巻6 永禄6年正月~永禄6年閏12月
永禄6年(1563)
正月大
13日 以前、武田大膳太夫晴信は父親の信虎を追放して自立したが、彼の親不孝は許されることではない。しかし、今では北越の(*上杉)景虎と東相模の氏康と肩を並べる武将である。
信虎はそれ以来駿州に逃れて婿の今川義元の許で住んでいたが、今年ではや10数年が経った。
義元が戦死した後、その子の氏眞は駿河を治められる器ではなく、三浦右衛門義鎮という悪い家臣を登用して他の家臣たちを冷遇し、親戚の信虎をもひどく憎むようになった。
そこで信虎は京都へ上って今出川晴季卿を頼ろうと、去年の夏に駿河を立って遠州の掛川の律宗、園福寺でとりあえず蟄居した。しかし、それでも彼は氏眞を恐れ、律宗の僧を甲州へ派遣して、縁を切ったはずの信玄に密書を届けた。もともと信玄は領土を貪欲に拡大したかったので、これを喜んで、今日日向玄東斎宗英を園福寺に遣わせた。
信虎は、「自分は45歳のときに甲州を出て義元、氏眞の許で過ごした。しかし、氏眞は余りにも浅はかで自分を冷遇するので駿府には住めなくなった。しばらくこの寺に滞在した後は、自分は京都へ向かうつもりである。氏眞は女たらしの色狂で家臣に嫌われて国が滅びるのも時間の問題である。一方、三河の岡崎の首領は今年22歳ながら臨機応変にことに対処できるという噂が東三河に溢れている。その上、彼は織田の豪傑と協力して今川家を倒そうとしている。だから、今の内に今川の主な家臣を味方につけて氏眞を討ってしまえば、駿河と遠州を手に入れることができる。自分は信玄によって追放された身ではあるが、親戚の縁を切ることは忍びないので、この情報を伝えたい」と述べた。玄東はその話を承知して甲州へもどった。
19日 武田信虎入道は園福寺を立って京都へ向かおうとした。氏眞はそれを聞いて彼を強引に遠州引間の洞家宗、玄黙寺に幽閉した。
去年、信玄は伊勢から小濱民部光隆、また相模から間宮酒之丞好高を呼んで家臣とした。その理由は甲州には海がないので、そのうち氏眞が滅んで駿河を自分が征服したときに、両人を水軍の将にしたいためである。
〇元康は、今川が築いた三河の岩畧寺の砦を攻撃した。松井左近忠次は援軍を呼ばず、自力でこの砦を落とした。敵将7人は逃亡し、他の兵は多く討ち取られた。ただしこの月日はよくわからないが、多分この頃だろう。
3月大
〇元康は寶飯郡小坂井牛窪で砦を築いて敵に備え、岡崎より数回自ら出向いて見回った。渥美郡吉田の城将、小原肥前鎮實は小坂井の堤の下に兵を配して戦闘を始めた。
渡邊半蔵守綱が真っ先に飛び出そうとすると、蜂屋半之丞貞次は、「敵は大勢で優勢だからしばらく攻めるのは止めた方がよい」といった。渡邊は、「貞次は一番乗りを狙っているだろう」と怒って飛び出した。敵は横から槍で突いてきて半蔵は怪我をし退却した。敵が優勢になったときに蜂屋は戦闘に参加した。
小林勝之助正次は敵を討ち取った。松山久内は馬上から鉄砲を撃って敵の胸に命中させた。本多廣孝は先鋒として敵を50騎あまりを討ち取ると、敵は弱ってしまった。平岩七之助親吉は兵を引き連れて参戦し、敵は破れて吉田の城へ逃げ帰った。(『中興源記』では、小坂井の敵は4月に徳川に降伏したという)
5月大
〇元康が寶飯郡深溝の城を訪問した。城主の松平主殿助伊忠がもてなした際に、長澤城を守るように命じられた」
6月小
朔日 元康は松平伊忠に幡豆郡永良郷の内も領地として与えた。
「証文」
〇故 松平三左衛門忠倫の弟、三蔵直勝は、兄が亡くなってから領地をもらって元康に仕えた。彼は加茂郡大野の砦を守って援軍を要請して功績があり、これによって元康からかつての忠倫の領地、碧海郡佐々木の郷をもらった。
「証文」
〇元康は、額田郡の野見の松平次郎右衛門重吉の孫、伝一郎昌利に加茂郡桑谷の地と岡崎の宅地を与えた。(これは昌利の父、重昌が清水権之助から譲られた土地である)
「証文」
〇この伝一郎昌利は、父庄左衛門重昌が永禄3年(1560)に尾張の知多郡丸根にて戦死してからは孤独で、清水に改姓したという。しかし、なぜ昌利が、清水権之助の土地を受け取ったのかは伝わっていない。
25日 渡邊次郎四郎氏綱が享年75歳で死去した。(この人は、元康の家来の源太左衛門範綱の長男である)
9月小
〇元康改め、家康となる。
10月大
〇碧海郡上野の城主、酒井将監忠尚は、徳川の家来にもかかわらず密かに今川氏眞に通じて、病気と偽って出仕せず、その上、三河の一向宗の信徒を使って家康に反抗して滅ぼそうとした。
家康は碧海郡佐々木の辺りに砦を築いて、菅沼藤十郎定顕(後の越後守で、大番頭を務めた)に守らせるために、佐崎の郷の一向宗の上宮寺などへ兵糧を貸すように命令した。上宮寺や、同郡の野寺の郷の本證寺、幡豆郡鍼崎の郷の勝満寺は院家で、三河の一向宗の3大本山である。
ところが、その頃は酒井将監がその前に家康の命令だと偽って糧米を借りながら返さなかっので、僧侶たちが怒っていた時だった。それで今度の命令には従わなかった。菅沼は怒って上宮寺が干していた籾を奪って砦に運び入れた。これで僧侶たちは怒って国内の寺に連絡して対応を協議した。三河では、この3つの寺は親鸞聖人が開山してから以来いつも守護不入の地である。しかし、「菅沼の行動は放置できないので懲らしめなければならない」と、3寺の僧たちは地下人を集めて菅沼の家に乗り込んで、下僕を殴り出てきた家来を追い払って、籾の俵を奪い返した。
定顕は怒って酒井雅楽助正親に訴えた。正親は直ぐに上宮寺に使いを送った。「僧侶たちはおとなしく家康の命令を聞くべきところなのに逆らうのはおかしい」と咎めると、上宮寺の僧たちは酒井の使いを殺害した。
家康は酒井に事情を調査させて僧の責任者を処罰した。これで僧侶の怒りが爆発して家康に敵対し、3つの寺を城にして門徒を集め、三河に残っていた今川方とも通じながら一揆を起こした。
徳川の歴代の家臣たちには門徒も多く、死後の成仏を説かれて身を棄てようという人もある。または、親戚に誘われて門徒になったり、この騒ぎに乗じて手柄を上げて領地を奪おうとしたり、この機会に親の敵をとろうと思って昨日までは家康の近臣でありながら、明日は敵になったりするものもあった。また、今日は門徒と戦っていたものが、明日は門徒に加担したりして国内が分裂し、煙が空を霞めたり、勝鬨が聞こえたりするようになった。
酒井将監忠尚(上野城主)、松平監物家次(桜井城主)、同七郎昌久(大草の住人)、同三蔵直勝(佐崎の郷主)、吉良左衛門佐義昭(東條城主)、荒川甲斐守義虎(荒川城主)は、それぞれの地で徳川に敵対した。
将監に同調した者は、同苗作右衛門頼次、足立右馬助、同彌一郎、鳥居四郎右衛門信元、鳥居金五郎、高木九助廣正、芝山小兵衛父子、本多彌八郎正信(後の佐渡守)、榊原孫十郎清政(康政の兄)、大原左近右衛門、近藤伝次郎などである。
本国寺に集まった者は、大橋伝一郎、同左馬助、佐藤甚兵衛吉忠、同乱之助吉久(後の甚兵衛)、同甚五郎、石川半三郎、同、善五左衛門、同十郎左衛門、同源五左衛門、同新九郎、同新七郎、同右衛門八、同太郎八郎、同又十郎、江原孫三郎、同又助、吉田郷左衛門、本多九郎三郎、佐野與八郎、山本小次郎、同才蔵、同四兵衛、松平半助、小野彌平、村井源四郎、本多甚七郎、黒柳次郎兵衛、同喜助、同彦助、成瀬新蔵、岩堀半七郎、三浦平三郎、加藤小左衛門重常、平井甚五郎、野澤四郎次郎、内藤彌十郎、月晦佐五助、阿佐美主水、同金七ら78騎と100人ほどの兵士であった。
鍼崎の勝満寺に立てこもった者は、蜂屋半之丞貞次、筧助太夫正重、渡邊玄蕃、同八郎右衛門、同八右衛門義継、同源次仲綱、同八郎三郎秀綱、同源蔵、同平六遠綱(後の六郎左衛門)、同源五左衛門高綱、同半蔵守綱、同半七郎春綱、同半十郎政綱、同墨右衛門、久世平四郎長宣、土屋長吉重治、浅井善四郎、同小吉、同五郎、作波切孫七郎、近藤新次郎、加藤次郎左衛門、同源次郎、同伝十郎、同善蔵、同又三郎、同源太郎重之、同源蔵、同市郎九郎、浅岡新十郎、同新八郎、安藤次郎右衛門、佐野十太夫、犬塚七蔵、○瀬新兵衛、坂部又八、同囚獄、同又蔵、同庄之助、同桐之助、同酒之丞、平岩善十郎、河澄文助、同又兵衛、以下精兵70から80騎と多数の兵士達だった。
僧侶は檀家に短冊を配って、「法敵退治の軍、進む足は往生極楽、退く足は無限地獄」と書かせてプラカードとして意思統一を図った。
〇次ぎのような話もある。徳川の縁者に松平勘六忠政という人がいた。彼は少々変人で浮かばれなかった。今回、吉良義昭にそそのかされて一揆の頭目になろうとしていた。酒井雅楽助は驚いて彼を自分の家に閉じ込めた。その子の七蔵貞次は、後年三河の加茂郡桑谷村を領地にもらってずっと住んだという。
〇徳川家の長臣、石川日向守家成、本多作左衛門重次をはじめ、柴田孫七郎重政、筧図書重忠、その子、平十郎重成(後の牛之助、勘右衛門)、筒井與左衛門などは代々一向宗の門徒であったが、転向して家康についた。
本多豊後守廣の城は碧海郡土居にあり、彼は一向宗とは関係なかったが、一向宗の勢力に加わり勢力を日々蓄えていたので、家康は警戒していた。そこで、彼は「自分は一向宗でないけれども、時節に同調して敵になっているが本心ではないこと」を示すために、息子(9歳)を人質として岡崎に差し出した。家康は非常に感激して、「疑ったのは悪かった」と、康重(後の豊後守)という名前を与えた。
成瀬藤蔵正義は、去年同僚を刀で傷つけ岡崎から逃亡して遠州に隠れていたが、この騒ぎを聞いて三河へ帰って土呂寺に逃げ込み、妻子を連れて岡崎に帰ってきた。家康は直ぐに罪を許したので、家来に加えてもらうことができた。(この冬より翌年にわたって力をつけたが、後年味方原(*三方が原)で戦死した)
〇設楽郡河路村の設楽甚三郎貞通(後越中守)は、自分の領地と岡崎の間には敵がいて道が分断されていた。そこで信州の国境を回って岡崎に行き、一向宗を脱して家康についた。
八名郡高力の郷主、高力與左衛門清長は、岡崎で勤めているときに高力の村へ一揆衆が攻撃してきたという報を受けた。彼は家康に報告してから村に帰って、彼らを平定した。
11日 家康と一揆衆との戦闘が始まった。
酒井雅楽助正親は西尾の城から、野寺の郷の本證寺に立て籠もる一揆衆および荒川甲斐守と交戦した。長澤、戸古井より東はすべて一揆と氏眞方なので、土居の本多廣孝と形原の松平紀伊守家忠、深溝の松平主殿助伊忠は土呂と鍼崎の間で戦った。藤井の松平勘四郎信一、福釜の松平三郎次郎親俊は野寺の一揆衆と戦闘を始めた。酒井左衛門尉忠次は上野の城に向かって砦を築き、上野の城主酒井将監と一揆衆を分断したという。
13日 石川日向守家成、長澤の松平上野介康高、押鴨の松平宮内少輔親久、野見の松平次郎右衛門重吉、上野下村の内藤彌次郎右衛門清長の一族らは上野城を攻撃した。城兵が突撃をしてきたとき、家康の近臣の榊原小平太(26歳)が初陣で「篠切」という十文字の槍を振るって奮戦した。後に徳川の三傑、式部大輔康政というのはこの人である。
松平重吉は際立って活躍し武功を上げた。そのため後日家康は褒美として「備前景光の小脇差」を贈った。
金田惣八郎正祐19歳は騎馬で戦い命を落とした。その他、20人ほどが戦死したという。正祐は家康が尾州と戦ったときに戦死した與惣右衛門正房の二男で、家康は親子2代が戦死したことを憐れんで彼の住んでいた場所に寺を建てた。(照光山金田寺)
〇『小林家伝』によると、勝之助重正は上野の戦いで先鋒を勤め敗北したが、引き返して馬を敵陣に向け、内藤彌次郎右衛門清長、同陣五左衛門善教が続いて味方の戦列を整え突撃して城兵を城へ撃退した。その時重正は深い傷を負いながらも相手の首を取ったので、家康は感心したという。
徳川の譜代の名簿:
大給の松平和泉守近乗、同左近眞乗、鵜殿の松平十郎三郎康孝、鳥居伊賀守忠吉、
同鶴之助、同才一郎、同久五郎忠次、加藤九郎次郎景光、同播磨景元、同源四郎、
同比禰之丞、米津小太夫政信、同藤蔵、本多肥後守忠眞、同平八郎忠勝、
石川伯耆守数正の一族。
内藤一党の名簿:
喜一郎家長、ニ左衛門信成、甚五左衛門善教、四郎左衛門正成、平左衛門信次、甚一正員十内など。
林藤四郎忠正、黒田半平、酒井下総守、松平金助、同彌右衛門、同孫九郎、植村出羽守家政、同庄右衛門忠安、土屋甚助重信、同勘助、布施孫左衛門吉澄、根来十内、榊原隼之助忠政、同小兵衛、杉山山城守、上野三郎四郎、栗生長蔵。
中根党の名簿:
肥後甚太郎、権六郎、源次郎、喜蔵利重、新左衛門、源六郎、喜三郎、藤蔵甚七郎、同弟。
山田党の名簿:清太夫、半一郎、彦八郎、祖父右衛門、渋右衛門。
天野党の名簿:
三郎左衛門、三郎兵衛、甚四郎、助兵衛、伝右衛門、又次郎、清兵衛、又太郎ら。
平岩七之助親吉、同五左衛門正廣、青山喜太夫義門、同牛之助、同善四郎重成、今村彦兵衛勝長、同喜兵衛、永見新右衛門勝定、近藤馬左衛門、久米新四郎、八国甚六郎、細井喜三郎勝明、同喜八勝久、大竹源太郎吉治、安藤彦兵衛重長、同九助重次、池波之助、同主水之助、吉原助兵衛、遠山平太夫康政、筒井與右衛門、同内蔵、川澄久助、伊奈市左衛門、香村半七郎、発池藤三郎、高井才一郎らは、もっぱら家康の警護を勤めて健闘した。
小栗党の名簿:
大六重常、仁右衛門忠吉、助兵衛、彌右衛門、彌左衛門らは、碧海郡鍼崎に住んで矢矯川の西、幡豆郡六栗に夏目次郎右衛門吉信一族と一揆衆が築いている砦を圧倒した。
また、鍼崎の敵の砦は、岡崎の城から南に30町ほどにあり、敵が岡崎に攻めてきたときにサイド攻撃を狙って、徳川の最初からの家臣である大久保新八郎忠俊入道浄玄は設楽郡上和田の自分の屋敷を砦として、嫡子五郎右衛門忠勝、平右衛門忠昌、その長男七郎右衛門忠世、次男治右衛門忠佐、四男新蔵忠寄、五男勘七郎忠正、六男権右衛門忠為、同姓彌三郎忠政(故三郎右衛門忠久の子孫)とその一族36人、杉浦八郎五郎鎮貞、同彌一郎親次、同長蔵吉正、同十兵衛久眞、田中五郎右衛門義継、同彦次郎、阿部四郎兵衛忠政、松山久内、同市内、天野孫七郎、市川半兵衛、同彦四郎が立て籠もった。
ここから岡崎までは20町ほど離れていて、敵の鍼崎の城へは12町、土呂へも17町ばかり離れている。鍼崎の一揆衆が上和田へ寄せてくると、櫓に登って竹の筒を吹き、その音は法螺貝のようである。岡崎でも家康は見張りを置いて、その音を聞くと直ぐに戦闘の用意をして騎馬で救援に行った。敵も家康が出陣してくるとさすがに元の主人だから、あらかじめ斥候を立てておいて「家康が出てきた」と叫んで城に引き帰してしまった。
本多重次は一向宗を離れたことを証明するために、鍼崎に城に忍びこんで火を放ち多くの首を取った。それだけでなく、あちらこちらで戦功をあげた。家康は褒美として岡崎の近くの名栗の郷を与えた。
〇ある話では、松井三蔵は砦を構えて佐崎の一揆衆の襲撃を防いだという。
〇『昭代実録』によると、家康は松井三蔵の勢力が小さいので破られるだろうと予測して、援軍を加えた。(佐崎の郷主松平三蔵直勝は一向衆である。松井と松平は互角であった)
〇一向衆は矢矯川に向かって陣を敷いた。五井の松平太郎左衛門景忠の家来の松平清兵衛は強弓の腕を持っているので、家康は彼に命じて遠矢を発射させた。敵はたちまち退散した。石川日向守家成を先鋒として、加茂郡山中の砦の一向衆を攻撃したという。
一向衆は戦術をあらかじめ定めてなかったが、方々から集まって松平勘四郎信一の守っていた藤井の塞を攻撃した。信一は城を出て戦って大勝した。(この戦いの月日は明らかではない)
〇ある説によれば、この頃、西郡上の郷の城主、鵜殿氏が滅びたという話があるが、恐らくこれは間違いで、滅びたのは永禄5年である。このことは前に述べた通りである。
24日 松井左近忠次は、松平亀千代(後の甚太郎)の家来と共に吉良義昭の東條の城を攻撃して交戦した。
この吉良は辛申の年以後は、願い出て家康に降伏していた。また家康は以前、松井忠次に幡豆郡津ノ平の村、500貫を与えて砦を築いて、吉良が謀反を起こすことを警戒して監視させていた。
今回の一揆騒ぎで一揆衆は、義昭が源を頂く名家であることを聴いて、「あなたが頭となって一揆を成功させれば三河の長にしよう」と誘ったので、義昭は予想通りこれをチャンスとして一旗揚げようと考え東條の城に立て籠もった。これが、忠次が東條を攻撃した理由である。
義昭の弟の荒川義虎は、以前家康の家来になり家康の妹を娶ったほど世話になっていたが、今回彼も一向衆勢に回った。
このように徳川内部の争いが起きる中、織田信長は美濃の斉藤道三を攻めるために今年は何度も美濃へ出陣していた。そのため「家康を救援することはできない」といった。徳川は存亡の危機に直面していた。そんな中、家康は落ち着いて一揆衆を制圧するために戦略を考えた。「今、隣国の敵今川氏眞は馬鹿で戦の備えがなく、もっぱら蹴鞠や歌会、謡いに浸って散財し、国も廃れているのは徳川には幸いなことだ」といって、特に亀千代と従兄弟の左近へ恩賞を与え誓約書を書かせた、更に忠次に書簡を送った。
「書簡」
〇『安倍家伝』によれば、四郎五郎忠政は、吉良の東條の城攻めで城に近づいて敵の武将を射殺した。その腕前が凄かったので、後から敵よりその弓が返還された。また、彼は加茂郡浮貝では敵の隊長を射殺し、深井八九郎にその首を取らせた。
〇額田郡野羽の陣地に、夏目次郎右衛門吉信、大津半右衛門、同伊織乙部八兵衛、久留善四郎正勝ら60人ほどが一揆衆に加わって立てこもった。深溝の城より松平主殿助伊忠が攻めて彼らを滅ぼした。乙部はもともと一向宗徒ではなかったが、夏目と懇意だったので参加していたが、形勢が悪いのを察して夏目の命を救うために久留など7人と相談し、伊忠に内通して城へ呼び込んだのでこの城は陥落した。
大津半右衛門は素早く鍼崎へ逃れたが、夏目は逃げ場を失って倉庫の中に隠れた。乙部はそれを見て夏目の命請いを熱心に伊忠にした。伊忠は乙部の友情に感心し、また夏目が以前自分の家来だったこともあって、倉庫を保護して家康に嘆願したところ、家康は彼の望むようにすることを許した。それで伊忠は直ぐに乙部を通じて夏目に伝えた。夏目は一揆に加わったことを後悔して、家康の温情に感謝し倉庫から出てきて伊忠に降伏した。
世間ではこれを「伊忠の夏目の圍」といって、伊忠の部下を憐れむ心を賛美した。
久留と夏目は伊忠の推薦で家康の幕下となり、乙部は伊忠の家来となった。元亀3年(1572)の味方原(*三方原)の戦いのとき、夏目は家康の身代わりとして戦死した。
〇渥美郡田原の戸田弾正憲光は、家康の継母の父であるが、天文丁未の冬、家康が6歳で駿州へ人質として向かう途中に家康を誘拐し、織田信長へ引き渡した張本人である。
その家は落ちぶれたが、一族の中の戸田三郎右衛門忠次は一向宗徒ではないが野寺の本證寺に篭った。家康は彼が一向衆に染まってしまうので早く帰ってくるように命じた。そういわれた忠次は考えを変えて、本證寺の砦を離れた。その時彼は、「これは家康の勧めによって城を去るのであって、躊躇したのではない、3日ほどの間にこの砦を抜きに来る」と棄て台詞をいった。一向衆は怒って彼を捕らえようとしたが、彼は無事城を抜け出し、外の塀に火を放って岡崎に戻って事情を家康に報告した。
家康は、野寺の本證寺には多くの武者がいるので、まず忍びを派遣して焼き討ちをしている間に、酒井忠次、大久保忠世のどちらかの一隊を出撃させることにし、酒井を本證寺に出撃させ、戸田が隊を導いて城の大手門へ向かった。一向衆はそれを察して門を閉じて守りを固めたので、戸田はその作戦はできず城の裏手へ回った。裏手の防護は間に合っていなかったので、忠次は真っ先に城に攻め込み一の木戸を破って院内に乱入した。更に彼は人を選んでニの構えを突破して火を放って城に迫った。
城兵の本多新太郎は戸田の声を聞きつけて鉄砲を放つと、戸田の兜に当たり彼は気絶した。酒井勢が彼を助けて兵を引いた。岡崎に帰ってから忠次の意識が戻ったので、家康は「国光の脇差」を贈った。
〇次のような話もある。家康は親衛兵2千程を率いて岡崎の城を出撃し、一向衆を攻撃して撃破した。藤井の城から松平勘四郎信一も馳せ参じ、家康の馬の前に出て次々と敵を撃退した。
敵は信一を鉄砲で撃ち、弾が信一に左の脇に命中した。それを見て敵は喜んで大声をあげたが、信一の鎧は固くて弾をはじいたので肌には至らなかった。信一は直ぐに起き上がって白目をむいて見得を切ったので、敵は逃げ帰った。家康は彼の豪壮な様子に感心し、諸士も彼を誉めて「今景政(*平 景政は16歳の頃、後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍したとき、右目を射られながらも奮闘した逸話が『奥州後三年記』に残されている。)」と呼んだ。
渥美太郎兵衛友勝は奮戦して、槍や刀で傷を三箇所負いながら敵の首を取った。倉橋宗三郎久勝、青山藤八郎、加藤勘右衛門正次、大岡忠右衛門忠勝、杉浦八郎五郎鎮貞、榊原隼之助忠政、細井喜八郎勝久、本多百助信俊などは、何度も合戦に参加して戦功を上げた。
〇『大岡家伝』によれば、忠右衛門忠勝は一揆方の武将、福王忠右衛門を討ち取ったという。
11月大
25日 今月初旬から味方は各所で毎日交戦し負けることはなかった。鍼崎の勝満寺に立てこもった一向衆は岡崎を攻撃しようとし、まず、大久保一族が守る上和田の砦を破ろうと今日出撃した。岡崎勢は厚木坂で迎え撃ち激しく交戦した。
家康もすぐに上和田へ出撃した。上和田の柵の中から、阿部四郎兵衛忠政は弓を射て、一揆方の首領渡邊半蔵守綱の左の腰を射た。小藤花甚五郎、川田彦十郎、遠藤八太夫、筧 助太夫正重、同又六など一揆衆が四郎兵衛の矢に当たって負傷した。
一揆衆の渡邊源次仲綱は矢を放って安部忠政を射倒した。(ただし忠政の命に別状はなかった)
家康の家臣、黒田半平を渡邊源蔵が槍で突こうとしたところに家康が駆けつけると、源蔵は狼狽して逃げた。
植村庄右衛門忠安は敵を捕らえ、蜂屋半之丞貞次と槍で一騎打ちをした。大久保治右衛門忠佐ら上和田の城兵は、黒田と植村を救援するため先を争って参戦した。蜂屋と渡邊源蔵は畦を伝って退却しようとしたが、家康の叔父に当たる水野藤十郎忠重(後の惣兵衛、和泉守)が蜂屋を追撃した。水野藤十郎忠重は兄の下野信元と不和で、刈屋の城を出て碧海郡鷲塚に来て水野太郎作清久(後の左進太夫)、村越又四郎と一緒に住んでいたが、この騒ぎでは3人で岡崎方について家康の先発隊に参加していた。
藤十郎は今日も出て来て蜂屋半之丞を追撃して来た、半之丞は振り返って笑った。忠重は声高に「戦え」と叫んだ。半之丞は、「おれの槍を受けてみよ」といって槍の柄を取って突き出した。藤十郎はその勢いに押されて引き下がると、半之丞は槍を上げて、「お前は最初から敵にはかなわないと知っていて逃げたのか」と罵った。
丁度そこへ家康が駆けてくると半之丞は家康を見上げて首を伏せ、槍を引きずって退いた。松平金助が追いかけて声をかけると、蜂屋は「引き下がったのは家康だからで、お前らは恐れないぞ」と引き返し金助を突いて首を取ろうとした。そこで家康はまた駆けて来て、「けしからん奴だ」と諭すと、半之丞はまた逃げた。金助の傷は重く命を落とした。
平岩七之助親吉も前線にでて槍で戦ったが、筧助太夫が矢を発して親吉の耳に当たり倒れようとした。筧は走りよって首を取ろうとしたが、家康が厳しく諭すと、筧は直ぐに逃げ去った。
小林勝之助重正の次男、正次は今年16歳で、兄権太夫主直に従がって酒井左衛門忠次の部隊に属し、今日は大活躍をした。(戸田左門一西、証人として家康に報告した。正次は後勝之助となる)味方の兵を収めるとき、榊原太夫が後殿を務め、敵の首を取た。(能見の松平次郎右衛門重吉が証人になった)
〇次のような話もある。蜂屋半之丞が退却するのを服部半蔵正成と平岩七之助親吉が追いかけると、蜂屋は踏み止まって槍を向けた、しかし、「縁者だからとても戦うわけにはいかない」と叫んで、静かに引き下がった。
本多平八郎忠勝(16歳)は横合いから槍を構えて半之丞に向かってきたので、半之丞は、「平八郎下がれ」といった。忠勝はこれを聞いて、「下がれとはあなたに似合わぬ言葉だ」といって更に突き進んだ。蜂屋は、忠勝の勇気に感心して、「悪かった、自分が下がろう」と引き下がった(本多家の説である)。
〇次のような話も伝わっている。今日の戦闘で、大久保藤五郎忠行が奮戦中に鉄砲の弾に当たり腰が立たなくなり、歩けなくなった。それで彼は引退して上和田に住んでいた。家康は彼を憐れんで300石を贈った。忠行は、亀左衛門五郎忠茂の5男である。彼はいつも餅饅頭を作るのが好きで、何度も家康に献上した。当時は戦時であったから、このようなものに毒が入れられることが多かった。そこで、家康は彼からもらったもの以外は口にしなかった。
天正庚寅年に家康が江戸に移ったときに、家康は彼に用水を調査するように命じた。彼は「多摩川の水を小石川経由で城へ通じさせるのがよい」と、その理由とともに報告した(*神田上水)。以来、家康は彼に「主水」という名前を与えた。彼は晩年跡継ぎがなかったので禄を返上し亡くなった。彼の未亡人は親戚筋を継ぎ子として、代々菓子を製造した。
〇ある話では細井喜三郎勝明、廣忠(*家康の父)以来の家臣で弘治3年(1557)に死去した。嫡男新五郎勝宗、二男喜八郎(後の喜三郎、金兵衛)は共に家康の近臣である。勝久はこのときの戦いで斥候を命じられ、最初に敵と槍で交戦した。槍の戦いぶりを品評する人がいて、今日の一番槍の中でもっともよかったのは細井喜八郎だったと紙の旗に書いて立てかけた。家康はこれを見て喜八郎に「国光の槍」を贈ったという。
27日 家康は腹心の家来大久保一族を率いて、一向衆と勝負を決しようと鍼崎の郷、勝満寺の砦へ押し寄せ、寺の中へ攻め入った。
大久保七郎右衛門忠世が一番乗りをしたが、敵方の本多三彌正重はそれを狙って鉄砲で対抗した。忠世も鉄砲で対応し早く引き金を引いたので本多は打ち倒された。三浦は軽い傷を負って退却したという。戦いは一日中続いたが勝負はつかなかった。
〇あるとき、鍼崎の一向衆は、大久保一族が上和田から攻めてきたら、二手に分かれて、一方は大久保党と交戦して進撃を食い止め、もう一方は、妙国寺畷(*なわて)へ出て行って、大久保軍を分断すれば、碧海郡の上居の方へ退却するだろう。そこで挟み撃ちをして敵を深い田へ追い込んで粉砕しようと考えた。
予想通り大久保軍が攻めてきたので、早速一向衆は二手に分かれて待ち伏せていた。ところが、蜂屋半之丞貞次は大久保五郎右衛門の妹婿だったので、彼は大久保一族が滅ぼされることを案じて自分で妙国寺付近を馬に乗って何度も走りまわった。大久保軍の方も戦いの場数を踏んでいるものばかりなので、その意味を察して兵をすぐに上和田へ引き上げた。このために敵の作戦は失敗した。
12月小
〇家康は碧海郡佐々木の上宮寺の一向衆を攻めるために、敵の砦のある道筋を防御しようと額田郡土呂の善秀寺から馬場小平太、石川新七郎、矢田作十郎などが額田郡作村、大平村、村岡村の3箇所を攻めた。家康軍が出撃すると敵は戦わずに退却した。天野三郎兵衛康景は敵の大将の馬を槍で突いて彼の首を取った。一揆衆は勢力を失って退却するときに、本多平八郎忠勝は敵に突撃し柵を越えて追撃した。
〇『天野家伝』によれば、三郎兵衛はもともと一向宗徒だったが、今回浄土宗に改宗した上奮戦し、馬場小兵太という強い武将の首を取ったので、家康は阿弥陀仏の木像(毘首羯磨(ビシュカツマ)作、長さが2寸五分)を手渡したという。
〇『戸田家伝』によれば、三郎右衛門忠次は蜂屋半之丞と二度の合戦で槍を合わせたという。
〇『高力家伝』によれば、與左衛門清長(後の河内守)は居城の八名郡高力が額田郡土呂の隣村なので、清長は本多作左衛門主次、天野三郎兵衛康景と共に土呂の善秀寺を攻めて手柄を上げた。家康は寺が落ちて後に感謝状を贈った。
閏12月大
7日 本多豊後守廣孝と松井左近忠次は共に吉良の東條の城を攻めて功績を上げ、家康はそれをたたえて領地を与えた。
「証文」
〇『久留家傳』によれば、東條の城攻めの際、善四郎正勝は幡豆郡岡山の城に籠って一番槍と手柄を上げた。証人は夏目孫蔵だったという。この人は善四郎回忠以後徳川方としてこの城に籠っていたらしい。
〇佐脇次郎右衛門安信が御家人に加わった。
〇家康は成道山大樹寺へ印章を送った。
「印章」
〇この年(月日は不詳)、家康は加茂郡寺部の城を攻撃した。野々山藤兵衛元政が一番乗りした。城主の鈴木日向守主恒(または重教)、その子監物重儀は大敗北を喫し村に逃げ込んで、もう一度防備に励んだという。
〇織田信長は、家臣 木下藤吉郎秀吉に初めて100貫文の領地を与えた。秀吉は28歳であった。翌年には3千石を与えられた。
武徳編年集成 巻6 終
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