巻39 天正18年7月~8月 北条氏政・氏昭自害

天正18年(1590)

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家康は、朝比奈彌太郎泰成を使いとして北条美濃守氏規に重ねて手紙を送り、「3月から今日まで城に籠って防戦してきたのは見事である。しかし、早く韮山の城を出て、小田原城へ行き、氏政父子と武蔵と相模の領土を守って、家を安泰にする相談をするように」と勧めた。しかし、氏規は「氏政と氏直が秀吉に降伏すれば、家臣である自分は拒否できない。したがってこの城の行方は、氏政父子の考え次第だ」と断った。家康は又内藤三左衛門信成を派遣して、熱心に説得した。

一方、秀吉は誓約書を送って、「すでに氏政父子とは和解をして、武蔵と相模の領地は保全する運びになったので、氏規も小田原へきて手続きをするように」と再三要請した。そこで氏規は韮山の守備は残して、少数の兵を従え、氏政父子が約束通り和睦をしているかどうかを確かめるために、小田原城へ向かった。

5日 北条氏直は秀吉の罠に落ち、人質も取らずに山上郷右衛門顕将と諏訪源次郎定吉(後の宗右衛門)を連れて城を出て、家康の陣まで来て、「秀吉が温情をもって氏政や城兵を殺さなければ、軍門に下りたい」と告げた。家康は「氏直は自分の婿なので、遠慮した方がいいかも知れないが、氏直が羽柴下総守勝雅の陣へ行って、この条件を秀吉に伝えてもよい」と述べた。

そこで氏直はすぐ勝雅の陣へ出向いて、この条件を申し出ると、勝雅もすぐに秀吉に伝えた。秀吉は、「氏政はもとより籠城している男女をすべて許して上総と下総を与える」と約束したので、氏直は喜んで明日に城を明け渡すという約束をしたという。

6日 明け方のこと、氏直は坂部岡江雪齋と笠原越前守に命じて、松田尾張憲秀を自害させた。松田の家臣の岡部小右衛門吉正が介錯した。(彼の遺骨は吉正が高野山へ運んだ)こうして氏直は深夜に家康の陣へ来た。

北条美濃守(*氏規)は和睦の話し合いができると思って、渋谷口から小田原城へ入ると、「今朝、氏直が城を出た」と聞いて仰天して、韮山へ引き返し城を固く守った。しかし、氏直は手紙を送って、「速やかに秀吉に降伏するように」と命じた。そこで内藤三左衛門信成と阿部伊予守正勝および秀吉から派遣された石川兵蔵一光と新庄新三郎に、城を明け渡し、秀吉の陣所へ行った。

7日 家康陣営から井伊、本多、榊原の三傑と、秀吉の監使の片桐東重正直盛(後の且元)と脇坂中務少輔安治が、小田原城を受け取り、今日から9日までに囲いを解いて、城内の男女をすべて退出させた。脇坂と片桐らが4つの門を守護し、味方の兵が乱暴を働かないように制した。

小笠原輿八郎長忠は、去年家康を裏切って勝頼について、甲州が落ちた後は小田原で今までいたが、家康は彼を斬り殺した。尾藤甚右衛門戸知益は秀吉の家来だったが、日向の高城根白の戦いで、宮部善祥坊が危うい時に助けなかった罪によって、讃岐の領地を召し上げられて追放され、今小田原に住んでいたが、秀吉は彼を殺害した。

9日 氏政と弟の陸奥守氏昭は、医者の田村安楢の宅へ移った。

秀吉は家康に、「自分が今回東国を攻めてきたのは、北条を滅ぼすためだ。ここで一族全員を救済してしまうと自分がいってきたことが嘘になるようなものだ。自分は氏直、氏規、氏邦、氏勝は許すが、氏政と氏昭は殺す」と告げた。家康は「自分としてはどうしようもない」といった。

10日 家康は自分の軍を連れて、小田原城へ入った。

11日 秀吉から中村式部少輔一氏、石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政と、家康から榊原式部大輔康政が、田村安楢の宅を訪れて秀吉の命令を伝えようとしたが、氏昭は事情を察して、風呂へ入る暇を乞うた。氏政は辞世の頌と和歌を詠んだが、その時、52歳だった。

今氏政 採 吹毛剣 哉 被 乾坤 帰 那箇 
(*「氏政は、今刀を携え、一か八かでどこへ帰るのか?」といった意味か?)

雨雲の覆へる月も胸の霧も 拂いにけりな あきのゆうふかせ
我身いまきゆとやいかに思ふへき 空よりきたり 空へかへれは

氏昭は50歳で同様に和歌を詠んだ。

天地の清き中よりうまれきて もとの住家に かへるへきかな天正18年7月11日氏政・氏昭辞世句.jpg

2人は自害した。美濃守氏規は2人の兄を介錯し、自分も自殺しようとしたが、検視役が「秀吉の命令は氏政と氏昭だけだ」としきりに制止しようとしているとき、氏昭の首を小姓の田角牛太郎定吉が盗んで逃げだしたが、捕まった。

秀吉は氏政の首を確かめて「こいつは自分の命令を恐れない罪人だ」といって、石田三成に命じて京都へ運び、一條戻橋にさらさせた。

家康は、山角牛太郎の忠義に感心して御家人に加えようといったが、彼は固辞した。しかし、三度目には受け入れて、暇をもらって氏昭の首を火葬させてもらい、骨を紀州の高野山へ運んで納めてから、関東へ帰って家康の近臣となった。彼は武蔵の多摩郡 関戸で領地千石をもらった。(この人は上野定方の婿孫で、後に藤兵衛と改名した)

12日 北条左京太夫氏直、同美濃守氏規、同左衛門太夫氏勝、松田左馬助秀治、大道寺孫九郎直政、山上郷右衛門顕将、諏訪部源次郎定吉、岡野三右衛門房次、内藤左近、富永喜左衛門正吉、金田大膳など30人と、付き人合せて300人は秀吉の命で紀州の高野山へ赴いた。氏直には500人扶ちを与えた。

13日 秀吉が小田原城へ入った。氏直の妻は家康の娘なので、氏直は彼女を小田原の城へ置いて、坂部岡江雪齋に護衛させた。江雪齋は、彼女を御家人に預けたことを氏直の家に行って報告した。

後日、家康は秀吉の命に従って、高力河内守清長と成瀬藤蔵之成(後の伊勢守)から江雪齋に命じて、「お前は去年北条の使いとして京都へ来て約束したことをすぐに破って、上州名胡桃城を落とした。これは氏直の策略だったのか、それともお前が企んだのか」と尋ねさせた。

彼は「秀吉に対面して直に説明する」答えた。両使いは帰ってそのまま秀吉に報告した。

秀吉は激怒して、庭に鉄の柵を設けて江雪を呼び、刀をもぎ取って左右の手を引っ張って庭の上に引き出し座らせて、「お前は前に約束したことを破っている。実にけしからん家来だ。我が大軍をもってお前の主人を滅ぼさせて、それでハッピーなのか!」と怒鳴った。

江雪は「もとより氏直に策略があったわけではない。周辺の士が井蛙の智で(*目先の利益だけで)名久留美(*胡桃)を乗っ取ったので戦いになっただけの話である。結局、北条家が滅んだのは力不足で運命だ。しかし、秀吉が大軍によって北条家を滅ぼしたのは、北条家が考えていたことと大差ないじゃないか。それを家臣としてどうせよというのか。これ以上何もいうことはない。さっさと首をはねるがよい」といったという。

秀吉は厳しかった顔を和らげ、「お前の罪は都で磔にするに値するが、囚われの身ながらもいうべきことは言って、しかも主人を辱めることなく実にあっぱれである。それに免じて命を救おう。心を改めて自分の家来となれ」といって彼を赦免した。彼は秀吉の命令で、板部岡を改め「岡部」となって、以後は秀吉と親しい家来となった。

〇秀吉は家康の貢献に対して、当時家康が支配していた三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国に加えて、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野、安房を領地に加えた。

安房の里見安房守忠義と上野の宇都宮三郎左衛門国網、皆川、秋元などの土地の士は、自分の領地を引き続き与えられ、すべて家康の支配下に置かれた。

家康が京都へ行く道中で猟を楽しめるように、秀吉は近江の石部、伊勢の関の地蔵、四日市の市場、石薬師、庄野、遠州の白須賀、中泉、興津の8か所に各千石、また駿河の島田に1千石、また京都滞在費用として、近江の守山あたりの9万石を、家康に与えた。

秀吉は大久保七郎右衛門忠世を呼んで、「お前は徳川家の最も重要な家臣だ。だから小田原城と箱根山と合わせて家康にもらえ」と告げた。

また、秀吉は家康の領地5か国に織田内府信雄を封じたが、信雄は断って今まで通り尾張と伊勢を領地としたいと望んだ。秀吉は怒って「信長の子だから要地5州に封じようというのに、これを拒否するとは国を治める器ではない」といって、信雄を出羽の秋田へ流し、尾張と伊勢を諸将へ配分した。

尾張と北伊勢の5郡:長男の三好黄門秀次、
三河の吉田15万石:池田三左衛門輝政、
三河の岡崎5万石:田中兵部少輔吉政、
遠州の濱松12万石:石堀帯刀吉晴、
遠州の掛川5万石:山内対馬守一豊、
遠州の横須賀3万石:石渡瀬左衛門佐詮繁、
駿府、田中、沼津など14万5千石:中村式部少輔一氏、
甲州一円:加藤遠江守光泰、
信州の木曽山:石川備前守貞清を代官とする、
信州の佐久郡 小諸5万石:仙石越前守秀久、
信州の伊奈郡 高遠3万石:京極修理太夫高知、飯田8万石:石毛河内守秀頼、諏訪郡3万石8千石:日根野織部正高吉、筑摩郡深志8万石:石川出雲守数正(伯耆守のことである)
以上に秀吉は領地を与えた。

〇ある話では、この時浅野弾正少弼は、領土を2倍の増分をもらって、甲斐の国主とされたとあるが、これは大間違いである。これは文禄年間に加藤遠江守光泰が朝鮮国で死亡して、その国が浅野に与えられたものである。これは明らかである。

〇織田信雄の長臣の滝川下総守勝雅(羽柴と号している)は、秀吉の直臣になり、伊勢の神戸2万石を以前の通り領土とした。同じく木造左衛門佐長正は2万5千石をもらって、岐阜の黄門秀信の家臣となった。同じく丹羽勘助氏次は、家康を慕って息子の勘六郎氏資を前から傍に行かせていたが、後に氏次も家康の家来となった。

〇この日、伊達政宗は、去年奪い取った会津の黒川を退いて、元の領地の米沢城へ移り住んだ。

先日、政宗の家来の郡山右近を案内人として浅野長政の家来の浅野六右衛門が、一緒に秀吉の使いの木村伊勢守秀俊が会津へ赴いた。

会津の領主、蘆名平四郎義廣は、小田原の戦いに参加したが、「政宗に奪われた領地を秀吉が没収したので、義廣が持っていた会津の4郡を返してほしい」と訴えたが秀吉は認めなかった。秀吉は彼をしぶしぶ従5位下に叙し日向守に任じた。義廣は浪人となって水戸に住んだ。彼の部下の河原田治郎少輔盛秀は、去年から秀吉へ使いを送って挨拶していたが、秀吉の奸臣の石田三成は、盛秀が自分にいい顔をしないのにむくれて、彼に領地を与えることを推さなかった。

その他、那須太郎資晴は、野洲、那須、鳥山、善連、川泉、山田、宇都宮、追旗、鷺宿など8万石分を召し上げられ、浪人となった。幕下だった太田原、福原、大関、蘆野、岡本、伊王野の6人は、最近秀吉に聘使を送ったので、それぞれ近臣になり領地ももらって家康の家来に加えられた。
千本大和守義政は、去年領地の内の7か所の村を没収すると、秀吉に宣告されたが、小田原へ参戦したので、再びその土地をもらった。

〇下総の古川の御所右兵衛督義氏は、去る天正10年12月21日死去したが、継ぐ子がなく家は絶えた。秀吉はこれを聞いて、関東御所基氏の子孫が絶えるのを惜しんで、今回生實御所左兵衛督義明の嫡男、右兵衛督頼純の息子、国朝に遺領を継がせて、義氏の娘を妻にし、上野の喜連川の5千石を与え左兵衛督に任じた。彼は家康の賓客とされた。

秀吉は、宇都宮三郎左衛門国網には本家の鎮西の城井常陸介鎮房父子が去年滅び、その領地が常陸や下野、陸奥に散在していたので、その仔細を報告するように命じた。しかし、国網は偽って「城井の親方が滅びる前からこの地にあるとされる土地は、伊達、佐竹などが奪って、今自が持っている土地1千800町だけである。また家来の芳賀伊賀守の土地600町も、彼の代々土地に間違いない」と答えた。しかし、身内でいざこざが起きてその芳賀が独立を企て、秀吉に密かに訴え、「国網の土地は宇都宮大明神領の600町だけが数代受け継いだもので、上野の益子、壬生、常陸の笠間、奈川、真壁、鹿島、信太、小栗、坂戸、真岡、陸奥の小田、白川あたりに散在する宇都宮の領地は、皆、豊前の本家が代々受け継いできた土地である。国網は去年から自分や一族の郷士を家来にしたのだ」と事細かく報告した。

秀吉はすべてを了解したが、今は奥羽の奥がまだ十分治めるには至っていないので、国網の件は咎めず、彼の家来の樹木小右衛門を案内人として、国網の諸領を調査し、浅野長政と石田三成を調査官として、前田利家に命じて彼の54郡を検地させた。

上杉景勝は今月下旬会津の黒川へ向かい、政宗から城を受け取り、その他政宗の持っていた城をすべて受け取って、三好黄門秀次が黒川へ到着するのを待ってそれを渡した。

秀次は、会津の4郡、仙道の7郡の城へ上方勢を入れ、米沢へ行って政宗の領地だけれど、いったん城を開けさせて景勝に守らせた。さらに出羽に向い、最上出羽守義光、小野寺遠江守網隆と由利6人などに領地を与えたが、とりあえずは砦を開けさせて、秀吉の監使の大谷と相談の上、さらに深く出羽を検地させたという。

14日 秀吉は小田原を出発して藤沢へ着いた。家康は御家人を送って面会させた。そして江戸の城内には、秀吉の宿舎がないので北曲輪の平川口にある日蓮宗の法恩寺を宿舎として、饗宴をしたいという相談をした。

15日 秀吉は江戸に到着して、法恩寺に入った。大道寺駿河守政繁は、北条家来としては最初に秀吉に降伏し関東のいくつもの城を落としたが、秀吉は彼の態度を憎んで、江戸の桜田において誅殺した。

秀吉は小田原に置いていた兵糧の米の倉10棟を家康に譲った。監使が伊奈熊蔵忠政に鞍を開けて、一俵ずつ数を確かめてから渡そうとした。忠政は「戦いが終わったといっても、まだ時間を無駄にできない時だ」といって倉に封印をして倉庫の数を数えて、その日に受け取った。監使は法恩寺へ来てそのことを報告すると、秀吉は早すぎると訝った。監使いがその事情を説明すると、秀吉は膝を叩いて、「徳川家には賢い侍を沢山かかえているな」としきりに感心した。

16日 小田原が落ちた時、忍城の城主、成田下総守氏長は、その前に秀吉の策略で秀吉の陣営に来ていたが、「忍城をまだ明け渡していないのは約束が違う」と秀吉は、早く家来を説得するように命じた。そこで、氏長の家来の松岡石見を城へ行かせ、秀吉は神谷備後を副えた。今日、彼らは忍城の持田口に行き、そのことを城中の武将たちに伝えた。

浅野長政は先の戦いで敗北したのに腹を立てて、城を受け取るときに城の中の武将たちを一列に並ばせて、「おまえらはこれから城を出て亡命することになる。文無しになって食べることもできず一日も過ごせないだろう。各々は妻子を連れ出せるだけだ。どうせ死ぬのならば城の中で死んではどうだ」といった。そのことが秀吉の耳に入り、秀吉は木下半助と遠山右馬助を送り、「城兵の好きにさせろ」と命じた。そのため城兵は妻子だけでなく財産をすべて携えて城を出て離散した。

氏長の約束が最初と違った罪として、秀吉は彼の命を取るのではなく、金と彼がもっているという「唐の頭」を命の代わりに差し出しだすように命じた。成田は千騎の将だったが、なんとか金900両を工面し「唐の頭」18個と一緒に出して命は助かったが、領地はすべて手放させられた。

24日 秀吉は江戸を出発した。これは奥州を平定するためである。

昨日鎌倉の星ヶ谷の宿で、奥州岩城の城主、左京太夫常隆が病死したという連絡があった。彼は小田原へ出陣したときに遠くから来たということで、秀吉に労われたが、帰りに鎌倉見物を命じられ、彼の領土も保証されたうえで、鎌倉へ来たのだが、過労で亡くなったのである。常隆には子供がなく、彼の家来の白土摂津守は、その昔関西に行ったときに秀吉と親しくなっていたので、秀吉は彼に後を継がせることを内々に決めたという。

26日 秀吉は上総の宇都宮城へ着いた。

奥州の佐藤忠信が兜頬当(*兜の一種)を献上した。これは遠く紀州の熊野神社から出たものだという。秀吉はすぐに本多中務大輔忠勝を呼んで、「何年も戦が続いてきたのであちらこちらに優れた武将がいるだろうが、お前は家康を補佐して長く戦で貢献してきたことでは他に並ぶ者がいない。特に尾張の長久手の戦いでは、自分の数万の大軍をものともせず、わずかな兵で勇敢に戦って戦果をあげたことは世に知れ渡り、武将だけでなく商人、樵、農民に至るまで称賛しないものはいなかった。だからその褒美としてこの素晴らしい兜をお前に授ける」といった。

忠勝は非常に喜んでこの冑をもらって退席した。しかし、徳川家の侍たちは「これは忠勝にとって名誉なことではあるが、もし忠信がその場にいたら、忠勝が忠信の兜をかぶるだろうか? というのは2人を比べると忠信ははるかに劣っているので、2人を同列で考えることはあり得ない。あらゆる面で忠勝が忠信を羨むようなことはない」と評した。

28日 伊達政宗が宇都宮に来て、秀吉に謁見した。秀吉は彼が命令に従ったことに感心して、政宗と家来の片倉小十郎景綱を宿の別室へ呼んで、自分で茶をたてて与えた。

岩城の家臣白土摂津守はいろいろ考えて、「今岩城の領土をもらっても、岩城の家臣は自分の言うことなど聴くだろうか? 誰か世継ぎを立ててその補佐をした方がいい」と考え、元の城主常隆の親族の佐竹義重の三男、忠太郎貞隆を連れて宇都宮へ行き、増田長盛を通じて常隆を世継ぎとすることを秀吉に申し出た。秀吉はよく事情を理解してこれを許した。そうして、佐竹と宇都宮、結城などは秀吉に人質を献じた。

〇秀吉は百々塚の宿で、成田下総守氏長の娘が美人だと聞きつけ、彼女を呼んで手を付けて、京都へ帰ってから迎え入れると約束した。彼女は父が忍城の領地をすべて没収されて、蒲生氏郷に預けられていることをしきりに嘆いて泣いたので、秀吉は氏長を許したいと思うようになった。

〇秀吉は黒羽根城へ着いた。那須資晴の子、千壽王5歳を老臣の黒野尾張が連れてきた。秀吉はこの子に5千石を与えた。(この子が幼いうちは父の資晴が後見し、父は修理太夫に任じた。千壽王は後に左京太夫督)。

岡本太郎義保(讃岐守正親の養子25歳)が秀吉に謁見した。

29日 家康は小田原を出発して、甲州と相模の境にある三益峠での永禄の戦場をはるかに眺めて、「この山は森がなく禿山となっている。これは信玄が砦を撃破して通過し北条勢を討ち破ったところだ。北条方はこの山は敵国との境だから油断できないところなのに、砦などを築いて林や森のままにしてこなかった。そのために負けてしまったのだ。木を植えておけば防備もいらず氏直にとっては有利だったはずである。これからここに木を植えて森とするように」と安藤彦兵衛直次と彦坂小刑部光正、小栗忠左衛門久次に命じた。

家康はその辺りでのんびり放鷹をした。

成瀬吉右衛門正一は、9年前に甲府に攻め込んだときに最初に派遣されて、地元を治めて政務をさせていたが、武蔵の鉢形に行かせて城を守らせ、甲州の巨摩郡武川の侍たちに金を与え、更に紀州の根來寺衆の浪人たち200人を副え、正一の禄も2千石のほかに7千石の地の税金を取らせた。

〇武田の小人頭の荻原、石坂、志村、中村、河野、山本、窪田なども、お金をもらって武蔵の八王子口に住まわせ、甲州との境の小仏口を守らせた。これは現在の千人頭である。

晦日 秀吉は四国から出陣して来た6人の武将(*羽柴、蜂須賀、生駒、戸田、福島、服坂)に手紙を送った。天正18年7月晦日秀吉ー四国諸氏.jpg

8月大

朔日 家康は武蔵の豊島郡江戸城へ帰った。(俗に江戸御打入という)八州はすべて彼に従った。それは火が広がり、水が行きわたる様だった。秀吉は家康の家来の松平康貞に手紙を送った。天正18年8月8日秀吉ー松平新六郎.jpg

2日 南部信濃守信直の家臣、九戸修理政實は信直の叔父である。(姻族ともいう)正實は九戸、二戸の1万石を領土としていたが、以前から信直を恨んでいたので謀反を起こそうと企んだ。九戸郡九慈(*久慈)の九慈備前、櫛引の櫛引河内と七戸彦三郎、大場四郎左衛門、大里修理などが謀議して23万石を奪って二戸郡宮野の城にいた。この城は後に福岡城と呼ばれた城である。

閉伊郡遠野、大槌、九戸郡種市、二戸郡姉帯、根曽利など、ところどころで一揆が起き、九戸とともに信直に反抗した。

三戸郡根城には信直の家臣、入戸彌六郎を配置し、同郡浅水城には信直の一族の南遠江長義という強い武将がいて一揆衆を抑えた。

ある時の事、長義は北尾張信愛という人と謀議して、櫛引河内を攻撃するために出陣した。尾張は実は内心では南長義を恨むことがあって、約束を破って出陣せず、流石の長義も櫛引のために敗北し、その子の弾正秀氏と次男典膳も戦死してしまった。

一揆衆は南部信直の住む三戸の馬場の館へ押しかけた。信直は櫓からいきなり火砲を撃って、先頭の敵を撃ち落とした。また、河守田何某以下の兵が突撃して奮戦し、一旦一揆衆を撃退してから田子に退いた。田戸の郷士7人が信直を支援したので、彼はこの地に住んだ。

九戸政實は一揆衆と一緒に暴れまわったので、信直を救うために蒲生氏郷と軍監の浅野弾正少輔長政と堀尾帯刀吉晴らが今日九戸の居城宮野へ出撃した。

氏郷の左軍は、蒲生源左衛門郷成、同四郎兵衛郷安、寺村半左衛門、外池甚五左衛門長重、岡左内、曽根内匠昌世。右軍は蒲生忠右衛門、町野左近幸和、梅原彌左衛門、細野九兵衛将一、政門屋助左衛門、岩田、神田、結解、内堀、佐久間、玉井、山上、曽我、建部などが鱗状に並んで、今日城下へ着いて争って攻撃をした。

城の後ろに9曲がりの道があり、古木がうっそうと茂っていた。氏郷は歩兵に道が折れ曲がっている場所にそれぞれ柵を設け、藁を積ませた。それを見た城兵は、風を待って火をつけて、その勢いで城を攻めるのかと笑った。しかし、氏郷はいきなり太鼓をたたき法螺貝を吹いて、白い旗を立てて進軍し、城へ攻めこむふりをした。城の中は大騒ぎとなって、門を開いて突撃して来た。しかし、氏郷は柵を守って動かないので城兵は城へ撤退した。

また、ある時は、藁を焼いたり鉄砲を撃ったりして攻め込むふりをすると、城兵は同様に出て来きた。しかし氏郷は相変わらず柵のところから動かなかった。こんなことで数回城兵を困らせていると、城兵たちは神経戦に疲れて隊長が4~5人密かに降伏して来た。

氏郷は、「困った獣がいるときは助ける。人なら尚更だ、命を救ってやるから一人ずつ九折へ出て来い」といった。すると案の定城兵は一人ずつ九曲がりの道を降りてきた。氏郷は柵の陰に兵を隠して一人ずつ殺し、すぐに藁をかぶせた。後から来た者はそんなこととはわからないので、先に行ったものは柵の中にいると思って降りて来て大勢が殺された。城に残った兵は先に降りたものを見ても姿が見えないので怪しみ、城から大声で「誰か無事であることを見せろ」と叫んだが返事がないので、皆殺されたことを悟って怒って飛び出し奮戦した。

蒲生の兵の、町野左近幸和、蒲生源三郎郷喜、志賀與惣右衛門、蒲生四郎兵衛郷安に戦功があった。九戸政實は結局降伏した。奪った土地を主人の南部へ返させられて罪を許されたという。

〇『政宗記』には、浅野長政と石田三成は登来間に着いた。政宗も出て駐屯した。上方勢が九戸を攻撃した時、政宗も出陣した。九戸の城が落ちて、秀吉勢が引き取るときにも政宗は八町目というところまで浅野を見送り、その後米沢へ行ったという。こう考えると、『武徳大成』や『蒲生軍記』では、この九戸の戦いについては書かれていないように見える。

〇『蒲生剣光録』では、『太閤記』には九戸の城攻めでは堀尾帯刀吉晴が軍監として氏郷を欺いて、自分たちだけで城を抜いたとあるのは大間違いである。『豊臣家譜』では九戸政實が謀反を起こして木村伊勢守の城を攻めたとあるのも間違いである。九戸を攻めたのは天正18年の秋である。木村の城を一揆が攻めたのは天正19年の冬だという。一方、九戸は今年罪を許され、翌年ふたたび謀反を起こして殺されたと『政宗記』に出ている。この一節は『蒲生剣光録』にも出ているが、信じるに足らない。

〇今月上旬に秀吉は奥州白川の小峰城へ行き、そこを蒲生氏郷の部下の関右兵衛一政(後の長門守)に与えた。

元の城主、結城七郎義親は、御醍醐天皇の家来の入道道忠の10代目である。これまでは伊達政宗の家来となっていたが、今度の小田原に参陣しようとしたが、近年軍備の増強で財産を使って道中でいる賄賂のための金がなく動けなかった。彼の一族の中島上野は、「秀吉の下僕として精米200俵を献上し、そのうち100俵は自分で用意し、残りの100俵は身内から集めよ」と何度も忠告した。しかし、義親は鈍くて世情に疎く、秀吉の意向を知らず米を出し渋って忠告を聴かず、ようやく使者に海松驪という馬と、大鷹一羽を、政宗が小田原へ行くついでに預けて秀吉に献上しようとした。ところが、政宗は秀吉に底倉の山中へ追い入れられ困っていたときに、彼はそれらを自分の進物として秀吉に献じ、義親のことは一言もいわなかった。そのため秀吉は奥州へ向かう以前に義親の禄を取りあげ、義親は城下の金勝寺に蟄居させられた。彼は石田に訴えたが、すでに関右兵衛尉が白川へ来ていて義親に「早くそこを退去せよ」と催促したので、泣く泣く那須の温泉へ退去したという。

6日 結城中務大輔晴朝は、自分の城の土地10万5千石を三河守秀康朝臣に譲り、外姉の江戸但馬守重通の二女を養って秀康の妻とした。

先代から多賀谷、水谷、岩上、山川が結城の四天王と呼ばれていた。その一人多賀谷修理重経は、下妻、富田の大部分の地6万石を領地として、結城に逆らって佐竹の家来となっていた。残りの三人と富谷の城主、加賀谷安芸が執務していた。

もともと結城は由緒ある家で、兵力も十分だったので、秀康は主な家来の本多源四郎富正と片山主水だけに禄を与え、その他には禄を与える必要がなかったという。

〇この日、秀吉は細川忠興を領地の丹後から奥羽を治める長として会津へ移そうとした。ところが忠興は、「仕事であれば命に従うが、もし恩禄というのであれば小さな国でもいいから西の方の国がいい」と述べて、秀吉は承知した。

〇『家忠日記』の増補などの資料によれば、秀吉が会津で今月15日に忠興と氏郷にこのように命じたと書かれている。これは実におかしなことで、15日には秀吉はすでに会津から帰途についている。それは20日に駿河の清見寺に着いていることを考えればわかることである。

7日 秀吉は白川を出発して長沼へ着いた。(白川から7里の行程である)

秀吉は去年蘆名を裏切って伊達についた長沼の城主、新国上総介盛秀を呼んで「お前は勇名であるから領土を与える」とのべた。盛秀は嬉しさのあまり東夷の鄙諺(*土地の言葉?)で"忝(*かたじけない)"という意味で"口惜しい"」といった。秀吉は土地の言葉を知らなかったのでえらく怒って、彼に与えた土地を没収した。

8日 秀吉は長沼を出て勢至堂の谷を通り(*白河から会津若松へ向かう国道294号線の道)を通り、黒森峠のつづら折りの狭い道を越えて籠を休めた時、先陣の蒲生氏郷とあらかじめ会津の黒川の城を調査していた木村伊勢守秀俊が迎えに来た。その時秀吉は、飛騨守氏郷の当時の領地伊勢の松ヶ島12万石を代えて、会津4郡仙道7郡42万石を与えた。また木村伊勢守秀俊には葛西大崎の30万石の地を与えた。(木村の本来の土地は3万石だった)

越後の小川庄の6千200石の地は、会津の山に接していて昔から会津に属していたので、氏郷に与えた。

秀吉は上杉景勝に、去年景勝が奪った会津領の伊南郡の横田、小澤、伊奈、伊方の村を氏郷へ渡すように命じた。しかし、小澤の小澤大蔵と横田の横田大学は「数年蘆名に追われたが、主人が滅びてようやく自分の領地を取り返したので、ここでまた手放すのは忍びない。氏郷に家来にしてもらって禄を代々に伝えたい」と頼んだ。秀吉は了解して氏郷にそのように命じた。

武徳編年集成 巻39 終(2017.4.30.)