巻38 天正18年6月

天正18年(1590)

6月小巻38.jpg

2日 武蔵の忍城の城主(10万石)の成田下総守氏長は、数100騎を率いて小田原城に籠っていた。一方忍城には、家来の柾木丹波、酒巻靱負、今村佐渡、同源右衛門、蓑田加賀、同次郎兵衛、小高右京、成澤庄五郎、鎌田次郎兵衛、布施彌兵衛、船橋内匠、松山惣右衛門、須賀出羽、大井主水、河原太郎兵衛、同次郎助、渡柳彌三郎、別府太郎兵衛、吉羽彦兵衛、浅生主水、箱田三郎兵衛、久下因幡、長野九右衛門、吉見喜三郎、荒木彌右衛門、池上新次郎、池守三之丞、犬塚兵蔵、寺井作十郎、熊谷次郎助、石原治部、西條五郎、中条修理、水越縫殿、手子林六郎など67騎が、留守番をしていた。

今回の籠城には、山伏や郷人の有志が総出で参加し、糧米や雑穀、柴、油、塩、味噌などを搬入した。

大手の行田口には、今村父子、布施、須賀、福島、大井、河原兄弟、渡柳、別府、吉田らと軽率50人、地下人などを合せて460余りが備えた。佐間口には、柾木、浅生、宮田、久下、長野、吉見喜三郎、安食四郎三郎、長井孫六郎、深谷平三郎などと、軽率45人、地下人、山伏、社人など合わせて400人余りが備えた。北谷口丸と馬出の間には、中條、荒木、池上、池守、前縄彌六郎、犬塚半左衛門、白河部民部左衛門などと、軽率が25人、地下人を合せて総勢250人余りで備えた。

裏側の下忍口の熊谷門には、酒巻、犬塚、寺井、西玄蕃、石原治部、土岐十郎三郎、秋田次郎九郎、曲澤庄助、萬吉新助、簗瀬太夫と軽率50人および地下人を合せて450人あまりが備えたが、皿尾口の左右には大沼があって道が狭いので、人数は少なくて良いと、船橋内匠、西條五郎、新庄左馬助、矢口喜三郎、蘭田市助と軽率15人を合せて150あまりの騎兵が備えた。

又、大谷口は、水越、熊谷、山本二郎九郎、佐垣猪右衛門、和田喜助、川上庄左衛門、成田小次郎、横瀬大学と軽率25人であわせておおよそ350騎が、外沼橋には、手子林六郎、大草平蔵、百々萬助と軽率10人で大体50騎程度が、沼橋には杉山傳蔵、秋庭三太夫、手本長十郎と軽率が10人でおおよそ50騎兵が、その他、成田門、太鼓門、荒井口の埋門は士が3人と軽率が50人、地下人とあわせて250騎あまりが防備した。城全体の備えは2410人で女子供なども616人いたという。

上方勢は少しずつ城の付近に陣を移動させた。長野口へは長束大蔵少輔正家、速水甲斐守時之、伊藤丹後守長實、中島式部少輔氏種、鈴木孫三郎重朝など6千ほど、下忍口へは石田治部少輔三成、堀田図書助勝善、野々村伊予守雅春、松浦太夫宗清など7千あまりだった。

先隊は下忍口へ進んだが、道幅が1間半ほどの狭さで左右が通れないので、城から退却して下忍の清水の郷に駐屯した。佐間天満口へは、大谷刑部少輔吉隆、中江式部少輔有隆、北条左衛門太夫氏勝(降人)など5千人ほどで攻めたが、明日から城を攻撃しようと陣を固めて夜を明かした。

城の内では意見がまとまらず、持田と大宮の口には兵を配置しなかった。

3日 未明から忍城へ寄せ手は三方から攻撃を始めた。しかし、道幅が2~3間もないので進退がままならなかった。下忍口の主将の酒巻靱負は、寄せ手が火砲で撃たれ劣勢になった時に、熊谷門を開いて敵に突撃し、寄せ手で討たれた者の数は106人に及んだ。

石田三成はすぐにほら貝を吹いて兵を引こうとしたが、道が狭いので多数の兵が左右の深い田へはまってしまった。城兵は攻勢に出て下忍の薬師堂の脇や大沼尻の忍の松のあたりまで、2町ほどを追撃してきた。

城方の死傷者を調べると、農夫が2人商人が1人軽率5人が死亡し、けが人はわずか7人だった。一方、寄せ手の負傷者は200人だったという。

長野口の城兵の足軽5人が頻繁に火砲を撃ち、農民や商人、神社の宮司など300人余りが城から攻め出た。その中に長野村の長久寺の末寺の長永寺秀範という人がいて、この人は太い樫の棒で振るって襲い掛かり、寄せ手の道案内の羽生竒西と館林の兵をなぎ倒した。その他、箕田小高、秋山、成澤、鎌田などの城内きっての将兵が活躍したが、この口も狭い道だったので寄せ手は難渋して散々な敗北を喫し、死傷者は40人にもなった。

天満口もさらに道が狭く、左には大沼尻の水の出口に橋を渡し、右には用水の堀があって、それ以外は沼田だった。そこで天満橋の際までは大谷吉隆が兵を進めて鉄砲を撃たせたが、戦果を得られず撤退した。

今回上方勢が攻めてくるというので、城では田の用水路を破壊し、水の出口に当たる正殿橋と川頬橋の下の2か所に堰を作って水を貯めたので、道路の他はどこも水没して、田も沼も区別がつかなくなりまるで湖のようになった。

城郭の東南には幅2町、長さ4~5町の大沼があり、西北にも同様に大沼がありそれ以外は深田だった。外郭と本城までには堀が九重になっていて、城の中の堀にも荒川の堤を切って水を引いて、湖のように湛えていたので、城下には1町も近づけない状況だった。

石田三成は麻呂墓山に登って城までの距離を8町2~3反だと見積もらせ、250文目(*匁)と300文目の弾丸を撃てる大きな銃で本丸を目がけて撃たせた。しかし、いかんせん城の中までは届かず、味方の佐間村の大谷吉隆の陣屋10軒ほどを崩して、78人の将兵が死亡したという。

〇ある話によれば、忍城が非常に堅固だったので、佐竹義宜、結城晴朝、佐野大徳寺、宇都宮国網と眞田昌幸といった秀吉方となった関東の諸将が、忍城攻めに加勢されたという。

5日 浅野と木村は岩槻の城を陥落させてから、浅野長政は今日忍城へきて、追手の長野口の外側に向った。

木村重茲は最初寄せ手の体裁を示すために、皿尾口へ兵を向かわせたが、ここは大沼を控えていて行も戻るも動きが取れないので、皿尾の郷、伊豆明神のあたりに駐屯し、それから皿尾の出丸を乗っ取り御所という地に駐屯した。(ここから皿尾口までは尚4~5町離れていた)

今夜、和田と三浦党は、小田原の城内の陣営を焼払い逃げ出した。

6日 石田三成は1人で手柄を上げようと、部下の堀田、野々村、松浦など7千あまりで下忍口に押し寄せ筏で大沼を渡らせた。しかし、沼の向こう岸には2間ほどの細い道があり、その向こうが堀で、筏のまま乗り込むことができなかった。そこで筏から降りて筏を向こう側の大堀に投げ入れてそれに乗って攻め込もうとした。しかし、城から火砲で激しく撃たれ、戦死者が多数出た。更に城門を破ろうとすると、石を落とされ死傷者が大勢出た。

その時四方から寄せ手が同時に城を攻撃すると、城兵も応戦した。ところが三成は手柄を独り占めしたいが為に、他の口から攻め込んだ味方を寄せ付けなかった。城兵は早鐘を撞いて内沼橋、外沼橋、大宮口の城兵の一部が集まり、火砲を激しく撃った。また、寄せ手が退却の気配が見えた時を見計らって、酒巻靱負が城から突き出て上方勢は大敗北を喫した。数え切れない兵が沼に落ちて死んだ。酒巻は大手柄を挙げてさっと城へ兵を引き入れた。

佐間村に駐屯していた大谷は、石田から何も連絡がなかったが、気の通じた仲なので天満口に攻めてきた。しかし、柾木丹波が激しく防戦したので思うように攻められず、大谷もむなしく撤退した。

浅野長政は火砲の音を聞いて斥候を送り、石田と大谷の戦いぶりを確かめさせ、それから城を攻撃する作戦を考えたが、時間がかかってその時の戦いには間に合わず、長野の外張りを攻めた。

長束は浅野勢を当てにできないので、田を越え、堀を渡って塁に登って柵を破って城兵の固めている虎の口の後ろで勝鬨を上げると、箕田、小高、秋山、成澤、鎌田が応戦して防衛し、長束の兵を城の中へ引き込んで撃破しよう外張りの虎の口を棄てると、浅野勢がすぐに乗り込んで成澤庄五郎や小高右京などと、軽率、農民、商人など100人ほどを討ち取った。

城方の長永寺秀範は、勇敢に戦ったのでこの口を攻めた行田口から退却した。寄せ手は追撃したので、蓑田兄弟と鎌田、秋山、長永寺らは橋詰めで残って苦戦した。そのとき秋山と鎌田は命を落した。

その時、行田を守っていた今村佐渡が救いにきて、その子源右衛門など200余りが突き出た。そして浅野の寵臣の先隊の武将、沖 小平太を城兵の福島式部が討ち取った。又、天満口から柾木丹波は、足軽20人ほどを秘密の道を通って寄せ手の後ろへ回し、火砲を発して裏切りが起きたと叫ばせると寄せ手は撤退した。

石田は浅野が手柄を上げたことを妬んで、自分の兵を出さなかった。彼は最初の戦いでは死傷者が千人を越え空しく撤退している。お陰で浅野と長束勢の死傷者は600人を越えてしまった。

今日、石田、大谷、浅野、長束は三度目の戦いを城へ挑んだ。城兵は自由に互いの持ち口を助け合って戦功をあげた。木村常陸介は浅野に続いて城へ攻め込もうとしたが、左右が沼田の細い道で早く進めなかった。そこを城内から舟橋内匠に300匁の大銃5発を撃ち込まれ、10人ほどの戦死と多数の負傷者が出たので、攻めた意味はなかったという。

8日 秀吉の命令で、堀左衛門督秀治は氏直に武蔵と相模を与えるので和睦しないかと要請させた。一方、秀治は小田原城の北条の家臣、松田尾張憲秀へ密書を送り、「かねての計画通り寄せ手を城へ呼び入れて、北条父子を滅ぼせれば、武蔵と相模を憲秀に与える」という詳細な計画を伝えた。

9日 前に石田三成が麻昌墓山に登って忍城をよく眺めた結果、土地が低いので水攻めが有効だとして、「忍城の城下に来て土を運んで堤を築け、昼の労賃は一人当たり米一升と永楽銭50文、夜の場合は米一升と100文を与える」と近所に宣伝した。

近くの村の人々は、みんな集まって今晩から熊谷堤の際から建設作業を始めた。

この計画は、吹上、鶴間、前綱、三つ木、箕田、川頬、堤、樋上、渡柳、崎玉、持田、長野、小見、白川、戸和田、上池守、下池守、土手、大井、棚田、久下、柿売、新田など、忍城の周辺の全部で25の村におよぶ長さ3里半、高さ1~2間、幅が6間の堤を建設し、利根川と荒川の堤を破って水を貯めて城を水攻めにしようとするものだった。

彼らは昼夜兼行で作業をすすめたが、城では水攻めが効果のない理由を知っていたので、むしろ人夫を出して金を稼がせた。

石田三成の監使はそれを見つけて三成に報告した。三成は「これは城兵が田舎者の浅はかさで水攻めによって自分たちがおぼれ死ぬのも知らずに、米や金をむさぼり取るために、下卒を人夫に紛れ込ませているように思える。そいつらを選んで斬り殺すのもいいが、他の人夫が怖がって来なくなったら作業に支障が出るので、ここは放置して早く堤を完成させよ」と命じた。ただ、秀吉が備中の高松や、美濃の加賀野井の水攻めの真似をしたのだが、秀吉の功名なやり方は三成のものとは雲泥の差があったようだ。

14日 昼頃にこの堤が完成して、利根川の江原の堤を破ったが、水が思うように引き込めず、石原で荒川をせき止めて熊谷の西から忍城へ水を引こうといろいろ工夫をして人を浪費してしまった。

〇今夜、小田原城で松田憲秀は一族を集めて、「秀吉の強大な力で関東の八州は陥落し、ただ小田原だけが残っているがその内落とされるだろう。自分はもともとこれがわかっていたので、堀秀治から秀吉に通じてOKが出たのだが、もし裏切りがうまくいけば、伊豆、相模を恩賞としてもらえるという確約を得ている。そこで明日15日の夜に、細川、池田、堀の三隊を城へ引き入れ謀反を起こす」と告げた。

嫡子の笠原新六郎政堯、三男、松田弾三郎秀也、婿の内藤左近、松田肥後はみな同意した。ところが、次男の松田左馬助秀治は、非常な美男で色気のある人で、氏直に非常に愛されていつも傍にいたが、彼はその話を聞いて「父が謀反するとは悲しいことだ。松田家はもともと北条家5代にわたる老臣として、東海で富を集め、城は八州に及び恩恵を被っている。仮に秀吉の命令だとしても、今更裏切るのは道義に反する行動であろう」と切々と諫めた。

憲秀は怒って、「自分は齢をとって今更出世なんぞ望んでいるわけではない、ただ子孫が繁栄することを願ってこの計画を考えたのだ。お前が自分のこの意思を妨害するのは親不孝も甚だしい奴だ」と述べた。しかし、左馬助が承知しないので、その場はひとまず猶予して「父の志に従え、ただ明日は決行しない。明後日の16日の夜に延期する」と述べた。一同はそれを了承した。

そこで左馬助は今夜、鎧を入れる櫃に入って城へ帰って氏直に「父の尾張の命を助けてくれるのなら、大変な事態を明らかにしたい」と述べた。それを氏直は彼に堅く約束したので、秀治は涙ながらに憲秀の謀反の件を話した。氏直は驚いて秀治の忠誠に礼をいった。

15日 氏直は松田尾張を城へ呼び出し、陸奥守氏昭と板部岡江雪齋から「お前の野心について敵方から連絡する者がいたので真偽を確かめたい」と尋ねさせた。憲秀は「これは敵の謀略によって主従の間を割って混乱を起こそうとしたことに違いない」と答えた。2人は「お前の子の左馬助が連絡してきたことだから観念せよ」といったので憲秀は屈服した。彼はすぐに牢に入れられ、その役所の軍勢は入れ替えられた。笠原新六郎はまたやるかもしれないのですぐに斬り殺された。

今日、上杉景勝は荒川の北方の桜田まで出陣し、前田利家は荒川の瀬に沿って3里進軍した。明日鉢形の城を攻撃するためである。それぞれから8千余りの兵をだして、八王子の城を抑えて後援を断った。上杉方の藤田信吉は北条安房守氏邦に恨みはあったが、何度も和平をして領地を確保した方がよいと勧めた。すると安房守は、「領地などどうでもよい。氏政父子が滅びると自分がいい目をしても意味はない。ただ城の中にいる人々の命だけを救ってほしい」と答えた。藤田信吉はすぐに景勝と利家に連絡して、その約束を守って氏邦を降伏させて鉢形城を受け取った。

16日 小田原の寄せ手の池田、細川、堀などは、(*松田と約束した)時刻に出陣して城内へ入ろうとした。しかし昼間なので城の兵の紋が皆違うのが分かって、松田の謀反がばれたことに気付いた。

〇出羽の由利の戸澤治部少輔盛安は、小田原の前線で病気によって危篤になった。遺言で「息子はまだ6歳なので戦はできないから、弟の平九郎政盛に家督を譲りたいと述べ、秀吉はそれを許した。盛安は今日とうとう亡くなった。享年22歳だったという。

〇この日、忍城の水かさが増えて、寄せ手が攻めてくる心配がなくなったので、城兵は安心して過ごしていた。しかし土地が低いところでは水が床上まで来て、雑卒や奴隷は床に戸板を置いて水を避けたが、蛇やネズミが寄ってきて困った。寄せ手はこれほど城へ水が来るとは思わなかったので、皆が溺れてしまうのではないかと憐れんだ。

17日 氏直は松田秀治を呼んで感謝状を贈った。天正18年6月17日秀吉ー松田左馬助.jpg秀治はこれをもらって何度も父の命を救ってくれと頼んだが、許されなかったので、彼は氏直を非常に恨んだ。

18日 深夜から暴風雨となって、忍城の城下に新たに作った堤が水でいっぱいになり、真夜中には川頬のあたりで堤が数か所決壊し、寄せ手の陣営の60~70軒が押し流され、270人ほどが溺れ死んで、城の周辺の道路は深い泥道となった。一方、城の中はなにも損害がなく、寄せ手は総攻撃ができなくなった。このため石田の努力は徒労に終わったという。

今日、利家と景勝は小田原へ行き秀吉に面会した。秀吉はあまり褒めてくれなかった。2人は変だなと訝った。その夜、秀吉は「彼らは敵の堅固な城、松枝や鉢形などと小さな城を多数落としたのは良いが、7~8の城の内もう1つや2つは取れた筈である。一威一宥(*攻めたりなだめたり)すべきもので、落とすばかりを考えていてもだめだ」と近臣に話したという。近臣はそれを彼らに伝えると、利家と景勝は非常に落ち込んで、すぐ小田原を出ることを申し出て、八王子の城を落とそうとした。

〇ある話では、前田、上杉は、小田原から八王子へ戻るとき、秀吉は木村重茲を呼んで、彼らは八王子の城を自分勝手に攻めようとしているが、お前は彼らをよく指導して兵に損害がないようにせよ」と命じた。

20日 小田原の城に立てこもっている成田下総守氏長は、連歌を好んで添削を京都の紹巴法橋に頼んでいた。秀吉の執事の中山橋内長俊(後の山城守)もその道に通じて以前から成田と文通していた。秀吉はそのことを知って長俊に命じて、今夜密使を城内へ派遣し手紙を送って謀反を勧めた。氏長はそれに応じて返事を送った。

22日 小田原城の出曲輪で、福門寺跡地の條曲輪から攻めている松平周防守康重は、甲州の金掘りを呼び寄せて潜入させた。家康の家来の井伊兵部少輔は康重の隊長だった。彼は時宜を見てこの丸を乗っ取るように密命を受けて、家康は城を巡視してから、康重と牧野右馬允康成の隊は一日交替で濠の水を抜いて海へ流す様に命じたので、両将はその作業に専念した。ところが今宵の暴風雨で城の中の堀が突然崩壊し柵が倒れてしまった。井伊直政は家来の近藤石見守康用にその様子を見させ、堀に橋を架けて兵を進ませた。

康用の子の登助と秀用が最初に攻め込んだ。匂坂傳蔵、近藤勘助、同金左衛門用政が続いて突入した。城兵は法螺や鐘をたたき、松明を灯して防戦した。すでに命じられていたように、城では城の夜番の内の二つの隊200人ほどが救援に来た。

味方の小林勝之助正次が、敵の小幡の兵が槍で戦った。山田十太夫重利、小幡孫二郎在直と家康の旗本の浪人と直政の家来脇五右衛門、辻甚内が城へ先に攻め込んだ。

小笠原安芸守信元の20人が奮戦した。

今夜の嵐によって城の塀の壁が急に倒れたので、雨がやんですぐに直政が攻めた。そのため時間がなくて、他の隊への連絡ができず、後続の部隊がなかったので、井伊の隊だけが非常に疲れ、夜だったこともあって目標がよく見えず仕方がなく隊を三段に分け撤退の合図をして引き取った。

敵方の武将、山角紀伊守父子が城門を開いて追ってきたので、井伊の部下の細田勘三正時など甲陽の部隊が100名ほど命を落とした。

家康の旗本の軽率70人を率いる頭である小林勝之助正次(後の平左衛門)が後殿し、池野水之助の家来が水堀に落ちたのを引き揚げて静かに退却した。正次は奮戦したが、槍の先を折って傷を受けながらもこのように活躍した。彼は実に人に混じっている「鬼」だと直政は感心した。

山角父子が更に突撃してきた。直政は地形を最初からよく見て、300人の伏兵を置いて城兵の退路を遮り、急に襲い掛かった。

近藤登助と匂坂傳蔵は引き返して城兵を突き退却させた。登助は小屋陣内を討ち取り、首一つを取った。彼の部下の木村吉右衛門勝綱が活躍した。伏兵の頭の西江藤左衛門、椋原治右衛門は、うまく指揮して城兵は大いに狼狽して八方に逃げて、多くが水堀に落ちた。山角父子はようやく城へ戻った。

今夜の城攻めで直政方の雑兵の310人ほどが戦死または堀に落ちて死亡した。また、400余りの敵の首を取った。

23日 家康は井伊直政の昨夜取った首400余りを秀吉へ送ったところ、秀吉は「3月以来小田原攻めの間に砦を築いたり火砲を撃ったりして攻撃したが、槍や刀での雌雄を決する戦いをしたのは直政だけだ。これは長い戦いの眠りを覚まし、味方を競わせるにこれ以上のものはない」と感激した。そうしてすぐに笠掛山に近藤登助(27歳)などを呼んで、近藤には優秀な南部馬と紅梅の裏のついた胴着を与え、匂坂傳蔵が一番首と退却時の首の2つを取った功績によって、いい馬を贈った。小林勝之助には家康が長刀を贈った。

武蔵の八王子の神護寺の城主、陸奥氏昭(初めは氏照)は、小田原城に立てこもっていたが、家来には勇士が多く城を守っていた。利家と景勝の考えで、北条家の落人の北条安房守氏邦が城中へ使いを送り、「小田原はすでに陥落し、八州は全部秀吉に降伏した。早く城を出て氏昭と一緒になるべきだ」と説得した。

城将の中山、狩野、近藤らは同意せず「氏昭がすでに投降しているのであれば、手紙で城を出るようにという指示があるはずである。それがないのに降参すれば、恥をかいて後に非難されるのを避けられない。氏邦、大道寺のような臆病者のいうことなどに同意できない。彼らのような「へたれ」はこの城には一人もいない」と答えた。利家や景勝も感激したが、攻めないわけにはいかないので、彼らは上州と武蔵の落人を先鋒として1万5千余りの兵で深夜に進軍し、夜半に横山へ着いた。そして明け方に八王子の町の柵を破った。城までは相当離れているので、城兵はこのことを知らず、城の守備が薄くすぐに城の際まで迫った。

この城の本丸には氏昭の長臣の横地監物、中の丸には中山勘解由家範、一庵郭には狩野一庵、金子丸には金子二郎右衛門家重、山下郭には近藤出羽助實は立てこもっていた。

早朝に利家の先鋒、岩槻の落人、横地左近が大手口に行き矢による戦いがあった。裏手へは家上杉家の先鋒で落人の大道寺駿河守政繁が向かった。

景勝の魁の長、藤田信吉の家来に平井無邊という八王子の出身の人がいて、藤田は彼を道案内にして、東の渓間水手道を伝って、三の丸と一庵郭に登りバリケードを取り除いて、平井が一番乗りを決めた。

裏側からは景勝の先鋒、安田上総介順易が競って攻め込んだ。大手の利家の前線へは、城から横手監物が200人ほどで突き出て来て寄せ手を突き崩した。

城兵の山本太郎左衛門が一番槍になり最も名をあげた(後は上杉家に仕えた)。狩野一庵の持ち場が崩され、一庵は屋敷に撤退し、そこで何とか防戦して踏みとどまった。その間に藤田の隊の甘糟備後守清長はその屋敷の裏へ回って家に火を放って攻め込むと、一庵や近藤出羽助實、金子三郎左衛門家重は精一杯奮戦しただが、とうとう自殺した。

安田上総介も表口から乗り込んだが、城将の横地監物が火の手が上がるのを見て死に物狂いで抗戦したので、寄せ手に討ち取られるものが出た。

前田利家の一族の中川武蔵守光重は、厩橋城を敵から受けとってそこを守っていたが、少人数の兵を連れてこの戦いに参加し、戦況を眺めて、味方が崩れる左から城兵を襲撃した。そこへ前田慶次が大軍を率いて参入し、利家は中の丸へ攻め込んだ。中川勘解由家範は何度も戦いに出て、特に八条修理亮満朝の騎馬法を伝え持った武将で関東八州随一の武将である。彼は大敵に屈することなく城の傍まで敵を引き寄せ、矢や火砲を発して寄せ手を数百人撃ち殺した。

利家の家来、大音藤蔵が最初に突入して首を取った。続いて雨森彦太郎が首を得て急いで利長の前に帰って「一番首は大音である。自分は2番首である」と述べそのように記録された。利家はそれに感心した。その時大音は利長に叱られたが、数回名前を叫んでいたので彼が一番乗りだったことが分かった。

中山勘解由は200人ほどの兵と数回戦ったが、次第に兵が討たれて15~16人に減ってしまった。利家は彼の戦いぶりを賛美し、「誰か彼に関係のある者はいないか?」と尋ねた。松山の落人の根岸主計定直は「自分は山田伊賀守直安の婿で中山とは相婿である。また、小岩井雅楽助は家範の馬術の弟子である」と述べた。利家は「中山の戦いぶりは目立っている早速味方になるように連絡するように。また彼を殺すのは忍びないと伝えよ」といった。

両人が城へ入ると、すでに家範は自害し、妻も自殺したがまだ息があり、話をしてから駆け戻ってそのことを利家に報告した。利家は非常に悲しんだ。前田の兵数十人が中山によって殺された。

城の裏側を攻めた上杉の前線では、藤田能登守が二の丸へ攻め込み、堀の傍で神保五左衛門が一番首を取った。

夏目舎人定吉は、藤田の旗本50騎と自分の兵を連れて本城の外張りの際まで進んだとき、城からは尾谷と名乗る武将がとびだしてきた。夏目は彼を突いて大津主膳に首を取らせた。

城兵は今日を限りの死戦と心得、寄せ手はさすがの上杉の強い武将で、往復2回の激戦となって城兵の多くが討たれた。残兵は木戸を閉じた。しかし、夏目舎人が城へ攻め込んだとき、門の扉に肘金(*蝶番)を見つけ、すぐに外させて城内へ攻め込み本丸に景勝の旗を立てた。

景勝は一庵曲輪に登って焼け跡に陣取り、七手組の各廓へ行かせて午後に首実検を行うと、宗徒の士21人、首の総数は373に及んだ。

今城へ攻め込むと、大手には中山勘解由の家来たちが死に物狂いで抗戦したので、時間がかかったものの、結局中山の兵35人の他280程の首の中には宗徒の首も多かった。利家の部隊は大きな成果を得て、それぞれは小田原へその成果を報告した。

城将の内、横池監物は斬り殺された。しかし関東には裕福な諸侯が多く、名城も少なくない。北条関係の家臣の城もまだ残っている。

伊豆の韮山の他はすべて落とされた。北条の家臣が抗戦しているのは、小田原と岩槻、館林、忍だけである。

中でも八王子の城を守っていた武将たちが全て城の中で戦死したことを家康は感激して、小田原の城が落ちた時に最初に城の中に残っていた中山家範の嫡子、助六郎昭守、次男の左助信吉を御家人にした。

助六郎は後に勘解由と改め、父を継いで馬術を磨き、秀忠の師範となって、お使い番を務めた。その子助六郎信守は、大阪の陣で大活躍し恩賞を得た。そしてついには水戸黄門頼房の長臣となって、備前守に任じられた。狩野一庵の子の主膳も同様に家康のご家人に加えられた。

25日 利家と景勝によって八王子の城が落とされたとき、捕虜となった男女は小田原へ送られた。秀吉はこれを小舟5~6隻に乗せて城の近くに浮かべた。

城で海を監視していた士は「あれは八王子から来たらしい。一昨日23日に城が取られ城兵は皆戦死したが、その母や妻を捕虜として連れてこられている。あれが誰の母で、あれが誰の妻だと200人余りの名前を叫んだ」が、城では敵の計略だろうと受け入れず、「船はさっさと帰れ」と火砲を発した。

そこで秀吉は、今度は中山と狩野の首を城下へ持たせて河原に捨て置いた。中山勘六郎と狩野主膳は父の首に会いに行くと叫んだ。二人は実に勇気のある武将だったので、悲しんだが他の武将たちは勇気が萎えてしまった。

26日 秀吉の命令で、小田原城の四方から火砲を一度に浴びせ、城の兵を負かしてしまったという。

〇この日、秀吉は黒田勘解由孝高入道如水と羽柴下総守勝雅を数回城へ派遣して、武蔵と相模の両国を確保して降参するように命じた。

氏政は「自分はこれまでいくつもの国を治めてきた。今その2つだけをもらうぐらいならこの城で死にたい」と答えた。そこで秀吉は、浮田秀家に攻め口の武将の十郎氏房に対して、何度も和平を提案させ、ついに秀家は氏房に面会することに成功した(『続武家閑談』に詳しくこのことは書いている)。

岩槻の城を落としてから前田利家は、十郎氏房の妻の実家からの書簡を氏房の家臣の葛原三右衛門にも持たせて、小田原に派遣した。氏房はその手紙を読み「三右衛門から八州の諸城の内、八王子、岩槻、忍、館林の他はすべて無血で投降したと聞いた」と氏政父子へ報告した。また秀吉は成田下総守が秀吉につくという書簡を場内へ送った。

このように味方の多くが秀吉に降りたという連絡を受けて、氏政父子は慌てて使いを成田へ何度も使いを送って招いたが、病気だとして来なかった。しばらくして、忍城が大軍に包囲され危機に瀕し、家臣たちは妻子が殺されるのは忍びないと、山中橘内長俊を通じて降伏することを秀吉に伝えた。これを知った氏直はすぐに山上郷右衛門顕将に8千の兵を付けて、成田の役所の四方に柵を設けて守らせた。しかし、どうしようもなく、結局秀吉が最初から計画した通りに氏政は和平をすることになった。

〇ある説によれば、黒田如水は家来の井上平兵衛に命じて城へ酒一樽、糟漬の「ほうぼう」10匹を贈って、数か月の籠城の労をねぎらった。氏政はすぐに北条陸奥守をその使者に対面させ、感謝の意を伝えた。そして攻め手も長い戦いで疲れて飽き飽きしているだろうから、これで城を攻めてはどうかと、鉛10貫、火薬10貫を礼として贈った。その後、如水は刀を持たず、肩衣袴で登城し氏政に対面してしきりに和平を口説き、氏政もようやく承諾して、如水へ「日光一文字の刀」と「東鑑の書」を贈ったという。

武徳編年集成 巻38 終(2017.4.29.)