巻59 慶長16年正月~10月
慶長16年(1611)
正月大
元旦 駿府での年始行事は、例年通りである。秀忠の使いの酒井左衛門尉家次が、挨拶に訪れた。
2日 秀頼の使いの大野主馬治房が、駿府を訪れ、太刀と馬代を捧げた。
今夜江戸城では恒例の謡いの会が催された。席次の左は松平安房守信吉(後の伊豆守)、松平甲斐守忠良、松平土佐守(一作外記)忠實、本多伊勢守忠俊、右は最上駿河守家親、小笠原兵部少輔秀政、浅野弾正少弼長政、牧野駿河守忠成、西郷出羽守正員、仙石越前忠政だった。
3日 江戸の瀧の口の蒲生飛騨守秀行の家が火災を起こし、隣の池田三左衛門輝政の家が類焼した。どちらも去年秀忠が訪れるので、新築したものである。(蒲生の家は麁畧(*粗末)だったが、門に仙人羅漢の彫刻が施され、人々は日暮れ門と呼んでいた。この門は幸い難を免れた)
7日 家康は田中で放鷹をした。
9日 家康は榛原郡から中泉へ出て、放鷹をした。
17日 中泉から駿河の田中へ戻った。
20日 江戸城で鎧の儀式が行われ、恒例の連歌100員では、その道の上手が披露した。
若緑雲井に立や庭の松 紹之
春の朝戸を明むかう峯 御
けうに聞百よろこひの鳥の聲 玄中
21日 前の薩摩と大隅の太守、従4位下行修理太夫源朝臣入道龍伯が死去した。(79歳)、明谷院とよばれた。島津家の家臣30余人が殉死した。秀忠の使者の揖斐輿右衛門政景は薩摩を訪れ、線香、白銀1万両を贈った。
23日 吉良左兵衛督義彌が従4位下となった。この人は、三河の西條の吉良左兵衛佐義安の孫の上野介義定の子で、母は今川上総介氏眞の娘である。
2月小
9日 稲富伊賀守祐直入道一夢が、駿河で死去した。(火砲が堪能)
19日 阿部新四郎重吉が享年82歳で死去した。この人は家康が幼い頃駿河に質となっていたころの近臣である。家康は非常に悲しんだ。
〇今月、松平筑後守康親が、三河の福釜から駿府へ勤務して、鷹を家康に献上した。この鷹は非常に優秀で、沢山獲物を得た。そこで家康は獲物を料理して、康親に食べさせ盃を交わした。(福釜の松平家伝)
3月大
3日 館林で渡邊仁兵衛簾綱(一作康継)が享年69歳で死去した。この人は三河の浦邉村の住人、八右衛門義綱の二男である。
5日 家康は去年から予定していたように、10万を率いて京都へ行くために、今日駿府を発とうとしたが、雨のために延期した。
6日 家康は駿河を発って、田中の城へ入った。(旅程は、掛川、濱松、吉田、岡崎、名古屋、岐阜、赤坂、彦根、永原である。名古屋には1日滞在した)
14日 瀬名十右衛門正勝(元は今川)が42歳で死去した。
17日 家康が伏見城へ着いた。越前秀康の庶子の五郎八8歳が初めて家康に会えた。
20日 尾張右兵衛督義直(初めは義利)、遠江常陸介頼宣(初めは義将)が、従3位に叙され、参議と右近衛権中納言を兼任した。
水戸左衛門督頼房が、従4位下右近衛権少将になった。
越前黄門の嫡男、長吉丸が秀忠の前で元服し、諱の字をもらって三河守忠直となり、右近衛権少将従4位下となった。義直の家来竹腰小傳次政信と忠直の家来本多伊豆(最初は次郎太夫)富正が、従5位下になった。(政信は山城守、富正は伊豆守となった)
先日家康は、秀頼に、「結婚後、数年会っていない。近々京都へ行くので、そのとき会って両家のよしみを分かちあえれば、世の中の末長い平和の基になる」と織田有楽に伝えさせた。しかし、秀頼は、関ヶ原以来12年ほど城から出なかった。それは母親の淀殿が万が一のことを案じて、用心して出させなかったからである。今回も有楽は淀殿の叔父ではあるが、やはり誘いに応じなかった。また、家来たちも、秀頼の万が一のことを考えて、家康の誘いには乗らなかった。
しかし、秀頼の嫡母の大政所と豊臣家に非常に近い、加藤肥後守清正と浅野紀伊守幸長が大阪を訪れ、「秀頼が京都へ行かなければ家康を怒らせてしまう」と何度も進言し、そして「もし秀頼が京都へ行って危険があれば、自分たちは幸長と一緒に死ぬ覚悟だ」と何度も話し、家康は普段はそうめちゃなことはしない人である、と話したので、ようやく淀殿も許した。有楽は歓んで伏見へその旨を伝えると、家康も非常に喜んだという。
23日 徳川家の祖、新田大炊助義重が、従4位下鎮守府将軍の称号が贈られ、徳川の先祖の徳川三河守廣忠へ正2位権大納言が贈られた。
前に廣橋と勧修寺の両公卿が、今回家康を太政大臣に任ぜられ、菊桐の紋を与えられるという内々の知らせがあった。しかし、家康は「申し訳ないが、受けることはできない。菊桐紋はすでに足利将軍に与えられたものであり、それを受けるのは新田家であるべきである。自分は葵野の紋を使うことで十分である。よろしく善処してほしい」と答えた。
2人の使いが天皇へ報告すると、天皇は直ちに廣橋権大納言兼勝を上郷とし、日野右中辨資有を職事として、義重と廣忠へ官位を与えたという。
〇本多豊後守康重は、21日から風毒腫(*脚気)に罹った。家康は松平助十郎秀信に手紙を持たせて具合を尋ねさせた。しかし、廣重は岡崎で今日享年58歳で死去した。
23日 家康は京都へ行き、勧修寺権大納言光豊の館で衣装を整えた後参内して、贈官の礼を述べた。尾張と遠江の両参議、および越前少将も参朝し、酒を受けた。光豊がその手助けをした。
退朝の後、光豊の館でもてなされた。
最上出羽守義光が右近衛権少将になり、堀尾山城守忠晴が従4位下なった。
27日 天皇は政仁親王(後水尾天皇)に譲位した。
〇この日、豊臣秀頼は大阪城を発って、川口から船に乗り京都へ向かった。伏見へ着くまでは、淀川の左右を清正と幸長が厳重に警護し、船内では宴が催された。
家康は意識的に秀頼と二条城で会うことにして、船へ数回使いを送って、上京の謝辞を伝えた。
28日 秀頼は伏見から竹田大路を経て京都へ入った。尾張と遠江の両参議が鳥羽河原へ出迎えた。義直は浅野幸長の婿である。彼の長臣の成瀬と竹腰が随行した。頼宣は加藤清正の婿である。彼の老臣の安藤と水野が随行した。池田三左衛門輝政と藤堂和泉守高虎は、それぞれ家来を2人連れて鳥羽河原に行った。
清政と幸長は、秀頼の成長ぶりを京都の人々に見せるために、輿の左右の戸を開いて、2人が3里の道のりを輿の横に着いて歩いた。
有楽など豊臣家の大名20名あまりと、秀頼の家来の片桐や大野の7組の頭を始め、およそ30人が随行し、片桐且元の京都の館へ入った。そこで秀頼は肩衣袴に着替えて、午前中に二条城へ着いた。二条城の4か所の門の警護は、御家人と秀頼の7組が一緒に守った。
家康は、秀頼を玄関で迎えた。
秀頼は、殿中の着座の間の南に、家康は北側に対座した。
清政が秀頼の傍に座った。吸い物が出た時には、大政所が先に来ていて同席した。
家康が秀頼に盃を献じるときに、大左文字の刀と鍋藤四郎吉光の脇差、鷹3居、馬10匹を贈った。
秀頼が家康に盃を献じた時には、眞盛の太刀、一文字の刀、南泉左文字の脇差、龍蹄1匹、黄金300枚、純子20巻、錦10巻、狒々の皮3巻き(長さは15間)を献じた。
尾張の義直へは、光忠の太刀、黄金100枚、遠州の頼宣へは、守家の太刀と黄金100枚を贈り、家康の3人の侍女(於万、於茶阿、於亀)に、それぞれ白銀300枚を、総女中には黄金300枚、本多上野介、大久保石見守へそれぞれ黄金30枚、安藤帯刀、成瀬隼人、正村越茂介へそれぞれ黄金20枚、大澤少将へ白銀100枚、奏者番の永井右近太夫直勝、西尾丹後守忠永、秋元但馬守泰朝、榊原伊豆守政次、城和泉昌茂へ白銀100枚を贈った。
御馬預かりの諏訪部宗右衛門定吉へは、白銀30枚、鷹匠頭の3人には、白銀10枚づつ、舎人13人には、白銀30枚を贈った。金座光次、呉服師榮へは、白銀50枚を与えた。
次の間では、清政、幸長、輝政がもてなされ、平岩主計頭が同席した。その次の間では藤堂、片桐、大野などがもてなされ、本多上野介が同席した。しかし、清正は1人だけその席には来ずに、常に秀頼に寄り添った。
さて、退出の時、「大阪で母が待っているので暇が欲しい」と述べると、家康は認めて「早く大阪城へ帰るように」と述べ、大阪の家来たちには「大阪でずっといるとだらけるので、1万石以上のものは1人ずつ交代で駿府へ来るように」と命じ、秀頼を玄関まで見送った。
秀頼はその後豊国神社へ参って、白銀300枚を奉納し、大工の長の中井大和にも白銀を与えた。更に得長壽院(三十三間堂)に回って伏見へ赴くとき、清正は自分の館へ秀頼を迎えるのは、家康の手前遠慮した。そして淀川を船で下るときにもてなし、家来たちには、淀川の畔に席を設けて酒や食事でもてなした。
浅野幸長は急病だとして清正に嘘をいって、秀頼について大阪へ戻ったが、家に帰った時、懐刀をだして「これで今日秀吉の恩返しをできた」と独り言をいったという。
そもそも清正は、家康に肥後の国一円を与えられ、その上娘を遠江参議中将家へ嫁がさすという恩を受けながら、それを棄てて今度は秀頼に仕えたので、都鄙(*都も田舎)の人たちは感激しない者はいなかった。このような経緯で、家康の命で、秀頼の家来は大阪から駿府へ交代で勤務するように決められた。この冬の当番は蒔田権佐正時となった。
〇ある話では、福島左衛門太夫は、この春病気になって秀頼の上洛に付いていかず、大阪に留まっていた。しかし、もし京都で秀頼が殺されるようなことがあれば、大阪城で淀殿と死のうと望んできた。巷では、あれは仮病だったという噂が沸き上がった。
〇今月、丹波の税を司る権田小三郎と能勢小十郎が、山中の境について諍いが起きた。後で調査すると権田に非があることが判明したので、彼の所領は没収され、租税の収支を糺したところ、多く私腹を増やしていた。彼は黄金700枚を上納して罪を償った。
4月小
2日 家康は尾張と遠江の両参議を大阪へ派遣し、秀頼が上京した礼を述べた。秀頼は城から川邉まで出て出迎えた。
家康からは、白銀200枚、綿300把、紅花300斤を、簾中へは白銀100枚、綿200把、紅花300斤が贈られた。
大蔵局、二位局へは白銀50枚、饗場局、右京太夫局、宮内郷局、阿古局、伊奈局、正榮尼へそれぞれ白銀30枚、淀殿の総女中へは白銀300枚と綿500把、簾中の総女中へは白銀100枚、綿300把が贈られた。
両参議は太刀1本、馬1匹、白銀200枚を秀頼へ献上した。(太刀は義直からは一文字国家、頼宣からは友成の作)
簾中と淀殿へは白銀50枚、綿200把、紅花200斤ずつ、大蔵局から正榮尼までの8人の女性には、白銀100枚ずつを贈った。
織田有楽と片桐市正へは白銀50枚ずつ、織田民部少輔信重、片桐主膳正貞隆、大野修理亮へは白銀30枚ずつ、簾中の補臣、渡邊筑後守へは白銀30枚を、それぞれの参議が贈った。
秀頼は本城で両参議を丁重にもてなし、義直へは高木眞宗の太刀、義光の刀、純子100巻、時服10着、胴着、刈田の小鼓の筒を贈り、頼宣には二字国俊の太刀、松浦信国の刀、純子100巻、尼子の子鼓の筒、猿楽の衣装を与えた。
尾陽侯の老臣竹腰山城守政信へは、信国の刀、成瀬内匠頭(隼人正の子)には左文字の刀を与え、遠州候の老臣安藤帯刀重次には助眞の刀、水野対馬守重仲へは一文字の刀、三浦長門守邦時(本姓は柾木)には長光の刀を贈り、両参議は日帰りで伏見へ帰った。
今回の秀頼と家康の対顔が終わって、京都と難波、堺の商人たちは非常にほっとした。
3日 家康は勝の方(太田新六郎重政の妹)に命じて、外孫(池田輝政の娘)を伊達政宗の息子の忠宗との婚約がなされた。
5日 家康は伏見から二条城へ移った。
7日 上野の塩原の温泉で、浅野弾正少弼藤原長政が享年67歳で死去した。彼は以前から家康と親しく、いつも碁の相手をしていた。長政が亡くなったからは長く碁を打たなかった。
12日 新しい天皇が即位した。(19歳)、内大臣藤原信尚が内辨となった。家康は曩頭をかぶって儀式に参加した。一乗院法親王と日野輝資入道唯心が傍に付き添った。
即位が終わってから、家康は参内して天皇に会った。なお、京都にいる大名たちは誓約書を渡した。
〇その後、上皇へ田を献じた。また御所の修理を諸将に命じた。建設工事の分担を決め、修理職内匠寮が現場を調査した。1間を8人で受け持ち経費は20貫500文目だった。(関東の大名は白銀を所司代へ提出し、中井大和守が受け取って建設費に充てた)
17日 使い番の内藤六左衛門忠久が死去した。(甚五左衛門正清の孫の平左衛門清久の子である)
18日 家康は駿府へ向かって京都を発った。知り合いの公卿が粟田口まで見送った。永原の宿へ着いた。
19日 彦根城に着いた。
20日 柏原の宿に着いた。
21日 岐阜の宿では、鵜200羽を使って鮎を獲った。
22日 加納城へ寄ってから名古屋城へ着いた。
23日 熱田から船に乗ったが、東風が強くて、野間の港へ入ろうとしたが出来なかった。
24日 東風がやはり強くて、知多郡に船を寄せて師崎で停泊した。
25日 三河の渥美郡牟呂へ着いた。しかし風が強くて船旅でくたくたになり、頭痛と嘔吐に悩んだ。家康も両参議も今までにない急な経験で馬もなく、歩いて吉田の城に着いて泊った。
27日 田中へ着いた。
18日 駿府へ帰還した。
〇今月 西夷の黒船が相模の三浦と三崎に漂着した。
5月小
7日 秀忠の落胤の幸松丸が、武蔵の足立郡大間木の里で生まれた。(母は北条家の浪人、竹村某の娘で、静子、法名 常光院、一作神尾)元和3年9歳の時に、信州高遠の城主、保科肥後守正光はこの子を嗣子とした。(会津の太守として右中将となり、正之となったのはこの人である)
〇今月 江戸城の建設が急ピッチに進められた。
6月小
朔日 尾張名古屋は水運の便が悪いので、美濃と伊勢の民衆を動員して、運河を建設させた。
〇今春から加賀中納言利長と福島左衛門太夫正則の病気が重くなり、左衛門太夫が存命の内に、安芸と備後の国を子の備後守正勝に与えるように申し出た。家康はその要請を認めたので、備後守は関東へ向かった。
17日 堀尾帯刀吉晴は昨日から熱射病になり、享年69歳で死去した。父は中務吉久といって、尾張の上郡供御所の生まれで国士の36人の内の1人である。吉晴は仁王丸といって16歳の時から武力で家を興し、出雲と隠岐両国の太守にまでなった。
24日 肥後の国主、加藤清正が国元で病死した。享年52歳。この人の勇ましさは人々に受け、忠義は深く秀頼へ忠誠を誓っていたが、急死したので大阪城の人々は悲嘆にくれた。
7月大
3日 江戸の井伊兵部少輔直勝の家で失火があり、榊原遠江守康勝の家が類焼した。
8日 美濃の高州城主の徳永石見守昌時入道式部卿法印壽昌が死去した。金持ちで黄金900枚を残したという。(*『当代記』:数年前に腰が抜けて座敷でも歩けない状況だった)
10日 江戸城の建設が終了した。
11日 夜に駿府内で御家人の飯田傳吉(元は朝鮮人)と朝比奈甚太郎が、常陸介の近臣の松野勘介と喧嘩した。これは朝比奈と松野が、飯田が外国人だというので侮辱して、悪口をいって刀を振るったので傳吉は仕方なく松野と家来を斬り殺し、朝比奈も3カ所深傷を負って倒れた。傳吉は逃亡した。町の司の彦坂九兵衛光正がこの件を家康に伝えたところ、家康は飯田の行動に感心して呼びよせ家来にした。一方、朝比奈は未熟な行為によって死罪とされた。
12日 前の豊後の国主、大友義統の子、従4位下侍従兼左兵衛督源朝臣義延が、江戸の早稲田で死去した。(関ヶ原では徳川に抗したが、義延は父に従わなかったので、3千石をもらって幕下にいた)
〇今月、駅宿へ条例を下した。その例を示す。他はこれと同様である。
『定
一、従江戸品川迄上下駄賃荷物一駄四拾五貫目ニ付京銭弐拾六文同板橋ヘ参拾文タルヘキコト 附人足賃ハ半分タルヘキ事
一、馬番ヲ定荷物ヲ作ル事一切不可有之堅停止之事
一、馬早ク出次第荷物可附事
一、馬次之所ニテ馬遅ク出スニオイテハ右之荷物附馬主通シ先々駄賃定ノコトク出スヘシ 日暮トナリテハ荷主ヨリ馬力タハコ銭ハダスヘキ事
一、帰馬ニ荷物ツクル荷主馬元入次第タルヘシ難渋申者於有ハ其町ノ年寄可為曲事事
一、通荷物之事、御上洛之節ハ何方之馬主ヲアラタメ次第発スヘシ、常に通馬可相留事
右之條々堅相定之跡若於違背之者ハ速可庶處厳科者也仍如件
慶長十六年七月
板倉伊賀守
米津清右衛門
大久保石見守』
〇今月 アモイから東曽納という者が長崎へ来て、貢物を献じた。また、西域国の海舶総兵官、東適我という人が手紙を送り、昨年アモイで黒船が罰せられたことを聞いて、商売を以前のようにできる証文を求めた。
東曽納はアモイの貴族ということだったので、駿河へ呼び家康に謁見することを認めた。家康は朱印を与え、本多上野介と後藤庄三郎の許可の下、東適我とアモイの耆老(*きろう)へ手紙を送り、以後長崎へ貿易船が入港するときには、貨物の交易以外は禁じると申し渡した。
8月小
2日 駿府の藤堂高虎の屋敷へ義直と頼宣を招き、水無瀬前参議親具入道一齊、鈴木久右衛門重量などの企画で猿楽が演じられた。次に相撲5番、次に高虎の子供の士が30人ほどが錦繍を纏って風流の踴(*踊り)を披露した。永井直勝、本多正純、松平右衛門太夫正綱、村越茂介直吉、後藤庄三郎が同席して見物した。
3日 常陸と下野に盗賊が蔓延り、夜討ちしたり、白昼に火砲で旅人を殺したりして荷物を奪うので、秀忠の軽率頭の細井金兵衛、久永源兵衛、服部仲が駆けつけて、91人を逮捕し、小山の芋柄新田で晒し首に処した。以来盗賊は出なくなった。
4日 秀忠の使節の安藤対馬守重信が駿河へ来て、家康の意向を聴いた。その結果、加藤清正の遺領は子の藤松に与えるという秘密の命を受けて江戸へ戻った。
〇 秀忠は5箇条の制令を公布し、キリシタンの宗門は西洋の陰謀なので禁制とし、また近年輸入されている煙草の喫煙を禁じた。国内の城には大炊頭の対馬守と青山図書助重成が奉書を与えた。
10日 板倉内膳正重昌は、御所の建設の監理として京都へ行った。彼は京尹伊賀守勝重の3男である。若いけれども非常に頭が良い人といわれた。
12日 早朝に家康は浅間山へ行き、2町先に的を置いて火砲を撃って5発を中心に命中させた。近臣も火砲を撃ったが外れてしまった。また、駿府の城の櫓に鳶が3羽いたが、家康はその2羽を撃ち落とし、1羽の足に当たって切れたが飛び去った。距離は50間ほどあったので皆が驚いた。
16日 浅野弾正少弼の隠居の際にもらった常陸の真壁の5万石は、彼の庶子の采女長次に与えた。非常に厚い待遇である。(長次は内匠頭長矩の高祖である)
22日 奥州の会津で大地震が起きた。昼前に猪苗代4万石の土地が沈んで湖となった。溺れ死んだ人は3千700余人であった。(これは多々美(*只見)川が埋まったためだと、会津風土記に書かれている)(*『当代記』では、この災害が蒲生飛騨守氏郷が神仏を軽視し、自分本位の振る舞いに対する天罰だと評している)
24日 江戸から加藤藤松が駿府を訪れ、今度秀忠から亡父清正の家督を自分に与え、肥後へ向かうように命じられたことを報告し、礼として黄金500両と白銀千両を家康に献じた。(遠江参議頼宣の姻家なので、彼は頼宣の館で饗応された。藤松はそのころ質子として江戸に居たという)また、肥後の監察として、牟禮郷右衛門勝成と小澤瀬兵衛正重が肥後へ向かうように命じられた。
細川越中守は暹邏国〈*シャム〉へ商船を派遣し、象牙、白絹、孔雀、豹の皮などを手に入れ家康に献上した。
26日 駿府の西の丸にて、神變膏(*痔の薬?)を練らせた。
〇阿部備中守正次が大番頭となり、伏見に勤務した。
28日 浅畑に出て火砲で鴨を2羽仕留めた。
〇今月 長谷川藤廣が長崎から来て、今年明や南蛮などから商船が80余隻が長崎に来ることを報告した。家康は非常に喜んだ。
9月大
3日 佐久間河内守政實が尾張、名古屋から駿府へ帰り、名古屋城の図面を献じた。
10日 深夜から家康が病気となり、早朝に興庵法印宗哲を呼んで診察を求めた。しかし、彼が遅れて来たので叱られたが、すぐに回復したので許された。
11日 秀忠の娘が越前少将忠直との結婚によって、江戸から土井大炊頭を伴って駿府へ来た。すぐに家康に面会して二の丸に滞在した。11歳だった。
15日 秀忠の娘の饗宴のために、猿楽が催された。(*『当代記』:13日に催されるはずだったが、姫が咳を出したので延期されて今日になった。なお、16日に越前に立つところだったが、咳の為に延期された))
去年家康に叱られ蟄居していた石川福阿彌が許された。
16日 京都の吉田神龍院(*梵舜)が駿府を訪れ、藤原の系図1巻を献じた。(『雍州應志』によれば、卜部兼俱の子で、僧になって丸江と名乗った。兼俱は家法に背いて両部習合の神道を開いた人である)
18日 越前へ輿入れのため、秀忠の姫は駿府を発った。
19日 家康は林道春に建武式目を読ませて、得失を論じた。浅野采女正は父の長政の遺物、鎮西という葉茶壺と長光の刀を家康に献じた。
20日 南蛮から献じられた世界地図の屏風を家康が見て、長崎奉行の長谷川左兵衛と後藤庄三郎を呼んで、海外の事情について雑談をした。
22日 折尾帯刀の形見の眞壺と黄金千両を山城守忠晴が家康に献じた。
25日 頼宣の家来となった岡野三右衛門房次が、駿府で死去した。享年39歳。
26日 家康は遠江参議中将の家来たちに領地を与えるために、安藤帯刀、水野対馬守、彦坂九兵衛を呼んで遠江の国内の村の台帳を持って来させて協議した。
27日 家康は藤堂高虎の館を訪れた。
28日 江戸の姫(*秀忠の娘)の婚儀が越前の福居(*井)で行われた。土井大炊頭、渡邊山城守、長谷川筑後守が伴い、越前の老臣などとともに婚礼を仕切った。この姫は、後の越後中将光長の母の高田殿である。
晦日 頼宣は駿府の二の丸の家に藤堂高虎を招いてもてなした。家康も訪れた。日野唯心金地院傳長老、圓光院長老(足利学校に住んでいた)も参加した。
10月小
朔日 駿河城の建設が終了した。山科少将言緒冷泉侍従為満と船橋式部少輔秀賢が家康を訪れて、諸家系畧屏風一双を献上した。下間少進法印が帰路の許しを得て、簀子まで家康に面会し、馬を1匹もらった。
遠州濱松の近所の市野村に総太夫という金持ちがいて、馬好きで馬術に長て、以前から家康は彼に馬を預け、その辺りの租税を集めさせていた。今日、彼が駿府へ来て、生姜を家康に献じた。諏訪部宗右衛門定吉を呼んで市野総太夫と馬の談義をした。
3日 加藤藤松が肥後へ赴いた。藤堂和泉守も肥後へ行って、政務を担当するように命じられた。
6日 関東で放鷹のために駿河を発った。本多上野介、安藤帯刀、成瀬隼人正、松平右衛門太夫、村越茂助、後藤庄三郎が伴をした。
日野、水無瀬、冷泉、山科、舟橋も従った。日野唯心へは米500石、水無瀬一斎へは米80石、山科、舟橋、冷泉には黄金千両と美服を与えた。道すがら八幡辺りで、家康は自分で獲った雁を1羽唯心に与えた。清水の宿に着いた。夕方になって上の人々が家康を訪れた。
今日金森法印二男、五郎八が85歳で死去した。彼の領地の近江と濃尾の内の2万石は、家康が引き取った。(ここは前に法印の死によって配分された場所である)
7日 善徳寺に着いた。家康は火砲で自ら鶴を獲った。
9日 小田原に着き、城主大久保相模守が面会した。家康は彼の息子の病気の容体を尋ねた。
〇相模の中原の宿に着いた。江戸からは安藤対馬守が来て、食事などの世話を段取りした。今日大久保加賀守忠常が享年32歳で死去した(*10日)。彼は秀忠の重要な家来で、非常に穏やかな人柄で人望があったが夭折したため、秀忠は悲しさのあまり老臣に報告するのを憚った。皆が小田原へ行って、父の忠隣の悲しさを慰めた。
本多佐渡守正信は、忠隣はどちらも秀忠の両翼の執事だが、内々には勢力争いをしていた。今度幕臣たちが53日の間ひっきりなしに小田原を訪れることを憎んで、いろいろと讒言を流したという。
11日 家康は相模川の畔に進んだ。しかし暴風によって中原の宿へ戻った。
13日 藤澤の宿に着いた。
14日 神奈川の宿に入った。ここへは秀忠も迎えに来た。しばらく歓談の後秀忠は江戸へ帰った。
15日 稲毛に到着した。途中で白鷹が初めて鶴を獲ったので、家康は非常に喜んだ。
16日 家康を迎えるために大小名が芝、金杉に集まった。昼に江戸城の西の丸へ到着した。
藤堂高虎が肥後国の仕置きの命を帯びて、駿河を発った。
山口但馬守雅朝の伏見城勤務の貢献に対する秀忠の推薦で、彼に上野皆川の1万石が加恩された。彼は大番頭である。
19日 江戸城の海辺に白鳥がたくさん来ているというので、家康は火砲の名手数人を連れて船を出した。しかし、海が荒れて船が揺れ、的が絞れないので引き返した。今晩、越前から土井大炊頭が江戸へ帰り、秀忠の姫の輿入れの様子を報告した。
21日 江戸本城で、猿楽が演じられた。これは秀忠が大久保忠常が死去して悲しんでいるので、家康が慰めるために催したのだという。
22日 もう一度猿楽が催された。秀忠の御台所も観劇し、小大名の質子や妻子も見物を許された。
23日 家康は近所で放鷹をした。
24日 家康は本城へ戻った。秀忠は大手門(今の百人番所)まで出迎えた。
竹千代(家光)と国丸(忠長)が玄関まで出迎えた。家康は左右に彼らの手をつないだ。それから大奥へ向かい、大御台所へ会いに行き、秀忠と一緒に食事をした。食事の世話は本多佐渡守が行い、政務の相談もした。
25日 家康は三碌山増上寺へ詣でた。秀忠は駿府の元老本多正純と永井直勝、安藤重次、成瀬正成、松平正綱、大久保長安、村越直吉、長谷川藤廣を数寄屋へ呼んで、鶴の料理と茶をふるまった。
26日 家康は戸田の村で放鷹をした。安藤対馬守重信が料理の段取りを司った。(尾張と遠江の両参議も随行した)
武徳編年集成 巻59 終(2017.5.21.)
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