巻70 慶長19年11月6日~18日

慶長19年(1614)

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6日 秀忠は、彦根の城を発って永原に着いた。

今朝、中井大和が家康へ「聖護院門主興意と園城寺の僧侶は、秀頼からの密告を受けて、家康に呪詛(*じゅそ、禍が起る)があるように、三井寺の本覚坊に訴えた」と報告した。家康は板倉勝重にすぐに調べるように命じた。

摂津の神崎では、滝田忠継は、泳ぎの達者な者にもぐって水深を調べさせ、明け方に兵を川端へよせ、自ら馬を水に入れて先に進んだので、従軍の備前勢はもちろんのこと、忠継に従う備中庭瀬の戸川肥後守達安、猿ヶ懸の花房志摩守正成、高松の花房助兵衛職之の子、五郎左衛門職則などがすぐに川に乗り入れ、70騎余りが1騎も流されずに渡り切った。それを見て川向うにいた大阪方の番兵は慌てて逃げたが、彼らを追撃して首を多く取った。その後、忠継は北の中之島の小和田に陣を敷き、野里を経て、南の中之島に向かおうとした。一方、武蔵守利隆を始めとした森美作守と有馬玄蕃頭は、神崎川の上の瀬から何とか川を渡った。

忠継らが決まりを無視して自分たちだけで先に攻め上ったことが、すぐに家康の耳に入った。しかし、家康は、忠継が若者にふさわしい働きだとかえって感心したという。

〇この日、松平下総守の美濃の勢力は、平野を発って進軍した。そこで家康は平野の警護を松平安房守信吉に命じ、信吉は当時和泉の岸和田の城を北条出羽守氏重に引き渡して、平野へ赴いた。ここは大阪からわずか2里ほどだった。木津川の舟留の警護は、溝口伊豆守宣政が命じられた。

〇ある話では、加藤左馬助は江戸に残された。その子の式部少輔明成は、伊予から船で神崎の上流に来て控えた。彼は家来の加賀山子左衛門を斥候としたが、彼は帰ってきて、「すぐに川を渡って駐屯した方がよい」と報告した。しかし、加藤家の功臣の河村権七と佃次郎兵衛一成は賛成しなかった。そして「この寒い夜に川を渡ると、兵は凍ってしまう。そこへ敵が寄せてくると手足が動きにくく負けてしまう。こちらで夜を明かして、明日の朝に渡った方がよい」といった。一同はこれに同意した。

しかし、加賀山は「自分は戦については熟知してはいないが、今宵に川を渡ってしまった方がよいと思う。どうしてかというと、この川の上流では、味方がもう渡ろうとして用意ができている。譬(*たとえ)踟蹰(*踟躇)する隊があっても、誰かが渡れば続いて皆が渡ってしまうだろう。諸軍が渡り切って明朝に戦いが始まってしまうと、自分たちは一戦も戦えないことになるかも知れない。そうなると、まず自分たちの武名が汚される。また遅れたことになるので、家康や秀忠に疑われてしまう。今回の戦は国家の危機によって立ち上がったわけだし、土地の奪い合いのようなケチな戦いとは訳が大いに違う。勝敗は問題ではなく、戦後のことを十分に考えなくてはならない。やはり、誰よりも先に戦うのが、もっとも重要なことではないか」といった。

それで河村も十分納得した。佃はしばらく思案した後、「あなたは若いが今の話は理にかなっている。自分には到底わからなかったことだ」と、皆はその夜のうちに川を渡って、北の中之島に駐屯した。世間ではこの話に「河村も佃も己は控えて、大義をもっぱらとした」と感心した。

当時世間はほとんど家康方に付いていて、大方は大阪へ出陣していた。しかし、諸候の中には秀吉によって出世できた者も多いので、家康に疑われることもないではない。したがって、戦いの勝ち負けではなく、どれほど先に心から望んで戦いに出たかが、重要となるわけである。大阪城は非常に堅固な城で、大軍をもってしても大した威力にはならないので、勝った負けたというのような小さな戦とは格が違うので、加賀山の考えは素晴らしいというべきである。

7日 家康は、和泉の平羣郡瀧田から国分越を経て近日中に大阪へ赴き、住吉に本陣を設ける事を全軍に通達した。

秀忠は近江の永原に着いて、後続の到着を待った。蜂須賀阿波守至鎮が近江から京都へ来て家康に拝謁した。家康は早速参陣したことに感謝した。

〇浅野但馬守長晟(*長政の子)は、領地の紀州を発って大阪へ向かった。和泉の吉野と紀州の北山筋で一揆が蜂起し、浅野右近が紀州の新宮の城から長晟といっしょに難波へ向かった。

留守番役の戸田六左衛門は、以前から新宮の城下に質人を納めて厳重に護らせていたが、一揆衆の隙を狙って、地下人とともに2千人ほどの軍勢で新宮川を渡り一揆を討ち破った。一揆の残党は芳野郡に逃げ込んだ。また、紀州の有田と日高の2郡にも一揆が起き、長晟は大阪へ向かう途中で、3千ほどの一揆衆を討ち破った。熊澤兵庫は一揆の頭を拿捕し、狩野主膳は1人で敵将の湊惣左衛門と知り合いだったので、彼の許しを得て、雑談をしているうちに隙を見て、湊を斬り殺したので、配下の200余りの一揆衆はすぐに逃亡した。長晟は、一揆を討ち破るのに時間を費やし、今日ようやく住吉の古妻の郷に到着して、藤堂に合流し堂々の陣を敷いた。そのため大阪城からは出撃することはできなくなった。

8日 池田武蔵守利隆は、1万ほどの兵で長柄川まで来て、前に弟の左衛門督忠継に神崎川で先を越され残念がったのを肝に銘じて、この川を渡り南の中之島に行こうとした。

城方は織田有楽、渡邊内蔵助、後藤又兵衛に7組も加わって、1万余りが天満に陣を敷いていたが、ちょうど南中之島を巡視中に、池田家の旗をみつけて川端に陣を敷いた。

家康は監軍の城和泉昌茂に、「備前播磨の軍勢が神崎川を渡るときのように、利隆が無理して長柄川を渡ろうとするようだと、お前は川の深さや戦場の地の利をよく考えて、兵を制御するように」とあらかじめ命じていた。敵が川向うにいるのを見て武蔵守は急いで川を渡ろうとしていたので、和泉守は「川は深くて険しい地形なので、敵の方が有利で、こちらは不利だから軽率に川を渡ってはならない。敵の動静をよく見てから船で渡った方がよい」といった。

利隆は「敵を見ながら進まないのは、勇気がないとみられる。すでに川を越える構えが出来ているのだからすぐ渡るべきである。勝てなければ敵陣で死ぬ覚悟だ。仮に自分の隊が全滅しても、吾軍が負けるとは限らん。利隆が生き延びて城を攻めても味方が勝てるとは限らん。早く川を渡って死に物狂いで戦うべきだ」となんども主張した。

昌茂は「家康の監使の言葉は、すなわち家康の言葉と同じじゃないのか? 命令を聴かないことは家康に逆らうことになるぞ」と大声で叫んだ。利隆は歯ぎしりしてとどまった。

阿部四郎五郎正之も傍に来て和泉に、「敵と味方の勢力は同じ程度だ。しかし、敵は烏合の衆で、単なる雇われで実戦を望まないはずだ。川を渡って攻撃するとあちらは敗北する」とと述べた。しかし和泉は「自分の父は城意庵と号して謙信や信玄に仕え、それぞれの下で活躍した武将だ。自分も織部正といって勝頼の時代大いに活躍した者だ。重要性の少ない戦いは本気にならず、受け流した後に本戦で勝つことを第一義として来た」と正之の話に応じなかった。

〇同日の夜、池田左衛門督忠継と戸川、花房などの備中勢は、長柄川の下の瀬は水深が深いので船橋を組んで渡ろうとすると、敵は夜に南中之島を棄てて、天満へ戻って守りを固めた。

〇敵がこの時天満を自ら焼払って引き下がったというのは、間違いで、敵が天満を棄てたのは11月の終わりであるのは確かである。

9日 池田左衛門督は、北中の島から南中之島へ移動した。また石川主殿頭と山陰道、豊後の国士は長良川や吹田川を渡って北の中之島に行き、池田武蔵守もそれに続いて舟橋を設けて、天満へ向かって渡ろうとしたが、城和泉はそれを制止した。

さて、利隆と忠継はもともと一枚岩ではなかった。利隆は中川瀬兵衛清秀の外孫で、彼の継母(家康の娘)はいつも利隆を嫌っていた。領地の播磨は、摂津の隣なので利隆は秀頼に内通していたので、神崎川や長柄川の越えるのを遅らせ、敵が南中之島を引き払ったときも、中の渡りを経て天満へ攻め込むことも躊躇したのだろう。そのような噂が巷に流れたので、利隆は危険を感じたという。城昌茂はそのとばっちりを受けて結局追放された。

10日 秀忠は永原を発った。尾張と遠州の両参議が大津の追分まで出迎えた。ここから醍醐山、山科まで皆が出迎え、人々はこぞって到着を祝した。午後に伏見の城へ着いた。伴の諸軍も伏見の近郊に着いた。本多正信が関東の政を段取りした後、後から江戸を発って今晩名古屋に着いた。(*『当代記」では12日となっている)

〇『宇都宮家説』によれば、秀忠の命令で、治部左衛門末房は、この日京都で大阪の敵を追撃するための艾逢射法を開始した。(12日まで続けた)

11日 秀忠は二条城を訪れ、家康が大阪攻めを自分が京都へ着くまで待ってくれた礼をいった。秀忠は本多上野守、安藤、成瀬、板倉らに指令を出して大阪出陣の期日を連絡し、午後伏見へ戻った。

大阪にて納屋宗薫は、茶道の達人なので友達の織田有楽に頼み込まれた結果、宗薫と嫡子の宗呑は拿捕を避けながら京都へ行き、宗薫は二条城を訪れ、家康に面会した。家康は迎い入れて茶を所望した。

また成瀬隼人正を大阪へ遣わせ、池田左衛門督、戸川肥後守達安、花房志摩守正成の一族が長柄川を越えて南中之島へ攻め込み、雑兵を討ち取って首を献じたことを褒めた。忠継の兄の利隆や西海の諸軍が遅れてまだ神崎近辺にいる理由を尋ねさせた。

当月朔日以来、今日まで3回、尾張の名護屋城に蓄えている白銀3千貫目が、二条城へ搬入された。

〇会津の蒲生忠郷の元老岡平兵衛重政は、数回忠郷の母の命令に従わなかったことが訴えられた。この母は家康の娘なので、重政の禄を取り上げるべきだという掟を、今日家康の老臣が奉書を送った。

〇尾陽参議中将義直は、伏見を発って綴喜郡木津まで進軍した。

〇大阪城中で新座の武将、長曽我部、森、眞田、仙石、明石、後藤などは、家康が天王寺に陣を張ったらすぐに攻め寄せて、一挙に勝敗を決しようとした。ところが大野治長と7組の隊長たちは首を横に振って「今度は天下の猛勢を向い撃って分け目になる戦いになるので、合戦の最初に劣勢になれば勝ち目はなくなるだろう。だから、此の堅固な城に全員で立て籠もって、敵を欺き火砲で毎日攻撃すれば、秀吉に恩のある者が裏切って勝を手に入れられる。危険な勝負に出るべきではない」といった。

しかし、新座の武将たちは怒って「戦いというものは、敵が油断しているところを不意打ちにして勝利を得るという例は多いので、国内の猛勢を受けて立つ時は、籠城することは自分で負けを選ぶようなものだ」と諫めた。しかし、結局許されなかった。

12日 家康は天台と真言の僧侶が京都にはいるが、その中の優秀なものを集めて傳長老に高野の僧侶に清浄行者不人涅槃破戒比不堕地獄という、圓覚経の文をテーマに論議させてそれを聴いた。その時、佐竹義宣が家康に会いに来たと、近臣が伝えた。家康は論議中にそんなことを伝えに来るものではないと怒った。

論議が終わってから、家康は僧侶たちに対して、「大阪へ出撃するが、すぐに帰ってくるので続きを聴きたい」と話した。その後に家康は佐竹に会ったが、何事もなかったように全然困った顔もしなかった。それから3日経って、大阪にそのことが伝わり、武将たちは皆「家康の凄さに感嘆し、秀頼に運はないなあ」と案じた。

〇この日の夕暮れ、南光坊天海と金地院傳長老が家康に会い、明日13日辛酉南方向は凶の日であると進言すると、家康は明日の出発を延期し、これを伏見城へ知らせた。

13日 難波から監軍の横田甚右衛門と山城宮内少輔が帰ってきて、先鋒の諸将は大阪城から4,5里離れて駐屯し、遠巻きにしていると報告した。家康は、諸将は秀忠から命令が下りる前に戦いを始めないように指令せよと命じた。

14日 本多佐渡守は関東に法制を発布してから京都へ来て家康に拝謁した。

15日 早朝、家康は二条城を発った。

〇ある話では、佐々木六角大膳義高(22歳、後の大膳亮)は、家康の出発の盃の酌をした。この人は先祖の盛網が、鎌倉右大将家の出陣に酌をしてたから先鋒を務めたという。(この義高は承禮の二男兵部少輔義定の二男である)

〇二条城の城門と丹波口の警護は、菅屋左衛門佐範貞だった。

〇家康は午後山城の綴喜郡木津に到着した。その時奴隷の中に不審な者が見つかった。家康は傳馬を出すときに、その奴隷を捕えて取り調べたが、どういう訳かそのことを極秘として、「木津はあまり有利ではない」と、湯漬けを食べたのち、家来15騎とすぐに和泉の奈良へ行き、中坊左近時祐の家を陣とした。しかし、他の家来は、このことを知らされなかった。その後、木津の庄官の家が狭いので、奈良へ移ったと知らされたが、馬に付ける旗や長柄などは、夜陰に紛れて奈良へ運ばれなかった。 しかし、木津に家康の陣所があるようにみせかけるために、駄馬や雑兵は木津にすべて残した。

〇同日早朝、秀忠は伏見の城を出馬して、河内の交野郡枚方に着いた。知り合いの筑阿彌の茶亭を本陣とし、武器や兵士を固めて後陣に置いた。

松平周防守と岡部内膳正は、山陰道の兵を率いて摂津へ入り、吹田川を渡って西成郡北中の島に着いた。

山口修理亮重政は、大久保忠隣の連座で改易されて武蔵の越生の龍穏寺で蟄居していたが、土井利勝へ手紙を送って、「自分は偽って大阪に籠城して、すきを狙って秀頼を暗殺し、家康の恩に報いたいと思った。そのため妻子を質として、江戸へ残し箱根まで来たが、関所で捕まった。なんとか許してもらって自分の考えを実現したい」と伝えた。利勝はすぐに家康へ伝えると、これを止めるように利勝と本多正信に命じ返書を送った。

16日 雨 家康の朝食を中坊左近が献じた。食後に観世左近太夫の合屬(*合同?)の猿楽、延命喜四郎橡頰を呼んで、謡曲を演じさせた。昼前に出発して4里を経て、法隆寺の阿彌陀院に着いた。

秀忠は、枚方から河内の河内郡平岡の神官の家まで移動した。枚方は美濃の国士の大島治右衛門光成、同茂兵衛光政、同久左衛門義俊が守った。

秀忠は、永井信濃守尚政を使節として、家康の法隆寺の陣所へ行かせた。

〇水軍向井将監忠勝が伝法院へ着岸した。最初将監は、秀忠の命によって相模の三崎に父忠安にいてもらって、自分だけで出港しようとしたが、その日は暴風で視界が悪く、船を進ませなかった。そこで忠勝と一緒に出た残りの水軍は三崎に戻り、快晴を待って、船を出そうと相談した。しかし、将監は受け入れなかったが、やはり風は収まらなかったので、船頭は皆岬に帰った。

しかし、将監の乗る1隻と、従者の乗るもう1隻だけは無理に出港したが、夜になって風が益々激しくなり、乗組員は皆疲れ果てながらも、3日目に伊勢の亀島に着いた。しかし、従者の船は行方不明となった。将監と一緒に来た従士は皆疲れ、力が尽きてとうとう病気になり、治療してから後に島を出港した。その他の水軍も連日風波が高く、今日になってもまだ大阪に着かなかったという。

17日 家康は法隆寺を発った。ここで諸軍は鎧をつけた。本来ならここから亀ヶ瀬越をするところだが、「行軍では駄馬一匹といえどもこの道を通ってはならない」という聖徳太子の遺訓がいまでも石碑にあるので、関屋越から住吉へ移動した。藤堂高虎は、住吉の北の陣から天王寺へ移動し、彼の陣の跡には尾陽義直が陣を張った。岡山と茶臼山の間の蘆谷口には、遠江頼宣が駐屯した。高虎が住吉の家康の陣へ来てみると、家来たちは皆、武田家の楽の堂(*額の堂)を使っていた。

家康は加賀利常を呼んで、高虎と共に大阪の地形を地図で吟味し、それを利常に教えた。秀忠は河内の河内郡平岡から、摂津丹北郡平野で陣を敷いた。諸道具奉行の小野次郎右衛門忠明は剣術の達人で、諸国を回ってきた戦いのプロで、「楽の堂を使わないとまずいことが起きる」と先に本多佐渡守に進言したので、正信も了解して、家来たちは全て楽の堂を用いさせた。

〇志摩の九鬼長門守守隆、尾張師崎の千賀與八郎信親、小濵民部光隆などの水軍、今日到着し、向井と共に伝法院口に軍船団を進めた。この他、南海や中国の諸侯の水軍も、野田や福島に続いて到着し、新家居村を乗っ取ろうとした。大阪の番船は火砲を発して抗戦した。しかし、新家居は、芦原の入り江で船を寄せにくく、敵が狙撃してくるのでうまく行かなかった。

〇大野道犬は、侍4,5人、軽率2,30人を密かに船に乗せて、蘆島や新家居の辺りに潜ませ、寄せ手の水軍の様子を探らせていた。2,3日経って後の話、夜中にぐっすり寝てしまったところを、西方の番船が見つけ、そっと忍び寄って綱を切って、川下の味方の船の中に引き込み、全員を討ち取った。

〇奥州の伊達と上杉、出羽の佐竹は、すでに伏見に着いていたが、後軍の来るのを待っていたのか大阪にはまだ着いていなかった。

〇『南部家傳』によれば、信濃守利直は畿内のある場所で、家康が大阪に向かう道中に会おうと道端で待っていた。彼は諏訪部惣右衛門定吉の取次で、家康に会うことができた。家康はすでに自軍の構成は決まった後なので、後軍に加わるように命じた。

18日 家康と秀忠は、摂津の東成郡茶摩山(*茶臼山)に登って攻め口を遥かに眺めた。藤堂和泉守は砲卒を山の下に備えた。(*『当代記』によれば、この近辺に店屋がなかったが、家康らが来たので大勢の物売りが集まったとある)

最近大須賀家を離れた横須賀衆の棟梁、久世三四郎廣宣は、板部三十郎廣勝に呼ばれて住吉で家康を拝謁に面会し、すぐに御家人とされた。

さて、大阪城はなかなかの名城なので、正面から縦に攻めて郭を破っても、後が続けられないので、家康はあちらこちらに対抗する砦を築いて、その辺で放鷹をした。

一方、秀忠は「一旦伏見へ戻って、来年の春にもう一度来ようか」と相談したが、今すでに井伊、藤堂、越前の大勢力が、天王寺から敵の黒門へ迫っているし、それ以外の軍も城に数町の所まできているので、総攻撃して外郭を撃破することに決めた。そこで、天満川の仙波筋の水を抜いて、歩いて渡れるようにするために、淀川の流れを新庄村から鳥飼の辺りへ掘で逃がし、新庄の端で北中の島の川口をせき止めて、淀川の流れを北へ回し、天満川の今橋の水を抜いて、土嚢や蘆を投げ入れて城郭を攻め破ろうと、摂津と河内から土嚢20万個、蘆の類を急いで運んでくるように催促した。

〇陸奥守政宗の使者の山岡志摩重永が家康に会いに来て、4、5日中に政宗は着陣するので、場所を指示してほしいと連絡した。家康は木津と今宮の間へ来るように指示した。

豊島主膳信満、加々爪甚十郎直澄、日下部五郎八重好、山上彌四郎、田上右京秀行、村瀬右衛門は臨時に使い番に加えられたが、まだ伍の字の指し物の許可は出なかった。午後家康と秀忠は茶磨山(*茶臼山)から戻った。

〇川口と寺島の南の崎に向って、三軒屋の端の穢多ヶ城へ向かうために小妻の郷に陣取っていた蜂須賀阿波守の船大将、森甚五兵衛は、川から、また稲田修理宗祐と中村右近は陸地から、この城の様子を見届け、阿波守が住吉へきて、本多正純にこの城を攻め落としたいと申し出た。

家康は、この城は馬食ヶ淵、阿波座、土佐堀の4か所の砦と拮抗している。しかし、城壁が粗雑なので、こちらの兵の損害を避けるために、浅野と池田と相談して合同して落とすべきだといった。そこで蜂須賀はすぐに両家に連絡すると、それぞれはスパイにこの城を偵察させた。浅野の使節は「この城は狭いので大勢で行くべきではない、蜂須賀だけで十分攻められる」といったので、浅野は兵を出さなかった。

蜂須賀は今朝水軍の森甚五兵衛父子に、明石丹波全延の20艘の番船を追い払させ、蘆島の敵を破った。陸からは稲田、中村、樋口内蔵助、森の水軍とともに、穢多ヶ崎の砦を陥落させ、残党を仙波へ追い込んだ。

家康はすぐに横田甚右衛門、眞田隠岐守、安藤治右衛門、本多藤四郎正盛に、蜂須賀の働きを褒めさせ、先手の樋口と山田織部の命令が下り次第、水軍森甚五左衛門父子の軍功を聞き届けて、兵を引き取るように命じた。しかし、阿波守は同意せず、中村右近に穢多ヶ城を守らせた。

〇前述のように、穢多ヶ城と穢多ヶ崎は、それぞれ別の場所で、穢多ヶ崎の砦は渡邊という場所にあり、野田と福島に続く地にあり、共に後日攻め落とされた。

〇家来の水軍は、新家居村の邑の敵と交戦して勝利した。そして野田、福島、新家居の3カ所の間に駐屯した。

その夜明け九鬼の従軍が、裸になって脇差を口にくわえて川を泳ぎ、大野修理亮があらかじめ大安宅丸と大船、数10艘を停泊して衛兵を配置しているところまで行って、大安宅丸に乗り移ると、向井、小濱、千賀も負けじと胴を補強した軍艦を進めて、狭間から火砲を連射しながら敵戦に接近し、取楫を目がけて逆櫓で押し回し、胴壁の武者走りを急に開けて、鈎を敵船に掛けて乗り込んで慌てる敵を切り伏せた。すると敵の残党は皆水に飛び込んで逃亡した。

向井将監忠勝は、1人で敵の番戦に乗り移ると、九鬼の従士が自分の船に揚げて置いた旗をその敵の番船に投げ入れて、九鬼長門守が一番乗りをしたといった。向井は怒って「一番乗りは忠勝だ、誰かそういってやれ」というと、九鬼の士は笑って、「あんたは関東の軍船の掟を知らんのか、敵の船を乗っ取った時、勝鬨を上げたのは長門守の家来だけだった。九鬼家の旗を敵船に立てた時、あんたが1人来て1番乗りだといっても理屈に会わん。九鬼勢が多く船に乗り移ったので敵が逃げた。その後で1人で来て一番乗りはないだろう」といった。向井は怒って刀を抜くと、小濵と千賀が来て、長門の兵が来ても守隆が来ない限り、この船は向井に渡すべきものだといった。長門守はあとでこれを聴いて、「船の戦いではそれぞれが指揮に従うべきもので、功を戦うべきではない」といって、すぐに船を向井に与えた。

〇この日、味方の兵は和泉の堺に入った。騒乱が起きているという話があるので、西尾豊後守光教は警護を命じられた。

武徳編年集成 巻70 終(2017.6.7.)