巻55 慶長13年10月~慶長14年4月

慶長13年(1607)

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19日 土岐越前守頼元が死去した。

〇今月 尾張の検地が終わった。

11月小

5日 奥平美作守信昌が、京都の建仁寺の塔中に天昌院を建立した。

7日 家康は、江戸城の西の丸で宴会を設け、秀忠を呼んだ。

12日 土方河内守雄久が享年56歳で死去した。この人は最初は勘兵衛で、織田信雄の功臣として武勇の才の誉れが高かった。

15日 日蓮宗の當楽院日敬が、偽りの訴えを家康にしきりにするので、日敬と弟子5人を江戸城に呼んで、浄土宗の増上寺の廓と、大蓮寺の了的と宗論を戦わせた。

大長寺の原榮の推挙で、判定者は高野山の頼渓に決まり、増上寺の源誉茲昌、光明寺の洞誉把新、随意院の智誉白道、勝願寺の圓誉が同席し、記録係は光厳寺の専想が務めた。聴衆としては、天台宗仙波喜多院雲海中院實尊、浅草寺学頭良雄當住宗寅、真言宗は大山の八大坊實雄、大磯の地福寺有誉、禅宗には傑岑寺の宗圓、青松寺の隣昌、吉祥寺の泉龍などが、家康の命令で出席した。

さて、増上寺の郭山は、論席に進み出て三経(*無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)無得道の誹謗する理由をテーマに、日敬に何度も質問した。しかし、常楽院は対論に応じず、疲れたとして死んだ形をとった。第1の弟子の上総の連源、第2の和泉堺の玄聴、第3の同じく堺の玉雄、第4の上総の琳碩、第5の同、可圓も、皆答えられず恥をかいた。

上総介忠輝、蒲生飛騨守秀行、伊達陸奥守政宗、浅野紀伊守幸長、南部信濃守利直、新庄駿河守直頼入道、同越前守直定政臣、大久保相模守忠隣、本多佐渡守正信、成瀬隼人正正成、安藤帯刀重次、同対馬守重信、土井大炊頭利勝、米津勘兵衛由政、土屋権右衛門直為、そして大久保石見守長安と羅山子道春が列席し、詳しく宗論を吟味した。その結果、日蓮宗の6人の僧たちは、法衣をはぎ取られ、後ろ手に縛られ、担当奉行の本多上野介正純が結果をまとめて、秀忠と家康に報告した。

16日 江戸瀧口の会津参議秀行の家に、秀忠が訪れ丁重に接待された。

〇今月、畠山左近将監義眞が江戸に来て、御家人になった。この人は、能登の先の国主、畠山修理太夫義則の舎弟の彌五郎入道入菴の嫡男である。彌五郎は5歳の時に、質子として能登から越後に送られ、上杉謙信がこの子を一族の上條山城守定春の職を継がせて、上杉の一族に加えた。謙信は景勝の姉を義春の妻とし、彼女がこの義眞を生んだ。天正13年に景勝が秀吉に降伏した時、彼は8歳だったが、義眞は景勝の質として秀吉に送られ、今年まで京都に住んでいた。

12月大

朔日 秀忠の次男の国が生まれた。母は大猷公(*家光)と同じである。後見役として内藤仁兵衛忠政、天野傳兵衛、大河内金七郎、加藤新太郎が付いた。(まもなく金七郎が亡くなったので、小林右衛門助が引き継いだ)、児小姓として永井主膳、秋田三平、橋本吉平がついた。(後から伊奈牛之助と佐野三四郎が加えられた)

2日 家康は江戸を発って、駿府へ向かった。家康が9月から関東で獲った獲物は、鶴が10羽、雁や鴨は数え切れないほどだった。

6日 江戸で、五井の松平外記忠實(土佐守)と、大給の松平主税成重(左近将監)が従5位下になった。

8日 家康は駿府へ着いた。

24日 吉良左兵衛佐義彌が従4位下、侍従になり、上総介と改めた。佐原監物重成が従5位下になった。この人は、相模三浦の親戚、遠州吉備の住人の作右衛門義成の子である。家系の調査の後三浦に復帰した。

26日 御伽衆新庄駿河入道宮内が法印になった。

〇この日、ハンチャウ国(*アユタヤ)の商人が来日し、駿河に来た。家康は床几(*しょうぎ、正式のいす)2脚を用意して面会した。

〇三河の足助山家の税務官の三宅辰之助が、着服したので父子3人は殺された。

〇この年、羅山道春が家康の命で講座を開き、論語集注と三略を講義した。また、それ以降、南蛮阿媽港(*マカオ)への書類の草稿は全て道春が書いたという。

〇毛利長門守、大江の秀就に松平の称号が与えられた。

〇池田輝政は、幕府の命令で居城の播州姫路を再開発し、7重の天守を建設し城下町を拡張して85町とした。himeji.jpg

〇伊達政宗は塩釜の六所明神の社を再興した。

〇叡山の三塔の僧徒に寺領の保証と7箇条の定めを与え、成菩提院に法式の印章を与えた。

〇土井大炊頭利勝、青山図書助重成、安藤対馬守重信の領地を2倍に増やした。

〇駒木根右近利政の嫡子、長次郎政次が、家康の近臣となった。

〇大久保権右衛門忠為の3男、源三郎忠知が、秀忠の近臣となり、武蔵の谷貫村と二宮村を与えられた。(後の左馬亮)

〇井上清兵衛政重が御家人となり、200俵をもらった。この人は半九郎正就の弟で、始めは大須賀康高に仕え、中ごろから蒲生家に付いていたという。

〇故山口長左衛門重捷の子の長左衛門重據は、5年前から秀忠の傍にいたが、享年20歳で死去した。

〇三河の酒呑村で、鈴木友之助信善が享年72歳で死去した。この人は慶長5年から伏見城の番衛だったが、病気で故郷へ帰り住んでいた。次男の友之助重氏8歳に家督が贈られた

慶長14年(1609)

正月小 

元旦 駿河城でも江戸城でも、恒例の行事が行われた。美濃や伊勢の諸将は、駿河や江戸で越年しなかったので城へは来なかった。

4日 江戸本町から火が出て、石川玄蕃頭康長の館を始め、武家や商家が多数焼失した。

7日 家康は遠州と三河の間で狩を楽しみ、尾張へ向かうために駿河城を発って、田中に着いた。

〇前に宗論で恥をかいた常楽院日敬が、「かな文字」で手紙を書いた。内容は「あの日の前日何者かが突然来て棒で殴られ、心身が乱れて寝ていたところ、翌日無理矢理に引き出された。駿府で足利学校の寒松に手紙を送って、浄土宗から返事がなければもう一度質問したいと思っているときに、今回の尋問となった。このように困っていたので、当日はボーッとしていて、答えられなかった。にもかかわらず、どうして浄土宗が勝ちといえるのか」と門徒たちに述べたというものだった。

その手紙が家康に届いたので、家康は悪僧を懲らしめるために、「本人の体調が悪いのなら、5人の弟子が何とか答えてしかるべきではないか? また口で答えられないような難しいことなら、今までどうして文章にして答えないのか? それでいて判定がおかしいというのは非常に罪が重い」とのべ、5人の弟子とともに、荷車に乗せて東海道を京都まで連れて行かれた。

10日 秀忠は、戸田と浦和あたりで放鷹をした。

11日 家康は遠州中泉の宿に入った。ここは昔から国府八幡宮の神主、秋鹿氏世が住んでいて、天正の初めに濱松城に家康がいた時には、狩猟の常宿としていた。(秋鹿は久保屋敷に移る)

大石十右衛門は、このあたりの税を司って宿の面倒を見てきたが、家康に呼ばれて狩に同行して雑談したり、家康が彼の家を訪問して茶をたてたりした。

13日 道中で猟をしながら、濱松の城へ着いた。

14日 吉田の城へ着いた。

15日 放鷹のために吉良へ行った。

その時のこと、故下野守忠吉の家来だった、甲州巨摩郡武川の士が、訴状を提出した。家康はすぐに内容を説明するように命じた。そのとき単独で刀を持たずに籠に近寄れば問題なかったが、田舎者の武士で礼をわきまえなかったので、全員が進み出た。そこで1人だけが出てくるようにと伝えられたが、何も言わずに10人余りが刀を差して走り出て来た。そこで皆の衆が曲者だと取り押さえようとすると、彼らは驚いて逃げ出した。

その中の1人の長鹽なにがしという者が追い詰められ、刀を抜いたので斬り殺された。残りの者は寺に立て籠った。代官や地下人が彼らを取り囲むと、「自分たちは悪党ではない。甲州武川の士で、下野守忠吉の老臣の小笠原和泉守の組の者である。近年は尾張の犬山の本城を守衛していた。今度和泉守吉次が笠間の城主となって常陸に赴くに際して、武川の家来の領分も自分の石高にして笠間で取った。しかし、武川の家来は付き人で、和泉守の家僕ではないので、どうして笠間に連れて行かれて吉次の家来にならなければならないのか?と和泉守の横暴を訴えに来た。しかし、自分たちの態度の無骨さを咎められて、このようなことになっているのだ」と述べた。

使い番は早速これを家康に報告した。家康は「彼らの言い分は不憫に思う。しかし、順序として駿府の老臣などへまず訴えるべきである。それを飛ばして直訴し、その上、刀を携えたまま自分に近づいたことは十分咎められてよい」と述べた。一同は殺されずに済んで安堵した。日向半兵衛政成は、彼らを以前から知っていたので、憐れんで彼らの立て籠っていた寺に食料を差し入れたという。

20日 家康は吉良から岡崎に戻った。

23日 右兵衛督義直(20歳)が岡崎に着き、家康に会った。これは家康に随行して尾張へ行くために、19日に駿府を発ったからである。

この日、秀忠の前で酒井小五郎が元服した。諱の一字をもらって忠勝となり、従5位下宮内大輔となった。(この人は左衛門尉忠次の孫で、當左衛門尉家次の子である)同姓の雅楽頭に上野の善養寺の村5千石を加えた。

近日中に家康が尾張へ着くというので、清州城の清掃をしている時、輪違紋の木綿の着物を着た人が、天守の上の階に居て槍の先を2個砥いでいた。人々が非常に怪しんで問いただすと、三河の猿投(*山)の者で、天狗の仕業でここに来たという。それから14、5日後に死んだ。

(*『当代記』の記述も面白く、『近日中に家康が清州へ着くというので清州城を掃除していると、天守の上段の戸が開かなかった。無理にこじ開けると、人がいた。鍵に輪違の着物を着て、鎗の歯を2本砥いでいた。泥棒でもないようで成敗もしなかったが、14~5日の間に死んだ』とある)

〇家康は去年以来、関東と奥羽の大小名の領地、軍役の人数と序列が決め、また、中国や九州の諸侯が勝手に城を改修する必要は平時にはないとして、制限令を決めた。

〇右大臣秀頼が、京都東山の大仏殿の再建を始めた。総監督は長臣の片桐市正且元と雨森出雲守で、今まで以上の大作業だった。四国や九州の諸侯は糧米2万石、1万石、5千石、3千石を大工の費用として大阪へ運んだ。京都では石河三右衛門が饗場民部に秀吉が聚楽城に蓄えていた黄金千枚分を鋳つぶし、後藤徳乗に命じて大仏建設のための資金として、大判を鋳造させた。なお、徳乗はその際、純金をピンハネしたので、実質950~960枚になったという。まもなく沢山の大判ができ上がった。

25日 家康と義直は清州に到着した。秀頼の使者、片桐市正が、秀吉所蔵の太刀と白銀100枚を義直に贈り、義直の入城を祝った。 家康は今日から清州で、家法や政務の段取りを相談し政令を布告した。

忠吉以来の家来たちは、慶長12年に加算された分の300石を越えている分はすべて減額された。ただし、去年の秋に検地して改正した6万石の家来の所領については、減額を免除された。

27日 美濃の加納から奥平信昌の正室(家康の娘)と、伊勢の桑名から本多美濃守忠政の正室(故岡崎三郎の娘)がそろって清州を訪れ家康に会った。家康は彼女たちにそれぞれ黄金50枚を与えた。

美濃と伊勢の国士が来て、白銀20枚とか10枚を義直に献じた。

今日、神谷左馬介三正が大番衛に加わり、水野備後守分長に付かされた。この人の父は水野和泉守忠重の家来で、金七郎長直といって、長久手の戦で使用人の岩間清左衛門とともに、兜をかぶった武将の首を取った。関ケ原では大垣の城攻めで活躍した。今回の処遇はそのためである。

28日 紀州から浅野紀伊守幸長が清州へ来た。これは彼の娘を義直の正室にする約束があったからである。

2月大

4日 家康は義直を連れて清州を発った。

5日 岡崎に到着したが、途中で数日猟を楽しんだ。

尾張の老臣たちがかねて法を破っているという訴えがあった。そこで昨日から黒野の城主、富永丹波守、同雅楽助、戸田加賀信光、松平摂津守秀勝、同石見守正廣を呼び寄せ、今日は小笠原和泉守吉次も笠間から呼んで、取り調べるように指示した。

尾張の川の堤が、去年の洪水で破損した。そこで美濃の家来たちに石高100石あたり人夫2人を出させ、一般人も人手として100石あたり1人を出させて修理するように命じた。なお、駿河の近臣は免除された。

11日 家康は駿府へ戻った。

関東や奥羽の大小名が、新年の挨拶に訪れて贈り物を献上した。伊達右少将政宗は脇差2本、馬2匹、黄金100枚、純子唐織の夜具10幅を献上した。

家康は阿茶の局など子供たちの母親5人に、それぞれ金5枚を贈った。また、老臣と松平右衛門太夫正久、秋元但馬守康朝、板倉内膳正重昌、榊原内記清久(後の照久)には、それぞれ銀を50枚を与えた。その他のものにもこれに準じて贈り物が与えられた。

18日 筑後の国主で従4位下行、筑後守橘吉政が江戸で死去した。吉祥寺に葬り大格院とした。長男の田中民部大輔吉顕は故あって後を継ぐことを外され、次男の久兵衛が家督を継いだ。(後の筑後守忠政)

この日、常落院日敬は東海道を曳かれて京都へ到着した。

19日 秀忠の使者の本多上野介が、「関西の大名の人質を取るべきか? また常陸介頼宣に常陸の50万石を与えるべきかどうか」を家康に尋ねた。家康は「去年引退した時の、隠居料だった遠州と駿河を頼宣に譲るように」と答えたという。

今日江戸で大番士など近臣の諸士の馬ぞろえ(*パレード)をして、秀忠は優れた馬具やいい馬の持ち主に領地を与えた。

20日 日蓮宗の僧たちが、京都の街を引き回された。彼らは「自分たちはいまだ一言も語っていない(*黙秘していた)のだから勝負はついていないが罰せられている。日蓮も昔そうだったので、すこしも恥じることではない」と道々悪言を吐いた。そこで役人が蓮源、玄聴、玉雄、琳碩の鼻を削いだ。しかし、琳碩らはあまりに悪言を浴びせたために、鼻を深く削がれて即死した。

その他、日敬など5人は、丹波へ逃げて某所に集まって住んだが、尚、書物を書いて、いい加減な言動で檀家をたぶらかせたという。京都の街や宿場では、その類の僧を見て人々は嫌ったという。

25日 本多上野介が、江戸から駿府へ帰還した。

駿河と伊豆の幕府の領地の司、井田志摩守正次が死去した。悪い噂があって人々は彼を嫌った。

28日 奈良の奉行、中坊飛騨守秀祐は、伏見の家に住んでいた。筒井家の浪人で、当時志摩の鳥羽九鬼氏の許に住んでいた中山八左衛門が、秀祐尋ねて来たので、2人は夜中まで雑談した。八左衛門は、秀祐の子の左近時祐の部屋に入り、飛騨守は居間からいつもの寝室で横になった。夜半になっていつものように、侍女が煎じ薬を飲ませるために障子を開けると、秀祐が殺され、すでに息が絶えていた。誰がやったのかはわからなかった。

去年秀祐は、主人の筒井伊賀守定次が派手で勝手が過ぎると家康に訴え、定次は追放された。「主人も主人だが、家来としてもあり得ない、秀祐の行為は、人の道に反している」と世間で誹謗された。そうして、やはり彼はこのように横死したので、「天命には逆らえないな」と人々は嘆いたという。後日、伏見の街に高札が立てられ「秀祐を斬った者は筒井家の家来である。主君の義憤の仇を取るためにやったのだ。今後、息子の時祐も殺し、それから名乗り出て自殺する」と書かれていた。

29日 日蓮宗の京都の21カ所の寺が、自分たちの戒律として「六字の名号(*南無阿弥陀仏)を唱えると地獄に落ちるということは、経文には書かれていないが、日蓮が述べたので、このように唱えるのである」という証文を所司代へ提出した。この書面は、江戸の増上寺の文庫に納められているという。

3月小 

朔日 九州の諸侯は、遠方なので去年駿河城が完成したときに参賀に来れなかった。そこでこの春にそれぞれが訪れたが、今日は黒田筑前守長政が駿河を訪れた。年賀として白銀100枚、竣工祝いとして黄金30枚、時服10着、唐織の夜具大小2幅、塗の弓100本、空穂(*うつぼ)と、虎皮の掛100腰を献上した。他の大小名も彼に準じて献上した。

秀忠は山内対馬守一義に諱の一字と称号を与え、綾小路定俊の刀を贈り、従4位下とし、松平土佐守忠義と改称した。

信州飯田の城主、小笠原兵部少輔秀政の娘(母は三郎信康の娘)を秀忠の養女とし、細川大内記忠利(越中守の嫡子)の正室として、来月下旬に豊前へ船で向かうことになったという。

〇この日、駿河と下総葛西辺りで氷〈*雹〉が降った。葛西の民家17軒が破壊され、落雷で家の中の男女が全て死亡して、関宿の杉の枝にその死骸が掛けられた。

4日 黒田や寺澤など九州の諸将が、駿河城に招かれもてなされた。常陸介頼宣(8歳)が猿楽を演じた。

尾張の老臣、富永丹波、その子の雅楽助、戸田加賀信光、松平摂津守秀勝、同石見守正廣が法を破ったので罰せられ、改易された。小笠原監物忠重の生前の不覚悟(*?)を訴えた者がいた。監物の愛した与力3人は、その頃播州の池田輝政に属していたが、(*今日)死罪となった。また、故越前黄門秀康が死んだときに殉死した、土屋左馬助忠次は父の遺領の大野城4万石を相続していたが、家康はそれを取り上げ、小栗五郎左衛門正高に与えた。

5日 日光山座禅院の衆徒のために、規則を公布した。

6日 越後の制度を公布するために、安藤治右衛門正次を派遣した。

今日は非常に寒くて、極寒の様だった。先月20日から暴風と豪雨で暖かい日はなかった。

蒲生飛騨守秀行がふしだらで、老臣にも手の打ちようがなかったので、皆が逃げ出したという風評が流れた。

加藤清正が伏見から江戸へ赴いた。

12日 高野山の小田原谷から出火して、寺院や商家など700余りが焼失した。

21日 島津陸奥守家久は、領内の薩摩山川の港まで出陣し、樺山美濃久高、平田太郎左衛門、新納刑部、松浦筑前、鎌田出雲、木邊摂津、田村大和、加治木弾正、野村監物、本郷蔵人ら、先鋒8千あまりが琉球を攻めるために今日出帆した。

そもそも琉球は大琉球と小琉球といって、隋の時代に朱寛という人が海を渡って、この国を攻め、男女千人ほどを捕えて帰った。『隋書』には琉球について書かれている。明の閩越、福建の向いに位置し、順風の時は7日で渡れる。薩摩からは海上350里あり順風で80日以内に着ける。

源為朝から代々の武将が兵を海上へ出して、島々を征服しながら琉球に達し平定した。この時に初めて、日本では南方の海にこの国があることを知った。

琉球は明の洪武帝代に入貢し、薩摩へもずっと使節を送り続けて来た。室町将軍義教の時、彼は島津薩摩守忠国に琉球を与え、永禄年代に入貢させた。

秀吉の時代には、通商のために琉球は薩摩へ来て朝貢した。明の皇帝はそれを知って琉球国を封鎖し、日本との交易を遮断した。そのためそれから10数年間薩摩への朝貢は止まっていた。義久は家康の世になったことを伝え、使節の派遣を要請したが応じなかったので、家康と秀忠の許しを得て、今回遠征することになったという。

23日 越中の富山城が焼失した。

25日 藤堂和泉守高虎の伊予の大州と、今治の領地の替わりに、伊賀一円と伊勢安濃津を受け取り、石高は元のままで24万3千石だった。安濃津は重要な土地であり、伊賀は京都に近く畿内の要害である。しかも国境は険しい地形で堅固な要塞の地である。高虎は関ヶ原の後もいろいろと活躍して、家康や秀忠に頼りにされていたので、このような領地を得た。彼はすぐに阿濃津を居城として、養子の宮内少輔高治を伊勢の名張郡上野の城衛とした。この高治は実は丹羽五郎左衛門長秀の私生児である。

〇自分(高敦)の調べたところによれば、元和の大坂の陣での高虎の活躍によって、彼は従4位下になり、伊勢に5万石を加えられ、秀忠にも5万石をもらって全部で33万3千石となった。しかし、南龍院(*徳川頼宣)が駿河から紀伊一円と山城の和泉に封じられたときに、高虎の伊勢の松阪と田丸の10万石と、南龍院の山城の大和の10万石が交換されたという。

26日 故尾張忠吉の元老で、当時常陸の笠間の城主、小笠原和泉守吉次は領地を没収された。10日に改易された清州の長臣、富永丹波、戸田加賀信光、松平摂津守、松平石見守らの一族は、早々に清洲から退去するように命じられた。小笠原監物忠重の死後、これらの人々が、法を破っているとの訴えがあったからである。

富永丹波は、忠吉が東條松平の後を継いだときに家来となり、勇士といわれた孫大夫の子である。

戸田加賀は奥平の一族で、最初は倉八郎といって、優れた武将だった。

松平摂津守秀勝は、野見の松平次郎右衛門重吉の甥、越中忠廣の子で、父子で相続して東條で執務していた。また松平石見守正廣は、東條の老臣松井康視の一族で、松平となって戦歴もあったので、家康から感謝状をもらったこともある。

〇この日、藤堂和泉守高虎が家康を訪れ、白銀200枚、時服5着を献上して、伊賀をもらった挨拶をした。家康は猿楽4場を見せ、駿河に滞在する間の月給を支給した。

〇今月 家康の脈拍が落ち、両目が霞んで治療した。

〇島津家の軍勢が琉球国の大きな島、徳高(*沖縄)に着岸しようとした。琉球の首府から100里ほどの所で、5千ほどの琉球の軍勢が海に面した日本山という所で防戦した。薩摩勢は鉄砲を激しく撃って、とうとう琉球軍を破り300の首を取った。

4月小

朔日 島津勢は、琉球の那覇の港に着岸した。しかし、鉄の鎖が港の入口に張ってあり、兵を置いて鉄砲を発してきたので、港へ入ることができなかった。味方も銃で対抗したが長期戦になった。

島の裏側は険しい地形で毒蛇が沢山いて、土地の人もなかなか入れないので守りも手薄だった。薩摩軍はそれを知っていたので、先日薩摩と大隅の荒くれ者を送って、茅や芝を船でその海岸へ運び、風上から放火すると、林がすっかり燃えて毒蛇も焼け死んだ。味方は崖を登って攻め込み、火砲で昼夜を分かたずに攻め立て、今日から3日間続いた。

3日 池田輝政の正室は、息子の左衛門督宮内少輔右近を連れて播磨から駿府を訪問した。これは彼女が家康の娘だからである。

琉球では島津軍が、首府の首里に攻め込み侵略した。中山王や三司などが投降した。島津の将は、速足の軍船で家久にこれを報告した。

(*『当代記』では、『4日、薩摩の島津が琉球を攻め平定した。以前は琉球から島津へ綾船(*琉球の官船)で進物を持ってきていたが、近年唐(*中国)と相談して日本との国交を断つことを「しゃな」が島津に連絡しなかったので、島津は100隻の艦隊で攻めた。琉球に着くと「しゃな」達は大勢で7つの島で防戦した。野郎(島津兵)は島の裏へ回って攻め込み「しゃな」は敗北し、琉球人は死んだり怪我を負ったりした。島津軍はすぐに7つの毒島へ侵入し、王城を攻め落として王を生け捕りにしたという。「しゃな」とは琉球の武将大将のことである。彼等は日本を嫌って、唐に付属しようとしたが結局このようになった。野郎とは島津の軽率の事である』とある)

4日 池田輝政の嫡男、松平武蔵守利隆の正室が、備前の岡山で出産した。彼女は秀忠の養女なので、牧野豊前守信成(後の内匠頭)に弄璋の慶(*男子誕生の祝い)を送り、田生の子新太郎にプレゼントを贈った。備前は利隆の舎弟の忠継の領地だが、まだ小さいので兄の利隆が備前を治め、岡山の城にいた。備中では利隆の正室に1千石を贈った。

〇この日、駿河城の南殿に人がいた。足の指がなく古い着物を着て髪は乱れ、蛙を取って食べていた。「何処から来たか」と尋ねると、天を指さし「兄を呼びに来た」といったので皆が殺そうとした。家康はそれを制止し、城外へ連れ出した。どこに住んでいる人かはわからなかった。

〇この頃、水走の板を伝って、家康の部屋の傍へ来る者がいた。捕まえて取り調べると空気者(*阿呆)だったので、罰するに足らず、家康は逃がせと命じた。

8日 太陽が非常に強く、鞠(*まり)ほどの雲が、周りへ飛び散っていた。これは干ばつの前触れかといわれた。風が非常に強く冷たく冬の様だった。

〇本多中務大輔忠勝は病気がちだったので引退した。嫡子、美濃守忠政(26歳)が家督を継いだ。

11日 家康の病状が回復したので、諸将が祝いに訪れた。

〇今日、本多上野介、永井右近太夫、成瀬隼人正、安藤帯刀など駿府の老臣たちが、右兵衛督義直と常陸介頼宣を招待して饗応した。

武徳編年集成 巻55 終(2017.5.13.)