巻69 慶長19年10月24日~11月5日 大坂冬の陣~

慶長19年(1614)

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24日 勅使の廣橋兼勝と西條實條が二条城を訪れた。

秀忠の使いの水野監物忠元が来て、奥州の伊達政宗と上杉景勝が、21日に江戸を発つことが伝えられた。

今回の招集に応じて兵卒を率いて京都へ来た諸将に、家康が面会した。

秀忠が藤澤の宿に着いた。そこに蜂須賀阿波守家政入道蓬庵が訪れ、「秀頼が兵を挙げたことを息子の阿波守至鎮が伝えてきたので、すぐ国から船で海を渡って三河の吉田に着き、遠州中泉に着いていた家康に会うと、江戸へ行くように命じられたので、陸路駆けつけた」と述べた。

秀忠は彼が至鎮のために、自らが質として江戸へきたことを察して感心し、「江戸へ行くことはない、すでに隠居している身だから好きなようにどこにでも行くように」と命じた。そこで蓬庵は引き返して、和泉の一向宗の寺に行き、夏の陣が終わるまでそこで蟄居した。彼が大坂の陣へ参戦しなかったのは、秀吉の恩を無視したくなかったからだろうと、人々は感心した。

〇『宇都宮家譜』によれば、浪人の彌三郎末房は、家来13人と雑兵28人で京都へ赴き、家康に面会して、黄金10枚と時服をもらった。そして秀忠を迎いにもう一度、東海道を引き返した。

25日 大地震が起きた。しかし、二条城は壊れずに済んだ。(*『当代記』では、二条城にはちょうど五山衆が来ていて、広間から庭へ出たが、ちょうど樋が壊れて水が落ちてかぶってしまい、見苦しい姿だったとある。お坊さんたちが慌てている様子が目に浮かぶ)

秀忠は小田原の城へ着いた。

〇『榊原家説』によれば、遠州横須賀の城主、大須賀国丸はまだ10歳だったので、長臣が代わりに家来を率いて、遠江参議中将家の部隊に参加した。本人は横須賀を動くなと厳命されていた。長臣たちは、すぐに頼宣の軍の一部として大阪へ向かった。しかし本人もあとから京都へ行って戦に参加したいと申し出た。家康は許したが、近臣に「一寸の松にも棟梁の器が見えるという諺のように、国丸にはもう英雄の気配がみられる」と感心した。彼は実は榊原式部大輔康政の嫡孫で、後の松平式部大輔忠次である。

26日 先鋒の、藤堂和泉守と大和の国士、堀丹後守直寄など1万余りの兵は、片桐兄弟の案内の下、河内の国分まで行って駐屯した。

丹波篠山の城主松平周防守康重は、山陰道の勢力を率いて摂津へ向かい、家来の都筑久太夫重次に別府川の畔で、敵方が置いていた番兵を討ち、すぐに川を越えて、佐良志川を進むと報告した。

〇丹波福知山の城主、有馬玄番守豊は、江戸城の建設に貢献したので帰国していたが、軍勢を揃えて山崎から領地の摂津の三田へ行き、態勢を整えて大阪へ行こうとした。芥川まで進んだとき、元老の稲次右近が「これから三田へ向かう途中の加茂に行くまでには小さな坂があるが、道幅がせまく竹や茂みで暗くなっている。もし敵が潜んでいてこちらが坂の下まで来ると、急に上から鉄砲を撃ちおろされると、こちらは的になって皆やられてしまう。だからここを通るのは避けて、神崎に回り三田へいくのがよかろう」と進言した。

しかし、豊氏はうんといわなかった。右近は怒って「大阪に籠っているのは烏合の衆だといわれるが、森、豊前、明石、眞田、後藤といった場数を踏んだ優秀な武将がついているので、このような策を使わないとは限らない、ここで皆がむざむざ殺されてしまったら、無謀を屍の上に被されてしまう。そうなりたくいないので、自分は今自殺して汚名を受けるのを勘弁させてもらう」といった。豊は驚いて彼の忠告を受け入れて、神崎に赴いた。果たして大阪側は加茂の郷に伏兵を置いて皆殺しにしようと待ち受けていた。しかし、敵が迂回して吹田川を渡ったと聞いて、悔しがったという。このことが後日家康の耳に入って、稲次の忠告を感心したという。

〇この日、織田前の内府信雄入道常眞が二条城を訪れ、家康に会って大阪が兵を挙げた経緯を説明し、「自分は秀吉に馬鹿にされ、存亡の危機に家康に助けられて滅ぶのを避け得た。しかし、結局秀吉のために国が傾き、乞食坊主になり下がりながらも石田三成の味方になった。そこでその罪を償うために殺されるはずだったところを、また許してもらい今まで生きて来た。その恩をなんとか返すために大阪に参戦したいので来た」といった。家康はすぐに左文字の刀と行光の脇差を与え、戦が終わると領地を与えると約束をした。

秀忠は今晩三島へ着いた。

27日 家康は金地院崇傳長老林道春に命じて、京都の禅宗五山の僧侶を招集して、諸家公卿の記録各3部写しを作らせ、1部は朝廷へ、2部は駿府の文庫に納めるように命じた。

片桐主膳正貞隆が二条城へ来て、家康に面会した。

〇この日、和泉の南堺の商人が京都へ来て、白銀を200枚献上した。成瀬隼人が家康に見せた。

家康は池田武蔵守を寝室へ呼んで、尼崎と大阪の地図を見ながら進軍について指示した。

〇この日、秀忠は駿河の清水へ着いた。石川八左衛門と渡邊図書が京都から来て、「大阪方が戦いを始めたら、家康は(秀忠の到着を待たずに)抗戦するつもりである」と伝えた。そこで秀忠は各隊から7,8人を選び出し、身軽な装備で伴わせ、「進軍を急ぐように、また安藤対馬守重信は家来を連れて自分たちに続くように」と命じたという。

28日 大阪城から脱出して来た兵を捕まえて尋問すると、淀殿は鎧兜を来て侍女2,3人と城内を巡視していること、また集まった兵は総勢5,6万人、糧米は20万石、大小の火器弾薬、砂糖や鹽、味噌、薪など、何も不自由はないことが分った。(*『当代記』も同じ)

一昨日後藤庄三郎が家康に、「池田武蔵守、浅野但馬守、鍋島信濃守は、今年江戸城の城壁の工事を担当してそのまま戦に出て来たので、資金などが不足している」と密かに告げた。そこで家康は今度江戸城の建設に関与した大小名に分け隔てなく、白銀200貫を貸出したので、皆が喜んだ。

〇藤堂高虎は、甲斐庄喜右衛門正房を道案内にして、河内の敵地を攻め獲りながら小山に陣を張った。ここ譽田の辺りは、徳川方の三好備中守の領地で、住民が寄せ手を恐れて山林に避難して隠れていた。高虎の雑兵が彼らを襲った。備中守がそれを家康に訴えた結果、裁定が下って、高虎はその雑卒を殺して乱暴を規制した。しかし、この騒ぎによる放火で、町や村のおおかたが焼失してしまった。ただ、道明寺は以前家康から放火や乱暴を禁止する保証を得ていたので、焼失せずに済んだ。

秀忠は掛川の城へ着いた。

〇大阪城は、その昔一向宗の本願寺光佐聖人が立てこもり、信長の猛攻を拒んで負けることのなかった城である。この地の艮(*うしとら:東北)は野田、野江、乾(*北西)は福島、浦江、坤(*ひつじさる:西南)は寺島、三軒茶屋(*天下茶屋?)、巽(*東南)は猪飼野、小橋から登りになって、遥かに高い場所築かれた、自然の名城である。

信長の死後、天正11年から秀吉が居城として、城の造りの凄さは前代未聞である。巨石で城壁とし、深さ20間幅の深い壕が囲むので、人は怯んでしまう。天守はそびえ立ち、櫓は雲のように帯になっている。これを攻め落とすのは悪魔と云えどもとてもできそうもない。

全体の構造は、西は高麗橋を追手として、此川筋(いわゆる東堀)があり、北は天満橋から備前島なで天満川を使い、これに沿って芝の土居(*堤)が築かれている。塀の上には櫓が作られ、この川の水は清くて(*浅くて?)防御にはならないので、多くの杭を打って堤をつくり、水を満々と蓄えている。東は玉造から猫間川まで2町あって、堀を設けて城壁が築かれている。南は天王寺の方に向って平地なので守りが薄いというので、生玉から玉造までわたって深い空堀を作り、高さ一丈の掘りに8寸の角材で補強し、更に敵が乗り越えないように板4枚の矢切をつくり、乾堀の中ほどには土手があって、そこには柵を設け、しかも向こう岸下と堀際にも柵が設けられていた。木材は全て栗の木で作られていた。

大野治長は、町の倉庫を壊して10間ごとに櫓を作り、全体の郭長さは3里ほどあり、隅々には櫓があり、枡形には1間あたり火砲10挺を据えた。

眞田左衛門佐幸村は、自分の名を後世に残そうと天王寺の表に1つの郭を設けた。その形は最初三日月に似ていた。城からは40間ほど離れて外堀に接し、東西長く南北は短く、南側が敵に向かい、北は城の掘りまであった。午未(*南南西)から急襲された時には、東西の口から出て挟み撃ちにしようと設計されていた。これを眞田丸と自ら呼んでいた。彼は他の隊とは別にここを護っていた。

ここから内側の城門の東側60間は、京極備前守、8町目の枡形門は石川肥後守、そこから西側の掘りの方は仙石宗也、城の西の高麗橋堀の内側、南方8町目黒門の内側は、商家を残して商売が普段通り行われていた。

玉造口の枡形は郡主馬、南長屋と櫓は中島式部少輔、西長屋は野々村伊予守、京橋口枡形は眞田豊後守、水の手櫓は堀田図書助、青屋口枡形櫓には伊東丹後守、二の丸大手口は枡形には青木民部少輔が備えた。

外構の西は海で、城の周りには川が帯状に取り囲んでいる。北は野田、福島、鷺島あたり、東の鷸(*しぎ)野、今市は深い田や沼があった。その上、巽から艮には猫間川や平野川が流れ、大和川や木津川のせき止めると信畿野、今市から鷺島まですべてとなって、深さはほとんど1,2丈となり、船でなければ進めない。それほどの難しい天険の要地である。そんなところに、西川口寺島の南の島に向って三軒屋の端に沢山城を築いて、薄田隼人兼相が立てこもった。この地は信長の時代、大阪本願寺門跡が籠城していて、渡邊の癩人が本願寺方として立てこもった砦である。当時もたくさん住んでいた。その東の道頓堀との間の馬喰ヶ淵も砦として、その北に並んでいる阿波座、土佐座には商家が並び、前後左右に流れがあるので、ここも砦として堀や柵を設けた。(今の天満社神座の旅所は、馬喰ヶ淵である。当時の西仙波の地は今の中仙波だという)さらに、その続きとして、思案橋の西北に大野道犬の屋敷があり、濠や城壁を設けて丹間川の濠に入れ、300人ほどの兵で立て籠もっていた。

森豊前守勝永は、河原町筋に砦を構え守った。仙波や天満は広いが、島津などの西国の諸伯が秀吉方として入港すると、この地に兵を展開できるようにと、それらの地にも外郭が設けられた。

野田、福島、鷺島、蜆(*しじみ)川、中之島、北轉法院、南轉法院、九條島(*今の四貫島)などにも全て兵を配置した。更に渡邊元穢はえ多ヶ崎も砦として、野田、福島と連携した。(前に出て来たえたヶ城は別の場所である)、西南の川口には木村と渡邊の軍勢が数10隻の番船を配置して水口を封じた。また、河内の牧方に砦を築き、淀川の流れを濠に引き込んで防護を固め、大和筋は玉水か天神の森に砦を設けて、木津川を前にして防戦しようと城では相談した。また、敵が両方の砦に攻めてくれば、大阪から援軍を出して一挙に勝負を決しようと考えた。しかし、そうこうしている間に、藤堂と井伊が摂津の富田、高槻、芥川や河内の須奈、若江に進軍してきたので、それらの砦を築くことが間に合わず、また摂津と備前の両池田が急襲してくるという噂があったので、織田有楽、中村式部少輔、後藤又兵衛、明石掃部助は中之島に陣を張って、大和堤を掘った。(後の世田切である)そうして摂津茨田郡大久保、仁和寺、焼野辺りに水をあふれさせたので、家康も秀忠も奈良を回って田尻越えをすることになったという。

29日 秀忠の使いの永井信濃守尚政が、京都へ来て二条城を訪れた。

池田備後守途知政はこの春に法を破ったとして所領を没収されたが、有馬豊氏に従って難波の戦いに参加して罪を償おうとした。これを板倉勝重に伝えると、すぐに家康の許しが出て、有馬の部下になるように命じられた。

〇今夕、秀忠は吉田の城に着いた。

11月大

朔日 京都の商人が鉛千斤を二条城へ献じた。

先日伊奈筑後守を、京都から大阪への通路にある八幡、枚方、狭田の宮に行かせ、堤を築いて道幅を広くさせていたが、それが完成して軍勢が自由に通過できるようになった。すると大阪勢が根來の正徳院の300騎をつれて堤を破壊しに来た。家康はあらかじめ予想していて、枚方に駐屯していた伊勢と美濃の諸将から軽率を200人選んで、狭田の宮の近辺の堤に伏せて護らせていた。そして根來勢が来るのを待ち伏せ火砲で急襲すると、敵は大慌てで逃げ去った。そこを味方が追撃して首を6,7取った。それ以来敵がこの堤に攻めてくることはなかった。

〇今夕、秀忠は岡崎の城へ到着した。そこへ家康の書状が届き、「道を急ぐと兵が疲れて困るだろう。また隊列が途切れるときに軽はずみに叱らないようにせよ」と指示した。

〇『宇都宮家説』によれば、治部右衛門末房は、岡崎にいて、秀忠に大阪矢入の射法の直伝を使えた。その時、黒木弓1張、艾蓬の矢2本、帝射巻1軸、京極黄門手定家卿の小倉色紙5枚、蟹目貫1具を献上し、翌日岡崎を発って京都へ向かったという。

2日 秀忠は名古屋の城へ着いた。この城が完成してから初めて訪れたので、城を見て非常に喜んだという。

〇江戸で折井市左衛門昌勝が享年53歳で死去した。この人は甲府の巨摩郡武川の士の棟梁だった市左衛門次昌の子である。

3日 郷相雲客が二条城を訪れ家康に会った。

使い番の山城宮内少輔忠久、瀧川豊前守忠往、城和泉昌茂、鈴木又右衛門重量、横田甚右衛門尹松、眞田隠岐信尹、初鹿野傳右衛門昌備の7人を監軍として、先鋒の諸将に付けた。

〇松平下総守忠明の美濃の組は、明日陣を河内の飯森に進軍するように命じられた。

これは浅野但馬守長晟が今も紀州の和歌山を発ったという知らせがないので、皆が怪しんだからである。というのも、彼は小さい時から秀頼に近く、後に児扈従(*こじゅう)の頭となっていたが、昨年の秋に兄の幸長が亡くなり、今年家康に遺領の紀伊一円をもらったものの、豊臣家との付き合いを捨てがたく内通しているという噂があった。また、藤堂高虎もまだ摂津へ来ないことも巷で噂されたので、忠明は美濃組を進軍させて、高虎の様子を窺わせようというねらいであった。

高虎の方もそれを察して、道明寺の陣営を出陣させた。とくに先鋒の渡邊勘兵衛吉光、藤堂作右衛門高形、藤堂新七郎高治は、河内の小山から摂津の平野へ進むとき、ちょうど大阪城からは薄田隼人正兼相、山口左馬助などが糧米を奪うために平野に来ていた。彼等は非常に慌てて大阪城へ逃げ込んだ。そこで味方はすぐに平野の邑に入って、捨て置いた容器などを拾ってから、大仙陵まで来て駐屯し、すぐに本陣を進めるように勧めると、高虎はすぐに軍を進めて、大仙陵にきて駐屯した。(大仙陵は仁徳天皇陵である)

4日 松平下総守忠明の美濃組は陣を飯森へ移した。

〇夕暮れに、片桐市正且元は大阪近辺の地図を二条城へ持ってきた。家康は本多正純、成瀬、安藤、板倉重宗を呼んで地理を吟味した。そして中井大和に命じてその地図を修正させた。

〇秀忠は岐阜に着いた。

5日 大阪勢は天王寺に放火し、七堂伽藍が炎上した。藤堂高虎は大仙陵から軍を住吉へ移動させ、祠の北に野陣を設けた。

関ケ原の浪人、堀内安房守氏善の嫡子、新宮若狭氏弘と弟の堀内右衛門兵衛氏満は、本国の紀伊に蟄居して世の変化を伺っていたが、今度の戦が起きたのを幸いとして、紀伊から出て大阪城に籠った。彼は堺の港を焼払おうとして300程の兵で出て来た。

しかし、そのとき藤堂高虎勢が住吉に着陣したので、彼らに後続を断たれないために、堺にに行かずに引き返そうとした。彼らはもともと強い連中だから、藤堂の先隊の渡邊勘兵衛の前を挨拶もなく通り過ぎて城へ引き返した。流石の渡邊兵衛も霧が深くてこれに気付かず、ずっと後になって彼らの後を追ったが、追いつけず、どうしようもなかった。

そもそも高虎は譜代の諸将を差し於いて、今回先鋒を担当したので重臣たちがなかなかうんといわなかったという話もあるし、今回敵を逃がしてしまったとなると、きっと秀吉を慕っていて、大阪方へ通じているのではないかという疑惑を、どれほど受けるかわからない、その上今回の備えの不備を誹謗されると、責任を逃れようもないので、これはひとえに渡邊の油断のためだと憤慨した。このため主従関係がまずくなった。

ところで新宮氏弘は、秀頼の意向で左馬助行朝と改名し、右衛門兵衛氏満も大和と改めた。又浪人の行朝と塙團右衛門直之は誉ある士だったので、秀頼は非常に重用した。今回秀頼は彼等に騎士を10人ずつに軽率をつけて、最重要な斥候の役を命じたという。

〇福島正則の元老、福島丹波の嫡子の長門は、父に勧められて今回の戦いでは秀頼方に通じた。安芸から船で主従20人あまりが住吉に到着した。しかし、平砂で藤堂勢を秀頼方の兵を思って訳を話して大阪城の案内を申し出た。高虎の兵はこれ幸い、残らず討ち取れるとは幸先がよいと、その首を住吉の浜辺に晒した。

松平下総守の組の石川、遠藤、徳永、遠山などは、平野に駐屯し5カ所に番所を設けた。大阪の斥候3騎がやって来たので、石川主殿頭忠総の従士の都石三九郎が駆け出て1騎を討ち取り、残りの2騎は逃げた。この首は家康に献じられたが、これがこの戦での最初の首だと喜んだ。

秀忠は彦根城へ着いた。

〇堀正意の『難波戦記』には、大阪城中では東国勢はまだ来ないと油断していたが、藤堂が住吉に来て、伊勢勢もすこしずつ進軍し、美濃組も来ているという知らせに大慌てで、持ち場の割り振りをして防戦の備えをした。郡主馬艮列、速見甲斐守時之、眞田、後藤は協議して、藤堂の兵は多くないし徳川の本隊から離れた住吉にいるので、こちらが大勢で出て行って殲滅しようといった。しかし、織田有楽や大野兄弟は、すぐに戦うことを望まなかったので諸臣は黙ってしまい、藤堂らが城へ攻め寄せて来なかったのでホッとしたという。

〇播磨の太守、池田武蔵守利隆(兵は1万)は西宮から神崎に向かった。

弟の備前の国主の左衛門督忠継は、備中の国士を組織しての兵7千余り、もう1人の弟淡路の国主宮内少輔忠雄も摂津に来たが、兄の利隆が神崎まで来ているとことを知らせなかったために、忠継は兄を恨んで、浦江に着いてから、ただ1騎で神崎の陣へ駆けて来て兄に文句をいい、「これからは自分の隊が単独に何としても敵と戦う」と宣言して、すぐに軍を進め、神崎川の敵の番船を追い払った。

武蔵守は、家康の掟を守って従士の柳北半助に浅瀬を調べさせたが、歩いては渡れないと報告されたので船筏を組んで渡るように命じ、さっそくその準備を始めると、左衛門督忠継16歳は勇敢にも明日この川を渡りたいと思った。しかし、この隊の監軍は、「決して敵地に踏み込んではならない」と制止した。忠継は兄に後れをとっているので何としてもまず一番乗りをしなければと命令を無視して、夜明けを待ったという。

武徳編年集成 巻69 終(2017.6.7.)