巻40 天正18年8月~12月
天正18年(1590)
8月大
10日 秀吉は正午ごろ、会津の黒川城(*若松城)へ来て、「ここを奥州の都とする、すべての者は喜んで聴け。これから端雲山廣徳寺を仮の役所として、奥州の政を沙汰する」と宣言した。
〇まもなく秀吉は会津を発ったが、蒲生飛騨守氏郷と木村伊勢守秀俊を呼んで、丁寧に政務の諸事を説明した。
秀吉は、長沼への16~19町の道を経て五十里の宿から、1里半の険しい道を越え、信州の屋代から上州の笛吹峠へ、更に武蔵の川越、相模の東郡田村から東海道を経て藤沢にでて、小田原から箱根路を駿河の沼津に着いたという。(屋代から駿河までは50~60里(*200~240km)である)
18日 奥州の大崎の城主、大崎左衛門督義隆は、最近伊達政宗と戦って降伏しなかったので、聚楽へも挨拶せず、小田原へも参陣しなかった。そのため今月、秀吉に領地をすべて召し上げられた。彼は中新田の居城を出て小野田へ行き、1週間滞在した後、京都へ登り、千本に住んだ。彼はそこで秀吉に嘆願したが、秀吉は許してくれず、氏郷の家来にさせられた。この人は斯波左京兆家兼の末裔で、代々陸奥の長を務めていた。慶長3年以降は、上杉景勝に仕えた。
20日 秀吉は駿河の清見寺で和歌を詠んだ。それには短い序文が添えてある。
『東北を平定するために、天正18年の3月の初めに京都を発って、途中で駿河の清見寺に寄った。この地の風景はすばらしく、なかでも三保の松原、田子の浦で、月夜に雪をかぶった富士が目の前に広がる眺望は感無量である。庭の青葉に隠れた花の様子も新鮮で、なんだかだと5~6日滞在した。更に東の夷を退治するために「みちのく」までも巡って、思い通りに民を従わせて、帰途に就くのは8月20日頃だった。
そしてもう一度この寺を訪れた。寺の長老の禅僧が九俗を解脱する志に感じて、書院へ入らせてもらって話をした。3月に見た花の木の梢はすこし紅葉して、あの能因(*橘永愷)が霞とともに現れたのかと思って、彼の歌(*『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』か?)を想って一首を残した。
清見てら、ゆくてにみつるは なないろの いてほともなく もみぢしにけり
また、田子の浦の眺に、
なにしをを 田子のうらなみ たちかへり またもきてみん ふしのしら遊喜(*雪)
当寺領之事 如当知行不可有相違之條 全可令寺納者也(*この寺の寺領については税をかけず全て寺の収入とすることを認める)』 天正10年8月20日 秀吉 駿河国 清見寺へ
22日 秀吉は駿府へ来た。新しく守護となった中村式部少輔一氏が饗応した。
駿河の安倍郡、井宮の瑞龍寺は、秀吉の妹で家康の後妻が生前に参詣したことがあるが、この春に逝去したので、秀吉は悲しんで寺の住職を呼んで寺領の印章を与え、南明院室を供養した。
『当寺 山林竹木不可伐採 並 寺家門前 諸役令免除 畢 山屋敷八貫文之所
如前々被下置之條 全可令寺納 光室惣旭為 菩提無相違 寄付之間 勤行等 不怠慢之者也』天正18年8月8日 秀吉朱印 駿河国 瑞巌寺へ
(*この寺の山林を保全し、寺や門前には税金などを免除する。今まで通り、山や建物8貫文の領地を寺のものとする。これは妹の菩提を弔うためであるので、勤行して供養を怠ってはならない)
23日 秀吉は駿河の田中を通過した時、田中の城主の高力河内守清長の妻子が今も城にいたので、堀田若狭守一氏を城へ行かせて「清長は今度武蔵の岩槻の名城が与えられたので、すぐに向かうべきだ」と命じた。清長の妻はさっそく堀田に面会して、いきなり猪口を渡して酒を勧めて、この命令に感謝した。これから清長の妻は、毎年秀吉に土産を進呈するのが習わしとなった。
〇家康は今度関東の8州を領地とされたので、三河と遠州の諸将は8州に領土を与えられ、給料も増えた。しかし、駿河、甲州、信州の先方は、家康の家来としては新しいので、領地から得る収入は減らされた。
上野 箕輪城 10万石 井伊兵部大輔直政
上総 小瀧城 10万石 本多中務大輔忠勝
上野 館林城 10万石 榊原式部大輔康政
相模 小田原城 4万石 大久保七郎右衛門忠世
下総 矢作城 4万石 鳥居彦右衛門元忠
上野 厩橋城 3万石 平岩主計頭親吉
上野 藤岡城 3万石 松平新六郎康貞
上野 碓氷城 3万石 酒井宮内大輔家次
上野 久留里城 3万石 大須賀五郎左衛門康高
上野 小幡領宮崎 2万石 奥平美作守信昌
上総 鳴海城 2万石 石川左衛門太夫康通
下総 古河城 2万石 小笠原信濃守秀政
上総 白井 2万石 本多豊後守廣孝
上野 大胡 2万石 牧野右馬允康成
上野 吉井 2万石 菅沼小大膳定利
下総 関宿城 2万石 松平三郎太郎康元
武蔵 嵜西 2万石 松平周防守康重
上総 佐貫城 2万石 内藤彌次右衛門家長
武蔵 岩槻 2万石 高力河内守清長
その他、浦和 1万石の税務を担当させる。
上総の内 1万2千石 岡部内庶正長盛
武蔵 奈良尻・羽生・蛭川 1万2千石 諏訪安芸守頼忠
武蔵 忍城 1万石 松平主殿助家忠
武蔵 川越城 1万石 酒井河内守重忠
武蔵 羽生 1万石 大久保治郎部助忠隣
武蔵 本庄 1万石 小笠原掃部助信嶺
下総の内 1万3千石 久野三郎左衛門宗能
武蔵 東方 1万石 松平丹波守康長
上野 那波 1万石 松平和泉守康乗
下総の内 1万石 保科甚四郎正光
武蔵 八幡山 1万石 松平玄蕃頭清宗
上野 松山 1万石 松平内膳正家廣
下総 相馬 1万石 菅沼山城守定政
武蔵 深谷 1万石 松平源七郎康直
相模 甘縄 1万石 本多佐渡守正信
下総 佐倉領 1万石 三浦監物正次
下総 蘆戸 1万石 木曽千次郎
上野 阿布 1万石 菅沼新八郎定盈
〇『菅沼家伝』によると、家康が税務担当の彦坂小刑部直通に、三河の野田の定盈の石高を尋ねたとき、彼は「けしからんことに、たった600貫だ」と答えた。(これは3千石に相当する)そこで家康は彼の領地を3倍にして1万石を与えた。しかし、禄の方は相当減らされたので、家来はばらばらになったという。
伊豆 韮山 1万石 内藤三左衛門信成
家康は以前に信成へ与力数10騎をつけたが、その中の下村助兵衛、江坂市蔵、脇田又十郎、長井彌左衛門、浅井久兵衛、石田九蔵、近藤九郎左衛門、児玉博兵衛、安藤清蔵、岩瀬助右衛門の10人を信成の家臣にした。
上野 三蔵 5千500石 松平五左衛門近正
この人は松平源次郎家乗の一族で、三河の設楽郡大代を領地としていたが、以前武田に侵略されて、家乗の陣代として家来に準じていた。今回固有の領土をもらった。
武蔵 川越の内 5千石 酒井右兵衛太夫忠世
上野 布川 5千石 松平勘四郎信一
伊豆 梅縄 5千石 石川日向守家成
伊豆 市原郷 5千石 阿部伊予守正勝
武蔵 石戸 5千石 牧野讃岐守康成
上総 嘗原 5千石 大久保治右衛門忠佐
上総 奈化川 5千石 西尾讃岐守吉次
武蔵 入間、下総 海老名の内5千石 高木主水清秀
武蔵 柄間 5千石 内藤四郎左衛門正成
下総 佐倉領 5千石 山本帯刀成氏
武蔵 久志羅井 5千石 戸田左門一西
下総 佐倉領 5千石 本多縫殿助康俊
武蔵 兒賀尻 5千石 三宅惣右衛門康貞
上野 内野 5千石 三宅彌次兵衛正次
相模 土肥 5千石 永井右近太夫直勝
上総 五井 5千石 松平紀伊守家信
相模 中郡佐間 5千石 青山常陸守忠成
武蔵 雀 5千石 神谷彌五郎宗弘
相模 当麻 5千石 内藤彌三郎清成
武蔵 菖蒲 5千石 柴田七九郎康忠
伊豆 下田 5千石 戸田三郎右衛門忠次
下総 小弓 5千石 西郷孫九郎家員
武蔵 河越領 3千石 酒井輿七郎忠利
武蔵 禮羽 3千石 設楽甚三郎貞通
上総 小井戸 3千石 本多作左衛門重次
上総 勝浦 3千石 植村土佐守泰忠
上野 新川・桐原3千石 稲垣平右衛門長茂
武蔵 太田郷 3千石 服部権太夫守綱
下総 飯沼 2千石 松平外記伊昌
上総 山口、武蔵 稲毛嶺郡 2千石 坪内喜太郎定利
武蔵の内 1千石 高木善次郎正次
〇 本多中務大輔忠勝は、新しい領地の小多喜へ入った時、前の領主、土岐弾正少弼頼定入道慶岸の家臣を家来とした。頼定はこの国の満喜を居城としていたが、世間では満喜少弼と呼んで、優れた戦略家として通っていた。そこで忠勝はこのことを彼の家来に聴いたところ、その家来は、「慶岸はいつも安房の里見義高と戦っていたが、見かけは軍事の事は怠って、舞台を設けて踊りに励んでいた。また居城の虎の口を修理せず、船着き場の岸が険しいところを平たんにしていた。里見家の柾木大膳徒時綱は、この計略にかかって、満喜?(*満潮のときに)に攻め、うっかり船を上げたとき、慶岸は城に飾っていた紙の旗を絹の旗に立て替えると、古い門から兵が突然出て来て、すぐに敵は討ち破られ、時綱は大敗を喫した。それ以来里見は土岐の領地へ侵入することはなくなった」と話した。
これを聴いて忠勝は、土岐は謙信や信玄に劣らぬ武将だと非常に感心した。それからその家来に慶岸のことを尋ねるときには、萬喜殿と呼んだ。 また、小龍辺りに弾正の築いた砦も視察して、彼は城の造営にも優れていると感心した。忠勝は彼に習って、後年関ヶ原の戦いでは陣地の間口を広く取り、すぐに戦闘に入れるように兵を備えたという。
江戸の城主、遠山左衛門景政の甥で、遠山丹波と眞田隠岐信尹は、家康が江戸へ入るについて貢献したので、家康は普通の倍の恩賞として各人に1万石を与えた。しかし、彼らはそれを不服として、徳川家を離れ京都へ行って秀吉に泣きついたが、秀吉は許さなかったので、奥州の会津に行って蒲生氏郷に仕えた。慶長3年以降は、家康から5千石をもらって家来となった。
〇ある話では、秀吉は松下嘉兵衛之綱の領地6千石の代わりに、遠州久野に9千石、伊勢に千石合せて1万石を与えた。これは秀吉が駆け出しのころ、之綱の家来として世話になったからである。秀吉は一柳伊豆守が戦死したのを悼んで、弟の四郎左衛門直盛を後継ぎとし、尾張の葉栗郡黒田の城、3万石を与え、従5位に叙して、監物と改め尾張の秀次の家来とした。
9月大
朔日 秀吉は京都へ凱旋した。
8日 甲州の浪人の山中美濃守介勝が、享年69歳で死亡した。その子の主水介行は、その時家康の御家人だった。
18日 秀吉は聚楽城下の毛利右馬頭輝元の館を訪れた。これは輝元の伯父の景隆が小田原で、秀吉の家来に願い出たからである。輝元の新しい館は非常に美しく飾り立てられ、饗応も半端ではなかった。輝元は吉光一期一振り太刀、駿馬、立派な衣装20着、白銀千枚、金の茶碗、銀の臺、金杯、赤い糸300斤、白い糸2丸を秀吉に贈った。
〇この月、狩野右京重信入道法印永徳が、享年42歳で死去した。(この時父の民部入道松栄は存命だった)
10月大
14日 伊達政宗は今まで苦労して勝ち取った奥州のいくつかの郡を秀吉に削られたことに非常に憤慨して、奥羽の人々に一揆をおこす様に促し、今日14日に決起する予定だった。しかし、8月以来上杉景勝が出羽の検地を行い、六江(*宮城県)の地は、大谷刑部少輔の家来が検地して人々が困り果てた、ところが大谷の家来が権威を揮って住民3人を斬り殺し5人をとらえた。そのために住民が怒って、予定より早くこの月の上旬に一揆をおこして大谷勢50~60人を殺害した。
一揆は鍋倉四郎を頭として2千人が、増田の館を砦として立てこもった。今日景勝は1万2千の兵で包囲したので、一揆衆は景勝の浅黄扇の馬印をめがけて攻撃して、旗本を撃破しようとした。しかし、戦いなれた上杉軍は乱れず、後から救援に来た一揆衆をすべて打ち負かし、取った首は1千500に及んだ。景勝勢では、500余りの戦死者がでたが、負傷者は少なかった。
15日 増田の城が陥落した。上杉の先隊の藤田能登信吉は、降伏した者の髪をすべて剃って、武器を取り上げ、軽率200人に守らせて翌年まで大森に監禁した。景勝は大森城に駐屯して、由利、仙北の国境を定めた。また、木村秀俊も頻繁に起こる一揆を鎮めて、検地を行った。
25日 三崎山(大森から上道3里)にある一揆の城を、藤田信吉が一気に攻めて落とし、旗本組は菅野の砦を攻めた。
26日 菅野の砦が落ちた。ここでも捕虜の髪を剃って、坂田(*酒田?)城に収監した。かねて景勝の家来の本庄越前繁長の居城、庄内の大浦へ昨夜より一揆衆が攻めてきたということで、すぐに防衛して城兵と協力して、一揆衆を負かせた。それで573人を討ち取った。
藤島城も一揆が乗っ取り、景勝の城代の粟田永壽の家来、酒井新右衛門と同極之助などが一揆衆を討ち取った。しかし、検地の作業で皆が疲れ果てていて、その上深い雪で道路が埋まっていたので、景勝は戦いの続きは来年にしようと、越後へ撤退した。一揆衆もほどなく城を棄てた。
〇木村伊勢守秀俊は、一挙に30万石を秀吉にもらったのでひどく思い上がって、葛西や大崎の地元の士たちを雇わず、新しい家来たちは過酷でやりたい放題だったので、地元の士や庶民が耐えきれず、樫山、気仙、東山で一揆をおこした。
伊勢守はこれを滅ぼそうと、葛西郡登米間(*登米)城を出撃して、彼の息子の彌一右衛門秀望のいる大崎の古川城へ赴いたが、息子は城から父親の安否を聴くために登米間へ出向こうとしたときに、潮が満ちるように一揆衆が出て来て、登米間と古川の城を落とし、通路を遮断した。そのため父子はやむなく家臣の成合兵左衛門の佐沼の城へ立てこもったが、食料が乏しく、葛西や大崎には一揆の旗が上がって自分の城が落ちてしまったので、父子は進退窮まり、この状況を会津に連絡すると、氏郷はすぐに佐沼を救援するために自ら出陣したという。
11月
4日 秀吉は、所領16万石の印章を堀秀治に与えた。(全部で29万石だったが、その内13万石は家来の溝口と村上の領地である)
5日 蒲生氏郷は出撃しようとしたが、猪苗代までの30里は道が雪に埋まっていた。そこで昨夜から近郊の郡の人夫に草鞋に橇をつけ、蒲脛巾(*きゃはん)をつけさせて肩を並べてそろって雪道を一面に踏み固めさせ、その上に席薦(*たたみ)敷いて、騎兵3千、雑兵1万ほどで猪苗代まで出た。その時、伊達政宗が妨害しに来ることを知って、政宗の家来、片倉小十郎景綱の三春城を抑止するために、田丸中務少輔直昌を須賀川城へ残したという。
7日 氏郷の先陣を政宗の領内の鎌田本折に進めたが、政宗が一戦を交えようと催促するので、そこに留まらず、信夫郡飯塚に進んで対抗しようとした。
8日 氏郷は二本松から大森の城下に着いた。政宗も進軍した。
10日 秀吉は、北条氏直の高野山の住居が寒すぎるので耐えられないだろうと、摂津と河内の間の都合のいいところへ移るように、家康に命じた。そこで家康は米津清右衛門清勝に命じて、それを氏直へ伝えた。氏直は下山して紀州の天野に住まいを移した。
16日 氏郷は大崎の境の松森に駐屯した。政宗は吉岡に陣を張った。氏郷は堂々と吉岡について作戦を練っているときに政宗は襲おうとしたが、氏郷の備えが堅かったのでうまくいかなかった。
18日 氏郷は軍を進め、途中の鹿間と中新田の城将は逃亡した。氏康は中新田の城に入って休息した。
19日 氏郷は高清水の敵城を攻めるために出撃したが、政宗は病気だといって先陣に挑んで来ないで、後に控えて隙を窺っていた。そこで五手組、六手組、七手組(*分隊)を繰り出して、最後に鉄砲隊を据えて、敵の最後尾を撃って、こちらの先頭の隊が攻撃するように縦に長い陣で政宗を抑えながら進軍した。
名生の敵の城から、突然氏郷の先鋒が襲われた。蒲生源左衛門氏成がこの敵を撃退し、すぐに追撃して二と三の丸を乗っ取ると、氏郷は自ら矛を手にして旗本の兵を引き連れ本丸を抜き、580人ほどを斬り殺した。この時、城兵は前後から挟み撃ちにして氏郷を打ち滅ぼそうと、政宗が来たが、すでに城が落ちて蒲生の備えが堅いのを見てなすすべがなく、氏郷の陣の左側に陣を設けた。古川と松山の城将は、城を棄てて逃げ去り氏郷は名生の城に立てこもった。その夜、政宗の従者の須田伯耆がこっそりやってきて、政宗の企みを漏らした。佐沼の寄せ手は氏郷が救援に来ることを聞いて退散したので、木村父子は名生の城へ使いを送り、氏郷がすぐに救援してくれたので敵の包囲が解けたことを感謝した。
23日 氏郷は、佐沼の城の糧米が切れていることを聞いて、兵士を300人送って木村父子を迎えた。父子は佐沼の城を離れて今日名生に到着し、氏郷の救援に感謝し涙した。
一方、政宗もしきりに使節を送ってきて、「反抗はしない」と挨拶した。氏郷は「それなら、この近くの宮崎の城をよこせ」と命じたが、政宗は一揆衆と組んでいるので、そのまま兵を収めた。
家康は氏郷の連絡によって、すぐに会津へ出兵することを関東の8州へ通告し、魁の武将として、結城参河守秀康朝臣と彼の近臣の多賀谷、国士の宇都宮、那須、太田原、大関、福原、蘆野、千本、岡本、伊王野、更に榊原式部大輔康政を先鋒として急いで出撃させた。
浅野弾正少弼長政は、奥州の土地の検地を大方終えて、更に甲州、信州、駿河のこれまでの租税を記録して帰路に就いたが、駿府で奥州で一揆が勃発したのを聞いて、家来の浅野六左衛門を会津と米沢へ行かせ、自分は江戸を訪れて家康に軍隊の案配を聴いてから、奥州へ赴いた。
晦日 家康の先鋒榊原康政へ秀吉は感謝状を送った。
12月小
〇上旬、秀吉の使いの石田治部少輔が江戸にきて、家康に奥州へ出撃するように勧め、さらに水戸、岩城、相馬へ行って、彼らを率いて伊具、亘理、柴山へ攻撃しようとした。秀吉は尾張の中納言秀次に大軍を付けて、会津の一揆衆を根絶するように命じた。
〇中旬、浅野弾正少弼と榊原式部大輔は奥州、二本松に到着した。氏郷の救援に驚いて佐沼の寄せ手は退散したので、木村父子は名生の城へ赴いて氏郷とともに雪なので、兵を会津へ収めようとしたが、その途中は政宗の領地で政宗が襲ってくるということを知らせた者がいたので、しばらく名生に留まることになった。このことを浅野と榊原が政宗に告げると、政宗は大いに困って、すぐに二本松に行って、いろいろと防衛策を取った。
長政は「あなたが叛かないのであれば、伊達藤五郎成實と片倉小十郎景綱を氏郷に贈って、それを実証してくれ」といった。政宗を了承して米沢へ帰った。長政がこれを氏郷へ伝えると、氏郷も了承したという。しかし、しばらくして政宗は片倉だけを名生へ送って来た。氏郷は非常に怒って、片倉を送り返し、政宗が早速約束を破ったことを二本松へ伝えた。
18日 秀吉は羽柴秀次へ手紙を送った。
23日 佐竹義宜が従4位下侍従に叙され、水戸侍従となった。
28日 秀吉の推薦で秀忠は、従4位下侍従に昇進した。また以前の通り武蔵守を兼任した。
29日 大谷刑部少輔の奉書が奥州名生城へ着いた。これは秀吉の命令で成田下総守氏長の娘(名は貝)を急いで京都へ呼び寄せるためである。蒲生氏郷は会津へ連絡して、長い旅の費用など丁寧に段取りをし、氏長の家来の吉田和泉など200人の護衛をつけて京都へ向かわせた。
政宗は非常に恐れて、伊達藤五郎(後の上野介)と片倉小十郎の2人を、大崎から名生に向わせる様に命じた。
〇今年家康の命令で、故岡崎三郎信康の娘を古河の城主、小笠原兵部大輔秀政(貞慶の子)へ嫁がせた。
〇酒井右兵衛太夫忠世を秀忠の家臣とした。(後の雅楽頭)
〇太田新六郎重政は500石をもらい、御家人になった。18歳だった。この人の中興の祖、太田左衛門太夫資康入道道灌の長男は、六郎左衛門資康といい、次男は大和守資高といった。彼は江戸城に住んで、北条氏綱の婿となった。彼の次男は源六(または新六郎)康資といって、怪力の持ち主だった。彼は北条氏康を恨んで永禄のころに上杉、里見に通じて氏康に敵対し、結局佐竹の家来となって、入道になり、武庵といって天正9年10月12日に51歳で死去した。
その子が新六郎重政で、佐竹の家来だったが、佐竹三楽齋について若くして何度も手柄を上げ、重政の妹は家康に仕え、側室となって水戸黄門頼房の准母として英勝院となった。(水戸の紀陽頼宣も兄弟であるが、柾木左近入道環齋の養女の子である)
〇遠州の堀江に住む士の権田綾部泰長は、家康に従って江戸に来て領地をもらい、年貢を握って軽率50人を預かっていた。その子の小次郎も家康の近習で、後に家康が天下を取った時に、再び遠州に領地をもらった。
〇織田信雄の家臣、中山民部勝時の子、猪右衛門勝政(母は水野右衛門太夫忠政の娘)、荒川長兵衛守世、今川の浪人、飯高主水貞政、同彌五兵衛貞次などの諸国の士が江戸に集まって、家康の家来となったものが多数いた。
〇関東の8州の落人の中で名前のある人は、その人物や勝った様子に関係なく全て家康の御家人となった。
間宮若狭綱吉、同十左衛門頼次、新左衛門直元、左衛門信盛、傳右衛門元重、富永主膳重吉、小幡次左衛門正俊、加藤左衛門次郎正胤、飯田四郎左衛門重次、若林和泉直則、山田伊賀直安、難波田因幡景次、根岸長兵衛定仍などは早くして幕下になった。近臣のp一族の子弟の、都筑藤十郎昌重、小宮山喜左衛門宜正、本多主膳正家、藤川右衛門、飯室内臓助則などは禄をもらった。
〇甲州の秤匠守随兵三郎という人が多門傳八郎を訪れ、井伊直政の下で関東八州の金、銀、綿糸などの商売の権利をほしいと願い出たので、家康は了承して印章を与えた。
〇ある話で、水野彌吉康忠は三四郎と改名し、筧八左衛門とともに遠州の町の司だったが、ある時家康の怒りに触れて金融業に転向し、今度は樽屋三四郎となって、和泉の奈良生まれの奈良屋市右衛門と北村彌兵衛とともに、それぞれ江戸の町年寄りに命じられた。
武徳編年集成 巻40 終(2017.4.30.)
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