巻68 慶長19年10月14日~23日

慶長19年

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14日 家康は天龍川の舟橋を渡り、昼頃に濱松の城へ着いた。江戸から加藤肥後守廣忠がきて拝謁した。家康は、「おまえはすぐに肥後へ帰って兵を挙げ、命に従って大阪へ向けて出帆するように」と指示した。そして鷹が獲った雁2羽を与えた。

秀忠の使者の松平助十郎秀信が到着した。脇坂淡路守安元も江戸からやってきたが家康は彼に、「伊予に帰って兵卒を連れ、摂津に来て藤堂高虎の部下に加わるように」と指示した。

伊勢組の旗頭本多美濃守が伏見に到着した。(*『当代記』では15日)

〇伯耆の代官伊丹喜之助康勝と山田五郎兵衛直時は徴収した年貢、白銀5千貫を献じた

〇京尹の板倉から手紙が届き、大阪方に加わった浪人たちの国元と姓名の概略が書かれたリストを老臣が家康に見せた。

15日 家康は吉田城に着いた。板倉重勝から書簡が届き、「和泉南の堺の政所が大阪勢に乗っ取られ、当地の大商人たちは放火を避けて、火砲や弾薬、甲冑を秀頼に献じた」と伝えた。

囲碁の妙手の宗具は、妻子を田舎へ避難させて今月9日に堺を発って今日吉田へ着き、大阪の様子を詳しく家康に報告した。

〇片桐市正の使節が京都へ来て、板倉伊賀守に「大阪方は船橋を吹田川にかけて、茨木を攻めようとしているらしい。そして近辺の里人に一揆を起こさせて、茨木を落とせば2年間年貢を免除し、過去7年間の租税を免除すると促しているので、領内で一揆が起きるかもしれない。すぐに援兵を送ってほしい」と告げた。そこで板倉は丹波の国の士に命令して、茨城を救助しようとすると、丹波の徳川領の役人の村上三右衛門吉正がちょうど伏見にいてこれを聴いて、片桐を助けたいと思った。しかし、城代の松平隠岐守定勝は「すでに通知された教令があるので、城内の兵は1人も出してはならないことになっている。お前もこれを無視してはいけない」といった。それで吉正は京尹の板倉へそのことを連絡した。というのは畿内の作戦は全て伊賀守(*勝重)が仕切っていたからである。

勝重も「おまえが茨木の城へ入っても、兵が少ないのでうまく行かない」と止めた。吉正は「自分は茨木の地形をよく知っていて、ある一カ所の堤から城へ出入りできる。もし敵が船で吹田川から攻めてきても、網を張って城内の勢力で昼夜奮戦すれば船橋を造る必要はない。敵を防ぐにはとてもいい場所である。万が一敵が川を越えてきたら、且元と一緒に死ぬ」といった。それで勝重は彼の出兵を許可した。

吉正は午後に京都と発ち、深夜に茨木に着いて穂積に駐屯した。すると大阪勢が茨木に攻めて来た。勝重の命令で丹波から藤懸三河守と川勝信濃守が茨城の援軍として到着したが、一揆衆が蜂起して火砲を激しく撃ってきたので難儀した。そのとき、茨木の片桐の従士、岡左太夫、梅戸平左衛門、田村助右衛門、安如寺喜兵衛などが城から飛び出し、一揆衆を追い払い援軍を城へ引き入れた。片桐兄弟は急いで濠に水を足し、塁壁を補強して守りを固めたので、何とか危機を脱した。

〇向井将監忠勝は、江戸で注文を受けて摂津尼崎で50日の間に100挺の銃を備えた軍艦を建造し、一族4,5人、水夫180人を載せて待機させ、大阪城攻撃の準備をしてから江戸へ戻った。

16日 三河の街道で家康が通過するのを待ち受けていた加茂郡桑谷の郷主の松平七蔵長定は、自分の稚児の長福を乳母と従者3人と共に家康の傍まで連れて来て、熟した柿18個を盆にのせて献上した。家康はその8歳の子が父に似ているといって、「熟した柿(*じっくり待つを意味する?)は關原軍の先蹝(*せんしょう、先例)で縁起がいい」と非常に喜んだ。そしてその柿を篭に持ち込んでから岡崎の城に着いた。

〇その七蔵長定は、大番頭の松平石見守康安の組だったが、聾となって引退し、領地の桑名で印僑生活を送っていた。彼の領地の地元の士が長福のことを言わなかったので、間違えてその子を長福と名付けた。この長福は慶長12年に生まれ、後に彦太夫政勝となって16歳で江戸へ出て、酒井雅楽頭忠世をたよって志願し大番頭になった。その後彼は組頭となり亀松の家来になったが、亀松が早世したので、御納戸頭を命じられて厳有公(*家綱)までその職を務めた。元禄7年5月15日に享年88歳で死去した。母は松平主殿助家忠の庶弟、新次郎伊長の娘である。彼は政勝入道鐵心と号して、自分(*高敦)の実父の根岸直利の親友だったので、父は彼の話を詳しく話していた。

〇この日、尾陽参議中納言義直は、名護屋城を発って6里進軍し、一宮に着いた。

京都から板倉勝重の書簡が岡崎城まで届いて、「片桐方から堺の今井へ送った援兵200あまりが、神崎と伊丹辺りで大阪勢によって襲撃され、今井宗薫と同宗呑が命を落とした」ことが報告された。家康は進軍を速めさせ、秀忠は板倉周防守重宗を家康の籠まで行かせて、日々書簡で家康の指令を宿から江戸へ報告させた。

今日も成瀬豊後守正武が家康に会い、「奥羽の大名達が次々と出陣して、全部が江戸へ付けばすぐに秀忠も出陣してもよいか」と尋ねた。家康は許可した。

福島左衛門太夫(正則)は老中へ手紙で連絡し「自分は誤解を避けるために秀忠に頼んで、妻子を江戸城へ預けたので、自分の勢力はわずかではあるが、秀忠に従って大阪へ向かって戦いに参加したいと申し出た。家康は正則には下心がないのは明白なので、江戸に残るべきではなく、大坂の戦いに参加すべきだと家来らに命じたという。

〇同じ日、江戸へ伊達政宗が到着した。この4日に仙台を発ったものである。途中で下野の小山へ秀頼の使者の和久半左衛門が駆けつけて、秀頼のことづけを受け取った。それによれば、「今度たまたま家康の怒りを買ってしまったので、政宗にはよろしく家康の怒りを和らげてほしい。もし家康が応じなかった場合は、政宗は自分方に付くように」と促した。政宗はその誘いには応じなかったので、和久は空しく帰国した。政宗はこの件を宿から手紙で江戸に伝えた。

秀忠は伊豆の租税の役人の井出藤左衛門佐と野平兵衛を討手として和久を追跡し、三島の宿で捕えて禁錮した。彼は近衛信輔から習字を習った人として名が通っていたので、秀頼の書記を務めていた。大坂の陣が終わったのちは、家康は和久を政宗に与え家臣とした。彼は入道宗是と号した。

17日 午後、家康は名護屋城へ入った。大手門の外で京都から江戸へ向う古田織部正重能と医師の半井驢庵が来て、家康に会った。

18日 昨夜からの雨によって、家康は名護屋城に滞在した。京尹の伊賀守勝重から急ぎの連絡によって、「今井宗薫父子が大阪勢に殺されたという報告を受けたが、実は父子は殺されず、捕虜となって大阪城に軟禁されている」という実情が伝えられた。

織田家の分家の津田小平次長興は、最初滝川一益に仕えて上野の松枝の城主だった。一益が没落した後は京都へ行って髪を剃り、興庵と号して家康の世話になっていた。彼はいつも織田信雄入道常眞に「一度は家康のために働いて関ヶ原の時の罪を償うように」と勧めていた。

常眞は密かに京尹の勝重の船に乗って大阪から逃だしたいと思って興庵に連絡したので、長興はすぐに板倉にそのことを告げると、勝重は従士50人を船に乗せて迎いに来た。常眞は喜んでその船に乗って京都へ向かった。

大阪の臣はこのことを聞いて兵を出して阻止しようとしたが、すでに後の祭りで、追いつくことができず常眞は京都へ着いた。大阪方はこの人は愚かではあるが、信長の二男で人望もあるということから、大阪方の隊長としたのだが、彼のこのような行動に大阪方の家来たちはがっかりした。

〇この日、越前の両少将の使者が名古屋に来て、近日京都へ到着するのでどのように陣を配置すべきかと問い合わせた。家康は、加賀利常は淀や鳥羽、越後の忠直は西岡、東寺、九條、山崎辺りを担当すべきと命じた。

利常は14日には小松の城を発ち、忠直は一昨日の16日に近江の坂本まで進軍していたという。

〇秀忠は、自分が江戸を発つと、奥羽の大名の内には反乱を起こすものがいるのではないかと、諸将が江戸へ来るのを待った。しかし、彼らは問題なく順に江戸へ到着したので、この28日に江戸を発つことにしたという。

19日 家康が岐阜に着いた。家康は、「島津陸奥守家久、毛利長門守秀就、鍋島信濃守勝茂、黒田筑前守長政、福島備後守正勝、池田武蔵守利隆、同左衛門尉忠継、同宮内少輔忠雄、森美作守忠政、浅野但馬守長晟、蜂須賀阿波守至鎮、加藤式部少輔明成、山内土佐守忠義、生駒讃岐守正俊、寺澤志摩守廣高などの西海、南海、山陰、山陽の諸軍はすぐに出兵して大阪へ向かい、大阪城を遠巻きに包囲するように」と本多上野守に文書で指示させた。一方、京都に着いた東海や東山道の諸軍については、家康はまだ京都には着いていなかったが、全て心得ている京尹の板倉勝重が現場を段取りしたので、特に問題は起きなかった。

〇今日、伊勢勢の旗頭の松平下総守は淀、鳥羽まで陣を進めた。

〇秀頼は徳永左馬助昌重へ手紙を送り、「今度片桐を殺そうとしたのは、お前が大阪の命令を無視したからである。自分も母も家康に逆らうつもりはない。しかし、徳川が大阪を攻めるというのを聴いて、仕方なく籠城しようとしているのだ」と伝えた。徳永は使者と共に本多正純の所へ来て、この手紙を渡した。家康は筦爾(*かんじ、ほほえむこと)して「これは有楽修理の謀略だろうな。浅はかでかわいそうだな」といった。

〇石見の山から白銀や鉄などが出るので、伏見の在番の渡邊山城守茂の組の深津彌左衛門正吉に命じて、銀や硝石などを難波の陣まで運ばせた。

この19日の秀忠の命令を受けて、今日から諸将が少しずつ江戸を出発した。

第1陣は酒井左衛門尉家次の組で、松平甲斐守忠良(本姓は久松)、山内佐助(後の豊前守、忠豊)、小笠原若狭守政信、水谷伊勢守勝隆、仙石兵部少輔良俊、同大和守久隆、相馬大膳亮清胤、六郷兵庫頭政乗、設楽甚三郎貞信、

第2陣は本多出雲守忠朝の組で、浅野采女正長次、松下石見守重網、植村主膳正康明、一色宮内少輔直氏、須賀摂津守忠政、秋田城介實季、

第3陣は榊原遠江守康勝の組で、松平丹波守康長、北条出羽守氏重、成田左衛門佐氏忠、丹羽五郎左衛門長重、

第4陣は土井大炊頭利勝の組で、佐久間備前守安政、同大膳亮勝之、堀美作守親吉、堀淡路守直升、筒井主殿助定慶、北条久太郎氏利、由良信濃守定繁、溝口伊豆守宣政、

第5陣は酒井雅楽頭忠世の組で、細川玄蕃頭興元、牧野駿河守忠成、脇坂主水安信、土方掃部助雄豊、鳥居土佐守成次、杉原伯耆守長房、新庄主殿直好だった。

以上の5組は、毎日1陣ずつ江戸を発って東海道を京都へ向かった。

20日 家康は柏原へ着いた。板倉勝重はすでに京都に着いている諸将には何時到着したかにかかわらず、兵員の数に応じて兵糧を堀川で配分した。しかし、京都や近畿には兵糧が少ないので、半分は銀で支給した。その時奉行が家康に「諸将は人数をごまかして増やして糧米を余分に問う者がいるので、改めさそうか」と述べたところ、家康は非常に怒って、「米改めも時と場合による。敵がスパイを放ってこちらの勢力を見積もる際には糧米の分量で測るはずで、敵をこちらの兵の多さで恐れさせたい時に糧米をけちっていいことがあると思うのか? 員数の多少を細かく云々してはならない」と述べた。

先に家康は、京尹の板倉勝重に瀬田の橋の傍で、大勢が集中すると川へ落ちることがあるので、橋爪の左右に柵を設けるように指示した。これはこちらの勢力の多さを相手へ知らせる計略であったはずである。

〇大阪は亡命して来た者60人あまりを修験者として京都へ忍ばせていた。彼らは二条城から家康が出陣した後に城に火をつけようと計画した。しかし、その中に裏切り者が出て勝重に漏らしたので、勝重はすぐに兵を送って20人ほどを捕えた。また、特にその中に不敵な難波商人がいて、秀頼から黄金500枚をもらって、家康を捕えようと家康が京都へ来るのを待っていた。そこでこれも捕えて獄に入れたことが、家康に報告された。

21日 家康は彦根城に着いた。秀忠の使いの石川八左衛門正次と渡邊図書宗綱が到着し、「大阪の敵が出て来ても自分(*秀忠)が京都へ着くまでは戦いを始めないでほしい」と伝えたので、本多上野守が家康に伝えた。そして「非常に重要な使いである。関ケ原の戦いの際には大久保助左衛門忠益が信州の上田で家康の命令を間違って伝え、改易された。前のような轍を踏んではならないので返事を家康から直接聴いてほしい」と、本多は2人を家康の前に連れていった。家康は秀忠の心配を了承して、「秀忠が京都へ着くまでは、大阪には出兵しないが、敵が急に攻撃してきたときは仕方なく出兵して戦う」と伝えた。

両使が退出した後、本多正純は彼らに「父子の間でも敵が攻めてきた場合には、必ず将軍家の到着を待たねばならない。そして大阪が偶然急襲してきても、家康は籠城する覚悟するはずなので、戦いは秀忠が京都へ着いてから始まるだろう」と秀忠に伝えるように命じて帰らせた。

22日 家康は永原に着いた。(*『当代記』では21日)板倉勝重の飛脚が来て、「和泉の堺には味方がいないので乱暴狼藉をする賊がいる。そのために禁令の高札を立てた」ことを報告した。

家康は竹中伊豆守重信を呼んで、「安芸に行って福島正則の子の備後守正勝に兵を連れて大阪へ来て、戦いに参加させるように」と命じた。

〇前場半大蔵が大阪から逃れて来た。家康は彼を呼んで大阪城内の様子を尋ねた。すると、「城内ではこの戦いは淀殿の感情で起こしたので皆は眉を顰めている」と報告した。

米澤中納言景勝が江戸を発った。

23日 家康は早舟で矢橋を渡り、膳所の城で戸田左門一西が食事を献じた。

〇ある話では、伏見の定番で勤務していた人で、すでに亡くなった鈴木友之助信喜の嫡男喜三郎重有は父が存命時に仲たがいして逃げ、美濃の外祖父の遠山右衛門佐方に住んでいた。しかし、今度大津で家康を待ち受けて家康との面会を申し出たので許され伴に加えられた。後日彼は禄をもらうようになり、結局水戸候の家来にされた。

〇家康は午後に二条城へ到着した。片桐市正と同出雲守高俊を呼んで大阪が謀反を起こすことになった経緯を尋ねた。藤堂和泉守高虎も先日京都へ来ていたので同席した。家康は近臣に大阪城の地図を広げさせて、濠の深さなどを尋ねて城攻めの作戦を相談した。

〇本多縫殿助康俊は膳所の城の援兵だったが、家康がすでに京都に着いたので用が無くなった。そこで家康は「急いで兵を連れて河内の須奈に向かい、庶民が襲撃を恐れて山林に避難しているので早く家に戻るように命令を下せ」と命じた。また、和泉の岸和田は重要な地点なので、伏見の加番の中から松平安房守信吉に「早く当地へ行って、城主の小出大和守吉英に代わって守護を怠るな」と命じた。

〇秀忠の使者、青山善四郎重長が京都へ来て、家康に面会した。

〇越前少将忠直と兵2万あまり、また加賀少将利常とその兵3万あまりが下京に到着した。

〇大阪城から兵が出て郊外を焼払った。

〇ある話では、筧助太夫正重と同龍之介正長は、大須賀家の武将だったが、家康の怒りを買って蟄居していた。一方、三河の浪人大河内茂左衛門政朝は、当時大友大膳といって伏見に住んで、井伊直孝の家来になろうと望んできた。

筧は政朝を訪れ、「家康が京都へ来る途中に直訴して、今回従軍したいと思うが、万が一直訴したことを咎められたらどうしよう」と相談した。政朝は「それが本心なら早く直訴した方がよい。もしお前のこれまでの働きを無視されて咎められたら、その時は自殺したらよい」と答えた。

筧は「なるほど」と家康が京都へ来た時に直訴した。家康は彼の働きに免じて許してくれて、もう一度御家人にしてくれた。ただ、給料はすぐにはくれなかった。政朝が本多上野介正純と井上主計頭へ推挙したので、まもなく善処されて、筧父子はうまく水戸候の家来になれた。

〇23日 秀忠が江戸城から出陣した。(*『当代記』では24日)

旗奉行は三枝土佐昌吉、島田次兵衛正次、

臨時の旗奉行は朝比奈彦右衛門眞直、内藤平左衛門清久、

槍奉行は小林勝之助正次、永田喜左衛門重利、多門縫殿信清、安藤次右衛門正次、

大番頭は水野隼人正忠清、牧野内匠頭信成、

花畑番頭は水野監物忠元、井上主計頭正就、成瀬豊後守正武、

持弓頭は内藤右衛門正重(後の外記)、

持筒頭は青山善四郎重長、彼は日ごろ使節として江戸に居た。

弓銃軽率頭は近藤石見守秀用、兼役 三枝土佐守昌吉、屋代越中勝永、久水源兵衛重頼、本多太郎左衛門、加藤喜助、森川金右衛門氏俊、細井金兵衛勝吉、駒木根右近近利、横田甚右衛門尹松、

臨時の鉄砲頭は杉浦市右衛門正友と兼役安倍四郎五郎正之、

使い番は兼役内藤右衛門政重、鵜殿石見氏長、牟礼郷右衛門勝成、朝比奈源六正重、小澤瀬兵衛忠重、中川半左衛門忠勝、渡邊図書宗網、兼松源兵衛正成、村瀬左馬介重治、溝口外記當吉、近藤勘右衛門用政、久貝忠左衛門正俊、兼役青山善四郎重長、

目付は正岡五郎作景長、加藤伊織則勝、永井彌右衛門白元、高木九兵衛正次、木村源太郎元正、

臨時の目付は加々爪民部少輔忠澄、花井庄右衛門、豊島主膳信満、日下部五郎八、牧野清兵衛正成、

諸道具奉行は秋山平左衛門昌秀、荒川又六忠吉、中山勘解由昭守、神谷與七郎清直、山角又兵衛正勝、伊藤甚兵衛廣祐、

浅井六之助道多、五味金左衛門豊直、芝山九右衛門正信、須田次郎太郎廣荘、市川茂左衛門満友、青木小右衛門、高田小次郎直政、藤川左次郎重勝は小屋割を担当した。

御迹備は安藤対馬守重信、続いて本多佐渡守正信組は次男大隅守忠純、立花左近将監宗茂、その弟主膳正統益、前田大和守利孝、日野根織部正吉明、藤田能登守信吉、菅谷左衛門佐範貞、蘆田衆、那須衆、津金衆、武川衆、由利衆、秋元越中守富朝、坂崎出羽守成正などだった。

先陣と後陣合せて20万人が、江戸から山城の伏見まで絡繹(*らくえき、絶え間なく続く)だった。

〇自分(*高敦)が考えるに、家康も秀忠も諸役の任命では兼任が多い。たとえば三枝昌吉が旗奉行と物頭を兼ねているようなものである。したがって、複数の役に同一の名前があるといって間違いではない。

〇秀忠の留守番役の諸将に密命が下された。つまり、福島、黒田、加藤左馬介と平野など5人は、江戸に留め置かれたが、「万が一大阪で味方の旗色が悪くなったことを聞くと、必ず反乱を起こすに違いない。その時は即刻彼らを抹殺してもよい」という黒印(*許可証)が上総介忠輝などに送られた。慶長19年10月23日上総守忠輝 黒印.jpg

『この度留守番の間は何があっても城から一切出ることのないように。ただし、酒井河内守と相談のために出ることはかまわない。諸法度を遵守することを申し渡す。
慶長19年10月23日 黒印
鳥居左京允トノへ』

『この度の留守中のことについては、鳥居左京允、米津勘兵衛、島田兵四郎としっかり申し付けたことを相談するように。
慶長19年10月23日 黒印
最上駿河守殿』

〇竹千代の臣、酒井備後守忠利は大番頭両人と朝倉藤十郎宣正へも黒印を送った。慶長19年10月23日家康ー酒井・内藤・高木・朝倉.jpg

『この度の留守の件。如何なる場合も城から出ないように。諸法度を遵守し万事よく相談するように。
慶長19年10月23日 黒印
酒井備後守トノヘ
内藤若狭守トノヘ
高木主水正トノヘ
朝倉藤十郎トノヘ』

〇江戸の町司の米津勘兵衛由政と島田兵四郎正時(後の弾正正忠入道、法名幽也斎)の2人は、市中に異常がないか視回ることを命じられた。

武徳編年集成 巻68 終 (2017.6.6.)