巻58 慶長15年3月~12月
慶長15年(1610)
3月小
朔日 浅野弾正少弼長政の長男、紀伊守幸長は、紀州一円を領地とし、長政も隠居料として、常陸の真壁と近江の愛知川5万石をもらった。
二男の右兵衛長蔵は、岩松という苗字になって、13歳から秀頼に仕えていて2千石をもらい、小姓頭を務めていたが、今度大阪から京都へ出て、家康に仕えたいと切望した。木下肥後守の遺領を幕府が没収したので、その内の2万4千石が長蔵に与えらた。兄の幸長の娘が、尾張の義直へ嫁入りするために、長蔵も厚遇されたのである。(後年、幸長が亡くなり、右兵衛佐長蔵が家督を継いで、但馬守となった)
秀頼の家来、小出播磨守吉政の二男、信濃守吉親は、上総の2千石をもらって家康に仕えた。この人は後に父の遺領、但馬出石の城に住んでいたが、元和5年に出石を兄に譲って、丹波に同じだけの広さの領地をもらい、寛永19年9月には郡奉行となった。
2日 安藤治右衛門定次は、伏見の城番の監使として、江戸を発った。
5日 秀忠は駿府を発った。このとき家康は、自分が駿府を去った後に、義直、頼宣、頼房のことをよろしくと申し渡すと、秀忠は謹んでその命を受け、江戸へ赴いた。
10日 名護(*古)屋城の建築現場で、平岩主計頭親吉の家来と黒川筑前守の士が喧嘩して両方が死亡した。
11日 天皇の勅使の勤修寺大納言光豊と廣橋前大納言兼勝が、駿府へ向かった。これは来年皇太子へ譲位する予定であることを、家康に密かに告げるためである。
22日 井上人左衛門庸名が従5位下、淡路守になった。この人は黒田長政の功臣の九郎右衛門之房の次男で、14歳の時から秀忠に仕え、5千石を持っていたという。
28日 駿府の大奥の女﨟が罰せられた。これは、この人が何度も金銀を盗んだことがわかり、去年城を見まわった時に紛失していた器具が、この春に出て来てことがあったが、それはこの女の仕業だったとかである.
戲正則、池田三左衛門輝政、浅野紀伊守幸長は、去年篠山の城を建設にあたったので、この春の尾張名古屋の城の建設は免除されていた。しかし家康はいろいろ考えたのか、3人に名古屋の方も担当するように命じ、3人は名護(*古)屋へ向かった。
ある日、福島は池田に向って、「今年江戸城と駿府城と城の建設が続いたが、このために多くの労力を使うのはどちらもこの国にとって重要な城だから問題ない。しかし、この名護屋城は、身内の為の居城なので、そのために諸将の国元の労力を使わせるとなると、やはり筋が違うな。輝政は家康の親戚みたいなものだから、われらの為にその気持ちを家康に伝るべきだ」と述べた。輝政は唖然としたが、加藤清正は「正則は軽率だぞ。一旦建設に関われば黙って専心すべきだ。もししなければ家康の命令に背くことになるぞ」と荒々しく怒鳴った。正則は赤面し、輝政は笑って退席したそうである。
名古屋城の建設に預かった人々は次の通りである。(9月23日に担当現場の広さが決まったという)
1)5、121坪分 1、222,700石 加賀、能登、越中、松平筑前守利光
2)3,080坪分 807、500石 播磨、備前、淡路、松平三左衛門輝政
3)1,500坪分 498、200石 安芸、備後 、福島左衛門太夫正則
4)2,083坪分 ~52万石 肥後 、加藤肥後守清正
5)1,537坪分 523,100石 筑前 、黒田筑前守長政
6) 772坪分 202,600石 土佐 、松平土佐守忠義
7)1,498坪分 322,080石 筑後 、田中筑後守忠政
8)1,487坪分 321,600石 豊前 、細川越中守忠興
9) 763坪分 20万石 松平長門守秀就
(但し、周防長門の内、父宗瑞の隠居料、毛利秀元と吉川廣家の2人の領地は除かれている)
10)1,427坪分 374,300石 紀伊 、浅野紀伊守幸長
11)1,770坪分 357,000石 肥前の一部 、鍋島信濃守勝茂
12) 730坪分 22万石 伊予、松山 、加藤左馬助嘉明
13) 720坪分 186,753石 阿波 、蜂須賀阿波守至鎮
14) 471坪分 123,689石 肥前唐津、肥後天草、寺澤志摩守廣高
15) 565坪分 171,810石 讃岐 、生駒讃岐守正俊
16) 248坪分 56,000石 豊後、臼井 、稲葉彦六典通
17) 190坪分 38,760石 飛騨 、金森出雲守重頼
18) 148坪分 3万石 備中芦守 、木下右衛門太夫秀俊
19) 99坪分 26,000石 豊後、府内 、竹中伊豆守重俊
20) 94坪分 24,700石 豊後 佐伯 、毛利伊勢守長高
〇後日、池田輝政は、福島の話を秀忠へ報告した。「正則は城の建設をサボっていると聞いた、即刻国へ帰って戦いの用意をして、こちらが攻め込むのを待つように」と家康は輝政に伝えさせた。福島など皆は恐怖して、早速、伊勢と三河の大きな船を集めて西や南の海から大きな石を運び、人夫20万人を集めて建設工事を終えた。加藤清正は、以前から天守辺りをすべて受け持って建設を行ったという。
〇この頃、江戸の桜田、愛宕山圓福寺の本社、幣殿、門を新しく造った。そもそも、天正10年の6月上旬、家康が堺から大和路を経て、近江の多羅尾四郎兵衛光敏の館へ入ったとき、光敏がひごろ敬愛していた勝軍地蔵の家康に献上したが、そのおかげで、その後伊賀越えの危険を遁れ、伊勢の白子裏から船で三河へ帰った。慶長8年の夏には、今の愛宕山へ仮の建物を建てて、その地蔵を安置した。今度石川六郎左衛門を奉行として改築した。(完成は今年の秋で、夏の14日から工事を始めた)
4月小
〇高野山の金剛峯寺蓮華三味院は、宇多天皇の誓願寺である。先に一老が亡くなり、伊豆の般若院の学僧の頼渓が庵室院に住んだ。高野山では、稚児の頃から高野山で学問をして、実績のあった博学の僧が一老となるしきたりがあった。しかし、頼渓は非常な博学の持ち主だったので、特別の計らいで、高野山の一老に就任した。
高野山では、全山で衆徒がこれに反対して、彼を追い落とそうとした。そうして慶長12年に遍照光院が立ち上がり、頼渓との争いが勃発して、頼渓を理不尽に犯人として縲絏(*るいせつ、縄に掛ける)した。
頼渓はいろいろと雄弁を揮って嘘をいって謝り、縛られたまま高野山から脱出して、駿府へ逃げて来た。そして家康に遍照光院の悪事を訴えた。
家康は遍照光院や学僧たちを呼んで、いろいろ尋問した結果、遍照光院を捕えて高野山へ連れて帰り、山上で殺し、棟梁の僧たちを追放した。そうして頼渓を遍照光院の住職として、高野山全山を統治させる朱印を与えた。
ところがこれから頼渓は、非常に猛威を振るって贅沢三昧をし、自分の気に食わない者に因縁をつけては放逐し、特に実性院の弟子たちを罪もないのに追い出した。そこでこの春、高野山の僧侶たちが駿府へ来たが、頼渓が家康に通じているので間接的に意向を伝えた。すると頼敬は聖の家や堂をロックアウトしようとした。しかしこれは古来あったものだから、彼のいうことをきかなかった。そしてついに實性院が駿府へ来て、高野山全山の決定として頼渓を放逐したいと訴えた。
『急度申入候 両御所様被背 御意候 関東衆之分者 高野山 吉野 多武嶺 伊勢朝熊可有之旨 上意候 被差置寺中任交名可有 言上候 恐々謹言
四月二日 安藤対馬守、酒井雅楽頭、本多佐渡守
高野山衆徒中
吉野山衆徒中』
『急度申入候 両上様被背 御意候 上方衆之分者 日光山 足利行道 筑波山 房州清澄寺 右四箇所可有之者 上意之間 被差置寺中任交名可有 言上候 恐々謹言
四月二日 安藤対馬守、酒井雅楽頭、本多佐渡守
日光座禅院
房州清澄寺
筑波山知足院
足利鍐阿寺』
2日 江戸の執事3人(*安藤対馬守、酒井雅楽頭、本多佐渡守)が諸山へ命令を下し、命令に背いて隠れている者を調査し、名簿を差し出す様に命じた。さらに武家にも3か条の決まりを発布した。
9日 三河の設楽郡日近の村が震動して、4、5寸大の大きな石が5個降った。(*『当代記』:その時天が震動して雷のようだった。昔寛喜2年(1230年)10月16日に奥州の芝田で柑子(*こうじ)程の石が降った。隕石だろう)
〇上旬 松前伊豆守慶廣が駿府を訪れた。家康は蝦夷の海狗腎(一名膃肭臍*オットセイの乾燥ペニス)を所望した。(*『当代記』:家康は「カイクジン(海狗腎)という魚を調べてくるように、この魚を食すれば長命になるといわれている。この魚にはひれがあり身に毛がある。(海狗腎)の長さは一尺横5寸らしい。オットセイともいわれる」といったという。
14日 伊達政宗は、近江から駿府へ来て家康に面会した。摂津の住人の樋口石見守知秀が慶長5年に家康に献上した、樋口肩衝の茶入れを与えた。
古歌に 『浅くとも よしや又吸人もなし 吾に事たる 山の井の水』とあり、この歌の意を含んでこの肩衝は「山の井」ともいわれ、政宗は特に秘蔵した。寛永12年に彼が亡くなったのちは、息子の忠宗が政宗の形見として大猷公に献上した。しかし、同17年に忠宗が帰国するときに、もう一度彼に返されたという。
15日 京都の名医、吉田意庵が死去した。
19日 家康は猿楽を催した。美濃の明智の住人、遠山民部少輔(72歳、相模入道宗叔の子)、三河足助の住人、鈴木久右衛門重量(67歳)、秀頼衆の池田備後守(47歳)が勤めた。脇は堂上の閑人、水無瀬入道一齋という。
〇中旬 池田宮内少輔忠雄に淡路の国を与えた。これは彼が家康の外孫だからであるが、身体が弱かったので、父の池田三左衛門輝政が代わりに国務を行った。輝政は関ヶ原の戦いで目立った活躍をして、家康の婿でもあるので、当時播磨備前と淡路の三州を治めて禄は80万7千500石だった。彼は特に西海や山陽の要の姫路に住んで、国家の重要な家来だった。
家康は高野山の僧たちの訴えを自分で決済し、今回の頼渓が罪のない人々を放逐し、勝手に法令を出していたので前に出した朱印を取り上げ、罪に落としたという。
20日 高野山の法令5箇条を下した。
『高野山寺中法度
一、衆徒中ニ諸沙汰可為以前之事
一、両門徒中諸式順門之異見 但門主之分別奉於非義者可申上事
一、於古諸之院家相続者以両門主相続撰學者致師弟契約続血脈可 興眞俗之諸道事
一、煩學之仁肖古法不可企新儀事
一、學侶方知行不論贔負徧頗院家相應可有配當事
附 両門徒中無疎意有入懇萬端可致調事
慶長十五年四月廿日
金剛峯寺衆徒中』
21日 米澤中納言景勝が駿府へ参勤し、家康に面会した。
23日 家康は猿楽を催して、景勝と政宗をもてなした。常陸介頼宣が初めて舞を舞った。観世太夫翁を演じた。(入道黒雪とはこれである)、子の左近太夫は夕方駿河を逃げ出した。これは梅若太夫を家康が愛したのを憤慨したためであるが、実はたまたま起きたことだという。
〇今月、京都の朱座の隆成は、先ほど家康の命で能比須蕃(*メキシコ)へ渡り、貿易をして帰朝して、「狒々緋は多く持ち帰ったが、金銀は乏しかった。他の島よりはまだ裕福である。しかし、もう来ないように」と固く制止されたと進言した。(*『当代記』では、そのようにメキシコの人が日本人へ厳命したとある。追い返されたのだろうか?)
5月小
10日 恒岡内記が死去した。この人は武蔵の岩槻の城主北条十郎氏房に仕え、北条家が失脚して秀吉が名古屋に在陣した時に、氏房が出仕の時期で、氏房についていって家康の御家人となり、子の新左衛門は350俵の給料で仕えていたという。
11日 水野六左衛門勝成が従5位下、日向守になった。家康の母方の従弟という。
13日 秀忠は仙台羽林政宗の宅を訪れ、長男の秀宗が小さいときから秀頼に仕えていたので、政宗は二男虎菊を嫡子とした。そこで秀忠は虎菊に国俊の脇差を与えた。
6月大
3日 尾張名古屋の城の二の曲輪は、この春から加賀利光が担当して築いた。本城は諸公が持ち場を分担して、濠を掘り、今日から石垣を積み始めた。
12日 秀頼は再び京都の大仏殿の建設を始めた。これは非常に広大な建物で、柱が三重に並び、270本あった。中でも仏前の柱は間隔が広いので太く、一本の値段が白銀100貫、その他は一本16貫であった。秀吉ゆかりの諸侯が相当経費を負担したが、九牛が一毛ほどだった。秀吉が貯めていた金銀も、これでおおよそ尽きるだろうと巷で噂された。(秀頼の代での再建である)
13日 奥平美作守信昌の娘が、堀尾山城守忠晴の嫡男に嫁いだ。出雲の松江に輿入れるので、秀忠の外姪でもあるから、秀忠に会って餞別をもらうために、兄の大膳太夫家昌の領地の上野の宇都宮を発って、江戸城を訪問した。秀忠は餞別として白銀を500枚を与えた。
14日 和泉の高市郡廣瀬の神保三郎相茂は、この春から尾張名古屋の城の建設の手伝いに加わったが、なかなか船での道中が不便なので、丹波の亀山の城の建設を本多上野守が奉書で知らせた。(閏2月12日である)、更に秀忠も彼に手紙を送った。この書状は神保主膳の家に残されている。
18日 上野の喜連川の村長の、左兵衛督源朝臣晴氏が死去した。
7月
朔日 家康は納涼として、瀬名川へ行き水に潜って泳いだ。
〇京都で千道安が死去した。この人は利休宗易の嫡子で、春屋国師について茶道の名声を落とさず、最初は宗安といったが法諱、玄仲道徹となった。
5日 租税の使の細田助右衛門吉時が死去した。彼は甲州の山縣の部下だった人で、天正10年以来井伊直政に仕え、小田原篠曲輪攻めで戦死した、助三正時の子である。
6日 秀忠は武蔵の府中、玉川で狩を楽しんだ。明日賀儀の使いとして土井大炊頭、青山伯耆守が駿河に着いた。
13日 高木主水正清秀入道性順が享年85歳で死去した。最初は水野信元に仕え、武勇で鳴らしたが、後に家康の功臣となった人である。
19日 秀忠の命によって、濃尾の黒野の加藤左近貞泰は伯耆の米子へ移り、伊勢の今尾の市橋下総守長勝は伯耆の三条へ移転し、伊勢亀山の関長門守一政は伯耆の黒坂へ移った。(市橋と関は石高が増やされた)
20日 土井大炊頭に1万2千石が加えられた。(重信は上州、吉井正次は下野の鹿沼)
27日 松平下総守忠明は伊勢の亀山の城5万石をもらって、領地としては三河の作手とともに持った。濃尾の加納の城主松平摂津守忠政(最初は飛騨守)は4万石を加えられた。この2人は奥平信昌の子である。
桜井の松平の嫡子左馬允忠頼が不審な死を遂げ、禄を没収され家は断絶した。そこで弟の定頼の弟の大膳忠重に武蔵の深谷8千石を与えた。井伊兵部大輔直政の次男掃部頭直孝とは別に1万石を与えられた。
〇奈良から急ぎの連絡が入り、当21日に大風で春日の神木が60本枯れ、又永正3年にも7千本が枯れたという。
29日 大久保石見守長安は、去年の夏から越後の国内の田畑の検地をやり直し、信州から美濃の岐阜へ着いた。美濃の検地は去年行ったが、更に詳しく調べさせるためという。
8月大
2日 御家人の太田新六郎重政が享年50歳で死去した。この人は道灌の4世の孫の源六郎康資入道武庵の子である。その子采女資宗に遺領の上総の野田山本500石をあたえ、家康に仕えた。
3日 秀忠の使節土井大炊頭が駿府へ来た。紹鴎圓座肩衝の茶入れをもらい、これで茶をたてて秀忠に献じるように命じられた。秀忠が茶を好むからである。
8日 島津陸奥守家久が、琉球の中山王尚寧を連れて一昨日駿府に到着し、今日家康に謁見した。家康は烏帽子直垂を着て大広間の上段に座り、中山王は白銀1万両、段子100巻、羅紗20尋、芭蕉布100、太平布200、太刀1本を献じ、挨拶を終えてから、家久は長光の太刀1本と白銀を千枚を献じ、琉球をもらった礼をした。
尚寧が駿府に滞在している間、弟が病死してしばらく滞在したが、大広間の畳が古くて老臣は注意された。
(*『当代記』:琉球の一行に17~8と14~5の小姓がいた。両人共シャミセンを弾いた。年上の名字はヲモイシラ、年下の名字ヲモイトクという。両人共に小唄を歌う。江戸の人々は、彼等にシャミセンを弾かせた。言葉は少し違うが、日本人と同じ。髪を右に輪に結び、宿に入る時には、笙や横笛、鐘、太鼓、しちりきの演奏をする。これを道行という。国王は外出せず、奥に隠れているようである。琉球にも、詩や和漢の連歌、猿楽の能があり、宗教は禅宗、浄土宗、キリスト教などがある)
〇今日丹波亀山の城の工事が終わった。藤堂高虎が天守を建て、家康と秀忠への忠義を尽くしたので、喜ばれた。
18日 家久と中山王が、駿府でもてなされた。常陸介頼宣、鶴千代、頼房が、酒宴で踊りを披露した。家康は家久に貞宗の刀と脇差を贈った。
〇今日、京都東山の豊国神社の祭礼があり、今春太夫が、弓矢の立ち合いを舞った。猿楽はなかった。これは和泉の春日大社の霜月の祭礼に似させて、恒例としたという。
〇江戸の三緑山増上寺の普光観智が、先月国師号を天皇に免許されたので、天皇に会うために京都を訪れ、今日参内した。黄金1枚、大高檀紙10状を献じた。また女御、女院の御所へも白銀と杉原紙を献じた。
19日 島津家久と中山王が家康に暇をもらって贈物を受け取り、明日駿府を発って、江戸へ行くように命じられたという。
古田織部正重能は、千利休の茶道を伝えて有名だった。秀忠は古田を呼んで、その奥義を尋ねた。
20日 長岡兵部大輔源藤孝入道2位法印幽斎玄宗旨が、享年77歳で京都の吉田で死去した。今日は京極黄門定家の370周忌に当たり、玄旨は定家の流派を継いで、数代歌道に優れていたので、これは実に千載一遇のことである。
24日 於万の方が温泉に行き、今朝駿河に帰るというので、頼宣と頼房は夜半に城を出て迎えに行った。家康は夜陰に城門を開けるのは、老臣の越権行為であり、衛兵の決まりの反するので怒り、老臣を蟄居させた。
26日 昨日、家久と中山王は江戸の城下へ着き、秀忠は上使いを島津の桜田の館へ入れて、遠来の客をもてなした。
27日 上使は、また島津の館に行って、精米千俵を与えた。
18日 家久は中山王を連れて江戸城へ入り、秀忠に謁見した。その際、純子100巻、虎の皮千枚、白銀1万両、芭蕉布100、大平布200、太刀8本を献じ、大猷(*ゆう)公へは段子50巻、太平布100、芭蕉布50、紅絲100斤、太刀1本を贈った。
家久からは、、長光の太刀と白銀千枚を秀忠に、大猷公へも太刀と馬代を献じた。
9月大
2日 京都の豊国神社の神官、荻原2位卜部宿禰兼豊が享年78歳で死去した。
3日 家久と中山王が江戸で饗宴された。琉球は、代々中山王の国であるから、他の姓の人を王にすべきではない。早く帰国して先祖の供養をすべきであると、秀忠は命じた。尚寧は歓んで、手と足の舞を続けた。
家久には琉球の税収入を与え、その他琉球の捕虜を全て返させた。
7日 秀忠は、茶室で自ら茶をたたて、家久にふるまった。
9日 駿府では重陽の節句の儀式が終わって、家康は碁の対戦を観戦した。本因坊と和泉高取の城主、本田因幡守利玄、道碩と門人が対戦した。利玄は4目で勝ったという。
16日 秀忠は島津に帰国の許可を与え、もう一度もてなして、加賀貞宗の刀と馬を贈った。中山王が帰国した後、家久に琉球に監使を置いて政令を出すように命じた。
20日 家久は中山王を連れて、江戸の城下を出発した。(帰路は中仙道を使った)
22日 京都の大仏殿の柱が立てられた。
24日 桜井安芸信次が死去した。(甲州先方、河内信成の子である)
29日 家康は関西の領地を今後は将軍秀忠に譲ると決めたので、土井大炊頭は関東から関西へ向かい、代官を調査した。
〇今月、大和の浪人、井戸新右衛門直弘と同姓左馬介良弘は、初めて家康に謁見した。
〇家康は稲富伊賀祐直入道一曼を駿府へ呼んで、火砲の術を尋ねた。これは彼は関ヶ原の時に、細川家の長臣として大阪の宅を守っていたが、越中守忠興の妻児が自殺するときに逃げたので、忠興が激怒して、諸将に仕えることを禁じて辺境に流した。
慶長9年に尾張の薩摩守忠吉は、彼を密かに呼んで生活費を支給し、名古屋に蟄居させていた。家康と秀忠は彼の持っている砲術の技が途切れるのを惜しんで、忠興を江戸城へ呼んで、小松内府重盛と宋朝徑山寺佛光禅師が結縁のために黄金をもらったときの返書や定家の七首和歌懐紙など珍物や名器を多数贈って、稲富の罪を許す様に諭し、ようやく忠興も了承した。そこで秀忠はじきじきで砲術を彼に尋ね、弟の稲富喜太夫直堅を御家人にした。
〇この月、槍奉行の戸田備後守重之が、享年65歳で死去した。最初は半平で長篠、鳶巣の戦いでの一番乗りをしたのは、この人である。
〇日本では金銀が多いので、遠国の外国人がそれを聴きつけて貿易を望んでいた。ある時、ある外国船が薩摩へ来て、その商船を長崎に入港したいといって来た。かれらは献上品として沈香柱12本、(一本を4人で持つ)、同粉末柱1本、砂糖水10壺、水沈10斤、象牙2個、鸚鵡、孔雀、利牟鶏各1羽、紋の絹1巻きを薩摩から駿府へ送った。
10月小
3日 大炊頭利勝が江戸へ帰った。
6日 秀忠は茶の会で、大久相模守忠隣の宅を訪れた。
9日 駿府の本城の台所より昼頃出火した。阿茶の局の廊下に火が回り、二の丸の東側の家屋3、4軒と長倉を30間が焼失した。堀丹波守直寄が最初に駆けつけ、片方の火を消し止めた。これによって濃尾の多芸郡と信州で1万石を足され4万石となった。
14日 家康は、駿府を発って江戸城へ向かい清水に着いた。
松平右衛門太夫正久に千石の地を与えた。
15日 善徳寺に着いて、銃で菱食雁1羽を撃ち取り、藤堂高虎に与えた。また放鷹のためここで3日間逗留した。
武田の庶流の大番士の大井庄兵衛昌久が、57歳で死去した。子の長右衛門正水が家督を継いだ。
16日 秀忠は茶会で伊達政宗の宅を訪れた。また、大小の大名の老臣の宅にもよく訪れたので、皆が喜んで秀忠の人柄を慕ったという。
18日 伊勢桑名の城主、本多中務大輔忠勝が享年63歳で死去した。法諱良信。 徳川家の重要な家来だったので、家康も秀忠も非常に悲しんだ。
19日 家康は三島に着いた。
20日 小田原城に着いた。
21日 武蔵のあちらこちらで放鷹をした。秀忠も狩場へ合流して、家康に会ってから江戸城へ帰った。
家康には武蔵の村々は雁や鴨が少なくて、つまらなかったという。
22日 秀忠は上総へ行って、火砲の訓練として雁や鴨を多数撃った。そのおかげで雁や鴨が武蔵へ移って来たので、家康はまんざらでもなかったという。
〇ある話では、高力左近太夫忠房の岩槻の城へ家康は寄った。この城は今年の3月に焼失したが、ほどなく再建したのを感心し、江戸城へ帰ってから、弟の河内守長次を使いとして白銀を200枚贈ったという。
〇今月、家康は大河内金兵衛秀綱入道休心を呼んで、御家人とした。彼の父金兵衛秀綱は吉良義昭の家来だった。義昭が永禄7年に三河で亡くなったからは浪人となり、非常に困窮した。そうして秀綱は伊奈備前守忠次方に身を寄せていた。弟の長三郎正久は17歳から家康に仕え可愛がられていた。長澤の松平甚右衛門正次の養子になって、右衛門太夫となり、兄の休心の子の長四郎信綱を育て、去年から大猷公に仕えたという。
11月大
17日 青山藤五郎忠俊従5位下、伯耆守となった。この人は播磨守忠成の二男で秀忠に仕えた。
25日 本多美濃守忠政に父の遺領12万石を与えた。秀忠は、忠政の娘を養女として堀忠俊に嫁がせた。しかし、忠俊が今年配流されたので、彼女は関東へ戻され、今度は江戸から有馬左衛門佐康純(23歳)へ輿入れた。秀忠は康純を呼んでもてなし、長光の刀を与えた。そして夫婦そろって年内に伏見へ行き、来年の春には父修理太夫の領地肥前有馬へ行くように命じた。(*『当代記』では有馬晴信の息子の直純が23歳で、その後妻が本多忠政の娘とある)
27日 家康は江戸城から途中で放鷹をして駿府へ向かった。
12月大
10日 家康は駿府へ帰った。
12日 丹羽の代官権田小三郎と能勢小十郎が喧嘩した。本多上野介と安藤帯刀が調査して、権田に不合理があると判定された。
13日 家康が来年3月に京都へ行くという意向が示された。
越後の少将忠輝の家来の花井近江が、越後の地図を家康に献じた。
松前から贈られた大鷹16居の内13居が死んだ。更に、武蔵の忍と遠州中泉の猟場に飼っていた大鷹も多数が死んだり傷ついたりした。そのためこの世話をしていた鷹匠の一族は叱責された。
〇ある話では、関西の大名は巷の噂のために三河の岡崎山の石切り場を造ったという。
〇増上寺観智は、今年の秋に国師の号をもらい、京都からようやく関東へ戻った。その道中の宿で横暴な振る舞いをして、人夫を殴り不法甚だしかった。
21日 三河の吉田の城で、竹谷の松平玄蕃頭家清が享年46歳で死去した。子の民部大輔忠清が家督を継いで、3万石を領した。
〇この月、大澤基重が従5位下、侍従右京大夫となった。(9歳)
形原の松平又七郎家信が、従5位下紀伊守となった。
〇この年、家康は長谷川左兵衛藤廣に命じて、「昔から日本は明と勘合貿易をしてきたが、天文年間に大内家が滅んでから交易がストップしている。今から再開したい」と述べた。
藤廣が藤廣長崎に行くと、ちょうど明の商船が肥前の五島に入港して因性始という者が長崎に来た。そこで藤廣はこれを駿府へ知らせたところ、林道春(*林羅山)に本多上野介と藤廣からの書簡を用意させて、長崎に届けた。
書簡は藤廣から明の福建の総督陳子貞へ届けられた。これは「今日本は平和で朝鮮からも幣使が来るし、琉球も自分の家来となった。また、安南(*ベトナム)、南交趾(*ベトナム)、占城、暹羅(*タイ)、呂宋(*フィリピン)、西洋、柬埔寨(*カンボジア)などいろいろな国やポルトガルからも貢物が届いている。したがって中華も和平して、勘合の印をもとに互いに国交を開こうではないか」という明の皇帝への家康からのメッセージだった。家康はすぐに朱印を捺し、以前は日本と明がお互い使いを交換していた証拠を記して長崎へ送った。
この手紙は因性如が受け取り帰国して、復権の総督の陳子貞へ渡した。しかし、なお疑念を持たれ返事をよこさなかった。しかし、南京や福建の商船は毎年長崎へ来た。
〇外国から輸入される煙草の喫煙が禁止された。
〇渡邊国松勝綱(忠右衛門守綱の孫半蔵重綱の長男で12歳)、高木善七郎守次(主水正清秀の長男で善三郎盛次の子)、小川宗左衛門重次(12歳、故三益入道の子)が初めて出仕した。
〇拓殖右衛門作(9歳で平右衛門正時の子)が初めて家康に会った。
〇池田輝政の家来、青木次郎右衛門可直が御家人になった。これは兄の源吾重綱が家康に仕え、味方が原で戦死したからである。彼の兄は大阪の7組の頭の氏部少輔一重である。
〇山口島之介重長(17歳、伊豆守重信の弟)と佐々木利介元政が死去した。
武徳編年集成 巻58 終(2017.5.19.)
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