巻7 永禄7年正月~永禄7年11月

永禄7年(1564)

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元日 一向一揆が三河で勃興しているので岡崎城での正月の新年の儀式は省略された。

3日 昨年の12月から家康は碧海郡佐崎の上宮寺の一揆衆を攻めるために、地形を調査し城を築いてきた。しかし、それを妨害するために額田郡土呂の善秀寺の砦に立て籠もる一揆衆は、同郡佐村、岡村、太平村へ出て村々を焼き払った。

碧海郡刈屋の水野下野守信元は新年の挨拶のために岡崎を訪れ、家康と一揆打倒について話し合った。家康は戦の煙が立ち上っている光景を指差して、「早く刈屋の城へ帰ってほしい。自分はすぐに前線へ駆けて敵の後続を断つ」と鎧を着けて出撃した。近臣たちも家康の後を追った。信元は、「この状態を見捨ててどうして帰られよう」と隊列に加わった。

家康は川を渡り池を越えて、上和田の大久保党に鍼崎を抑えさせ、大久保彌三郎忠政を道案内として額田郡盗木と小豆坂を経て馬頭の蹈合という地に行ったが、そこで佐村、岡村、太平村を焼き払った一揆衆に出会った。一揆衆は家康の馬が疾走する様子に驚いた。

去年から蜂屋半之丞、矢田作十郎、石川新七郎はそれぞれ金の団扇の捺物を身に付けて、主人家康に対して傍若無人に振舞ってきた。そこで家康はじめ味方はあの3人を捕まえたいと考えていた。しかしあろうことか昨夜まで味方だった大見藤六という武将が一揆方にまわった。彼が敵方の大将になって味方の作戦を一揆衆に漏らせば大変なことになるのではないかと近臣たちは囁き合った。家康は、「もし自分が戦場で命を落とすようなことがあれば、藤六の首を取って自分の墓に供えてくれ。そうすればあの世への土産になろう」といった。そこで、皆は金団扇の3人と藤六を探して奮戦し敵の陣を撃破した。

近藤新一の放った矢が家康の韁(*たずな)にあたったので、家康は怒って敵の中に乗り込むと、敵は乱れて表の道を避け山道の方に逃げようとした。しかし、その中にいた石川新七郎は「危険が迫っているとはいえ、もしわき道で死んでしまうようなことがあると大恥をかくので表の道を逃げる」と独り言をいった。それを聴いた蜂屋、矢田、大見もその言葉に促されて石川と共に金の団扇を輝かして表の道を退却した。水野太郎作清久20歳は先頭を切って追撃した。強弓で鳴らした藤六はこれを待ち受けた。太郎作は槍を構えて向かっていくと、藤六は「近寄ると射殺すぞ」と白目を向いて対峙した。敵味方は固唾を呑んでこれを見ていると、槍の先が鏇(*やじり)が行き違うかと見えたとき、流れ矢が藤六の肘に突き刺さった。藤六は弓を棄てて矢を抜こうとしたときに太郎作は藤六を突いたが、鎧が堅くて槍が滑り藤六と鉢合わせとなった。藤六は刀を抜いて清久の兜に切りかかったが、これも固くて頭を切ることができず太郎作の拳を切り割った。しかし、清久は動じず槍を棄てて刀を抜いて藤六を切り伏せ、首を取った。

水野信元の弟、藤十郎忠重は、金の団扇を見つけて石川新七郎に追いついた。石川は振り返って「今までは水野一族を崇拝していたが今日は敵だ」と一騎打ちになったが、結局忠重が石川の首を取った。

波切孫十郎は、戦場から逃げて人善坂を駆け上るところに家康が馬で追ってきて槍で二回突いたが、それでも逃げた。竹尾宗久も追撃したが逃げ続けたが結局加藤勘十郎、村井源四郎の2人に討ち取られた。弓の腕で鳴らしていた村越又十郎はその腕で敵を多数射殺した。一揆衆は大敗して、佐橋甚五郎もしばらく行方をくらました。この戦いで、石川新七郎、大見藤六が戦死したために一揆勢は大打撃をこうむったと伝えられている。

〇『水野清久伝』によれば、太郎作が大見の首を家康に見せると、家康は感激して「お前は生涯の恩人だ」といったという。

〇ある話では、波切孫七郎はこの騒乱の後に再び家康の家来となったが、家康は「お前の背を2度突いたぞ」と咎めたところ、「自分は家康には突かれていない、別のものに突かれた」と答えた。家康はこれを憎んで、それ以来彼の子供にも一度も会わなかったし、孫七郎が手柄を上げたときにも放って置かれたという。

11日 一揆衆は土呂、鍼崎、野寺の兵力を合わせてまず上和田の砦を落としてから岡崎城を陥落させる計画で、上和田を包囲して攻撃した。大久保一族は城外へ出撃して奮戦した。しかし、本家の五郎右衛門忠勝は目を矢で射られ、七郎右衛門忠世も負傷した。

上和田が互角の勝負をしている報を受けて家康はすぐに岡崎を出陣した。緊急の出陣だったので本多平八郎忠勝、植村出羽守家政、同庄右衛門忠安、松平彌九郎景忠、同次郎右衛門重吉、同十郎三郎康孝、米津藤蔵、松平彌右衛門、内藤四郎左衛門正成、同金一郎家長、同三左衛門信成、小栗大六重常、榊原隼之助忠政、伊奈市左衛門、鳥居久五郎忠次、渥美太郎兵衛友勝、天野三郎兵衛康景、同甚四郎、同清兵衛、平岩七之助親吉、今村彦兵衛勝永、氷見新右衛門重頼、筧図書重成、中根喜蔵利重、布施孫左衛門吉澄、戸田三郎右衛門忠次など僅か30人で先に参戦し、残りは遅れて加わった。一揆衆も一歩も引かず上和田軍と交戦した。

寶飯郡六名の郷より、土屋甚助、筒井甚六郎など一族10騎あまりが駆けつけて家康軍に加わり、一揆衆を額田郡針崎の野まで撃退させた。そこへ勝満寺より一揆衆の16騎が救援に来た。家康は1騎で飛び出したが、宇津與五郎は常時家康の馬に併走した。

家康の鎧に鉄砲の弾が当たったが肌には届かなかった。家康は相手に弱気を見せないようにと突撃した。武者奉行の渡邊図書清が駆けてきて家康に、「この場所は鉄砲を撃ちやすい場所なので、直ぐに陣に戻って指揮をするように」と嘘の進言をした。家康はその忠告に従って前線を離れた。

矢田作十郎、蜂屋半之丞、渡邊源五左衛門、同半蔵、筧助太夫らは、かねがね岡崎軍の一番槍(*一列目)は強いが二番槍の力は大したことはないので一番槍の戦いが始まると次ぎは刀で彼等を切り崩そうと考えた。

徳川方の中根喜蔵利重は一揆衆に向って突き進んだが、渡邊半蔵が飛び出して中根を切りつけ傷を負わせた。喜蔵も槍を棄てて刀で応戦していると、鵜殿の松平十郎三郎康孝が傍から名乗り出て参戦した。それを見て半蔵は中根の足を払って康孝と戦ったが傷つきながらも康孝を切り伏せ、首を取ろうとしたとき、後ろから来た川澄久助が槍で半蔵を突いた、半蔵は太刀で抗戦すると川澄が退いたが、そこへ半蔵の父の源五左衛門高継が来て、「家康が来たので直ぐに退却せよ」といった。内藤四郎左衛門が矢を放つと源五左衛門の胸に命中し、彼は倒れた。半蔵は父を抱えて退却した。

幡豆郡浅井の城主、石川十郎左衛門は槍で家康に立ち向かった。内藤正成は石川に向かって、「お前は自分の親戚だけれど、今日の勝負は家康のためだから逃がさないぞ」と矢を発し、石川十郎左衛門は両股を射抜かれて倒れた。一揆衆は彼を連れて退却したが、渡邊源五左衛門も石川十郎左衛門もともにその夜に命を落とした。

土屋長吉重治(22歳)は家康の近臣である。一向宗徒なので一揆に参加したが、家康が危ういのを見て一揆衆に「自分は宗門のために家康に叛いて戦ってきたが、家康が危ういので、ここは宗門に叛いてあの世で地獄に落ちてもいいから家康のために死にたい」と囁いた。そうして彼は家康軍の先頭集団に加わって矢にあたって戦死した。味方はこの様子に感じ入っていると、春は日まだ日が短く、暗くなったので両軍は戦いをやめた。徳川軍は小林権太夫主直(後の半太夫)が後殿を務めた。

一揆衆では渡邊や石川だけでなく強い武将たち10数人が戦死し、味方も松平十郎三郎、同彌右衛門以下5名が戦死した。中根喜蔵など負傷者も多く出た。

家康は上和田の砦に入って大久保一族の奮戦に感謝した。また、石川日向守に命じて家来を戦場に行かせて土屋長吉の遺骸を持ち帰らせ、長吉の手をとって彼の死を惜しみ家成の下僕に遺体を上和田に葬らせた。

家康が岡崎にもどって鎧を解くと、弾丸が2個落ちてきた。周りの者は運の良いことだと感激した。

〇『福釜家伝』によれば、松平三郎次郎親俊も家康の命令で土呂、鍼崎で戦勝し、伊藤左近、同右近を討ち、一向宗の僧2人を突き殺した。彼は福釜の城の近くにこの4人の首を埋めた。人々はこれを「左右塚」と呼んだ。右近左近を略したものである。

25日 岡崎の御家人、深津八九郎と青山虎之助長利は、夜中に佐崎の寺に潜入して放火しようと計画した。ところが味方の警護の当番の大田五郎右衛門がそのことを相手に知らせ備えていたので、2人は多勢に取り囲まれて討ち取られた。一方、味方は、予定の時間に密かに佐崎の砦の付近まで進んで砦から煙が上がれば突入しようとしたが、一揆衆は砦の中から深津と青山の首を掲げて味方に見せた。このため味方は攻撃できずに岡崎に戻った。岡崎では2人の勇気をたたえると共に、自分たち相手の裏切り者に頼らずに忍び込んだにもかかわらず失敗したことを悔やんだ。

2月小

3日 家康は水野下野守信元に援軍を依頼した。

家康は、酒井雅楽助正親の幡豆郡西尾の城へ兵米を運びこむために、西尾藤井の兵と段取りを相談したように碧海郡野寺八面の砦を攻めて村を放火してから西尾へ向かう予定だった。しかし、その道筋の3里ほどは全て一揆衆の土地だから、6里の間道を経て西野から西尾へ向かうことにした。すると周りの一揆衆はこれを遮ろうとした。家康は3千の兵は隠しておいて、少数の兵で一揆衆を誘き出すと彼らは競って突撃してきた。そこで負けたふりをして4~5町引き下がり、そこで一揆衆の後ろから大勢で襲い掛かって挟み撃ちにした。

そこへ碧海郡の米津鷲塚の一揆衆が救いにきた。信元の兵が彼らに応戦して大勝利を得た。信元の家臣の上田半六は一揆衆の頭目、鈴木彌兵衛を切り殺した。その外、60ほどの首を取って家康に贈ったので、家康は非常に喜んだという。

12日 岡崎より斥候として石川又四郎康重、根来十内、布施孫左衛門以下25騎が鍼崎に向かった。これを相手に内通するものがいたので、鍼崎では城の周辺に伏兵をおいた。斥候はこのことを知らずに砦の近くで先を窺っていると、蜂屋、筧、渡邊らが躍り出て、大勢が斥候たちを取り囲んだ。3人は奮戦したが、半之丞が鉄砲を撃って石川の股にあたり戦えなくなったので退却した。根来は渡邊半蔵の槍に突かれ、渡邊平六眞綱に首を取られた。布施は筧助太夫正重と互角で戦っているときに、渡邊が傍より孫左衛門を槍で突いたが、首は取らずに寺の中へ持ち込んだ。去年の冬から岡崎勢は一揆衆と戦いに明け暮れていたが、負けたのはこの日だけだったという。

13日 佐崎の一揆衆300人は矢田作十郎を頭目として岡崎城を襲おうとした。

家康はそれを聴いて、「わが軍がやられたのは、おおむね矢田のせいである。彼は生まれつきの勇士だからいつも真っ先に攻めてくる。今日もきっと先頭を切ってでてくるだろうから、最初に出てくるの兵を狙って他の者は標的にするな」と鉄砲隊に命令した。一揆衆は二手に分かれて攻めてきたが、果たして矢田が先頭に攻めて来た。兵はいいつけどおり銃で彼を打ち倒した。一揆衆は彼の首を抱えて交戦せずに慌てて退却した。

〇矢田は非常に優秀な勇士で、先陣や後殿を務めて功績があり名前は世間に知られていた。以前上杉謙信が勇士をスカウトするのに熱心の余り、よその国の勇士の絵を集めて眺めることがあった。謙信は家康に矢田の絵を求めた。家康は、背丈の低い矢田の姿が越後に知られたら困ると、坐像を描かせて越後に送った。

この作十郎には実子がなく、親戚の深津彌左衛門正吉を養子とした。今回作十郎が戦死し、正吉が7歳なので、彼は外甥の深津四郎兵衛正利のもとに隠れた。天正年間に、家康は正吉の弟、市郎兵衛から兄のことを聞いて、正吉を呼んで御家人とした。しかし、養父は家康を敵視していたので、矢田を避けて実家、深津を名乗った。

〇一向衆たちの多くは元は家康の家来だったが、彼らは妄りに死後のことに溺れるあまり家康に敵対したが、物事の分別によってそれを後悔するようになった。というのは、10日のこと、岡崎方の斉藤なにがしという者が、自分の以前の友人、吉田太左衛門が立て籠もっている額田郡土呂の善秀寺の境内に手紙を送って、「岡崎の譜代として一向宗のために徳川に敵対するのはいかがなものか」と述べ、「まして君は一向宗徒ではなく、本多彌太郎正信と親友であるだけの為に一揆に参加しているのは酷すぎる。早く本多正信や蜂屋、渡邊らを説得して戦いを止めさせ過ちを償え」と伝えた。

吉田は大いに反省して、本多、蜂屋を説得した。本多は直ぐに納得した。蜂屋は大久保と親しかったので大久保彌三郎忠政に罪を謝罪した。彌三郎は、そのことを本家の新八郎忠俊入道浄玄、その子五郎右衛門忠勝に伝えた。2人は、「当節は乱世で、強は弱を掠め取り、大は小を侵略して領地を拡大したいと望んでいる。しかし、徳川の家臣が一向宗のために無用の戦をして多くの死傷者を出して挙句は家康をも倒そうとしているとは、天罰を受けるだろう。そんなときに隣国が攻めてくれば主人も家来も逃げられないだろう。できれば一揆衆の罪を許してもらって平穏な国にしたい」と岡崎に行き、家康に頼むと家康はそれを了解した。

そこで彌三郎は家康の意向をすぐに蜂屋に伝えた。蜂屋は、石川善五郎左衛門、同源五衛門、同半三郎、本多甚七郎などと協議し、彌三郎に「自分たちの罪を許してもらえるならば、3つの願いがある。これを家康に頼んでほしい」と伝えた。すなわち、
1) 一向衆の領地を没収しないでほしい。
2) 僧侶のために寺を元に戻してほしい。
3) 一揆の首謀者の罪を免除してほしい。

大久保は直ぐに家康に伝えた。家康は「要望の内初めの2つは許すが、首謀者の罪を許すわけにはいかない」と述べた。

浄玄は経験豊富な人で、「大久保の一族は息子の忠勝を始めこれまで家康のためにがんばってきて、傷を負ったり、命を落したりしてきたので、その恩賞として一揆衆を許してやってくれないか、そうすれば彼らを先鋒として吉良や荒川をはじめ西三河を征服して力を付けるとご先祖に報えるのではないか。自分は年をとって先がないが徳川家の繁栄を願っているのでいわせてもらう」と涙ながらに訴えた。

あとから水野信元も同じことを家康に進言した。その結果、ようやく家康も納得した。そこで(*渡邊)守綱はその日に降参し、家康の寛容さに感謝した。家康は彼の罪を許して、亡き父(*渡邊)源五左衛門の領地だった額田郡浦邊の内100貫の領地を与えた。(後に30貫が追加された)

28日 家康は上和田の浄聚院に出向き、今後諸氏は宗門を棄てて家康の家来となるという誓約書を書かせた。また、僧侶たちにも念書を与えた。

渡邊などが先導し、石川日向守家成が高洲の口から土呂善秀寺へ乗り込むと一揆衆は慌てふためいたが、家成が大声で、「水野下野がお前たちを思って家康に何度も嘆願したので家康は厳罰を下さず、寛容にも一揆の罪を許してくれたのだぞ」と伝えると、一同武器を棄てて飛び上がって大喜びし家康に服従した。

家康は、この一揆で許された一向宗徒の御家人を先鋒に選んで、東條の城を攻撃した。松井左近忠次は前に東條にいたので先陣を命じられた。

吉良義昭の家来大河内出雲基孝の長男、大河内善一郎政綱、同姓金兵衛秀綱は最初から義昭が一揆に参加することを諫めた。しかし義昭は同意しなかった。しかし、政綱らは義昭から離れるのは武士としての体面がつぶれると、義昭と共に篭城した。

善一郎は一番槍を務めて大津伊織と決戦し、伊織を討ち取った。(政綱は26歳)、金兵衛秀綱は、寄せ手の慶典法師という勇猛な僧を撃って首を取った。この僧は実は大久保平右衛門忠員の親類である。しかし、義昭勢は少なく援兵も果ててしまったので家康に降伏を申し出た。しかし、家康は二度裏切った罪を許さず義昭を放逐した。彼は近江へ逃げて佐々木、六角左京太夫義賢入道を頼って家来になった。弟の荒川甲斐守義虎も河内へ逃げて三好の家来となり、後に芥川の戦いで戦死した。

〇三河の額田郡西条(後の西尾)の城主、吉良義尭には4人の息子がいた。長男は義郷、次男は義安、三男は義昭、四男は荒川義虎である。義郷は家を継いで直ぐに亡くなり、上野守義安は同郡東條の吉良持廣の継子となったが今川によって駿州に蟄居させられた。三男の義昭は兄義郷の職を継いで今川によって東條の城を預けられ守らされた。(本書3巻を参照のこと)、後に家康の家来になったが、去年の一揆に加わって家を潰された。家康は足利氏の子孫が絶えるのを哀れんで、義昭の兄の西条の上野守義安を後年駿河より客として呼び寄せて、右近衛権少将に任じて高家の筆頭にすえた。

〇ある説によれば、9月6日吉良義昭の東條の城が落ちたとき、家康は大河内出雲基孝の弓の実力が優れているので家来にしたいと望んだ。しかし、彼は2人の主人に仕えるわけには行かないと断って行方不明になった。その息子善一郎政綱は、妹の次郎兵衛幸孝の女を質として仕方なく家康の家来となった。(後に善兵衛と改めた) 同姓の金兵衛秀綱とその子久綱は義理立てして44年間表に出ず、久綱は金兵衛とも名乗った。晩年になって生活に困り伊奈備前守忠政の家来となった。忠政が死後、家康は忠政の後を久綱に命じた。久綱の弟、松平右衛門太夫政綱は幼いころから弱かったが、家康の家来として家は繁栄したといわれている。

〇松平三蔵直勝は、佐々木(*佐崎)の砦を衛り、親戚は周辺に住んでいたが、同じ仲間の大田善太夫吉政以下全員が家康に投降したので城を離れて九州へ逃げた。この人は廣忠に敵対していた松平三左衛門忠倫の弟である。この人は結局加藤主計頭清正に仕えて活躍し、加藤は佐助という名を授けた。この人の子は内藤彌次郎右衛門家長の外孫なので、この騒動のあと密かに家長に育てられた。家長が戦死した後は、嫡子左馬助政長が秀忠(*二代将軍)に願い出て内藤久五郎成政となり側近になった。

〇大草の松平七郎昌久も城を棄てて落ちぶれた。(*松平)親忠の子、弾正左衛門昌安は清康に恨みを持っていたが清康との戦いに敗れて岡崎の城を明け渡して西郡に住んでいた。彼は大永4年(1522)7月22日に死去した。昌久は彼の孫で、徳川家への憤懣を紛らわせるために一揆に参加したという。

〇一揆に参加した桜井の城主松平監物家次は、家康の親戚だったので嘆願により罪を許された。

〇上野の城主、酒井将監忠尚は徳川の長臣だったので、一度罪を赦されたが、謀反心はずっと持ち続けた。

〇鳥居四郎左衛門信元、渡邊八郎三郎秀綱、同源蔵、本多彌八郎正信、その弟三彌正重、波切孫七郎などは禍が自分へ来るのを恐れて逃亡し、東や西の国を長年放浪したが、恩赦を得て三河に戻り家康に尽くした。(正信は後の執政の臣、佐渡守である)

〇家康は一揆で滅びた一向宗徒の領地を、恩賞に充てた。成瀬藤蔵正義は額田郡岡村50貫を、田中五郎右衛門義綱は廣忠以来の家臣たちで今回上和田に援軍として立て籠もった功績によって領地を増やした。その他多くの人が恩賞を受けた。

〇家康は上宮寺、勝満寺、本證寺には寺を破壊するので僧侶は改宗して立ち退くように命令した。檀家は「前に寺を元のように戻して、僧が安心して住めるようにすると約束したのにどうしてか」と尋ねた。家康は「何も変わったことをいってはいない。僧侶が改宗するのは容易なことではないだろう。元々は原野を開いて寺を建てたのだから、寺を壊して原野にするのは元にもどすということではないか」といった。僧侶や檀家は何もいえずに命令に従った。その後、妨げになる多数の寺は破壊し、騒ぎを起こした僧たちは追放したのち、これら3つの寺だけは元のように建て直し学僧だけを住まわせた。これ以来、一向宗は改心して家康のために働いた。

3月大

〇家康は東三河、牛窪に出撃した。榊原隼之助が魁で手柄を上げた。寶飯郡一ノ宮に砦を築き、本多百助信俊に600騎を副えて守らせ、寶飯郡吉田と牛窪の敵の城を壓(*おさ)えた。長澤の城の城主、松平上野守康忠へも援軍として本多作左衛門重次と内藤三左衛門信成を行かせた。(諸家の実録では、今年長澤の城が落城したと書かれているが、恐らくこれは間違いだろう。この城が落ちたのは永禄5年だと思う)

〇岡崎『随念寺傳書』によると、岡崎城下菅生の丸山は清康が暗殺されたとき密かにここに埋葬された場所である。それより27年後の去る辛酉年、彼の養女の随念院が亡くなったとき、彼女もこの地に葬られた。今年家康は丸山を訪れ、土地を検分して菅生の地元に住む覚榮に命じて、岡崎城中にある随念院の寝室と倉庫を壊してこの寺を移転させ、佛現山善徳院随念寺として清康の肖像画と阿弥陀三尊を奉納した。また、一向宗土呂村善秀寺(今は平地光厳寺)を破壊し、什器、5部の要文、須彌金柱の三色と同宗長澤村の立信寺の仏具を倉崎惣三郎久勝に命じて随念寺へ寄付させた。清康の肖像画は総髪で30歳に見える容貌で、島の小袖に麻の裃(紋は丸の中に立葵)、脇差姿で、家康の自筆で「清風時発出五音聲微妙宮商自然相和」という、四言四句の贊(*讃える詩)が書かれている。右の方には叟道甫と記した。天正3年巳亥2月8日、家康はこの寺へ50石を寄付したということである。

4月小

7日 小笠原新九郎安元、同姓右馬助、長隆喜三郎貞慶(後の右近太夫)、左衛門佐重廣が初めて家康に面会した。安元の用件は三河の幡豆郡幡豆郷を平定すべきという家康の認証を受けるためである。長隆貞慶は、信州深志(*松本)の大膳太夫長時の子で、信州の浪人だった(後長隆は上杉謙信の家来となる)。

〇そうして幡豆の小笠原一族が家康方についたので、吉田、田原の城を不意打ちしようと新九郎安元は家康の命令で船形山に砦を築き、駿州へ通じる道を封鎖した。そのため敵の二つの城は大いに困った。今川氏眞はもう一度寶飯郡佐脇の八幡を砦として、三浦左馬助(二代目)に守らせ、吉田、牛窪を見張らせた。

家康は千余人を率いて出撃して八幡の城を攻撃した。ところが牛窪より、牧野右馬助允成定と親戚の戸田主殿助および佐脇の城兵を合わせた大勢が御油の上ノ台に出撃してきて、味方は負けそうになった。そこで家康が応戦した結果、敵は敗退して八幡の城へ逃げ込んだ。

〇もともと寶飯郡牛窪には、牧野右馬助允成、同名出羽清成、同八太夫定成、同民部成行などが今川方として城を築き住んでいた。

成定の家臣、稲垣平右衛門長茂は若いが思慮深く武略に秀でていた。彼はしきりに成定に、酒井忠次、石川数正に投降して家康方につくことを勧めたところ、成定はその提案を受け入れた。成定は、牧野出羽、同民部は今川方ではあったが家康方である旗をあげて牛窪と小坂井の砦に家康軍を引き入れたので、出羽などは渥美郡吉田の城へ逃亡した。家康は教令を施して岡崎城へ帰還した。その後成定の家来の山本帯刀成氏は軍の遠征に長じていたので家康の家来となった。ずっと後年、稲垣長茂も御家人になった。

5月大

7日 今川氏眞は1万ほどの兵を率いて吉田、田原の城を救援するために駿府を出撃し、田中の城に着いた。

8日 氏眞は遠州に入り掛川の城に陣をしいた。(城主は朝比奈備中守野泰能)

9日 氏眞は兼ねてから三浦左馬助などを配置していた参州寶飯郡佐脇八幡の砦に到着し、2千をこの城に残し、残りの8千で、家康が400騎を送って本多百助が守っている寶飯郡一ノ宮の砦を包囲した。また、家康の援軍を絶つために武田信虎の援兵8千を加え、遠州引間(*引馬:濱松)の玄嘿寺の陣所から岡崎に向かわせた。

家康は、酒井左衛門尉忠次、石川伯耆守数正、牧野右馬允成定の3隊を牛窪より佐脇に向かわせ、氏眞の旗本に圧力をかけ、岡崎からはわずか2千余りの兵で出撃した。

設楽郡の菅沼新八郎定盈と西郷弾正左衛門清員は加茂を通って遍照山を経て敵に向かった。駿河勢は勝山の辺りまで進軍して応戦したが遂に敗北した。この時、定盈の家来の佐原平蔵と、清員の家来大泉助太郎は大きな戦果をあげた。

山家三方衆(両菅沼と奥平)は松原の方面から攻め、麻生田の辺りまで敵を追って崩した。段嶺の菅沼小法師貞景の一族、大野の菅沼十郎兵衛などが前線で戦った。家康は2千をひとまとめにして石川日向守家成1人の采配に従たがわせ、その陣形で武田信虎の8千の大軍に割り込んだ。日向守の采配によって敵はバラバラに蹴散らかされた。敵が8千の兵を置いている佐脇八幡から本能が原にわたって一宮を包囲している敵の間を突き破って敵を後ろにして1騎も失わずに佐脇の砦に攻め込んだ。この家康や石川の言葉でいい表せられないような攻撃に駿河や遠州の武将たちは戦慄した。家康軍はその夜は一宮の砦に駐屯した。

家康は石川家成、本多左衛門重次、天野三郎兵衛康景、植村新六郎家政、久保七郎右衛門忠世などを集めて、「今日は少人数ながら敵の大軍を破り、今川に対する復讐を果たし積年の憂さを晴らせた」と非常に喜んで自ら熨斗あわびを手渡した。しかし、この砦は長くは持たないと、翌日、城を守っていた本多百助の雑兵600人を加えて2千600の兵を纏めて、城門を開いて昨日と同様に城を包囲している8千の敵に突撃して駆け抜けて元来た道から帰還した。この時も石川日向守が指揮を執ったが、進軍は速からず遅からず正々堂々としていたので、敵はこれに歯向うことができなかった。また、本多百助は前後左右に馬を走らせ、家来はそれほど戦わずに済んだ。また百助はここぞというときにはうまいタイミングを指示して、それを遮る敵に対しては自分の馬から突き崩した。

家康が信虎の8千の軍を突き割って進むとき、榊原隼之助忠政は3町程のところで向かってくる敵を3人突き伏せて首を取った。敵も勝負に出たが、佐脇八幡に向かって陣を張っていた酒井左衛門尉、石川伯耆守、牧野右馬允の3隊は、家康の帰路を固め、それをしきりに遮ろうとする敵には馬に乗った足軽を集めて勝鬨を上げさせてた。そのため駿河と遠州の敵がためらっている間に家康軍は全て牛窪に城へ入った。これは「一の宮の後詰」と呼ばれて世間に知れ渡った。



〇ある話では、引間の城主飯尾不豊前守致實は今川氏眞が脆弱で国を保つことができないだろうと見限って、兼ねてから家康に内通していた。昨今の家康軍の活躍に誘われたのだろうか、病気と偽って氏眞の陣を去って本坂越から引間へ帰えり、荒井、白須賀を放火した。この煙に驚いた武田信虎は密かに家康に通じて、「自分は今川の退路を断とうとしているのだ」といいふらした。氏眞らは(*信虎が裏切ったのでは)と疑った。そこで翌日家康が本能ヶ原に出陣したときには敵方は交戦しなかった。そうして氏眞は家康が牛窪へ兵を収めた後に、いくつかの城に兵を配備し何の成果も得られずに駿州へ帰ったそうである。

〇高敦が考えるに、この一ノ宮の援軍については『参遠平均記』をはじめいろいろな記録に記されているが年月がどれも違っている。すなわち、小幡氏の『中興源記』では永禄6年9月、『甲陽軍鑑』では今年の9月とあり、その他の文献では永禄4~5年の間となっている。牛窪の城主牧野成定が家康に降伏したことをこの時期の後に書いてあるものは、実録といっても信じるわけにはいかないのではないか。『徳川歴代記』、『三河風土記』などの偽書ではもちろん間違っている。

12日 渥美郡ニ連木の城主、戸田主殿助は、本多彦八郎忠次の家来として家康に通じていたが、人質として老母を同郡吉田の城に置いているので動きが取れなかった。

そこで、偽って吉田の城の小原肥前守鎮實と懇意になりよく双六をしていたので、戸田を疑う者はいなかった。今日、主殿助の家来の野々山某は長櫃に酒や肴と着物を入れて2人の下僕に担がせ、吉田に行って警備の侍に中を見せて、「今晩城中で酒宴をして肥前守を喜ばせようと酒や肴を運んできた。また、この城には老母がいて着物が汚れているので取替えるための着物も持ってきた。この櫃を城外に出すときには汚れた着物を入れて帰るので疑わないでほしい」と断って城内に入った。

戸田も城へ来て長櫃から酒肴を取り出して小原と双六をし、宴会で楽しんだ。その間に、野々山は老母を櫃に入れて城の外へ出たが、番人はそれを拒まなかった。ニ連木の侍は途中まで迎えて城へ母を連れ帰った。戸田は宴が終わって小原に暇を告げてから吉田の町に放火した。家康もこの作戦のために御油まで出撃し、吉田城からあがる煙を見て下地村から兵を進め、戸田を迎えた。

13日 家康は戸田主殿助の親孝行を果たした上での見事な策略に感激して、既に彼に与えていた領地160貫に2千貫を加え、末代まで久しく家臣であるべき起請文を与えた。

〇家康は喜見寺に砦を築き、松平主殿助伊忠、鵜殿の松平故十郎三郎康孝の子、八郎三郎康定の軍勢に守らせ、ニ連木口に砦を設けて城主戸田主殿助の兵を配置した。又糟塚にも砦を築いて小笠原新九郎安元を配置した。(家康は吉田の城を7方向から攻めた)

〇ある話では、家康は下地村まで進むと、それぞれの砦の兵は全て吉田へ向かって出撃した。その中の糟塚から来た小笠原安元とニ連木より来た蜂屋半之丞貞次は吉田の城を攻め続けるように進言した。

家康は石川日向守と内藤三左衛門ら50騎を率いて、敵の城を巡視しているときに、城から出て来た魁の牧野八太夫定成の家来、牧野宗次郎(27歳)と本多平八郎忠勝(27歳)が槍を交わした。また、宗次郎の家来の城所助之丞とが槍で対決したが、敵の主従はどちらも負傷し這いながら退いた。蜂屋貞次は忠勝と一番乗りを競っていたが、忠勝が槍で交戦しているのを見て、二番槍はいやだと槍を棄てて刀を抜き、敵二人を切り倒し、河合正徳に向かおうとした。正徳は鉄砲を構えて蜂屋を待ち構えていたが、半之丞は怯まず瞬きもせずに進み片手で正徳の銃口を押さえて相手の袖を斬ろうとしたが、弾丸が蜂屋の眉間に命中し倒れた。敵は彼の首を取ろうとしたが、本多平八郎は三度彼らを突き崩した。(これを参遠の地方では「三折返しの槍」と呼んだ)その間に、蜂屋の家人は半之丞を抱き去った。

小笠原安元は小原勘助を討ち取り、松平平三郎次郎親俊、加藤勘右衛門正次、戸田吉兵衛氏光、成瀬藤像正義、犬塚作内は首を取ったり、敵を射殺したりと手柄をあげた。

龍念寺口では、松平玄蕃允清宗は槍で対決して2箇所を負傷しながらも首を5個取ったが、3人の家来は命を落とした。日が西に沈んだので城兵は城に退却した。松平紀伊守家忠は龍念寺口に附城を建てた。

〇ある話では、城所助之丞は清庵の子で、設楽郡野田平出村の人である。牧野八太夫定成は家康に降参した後、参州寶飯郡平井の郷をもらい、後に山城と呼ばれたのがこれである。

〇『福釜家伝』によれば、三郎次郎親俊の功績にたいして、家康は2カ所の村を更に与えた。

〇『蜂屋家伝』によれば、半之丞貞次はこの怪我で死去した。これを家の下僕が母に告げた。母は息子の様子を尋ねて知り、「わが子が非常に勇猛果敢な最後を遂げたとは嬉しいことだ、武士が戦場で屍をさらすのはもともと分かっていることだから何も後悔はしない。わが子が勇敢でなく恥をさらして生きていても何もいいことはない」といったという。母もまた勇者である。主人のために死んでも後悔しないという三河の気風をここに見るべきである。

〇ある話では、河合正徳は昔戦場で負傷し退くときに、敵が「手負いで退くのは今川方だろう」といったところ、河合はこれを聞いて、手負いではない生得(*生まれつき)の片輪者だと答えた。氏眞は後で伝え聞いて、「生得」という名前にせよと命じた。そこで「正徳」の二字の代わりにこれ名としたということである。

6月大

14日 三河の寶飯郡伊奈の本多彦八郎忠次が家康のところに来て、吉田の城を抜く策を進言した。

家康は酒井左衛門尉を先鋒として吉田の城へ出撃した。戸田主殿助と同吉兵衛氏光が案内役として酒井に加わった。城将の小原は堅く城を守り防戦した。その後、本多彦八郎が城へ使者を送って和融を働きかけた。小原もすでに国中が家康方について援軍も得られないので本多の勧めに応じた。酒井忠次と協議の上、家康が人質をくれればすぐに城と国人の証人などを家康側に渡して、小原は城を去るということに決まった。

〇この頃、家康は碧海郡土呂の本多豊後守廣孝に梶ノ郷に砦を築かせて、ここを基地として渥美郡田原の城を攻めた。城将朝比奈肥後守元智は城外へ出て防戦した。廣孝の家来本多甚七郎は城兵の長谷川十郎三郎と槍で対決した。元の田原の武将、戸田三郎右衛門忠次が案内役として一番乗りしたが、敵に包囲されて危うくなったが、戸田九右衛門勝則が馬で駆けてきて矢を放って敵を次々と射殺したので、忠次は死を免れた。同七内光定も矢を放って貢献した。本多廣孝は戦いに勝利し城の外郭を打ち破ると、朝比奈は「人質をくれればこの城を明け渡す」と家康に告げたので、家康は了承し和融を整えた。

20日 小原肥後守は吉田の城を離れて駿州へ帰るときに、家康は親戚の弟、松平源三郎(12歳)と酒井忠次の娘(於不宇)を人質として小原に渡した。小原は吉田城内の諸国の質子をすべて返還した。

〇『伴伝書』によれば、(*和融のきっかけは)伴中務盛陰(近江の浪人)が酒井忠次と相談して、ある晩吉田の城に入って「これまで今川と徳川は抗争してきたが、それに乗じて信玄は駿州を奪おうとしている。いま、今川と徳川が和融して氏眞が駿河と遠州を統治し、参州一円は徳川の領土とすれば双方の安全が固まる」と説いて小原を和融させてしまった。家康は伴の功績に対して「国俊の刀」を贈ったという。

22日 家康は酒井左衛門尉忠次に吉田の城を与え、東三河の守りの要とさせた。

「命令書」永禄7年6月22日 家康ー酒井忠次.jpg

〇三河の寶飯郡伊奈の領主、本多彦八郎忠次のここ両年の戦いへの貢献に対して、家康は感謝状を贈り領地を増やした。また彼の家臣の本多修理、同伊豫、戸田丹波、小栗渋太夫にそれぞれ領地50貫文を授けた。

〇三河の碧海郡土居の本多廣孝の功労に対して渥美郡田原の城の地を加算した。

「証文」永禄7年6月家康ー本多廣孝.jpg

7月大

24日 幕府の管領代、三好筑前守源長慶が京都で死去した。

29日 桜井の城主、松平監物家次が死去した(享年は29歳)。この人は、長親の次男内膳信定にとっては孫、内膳清定にとっては嫡子で、織田備後守信秀の婿である。

8月小  

15日 三河に棒の師匠だいう人がいた。家康の命令で細井喜八郎勝久(28歳)と勝負をすることになった。結局勝久がその男を打ち倒したので首を取ろうかと家康に尋ねると、家康はこの男は助けて逃がした方がよいと諌めた。そうして、勝久には駿州島田慶金作の無名の刀を贈った。その夜、棒の師匠という人は、他の国に逃げた。

〇美濃の国主の斉藤右兵衛太夫龍興が織田信長に滅ぼされた。信長は清洲の城から美濃の稲葉山の城に移った。(その時、岐阜の城と改めた)

9月大

6日 酒井将監忠尚は去年家康に降伏して赦してもらったが、なお謀反心は失せず、紺碧郡上野の城に居て今川に通じていた。そこで酒井左衛門尉と本多豊後守は上野を攻めた。内藤三左衛門(27歳)が一番乗りで城へ突入して、城兵の坂部酒之丞を討ち取った。本多九蔵重玄、天野俊右衛門、内藤甚五左衛門、小林権太夫重直なども敵の首を取った。小林は深傷を負った。城中では矢や鉄砲の弾が激しかったが、今村彦兵衛勝長はよく掘り際にとどまり、矢で防戦した。その他、内藤彌次右衛門家長、阿部四郎五郎忠政、大久保五郎右衛門忠勝などは、正確な腕前で矢を放ち戦果を得た。

将監の家来だった榊原孫十郎清政、酒井與九郎重頼、高木九助廣正、森川金右衛門氏俊、芝山小兵衛とその長男、小助正和(後の小兵衛)、次男小作定好は、これまで将監と共に命をかけて家康に反抗してきたが、ここでそれを後悔して将監を棄て家康に投降すると、将監は耐え切れず駿州へ逃亡した。

家康は城に入り、内藤四郎左衛門正成と同三左衛門をこの城に配し、教令を発して岡崎に凱旋した。

そもそも、酒井将監は故左衛門尉入道淨賢の長男で、酒井左衛門尉忠次の甥である。天文年間に廣忠に叛いて松平内膳清定の家来となり、また、昨年以来一向一揆に加わり投降後、まだ謀反の心が止まず家を潰して結局駿府で不本意のまま死去した。

〇高敦の調査によれば、将監が上野を去ったのは永禄乙丑とある話もあるが、これは間違いで、ここでは『参陽実録』に従った。

〇又、榊原七郎右衛門長政は不本意ながら主人の将監に従って上野に蟄居し、長男孫十郎清政を家康に人質として出して城を去り、家康の家臣となったという説はどの資料においても大同小異である。七郎右衛門長政は永禄5年に死去し、その長男孫十郎清政は父の禄を奪って酒井忠尚の家来として上野の城にいた。次男の小平太は、父長政が存命中永禄4年(1561)から家康に仕えた。この人は後に英傑となった式部大輔康政である。

孫十郎清政は、今般家康の家来となり、やがて三郎信康(家康の嫡子)の家来となった。その子は若狭清定大内記照久である。照久は自分(高敦)の実母の外祖父である。

〇『榊原家』伝によれば、この頃、家康は鳥居彦右衛門に命じて、歴戦の勇士伊藤彌惣、伊奈源左衛門、中島右衛門作の3人を小平太の家来にさせた。そのとき小平太は17歳だった。その後いろいろ軍功があって厚遇され、諱をもらって侍大将になった。

11月大

12日 戸田主殿助はニ連木の城中で死去したが嫡子がなかった。家康は彼の生前の貢献を評価して彼の弟、甚平を跡継ぎとした。(主殿助を全久院と号した。家康は彼の墓所に燈油100石を贈った)

〇この年、家康は御油の城を攻撃した。城の中からは弓の名手を高場にそろえて矢を射らせたので味方は進めなかった。家康は内藤四郎左衛門正成に命じて城へ矢3本を射らせると、その2本が本櫓に届いたので高みにいた敵は皆恐れて降りてその鏃(*やじり)をみると、内藤四郎左衛門と刻まれていた。敵はその矢を返してもう一度城に射てくれと頼んだ。正成はもう一度矢を射ようとすると、家康は、「敵は何か企んでいるので絶対に射てはならない」と止めた。正成はそれに従わず進み出ると、敵は道端に盾を並べてその陰に伏せ正成がくれば槍で突こうとした。正成はそれを直ぐに察して矢を放ち盾を射抜いて伏兵を射殺した。敵は驚いて退散した。家康は彼の働きに感心した。

〇武田信玄は家康の勢いを聞きつけて、信州伊奈の下条弾正信氏に酒井左衛門尉へ宛てて書簡を送らせ、これから徳川家と友好関係を築きたい意向を届けた。書状には、ただ、啐啄(*さいたく)という2文字が書かれていたが、誰もその意味が解らなかった。ちょうど伊勢の江南和尚が岡崎を経て東国へ向かうところだったので、石川日向守家成が彼に面会してこの意味を尋ねた。和尚はこれは「親鳥が孵化する卵をつつくにはタイミングというものがある。早すぎると水子でつつく意味がなく、遅すぎると雛が腐ってしまう」という意味だと述べた。

家康はこれを聴いて、「何事も時を待つことが重要である、武将はいつも心すべきことだ」と述べた。後日家康は柴山小兵衛を呼んで、「鷹も夜に起きていてタイミングよく鳥を取るが、これも啐啄の心だね」と話した。

信玄がこのようなことを書いてきたことで、酒井忠次は、「信玄と今川の戦いが始まるのではないか」といった。それを聞いてみな、「あの2人は叔と甥の間柄だから戦いになるわけはないだろう」と囁いた。しかし、予想通り、信玄は出撃して氏眞を攻撃した。

〇天文21年土岐兵部大輔定朝陪臣が斉藤新九郎利之入道道三との戦いで負け、美濃を追われて戦死したとき、その子、愛菊はわずか3歳で乳母は密かに彼を育てた。彼の母は三河の設楽郡菅沼信濃守定勝の娘だったので三河に戻って、叔父の常陸介定仙の家で育てられ、今年24歳になった。家康は彼を近臣として、菅沼藤蔵定政とした。彼は無双の勇士で、その後三河の天野と遠州の鴨谷に領地をもらい、やがて、駿河の長沼に移転して、天正10年以降は甲州初石に1万石を授けられた。そして文禄年間に再び故郷の土岐へもどって山城守に任じた。

武徳編年集成 巻7 終