巻45 慶長3年7月~慶長4年12月 秀吉死去
慶長3年(1598)
7月大
〇上旬 病状が少し回復したので、秀吉は大阪へ赴き、日帰りで伏見へ戻った。
13日 秀吉の病状が再び悪化した。秀吉は家康を密かに呼んで、「天下はお前でなければ治まらない。自分が死ぬと、この機会に乗じて騒乱を起こす者が出るかもしれないが、その時は、お前は自ら権力をふるって平定せよ。また秀頼は幼く無援なので、しっかり保護して1人前にし、彼の力量に応じて処遇せよ」と述べた。
家康は黙って涙をこらえた。須臾あって(*しゅゆ:一呼吸おいて)家康は、「殿下がお隠れになっても秀頼を仰がないものは誰もいないでしょう。しかし、人の心は測り難いもので、殿下の知恵で子孫の事はうまく図ってください。自分のような者にそんなことがどうして出来ましょう」と答えた。秀吉は重ねて家康に「今天下に号令をかけて息子を補佐できるのは、お前の他に出来るものはいない。自分の指示に従って、お前の文武によって天下を治めてほしい」といった。家康は固辞して退出した。
そこで秀吉は、石田三成と増田長盛を呼んで自分が死んだ後のことについて相談した。
彼らには下心があって、秀吉には「殿下は神武の徳によって天下を取られた。幸い秀頼もおられるので、何故天下を(*家康のような)よそ者に譲られるのか。老臣たちで秀頼を補佐し、天下を治めさせればよろしい」と諫めた。秀吉はこの進言を受け入れて、5老5奉行の体制を定め、家康、加賀大納言利家、備中中納言秀家、安芸中納言輝元、会津中納言景勝を5大老とし、浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家に5奉行を命じた。そして、細かいことは5奉行が仕切り、大きなことは5老が相談してから実行する。5老5奉行が一致協力して、政を執行すること。派閥を作らないように、互いが覇権を競うことのないようにと命じた。
生駒雅楽頭近世、堀尾帯刀吉晴、中村式部少輔一氏の3人を中老とした。そして、「5老5奉行が争い事を起こしたときには、この3人でうまく和解させるように」といったという。
以上は1つの説である。『武徳安民記』にこの事情を詳しく書いた。それと引き合わせて考えれば、全体像がわかるだろう。
8月大
13日 秀吉は再び家康に、「お前が断ったので5老5奉行を決めた。自分としては後悔しているが、職域を決めてしまったので今からは変えられない。しかし、今、天下を治められる者がお前を除いて誰がいるというのか。10人の幹部の長として、舉措(意思決定)をせよ。自分は残りの9人にそのように命じる。今後天下のすべてをお前にゆだねる」と述べた。その後、秀吉は大老、中老、5奉行が志を1つにして、秀頼を補佐するように願って、この秀吉の意を、聖護院門主興意が受けとって、直ちに修験者を大峰山へ登山させ、奉納させるように命じたという。
18日 前の関白太政大臣従1位豊臣秀吉が享年63歳で死去した。(天文6年8月4日酉の刻に、尾張の中村郡で誕生し、今年で62歳であると書かれた本もある)遺言によって死亡や葬儀、埋葬については秘密にされた。
19日 家康と秀忠は、秀吉を見舞おうと伏見城へ赴いたとき、石田三成は家康に媚びを売るために、家康らが伏見に着く前に八十島助左衛門(後の入道恐道)に秀吉の死を告げさせたので、2人は引き返したという。
秀忠はその日の内に伏見を発って、江戸へ向かった。
この日、武蔵の本庄の城主、小笠原掃部助信嶺が享年52歳で死去した。養子の信之が家督を継いだ。
9月小
2日 秀忠は江戸城へ帰還した。
3日 大老と奉行が再び連盟した。秀吉の死は秘密にされたが、すぐに明らかになってしまった。
10日 家康と利家は朝鮮の戦況を見て、日本軍を撤退させるために、浅野長政と石田三成を筑前の博多まで行かせた。
両人は伏見を出発したが、2人は徳永石見守昌時入道法印壽昌に、「朝鮮へ渡って兵を帰国させるように」と命じた。しかし、壽昌は応じず、「この使いの任務は重いので、家康の命令がなければ受けるのは難しい」と答えた。浅野と石田や他の奉行たちは、壽昌の意向を家康に伝えたので、家康は井伊直政を徳永の館へ行かせて、「これは秀吉の遺言なので疑わないでほしい」伝えた。そして宮城長次郎豊盛と御家人の山本新左衛門正成(頼資というのは間違いである)を副使とした上、黄金100枚、長巻20反、美服10着を壽昌に与えた。結局、彼はこれを受け取り渡海した。
13日 秀忠の前で松平外記伊昌の嫡子、彌三郎(14歳)が元服した。諱の1字と脇差をもらって忠實となった。
10月大
8日 明の援軍が、朝鮮へ来て海上を封鎖したので、日本軍の帰国が非常に困難になったという知らせが届いた。そこで彼らを助けるために家康は、「自分が名護屋へ行って指揮し、もしどうしても撤退が出来なければ自分も渡海しよう」といった。すると利家は「秀吉の死後世が不安定になっている。あなたが渡海すると秀頼を守る手が薄くなるだろう。病身ではあるが、自分が兵を率いて朝鮮へ向かい、味方を撤退させることができる」といった。しかし、みんなの意見はまとまらず日が経った。
幹部たちは「家康が鶏林(*新羅)へ渡ると、たちまち扶桑(*日本)で動乱が起きるだろう。利家も病気だ。もっとふさわしい人を行かせて現地の形勢を調べた方がよい」といった。その結果、「前に長く朝鮮で戦った経験があり、地勢や戦況に明るい、藤堂佐渡守高虎を行かせよう」と奉行たちは現地の武将たちへ事前に連絡した。
『書状』
〇中旬、藤堂高虎は九州へ行き、朝鮮へ向おうとすると、「日本軍が敵の水軍と交戦して勝ったので、全軍無事釜山を出港して、対馬へ向かっている」という報告が入った。石田と浅野は筑前博多でこの連絡を受けたので、藤堂を伏見へ帰らせ、急ぎの手紙で大老へ報告した。
11月小
〇朝鮮へ出兵していた諸将が博多へ帰還し、伏見へもどって、家康や秀頼に謁見したという。
12月大
朔日 秀吉が病気で苦しんでいた時(7月11日)、石田三成に命じて書かせた形見分けの目録(最後に秀吉の判がある)を、堀尾帯刀と中村式部少輔が家康の館へ持参して見せた。それによって、
家康には掛物1幅(遠浦帰帆牧渓書之)と黄金300枚を、
秀忠には、掛物1幅(拓木玉澗書之)を与えられた。
結城少将秀康朝臣には、刀1腰(則重作)、
井伊直政には、刀1腰(元重作)、
本多忠勝には、刀1腰(和泉の法城寺作)、
榊原康政には、大脇差1腰(美濃関和泉守兼定作)、
奥平美作守へは、黄金5枚、
大久保忠隣へは、刀1腰(備前盛光)を与えられた。
毛利輝元、浮田秀家、上杉景勝の家にも形見を2人が届けた。
それ以外の大名と小名は利家の家で5奉行が並ぶ席に出席して三成が目録を読み上げ、各人が形見を受け取った。
11日 奥平美作守能入道牧庵が享年62歳で死去した。この人は長篠籠城の時に活躍した美作守信昌の父である。
〇秀吉が死んだあと、石田三成を頭として、増田右衛門尉や長束大蔵大輔などが家康を滅ぼそうと仲間を集め、上杉、浮田、佐竹など賛同する者も多かった。彼らは家康と利家父子を滅ぼそうと、もっぱら計画を練っていたという。
26日 大老中老5奉行が協議し、秀吉が没収した園城寺領4千石を元に戻した。これは内々に天皇が命じたという。
〇この年、家康は新庄駿河守直頼の館を訪れ、次男の直房と面会して、国光の脇差を与えた。直房は後に美作守になって、御使番、御目付、花畑番頭、書院番頭などを歴任した。
〇今川上総守氏眞入道宗誾の二男新六郎高久が、秀忠に謁見した。秀忠は「今川は源家の代々の宗家だけに限るように」と命じたので、高久はすぐに品川を屋号とした。この人の母は北条氏康の娘である。
〇御家人の子は、親と共に仕えるように命じた。八木庄左衛門(垣屋玄蕃允信貞の子)、杉浦市十郎正友(彌一郎親正の五男、後の越後守で、内臓允)、間宮左衛門信明(左衛門信盛の子)、佐橋次郎左衛門吉次、同儀左衛門吉賢(この兄弟は甚兵衛吉久の子である)、高木安右衛門清實(甚太郎清元の子)などである。
秀忠に初めて謁見した者は、上野の岡本宮内少輔義安、千本大和守通長の子、帯刀資孝、福原雅楽助資保、高木善次郎正成(後の越後守、改めて主水)などであった。
〇榊原左衛門職直(12歳)が秀忠に仕えた。この人は備前中納言(*浮田)秀家の家来、花房助兵衛職之の子である。
秀家は愚将で、長船紀伊守というよからぬ家来を愛して、他の家来たちが皆疎んじられた。特に職之(*職秀)は、浮田家が執達を頼んでいた石田のために秀吉に殺されかけた。秀吉は職之を惜しんで、彼の命を救い常盤の水戸に流した。庶子の左衛門職直は、武蔵の池上の長榮山本門寺に住んでいた。2年ほど前に家康が放鷹で本門寺に立ち寄ったとき、偶然職直を目にした。しかし、その容貌が庶民の子供ではなかったので、どういう者かと尋ねた。
職直がいきさつを話すと、家康は、秀吉には内緒に榊原康政の一族とみなして名前を変え、去年から御家人に加えた。彼は大獣公(*三代将軍家光)の時には、長崎奉行となって、耶蘇一揆島原の城を攻めたときには先発して功績を上げたという。(考えるに、助兵衛職之が水戸へ流されたのは、浮田左京亮、戸川肥後守、岡越前守、花房志摩守らの騒動よりはもっと前のはずである)
本間十右衛門政季が死去した。初めは権十郎といって、長久手の戦いで功績があった人である。
〇天正19年(1591)に江戸の瀧の口から、河口へ移転させられた、三緑山廣度院増上寺を家康は芝へ再度移転させ、順次寺院を建設した。
慶長4年(1599)
正月小
10日 豊臣秀頼は、伏見から大坂(*阪)城へ移った。秀頼の補佐の金澤大納言和家が、それを指揮し、諸将は全て大坂へ赴いた。家康も船を仕立てて伏見を出発し、秀頼を送った。
11日 家康は無事大坂に着いたが、家がないので片桐東市且元の館に泊った。
秀頼が国を受け継ぎ、大阪城へ入ったことを祝って、今日から15日まで諸将などすべてが大阪城へ集まった。
12日 家康は大阪を発って枚方を経て、午後に伏見の館へ帰った。
〇この日、家康の8男、松千代が6歳で早世した。法諱は大翁浄安という。
19日 家康は有馬法印の館を訪れ、もてなされて猿楽が催された。この夜から伏見で大騒動が起きた。
21日 利家、景勝、輝元、秀家と奉行などは、承兌(*西笑承兌:相国寺の僧)と3人の中老に、「家康が早速秀吉の掟を破って、勝手に嫁娶(*結婚すること)をした」と通告させた。諸侯はどんな大事件かと様子を見に、家康の館に集まった。石田方に通じた諸侯はこのチャンスを窺って家康を滅ぼそうとした。
〇下旬に江戸からの交代要員として、榊原康政の組と本多正信の指揮する租税の役人が伏見に着いた。
〇『福釜家伝』によれば、この日、秀忠の命で、大番頭の松平右京亮康親が伏見に着くと、家康は自ら茶をたてふるまったという。
2月大
5日 秀吉の遺命に従い、3人の中老の内の堀尾吉晴が井伊直政と会談し、利家など奉行と、家康を和解させることになった。
石田と増田は利家に、「家康を失脚させようとしても、あの勢いを奪うことは難しいので暫時和解しよう」と勧めた。細川忠興は何度も利家に忠告した結果、ようやく今日和解が成立した。
忠興の父、幽斎玄旨が伏見に着いて家康に会い、今月中滞在してから京都へ移り、吉田の山庄へ住んだ。
29日 前田利家は、大阪から伏見の家康を訪問した。家康は厚くもてなした。
3月小
朔日 家康は、堀尾帯刀吉晴に越前の府中に領地5万石を加えた。吉晴は喜んでそこを居城として、遠州、浜松の城を子の信濃守に譲った。
8日 牧野讃岐守康成が享年52歳で死去した。この人は山城守定成の子で、その諱は牧野右馬允と同じなので間違えないように。
11日 家康は伏見から大阪の利家の館を訪問した。饗宴の席に石田三成が参加した。
家康は、中之島の藤堂高虎の家に泊った。
12日 家康は伏見へ帰った。
19日 以前から利家と井伊直政の勧めで、家康は伏見の向島に仮の館を作っていたが、今日は吉日なので転居し祝いが催された。この地は最初秀吉が拓いたところで、伏見城の南にある。慶長元年に出丸として城から橋を渡した。しかし、この島は宇治川の中流のくぼ地で、その年の閏7月の大地震で建物や石垣が全て倒壊し、建設中に人が多数圧死したのでそのままになっていた。家康は川幅を広げてとりあえず守りを固めたという。
22日 2人の加藤、浅野、黒田、鍋島、蜂須賀、森壱岐守勝永が連著して、「小西行長と寺澤廣高には朝鮮出兵中に奸詐(*悪事を企む)があった」と訴えた。
26日 家康は実際に向島の新居へ移った。井伊直政が門戸を警護した。
家康と親しくしていた福島、両加藤、池田、黒田、浅野、蜂須賀、藤堂、森などが毎日訪問した。
有馬法印はずっと家康の館に居候していた。ある日の深夜に彼が退出するとき、家康は広間まで送ったが、道中の用心のために提灯を消す様にと述べた。
家康は彼の子の源蕃豊氏は、山岡道阿彌を御家人と同じように警護につくように命じ、早速伏見と大阪の間の要地の淀の城を守るように命じた。
利家の家来、徳山五兵衛則秀が家康の御家人になり、5千石をもらった。(後に髪を切って法印になった)
〇家康に近い7人の武将と石田の意見が違って、戦いが起きそうになった。三成は伏見を離れて大阪へ逃れた。
秀忠の家来、大河内平次郎政信には怨みがあって、大久保庄右衛門を討ち、信州の諏訪へ逃げた。秀忠は非常に怒ったので、「父の大河内善兵衛政綱も逃げるように」と大久保権右衛門忠為と鵜殿兵庫守氏長、大野金太夫が勧めたので、政綱も江戸を離れた。慶長8年の秋に家康は、政綱を呼び戻して紀陽南龍院につけた。彼の長男の善兵衛政雄は、秀忠に仕えた。
〇大番頭の高力権左衛門正長が従5位下となり土佐守となった。
閏3月小
3日 5人の大老の1人、従2位権大納言菅原朝臣利家が享年63歳で死去した。陪臣の浅井源右衛門と小條甚七郎が殉死した。
7日 石田三成は7人の不満を除くために、家康の命に従って自分の領地、近江の佐和山へ引き下がった。
家康は道中の警護のために、結城三河少将秀康朝臣に送らせた。秀康朝臣は三成に、「あなたは自分の兵をまとめて前後を固め、自分の兵を馬周りとし、あなたと並んで馬を進めよう。もし、7人が急に襲って来て危険に陥れば、互いに刺し違えて死のう」といった。三成はそれを認めた。また、家来の兵に告げて、「この仕事は石田だけでなく、天下が見守っているところだから、命を懸けてもしものことが起きれば、防戦に努めよ。相手の首を取ってはいけない。また、相手が負けても追ってはいけない、ここは石田の安全あるのみである」と厳命した。
堀尾吉晴と中村一氏は石田を送って瀬田まで来た。石田の領地から迎えの兵が沢山来たので、石田は馬から降りて、秀康朝臣の鎧を抑えて、切刃正宗の脇差を贈り、暇乞いをしてから佐和山へ帰った。
秀康朝臣は堀尾や中村と共に伏見へ帰った。今回の凛として整然と事を運んだ様子を人々は賞嘆した。
家康も大満足で、結城家の代々の家臣、水谷伊勢守勝俊の領地は常陸の下館に3万石あり、秀康朝臣の穀高も10万石あったが、今回更に秀康朝臣へ3万石を加え、水谷を家康の家来として、本多左衛門の千石分の与力を付け、本多源四郎富正(後の伊豆守)には700石を加え、その他の家来たちにも食い扶持を与えた。その結果結城家の領地は13万石となった。(水谷は後に新田を加え5万石となって活躍したという)
13日 前田玄以や堀尾吉晴などは、家康を伏見の城へ移し、これからは名実ともに天下を取って家康の威風に草が討ち伏すようであったが、加藤清正や細川忠興は、家康が三成を佐和山へ行かせたのを不服として帰国したいと申し出たので、家康は同意した。
4月大
6日 加賀の金澤の野田山に、前田利家の遺骸を葬った。
利家の2人の息子は大阪城で務めていたので、利長の名代の前田対馬守長種と利政の名代の脇田善右衛門が立ち会った。篠原出羽守と神谷信濃守が法会を執り行った。
17日 大須賀五郎左衛門が従5位下、出羽守になり、養父五郎左衛門康高に与えた松平の称号を与えた。この人は実は榊原康政の次男で、外祖父の康高の家を継いだわけである。
18日 秀吉の霊を新しい八幡宮として崇拝してほしいという秀吉の遺命は、天皇の耳に入っていたが許しは出ず、豊国大明神と廟を与えた。造作の見事なことは日本で例はなかった。神社には吉田家卜部兼豊が神主となった。(後の荻原三位左衛門督である)
禰宜巫祝、烏帽子浄衣を纏って昼夜神前で仕え、妙法院道澄親王に社僧を束ねさせ、聖護院門主興意を大仏殿の住職とした。そして豊国の神前で毎月命日に天台、真言、禅、律、浄土、日蓮宗、時宗の僧侶が集まって、祭壇を設けて、楽人が外廊で演奏し、田楽やや獅子舞を庭で舞わせ、その様子は壮観で贅沢至極なものだった。
19日 豊国で正遷座(*神体を移す)の時に、家康は参詣したが、その時家康は浅野、増田、長束、徳善院を呼んで、秀頼が子供の間は自分が補佐するについて要望(*条件)を伝えた。
すなわち、「まず、秀家など朝鮮へ渡った筑紫、四国、中国の諸侯は、人や馬を休ませるために大阪へは秋になってから出仕することにしたい。また、特に2往復した諸侯は疲れも激しかったわけだが、秀吉が亡くなり秀頼も幼いので、その功績を吟味して恩賞を与えることもできなかったのも仕方ない。そこで年貢などの徴収は秋までは行わないとしたい。このことを毛利、上杉、浮田で検討してほしい」と述べた。そこで彼らはそれを聴いて大阪へ帰った。
20日 豊国の祭事として、猿楽が催された。
この日、朝鮮に出兵中の監使らに騒ぎが起きた。また、伊勢の稲葉九鬼が訴えを起こし、家康と奉行らの前で裁判が行われた。
日蓮宗不受不施派は、秀吉の行事に出席を渋り、一昨年の大仏殿の供養にも欠席したが、これはもっぱら彼らの身勝手よるもので、彼らは集まって騒ぎを起こした。奉行たちは評議を重ねたが、結局家康の意見を聴くことになった。
22日 大番頭の高力土佐守正長が享年42歳で死去した。
〇下旬、浅野、増田、長束、善徳院は、大阪に帰って19日の家康の考えをそれぞれが伝えた。しかし、輝元と秀家は、家康の深慮に気が付かず帰国を望んでいた。
上杉景勝は利家が亡くなっているし、輝元と秀家が帰ってしまうと大物がいなくなるので、家康の許で政務を執ることになった。しかし、去年会津へ移って制度を整える間もなく、京都へ駆けつけた。しかし、秀吉もいっていたように陸奥の中々統治するのが難しい土地だから、地元を懐柔して決まり事を決めなければならないので、できるだけ早く帰国したいと望んだ。また、前田肥前守利長と孫四郎利政も、「北国は地元民の一揆が勃興の気配がある」といって、休暇が欲しいと願った。家康は2人の帰国を許し、来年の春に来てほしいと述べた。
6月大
17日 御家人の小幡藤五郎昌忠が享年36歳で死去した。武田の家臣、又兵衛昌盛の長男である。
〇今月、秀忠の前で高力左近が元服した。諱の1字と青江次吉の刀をもらって忠房となり、父を継いで岩槻城に住み、後に摂津守となった。
7月大
11日 御家人の加藤九郎右衛門が享年84歳で死去した。この人は清康(*家康の父)以来の家来で、彼の子の播磨守景元と二郎の兄弟は味方が原で戦死した。
8月小
13日 家康はかねてから徳善院(当時京都の所司を兼務していた)を通じて、天皇に面会する空気を探らせていたが、許可が得られたので大阪から京都へ赴いた。
14日 参内を済ませた後に、大炊御門の高臺院(*秀吉の正室)の館を訪れ、その日のうちに伏見へ帰った。
16日 家康は石清水八幡宮を参詣した。朔日、放上会の祭事があったので参詣しようと思ったが、衆人の参詣の邪魔になると遠慮して、今日になった。
28日 毛利、上杉、前田が帰国した。したがって、ここから家康が一人で天下の政治を執行した。古人がいうように「智者は時に順じて動く」とはその通りである。
〇 この頃、家康は、浅野、増田、長束を呼んで、去年の冬からサナダムシの病気が再発し、酷暑によって食欲もなく、眩暈(*めまい)もあって長らく、秀頼を訪問していなかったが、元気が戻った。そこで来月の重陽の節句の祝いに大阪を尋ねるので、その時は片桐東市正の館に宿泊すると約束していた。しかし、石田が佐和山へ蟄居したので、彼の館が空き家なっているから、今度はそこに泊ると伝えた。
というのは、浅野長政が本多正信に「家康が大阪を訪れないという噂が立っている」と告げた。片桐市正も伏見へ行ってこのことを家康に密かに伝えた。しかし、毛利と浮田、上杉などが大阪城にいるときには、家康は身の危険を感じないでもなかったので、病気だとして訪問を延ばしていた。しかし、今は彼らが皆自分たちの国へ帰ったので、上の3人に連絡したわけである。
3人はすぐに大阪に帰り淀殿に伝えた。
長束は水口城へ帰るために休暇を申し出ていたが、家康が大阪へ赴くので、それを待つためにしばらく大阪に留まった。
〇この月、御家人の荒川長兵衛重世が死去した。この人は織田信雄の元家来だったという。
9月大
7日 家康は井伊、本多、榊原の3傑と本多正信以下数100騎で、船を淀川に浮かべ大阪に赴いた。午後4時過ぎに石田三成の空いた館へ到着した。実は、浅野が重陽の祭事を催したのは、増田と長束の謀略に陥ったためである。
つまり石田三成が蟄居した後、前田利長と浅野長政が執政について、増田と長束へ間違った情報流して家康に伝えさせるように謀り、前田と浅野を罪に陥れ、2人の一族同胞が家康を恨むように仕向け、家康の勢いを自然に削ごうと企んだためである。
今夜増田長盛は密かに家康の宿舎を訪れ、「あなたが重陽の祭りで大阪を訪れ城で宴会を済ましたのち、浅野長政が囲碁の会を設ける。そこへ大野修理亮治長と土方勘兵衛が刺客として送りこまれるというシナリオは、全て前田利長の陰謀である」と述べた。そこで皆は疑いを抱いたという。
8日 夜に入って家康は増田長盛の館を訪問し、しばらく閑談したのちに帰ったが、長盛は再び家康を訪れ、家康と長政らと密談の後帰ったという。
9日 朝、家康は伴の人数を増やし、本多正信を宿の留守番役として残して、大阪城の玉造口から城へ入った。
本丸の大手桜門の衛兵は伴が多いと制止したが、御家人たちは聴かずに城へ押し入り、玄関で井伊、本多、榊原と近臣12名が袴の裾を下して、「今日は家康の警護が必要だから来た」といって家康の伴をした。家康はすぐに大奥へ進んだ。増田と長束が後に続いた。秀頼と淀殿とに家康が対面している間、伴の者は障子の傍で控えた。
家康は退出する時、酒井備後守忠利を呼んで、この城の台所に2間4面の大行燈があるのを見るので、その間伴の者にも台所を見せるように命じた。忠利は中ノ口に出て、皆を連れて台所を観に行っていて兵がまだ座敷に戻らぬうちに、家康は千畳敷の廊下を直接右の方の大きな台所へ行き、大行燈を調べてから、中ノ口に戻って、伴の者と一緒に帰った。
家康は大阪の諸将の家には、それぞれ櫓が建てられているわけが分からないので、急いでそれらをすべて破壊するように布告した。
11日 家康は旧石田三成の館から、同木工助重成の家に移動した。
13日 明け方伏見から御家人が雑兵3800人とともに駆けつけた。これは先日伊奈図書に大阪へ急いでくるように命じたからである。
28日 皆は「家康が伏見へ戻れば、噂が絶えず禍の種になるので、家康は大阪に留まって二の丸に住んで秀頼を守った方がよい」と進言した。そこで家康も応じて西の丸へ移った。増田と長束は相談して、二の丸に太守と大広間を作って媚謟(*お愛想をした)という。
10月大
2日 増田と長束の讒言によって、大野治長が結城少将秀康の領内へ流された。これは彼の母の大蔵郷局は秀吉の侍女であり、秀康朝臣は秀吉の養子だからである。この局は家康に会って、縁で結城に移された。
浅野長政も甲州へ蟄居するように命じられたが、遠慮して武蔵へ行き、府中で蟄居した。子の幸長は大阪で務め以前の通り家康に仕えた。
3日 土方雄久も大野と連座して、佐竹の領内の常盤の太田へ流されたという。
5日 奥州の盛岡の城主、南部修理太夫信直が享年54歳で死去した。
8日 伝えられるところでは、大野治長は結城に着き、城から3里離れた富屋の観音に百日詣でて、疑いが晴れることを祈り、開運の後にこの伽藍を修理した。その時の棟札(*棟木に付ける札)は今も残されているという。
〇この月、菅沼次郎右衛門忠久が死去した。如意軒と号した人である。當次郎右衛門忠通の父である。
11月小
18日 日蓮宗の僧徒が分裂して訴えを起こした。
大阪城の西の丸の大広間で、家康が裁定を下した。奉行も立ち会った。大仏供養に集まらなかったことは、宗門の掟だったので敢えて問題にはせず、ただ秀吉の追悼に参加しなかったことは間違っていたと判定され、不受不施側の僧徒53人が遠方へ流された。
〇今月、浮田黄門の家来に騒動が起きて、大谷吉隆と榊原康政が担当したが調整がつかず、それぞれ玉造の秀家の屋敷に立て籠もった。
家康は、浮田左京亮成正と戸川肥前守達安を善徳院玄以に預け、岡越前守貞網と花房志摩守正成は増田長盛に預けた。しかし、成政と達安が主になって戸川助左衛門(達安の弟)、角南隼人(達安の妹婿)、戸川又左衛門、戸川主水、樽村将監、中吉輿兵衛などが、主人の秀家を憎んで、家の中が大騒ぎになった。
〇松前伊豆守慶廣と子の若狭守盛廣は、隼人忠廣を連れて大阪を訪れ家康に謁見した。後日若狭守は江戸に行き、秀忠に謁見して兼光の刀をもらった。
〇西尾小左衛門吉次が従5位下隠岐守になった。この人ははじめは信長の家来だった。信長の死以来家康に仕えた。
増田と長束の讒訴によって、「前田利家が謀反を起こす」と諸将に伝え、加賀と越後を攻めようとした。
細川忠興が丹後から大阪へ急行して、利長が罰せられないように運動した。利長の家来の横山山城守長知が大阪へ来て、利長に謀反の意思のないことを家康に嘆願し、春になって雪が解ければ早速大阪へ来る。また、利家の遺言で利長の母を金澤へ帰したという噂が流れたので、母を江戸へ送って質として、家康の庶子1人を養子にしたいと申し出た。
これで家康は疑いを晴らし、増田と長束に事情を糺した。すると2人は「公ではなく私的に質を取るのは秀吉の禁じたことだから、一応毛利、上杉、浮田にも伝えようか」と答えた。家康は「今の世の中を傾けようと思う者は、誰でも家康を滅ぼそうとするはずである、国家の安全の為に、怪しい者の領地を削って、質子を自分の城へ収める。今日はその手始めとして、利長の母を江戸へ送るべきである」と命じた。2人は黙って退出した。
12月大
3日 家康は井伊、本多、酒井忠重、本多忠利を連れて、摂津の茨木で放鷹を行った。又その地の八幡宮を詣で、神殿を建て社領には検地しないことを、この地の代官川尻肥後守に命じた。(明後日大阪へ帰ったという)
14日 高木甚太郎清方が享年66歳で死去した。この人は家康の妹婿の吉良の荒川甲斐守義虎の次男で、井伊、本多、榊原も敬愛していた。
4年前から松平隠岐守定勝の次男の三郎四郎定綱(後越中守)を、荒川の養子とする約束があったが、家臣たちはそろって荒川の一族が家督を継ぎたいと要望した。家康の母の伝通院はこれを不満とした。家康は定綱が別性を継ぎたくはなだろうから 成長した後には荒川の領地を倍にして返し、秀忠から再び与える(*彼らに家督を継がせる)ように」といった。そこで伝通院は喜んで家来たちの願いを許した。
〇水野三左衛門分長(後の備後守)が大番頭となる。阿部左馬助正吉が歩卒頭になって領地5千石をもらった。
〇掘伊賀守利重(後の市正)が秀忠の御家人となった。(8千石をもらった)丹羽勘介氏次の子の氏信が、初めて家康に謁見した。(後の式部少輔である)高木彌右衛門吉次(志摩守一吉の三男)、同じく甚兵衛清吉(甚太郎清方の末っ子)が御家人となった。
〇植村新六郎家次が享年33歳で死去した。この人は非常に誉れ高かった出羽守家政の子で、家次が家督を継いで出羽守になって、祖父の名を継いで家政となった。当時このような例がよくあったので、名前で人を特定するのは難しいという。
〇曲渕縫殿左衛門吉清(庄左衛門吉景の末っ子)が初めて家康に謁見した。
内藤甚十郎忠重(40歳)が初めて家康に仕え、200石をもらった。この人は甚蔵善教の孫で、仁兵衛忠政の次男である。(後の伊賀守で志摩の鳥羽の城主となった)
〇伊達政宗の嫡男、兵五郎が元服し、秀頼から諱の1字をもらって秀宗となり、従5位下侍従を兼任し、遠江守になった。
武徳編年集成 巻45 終(2017.5.5.)
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