巻65 慶長19年8月~9月23日

慶長19年(1614) 

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朔日 家康の家来はいつものように出仕した。大阪の秀頼の家来たちが、しきりに仲間を募って、軍備を増強しているという報告があった。

〇『宇都宮家傳』によれば、治郎左衛門末房が、今日家康に矢1、弓1、鏃2本、了成作の槍を献じた。3日から、彼は主君の伊予守忠昌に、艾逢射法を伝授するように命じた。

3日 家康は、寝室の庭に仮山を築いて、池を掘って魚を放つように、宮馬係の諏訪部惣左衛門正吉に命じた。

4日 中井大和が、大仏殿の棟札の写しを献じた。(先に家康が見たものとあまり変わらなかった),

5日 板倉内膳正が京都へ来て、五山の僧や碩学を集め、大仏の梵鐘の銘と序文が凶詞かどうかを協議して報告するように命じた。

6日 東海道が大風で、家の屋根が空中へ吹き飛ぶほどだった。(*『当代記』に詳しい)

清韓老人と片桐の使節の梅戸忠助介が、急遽駿府へきて、家康に弁明をした。しかし、傳長老圓光寺は、以前から鐘の銘に呪いが込められていると、家康に吹き込んでいたので、清韓の陳謝の内容を、敢えてわかりやすく家康に伝える人もなく、町の司の彦坂九兵衛光正に清韓を引き渡し、本多上野守の館で取り調べをした。

7日 家康は、駿府に留まっていた飛鳥井雅當、冷泉為満、日野輝資入道唯心に、山崎宗鑑の筆跡21代和歌集を見せた。

9日 これら3人に、青連院尊應親王の飛鳥井栄雅の奥書、黄門定家の筆跡の『古今和歌集』、西三条實隆(號は逍遥院)、同實澄(號は称名院)の筆による『三代和歌集』などを見せた。為満の『古今集』は偽物らしいという。

〇この日、伊勢で、天照皇太神宮を野上邑に移動させるように、という託宣があり、これは戦乱が起きる兆候だという。

10日 家康は、例の3人と傳長老に、弘法大師真筆の般若心経、佐理行成筆跡、定家筆の『勅撰和歌集』、逍遥院称名院筆跡の『伊勢物語』2部、源氏の系譜を見せた。皆は驚いたという。

〇大阪から梵鐘の銘の件を陳謝するために、片桐市正、同主膳正貞隆、大野修理亮治長が、今日駿府へ来たが、本多上野守は家康の怒りを憚って、自分の一存で鞠子の徳願寺に住まわせた。

〇伝承によれば、本多正純、安藤帯刀、成瀬隼人正は、徳願寺を訪れ家康の怒りを伝えたので、大阪から来た3人は家康に会えず日が経った。そんな時、本多、安藤、成瀬は、「こんな状態でここに詰めていても、租税を徴収する時期だから大阪での仕事が進まないだろう、市正だけがここに残って、貞隆と治長は帰って良い」と告げたので、2人はすぐに駿府を去り、市政だけが徳願寺に残った。

12日 山名右衛門佐豊国入道禅高と元豊を呼んで、連歌の会が催された。発句は

いざ さらば 空にて見ばや 秋の月

13日 南蛮の商人が家康に拝謁した。絹糸や布を献上した。

17日 奈良興福寺の南大門、法隆寺御持堂、聖霊院、法華寺の4か所の棟札の写しを、中井大和が家康に捧げた。どの棟札にも、大工の棟梁の名前が書かれていた。家康はそれを見て、今度の大仏殿の棟札に、中井の名が書かれていないので怒ったという。

18日 板倉重昌が京都から帰ってきて、五山の碩学の長老7人に梵鐘の銘と凶詞について道春がそれぞれに尋ねた結果、「そのような意図がなかったとはいえない」とか、「呪詛(*のろい)を意図して、この言葉を書いたと結論することはできない」とかいうことだったと報告した。

南光坊と傳長老道春が相談した結果、清韓和尚は、京都へ帰って蟄居するように命じられた。

松平右衛門太夫正網は、諸宗の僧徒の英才を集めて、この問題の意見を問うと、皆はこびへつらい、下心があって書いたとかなんとか凶詞の理由を述べた。

しかし、妙心寺の海山和尚はただ1人、「清韓は非常に優れた文章を書く人として名が知れている。自分はその力を知らないのではっきりとは言えないが、そのような下心があったというならば、そうは思えない。清韓が凶詞を知った上で書くはずはない。ただ、天下の太平を祝し、また盧遮那仏の功徳を書いただけであろう」といったという。世の人は海山の立派さを称賛した。

19日 家康は、片桐市正且元を鞠子の徳願寺から、駿府の城下の大野壱岐守氏治の館へ呼び出した。

五山の碩学7人が梵鐘の銘を批判する文書を、道春が写して秀忠に見せた。

菊亭権大納言宣秀は、金沢文庫の蔵書の『本朝令』の残篇(20篇の内の9篇)を家康に献じた。日野唯心も金沢文庫の『侍中羣(*群)要抄』10巻(*現在名古屋市蓬左文庫所蔵)と『故實抄』7巻を献じた。

家康は実に和漢の書籍が好きだった。そして書物を全部幕府の倉庫に集めて、すでに数千冊になっていたという。また、先日は道春や傳長老には、『群書治要』や『貞観政要』、『続日本記』、『延喜式』などから、政に役に立つ部分を選び出すように命じたが、それができたので家康は今夕、道春に読ませた。

20日 大阪で秀頼は、片桐且元が家康に陳謝しようとしたが受け入れられず、鞠子の禅寺で足止めを食っていると聞いて仰天し、大蔵卿局(大野修理亮の母、*淀殿の乳母)と正榮尼(渡邊内蔵助の母)に梵鐘の銘の凶詞は、母も子も全く知らなかったので、韓長老を糺すようにと伝えるなどのために、大阪を発って駿府へ行かせた。

〇宇都宮家の話によれば、治部左衛門末房は、駿府で要請され、今日から艾逢射法(*よもぎの茎を矢として戦勝祈願)を行った。太陽と月の幡を8本、白旗を2本立て、天一弓(*古代から伝わったという弓?)などを飾って、天下統一、武運が長く続くことなどを祈願した。(26日に祈願が終わり、27日に家康は彼に馬を2匹贈った)

22日 家康は以前から望んできた、源氏物語3巻の概要を飛鳥井雅常から学んだ。

〇この日、秀忠は、肥後の加藤忠廣が幼いので、監察として阿部四郎五郎正之と朝比奈源六郎正重に肥後へ行くように命じた。

25日 木下熊之助(後の淡路守)が初めて家康を拝謁した。

27日 秀忠の使者の水野監物忠元が、駿府を訪れた。(これは大仏の梵鐘の銘と序文に呪詞があるためだという)

28日 伊勢の天照皇太神宮が、野上から山田へ遷宮した。この時雷鳴と暴風が吹いた。午後には関東は大洪水、遠州や駿河あたりは大風が吹いたという。

29日 本多上野守が家康の使いとして江戸へ赴いた。(理由は誰も知らない)

山口但馬守が肥前から帰り、高来郡の多数のキリスト教徒を長崎に送り、西坂で切り殺して遺骸をまとめて盛り上げた。鍋島、寺澤、大村、有馬康純が、兵卒に長崎の11のキリスト教会を焼払った。長谷川藤廣は、長崎をくまなく取り調べ終わったことを報告した。

〇大阪から2人の老女がようやく駿府へ到着し、大野壱岐守氏治の家に行って片桐市正に対面した。すぐに家康に会うのは憚って、七軒町に逗留した。そして家康の侍女の阿茶の局を招いて、梵鐘の銘について陳謝した。すると家康はすぐに2人を城へ招いて面会して、「秀頼は秀忠の婿であるので、自分の孫みたいなものである。自分はいつも可愛いと思い成人するのを待っていた。そうして秀頼はもちろん母上も秀忠の姉妹となるので、下心など持つはずがない。ただ、家来たちが勝手に浪人たちを募って戦いの訓練をしているので、早くあの連中を追い出して、本当の気持ちで秀忠と父子の関係を深めてほしい。このことを理解して大阪に帰って伝えてほしい。その他は片桐市正に会って聴いて帰えるように」と述べて、鐘の銘のことは我慢して何も述べなかった。2人は、大阪でよくわからない漢字を苦労して勉強し、道中で諳んじて駿河に来たが、家康が何も怒っていないのであっけにとられて、宿舎に戻った。後日2人は江戸へ向かい、御台所のご機嫌を伺ってから、大阪へ戻りたいと申し出た。家康はどうぞお好きなように、ということで、2人は江戸へ赴いた。

〇この日駿府では、町中に妖怪が出て、これは戦いの前触れだと人々が噂したという。(*『当代記』の記述をみれば、この時期台風か何かによる嵐が続いて、災害が頻発していたので、このような噂が立ったのだろう)

9月小

朔日 カンボジャから虎の子2匹、鸚鵡1羽が献じられた。オランダ人のヤン・ヨーステンが携えて来た。一匹の虎の子の尾に毛が生えていて、風の文字がはっきりとしていたので、見た人は珍しがった。虎は江戸の2人の息子たちに献じたという。オランダ人は木綿や龍脳、丁子などを献じた。

3日 猿楽太夫、金春左吉、狂言鷺甚右衛門を今後は観世太夫に属すように命じた。

5日 上野の群馬郡榛名山に禁制3か条を出した。

6日 本多正純は江戸から帰り、清韓和尚が密かに大阪へ行って秀頼に会い、また、古田織部正重然が清韓によくしていると聞いて、家康は憤慨した。

7日 千少庵宗浄が京都で死去した。この人は利休宗易の三男で、茶道で有名だった。

8日 大阪から来ていた2人の母は、江戸から駿府へ戻った。

〇徳川家が三河にいたころの家来、成瀬吉右衛門正一入道一齊は80歳になったので、3男、吉右衛門正勝を連れて駿府を訪れ、自分が生きている間に、庶子に自分の職を継がせられるようにと家康に頼んだ。家康は長年の功を褒め、家康も歳をとったので、書記を呼んで間違いなく吉右衛門に引き継がせる印章を書かせ、自分の署名をした。

入道一斎の長男隼人正正成は、家康の元老で、尾陽侯の傳臣を兼ねていた。二男の内蔵助吉正は家康の近臣だったが、同僚の士を伏見の家康の館で殺傷事件を起こしたので、家を出て金吾黄門秀秋に仕えていた。秀秋が亡くなってからは、加賀の利常の家来となり。彼の右腕となって1万2千石を領した。

9日 秀忠の使の神尾五兵衛守世が駿府へ参上し、重陽の節句の挨拶をした。そのとき家康は片桐市正を呼んで、五兵衛守世に会わせ、淀殿の使いの大蔵局と正榮院も殿中に迎え、「お2人が長くここに滞在していては秀頼や母堂(*淀殿)が心配されるので、急いで帰られるように」と丁重に述べた上、美服と黄金を贈った。

2人は家康の答えを本多上野守に尋ねると、正純は「前に話したように、秀頼が秀忠に対して恭順を表してもらえれば、これから何も悩まれることはない」という家康の答えを伝えた。そして、片桐にも暇を与え、時服と黄金を贈った。

〇この日、里見安房守忠義が重陽の節句の挨拶として、江戸城を訪れた時、秀忠は3か条の罪を宣告した。

1) 大久保相模守へ、米や大豆を軽々しく分け与えたことは公儀に反している。
2) 城の普請や道を建設し、水路を作ったのとは公儀に反している。
3) 多数の家来を余分に抱えているのは、義に反し、下心があるとみなす。fdfb13b2aad0011221c4b94a9a0919d09429ed17.jpg

以上の罪によって、安房の一国と常陸の内の鹿島の領地3万石は没収され、居城の立山を明け渡して、本人は奴隷を1人連れて小舅の大久保仙丸忠任の家に蟄居するように命じられた。

これは忠儀が、大久保の前の加賀守忠常の婿であり、妻の祖父の相模守が今度京都へ行っているときに、騎馬に軽率を添えて安房の高屋崎から小田原城へ行かせて、留守にさせたことについて讒諛(*ざんゆ、在りもしないことの讒言)がいろいろあったので、国を追われたのである。恐らく、これは安房守忠義の祖父の義高が、主人の領地を奪い取り、北条家と戦い、北越の輝虎の家来だといって、近国を侵略して積年の恨みが嫡孫の忠義にあてられたものだろう。

11日 大阪の2人の母が駿府を発ったとき、片桐市正は病気が重く駿府に残った。家康は崇傳長老と本多正純に市正に対して「大仏殿の梵鐘の銘と序文の中の凶詞については、再三詫びが入っているのでこれは許してよい。問題は大阪が兵を挙げることを止めないことがわかってしまったことである。自分が生きているときでさえこの通りだと、先に必ず戦乱が起きて、自分としては残念で耐えがたい。お前はよく考えて、泰平の世の中の基礎を築け」という意向を伝えた。

且元はしきりに断って「家来が主人の計画を云々することはできないので、できれば家康の知恵を授けてもらって、自分が東西の和平させる礎を開きたい」と述べた。2人は「その考えについては前に先に家康尋ねてあるが、家康は、自分の考えを市正はすでに分っていることだから、それをまた話す必要はない」とのことだったと答えた。

且元はなお固く断り、「自分はその任務を命じられたいのだが、もしあなた方が受け入れてくれないのなら、自分はしかたなく家康や秀忠の疑いを解くために案をもっている。その第1は淀殿が質となって江戸に来ること。第2に秀頼は大阪城を出て別の国に行くこと。第3は、秀頼はすでに秀忠の婿家であるので、秀忠に会うために江戸へ来ること、であり、この3か条で十分だろう。しかし、このような重要なことは、家来が勝手にどうこうできないので、一度大阪へ戻って秀頼の了解を得て帰ってきたい」と答え2人を帰した。そうして病気の療養のためにしばらく駿府に滞在した。

〇ある話では本多上野守と傳長老がしきりに秀頼の下心のないことを表明すべきだというので、市正は苦痛に耐えず「江戸へ行って秀忠の指示を求めようか」と答えた。2人は家康の意見を聴くと、「江戸へ行っても秀忠の指図はないだろうから、早く大阪へ帰って、これまでの経験を生かして、天下が泰平になるように策を練れ」と答えたので、2人はその旨を市正に伝えた。そこで市正は「先の3条件を家康へ伝えたい」といったけれど、2人はそれを家康へ伝えなかった。そして「とにかく大阪へ帰って、家康の命を秀頼に伝えるように」といった。且元は仕方なく下男の梅戸忠助を阿茶局の所へ行かせて、力添えを頼んだが、これもうまく行かず、そうしている間に大阪の2人の女性は江戸から駿府へもどり、家康からの秀頼へ「家康の命令を無視しないように」という言伝を受けて、今日駿河を発って大阪へ帰ろうとした。しかし、その時、市正は何もいわず、2人に顔を合わすまでにはならなかったという。

13日 飛鳥井雅庸が京都へ帰る暇をもらい、白銀300両と綿200把を贈った。

〇キリスト教徒なので罰せられるはずだったが、先に逃亡していた原主水が江戸で捕えて連れてこられた。彼の指十本は切り取られ、額に焼き印が押されて、この人を保護する者は罰せられるという触れ書きを背負わせて逃がされた。彦坂九兵衛光正がこれを指揮した。

〇松平筑前守(本氏は前田)利當は、家督相続の返礼の為に駿府を訪れた。彼は秀忠の婿である。

14日 土井大炊頭利勝が江戸から使いとして駿府を訪れた。これは加賀利當を迎えるためである。家康はすぐに大炊頭を呼び密かにあることを指示したという。

17日 加賀利常が家康を拝謁し、守家の太刀と二字国俊の脇差、黄金300枚、色絹300反を献じた。義直、義宣、頼房へは脇差1本ずつ、また黄金30枚ずつを贈った。(家康のアイデアで黄金秤を贈った)。

於勝、於萬、於亀の3人と、阿茶局へは黄金10枚、綿200束ずつ、また於夏の方へは黄金5枚、綿100束を、総女中へは白銀300枚、長臣の本多、安藤、成瀬、と永井右近太夫直勝、松平右衛門太夫正綱へは時服5着、黄金10枚ずつ、医師の宗哲後藤庄三郎光次へは時服3着、黄金5枚を贈った。利常は暇をもらい、長光の太刀と、則重の脇差をもらい。彼の家来の奥村河内守榮明と同摂津守永福は美服を献上し、家康に対顔した。それに加えて利常は、加賀、能登、越中の3石をすべて領地とする印章を受け取り、江戸に赴いた。

〇秀忠は今回江戸城の建設に携わった諸侯に、帰国の暇を与え、美服50着または30着、白銀500枚か300枚または馬なども与えた。

大阪が兵を上げそうな気配があるために、特に播磨の国主の池田武蔵守利隆は、摂津の隣国なので別に密命を与えて、急遽自分の城へ帰るように命じた。

〇片桐且元は病気が少し回復したので駿府を発って、今夜近江の土山の宿に着き、大蔵局と正榮尼に会った。2人は且元の病状が軽くないのを見て驚き、更に彼女たちは且元が梵鐘の銘と序文には凶詞がないことを弁明して帰ってきた手柄を褒めた。

且元は「この件については家康に弁明してきた。そのとき、大阪の家来たちは戦の準備はしていないが、戦う気構えは忘れていないことにした。しかし、浪人を集めていることは駿府には分っていて、盛んに尋問されたのでいろいろ謝った。そうすると、「秀頼が本心をはっきり示し、東西の和平を図るように」という難題を申しつけられた。そこで進退窮まって例の3つの条件を提案したことを話した。2人の女性は家康が彼女たちを懇ろに扱ったことに騙されて、この3つの条件は全て且元が秀頼を売って、家康に仕えたいためだと察し、且元には何もいわなかったが怒りを顔に表し、途中で大阪へ急使を送り、市正が勝手なことをいって来たと報告した。

18日 2人の女性は土山を発ち、片桐も後から出発して京都へ行き、板倉伊賀守に会おうとした。

19日 家康は、近臣の板倉内膳正重昌(伊賀守の二男)に三河の深溝の地、千500石を加えた。

先に原主水が放逐された後、岡越前守貞綱の子、平内の許にしばらく隠れていたことが発覚して、岡父子が取り調べを受けたが、越前守のやったことではなく、平内が原と知り合いだったために領地に隠したことが判り、貞綱は許され平内は改易された。

そもそも平内は、浮田家の浪人の明石掃部全登の婿で、全登も平内主水もキリスト教徒だったという。

平内はしばらく駿府の槇谷の耕雲寺に滞在したので、住職は罰せられた。更に主水は家康の侍女と通じていて、主水が重罪になるのを恨んで叛逆を企てたことも露見して、牢に入れられ、その兄の中野彦太郎も逼塞させられた。(彼女は今月21日に死刑となった)

20日(18日というのは誤りである) 大蔵局と正榮尼は大阪へ帰り「家康は秀頼を子供のように思っていて自分たちを優しい言葉をくださった。しかし、片桐は自分の出世を賭けて、あの3条件を持ち出し秀頼を倒そうとしている」と報告した。

淀殿はこれを聴いて家康の計略にはまり、大野修理亮を呼んで市正の3条件のことを話し、「市正は大御所の考えを誤解し、自分の出世を考えて身の程を知らず出過ぎること甚だしい。自分は信長の姪である。秀頼を江戸へ行かせ、恥を忍んで汚名を携えて死ねるものか。すぐに且元の一族を滅ぼして兵を挙げ、この城で勝敗を決する」と述べた。

大野は生まれつき出来が悪くて、全体が見えない人で、特に普段から片桐を恨んでいたので、淀殿の言葉を幸いと思った。

秀頼の家来たちは、当時摂津に2万9千900石あまり、河内に30万8千700石あまり、和泉に13万8千700石あまりを領地としていた。一方、家康や秀忠を国内のほとんどが支持していたが、秀頼の家来たちは馬鹿なことに、このような状況を考えず、関ヶ原の亡命者たちがわずかに味方になっているのを誇りとし、大阪城が非常に堅固で地の利が良いことに頼って強がりをいって、「最近家康たちは駿府の城の建設で諸侯の金を使わせ、さらに尾張の名古屋、越前の高田、丹波の篠山と亀山、近江の長濱などの城を築き、担当者は疲れ果てている。そのため財源は枯渇し、民は貧乏になっている。そこで地元では皆江戸が滅びればいいと思わない者はいない。そこで我らが立てば、諸侯は雲のように集まるので、家康と家忠をすぐに滅ぼせる。早速片桐を始末して兵を挙げるように」と挙兵を勧めると、淀殿は木村長門守重成と渡邊内蔵助の組を呼び寄せて、極秘に計画を練った。

更に2人は「大蔵局と正榮尼の話に疑うことはないが、且元は駿府で家康の考えを本多上野守から聴いているといっている。だから一応それを聴いてから、勝手なことをいうようだとすぐに殺し、諸侯が手分けして浪人どもを募り、江戸を倒してほしい」と述べた。淀殿は彼等の話を聴いて非常に喜んだ。そのため、家来たちは毎日作戦を協議したという。

〇この日里見忠義の領地の安房を受け取るために、内藤左馬助政長、本多出雲守忠朝、松平丹波守康長、藤田能登守信吉、西郷孫六郎延員、日根野織部正吉明は、那須、大関、太田原、福原、蘆野、千本、岡本、伊王野、戸澤、六郷など全部で32万石の公務の為に人員を徴用し、館山の城を破壊させたり、国内の警護に当たらせたりするように命じられた。

21日 家康は駿府の龍泉寺領の印章を与えた。慶長19年9月21日龍泉寺.jpg

22日 江戸で、加賀筑前守利常が右近衛権少将になった。(21歳)

〇 この日、織田前内府信雄入道常眞が大阪の天満の館から大阪城を訪れた。これは淀殿が昨夜遅くに手紙を送り招いたためである。

彼が朝に大蔵卿局や正榮尼などの面会した時、淀殿は秀頼の命を伝えて「片桐市正が密かに家康について秀頼母子を滅ぼそうとしている。そこで彼を呼び寄せて殺すように。関ケ原の後、常眞は落ちぶれているが、これからは秀頼を補佐して兵を掌握するように」と述べた。常眞は非常に驚いて、「且元の謀反については本当かどうかわからない。今彼を殺して家康と戦って得か損かは自分は判断できない。彼を殺すのを少し伸ばして、よく考えた方がいいのではないか」と答えた。

淀殿はこれを聴いて、大野らに「あの爺は馬鹿だといっても信長の息子で、世間の人気もあるので頼んだが、自分の身内にもかかわらず命に従わなかった。だからすぐに殺すべきだが、もう一度訳を説いて思い直す様にいえ」と命じた。

その時、中将という淀殿の侍女がいたが、彼女は常眞の家来の娘だったので、彼を救うために茶を立てて常眞に勧めながら、淀殿の命に従わなければ命が危ないと告げた。そこで常眞は偽って淀殿の命に従おうしていると、重ねて淀殿の使いが来て、「且元を殺さねばならない」とその仔細を伝えて来た。そこで常眞は、「命に従うので役目を任せてほしい。そうして及ばずながら且元を殺して、三軍の役目を果たしたい」とその計画を了承し、虎の尾を踏んだ心地で自宅へ戻った。

そして家来の生駒長兵衛を呼んで、「自分は前に秀吉に攻め滅ぼされるところを家康に救われ、羽黒長久手で勝ったおかげを忘れて関ケ原では石田の味方をしたので、将来を閉ざされ殺されるところだったのを、また家康に助けられて今まで生きて来た。今秀頼が悪い取り巻きの勧めを信じて、且元を殺し戦いを起こそうとしている。非常に切迫しているので且元に伝えたいが、道は監視されて動けないので、お前がよろしくやってほしい」と命じた。

生駒はしばらく考えたのち、この件は常眞から市正へ急ぎ伝えるべきなので、且元に腹心の家来を派遣してほしいという自筆の手紙を書かせた。そして秀頼の家来で、北村楤右衛門という且元とも生駒とも血のつながる者に手渡して、且元の家臣の小島庄兵衛賢廣に胴着1着と相模江川の酒樽、白鳥1羽を駿府の土産だといって持たせ、常眞の所へ派遣した。常眞入道は喜んで城内の企てを詳しく小島に告げて帰した。

〇その夜、大野らが一挙に片桐の家を急襲すれば、且元も備えがないので殺されただろう。(*そうならなかったのは)大野らが且元を畏れたか、兵を急に集められなかったのか、馬鹿なのでそこまで知恵が回らなかったのか。一方、片桐も今夜大阪城へ行って秀頼を擁護し、秀頼の命令を受けたとして賊臣を殺してしまえば、実権を握ったようなものとなるので、色々な計略も反故になっただろうという説も、すでに知られている。

23日 家康は上山検校の平家音曲(鈴木問答)を鑑賞したという。

〇大阪の家来たちは、且元殺害の計画が漏れたことに気付かず、淀殿から且元に使いを送って、「あなたにはまだ会っていないので、駿府の返事を直接聴いて疑いを晴らそうと思うので、明後日城へ来てほしい」と口で伝えた。且元は偽って招きに応じた。

武徳編年集成 巻65 終(2017.6.2.)