巻66 慶長19年9月25日~10月8日
慶長19年(1614)
9月小
25日 市正且元は城へ行く時が来たが、疲れて心身が弱っているといって行かなかった。秀頼からは再三使者が来て城に招くといってきたが応じなかった。そこで、大阪の家来たちは計略が漏れたことに気づき困ってしまった。一方、且元は城から兵が出て館へ攻めてくるだろうが、もともと秀頼に敵意は無いとはいえ黄門らの手でみすみす殺されるぐらいなら、一度勝負を決してから自殺しようと思って部下の兵を集めた。そうこうしていると、秀頼の直臣の中にも市正に世話になって禄をもらった同僚たちが集まってきて、市正の館で死を共にしようとした。
26日 市正の許に300騎が集まっているという話で大野らはびっくりした。すでに本丸の水手筋の鉄門は片桐の兵が詰め、三の丸の4か所の門の鍵は皆且元が預かっていた。その結果、城内の人々は全て且元の考え次第となった。そこで城内では、且元が兵を本丸へ進めて秀頼を救出するようなことが起きれば、秀頼の瑕瑾(*かきん、信用が損なわれること)されるだけでなく、自分たちも臆病者の汚名を永遠に晒すことになるので、早く兵を挙げて且元の館を攻め滅ぼしたいと考えた。
しかし直臣の7組の武将たちは、片桐が殺されるのを憐れんで、「もし今、且元を殺すと家康が怒って豊臣氏を滅ぼしてしまう」と眉を顰め、大野らの指図に従わなかった。また、本城にいた勢力も、少なくて市正を攻撃することはできなかった。そのため彼らは、且元の弟の片桐主膳正貞隆が秀頼に特に目を掛けられ、以前秀頼が疱瘡を患った時には昼夜を問わず付き添って、秀頼にもしものことが起きれば殉死しようとしたことがあるほどの家来だったので、今回無理にこの兄弟の間柄を断たせようと企てた。そこで使いを貞隆へ送り「今のままではお前は兄の且元と組んで秀頼に敵対して賊臣として名前を後世に残すことになるので、早く本城へ来て、これからは兄に代わって政に従事するように」と告げた。
すると主膳正は「自分はいつも命を秀頼に捧げようと思っていたので、兄が秀頼を裏切るようなことがあれば、秀夜に命じられる前に皆と組んで兄を殺さなければならない。しかし、今回且元は何も秀頼をどうかしようとする考えは全くなく、豊臣の家を守るために努力しているにもかかわらず、色々な讒言があって、無実の罪を被ろうとしている。だから、自分は覚悟して兄弟の契りを守って、奸臣を懲らしめるつもりで、まったく秀頼を蔑如(*さげすむ)わけでも、兄と組んでどうこうする者ではないと筋を通して答えた。その結果彼らは非常に恥ずかしく思って、二度と使いをよこすことはなかった。
且元の兵たちは、「連中はまだ水手筋の門にいる兵を追い出すことが出来ずにいるので、早く本城を占領して秀頼を救い、彼の命を受けて連中を殺してしまいたい」と望んだ。しかし且元は制止して、「こういう時は、末代に逆賊だといわれてはたまらないので、彼らと戦うにしても本丸に向っては大砲を撃たず、敵が我が家に迫った時には小銃で防戦し、それでも攻め込まれたときには、刀でできるだけ抗戦してから自殺しよう」と述べた。
27日 7組の頭たちは協議して、速見甲斐守時之を市正の家に送り、「このような平和なときに、城の主君に対して兵を挙げるとは家来としての道を外れている。自分の国に帰ってわび状を入れろ」と伝えた。
且元は「何も謀反など考えてもいない。ただ病気で城へ行けないときに、城へ呼び出し殺そうとしているということを知らせてくれたものがいる。主人の為なら死を恐れるものではないが、そのような輩の罪が糺されないままに、裏切り者といわれるのは困ったなと思っていた。しかし、その上兄弟の仲を裂き、浪人たちを集めて人の家を責められてはたまらないので、それを避けるために自分の兵を招集したら、自分に好意を持つ人たちが期せずして来てくれた。これは主君への敵対のように見えるが、自分にはそんな恨みは元々ない。駿府の家康の望むことは秀頼が本心を表明して仲良くしてほしいということだと再三自分に話していたので、自分も仕方なく三つの条件を提案したものだが、その実現が難しいのは子供でも分かることと理解すべきだ。その1は秀頼が江戸を訪問し、秀忠に挨拶することであるが、これは秀頼の威信が低下する。第2は大阪の城を出て他の国に移ることであるが、これはまた非常に難しいことだ。ただ、母上(*淀殿)が関東へ行くことを望めば、家康と秀忠の了承を得て土地を江戸に求め、品川の辺りの丘陵地などに場所を選んで、四方に湟をめぐらせ土地を均して高くして十分人手と年月をかけて敷地を用意し、そこに金銀で装飾した館を立て美しく装うと、完成までには一両年はかかるだろう。(*時間稼ぎができる)家康も歳をとっているので先はないが、この館ができるまでにもし亡くならなかった場合には、淀殿は病気なので、長旅は当面は無理だが回復すれば、すぐに江戸へ向かうと嘘でもいって、先延ばしを繰り返し、家康の亡くなるのを待ちたいと思っているのだ。それがどうして自分が秀頼を思っていないというのか? 関ヶ原以来、自分の謀によって秀頼を何もわからない愚かな武将だといって賢い家康に信じ込ませた。しかも大阪は非常に堅固な城で、秀吉以来の優れた家来も附いているので、家康は豊臣家に対して遠慮していたのである。ところが淀殿や大野、渡邊らは且元が駿府に追随して秀頼を馬鹿扱いしたと憤慨し、しかも4年ほど前に家康が秀頼に会った時に、それまで聴いていたのと違って馬鹿ではないと驚いたので、生きている間に急いで大阪を滅ぼそうと思うようになり、梵鐘の銘の難題を吹っかけてきた事情を淀殿が気付かず、罪を自分に押し付けて殺そうとしている。これは実に自分にとっては不幸な死に時である。そこで自分は自宅へ退いたが、もし彼ら賊臣どもがこれに乗じて攻めてくれば、自分の屍を路傍に晒して恥をかかない為に、討手が来れば彼らと戦ってから自殺したいのである。これ以上いうことはない」といった。
速見は「それでは大野と人質を取り交わせば兵をひくか?」とのべた。且元は「あんたの云うことには反対しない。自分は嫡男の出雲守高俊を時之に渡そう」と笑っていった。甲斐守は且元の知恵が深く秀頼を思うところに感激し、高俊を連れて帰って且元の謀反心のないことを事細かく淀殿や秀頼に説明したので、ようやく彼らも且元の勝手な真似ではないことを理解して、大野治長と織田有楽もさすがに且元が質を出したことに恥じて、それぞれが子を片桐に送って質にしようと相談した。
〇ある話では、淀殿に少し縁があり片桐の親戚でもある朔田玄久といって、秀頼の医者の1人になって才能に恵まれ千石をとっていた人がいた。彼は且元が殺されそうなのを心配しているところに、梅戸忠介が密かに来て、彼が駿府で家康から難題を被り仕方なく3条件を提示したのだということを伝えると、玄久は驚いて城へ行き、淀殿と大野らに市正に謀反心はないことを説得したので、皆は和やかになったようだったという。
〇秀頼の命でもう一度速見時之は片桐の家に行き、詳しい話を秀頼に伝えたところ「質を出すとは非常に真実味があって、よく調べもせずに兵を出したというので殺そうとしたが、今回謝ったので疑いは晴れた。そこで、城内から退去して自分から謝るべきである。その時期を間違えないように」という秀頼の命を伝え、且元は帰されたが、密かに秀頼が養育していた隠し子の娘を出雲守に嫁ぐように伝えられた。且元は了解して、城を出るときに、家財と税理の帳簿と大仏や伽藍の金銀の記録などを整理して提出してから、城内から出ると答えた。
28日 家康は21日から病気だったが、今日快復したので白書院に出て家来たちに会った。
〇ある話では、今日片桐からの急ぎの連絡が駿河へ着き、「大阪へ帰っから秀頼の母が関東を訪れるように提案したが、淀殿や秀頼は非常に怒って、取り巻きもそれを聴いて讒言を繰り返し、自分を殺そうとした。しかしそれを知らせてくれるものがあった」と本多上野守に伝えた。家康は非常に気分を害したという。
〇大阪では片桐且元は、この1、2日の間に家財や帳簿など全て老臣に提出し、秀頼の決済の証文を受け取った。また、二の丸に蓄えた糧米や大小の火器、弾薬を引き渡すと、大野治長と織田有楽は且元が城から出るときに、自分たちの質を渡すと申し出た。且元は固辞したが、彼らは見送りたいと城外の吹田の川岸まで7組の一族が且元を護衛するように命じた。
29日 駿府の牢屋でキリスト教徒の清安が、同じ獄にいる罪人たちに布教に努めた。そこで清安の指10本を切り落として額に十文字の焼き印を押して放逐した。
また、外科吉庵が、未熟な医者でいい加減なことをいって人々を惑わせていた。そして以前に三好丹後守の癰疽(*ようそ、悪性のはれもの)を治ると断言しながら、殺したのが発覚したので彼を檻に入れて江戸へ送って、町中を引き回し、更に中山道を経て京都や大坂の町中を引き回すように町の司の彦坂光正に命じた。
〇この月、秀忠は内藤主税廣信を歩卒の頭とし石見守にした。
10月大
朔日 家康は観世太夫の猿楽の会を催し、遠江参議頼宣や鶴千代頼房も演じるというので脇能が始まっていた。丁度その時京尹の板倉伊賀守から急ぎの連絡が届き、片桐且元が大阪の謀に陥って殺されそうになったが、弟の主膳正貞隆と共に館に立て籠もって必死に身を守ろうとすると、秀頼が急遽兵を挙げようと織田内府信雄入道常眞を大将として兵を募っていると報告した。これを本多正純が板倉重昌が家康に伝えると、家康は猿楽を中止させ、この11日に大阪へ向かって進軍する命令を下し、秀忠の指令で東海道の諸国へも催促をさせた。
〇この日、大阪城内で片桐兄弟は本丸から有楽と修理亮の質がくるのを待っていたが、遅いので謀だったのではと疑った。しかし、朝になって織田武蔵守尚長(後の大和守で有楽の子)と大野信濃守(修理の子)が質となって7組の頭が50騎を率いて現れ護衛しに来たので、片桐且元は婦女子や使用人を先に立たせ、主膳貞隆に後ろを守らせて、長年住み慣れた市正の曲輪を離れて大和川の畔まで来て、送って来た7組の頭や質子をもてなし、酒を勧めた。しかし、7組の頭は疑われないように兵卒を遠くに控えさせ、献杯を終わって別れるとき、7組の頭たちは長年仲良くして来たのにもう会えないというので、涙を流しながら質子をつれて大阪へ帰った。且元も涙を抑えて渡りに来たが船がなかった。
もしこの時有楽や修理亮などが兵を戻せば、片桐を殺すこともできただろうが、市正が城を出て喜んだのか、7組の長が躊躇したのか、彼らは攻めてはこなかった。
且元は船を探して川を渡り、一線の堤の道を経て、主膳正の領地の西成郡茨木について城を補強し、古い湟を掘りなおし守備を固めた。
〇今日の夕暮れ、石川伊豆守貞政が大阪の本丸へやってきて、大野と渡邊に向って「片桐も同意して自分を殺せという話があると聞いたが、事実だとすれば根拠がない。そもそも且元には罪はなく、何の下心もない。それを目先の知恵しかないけしからん家来が集まって、且元を落とし込んで自分が権力を奪おうとし、国が亡びることを知らない。このようなときは身を引くに限る。何か文句がある者があれば出て来い、相手は選ばんぞ」と怒鳴った。
貞政は身の丈6尺3寸(*190cm)の大男で、骨が太くて腕っぷしが強く、秀吉の頃は石川土用之助とよばれ、入専之助と呼ばれた蒔田権佐正時と並んだ勇者だったので、その場の者はおののいて一言も言葉が出なかった。貞政は左右に眼を飛ばして引き下がり、堺の港へ行ってそこから高野山へ行ったという。そこで修理亮は彼の領地を没収するように布施屋飛騨守に指示した。
且元が茨木に移って数日の間に、もし秀頼勢が攻め込めば、城壁も古い湟も何の役にも立たず防ぎきれなかっただろう。大野兄弟の軍の備えが悪いことはこれでわかるだろう。
〇一説に、大野たちは秀頼の命で、先月25日片桐が城へ来れば殺すように石川伊豆守に命じたが、彼は片桐主膳正と仲が良かったので、このことを主膳正貞隆につげ、その後髪を下したので、皆が不審に思った。しかし、後に石川の館へ遺書が届き、そこには秀頼に命じられて且元を殺す様に命じられたが、且元には罪はなく、取り巻きが計画したのは明白なので、自分は主膳正と懇意だから彼を殺すことは忍びない。そこで命に背くわけにはいかないので、自分は僧になると書かれていた。彼は後に家康に仕えた。
2日 家康は大野壱岐守を駿府から大阪へ行かせ、片桐を殺そうとしたわけを聞き届け、また市正を訪れて安否を尋ねるように命じた。この人は大野修理亮の弟で、その頃家康に仕えていた。
3日 氷雨が棗(*なつめ)の様だった(?)
家康は、尾陽義直へ中黒御紋付の白旗と引両の幕を、遠江頼宣には、葵の紋の白旗と中黒の幕を贈った。
三河の西尾の城主、本多縫殿助康俊へは、兵を率いて近江に赴き、膳所の城の加番につくように、老臣が奉書を示した。(康俊は7日に西尾を発った)
〇里見安房守忠義は、領地伯耆の倉吉3万石を与えられた。(これは家来の正木大膳印采女が、駿府に詰めていて頼み込んだためである)
4日 秀忠は奥羽と関東の大小名に出陣命令を下した。さらに江戸城の普請のために招集していた関西の大小名には、命令が下れば大阪へ出陣させるということで、帰国させた。
〇尾張の参議は今日駿府を発って国に帰った。これは出陣を用意の為である。家康は彼の家来の成瀬隼人正正成は途中義直について京都へ行き、戦では家康の家来として諸軍の指揮を執るように命じ、代官豊島作右衛門忠綱(正嘉の子)と大石十右衛門には天竜川に舟橋を設けるように命じた。
〇江戸で秀忠は安陪四郎五郎正之を呼んで、前に肥後の監察を命じたが、川口長三郎正武と永田勝左衛門政次を行かせるので、自分の家来にとして軍令を諸隊へ伝えるように命じたという。
〇大阪城から兵が出て諸公の米蔵の糧米3万石が盗まれ、また、商人から2万石を買い取って城へ運び込んだ。家康の米5万石も大阪の倉庫にあった。板倉伊賀守は城へ使いをやって、大阪は天候不順で干ばつが起きるかもしれないので、関東の米は倉庫にあるので籠城のための蓄えとして盗みたければ持っていけ。もし盗まないのなら置いていてもおいても仕方がないので引き取ってはどうかと申し送った。有楽と修理亮は、糧米は城に足っているので、早く伊賀守が引き取るようにといった。そこで勝重は関所の船頭を送って奉行もつけず、米を引き取ろうとした。早川口で大阪の番兵が妨害したが、勝重は約束が違うもし城の糧米としたなら提供するというと、有楽と修理亮は川口の衛士に印章を与えた。勝重の使いがそれを番兵に見せて、5万石は無事に伏見へ運び込まれた。人々は板倉の知恵に感心した。
大阪から赤座内膳直規と槙島玄番印昭光父子が、和泉の堺の港を攻撃した。関東から派遣された柴山小兵衛定好は貧乏で兵を持っていなかったので、役所から避難した。
納屋今井宗薫という金持ちがいた。この人は元佐々木の末裔の高宮相模守信網の末裔で、近江の高島郡今井に領地を持っていた。名前も今井とあらためた。彼の孫の彦右衛門久秀の代から堺に住んで、金貸しを仕事として非常に裕福だった。武野因幡守仲材入道紹鴎の婿となって茶道を誇りとしていた。その子の帯刀左衛門久綱は断髪し、宗薫と呼び茶道が上手で沢山の諸侯に知り合いが多く、家康にも特に好かれていた。慶長4年、上総守忠輝の妻の媒酌して、秀頼の大老や奉行などに責められて責任を取らされた。関ケ原では秀忠の軍に属し、終戦後は多く領地をもらった。大阪城ではそれを嫉む者がいて、今回は金銀私財の取り調べに会い、それらを没収するために目録を出せと催促された。
5日 京尹の板倉伊賀守から、大阪城では、秀吉の千枚分銅という金で48文目の竹流判という貨幣を鋳造して諸国の亡命者や関ヶ原の敗残兵を盛んに募っている、という急ぎの知らせが届いた。
6日 細川内記忠利は江戸で休暇をもらって帰国の途、箱根路で大阪の謀反を聞いて、すぐに駿府へ行った。父の忠興が国元にはいるので、自分が先鋒を務めたいと本多正純を訪れ申し出た。
同様に中川内膳正久盛と竹中伊豆守重俊も、駿府へ着いた。竹中は福島左衛門太夫と親しいことが知られていたので、「急いで江戸へ戻り、今回秀頼が兵を起こすは秀頼の意思ではないだろう。織田有楽や大野兄弟などが秀頼を馬鹿にして企てたに違いない。(*福島)正則は秀頼に嫌がられてはいない。家康父子は、秀頼に決して異心がないことを察しているが、世間の疑いは無視できない。正則は江戸に残って息子の備後守(*忠勝)が自分の国の兵率いて大阪に行かせよ。これは世の疑いを晴らすためである」と正則にいうように命じられた」竹中は了解し、明後日駿府を発つように命じられた。
黒田筑前守長政、加藤左馬助嘉明、谷出羽守衛友も、福島と共に江戸に留まるように本多正純から書面が届いた。この理由は彼と平野遠江守長泰はいずれも秀吉の家来だったからという。平野はせっかく駿府に居ながら、江戸へ行くように命じられたが、妻子が大阪にいるので許可をもらって、大阪へ急いで戻り秀頼方になりたいと申し出た。家康は永井直勝と傳長老から何度もやめるように忠告したが止められなかった。
細川内記は一度江戸へ向って、秀忠の指示を聞いて帰国するようにと命じられ出発しようとしたが、平野遠江と親しい友達だったので、彼もまた長泰をとどめて江戸へ連れて帰るように命じられた。そこで、急いで平野の家を訪れいろいろと詳しく説得すると、遠江も彼の言葉に動かされて結局江戸へ行って住むことに応じた。諸臣は内記の辨の立つことに感心した。
〇伝えられることによれば、長泰の子の権平長勝は、この冬、大阪城に籠城した。家康との和解が成立した後に城を出た。夏の陣では長泰は病気で倒れ、戦には出られなかったという。
〇京都から急ぎの連絡があり、織田常眞が味方になるというのが本当であることが伝えられた。
〇美濃の加納から歩いて駿府へ来た松平摂津守忠政は、此の月の始めから腹痛によって、2日に享年35歳で死去した。家康は自分の外孫なので非常に残念がったが、忠政の老父の奥平美作守信昌が加納の城を固めているので、士卒を忠政の弟の松平下総守忠明に移して、大阪城へ出陣するように命じた文書を老臣が提示した。
越前少将兼三河守忠直は江戸に居たが、すぐに手紙を書いて、国元の軍勢を連れて長臣らが急遽京都へ向かうように指令を出した。この手紙が越前の福井へ届くと、先代から戦い慣れした武将たちなのでわずか3日目には、大軍が用意され出陣したという。
7日 伊豆のところどころの港に、西国から早舟が到着して停泊した。そこで早く取り調べて出港を差し止めるように駿府の町司の彦坂九兵衛光政に命じた。また東海道と東山道の要所に衛兵を置き、関東の奉行の許可なしにはみだりに通行しないように禁令を発動した。
〇御使番の小栗又一忠政は功労者だったので、3千俵の禄を受けた。また当時上下総を護っていた藤田能登守信吉にも、上杉家でよく働いたのでプロモートされ、監軍になるように命じられた。
〇京極若狭守忠高、同修理太夫高知、森美作守忠政は江戸城建設の功労で帰国が許されたときに、大阪で戦いが起きそうだということを聞いて急いで駿府へ行き登城すると、すぐに自国へ帰って、指示が届くのを待って大阪へ出陣するようにと指示された。その後田中筑前守忠政をはじめ中国四国の大小名は、江戸から次々と駿府へ来て家康の同様の指示を受け帰国した。
〇片桐市正の使いの、小島庄兵衛賢廣と梅戸忠助が駿府を訪れた。家康は2人にすぐ同服を与え、市正主膳正へ感謝状を贈った。
〇この日、京都で所司代の板倉勝重は、京都辺りから大阪への米穀や鹽の通商を停止した。また、摂津と河内の船の運航を淀の商人の木村惣右衛門と河村又右衛門にやらせ、勝重の家来の近藤源左衛門、山口権兵衛、萩野八郎右衛門、山口定太夫、田上左内以下50騎に番兵をさせた。
8日 遠州の城主、松平河内守定行は急遽伏見に行き、父隠岐守とともに伏見の城を守り、淀の城にも衛兵を置いた。
家康は大阪城攻撃の先鋒は、藤堂和泉守高虎と定め、伊賀と伊勢の安濃津の兵を連れて領地から和泉を経由して出陣し、大和の士は全てそれに従うように命じられた。高虎は譜代ではないが、先鋒に選ばれたのは、関ヶ原以来特別の活躍をしたからである。
故兵部大輔直政の次男掃部頭直孝は、当時大御番頭として伏見で務めていた。その兄の右近太夫直勝(最初は直織)は病気だったので、直孝が彦根の兵を連れて藤堂と共に先鋒になるように、(直孝の組の兵は同僚の渡邊山城守が指揮すること)、桑名の城主本多美濃守忠政と同平八郎忠刻は伊勢の地元の士を組織して先鋒に加わるべし、との家康の指令を、駿府の老中から3人へ書面で通達した。
〇井伊家の説によれば、板倉勝重は伏見城から直孝を招いて、家康の指示を伝えると、直孝は一旦退席してよく考えてから返事をすると、伏見の館へ戻った。そして彼は彦根の老臣たちを招集して、家康の指令を伝え、皆が同意してくれれば要請を受けると述べた。
直孝の兄は病弱で、その任には堪えられないが、直孝は非常に優秀な武将で、大将の器量があり、当時わずか1万石だったが非常に目立っていた。したがって彦根の元老たちはこぞって直孝が司令官になることを望んでいたので、彼の問いに対して辞退してはならないと答えた。
そこで直孝は亡父の直政の時代からいた戦術の顧問を彦根から呼んで、「自分に伝来の戦の奥義を伝えてくれないか」と尋ねた。するとその人は「かねてから望んでいたことだ」と懐から秘伝の書をとりだし「自分は齢を取っているから戦場には行けない。この書物を基になんでも答える。自分の話を手本として計略を考えて、軍を指揮してほしい。またあなたはことに及んで柔軟に得失を決断できるか?」と尋ねた。
直孝は「自分は教えを無視せず、教えの虜にならず決断をすることが一番重要だと思っている」と答えた。軍指南は手を打って喜んで「自分がこれまで考えてきたことはそれに尽きる。あれもこれもと捨てがたいということがあることを論じるのが、戦いの道ではない。理に従っていざというときに柔軟に対処するのが、武将の能力である」といって、その書物を投げ捨てたという。
〇この日、秀忠の使いの土井大炊頭利勝は駿府へ行き、「大阪出陣は了承するが、関東にはいろいろ問題があるので出発前に指示を出してほしい。甲州勢はすでに江戸に来ているし、奥州の大小名もすぐ招集する。大阪へは秀忠がすぐに出陣する」という秀忠の考えを伝えた。
家康は、「自分は一度京都へ行って飯坂の様子を調べ、秀頼の謀反がなければすぐに戻る。秀忠は関東と奥羽の大勢力を江戸に置いて、秀頼の謀反があればその大軍を引き連れて大阪へ出陣せよ。それが終わると自分は駿府へ帰って、10万の兵を集めて関東を統治する」と秀忠に伝えるように利勝に命じた。そしてその他にも軍隊の配置などについて詳細を指示した。
一方秀忠は、越後少将忠輝、蒲生下総守忠郷、最上駿河守家親、奥平大膳太夫家昌、鳥居左京亮忠政を江戸留守番役とさせた。また竹千代は酒井河内守重忠、弟の備後守忠利、大番頭高木主水正成、次書院番頭内藤若狭守清次が護衛し、国君(後の駿河大納言忠長)は、その家来の朝倉藤十郎宣正が保護するように命じるように決めたことを利勝に報告した。家康はその決定を喜び利勝に休暇を与えた。
〇東海道の租税収納係の五味藤九郎重之は、まず道中の橋を修理し、行軍に支障がないようにすること。次に諸軍の宿の割り付けを決めるべき。そして農家と商家の訴訟事を処置せよ。また関東の税務官の彦坂平九郎は、陣中の兵糧が切れないように運搬するように命じられた。(それぞれは翌日駿府を発った)
川合左兵衛は駿府の獄舎の監督を命じられた。
今日、細川内記忠利は平野遠江守長泰を連れて駿府を発ち、江戸へ向った。
〇ある話では、忠利の父、越中守忠興は、家康に忠誠を誓った人である。九州の島津と加藤に対して家康は疑いを抱いているので、秀忠の考えを内密に忠利に伝えるために、もう一度忠利を江戸へ行くように、家康が命じたためだという。
武徳編年集成 巻66 終(2017.6.3.)
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