巻56 慶長14年5月~10月
慶長14年(1609)
5月大
3日 参議従3位行若狭守源朝臣高次が享年47歳で死去した。嫡子の京極忠高は江戸で仕えていたが、父の遺領の若狭をもらって国へ帰った。
今日、蒲生秀次の正室(家康の娘)が会津から駿河に着いた。
5日 池田輝政の正室が帰国するので、家康は黄金200枚、白銀1千枚、綿千束を与え、息子の左衛門督、宮内少輔、右近の3人にも脇差を与えた。
高力左近太夫正長の3男の虎之助長次が、従5位下河内守となった。
11日 中村伯耆守忠一(松平を名乗った)が享年20歳で急死した。この連絡が駿府へ届き、家康は朝比奈源六郎正重、久貝忠左衛門正俊、弓気多源七郎昌吉を伯耆へ行かせ、忠一の遺体を検視して葬るように命じた。また、忠一には子も弟もなかったので、領地の伯耆の一円を幕府が引き取り、古田大膳亮重恒と一柳監物直盛が米子の城を引き受けて管理するように命じられたので、3人は伯耆へ赴いた。
17日 秀忠は江戸の藤蔵和泉守高虎の館を訪問た。猿楽が催された。
25日 先日駿河の遊郭で雑兵が数回乱闘したので、家康は遊女を追放した。彼女たちは安倍川の畔に移された。
〇今月、家康は青山図書助重成に命じて、和泉の浪人、井戸若狭守良弘を呼び、、御家人にさせた。しかし当分は無給となった。
6月小
朔日 駿府城で火事があったがすぐに消し止められた。よく調査してみると、女中の下女2人が放火したことが判り、女中はすぐに火あぶりにされ、下女2人は遠くへ流された。
2日 蒲生秀行の正室が会津へ帰るにあたって、家康は黄金200枚、白銀千枚、綿千束を与えた。
3日 岡野越中融成入道江雪が享年74歳で伏見で死去した。この人は北条家の功臣で秀吉が見込んで仕えさせた。慶長5年以来家康と近付になった。
25日 一昨年、家康の命で、蒲生源左衛門郷成はしぶしぶ会津で主人の蒲生秀行に仕えたが、主人が酒に溺れ、岡半兵衛重政を偏愛して郷成を疎んじたので、郷成と共に息子の源三郎郷喜(後の源左衛門)、その婿の蒲生彦太夫など多くが会津を離れた。家康は郷成の領地4万5千石の内1万石を長沼の城と共に玉井数馬助定祐に与え、猪苗代の1万石を岡越へ与えて、蒲生五郎兵衛郷治には1万石を加えるように秀行に命じた.
7月大
5日 島津家久が琉球国を征服したという公式書類が江戸に届いた。それによって家久が、中山王尚寧を伴って将軍に謁見したいという要請が秀忠に伝わり、秀忠はすぐに手紙を返した。
『至琉球国 差遣兵舩 不移時日及一戦 彼黨数多討捕 特更国王及降参之三司官以下 至其地近日有岸之趣 誠以希有之次第候 委曲本多佐渡守可申候也
慶長十四年七月五日 秀忠
薩摩少将殿』
〇同日 秀忠は島津龍伯入道、および同維新入道へも手紙を送った。
7日 家康は琉球国を末永く島津家に帰属することを認める印章を与えた。
『琉球国之儀 早速属平均之由注進候 手柄之段被感思召候 即彼国進候條彌仕置等可被申付候也 七月七日 家康
薩摩少将殿
貴札致拝見候 仍琉球為御手遣御人数被差渡候所 犬島ト申島 早速被仰付 従其治島ト申島ヘ御人数越被申候所 彼島之先手二三百人被討捕候 重而不及異儀彼島相済 従其琉球之国王被居候島ヘ被取懸候處 於彼地モ国王難被及斷候切崩数百人討取国王居城取巻被申候處 頻ニ降参ニ付〇○○儀国王下城候得 而下々方々ヘ逃散候者被召返如前々之在付候 而国王並三敷司官〇外頭主先手召連頓而可有帰朝之間 以使者被遂御注進候御紙面之通一々懇ニ奉達 上聞候処大御所様感被思召候 一段之恩機嫌共ニ御座候而無残所御仕合御座候閒 御心安可被思召候〇遠渡ト申於異国無類御手柄不浅候其許御満足之段 奉察存候則琉球之儀被遣候旨ニ御座候 御内書被差添候 御外聞實儀不可過之候彌彼地之様子可被成御注進之候 御尤ニ御座候 尚此元相替儀無御座候 此表何ニテモ相應之御用等御座候ハ々無御心置可蒙仰聊不可得疎意候 猶追 而可得御意候恐惶謹言七月十三日 本多上野守正純(印)
羽柴陸奥守様 貴報』
12日 上田兵庫元俊が享年81歳で死去した。この人は彼の父が清康(*家康の祖父)に仕え、元俊の母は石川安芸守清兼の娘である。元俊は三河の額田郡明大寺の戦いのとき廣忠(*家康の父)の先鋒として、尾張の松平蔵人信孝を捕えるという手柄をあげて、大濱に領地をもらった。
後年、家康は「信孝は敵ではあるが、実は大伯父で、彼の娘が1人いるのは気の毒だ、元俊の妻にせよ」と命じた。元俊は固辞したが、家康は「お前は徳川家の歴代の家臣で、しかも清兼の外孫である。だから彼女に三河の六角村を与えるので、お前の妻にするので断ってはならぬ」といった。それで元俊は彼女を妻にしたが、明大寺で怪我をしていたので歩けなくなり、以後死ぬまで留守居頭を務めた。
14日 去年天皇の臣が官女とが密会して、京都を遊びまわって﨟次〈*秩序〉を乱した件を所司代の板倉伊賀守勝重が調査し、伴頭歯医者兼保備中守を監獄に入れて糾弾したところ、最近になってようやくすこしずつ白状した。天皇はこの報告を聞いて益々カンカンに怒った。
家康は板倉を駿府へ呼んで、この事件の詳細を尋ねた。また、織田有楽の長男の左門頼長と猪熊三位教利を護って逃亡させた。頼長は茶道を好み尺八の名手で、奔放な性格で、当時の売れっ子の歌舞伎役者だった。家康は今回彼を犯人の一人にすべきかどうかについて、駿河の老臣たちに尋ね、彼らは毎日板倉と会って詳しく審議した。今日家康は秀忠にも使いを送り、彼らは不敬な臣なのでその罪の扱いを話し合った。
この日家康の命で老臣が伏見城内の掟を命じた。(宛名の2人は今年の城当番である)
『條
一、伏見御城中御番衆之外附合被申間敷事
一、御番所武具並得道具置可被申事
一、在番中於上方方一圓人抱被申間敷事
附御城内ヘ諸商人一切出入無之様可被申付事
一、自然振舞等之儀一汁三菜酒三返可為事
一、銭湯ヘ被入之儀上下共可為停止事
一、火之用心堅可 被申付事
慶長十四年七月十四日
対馬守
大炊頭
雅楽頭
松平丹後守殿
山口但馬守殿』
〇同日、左京亮従5位下、平信好が死去した。 左大臣信長の庶子で童名は長丸である。
19日 宇都輿五郎正成が享年62歳で死去した。京三郎正勝の子である。
〇今月下旬から美濃の検地が改めて行われた。
8月小
3日 脇坂中務少輔安治は、淡路洲本の3万石から、伊予の喜多、浮穴、風子の5万3千500石へ替えられた。淡路は藤堂和泉守景虎の家来に警備させた。
松平越中守定網に上総の山川の村1万5千石が与えられた。
岡部内膳正長盛は、丹波亀山の城地2万石を加え、領地の上総松節にも合せて3万5千石与えられた。これは元和7年の秋に上総の福智山の城へ移り5万石を持ち、最初は彌次郎といって優秀な武将だったからである。
4日 東武の執事の大久保忠隣と本多正信は、命令書を伯耆の監使に送った。
10日 九州が暴風雨に見舞われ、南蛮船が今月長崎に入港したが、今日の嵐で漂流して、上総の入野の港へ着岸した。このことが駿府へ知らされると、家康は船内を監察する役人を派遣し、積み荷については乗組員の自由に交易させるように命じた。
12日 伏見の番衛として、松平丹後守と山口但馬守両人の組の大番士100人が交代した。一昨年より務めていた水野と渡邊は24か月にて関東へ帰った。
加番として下総の相馬の村主、土岐山城守定義が伏見に来て、再来年の8月まで24か月任務に就いた。
26日 諸国が洪水で(正月から雨で晴れる日がほとんどなかった)伊瀬の長島、損毛故の城主、菅沼志摩守定芳へ米を2千石が与えられた。
〇近年、西国の諸侯が大きな船を建造していた。家康はその意図を疑い、法令を作って、九鬼長門守と向井将監忠勝と勝久永源兵衛重知に、500石積以上の軍船を調査させて、淡路まで回航し、幕府へ献上させた。
阿波の国王、蜂須賀阿波守至鎮は、豊後の臼杵の城主、稲葉右京亮典通の2艘の大船を九鬼守隆に与え、志摩の鳥羽に留め置いたという。
9月大
〇上旬、関東にて戸田一西の弟、半之亟と眞田安房守昌幸の4男、佐馬助が乱闘し、佐馬助が死亡した。(牧野豊前守信成の妹婿という)半之亟は逃亡した。
28日 猪熊三位教利を九州で逮捕し、京都へ連行した。
21日 伊勢の両皇太神宮の造替正遷宮というので、家康は米6万俵と建設費を贈った。
23日 駿府の老臣京尹板倉勝重と協議して、朝廷の内乱の裁定について家康に報告した。
家康は秘密事項を勝重に伝えて、休暇を与え、今日彼は京都へ発った。
大澤兵部大輔基宿が従4位下右近近衛権少将になった。
酒井備後守忠利が武蔵の川越の城で2万石をもらった。(元は上野の那波の1万石だった)
27日 伊勢の外宮の建て替えで今日正遷宮が終わった。
〇この日、家康は松平上総介忠輝の家臣を呼び、山田長門守(元は豊臣秀次の家来)と松平讃岐守を自害させた。松平庄右衛門清直は呼ばれていなかったが、同じ家老として彼らを救おうと来ていた。そこへ家康が通りかかり彼を見て「清直、誰の指図でここに出て来たのか? 若者に何がわかるのだ、とっとと退席せよ」と追い出し、その後にすぐ2人に自害させた。
長門守の嫡子の因幡は、信州松本に流刑、皆川山城守廣熈父子は改易され、松平庄右衛門は蟄居させられた。(慶長15年清直は免除され仕事に復帰した)
そもそもこの事件は、上総介の乱暴がまた出て来たので、前に育ての親として、そして当時は補佐役をしていた信州飯山の城主、皆川山城守廣熈と、その子の志摩守隆庸、松平讃岐守、山田長門守と、その子の因幡が連著して、忠輝のお抱えの越後の軍奉行で税を取り立てていた進士清三郎を駿府へ訴えたことがあった。忠輝は驚いて怒り江戸から駿河へ行って家康に陳謝した。しかし、家康の傍には讒言をする者がいて、老臣たちの訴えを却下し、彼らを罪に落とし込んだという。
〇家康は木下家定の遺領2万4千石を、彼の息子の若狭少将勝俊入道長嘯と宮内少輔利定に折半して、2人で高臺院(秀吉の北政所)を補佐するように命じた。しかし、高臺院は、尼孝蔵王に長嘯だけに与えるように家康に伝えた。家康はそれに応じないで土地を幕府のものとした。
〇丹波篠山城の石垣の建設の監使の内藤金左衛門清久が、駿府へ来て家康に面会した。家康は工事があまりに丁寧過ぎて遅れているので会わなかった。この建設は本多上野介正純と大久保石見守長安の監督不十分であるので、家康はこの2人ともしばらく口をきかなかったという。
29日 江戸にて大番頭の水野市正近勝が、自分の館へ桜井の松平左馬允忠頼を呼んで茶会を開いた。そのとき家来同士の久米左平次と服部半八が口論して、半八が左平次を刀でぐさりと刺して退いた。左平次は後を追いかけたが、宇治の茶師の八太夫が左平次を抱いて制止し、左馬亮も半八を擁護して逃がそうと、左平次を後ろから抱いた。すると左平次は「自分は傷を負っているので放してほしい」といったという。しかし、忠頼が放さなかった。そこで久米は怒りに堪えきれず、左馬亮を一突きに刺殺した。(忠頼は享年18歳)又、その場にいた人が左平次を殺した。半八は逃亡したが、相模の大山で捕まえられ殺された。市正は罪を償うために寺院に入って蟄居した。この人は右衛門太夫忠正の末っ子で、家康の伯父に当たるという。
〇京極忠尚は、父の遺領を与えられて若狭へ来たが、彼の長臣の熊谷主水が好き放題に振る舞った。家康はこれを耳にして監使を若狭へ送るように江戸へ指示した。そこで鵜殿兵庫守重長が秀忠の命で、江戸を発って若狭へ向かった。
〇この日、京尹の板倉伊賀守が京都へ帰った。
10月大
2日 家康は自分で茶を入れ織田有楽、藤堂和泉守高虎、西尾豊後守正熈をもてなした。西尾は伯耆の米子の城番として明日駿府を発つところだった。
中村伯耆守忠一の前の家臣、沼間主膳興、清野一色頼母助義、小倉、飯田の4人は、武功によって直臣となった。忠一の後室は松平因幡守康元の娘で秀忠の養女なので、江戸に帰った。(後に津軽信教に再婚した)
〇この日、板倉勝重は、両伝奏(天皇への伝言役の2人の公家)へ家康の密令を天皇へ伝えた。それは「朝廷での不祥事が多い。これは陛下が仁徳によって刑を減らした方が、犯人はかえって罪を恥じて慎むようになるはずだから、男女とも死罪だけでなく流刑に処した方がよい」というものであった。両傳奏はこれを天皇に伝えると、怒りが収まって「罪の重さに応じて淫行に関わった連中を遠方の流刑と近くへの流刑に分けて実施せよ」と命じた。そうすると男女ともに罪を自白した。
その結果、猪熊の侍従教利は秀吉の時代にも淫行の前科あったので、歯医兼保と備中守とともに死刑となり、大炊御門侍従頼国と松本少将宗澄(侍従とあるが間違いである)は硫黄が島へ、花山院少将忠長は蝦夷が島へ、飛鳥井少将雅賢は隠岐へ、難波少将宗勝(侍従ではない)は伊豆へ、5人の女性は全員髪を切られ、木綿の服を着せられて奴婢2人とともに八丈島へ流された。
なお、烏丸参議左大辨光廣と徳大寺少将實久は、罪が軽いので恩赦されたという。
去年多武嶺で起きた怪奇現象とか、今年の秋に風もないのに北野天満宮の鳥居が倒れたというのは、全てこの宮中の乱れの為だったという。
3日 鷹匠の戸田九郎左衛門が死去した。この人は稀に見る鷹匠で、去年一度に鶴を100羽を仕留めたという。
〇この日、関東の諸臣が江戸城の建築に従事した。更に、品川の西の丘陵を幅30尋(*間)の土地を平たんにして、道を広げて交通の便を図ったという。
〇家康は遠州濱松の城主、松平左馬允忠頼の後継ぎを断ち、石川主殿忠総に継がして、城は没収し、忠頼の家来だった小浦喜右衛門正次と同新兵衛は領地をもらって幕臣として再び勤務した。左馬亮の後室(織田有楽の娘)と嫡子(7歳)、次男と三男は共に関東へ移り、後に長男は大膳亮忠重、二男は淡路守忠道、三子は長七郎忠勝となった。
5日 伏見城の加番の岡部内膳正は、新しい領地の丹波亀山へ初めて入った。
8日 遠州へ家康が出たころから功労があった、久野三郎左衛門宗能入道宗菴が享年83歳で死去した。
16日 大番頭水野市正近勝が自殺した。その訳は、市正の家で服部半八が、久米左平次に危害を及ぼした時に、近勝寺に入って謹慎していたが、一昨年以来、近勝の組の海北三吉、荒尾長五郎、有賀忠三郎、世良田小傳次、小股豬右衛門、間宮彦九郎など、伏見の在番中に退屈に耐えられず、こっそりと抜け出して、街中で刀傷を遊びとして攀膾講(*?)というものを催した。
特に海北は関東の剛力で、密かに江戸へ出て相撲が好きで取っていたが、秀頼の家来を殴り殺した。今度3年の任期を終えて江戸に帰り、知行所で休んでいたが、彼らの行状が明らかになって2人とも殺された。
間宮だけが逃げたが、妻子が捕えられたと聞いてすぐに出頭して自殺した。その他、三木の松平九郎右衛門忠利、岡部庄七郎、津野戸左衛門、駒井孫四郎も連座によって禄を没収された。
小斐仁左衛門は、父の喪中で密かに江戸に来たので改易された。藤方平九郎、小川左太郎は罪はなかったが、家の下男や商人を縛り殺し逃げたので手配して、斬り殺すことになり、その間の禄は没収された。(結局彼は探し出されて殺され、江戸へ運ばれた)不始末を起こした組の責任者である市正は、弁解の余地がなく、更にその組の三浦彦八郎の家の下僕は、服部半八が逃げるときに主人の馬に乗せたために、彦八郎も罪を問われて自殺した。
このように半八を逃がした罪についても、市正に弁解の余地がなく、結局自殺に追い込まれたという。(この時に改易された者はあとで徐々に許され復帰したが、松平九郎右衛門は元々領地500石を持っていたが、寛永9年に戻されたときには300俵になった)
23日 駿府の大久保藤十郎(石見守の嫡子)の家が焼失した。
26日 家康は関東で猟をするために駿府を発って、善徳寺に着いた。本多上野守と大久保石見守へ言葉をかけた。また相模の土肥山で金が出たとの知らせに、石見守を行かせて調査するように命じた。
29日 濃尾の大柿の城主、石川日向守家成が享年76歳で死去した。徳川家の歴代の老臣で強い武将だった。
武徳編年集成 巻56 終(2017.5.13.)
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