る舞ったので、傍についていた佐々木一正が家康に訴えた。
家康は下條の警護頭の菅沼大膳亮定利に命じて、原と丹波を誅殺させた。当時筧助右衛門重成の次男、平十郎為春は、去年家康の気に障ることがあって菅沼に預けられ、信州に流されていたが、彼がこれに貢献した。また、家康は一正に、林久左衛門父子4人を誅殺させた。その結果一正は家康の直臣となって、菅沼定利の部下となった。慶長6年、一正と石野新蔵廣次は江戸に呼ばれ、家来となった。元和7年に一正は死去し、その子の利助は元正に秀忠に仕えた。
〇三河の池侍大谷六郎兵衛定次が、初めて御家人になった。この人は、天正2年遠州日坂で勝頼を狙って火砲を撃ったが当たらず、馬場美濃に斬られて怪我を負った。彼は石川家成の与力、味岡市平定元の養子となり、父が戦死したので母は未亡人となったが、間もなく遠州の士の大谷八郎兵衛重継へ再婚し、六郎兵衛を重継の養子とした。今回家康は、彼の系譜を調べさせて、定次に禄を与え、相模の代官職を与えた。
〇北条一族の家臣、北条左衛門太夫綱成が、享年73歳で死去した。(本名は福島)、この優れた武将は、直八幡の太夫と呼ばれた。しかし、先祖と違って氏政がひどく劣っていたので、彼の代で北条家は衰退した。
〇米倉主計忠継が死去した。この人は甲陽の優れた武士、丹後重継の子である。その子六郎右、衛門信継が家督を継いで大番衆となった。この人も丹後と名乗り、後年伏見と大阪の倉庫で、金と銀の出納役を務めた。
〇三宅藤左衛門政貞が、享年70歳で死去した。
〇この年まで肥前の長崎は、大村民部少輔忠張入道理専の領地だった。彼は外国の謀略に気付かず、キリスト教の宣教師を住まわしていたので、秀吉が怒って領地を没収し、公領とした。そうしてキリスト教徒の海外への渡航を禁止した。また宣教師6人と家族20人を捕えて、京都と大阪で引き回し、長崎に送って磔にした。
秀吉は、鍋島加賀守直成に長崎を監理させた。しかし、堺と長崎の貿易商が大損害を被ると訴えたので、中国と南蛮の商船の入港は許したが、キリスト教徒が入国することは厳格に禁止した。
天正16年(1588)
正月大
5日 秀忠が正5位下に叙された。
29日 家康は2月3日まで遠州中泉で狩をした。
2月小
4日 駿府城の建設で、去年未完成だった部分の建設を終えた。
28日 天皇が来月秀吉の聚楽城へ行幸するということで、その十分な準備が行われた。
家康も上京のために、今日駿府を出発しようとしたが、暴風によって延期した。
3月大
朔日 家康は駿府を発って、中泉に泊った。
4日 岡崎に到着し、上京の準備が整うまで滞在した。
12日 遠州井谷の近藤石見康用が、享年72歳で死去した。(最初は登之助)
14日 家康が岡崎城を発った。
18日 京都に到着し、聚楽城内の館に入った。
高力土佐守清永に命じて新しい館を建設した。後日秀吉が訪れ素晴らしい出来なので清長を呼んで、その功績を褒め、新藤五國光の脇差を与えた。
近日、天皇が聚楽城へ行幸することによって、三河守秀康朝臣は左近衛権少尉に任じられ、井伊兵部大輔直政と大澤兵部大輔基宿は従5位下侍従に叙された。その他、大久保治部大輔忠隣、酒井右兵衛太夫忠世、平岩主計頭親吉、本多豊後守廣孝、岡部内膳正長盛、菅沼大膳亮定利、牧野右馬允康成、鳥左京亮忠政が全て従5位に叙された。(大澤基宿は持明院家の祖、鎮守府将軍中務大輔基頼の20代目の子孫だから井伊と同じ侍従に任ぜられた)
4月小
3日 秀吉は博多壺、芋頭の水差し小壺、小鳥天目、羽箒、茶拓の6品の珍しい器と精米3千俵を、家康に贈った。
13日 秀吉は、奥州松前の蠣(*かき)崎慶廣に豊臣の姓を与え、従5位下民部少輔に任じた。そして屋号を松前と改めた。彼はまたは志摩守や伊豆守ともいわれる。元は若狭の武田の庶流という。
14日 聚楽城へ天皇と皇太子が行幸した。一宮誠仁親王も行幸した。秀吉は関白なので、公卿や来賓、家康と彼の家来は、天皇の籠の後に続いた。家康の寵臣井伊侍従直政も、諸侯とともに行列に加わった。今日から18日まで宴があり、おびただしい海内の珍物を供し、捧げものは数え切れなかったという。
15日 天皇の命で、秀吉は、家康や織田信雄、前田利家など諸侯が連名して誓約書の草案を作った。その内容は、「御所と仙洞御所、門跡、公卿の所料地を妨害したり奪ったりしないこと。関白秀吉の命令のあるなしにかかわらず、これを破ると罰せられる」というものである。京都の地代5千530両は御所へ、800石の内の300石は院御所へ寄付、500石は6宮家と関白に与え、近江の高島8千石を、諸門跡と公家衆領とするとした。
16日 天皇に応じて公家、武将は、それぞれ和歌を献じ披露した。
奇松祝
権大納言源家康
みとりたつ 松の葉ことに此きみの ちとせのかすをちきりてそ見る
(天地の恵もそへて君が代の常盤の色や松にかはらんとも有何れか)
三河少将豊臣秀康
玉をみかくみきりの松はいく千年 きみかさかへんためしなるらん
井伊侍従藤原直政
たち副る千代のみとりの色ふかき まつのよはひをきみも経ぬへし
18日 天皇が還幸した。その形式は行幸の時と同じである。
22日 家康は京都を出発した。
27日 駿府城へ戻った。
5月大
2日 秀吉の推薦で下野の国士、太田原晴清が従5位出雲守となった。
6日 秀吉は富田左近将監、津田隼人正、妙音院一鴎軒を相模の小田原へ派遣し、「北条家は氏直まで5代にわたって戦いごとに領土を増やしているにもかかわらず、今もって一度も京都へ挨拶に来ていない。これは天皇を侮辱する罪を犯している。速やかに京都へ来て礼を尽くすべきである」と伝えた。相模守氏政は「今は病気で、家督も左京太夫氏直に譲っている。ここしばらくの間に8州の法律を決めてから、再来年に京都へ行くつもりだ」と答えた。妙音院は納得しなかったので、氏政はようやく「年末に京都へ行く」と答えた。これは家康にならって、秀吉の質人を得てから京都へ行こうとしたのだが、秀吉は北条の力を馬鹿にして質人は出さなかった。
23日 上杉弾正大弼景勝が、正4位下に叙された。
閏5月大
10日 家康は、「自分の口添えで秀吉が北条の不逞を許している間に、あなたは、上京して秀吉に挨拶しておくように」と北条に伝えた。
12日 駿府の天守が完成した。
14日 新しく肥後の国司となった佐々陸奥守成政の摂津尼崎の宿へ、秀吉の使者、加藤主計清正が来て、彼の罪を咎めた。「以前あなたは秀吉に敵対して、北国へ兵を動かして攻め滅ぼそうとしたが、力尽きて降参した。本来はその時点で殺されるはずだった。しかし、信長の恩を忘れずに信雄について戦ったことや、知り合いだったことなどで許されて領地までもらった。しかも去年は肥後という大きな国を戦わずして手に入れた。そして規則を作って、この大きな国を治めるようとしたにもかかわらず、一か月も経たずに秀吉の命令を悖戻(*はいれい:叛く)いて、自分で検地を実行しようとした。そのおかげで肥後の国では、士は騒乱を企て、民は一揆を起こしている。この罪をどのように償うつもりか」
成政は「あなたのいうのは尤もだ。自分の間違いだった」といってそこで自殺した。享年73歳だった。成政は非常に強くて優秀な義を重んじる武将だったので、世間は彼の死を非常に惜しんだ。彼には息子はなく、娘が1人(*佐々輝子)いた。彼女は九條太閤幸家(*?、鷹司信房)に嫁いだ(*後妻)。家光の妻(中丸殿:鷹司信房の娘)の母という。
15日 秀吉は、肥後の南部24万石は小西摂津守行長に、西武25万石は加藤主計頭清正に与えた。
6月小
23日 秀吉の母が病気だというので、家康は京都へ行くように促され、妻も母の病気を見舞うために、今夜駿府を発って京都へ向かった。
8月小
15日 北条氏政の使者として、弟の美濃守氏規が、7日駿府へ来て家康の意見を聴いた上、仲介役の榊原式部大輔康政と成瀬藤八郎とともに上京し、今日聚楽城へはいって、秀吉と面会した。そして兄の氏政が今年の臘(*ろう)月(*12月)上旬に上京すると一鴎軒に伝えた。
また、「上野の沼田の地は、天正10年の甲州の戦いで徳川家と氏直が和融した際、ここを真田安房守昌幸が北条へ明け渡すことになっていた。しかし、昌幸は渋って、今日まで占拠し続けているので、北条家は困っている。ついては早く安房守に命じて、その地を北条へ明け渡してほしい。そうすれば、氏政は必ず上京する」とのべた。秀吉は、「自分はその頃のことはよくわからないので、氏直の家来でその辺をよく知っているものを来させて仔細を説明してほしい」と氏規に猶予を与え、その上良い剣と着物を与えた。彼は小田原に帰った。
〇今月家康の命で、信州松尾の小笠原掃部助信嶺に息子がいないので、酒井左衛門尉の三男、小平太を養子とした。彼は後の左衛門佐信之である。
9月大
11日 家康は駿府へ帰った。これは秀吉の母の病気が快復したためで、先月の27日に京都を発ったという。
10月小
朔日 秀吉は北野天満宮で茶会を催した。境内のところどころには、茶人たちが簡単な席を設けて茶を施した。秀吉はその席で茶と会話を楽しんだ。千利休宗易は卑賎の出だが、この道の師匠として秀吉に厚遇されているので、今日の諸事もすべて彼が仕切った。
15日 三河の長澤の領地で、松平庄右衛門近清が死去した。この人は松平兵庫頭親廣の4男で、母は桜井の松平内膳正信定の娘という。長澤本家の上野介康忠も今年引退して、家督を嫡男源七郎康直に譲り、京都で余生を楽しんだ。
26日 家康は、手紙と共に胴着と極上の茶3斤を、伊達左京太夫政宗に贈った。彼の家臣片倉小十郎景綱にも手紙を送り、「この8月に政宗は叔父の羽州山形の城主、最上出羽守義光と自分を和融させたので、今後戦うことはない」と伝えた。
11月大
〇中旬 家康は遠州と三河の境界付近で、狩猟を楽しんだ。
19日 濃州の武将、稲葉伊予守通朝入道三位法印一鉄が享年75歳で死去した。
22日 家康は岡崎城へ行った。
松平庄右衛門近清の子、小聖(5歳)は家康の前に呼ばれた。彼の容貌が父そっくりだったので、確かめたのちに近清の遺領である長澤辺りの御馬郷500貫を与え、よく面倒を見て育てるようにと、家臣の朝岡喜右衛門に命じた。小聖は成人して庄右衛門清直となり、上総介忠輝朝臣の長臣となり出羽守となった。
12月小
21日 家康は吉良で放鷹をした。
22日 秀吉から鷹が贈られ、今日その使節が吉良に到着した。
24日 家康は岡崎に戻った。
〇この年、奥平美作守信昌の次男は、10歳で三河の設楽郡から駿府へ来て、家康の面会し、諱を一字もらって松平家治となり、推薦されて従5位下右京太夫に叙さた。彼の弟も6歳で秀忠(10歳 長丸)の前で名前をもらって、松平清匡となった。(これらは家康の外孫にあたる)
〇『奥平家傳』によれば、右京太夫家治は後年上州長根に領地をもらったが、文禄元年14歳で死去して世継が得られなかった。そこで弟の清匡が10歳で上州小幡に領地をもらい、秀忠の諱を受けて忠明と改めて慶長5年に従5位下下総守に任じられた。家光の時、播州姫路の城主として18万石を領した。
〇土屋総蔵昌恒は、主人の勝頼と共に天目山で命を落とした。その子は甲州から駿河にきて、岡部忠兵衛直規に世話になり、駿河の清見寺に住んで7年目に家康に会うことができた。家康はすぐに侍女の阿茶局に彼を養子として育てるように命じた。大人になって民部少輔忠直となる。(阿茶局は後に1位に叙された神尾五兵衛守世の母となった)
〇駿河の柿島村に住む武将朝倉六兵衛在重は、家康に会っていろいろな役の認可を受けた。
彼は海野彌兵衛に、昔から道がなかった駿河の安倍の山中から信州と甲州へ通じる道を建設させるように命じられた。両人は非常に苦労して信州高遠までの道を拓いた。後日駿府へ来て通路が完成したことを報告した。
この朝倉の父は、やはり六兵衛在重といって越前の国主、左金吾義景の弟である。彼は兄と仲が悪くこっそり国を抜け出して、駿河へ来て柿島村に隠れていた。六兵衛の子も名前は全く同じだった。(三代が全て六兵衛である)。2代目在重の弟藤十郎宣正は、今年秀忠の大番頭になり2百石をもらった。この人は後年駿河大納言忠長の老臣の遠州掛川の城主朝倉筑後守である。
〇家康は野州(*下野)長沼の皆川山城守廣熈が遠くから尽くしてくれているので、軍費として金を30枚贈った。
〇酒井左衛門尉忠次は、京都の桜井の館に住んで62歳だったとき、その子の宮内大輔家次に、家督の三河の吉田2万石を譲った。この一族の酒井輿九郎重頼は、武力に優れ禄をもらって家康の近臣となった。
〇筧 図書重忠が、享年77歳で死去した。この人は廣忠の命で松平三左衛門を誅殺した後も、いろいろ戦いで活躍した(最初は半七郎)。
〇渡辺半蔵重綱が16歳で初めて家康に仕えた。初めは鎗(*やり)半蔵と呼ばれた、忠右衛門守綱の長男で、後に父子ともに尾州、義直の家来となった。
〇丸毛五郎兵衛利勝の嫡子、内匠利久の二男牛之助重成(24歳)が禄をもらった。重成は後に秀忠の近臣となる。彼の父、利勝は、三河設楽郡新城の住人、喜八郎の二男で、信長の家来兵庫頭長照の弟である。
天正17年(1589)
正月
28日 駿府の城を再び改修した。この城は要害ではない。高い山の近くの湿地にあり、城壁を堅固にできない。しかし、河口に近いので海運の便があり家康は居城にした。
2月小
4日 家康は、遠州中泉から駿府へ狩から戻った。
5日 東海道で大地震が起きた。(*M6.7 震源静岡県)
13日 真田源二郎信幸(後の伊豆守)は質人として駿府へ来た。これは安房守昌幸の甥である。
24日 家康は、12日から京都へ向かうはずであったが、ひどい雨で明後日まで延期した。
26日 家康の母、伝通院が病気のために、家康は出発を延期した。
28日 伝通院の病気が快復したので、駿府を出発した。
3月大
7日 家康は京都に着いた。
12日 戸田三郎右衛門忠次の甥の平右衛門清久が御家人になった。清久の父の平右衛門清藤は一生浪人で兄の領地に住んだ。
15日 内藤彌次郎右衛門家長の次子、金一郎政長は従5位下佐馬助に任じられた。
4月小
6日 秀吉は大阪から聚楽城へ入った。
8日 秀吉は、慈照院長政公が管領細川勝元の館を訪問した時の様式を聴き、それを見本として車で前田利家の館へ行った。
公家や武将などは烏帽子狩衣姿で伴をした。長光の太刀、金覆輪の鞍を置いた馬1匹、小袖50着、純子20巻、白糸2百斤を利家が献じた。家臣21人が面会し、今晩家康は1泊した。
9日 秀吉へ吉光の刀、白銀千枚、絹2百匹を利家が献じ、秀吉は施薬院宅まで帰った。(今度の利家の家のインテリアや器は千利休が準備した)
29日 秀吉は有馬の温泉に入浴するために大阪から向い、10日ほど滞在した。
〇宇都宮家の説によれば、豊前の城井屋形常陸介鎮房とその子彌三郎宗房は、天正15年の冬から城井谷に立てこもって黒田如水父子と戦っていた。
今年の正月秀吉の保証を得て、秀吉の家来となった。そこで宗房の妹を黒田長政に嫁がせ、20日長政の中津の城で黒田父子に饗応されていた。
祝いの酒を5献行ったときに、急に黒田方が襲いかかかって鎮房を殺した。宗房は、当時庇護の検地を命じられて虎嗑宿にいるところを、28日の夜に加藤清正に殺された。彼の庶流の三郎左衛門国網は、野州宇都宮に住んでいて、本家の城井屋形鎮房の知行の奥州、常陸と上野の領地をすべて横取りした。もっとも、国網はそれに先立ち、秀吉に取り入って家来になりたいといっていたという。
5月大
3日 秀吉は50余りの国を支配したので、東国から佐竹、結城、里見、加賀谷、那須なども使節を送って秀吉に従った。秀吉は「奥州、出羽、常陸と関東の北条家も侵略をあきらめ、それぞれ京都へ行って天皇を仰ぎ、聚楽城へ来るように」促した。
12日 秀吉は有馬から大阪へ戻った。
19日 秀忠の母、西郷の局が駿府で死去した。
24日 駿府の龍泉寺で、西郷の局の葬儀があった。寶臺院松誉貞樹。後年龍泉寺を寶臺院と改めて、一品位を上げた。
27日 大阪城で秀吉の妾、淀殿が男子を生んで、鶴松丸と名付けた。諸士が全て祝いに訪れた。(彼は3歳で早世した)
武徳編年集成 巻33 終(2017.4.17.)
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