巻34 天正17年6月~12月

天正17年(1589)

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4日 家康は、鶴松丸の誕生を祝うために、聚楽城の新しい館から、大阪へ向かった。

5日 秀吉は老臣などを呼びよせて、「領地が200万石になり金銀が倉に一杯になった。これは使わなければ瓦や石と同じである。これを御所や諸将に配分して共に楽しむのはどうだろう」といった。

大村知巳保院は「賢明なことだ。漢の馬援は、富を得るのはそれを世施して栄えさせるためにある。そうでなければ、金の奴隷になるだけだろう。さっそくこれを使って、御所や人々を喜ばせるのがよいだろう」と進言した。秀吉は喜んで、聚楽の城門内の2町ある白洲に金銀を積んで並べた。(金を100枚ずつを4人で持たせて運ばせた)それを見た人々は目を丸くした。

彼は天皇や公家たちに、総額で金銀36万5千両を献上した。家康には金2千両(ただし砂金灰吹き、*金塊)と銀1万両、妻(秀吉の妹)にも、金5千両を与えた。諸侯も施されて、秀吉の豪勢で気前の良さに仰天しない者はいなかった。

6日 家康は大阪を発って、駿府へ赴いた。

20日 駿府へ着いたという。

奥州会津仙道の長 蘆名平四郎義廣と伊達政宗は、今月5日磐梯山の下摺上原で戦った。伊達勢が撤退しようとすると、政宗は怒鳴って奮起して敵陣に突撃した。政宗の家来の片倉小十郎景綱は、鉄砲の名手300人を連れて密かに磐梯山を経て敵の裏手にまわり、敵の雑兵を敗走させようとした時、暴風が来て砂塵が何度も敵陣を覆い、咫尺(*しせき、至近距離)が見えなくなった。会津勢は裏切りが起きたのかと思って、皆が逃げ出し多数の死傷者が出た。しかし、義廣はかろうじて死を免れ、会津の黒川の城へ戻ったが、家来たちが政宗に降伏したので、結局今日10日黒川城が陥落した。

稲荷の社僧、南光天海(俗称三浦の末裔の松本氏)が槍を構えて義廣の道案内をし、大声で「敵が来たら野衲(*やのう、愚僧)が露を払ってやろう」といった。その時、備中八道味庵が倉川の橋を焼き落として、政宗の追っ手を遮ったので、義廣はようやく水戸へ逃げ延び、実父の佐竹義重の許に居候した。この時以来、政宗は会津へ移り勢力を拡大したことが、段々と世に広まった。

23日 遠州、横須賀の城主大須賀五郎左衛門康高が

享年63歳で死去した。この人は文武に優れ、徳川の重要な家臣だった。後に松平の姓をもらった。榊原式部大輔康政の二男は今年9歳だが、彼の外孫のために大須賀の家を継いだ。(後の出羽守忠政)

7月大

7日 徳川の三奉行、本多重次、高力清長、天野康景は、家康の命令で6箇条の規則を公布した。天正17年7月7日六か条の制令.jpg

〇ある話では、家康は、今年三河、遠州、駿河、甲州、信州の、田や畑の境界や面積を調査した。高敦が調べたところでは、この検地を終えたので、この規則を公布したのではないかと思う。

9日 秀吉は天正14年から洛東大仏の建設を始めたが、すでに仏像ができたものの、仏殿がなかった。そこで大工の棟梁たちに諸国に木材を探させたが見つからず、富士山には大木があるらしいとの進言を受けて、秀吉はすぐに家康に木を提供するように要請した。家康は人夫数万人を集めて、来月16日から木を伐りだすように、諸将へ指令を出した。

19日 諸将は分担分の人夫を連れて駿府へ集まった。家康は「明後日、井伊兵部大輔の家に集まって、猿楽を楽しんでから富士山へ出発するように、また人夫はそれに先立ち、明日に富士山の麓の大宮へ行かせるよう」命じた。

21日 明け方からひどい雨で、井伊直政の家に家康が行くのは延期された。

北条氏直は、板部岡越中融成入道江雪を大阪へ送り、家康と北条家との領地の取り決めについて説明した。

秀吉は、「真田安房守昌幸は上州の領地3分の2と沼田城を北条へ渡し、その代換地を家康が真田に与えること。なお、上州の3分の1と奈久留美の城は真田の先祖の墓のある土地なので、真田の領地とする」と命じ、江雪はすぐに帰国した。そして、今日21日秀吉は、富田左近将監知信と津田隼人正を東国へ派遣した。

26日 家康は井伊侍従の家を訪れ、諸将も伴った。猿楽が十番演じられ、夜になって帰宅した。

28日 秀吉の富田と津田の両使いが駿府へ着いて、秀吉の意向を家康に伝えた。2人は続いて榊原式部大輔と共に駿府の真田の家に行って、秀吉の意向を伝えた。更に、相模へも行って氏直へ連絡した。氏直は秀吉の命に応じて2人に板部岡江雪を付けて、沼田城へ行かせることを決めた。

29日 佐竹常陸介義重、岩城修理太夫常陸、石川大和守昭光、白川の結城左衛門佐義親らは、伊達政宗から奥州会津を取り返そうと、今月4日に政宗と久保田で戦った。岩城は政宗方の田村勢と下枝で戦ったが、勝負がつかず、彼らは以前上杉景勝も秀吉の家来だったから、景勝に急いで津川口から会津を攻めるように要請した。しかし、景勝は佐渡を攻めている最中で、その段取りが遅れている間に、政宗は会津の城や砦をすべて落としてしまったので、4人は手を出せなくなったという。

8月大

2日 富士山で切り出した大きな材木は、甲州へ出すのが便利だから、諸将は甲府へ行ってその作業を行った。

16日 上杉景勝が佐渡を攻めている時に、蘆名家が政宗に滅ぼされたという話を聞いて、景勝は藤田能登信吉、安田上総順易、須田右衛門と佐藤甚助、および植田三ノ庄の小禄の侍たちと、会津の盛氏に所領を奪われ、上杉家に世話になっていた横田大学は、小澤大蔵を道案内として越後の出雲崎へ船を回して志多田へ行き、そこで二手に分かれて、今日会津の多田美へ着いた。しかし、先月下旬、佐竹と岩城の軍勢が仙道を撤退して各領内へ帰ったという話を聞いた。そこで景勝はこれ以上進む利益はないと進軍を止め、忍びを放ってその真偽を糺したという。

19日 景勝勢は、多田美の砦を前にして軍を立て直し、小澤へは小澤大蔵、横田と伊南へは藤田、安田、須田の3隊は横田大学を道案内として進軍した。また伊方へは佐藤甚助が進軍した。もともと横田、山内、伊南、伊方、多田美、小澤らは、900貫あまりの地を支配し、伊達に従わない勢力で堅く陣を守って、佐竹の連絡を待ったという。

〇『会津四家合考』によれば、上杉勢のうちの安田上総と清野清壽軒は、伊南河原田盛次を救援して黒谷で政宗勢と戦ったという。

27日 家康は駿府から甲州へ向かった。(富士山から切り出した材木の様子を見るためである)

9月小

18日 甲州と信州の人夫を使って、甲州東郡の城を修理した。彼らは富士山から帰って作業をした。駿州と遠州の人夫は、引き続き冬まで、富士山に残って大木を伐採したという。

〇『内藤家傳』によれば、家康は三左衛門信成に領地を与え、馬同心を50人つけた。彼は甲府の常光寺の城主となった。

〇ある話では、家康はこのとき甲州奈良田村の温泉に入ったという。ここは名取半左衛門の領地だったが、弱くて勝頼に滅ぼされ里人となっていたが、家康を厚くもてなしたので、すぐに御家人になり300石をもらった。17歳だったという。

26日 家康は、甲州都留郡中久保や根津などを巡視した。都留の守護、鳥居彦右衛門元忠は、白銀10枚、綿100掴、漆100樽を献じてもてなした。

27日 秀吉が松井宮内卿法印友閑や千利休を使って、密かに企みをしているので、大友左兵衛督義統は、数代伝わって所持して来た「骨食吉光」という名刀を、大阪に送り秀吉に献じた。秀吉は彼に礼状を送り、小袖100着を贈った。この刀は大阪城が落ちた際、農民から本阿弥が買い取って、秀忠に献上し、幕府の倉庫に納められた。その時の価格は数千金だった。

10月大

朔日 下野の国の宇都宮三郎左衛門国網と那須太郎高資が戦ったことが秀吉に伝わり、那須の家来、大関土佐守晴清が帰国して、高資に手紙を送った。d8f665b1ab3d2e3b07156414fb4562d8e74b2633.jpg

5日 秀吉は再び両奉行に命じて、那須へ手紙を送った。04cb1001c8175328faa09674d63e2126631d9675.jpg

16日 佐竹は再び会津の政宗を攻撃したが及ばず、津川口から向った景勝軍は、伊南に砦を築いて式部修理を配した。伊方にも砦を設けて、佐藤甚助を配置した。小澤の領地には小澤大蔵、横田の領地には横田大学を再び住まわせた。諸軍は今日越後の春日山へ戻った。

26日 奥州では、政宗が横田や矢田野辺りに出兵して、小さな砦は攻めずに須賀川の城を攻撃した。天正10年からこの城の城主だった二階堂遠江守盛義が病死した。後室は政宗の伯母で、勇ましい賢女だったという。今年まで磐瀬を領地として、他国から侵略されることはなかった。政宗の猛攻撃に対して、佐竹と岩城の援兵を得て籠城し防戦していた。しかし、守屋筑後というものが裏切って、城の西にある禅寺を放火したので、煙が城郭を覆い、城兵が多く死亡した。政宗はその時4,5人の武将を送り込んで後室を救い出し、とうとう磐瀬を奪った。その結果、白川の結城義親をはじめ、石川昭光や岩城常隆などは、皆政宗に従った。政宗は自領に加えて、会津4郡と仙道7郡を領土として、次は常陸へ攻め込み、佐竹を攻めて従わそうとした。

秀吉は「政宗の行動は、天皇の命を軽んじ、蘆名や二階堂を滅ぼし、諸将を侵略する罪を負った」として速やかに隣国と和解して、京都へ来るように命じた。家康も「早く上京して詫びよ」と何度も勧めたが、政宗は勢いに乗じて、承知しなかった。

11月小

朔日 北条三郎長綱入道幻庵は、享年97歳で相模箱根の泰麓山金剛王院で死去した。この人は伊勢の新九郎長氏の3男で、文武に長じ弓馬の名手で、氏網、氏康、氏政、氏直の家臣として、関東八州に名が知れ渡っていた。彼は鞍や鎧や尺八の製法を、伊勢備中守貞運から伝えていて製作することができた。彼の作品は後世に残されている。

3日 先日上州沼田が、真田昌幸から武蔵の鉢形の城主北条安房守氏邦に移管された。秀吉の使い、富田左近将監と津田隼人正氏、氏直からの監視役の板部岡越中入道江雪が、封疆(*ほうきょう、国境)を定めて三河へ帰った。北条氏邦は、さっそく家来の猪俣能登範直を沼田の城代にした。

ところがこの人は木訥(*ぼくとつ)な武将で、利害得失をよく考えず、沼田の3分の1と久留美の城が真田が持っていることに怒り、真田昌幸の印鑑を偽造して、手紙を久留美の城代鈴木右近に送り、急用だから信州上田に来るように伝えた。

右近はこれを信用して、わずか30人ほどで出たところを彼は道中に待ち伏せて殺害し、すぐに名胡桃(*なぐるみ)城(*沼田の西、月夜野)を乗っ取ってしまった。

昌幸は怒って直ちに急の書簡を京都へ送り、この事件は29日には秀吉の耳に入った。秀吉は前に、北条が沼田を手に入れるとすぐに京都へ挨拶に来ると約束していながら、何の連絡もないので憤慨しているところに、更にこのような狼藉を起こしたと激怒して、「春には大軍をもって東国へ出陣して、いい加減なことをいう不逞な氏政父子を撃ち滅ぼせ」と命令した。

今月の3日に、彼はもう一度催促した。そんな時、小田原の使者の石巻右馬允康昌が上京して、この命令を聞いて仰天し、石田増田徳善院法印のところへ来て、「名胡桃(*久留美と併用されている)城を攻めたのは地元の馬鹿者の仕業で、氏政父子がそのつもりでやったことではない」と陳謝した。しかし、秀吉の怒りは収まらず、石巻を拘留して帰国させなかった。

7日 富士山から大木を切り出した遠州と三河の人夫が駿府へ帰った。

24日 秀吉は石巻右馬允を小田原へ返し、手紙を氏直へ送りつけた。

その概要は、「以前に徳川と北条が約束したことでは、甲信の徳川が手にした郡や村は家康が治め、上州は北条が攻めて手に入れよということであった。尤も徳川家はすでに甲信を支配しているが、北条方は弱くて沼田を攻めてもいつまでたっても攻め落とせなかった。しかし、北条はその事情を無視し、徳川が約束を守らないといって、それを口実に京都へ挨拶に来なかった。北条は幸い秀吉の命で沼田を手に入れたが、狼藉を部下に責任転嫁し、名胡桃城を占領した。しかも、今月初めから再三再四京都へ来ることを要請されながら、未だにその気配もない。この不逞をどう考えているのか。来年には兵をあげて、北条を滅ぼすことにした」というものであった。このことは家康にも伝えられた。

家康はその旨を小田原に伝え、「折れておいた方がいい」と勧めた。しかし、北条は「前に謙信や信玄が小田原城を攻めても落とせなかったので、東海道きっての険しい箱根山で防げば、秀吉の猛攻を浴びても長引かせて、兵糧を切れさせれば負かせるに違いない」と予想して、家康の忠告を聴かず防戦の段取りを相談して、日が経つばかりだったという。

29日 家康は駿府を発って、京都へ向かった。これは北条を滅ぼす相談のためである。

小笠原摂津守安元が死去した。

12月大

朔日 家康は濱松に着いた。

4日 秀吉の使いの富田左近将監と津田隼人正が、駿河の沼津まで来て、先日氏直が陳謝するために呼び寄せられ、京都から妙音院と一鴎軒が小田原へ向かうところを制止した。

6日 富田と津田は小田原へ手紙を送った。

7日 氏直は返事を沼津へ届けた。(*長い文章だが、内容はほぼ先の石巻右馬允康昌の弁明と同様である)天正17年12月7日氏直ー富田左近将監・津田隼人正.jpg

9日 家康は大阪に到着した。北条父子は返事を書いて、大阪へ飛脚を放った。天正17年12月9日氏直ー家康.jpg

10日 家康は秀吉と面会し、北条には裏表があるので、来年の春に攻め滅ぼす相談をした。家康は早速酒井右衛門太夫忠世(後の雅樂頭)、内藤彌三郎正成(後修理亮)、青山藤七郎忠成(後の常陸介)など秀忠の側近たちに手紙を送った。これは秀忠を上京させるためである。すなわち、秀吉が小田原を攻撃するに際して、秀忠を質として京都に置くためである。

家康は聚楽城で、酒井宮内大輔に命じて、来年の春に秀吉が東国を攻撃するので、徳川の家来の7軍族は戦いの準備に入るよう連絡させた。(酒井の急使は13日に三河の岡崎に到着したという)

〇ある話では、家康が秀吉との相談を終えて帰るとき、秀吉は玄関先まで送ったが、床に置いた十文字の槍をとって家康に向けて様子を見た。しかし家康は平然としていたので、秀吉は疑いを棄て、「この槍を進呈するので先鋒として勝ってほしい」と手渡した。家康は礼をいって館に帰った。家康はその後ずっとこの槍を持っていたというが、この話の真偽は不明である。

〇小田原にも「秀吉が出兵する」という話が伝わり、箱根の山中に新しい城を築き、昔の関所跡の袋崎を直して堀を築き、松田右兵衛太夫を守将として屈強の武将たちを集めて準備を進めた。

11日 秀忠が京都へ来ることを秀吉は聞いて感激し、子供の寒い時期の旅行は避けるように、補佐する家来たちに手紙を送った。

12日 家康は早朝帰国の途についた。

13日 上野の宇都宮三郎左衛門国綱の使者、岡本清五郎正親が京都へ来て、「自分はこれから秀吉につきたい。そして北条家と縁を切るために領内の田気の城にいる戸祭備中房興に密書を送り、北条に対して兵をあげる」と述べた。秀吉は大喜びして、岡本に上野の3千300石余りを与えた。

18日 家康は駿府城へ入った。秀吉は諸国へ命令を発した。天正17年12月秀吉.jpg

〇秀吉は、長束大蔵少輔正家に、下役人10人を付けて、年内に諸州の代官に糧米20万石をあちこちに貯蔵し、来年正月元旦以降に船に積んで駿河の清水へ運ぶように命じ、また黄金1万両によって、尾張から東駿河までの間で糧米を買い求め、小田原のあたりの海岸に着ける支度を必ず行うように命じた。

〇奥州伊南久川の城主、河原田治部大輔盛次は、手紙を石田三成に送り、「去る6月、蘆名義廣の会津が滅びてから家来が全て伊達政宗についてしまったが、盛次は累代の家名を汚さないように、横田の城主横田刑部少輔氏勝と共に国を守り、伊達と戦う積りである。ついては秀吉のサポートによって、近くの上杉景勝に連絡して、すぐに援兵を出す様にしてほしい」と要望したという。(この話は翌年の春に使節の僧が、京都へ行って秀吉に伝えたという)

〇この年、井上半九郎正就を秀忠の家来にした。この人は安倍大蔵定吉の子、井上半右衛門清秀の3男で、晩年の幕府の主計頭である。

〇高木善三郎守次(主水清秀の四男)と小林勝之助正忠(勝之助正次の子)が、初めて家康に面会して近臣となった。

〇五味太郎左衛門は、甲州比野郷の内40石を追加された。

〇旗本奉行の筧勘右衛門重成と山岡対馬守景佐が死去したという。

〇ある話では、山岡には兄弟が4人いて、長男は美作守景隆である。彼は小禄だけれども義理堅い人で、明智が信長を暗殺したとき、かねて妹を光秀の長男へ嫁ぐ約束があるほど光秀と親しかったが、光秀には同調せず、家康が大和から伊賀越えをしたときには、宇治まで迎えに来た人である。この人は今年の正月17日に61歳で死去した。次は対馬守景佐である。この人は天正11年、柴田勝家の部下で、秀吉に領地を追い出され、遠州や駿河に住んで家康に仕えていたが、今年死去した。
その次は八郎左衛門景友で、後の備前入道阿彌である。この人は円城寺の僧侶だったが、後に世俗に戻って甫庵を名乗り、慶長庚子の役(*関ヶ原の戦い)で家康軍として伏見で戦死した。

武徳編年集成 巻34 終(2017.4.23.)