巻41 天正19年正月~12月
天正19年(1591)
正月大
朔日 家康は江戸城で初めて新年を祝った。家臣は残らず参賀した。
奥州の葛西と大崎の一揆衆を平定するために、羽柴黄門秀次は今日尾張の清州城を出発したという。
2日 家康は謡始めを恒例のように催した。
蒲生飛騨守氏郷は、昨年から住んでいた奥州の大崎名生の城から居城の会津へ赴いた。(木村伊勢守秀俊父子と伊達左京太夫政宗の質人を連れて帰った)
5日 家康は江戸城から奥州へ出撃した。9里の行程を経て岩槻の城へ着いた。先発隊は榊原式部大輔康政であった。去年の冬からは井伊兵部少輔直政は、奥州の二本松に駐屯していた。それ以外の家臣も次々に居城から出撃した。
9日 松平下総守忠吉朝臣は大坂(*大阪)から江戸へ帰った。
10日 羽柴秀次の先発隊は、相模の早川へ到着した。
石田治部少輔三成は、秀吉の命を受けて奥州の相馬へ着いた。しかし、去年蒲生氏郷の働きで、葛西大崎の一揆の拠点の多くが落とされ、木村伊勢守秀俊父子が危機を脱して、氏郷も会津へ帰ったという知らせを聞いて、三成は相馬から引き返して、京都へ向かおうとした。
11日 家康は岩槻を発って上総の古川へ着いた。しかし、氏郷が会津へ帰ったという知らせを受けて、奥州は雪国なので、暖かになってから一揆の残党を滅ぼそうと、軍勢を引き戻した。
13日 家康は岩槻から江戸城へ帰った。
14日 羽柴秀次は武蔵の府中に到着した。家康は府中へ出向き、秀次と相談した結果、秀次も兵を戻した。
この日 三河の岡崎で、御家人の一色彌次郎貞重入道楽運が死去した。去年から病気で江戸には行けず、子供もまだ5歳だったので三河に住んでいた。
19日 家康は今月22日に上洛することを決め、馬の医者の桑島新右衛門仲国を出羽の米沢へ派遣して、伊達政宗に「すぐに京都へ行って一揆をサポートしていないことを秀吉にアッピールするように」といい含め、家来の片倉小十郎景綱にも連絡して意向を伝えた.
21日 政宗は、家康と浅野弾正少弼の密意に応じて、米沢を出発し、深い雪を越えて二本松へ着いて、浅野長政に面会して上洛することを取決めた。
22日 家康の出発が遅れたので、家来たちは引き返した。
この日、秀吉の親戚の大和、和泉、紀伊の全域を支配していた従2位大納言豊臣秀長が死去した。(大徳寺の塔中、大光院に葬られた)この人には子供がなかったので、羽柴秀次の弟、秀俊(*?)に後を継がせた。(秀俊は非常な悪党で、文禄甲午年に和泉の西河の滝を観光中に横死した)
25日 江戸で三河の碧海郡、登賀利生まれの深津四郎兵衛正利が死亡した。
27日 蒲生氏郷が会津を出発して、京都へ赴いた。
28日 茶道の宗匠、千利休宗易が罪を被って秀吉に殺され、首を晒された。また彼の息子も娘も京都を離れて隠れ住んだ。世間では利休は潔白な人だったが、秀吉の娘のために死罪となったといわれている。しかし、利休は京都郊外の仁和寺の西田中に住んで、豪勢な生活をし、光孝天皇の稜の石塔を奪い取って自分の茶室の庭に移し、穴を穿って灯篭にした。この事実に蓋をしていても、いずれは明らかになることである。
これを考えてみると秀吉が怒ったのは、日ごろ利休は茶の道具の新旧や真偽の鑑定をして値打ちを決めていたが、近年はコネや自分の好き嫌いによって新しいものを年代物だといったり、本物を偽物だとしたりして値段を上げ下げして人をだまし、特に大徳寺の古渓和尚宗陳と共謀して、自分の木像を彫らせ、下駄を履かせて山門の楼に置いた。この門は親王や摂関も通れない場所である。このように奢り高ぶり狼藉が過ぎて、彼は殺されたのであって、光孝帝の罰が下ったというべきである。
秀吉の命令で、前田利家、細川忠興、徳善院玄などが大徳寺へ集まり、家康も参加して、古渓などの数人の碩学を呼び出し、楼上に木像を置いた訳を糺した。その時、古渓は密かに剣を法衣の下に隠して、いざという時には自分の喉を突いて死のうと、壮絶な覚悟の上、再三の尋問にも屈せず明快に申し開こうとした。家康はその豪壮な様子に感心し、大徳寺が取つぶしになるのを憐れんで、徳善院によく秀吉に嘆願するように頼んだ。
そこで徳善院は、古渓が坊主の身で世間知らずだったことを反省せず、木像を楼上に置くという実に仏法を破る行いをしてしまったからには、後は秀吉の理解に頼るほかはないと頼んだ。それを聴いて秀吉が怒りを解いたので、大徳寺は禍を避けられたという。
利休の長男、道安(初めは宗安)、二男、少菴(宗淳)、一人娘は、後に赦されて京都に戻った。少菴の嫡子宗旦は京都に住んだ。その子、宗左は紀陽侯(*徳川頼宣)に仕えた。少菴の二男、宗守は讃岐の高松に住み、三男、宗室は加賀に遊んだ後に、伊予の松山に住んで、それぞれ千家の茶道によって有名になった。紙屋宗旦は筑前の博多の富豪で、初めは利休とともに普通国師を師匠としていたが、後に利休から茶道の薀奥(*極意)を伝授されたという。
〇諸国統一がなったというので、茶会が盛んに催された。加藤清正は肥後から京都へ勤めに出て、本国寺の観持院に泊っていた。その間毎日茶客を受け入れていたが、山科の元慶寺にある僧正遍昭(*六歌仙、三十六歌仙)の石塔を庭へもってきて、灯篭とした。(今も観持寺にある)清正は純粋な士であるが、学が乏しかったので、こういう癖が出たのだろう。彼の子孫が断絶したのも致し方なかろう。
当時利休の茶道を学んで名が知られていたのは、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部正重然、瀬田掃部助伊繁(または秀昌)、芝山監物である。細川は武器の製造においても優秀で、世間で崇拝されていた。
閏正月小
3日 家康は江戸を出発した。
12日 蒲生氏郷が京都へ行き、秀吉に面会した。秀吉は「おまえは奥羽の要として軍備を怠らなかったので、葛西大崎の一揆衆を大方撲滅し、木村父子の危機を救った。その功績は非常に大きい」と褒めた。
一方、木村の家来が取り調べられ、法律に従って正しく民を治めなかった罰として、禄をとりあげた。氏郷は何度も秀吉に頼んで(*木村)伊勢守を秀吉の家来にしてもらったが、禄は5万石程度だった。
15日 家康は京都へ入り、秀吉に去年の秋に関東の八州に封じられた謝礼をした。
26日 秀吉は家康を連れて尾張の清州へ放鷹に行った。後から伊達政宗が合流した。というのは、家康は政宗の武勇に好感を持っていて、今回榊原康政に命じて政宗を連れて来させた。康政は清州で富田左近将監知信と津田隼人正に頼んで、政宗の罪を償おうとした。
秀吉は政宗が自分を倒そうという下心があるのを知りながらも、家康が気に入っているので拒否もできず、福原右馬助直高と木下半助を政宗の清州の宿に行かせ、政宗が遠いところからはるばる京都まで来たことを褒めさせた。
富田将監は、「政宗が本当に謀反を起こそうと、葛西大崎の民衆を募って一揆をおこさせたとすれば、今回のようにすぐに上京したりはしないだろう。本当は謀反することなど考えていなかったからこそ、すぐに来たのだろう。これは秀吉が播州にいた時に、秀吉を陥れるために「秀吉が信長に叛こうとしている」と信長へ伝えた者がいたが、秀吉はすぐに安土へ駆けつけて、その疑いを晴らした例と同じじゃないかと思う」と述べると秀吉は納得した。
そのことを氏郷が聞いて、富田が政宗に加担するのかと怒って富田と絶交したが、後にある理由から和解して、その後は親しい仲になったという。
27日 羽柴黄門秀次は、清州の居城で政宗に面会しもてなした。
28日 政宗は今日清州を出発した。秀次は、宿や馬の準備などの世話を細かく行った。(ある話では、政宗は2月21日に米沢を出発して、京都へ向かったとあるが、これは間違いである)
2月大
2日 政宗は、金箔をはった磔の柱を馬の前に掲げて京都へ入り、帰国する意思のないことをアッピールした。観た人は驚いて「昔から朝敵となって降参した人はいるけれども、この人のように自分の死をデモして意思を示した例はなかっただろう」と見惚れた。政宗は妙覚寺を宿とした。
6日 家康は秀吉と清州で放鷹をした。
11日 羽柴中納言秀次が正2位権大納言に任じられた。
15日 秀吉は京都へ帰り、家康も京都へ行った。京都では勅使の観修寺権大納言晴豊が家康を訪れ、勅作の(*自分で調合した)薫物(*香)を贈り、鳳闕(*御所)の桜が満開の間に参内するようにと伝えた。家康はすぐに禁中へ行き、天皇の言葉を受けた。
〇『岡野家伝』によれば、江雪齋の子、平兵衛房恒は京都で家康に会って御家人になったという。
〇この日、秀吉の命令で、蒲生家からは訴人として山津八兵衛が出頭し、伊達家からは手腰内膳が出て対決させられた。政宗の家臣、茂庭石見は手腰を深紅の鷹の大縄でつないで出てきたが、内膳に、「お前がこれから本当のことを白状すると、人質にしているお前の三族を殺すので、政宗が一揆に加担していたことは話さないように」と教え込んだ。そのため、何度も対論したが決着がつかなかった。
その後、氏郷は、山津田が奪い取った政宗が一揆方へ送った手紙を出して見せた。政宗はそれを見て手をたたき、「これは山津田の(*自分を陥れるための)怪文書だ。自分は小さい時に数年間、蘆名盛氏の筆跡を勉強した。山津田も近くにいたので同様に学んだ。花押も虎哉和尚に習って子どものころから鶺鴒(セキレイ)の形である。よく似ているが自分の花押は月の上旬、中旬、下旬で、鳥の目の書き方が変えてある。スパイが送って来た文書をよく調べてほしい」と述べた。
早速多数の書簡を集めて調べてみると、果たして問題の手紙の花押は違っていたので、それが山津田による怪文書であることが分かり、政宗は罪に落ちるのを免れた。そうして聚楽城へ入ることを許された。
城へ入るとき、政宗は刀を片倉に、草履を平田五郎に持たせ、秀吉に殺されるのではと短刀を懐にして、命がけで秀吉に謁見した。すると秀吉は厚遇して「すぐに帰って葛西山崎の一揆の残党を滅ぼせ」といった。政宗が退出するときに、平田が玄関にいたが、秀吉は片手で玄関の柱を上げて力の強いことを示したという。
井伊直政は家康に、「去年の冬、二本松で良く尋ねたところでは、政宗の叛意は間違いなかった。その証拠は歴然としているのに、秀吉が許したのは調べが悪いせいだろうか」と話した。
家康は、「秀吉は本当は彼の叛意を知っているが、一つには政宗がすぐに上洛したという豪放闊達さが受けたこと、第二には例の手紙をいちいち自分で写して、偽であるという不敵さが受けたこと。第三には、鶺鴒の目の違いを使って例の手紙が本物であるにもかかわらず、これを証拠に出来ないようにした知恵と勇気を兼ね備えていたこと、この三つのどれも凡人にはできないことなので許したのだ。この秀吉の度量のおかげで、政宗も百倍自信をつけるだろう」といった。
後年、秀吉が施薬院全宗にいったことによれば、「政宗の罪はよく知っているが、三韓征伐に備えて、あのような人材は助けておいて、その時活躍させるためだった。また第二には、政宗を殺すと九州の島津、中国の毛利、四国の長曾我部などが自分に疑問を抱いて、謀反を起こす可能性があるからだった。この両方を考えた上で、罪を徹底的に糾弾しなかったのだ」ということである。
22日 近江の八幡山の城主、正5位下侍従兼隠岐守藤原信宗が死去した。(享年は64歳)この人は尾張の鷲津で戦死した飯尾近江守定宗の長男で、母は細川晴信の娘である。
3月小
13日 前田利家(羽柴を号していた)が参議に任じられた。
『書状』
4月小
3日 家康は京都を経って帰途に就いた。
13日 利家の娘で浮田秀家の妻が、妖怪に襲われて錯乱した。秀吉は彼女の家を訪れた時、古狐の仕業だと聞いて、手紙を稲荷神宮の宮司に送った。
『書状』
それで彼女の邪気はすぐ消えたという。
21日 夜中に家康は江戸城へ帰った。
〇今月秀吉は、北条氏直を河内の大野から和泉の堺津の興国事に移し、ほどなく大阪へ招いて織田信雄の館をあてがい、1万石を与えた。北条美濃守氏規にも勇烈だとして7千石を与え、その子の久太郎氏信には3千石を与えた。成田下総守氏長には上野の鳥山城の地域3万石を与えた。
5月大
17日 家康は近臣、加藤又三郎正次(茂左衛門)に、武蔵の角澤村200石を与えた。(これは三河合歓の代地である)
〇昨年の冬以来、東奥の大崎と出羽の庄内で一揆が勃興したが、去年南部信直に投降した九戸修理政實が再び叛旗を翻して一揆衆を集め、久慈備前、櫛引河内、大場四郎左衛門、七戸彦三郎、一戸図書、姉帯大学、大里玄蕃などといっしょに、あちこちの城や砦に立てこもって近辺を荒らした。
特に政貫は和賀稗貫の地下人に指示して、鳥屋崎城を数回攻撃した。この城には去年検地を終えて月末から浅野弾正少弼の家臣、浅野庄左衛門が仮に入っていた。南部信直はすぐに援護したので、一揆は囲いを解いて退散した。そこで信濃守信直は、庄右衛門と一緒に信夫郡蘆澤の城へこもり、一時三戸に軍を戻した。
又、一戸の城には、信直の家来の北主馬秀愛が籠っていた。櫛引、河内、七戸彦三郎などが土地の郷民を味方にして、城に夜討ちをかけたが、北主馬が騎馬で敵を追い払った。このことを三戸に連絡すると、信直はすぐに北孫左衛門直愛に兵を付けて救援した。
三戸郡の外馬別城、六戸郡轉法寺城にも一揆衆が襲撃したと聞いて援軍を出し、自分は三戸の月舘城から四戸へ進軍し、鳥森の敵城を八戸彌六郎に攻め落とさせた。また、月舘隠岐に一戸の敵を討たせたが、家来の浄法寺、吉田、福田などが敵に通じたので、手勢が少なく勝てそうにないので、信直はその子の彦九郎利直を京都へ行かせ、前田利家を通じて九戸の櫛引らの反乱を秀吉に報告し、援軍を要請した。
秀吉は了解して、羽柴大納言秀次を大将として、「戦は徳川に一任する。浅野長政と堀尾吉晴が監軍とせよ。先鋒は蒲生と伊達が務めよ」と命じた。その他、東海と北陸の二つの道の軍勢を集めて、奥州の一揆衆を殲滅しつくす様に命じた。
ここで秀吉は伊達左京太夫政宗を許して、従4位下侍従にし、越前守を兼任させて帰国させた。
その時秀吉は密かに蒲生氏郷に、「自分は政宗の計略をよく知っていたが、彼がすぐに京都へ来て不敵にも自分に謝ったので、自分はあほを装って知らんぷりをして許してやった。今度奥州の一揆衆を滅ぼすと、戦いの為に葛西大崎は荒廃するが、その土地30万石と彼の今いる奥州米澤の30万石を交換させて、取り上げた土地にお前を封じる」と確約した。氏郷は喜んで帰国の用意をした。
佐竹修理太夫義重の一族と同中務義久も、秀吉の推挙で従5位下になり、中務少輔に任じられた。
6月小
4日 秀吉は家康へ手紙を送った。
『秀吉』
7日 家康は奥州の一揆衆を滅ぼすために、来月中旬に江戸を出発することを明らかにした。
20日 蒲生氏郷の帰国が認められ、京都を出発した。
秀吉は諸軍の出発の段取りを決めた。
☆奥州の奥郡の仕置の人員名簿と進軍の段取りについて
1番 羽柴伊達侍従 (*伊達政宗)
2番 羽柴会津少将 (*蒲生氏郷)
3番 羽柴常陸侍従 (*佐竹義宣)
宇都宮彌三郎
4番 羽柴越後宰相中将(*上杉景勝)
5番 江戸大納言 (*徳川家康)
6番 羽柴尾張大納言 (*豊臣秀次)
+江戸大納言と尾張大納言は二本松ルートで進むこと。
+羽柴越後宰相と出羽の衆は、最上ルートで進むこと。
+羽柴常陸侍従と岩城、相馬、宇都宮彌三郎その他、一手衆は相馬ルートで進むこと。
+二本松ルートでは、白河から城々に守備兵を残していくこと。
+相馬ルートでは、岩城から城々に守備兵を残していくこと。
+最上ルートの相模と越後衆は米澤から城々に守備兵を残していくこと。
+江戸大納言と尾張大納言は大崎に近いところで現地の勢力を集めて指図するように。
+伊達侍従には葛西大崎を平定したときには城を多く残さないように努め、普請が必要と申し付けた城以外は全て破壊するように。
+以上普請を申し付けた城の地域の知行は会津に近いところは会津に、葛西大崎に近いところは伊達方へ付けること。
天正19年6月20日 秀吉
7月大
10日 羽柴秀次は、再び奥州へ向うために清州を出発した。
14日 家康の御家人は去年から三河、遠州、駿河、甲州、信州の5州の領地から、関東の8州の新しい領地へ移るので、租税の取り立ての地域に通知した。
〇大須賀出羽守忠政の家来の御家人、久世廣宣、坂部廣勝、曽根長一、福岡忠光、丹羽金十郎氏廣、渥美勝吉、丹羽彌三氏吉に、先日武蔵の200~300石を追加する保証書を、大久保長安らが発行した。
以上の人々をはじめとして、大須賀の家来たちは遠州では横須賀衆と呼ばれ、この時代は忠政に従って下総に住んで、久留里衆と呼ばれていた。元和元年に彼らは久世、坂部、曽根などと親しく、福岡、渥美、丹羽、小笠原、松下の氏族や紀州の南龍院の家来となっていた。
〇遠州の大瀬の牧野民部成行は、昔から3千石を取っていて家康に仕えていた。今度関東に移ってもその換地をもらえるはずであったが、松下加兵衛の従弟なので、秀吉は以前から嫌っていた。そこで家康は成行を菅沼定盈の家来にして、秀吉の家来に準じさせた。
18日 伊達政宗は九戸を攻める先鋒として、米澤の居城を出て白石に進み4~5日とどまった。
15日 家康は奥州平定のために再び江戸城を出発した。その夜は岩槻の城に駐屯した。先鋒は榊原式部大輔康政、2陣は本多中務大輔忠勝である。去年甲州から武蔵に移った武河津金などの諸士は、大久保治部少輔忠隣の組に入れられ出撃した。(武河の士は当時武蔵の鉢形で滞在費をもらって住んでいた)
家康の親戚の松平因幡康元は、150騎と雑兵千人余りを連れて先鋒に参加したが、非常に多いので家康は感心した。
〇世間では家康が江戸を発ったのが6月19日だといわれているが、恐らく誤りだろう
〇ある話では、井伊直政の家来の近藤石見康用の嫡子、登助秀用は、岩城の旅館で家康に面会して領地をもらった。北条家の浪人、山角紀伊守定方が御家人になった。
8月大
5日 聚楽城で秀吉の息子、鶴松が3歳で早世した。妙心寺に葬り祥雲院と号した。秀吉は嘆き悲しんだという。
21日 秀吉は、三か條の制令を発布した。
『制令』
24日 伊達越前守政宗は奥州宮崎(*宮城県加美町)へ出撃した。
小野田の石川長門と鹿間の鹿間尾張は、城を放棄して政宗についた。宮崎の城兵は奮戦し、政宗の先発隊が競って城へ突入したが城壁が高く、銃弾を浴びせられ濱田伊豆はじめ多くが命を落とした。そこで攻撃をやめて、城を遠巻きに柵を設け城と外部との通路を遮断した。
今日、蒲生氏郷は、合会津を出撃し九戸へ赴いた。兵力は2万2千(52の小隊を13列)とした。輸送奉行は曽根内匠助昌世、軍奉行は三雲新左衛門成持と高木彦右衛門、太鼓の指揮は南部久左衛門、法螺貝役は氏郷が自分で吹くとした。
京都にて秀吉は制令を発布した。それによれば、
定
所領と管理人の領地内での金の貸し付けは禁止する。もし百姓が借金を求めれば、代官が管理人となって事情を聴き、限度額の範囲で利子なしで貸すこと。8月24日
27日 奥州宮崎の城将は、寄せ手の石川長門と鹿間尾張を通じて、伊達藤五郎成實に依頼して政宗に降伏したいと申し出た。しかし、政宗は認めなかった。ちょうどその時、城で失火が起きた。政宗はそれに乗じて城を落とし100人余りを斬り殺した。
〇今月、家康の命令で松平紀伊守家信は、大崎(*古川の近く)の岩手山の城を修理して、家康の仮住まいとした。
〇この頃、山口勘兵衛直友は、初めて禄300石を家康からもらった。この人は丹波の赤井越前守明家の次男で、天正の中頃、織田信雄に仕え、長久手の戦いの後に、家康に月雇用で松平元蕃頭家清の隊に属して、駿河の興国寺の警備をしていた。去年家康が小田原へ出兵したときには、駿河の葭(*あし)原の船橋を見回った。
〇越後の参議の上杉景勝は、彼の領地の出羽の庄内へ赴き、去年起きた一揆の残党を滅ぼして兵を駐留させ、出羽の3郡を守った。庄内の地元の士を先発隊として、秋田を経て南部へ向かい七戸の2か所の城を落とした。
9月小
朔日 蒲生氏郷の先兵の将、蒲生左衛門郷成は、一揆衆の姉帯大学と弟の五郎の立てこもる姉帯城(*一戸の南)を落としたときに、根曾利の城兵500余りが救援に来た。田丸中務少輔直昌が激しく抗戦して撃退し、更に後方の隊が敵の横を攻めたので、敵は大敗を喫した。その勢いに慄いて、根曾利と一戸の城兵も攻めることなく逃亡した。
3日 家康は旅宿で高井助次郎實重を初めて御家人とし、武蔵の久米郷で200石を与えた。この人の父の蔵人實廣は、今川義元に仕え桶狭間の戦いで戦死した。實重も氏眞が流浪の身になるまで彼に仕え、今回は彼の推薦によるものである。
三枝彦兵衛守吉(勘解由左衛門守友の孤児)が初めて家康に仕えた。
6日 二戸郡、平糟村で、浅野長政(秀吉の軍監)、堀尾吉勝(秀次の軍監)、井伊直政(家康の軍監)が、蒲生氏郷と相談の上政策を建てた。
この地の住人は百姓、地下人などすべて自分の家に帰って生活せよ。この地の住人でないものはすぐに帰郷せよ。天正10年、浅野弾正少弼、堀尾帯刀、井伊直政、蒲生氏郷
7日 氏郷、浅野、堀尾、井伊、津軽、松前などの軍勢3万あまりが、九戸修理の居城、福岡(*九戸城)を攻撃した。しかし、波打という狭い道一本で、後ろには高い山があり、木が鬱蒼と茂っていた。寄せ手は相談して、源義経が一の谷の戦いで勝った戦法に習って、この細い道には見せかけの軍勢を進ませ大砲を撃たせた。
一方、氏郷は深い山を遠回りして、城の裏手に回って盾を並べた上、大きな銃を数百挺を連発した。その音は谷や山に響き轟き、城の中は怯えて浪打へ出てきた城兵も慌てて、城へ逃げ込んだ。
8日 寄せ手は城を攻めたが、城兵に工藤権太夫という銃の名手がいて、しきりに腕を振るったので寄せ手に死傷者が多く出た。それでも寄せ手は攻め続け、九戸政實、櫛引左馬助清政(河内の甥)が突貫したが苦戦をした。
西を攻めた井伊直政の家来、近藤石見康用の子、登助秀用は、城の戸口に挑んで出てくる城兵の槍を奪い取った。前に家康に叱られた山田十太夫重利、小林勝之助重次と近藤康用の部下の木村吉右衛門勝綱が勇敢に戦った。三河の浪人、阿部善太夫重眞(後の四郎三郎)は火の矢をしきりに城内へ打ち込んだという。
三河の廣瀬と高橋の鈴木党は、当時井伊の部下として活躍した。堀尾帯刀も直政に負けないように競って戦った。南からは浅野長政父子が、東方の大手からは南部信直父子が激しく攻撃した。(櫛引出雲は自分の城を棄てて九戸へ来て防御した)
〇この頃、伊達政宗は佐沼の城に向った。敵兵は町口の西坂を守り険しい山に多数が控え、政宗の攻撃を防いだ。政宗は4日目に町口を破った。城兵は夕方には西の廓を棄てて本城へ籠った。政宗は翌日終日攻め続けて本城を落とした。地元民3千余りが斬り殺され、城将は逃げたが、葛西の西の西郷で殺された。政宗は翌日の宵に登來間に陣を進めて城を攻めようとしたが、葛西の家来は政宗に投降して城を明け渡した。政宗は彼らを深い谷に閉じ込め番兵に厳重に守らせた上、大崎岩手山へ赴いて家康に面会した。
家康は政宗に、「おまえは領地を替えて葛西大崎へ移るように。佐竹、岩城、相馬の人夫を出させて、岩手山の城を改修させそこを居城とせよ」と命じた。
羽柴秀次は二本松へ着いた。政宗は、彼に面会して登來間の城を落として一揆衆をとらえていると報告した。秀次はすぐに彼らを殺せと命令した。政宗は早速泉田安芸重元に一揆衆の頭目20人余りを殺して首を二本松に送らせた。
〇九戸の福島城はまだ堅固で落ちなかった。
井伊直政の謀ごとにより、氏郷は地元の長興寺に書簡を城へ持って行かせ、「この数日間の戦いぶりは大したものである。しかし、天下に逆らってはそれほど生きられないだろう。はやく降参して秀吉に対して謀反を起こしたのではなく、(*南部)信直に対して恨みがあったので反乱を起こしたのだと謝れば、攻め手はそちらの勇敢さを褒めて、その意向を京都へ伝えて罪を許してもらって領地を与えよう」と伝えた。
政實はやはり田舎者だけあってこれを真に受け、籠城中に千人あまりの兵が戦死し、付城も落とされてしまったので、勇気をもってこの誘いに応じた。浅野長政は「夜になったら1人で城から出てくるように、諸将は皆三の丸に出てくるように」と命じた。
修理政實はこの計略にかかって城を出て長政に面会し、櫛引河内兄弟、九戸彦三郎、大場四郎左衛門、大里修理などが三の丸に出てきた。そこを捕まえて番兵に守らせ、城兵を数100人を三の丸の櫓へ登らせて、全員を焼き殺した。更に久慈備前へも兵を回して攻撃したので、久慈父子3人も投降した。
羽柴大納言秀次は、家康の陣から3里離れた三の迫間に陣を張った。
浅野長政は九戸修理と久慈河内を連れ、氏郷は櫛引出雲と大場四郎左衛門を連れて秀次のところへ来ると、秀次は「この連中は一揆の棟梁である。どうして断りもなく生かしているのか」と激怒した。そして彼ら一族34人を斬り殺して、首を京都へ送った。
家康は一揆が落とした城に兵を配置し、通路を確保しながら進軍した。稗貫城には本多豊後守康重、鬼柳には菅沼大膳亮定利、水澤には松平右衛門太夫康貞、前澤には松平和泉守家乗、一関には奥平大膳太夫家昌、三の迫間には菅沼藤蔵定政が暫定的に城を守った。
上杉景勝が南部へ出陣している間に、庄内の地士が一揆をおこして大梵字の城を攻めた。城に詰めていた兵の数も5千ほどで少なく、統制がとれず城を棄てて大浦城へ退却した。
一方、一揆衆にも親分がいなくて統制がとれず、平賀善可というものを担いで頭とした。ところがこの一族は皆景勝に従って南部へ向かうので、一揆衆には加わりたくなかった。しかし、大勢に囲まれて無理に拒否すれば殺されるのではと、仕方なく受け入れた。
景勝は南部でまた庄内で一揆が起きたと聞いて引き返したが、一揆衆は防戦の為に2手に分かれ、北側は鳥海山の西の山麓にある三崎山の中腹の道を守った。この地は東には高い山が、そびえ西は海岸で絶壁である。彼等はこの道に堀を築いて、火砲6挺で景勝の進軍を防ごうとした。ここは1人が1万人分の働きに値する険しい場所で、流石の景勝の軍団もどうにもできなかった。
この時、上杉の家臣たちはよく考えた結果、鳥海山の上の樵の道を聞きつけて、こころから一揆の背後へ奇兵を送り、正規軍は正面から敵に向った。一揆衆にはこれが分からないので、狭い道へ出てくると後ろから騎兵が疾風のように襲いかかった。もともと一揆衆は烏合の衆なので、すぐに敗北してしまった。
景勝はここから酒田を経て浜中村に行き、大浦城の北にある善法寺で夜を明かした。彼らは大浦の城兵と交戦して一揆衆を追い散らし、城将の平賀善可を龍蔵寺から追い出して火あぶりにした。そのため上杉の陣中にいた平賀の一族は恐れ慄いて全て津軽に隠れた。
景勝は庄内の3郡の一揆衆を調査して、領地の中にいる地士を全て追い払った。彼らは妻子を連れて最上や秋田へ逃げた。景勝は昔から訳もなく火あぶりに処すようなひどいことはしないことで知られていた。このようにして、大梵字の城代には下治右衛門秀久、酒田城には信夫修理胤宗と河村兵蔵、大浦には河村彦左衛門を守らせた。その後、景勝は羽柴秀次に会うためにもう一度奥州へ赴いた。
〇家康は奥州に滞在中に御家人に、奥州の地図を書かせ、土地を調査して水野左近清久、大久保治右衛門忠佐、渡邊半蔵守綱を派遣して松島あたりに制令を出した。
13日 羽柴秀次と家康は、秀吉の密書に従って伊達政宗と蒲生氏郷を呼び、政宗が数十代領地としていた米澤の30万石をから、今回一揆が起きた葛西大崎の30万石と交換させた。伊達の家中は急遽移転することになった。しかしその地は去年から一揆のために民家がすべて破壊され、村にも人がいない有様で、皆が困りはてていたという。政宗は非常に憤慨したが、どうにもならなかった。
一方、米澤の30万石は蒲生氏郷がもらい受け、会津の仙道にも72万石をもらった。この地は会津4郡の、大沼、河内、邪麻、石川、仙道の7郷の白川、盤瀬、安積、伊達、信夫、刈田、柴田の全部で11郡の他、米澤の3郡、出羽の長井の2郡であった。(翌年氏郷は70万石の地を調査し直して、91万9千石あまりになったという)
家康と大納言秀次は、平泉、高館、衣川などを見物して治政を行い帰路に就いた。(上杉景勝は平泉で秀次に面会し、その後越後へ帰った)
〇後日、氏郷は秀吉に「南部大膳太夫信直は力不足で、人々を治められないので、家臣に動乱を起こさせた罪を逃れられないが、九戸や櫛引が一揆を起こして日が経っており、今では信直もどうにもできない状況である。また長らく続いた家が断絶するのを見るのも忍び難いので、ここは秀吉の情けで彼の領土を守ってもらえないか」と訴えた。秀吉は了解して、一揆衆に侵された土地を信直に戻し、領地はきちんと掌握するように、また氏郷の外姪(儀家の娘)を信直に嫁がせ、今後は信直を氏郷の家来にするように命じた。(上杉景勝の奥州での活躍の褒美として、秀吉は正宗の刀と瓢箪の茶入れ、山下風という駿馬を贈った)
27日 家康は下総の古河城へ着いた。江戸よりは諸士が出迎え奥州の平定を祝した。
29日 家康は江戸城へ凱旋した。
家康は、親戚の松平因幡守康元が今回の戦いにその禄に見合わず大勢が参戦し、戦死者が多く出たので下総の中に2万石を追加した。
〇家康は秀忠を嫡男と決め、権限を彼に委譲するために、関東へ移ってからは大小の家臣へ領地を与える場合には、秀忠から印章を与えることにした。
去年の冬ごろから、関東の8州の神社や寺を調査して、寄付の印章を秀忠から与え、または今までの状況に合わせて、山林や境内の諸役の許可だけに朱印を与えた。上総の市原郡八幡宮領150石の地については、家康の直筆の印章を宮司に授けた。
11月大
8日 秀忠は京都で参議に任じられた。また右兵衛権中将武蔵守も今まで通り兼任した。
この頃秀吉は三河の吉良で猟を楽しんだ。
新庄駿河守直頼、小出大和守吉英、片桐市正且元、小出播磨守吉政、石川備前守貞清、同掃部助光明、赤松左兵衛廣秀、大野修理亮治長、福原右馬助直高、片桐主膳正貞隆、三上輿次郎、拓殖大炊助などが武装して先行した。
石田三成、増田長盛、徳善院などは輿に乗って従った。その他の諸士は槍や弓をもって護衛した。
23日 家康は岩槻で狩をした。
25日 家康は川越で狩をした。
12月小
4日 羽柴秀次が内大臣になった。
17日 秀忠が京都から江戸へ帰った。
28日 秀吉は突然関白職を嫡子内大臣秀次に譲り、秀吉は太閤になった。
この秋、秀吉の実子の鶴松が早世して秀吉は悲しみに暮れていた。そのような状況で、彼が以前から考えていたことではあるが、明では愚かな皇帝が続いて政治が衰退していると聞いて、今こそ「百年の齢を縮むべきに非ず(*ぼやぼやせずに?)」来年に朝鮮国を攻撃すると、くだらない民衆はすぐに自分に服従するだろう。そうすれば自分が中国へ渡ってすぐに、4百余りの州を征伐して自分の望みを果たしてやるという大胆な考えを持った。
〇この年、家康は宮原勘五郎義熈に千石の地を与え御家人にした。この人は古河の御所晴氏の弟、左馬頭憲寛が下総の宮原に住んでいて、その子が僧になって祥雲院僧正義勝と号していたが、それが義熈である。
〇関東の一色宮内少輔義直も御家人になり、武蔵の幸手の5千60石をもらった。(後年義直が引退して、その子次郎熈直が家督を継ぎ、義直には隠居料千石が与えられた)
〇家康は、武田信玄の甥の川窪輿左衛門信正に武蔵の2千石を与えた。
〇家康は松平蔵人信孝の遺子の九郎左衛門重忠に領地を与えた。
〇土屋惣藏忠直(後の民部少輔)も領地を相模の禰宜村にもらった。
〇三河の刈谷の水野和泉守忠重の家来、高木甚太郎清方とその子の甚右衛門清本も、抜擢されて大番衛になった。
〇杉浦藤次郎則勝が三河の六石郷久吉から来た。この人は去年疲労で戦いに遅れた。家康はその事情に納得せず、富士見番に加えた。(杉浦藤次郎時勝の子)
遠州の大屋堀内生まれの本間五太夫は、大番衛になり200石をもらった。
五味太郎左衛門は抜擢され俸米60俵をもらい、五味を改め乙骨となった。
〇関東の武将たちにはこっそりと家康の御家人となった者が多かった。例えば、長尾但馬守顕長の老臣、江戸豊後高綱の子、太郎高政(家康が江戸に移ってから小野左馬助となった)、北条氏昭の家来で加茂官次兵衛直茂、上野の小幡太郎左衛門正俊などである。渡邊半四郎宗綱(13歳、後の図書)が初めて家康に仕えた。
〇家康は、後藤徳乗と門大庄三郎光次に、関東の8州に流通させる金の貨幣の大小の形を決めて鋳造させた。
大判は金48文目(*匁、3.75gx48=180g:現在の金の価格を約5千円に換算すると、90万円相当)を一枚とした。これは室町将軍家の例に習ったものである。
昔から今まで小判というものはなく、灰吹きの砂金を権衡(*さおばかり)で測って通用していた。これは急ぐ時に不便なので皆が困っていた。家康もどうしようかと悩んでいたが、今回光次に昔の金貨の4倍、つまり4匁8分(*大判の十分の一)を小判として鋳造させ、金貨と共に流通させた。
〇江戸の山王(*神社)に秀忠は祭田、100石を寄進した。
〇駿河、遠州、甲州、信州の5州の寺社領については、秀吉は家康の基準に大方準じて寄進した。
〇『鳳閣寺傳記』によれば、遠州の敷智郡濱松の二諦坊は、家康が濱松城にいるときに祈願のために建立したものである。家康は境内に白山権現を観請(*お呼び)し、毎月18日に参詣した。住職の加賀の白山の大先達法印常慶は、俗姓を松下嘉兵衛之綱の一族で、闊達大度(*あっさりとしてこだわりのない)人で税務に詳しく、家康はいつも陣中に連れてきていた。彼は兵糧の運搬などを取り仕切り家康に尽くした人である。家康が駿河へ移ってからは、駿河一円の租税を司った。(初代、御賄頭、*マネージャー?)
このため、城には常慶門や常慶櫓などが後世まで残っている。常慶の子孫は長く家康の家来であった。(世では左太夫と呼ばれている)
二諦坊は、秀吉からは前のように敷智郡の海老塚村、寺島村、鴨江村の寺領52石の印章をもらった。二諦坊は元文(1736―41)の今もその領地を持ち、宇多天皇の勅願として、聖寶僧正の開祖である和泉の吉野郡百螺山の鳳閣寺の住職を兼任した高位の僧侶で、吉野の修験者1万4~5千寺の筆頭として、江戸に常駐して仏事に従事している。
元文の現在は、大番頭、三浦肥後守便次の六男が法印俊堅となっている。
武徳編年集成 巻41 終(2017.5.1.)
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