巻44 慶長元年正月~慶長3年6月 朝鮮半島再侵攻
慶長元年(1596)
正月小
〇中旬 秀吉は関東の諸公に命じて河内堤(*文禄堤)を築かせた。
〇本多三彌正重が家康に仕えた。この人は譜代の家来として軍功を重ねていたが、永禄6年の一向宗の蜂起の際に首領だったので翌年に三河を離れて伊勢に行き、瀧川一益に仕えていた。彼はその後前田利家の家来になったり蒲生氏郷に仕えたりしたが、どこでも功績を上げたので、ついに家康の許しを得た。(本多佐渡守正信の弟である)
2月大
3日 秀吉が病気になり諸侯は毎日見舞いに行った。
3月大
7日 秀吉の病気が快復したので皆が祝いに行った。
4月小
4日 畿内は厳寒のように雪が降り寒さが厳しかった。
27日 秀吉は土佐侍従元親の館を訪れて家康と施薬院と共に食事をしたという。道中の護衛は600人あまりだった。
5月大
8日 家康は正2位となり内大臣を任じた。
松平源次郎家乗は従5位下、和泉守となった。これで徳川の御家人の内2人が侍従、5位が18人になった。
11日 家康は参内した。これは内大臣になった挨拶のためである
13日 秀吉は稚児、捨丸(4歳)に龍顔(*天皇)を拝ませるために家康など諸侯とともに参内した。秀吉父子と家康は牛車で行き。捨丸は彼の介添え役の前田黄門利家が抱いて同乗した。納言レベルの諸侯は塗りの輿に乗り、参議中少将レベルは馬に乗って参内した。
捨丸は従2位中納言に叙され、秀頼となった。
家康には永井右近太夫直勝、松平右衛門太夫正綱、内藤右京進安、豊島主膳信満が随行した。
25日 江戸城で家康の家臣、渡邊新左衛門政綱(初めは半十郎)が享年53歳で死去した。
6月小
20日 家康の家来、上野の下館城の城主、水谷兵部大輔政村入道蟠龍齋全珍が享年76歳で死去した。
閏7月小
12日(新暦9月5日)
深夜、5畿内は大地震に見舞われた。
神社や仏閣、館や住宅が全て破壊された。伏見の城では建物が倒壊し、地面が割れ、水が噴き出た。上臈や女房73人、奴隷500人余りが圧死した。
秀吉はかろうじて寝室から庭へ出て、政所や松の丸(側室)とともに死を免れた。
加藤主計清正は石田(*三成)による讒言によって蟄居させられていたが、歩卒200人に棒を持たせて伏見の城に入り秀吉の寝室の庭へ駆けつけてみると、秀吉は庭に屏風を立て、女装に覆面姿で座っていた。尼孝蔵主(高台院の筆頭上臈)も傍についていた。政所(高台院)は清正が来てくれたのを喜んで孝蔵主に礼を述べさせた。
清正は、「自分の朝鮮での働きは誰にも負けないつもりである。しかし、帰国後に石田と小西の讒言によって(秀吉に)挨拶に来ることができなかった。そんな輩の内で今夜秀吉の危難を救いに来たものがいるのか!」と涙を流して憤慨した。秀吉は何も答えなかった。家康の館の櫓門は傾いて加々爪隼人政尚が圧死した。愛宕山の坊舎は全て倒壊した。
13日 家康は早朝に伏見城へ行って秀吉に庭で面会した。また、御所へ使いを送るように秀吉に進言した。秀吉は安堵して一緒に天皇に会おうと、歩いて京都へ向かった。
このとき傍には家康の御家人だけがいて秀吉には誰も附いていないような状態だった。伏見稲荷と藤の森のあたりで御家人たちは家康の袖を何度も引いて、「ここで秀吉を殺そう」と誘った。しかし、家康は一度も振り向かなかった。
秀吉は大分歩いて疲れたといって刀を外して、「家来の誰かに持たせるように」と家康に渡して2、3歩進む間に、秀吉は「いいから、いいから」というので、家康はその刀を井伊兵部少輔直政に渡した。
そのうち秀吉の従者も駆けつけて護衛は増えた。秀吉は本多中務大輔忠勝を呼んで、「徳川殿は天下の名将だ。軽はずみなことをしない人であることは良く知っている。今自分は刀をお前に持たせようと思った、それはお前が若い時からの忠臣だからだ。ところが徳川殿は刀を直政に渡したのでお前はさぞや歯がゆい思いをしただろうな。小心者めが」と笑った。忠勝は赤面して詫びたという。
秀吉は参内を済ませてから、京都郊外東山の大仏殿を詣でた。仏像が倒壊してめちゃめちゃになって全然霊験が感じられなってしまっていた。秀吉はその様に怒りを露わにして仏像を矢で射た。彼は伏見へ帰って清正に会って、以前通りに親しく接した。
20日 秀吉は大地震を恐れ難を逃れるために城を木幡山に新たに築かせ、今日工事が始まった。
今回の城は、柱の3分の2は基礎の上に出ているが残りの3分の1は地中へ5尺埋めるように指示した。そして年末までに完成させよ。馬廻りの若者や小禄の者、中間などと建設チームを分けて、昼夜兼行で建設せよ」と命じた。
応仁、文明以来戦乱が続き、ようやく天正18~19年になって東北地方まで天下が統一され、国内が枕を高くして寝られるようになったにもかかわらず、今度は朝鮮への出兵によって士も庶民もえらく苦しまされた。それに加えて伏見の城を2回も建設することで更に困らされる事態で豊臣氏が滅ぶのを望まないものが誰もいなくなくなり、自然に人望が家康に集まっていったという。
8月大
18日 明の使いの楊方亨、沉惟敬と朝鮮の使いの黄愼、朴広長が和泉の堺の港へ到着した。
29日 和平のための明と朝鮮の使節が伏見に到着した。
〇今月、甲斐庄喜右衛門正治が享年63歳で死去した。この人は以前河内から戦乱を避けて濱松で家康に仕えていた。この人は楠河内判官正成の末裔だという。
9月小
朔日 明の使節が伏見城で秀吉に面会した。
2日 秀吉は使節団をもてなし、上段に秀吉が座り、下段の右が使節団の席で、左側に家康と利家など納言以上の者7名が座った。会見が終わって使節は退席した。
秀吉は花園亭に入って、承兊、霊山、永哲の3人の長老に明の詔書を読ませた。するとその文言に「秀吉を日本の国王に封ずる」とあったので、秀吉は非常に怒った。というのは、最初小西行長からは「明の皇帝が秀吉を明の王にする」と固く約束したと聴いていたので、朝鮮に派遣していた軍勢をすべて帰還させた。しかし、詔書にはこのことが書かれてなく、これで小西が秀吉に嘘をついたことが判明した。
秀吉は「朝鮮との和平は許さない」と、加藤清正と3奉行に命じた。そうして清正には九州と四国の大小名に対して朝鮮を再度攻撃するようと命じ、朝鮮の使節は翌日に追い返された。
8日 土佐の葛木濱へ蛮船が漂着した。これは延須蛮(*のびすばん、メキシコ)へ行く商船で、逆風でマストが折れ、舵が壊れ、水も食料もなくなり、乗組員の500人が死亡し、残りは300人足らずだった。土佐の長曽我部元親は米50俵、酒や肉を贈り、水を補給して乗組員を介抱した。また、急いで舟を出して大阪に行き、秀吉にこのことを報告した。秀吉はすぐに増田右衛門尉長盛を船で土佐へ行かせた。
20日 長盛は土佐の港で船を監察し、積み荷の繻子5万反、金襴緞子5万反、白糸16万斤、金千500両、木綿26万反、端麝香1筥(*はこ)、生きた麝香14匹、猿15匹、鸚鵡2羽を没収して、船150隻を回して大阪へ搬送した。乗組員には精米千石と酒や肉、雑貨など少々を与えた。
〇今月、長等山園城寺に留置されていた人たちが財を蓄えているのを知って、秀吉は非常に怒って、僧侶を放逐し寺領を召し上げた。この寺の秀郷朝臣が納めた鐘が最近鳴らなくなったので、これはこの事件の暗示だと巷では囁かれた。
10月大
6日 土佐からの廻船が大阪に到着し、蛮船から没収した品々が秀吉の倉庫に運ばれた。その品物は、天皇や公卿や上人、そして家康などに配分された。
この蛮船は全長30間(約60m)幅2間で、8本のマストがあったが、暴風によって3本だけが残っていた。秀吉は船を全て修理するように命じた。(翌年の3月に本国に帰帆した)
10日 秀吉が造営させた木幡山の本丸が完成した。
11月小
3日 蒲生秀行の家来の蒲生四郎兵衛郷安(本氏赤座)が、新しい伏見の城で政務を執る許可を秀吉から得た。しかし、これは石田三成の陰謀によるものである。
〇牧野新次郎康成が従5位下に叙され、讃岐守に任じられた。(故山城守定成の子で、右馬允と同名である)
12月大
5日 家康の武将の久野民部大輔宗秀と三宅彌次兵衛正次が互いに恨みあって決闘して双方が死んだ。そのため、宗秀の領地1万3千石と正次の3千石は没収された。宗秀の年老いた父の三郎左衛門宗能入道宗安が悲嘆にくれたので、家康は彼に下総に領地1千石を与えた。
27日 設楽越中守貞通(最初は甚三郎)が享年63歳で死去した。この子の市左衛門貞信は禄をもらい家康に仕えた。
晦日 家康の命令で松平丹波守康長の娘(14歳)が、戸田采女氏鉄(左門一西の子)に嫁いだ。(康長の娘は父の領地である武蔵の東から去年江戸に来て、家康に会ったという)
〇今月、御家人の神保総右衛門政長が死去した。
〇今年、下野の宇都宮三郎左衛門は、藤原国綱に実子がいないので、家来の臣10人が上京し、浅野長政の庶子の采女長次に継がせたいと奉行に申し出た。
国綱の弟の芳賀左衛門はかねがねこの10人と不仲で、単独で上京して「慣例に従って芳賀家より養子をたてるべきだ。長政の末っ子が家家を継ぐことは国綱は望んでいない」と、10人の臣の僭上(*さしでがましいことをすること)を秀吉に訴えた。
秀吉は、宇都宮の本家、豊前の城の井屋形常陸介朝臣が天正16年に滅びたのち、東国に点在する領地を国綱が横取りして今まで来たことを快く思っていなかった。そこで芳賀の申し出を了承し、その10人を芳賀が罰するように密かに命じた。芳賀は思慮が足らない人で、秀吉の考えを理解できず、非常に喜んで10人の内の6人を秀吉の命令だとして京都で殺し、下野へ帰ってから残る2人を殺しただけでなく、彼らの領地も横領した。
秀吉は、国綱の常陸と下野の領地18万石が浅野長政に調べさせると、実際は30万石ほどにもなって、国綱が勝手に他人の領地を横領していた罪を明らかになった。そこで秀吉は彼を備前へ配流し、彼の領地を全て没収した。これで曩祖(*先祖)の宗圓座主が還俗して、宇都宮の家を興してからこの国綱までの21代目で家が断絶した。
〇秀吉の命令で、会津の主、蒲生三郎秀行(幼名鶴千代)を家康の婿にした。
〇植村土佐守泰忠の子、帯刀康勝が今年19歳で家康に謁見した。
〇家康は松平右京亮康親を呼んで、「大番頭は先鋒の役目を果たすので、功績のある士を選んで掌握させる。今1人不足している。お前は自分の家族なので役人にはできないが、才能があるのでその役を務させるので怠らないように」と命じた。彼は謹んでその役を受けて務めた。
〇池田三左衛門輝政の弟、備中守長吉の嫡男、治兵衛長幸(9歳)が家康と秀忠に謁見した。秀忠は新藤五国光の脇差を与えた。(後備中守)
〇松平主殿助家忠の嫡子、又八郎が秀忠の前で元服した。秀忠は諱の字を与えて忠利とし、「雲次の刀」を与えた。(後の主殿助)
〇石川日向守家成の嗣子宗十郎も同時に元服し、諱をもらって忠総となった。実はこの人は大久保相模守忠隣の次男で家成の外孫である。(後の主殿頭)
〇東奥、松前の領主、蠣崎伊豆守慶廣の子、若狭守盛廣が初めて家康に謁見した。(後に松前を屋号とした)
〇杉原四郎兵衛正次が御家人となった。(天下が統一された後、正次は伊豆の気多郡八代村千石を領地として与えられた)
〇藤方平九郎(伊勢の生まれ)が御家人となって、下総の須賀保村500石をもらった。
〇軽率の隊長、森川金右衛門氏俊が病気で引退した。彼は配下の与力5騎と同心50人を嫡子の氏信に預けた。(氏信もまた金右衛門と名乗った。18才)
〇大御番の松平石見守康安の組の三雲新左衛門成持に米500俵を与えた。
〇信州の住人、大井小兵衛の子の河内吉長入道萬雪と近江の甲賀生まれの西尾猪兵衛正義がいっしょに御家人となった。
〇内田新六郎正成の子、平左衛門正世が家来となった。
〇木曽義仲の18世の千次郎義就(義利)は、その叔父小笠原内臓助に恨みがあって、千村と山村に命じて殺そうとした。山村甚兵衛良勝が最初に刀を抜いて斬り、千村平右衛門良重が二番目に斬ったという。また幼い小姓に罪があると牛割きに処した。このことが秀忠に聞こえて木曽の領地は没収され、義就も邊鄙(*都から遠く離れた場所)で自殺した。この人には弟が2人いて、長次郎義春、興三次義通といった。二人は武田信玄の外孫である。義春は後年難波の役では秀頼方についたという。
慶長2年(1597)
正月小
元旦 家康は、伏見の陣中へ家来と共に参賀した。また、遠州秋葉の東照山平福寺薬師如来へ誓願を、自筆でしたためた。その紙には次のように記されていた。
息災長久 心中所願、眼病平癒
右於成就者堂建立可仕者也 慶長2年正月吉日
明(賀仁)東(於)照(須)御威光誓(伊於)吾(仁)譲(利)玉(江)屋
(みょうがに、 あずまをてらす ごいこう 誓いを われに譲りたまえや)
2月大
5日 渥美太郎兵衛友吉が死去した。
この人の父の知久は存命だった。友吉の子とも景は(又太郎兵衛という)は秀忠に仕え、後年紀陽(*徳川)頼宜に仕えた。(友景の子は太郎兵衛といい、曽祖父の諱を使って知久として徳川家に仕えた)
13日 杉浦藤次郎時勝の二男の善十郎善成(後善右衛門となった)は、武蔵の都筑郡鴨志村200石をもらった。
〇この日、秀吉は再び14万の軍勢で、朝鮮へ攻め込んだ。
3月小
朔日 宇都宮国網は「朝鮮で戦功があれば領地を与える」という秀吉の命令によって騎士86人、雑兵513人を率いて海を渡った。
10日 毛利参議輝元が権中納言に任じられた。
4月大
〇武蔵と上州の盗賊13人が、上州飯塚の家に侵入して、武器で反抗した。那波の城主、松平和泉守家乗の弟、左近眞次(21歳、後の縫殿頭)は、自分で屋内へ入ってたちまち1人を突き殺し、1人を捕えた。従者が競って乗り込んで、10人を殺したり捕えたりした。ただ1人だけが逃亡した。
29日 御家人の山中左太夫助行(初めは主水)が死去した。
6月小
2日 渥美太郎兵衛知久入道が享年71歳で死去した。この人は伊勢の生まれで、斬られて尾張に来て、家康が熱田の加藤図書順盛の館に住まわされていた時から、家康の傍に仕え、更に軍功もあった。
12日 前の筑前の領主、権中納言従三位兼行左衛門督大江朝臣隆景が死去した。享年は62歳。この人は13州の大名、毛利大膳太夫兼陸奥守元就の三男で、小早川氏の跡を継いで武勇の誉れが高かった。(小早川は平家の姓で、土肥實平の後裔である)秀吉が九州を征服したとき、筑前を彼に与えたが、恩賞が大きすぎると辞退し、秀吉の妻の兄、木下肥後守家定の庶子秀秋を嗣子として、領地を譲った。(秀秋も左衛門督に任じ中納言になった)、以後秀秋は金吾黄門と呼ばれた。
23日 伊豆の下田城主、戸田三郎左衛門忠次が享年67歳にて死去した。
7月大
10日 秀忠は南部山城守利直に手紙を送り、鞍5個と鎧5着を贈った。
15日 朝鮮の唐島で海戦が行われた。味方は敵の船数隻を分捕り、敵は敗北した。秀吉は「水軍の脇坂中務少輔安治を激励せよ」と家康に命じたので、彼は代わりに手紙を送った。
18日 去年秋の大地震で京都の大仏殿が壊れた。秀吉はそれを見て「仏像を安置するのは衆生済度(*しゅうせいさいど:生きる者の迷いから救済して悟らせること)のためなのに、大仏が我が身を持ちこたえられずに壊れてしまってどうするのだ。役に立たない」といって自分で仏像に矢を放ち片付けさせた。そうしてもう一度仏閣を建てて、信州の善光寺の如来像を、大仏の代わりに安置させた。
今日、その仏像が京都へ運ばれてきたので、秀吉はそれに京の町を練り歩かせてから、堂に運びこみ諸宗の僧侶を集めて供養させた。
28日 備後の鞆で、前の征夷大将軍従三位権大納言源朝臣義昭が死去した。(享年61歳、霊陽院)彼には2人息子がいて以前は信長の寺の僧になっていた。圓満院義尊と実相院當尊がそうである。
8月小
8日 前の武蔵の鉢形の城主、北条安房守氏邦が加賀で死去した。
18日 西郷弾正左衛門家員が享年42歳で死去した。嫡子の孫九郎忠員が禄を継いだ。
9月大
〇加賀中将利長が参議従3位になった。
10月小
2日 永井安左衛門尚家が死去した。この人は以前に三河の大濱あたりの租税を司だっていた。その子の新八郎はこの時関東の収税を仕切っていた。
12月小
3日 秀吉は善徳院玄以法印に命じて、近江は京都の近郊で一揆が起こりやすい地なので、この地域の城を破壊させた。
12日 秀忠が武蔵の稲毛の村で放鷹しているときに疱瘡に罹り、老臣が急の手紙を伏見へ送った。
17日 江戸からの手紙が伏見へ届いた。家康は永井彌右衛門白元(後の監翁)に秀忠の病状を尋ねに行かせた。白元はその日に伏見を出発した。
20日 永井百元は昼夜兼行で旅して、4日間で江戸に着き秀忠に家康の言葉を伝えた。
秀忠は遠来の使いの到着を喜んで、季節の服を贈り伏見へ返した。大久保治郎大輔忠隣が秀忠に家康のことづけを伝えた。
25日 永井白元は伏見へ帰り、秀忠の疱瘡が徐々に治っていることを家康に伝えた。家康は彼が速く江戸を行き来したのに感心した。
27日 徳川家の草分け時代から仕えた家来の上州白井の城主、本多豊後守藤原廣孝が享年70歳で死去した。
〇この年、秀忠の娘が誕生した。酒井河内守重忠が魔除けの弓を射た。彼女は成長してから豊臣秀頼に嫁ぎ、秀頼が自害した後は本多中務大輔忠刻の正室になった。
忠刻が死去した後は髪を切って、江戸城の北の丸に住んだ。大繁院である。
〇家康は外孫の奥平忠七郎忠政を上州吉井の村主菅沼大膳亮定利(最初は小大膳)の養子として家督を継がせ、2万石を与えた。その後彼は美濃の加納の城をもらって松平摂津守となった。
〇山口修理亮重政の子、熊丸重信は8歳で秀忠に謁見し、長次郎の名をもらった。(後の伊豆守)
〇伊勢の浪人、保々長兵衛則貞は、当時加藤清正の家来、加藤百助忠就の許に居候していたが、津田小平次長興の取り立てで、家康の御家人になり、領地千石をもらった。
〇甲陽の武田典厩信豊の家来、青木尾張信次の養子、清左衛門が御家人になった。(この人は実は落合常隆の次男である)
〇近江の勢田(*瀬田?)の青木木工右衛門という士が、父の復讐として青木左京を討ち取った。この時、御家人の美濃部清州之助茂朝の子、三郎茂次が加担したとして、五奉行は徳川の老臣へ彼を殺すように命じた。家康は密命によって茂次をあちらこちらへと逃げさせて、罪を逃れさせた。
伏見で御家人の高橋金七郎と大谷刑部少輔吉隆の家来が諍いを起こした。安藤治右衛門定次の三男、長左衛門一勝が助太刀をして、大谷の士を殺して逃げた。安藤は、前田利家に仕えて元和の難波の戦い(*大阪夏の陣)で手柄をあげた。
〇越前秀康の二男、虎松が誕生した。後の伊予守忠昌である。
〇下総相馬の領主、土岐山城守源定政が享年47歳で死去した。この人は菅沼藤蔵といって、子どものころから家康に仕え活躍した。その子の與五郎定義(後の山城守)が家督1万石を領した。
慶長3年(1598)
この年から慶長6年までは、自分(高敦)の記した『武徳安民記』30巻に詳しく記されている。従ってここでは概略と書き洩らしたことだけを記すことに留める。
正月大
2日 家康は伏見の館で、新年の行事を例年のように行った。
家康は元旦の夜に夢のお告げがあって、雄徳山八幡宮へ詣でた。
今夜、江戸の御家人の米津清右衛門の妻が、和歌一首を夢で見た。
「盛りなる 都の花はなり果てて 我妻の松ぞ 代をば継ぎける」
7日 畿内で大雪が降った。
9日 秀吉はまた蒲生家を憎むことがあって、藤三郎秀行の領地の奥州の20郡、出羽長井の2郡合わせて18万石を取り上げて、上野の宇都宮に新しく検地した18万石を与えた。
24日 秀吉は上杉中納言景勝に、彼の所領越後と信州の川中島4郡から、奥州の20郡と出羽長井の2郡、それに元からの領地佐渡と出羽庄内の3郡、合せて131万石余りを与えた。
会津の城にいた堀久太郎秀治には、越前北の庄の29万8千石から、自分の領地の溝口、村上とともに越後を与えて、従5位下侍従にした。彼の家来の近藤織部正重は1万石もらい秀吉の直属の家来となった。
晦日 遠州久野の城主、松下石見守之綱が享年62歳で死去した。(法諱は長秀)この人は若狭守長則の子で、初めは加兵衛といって秀吉が若い時の主人である。
〇今月、伏見で堀久太郎の館で失火が起き、岐阜黄門秀信の館が類焼した。丹波少将忠興の家も危うくなった時、加賀の黄門利家は年老いていたにもかかわらず3千人を動員して駆けつけ、細川の家が焼けた時には、煙の立ち込める中、自分も屋根に登って指揮し、家来たちが獅子奮迅して火を消し止めた。
3月大
15日 秀吉は京都醍醐寺で花見の宴を催した。
今日、以前南近江にいた佐々木六角弾正少輔源義賢入道、抜関齋、承禎が流浪の身で死去した。
4月小
20日 加賀黄門利家が従2位となり、大納言となった。
〇下旬 秀吉は石田三成を呼んで、「自分は朝鮮の戦に飽きてしまったので話を聴きたくない。お前は肥前の名護屋で指揮を執れ」と命じた。三成は固辞したが許してくれなかった。三成は仕方なく承知して退席した後、長束正家と大谷吉隆のところへ行って「自分が筑紫に行くとその後でまずい噂が立つだろう。よく考えて秀吉に対応するように」と密かに述べたという。
5月大
3日 秀吉は朝鮮に出ている加藤左馬助嘉明の活躍を褒めて、3万7千石を追加した。
5日 端午の節句の勤めを終えたのち、秀吉は病にかかった。養安院が脈をとってみると異常はなかったが、非常に変だった。そこでいろいろセカンドオピニオンの意見を聴いてから薬を飲ませることになった。京都からの要請で、夜中に通仙院、施薬院、竹田法印が駆けつけ診断をした結果、所見は一致した。
7日 秀吉の病状は非常に悪く、昨夜は夜中まで養安院は薬を与えたが病状が好転しないので、彼は他の医者たちと相談して、もう一日適当な量の薬を飲ませた。
8日 秀吉は武田法印の薬を飲んだ。
11日 石田三成は京都を発って九州へ赴いた。
22日 秀吉は京都の大仏の再建供養を行った。
〇下旬 秀吉の病状はますます悪くなり、虚損の症(*衰弱している状況)という。
6月小
2日 いろいろな医者が来て秀吉の脈をとり、これは治らないだろうということになったという。
17日 秀吉は日を追うごとに痩せて食欲もなくなってきた。
秀吉は、浅野、前田、石田、増田、長束の5人に「自分は諸侯や家来たちの多くが自分に恨みを持っていると聴いている。これは良くないことだから、今後はお互いに恨みっこなしで団結して秀頼を守るように」と命じた。
5人はこの命令を他の皆に伝えた。皆は、「心を一つにして後継ぎをサポートするのに誰も異存はないが、それぞれには様々に不満が溜まっているので、命令に従って仲良くするなんて考えられない」といった。
秀吉は仰天して家康を呼び、「なんとかうまくまとめるように」と命じた。そこで家康はそれぞれに会って秀吉の命を伝え、みんなでうまくやろうと説得したが、誰もうんとはいわず、過去の恨みを忘れる様子はなかった。
家康は「諸君は今までは秀吉の命を受け、心を一つにして秀頼に仕えるといって来たではないか。これを続けれればどうして恨みを抱くことがありうるのか。それでも皆に怨讐があるのなら、それは各人に下心があるからではないか。心を一つにして秀頼に尽くせば、前と今の諸君の言葉に食い違いは起きないのではないはずだ」と言葉を強めていった。皆は彼の理屈に負けて、一同互いに協力して秀吉の命に服することに異論はないことになったという。家康はこれを秀吉に伝えると、秀吉は非常に喜んだという。そこで宴席を設けて諸侯を招いた。しかし諸侯は態度を変えず互いに打ち解けて言葉を交わすこともなかった。
家康は刀を抜いて、「諸君は自分に私心を忘れ、公の立場で秀頼を助けるといったから、自分はこれを秀吉に告げ、秀吉も喜んで今日の宴が開かれたのである。ところが諸君は和気あいあいとは程遠く 睚眦忩争(*?にらみ合っている)のような気配がある。
家康は「自分を秀吉とおなじと思え。ここにいる者は全て自分の敵だ。神の鑒(*かがみ)は上から見ている。1人も逃げられないぞ」といった。一同その勢いに圧倒され席は静まり返った。その時、中村一氏と浅野長政、前田玄以が進み出て、その場を収めたので一同はひれ伏し無礼を詫びた。
夜になって祝いの席が開かれた。秀吉は上段の寝床に布団を敷いて座り、秀頼が傍に控えた。その下の段の中央には木の板にいろいろな菓子が積んで並べられ、その席には中老、五奉行、近習が並んで食べた。それ以外の人々にも官職の上下によって席は違うものの、どこにも菓子が置かれ、それをもらって帰える様子はいつもの通りだった。
秀吉は中老と5奉行に向って、「自分は秀頼が15歳になった時に、彼に自分の座を譲って彼が天下を掌握して治めるのを見たいと思っている。しかし、自分の命は尽きそうなので実に残念である」と涙を流した。諸侯は涙して退席した。
この様子を見たものが「秀吉が死んだ」と親戚や知り合いに知らせようと京都、伏見、大阪の間で飛脚が行き来したので、深夜の伏見が大騒ぎとなった。
17日 秀吉は家康に会って、昨日諸侯に和融を促した家康の厳しい態度に感銘したと述べた。
22日 朝鮮から帰国した大小名が秀吉に会ったが、その中で毛利甲斐守秀元が褒美をもらった。今日は又藤堂佐渡守高虎の軍功に対して1万石の領地が加えられ、全部で8万石となった。脇坂中務少輔阿治にも3千石が加えられた。
武徳編年集成 巻44 終(2017.5.3.)
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