巻72 慶長19年11月27日~29日

慶長19年(1614

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27日 片桐市正兄弟が向かった備前島は、青屋口からそう遠くない場所である。彼等は大阪城内をよく知っているので、秀忠は砲術の師範の稲富伊賀祐直入道一夢の弟の半左衛門と、同姓の喜太夫直次の弟子の宮内に、国友張3貫目の大砲を撃たせたが、弾は城には届かなかった。そこで井上外記正次を呼んで撃たせると、今度は城の中へ届いて、城壁が壊れた。敵兵はそれ以来今福へは出て来なくなった。

稲富平左衛門は、尾陽忠吉の家来で、かねがね義直にも砲術を教えてきた人で、その腕前は有名だった。喜太夫もまたその術に通じていた。しかし、今回は井上に劣るというので、何か特別の理由(*例えば秀頼に通じているのではないか?というような理由)があるのではないかと、疑義をもたれた。

使い番の阿部四郎五郎正之は、斥候として北中の島へ数回出向き様子を平野へ報告した。すると、本多正信は「北南の中の島や新家居、曽根崎あたりに、天満に向けた城を設ける場所はあるか」と尋ねた。正之は土地の様子を詳しく説明した。

そこで正信は、秀忠の前で大きな地図を広げて正之の話を報した。秀忠は「昨日聴いた家康の考えと、お前の云うことは同じだ」と感心し、また寒い時期で寄せ手にけが人も多いので、死んでしまっては気の毒だ。そこに城を築いて自分たちは一旦京都と伏見へ戻って、来年の春、暖かくなってから大阪城を攻めるのがよいと安藤対馬守信重を呼び、明日正之の案内で北中の島へ行き、砦の適地を調べてくるように命じた。

また、正之をもう一度呼んで、「家康のいう適地と、自分の思う場所が違ったら、お前が適地を決めよ」と指示した。しかし正之は「若い自分に重要なことを見極めるのは憚るので、対馬守と一緒に行って決めたい」と断った。しかし、許してもらえず、明日住吉へ行って、秀忠が正之に砦の土地を調査させると、家康に報告するように命じられた。

〇馬食ヶ淵辺りや阿波座には、もともと阿波の商人が定住していた。しかし、今回不本意ながら大阪城内に含まれてしまったので、今更逃げるわけにもいかなくなった。彼等は寄せ手の阿波の国主、蜂須賀至鎮の許へ来て、この辺の砦の兵は少ないので衛が甘いと告げた。そこで蜂須賀は婿の池田宮内少輔の兵と合同して、馬食ヶ淵と阿波座と土佐座の砦は水路の狭くなった要地なので、ここを落とそうとした。しかし、先日占領した蘆島へは、馬食ヶ淵から時々兵が出て来て、蘆の中に据えた大砲を撃ってくるので、なかなか思うように行かなかった。そこで蘆島へ使いを遣って、敵を追い出させるように秀忠と家康に訴えた。

藤田能登守信吉は監軍として馬食ヶ淵などを巡視し、「馬食ヶ淵は周囲が10町、3町四方である。そこには薄田隼人正が守っていて、兵力は少なく見積もって2千800、多くても3千600程度にすぎない。自分は薄田には前に時々会っていたが、彼はとても強い野人である。刀の柄(*つか)は擦り切れていても目釘がしっかりしておれば事足り、鞘はあちらこちらが痛んでいても刃が切れればよいというタイプの人で、彼にかかれば、相手を斬り殺しても棒で殴り殺しても勝ったことにはかわらない、という人である。だから彼の部隊の旗竿が曲がっていても、槍が腑揃いでも油断しないことが重要な相手である。ところが今度の戦いでは、旗をきちんと挙げて砦を整備している。これは敵を恐れている証拠だから、たぶん本人は城へ逃げるだろう。そこを本多出雲守が部下の眞田、秋田、仙石、松下、新庄、それに浅野采女の兵が330騎、雑兵、人夫を除いて5千いるので、これで一気に砦を落とそう」と請け負った。

千賀孫兵衛重親もまた見回って、住吉に戻って「穢多村の近辺の6か所に舟橋を架けると往来が楽になる」と述べた。家康は、永井右近太夫直勝、水野日向守勝成に、穢多ヶ城から新家居までの通路をはっきりさせるように命じた。水野の部下掘丹後守は、自分も一緒に3人、で見回って帰り、その道筋の様子や、その辺りの川の深さ、堤防など、特に博労ヶ淵際の堤が非常に高く、井櫓があることを報告した。

山岡主計頭景以も帰ってきて、「野田福島の敵は7,8千だ」と報告した。家康は明日100騎あまりとともに巡視するので、直勝と勝成を行かせ、「馬食ヶ淵の砦の川端に兵を備えて、大銃によってその櫓を壊せ」と命じた。そして、2人に掘丹波守と共に川端に陣を設けて、「勝成は砦の敵が今夜川を越えてくれば、明日、味方が戦場へ出てきにくいだろうから、勝成が陣を準備している間に、直勝は住吉に行って秀忠に連絡するように」と指示した。

堀丹波守は勝成と一緒に居たいといったが、勝成は許さなかった。そこで勝成は直勝と共に住吉に行って以上を報告した。蜂須賀の陸軍の大将の中村右近は、「住吉から永井と水野が来て陣を張るのであれば、明日の朝は必ず勝成らが馬食ヶ淵の砦を抜くだろうから、抜けがけは出来ない」といって、今夜のうちに馬食ヶ淵の前の堤に陣を張った。

〇浅野但馬守長晟は、この頃今宮にいたが、どうも積極的に戦う姿勢が見られなかった。そこでひょっとして大阪城へ通じているのではないかと噂された。そこで家康は木津の今宮の間に陣を張っていた陸奥政宗を浅野の後陣として、仙波と木津の間へ陣を移し、鐘木橋へ行くように指示した。政宗はすぐに陣を移しスパイを放って、仙波の策を調べさせ家康に報告した。ある時政宗は、大阪城害を視回っていたら火砲に撃たれ馬上で身を縮めた。彼はちょっとばつが悪かったので、今度は歩いて堀の際まで来ると、城からは火砲が激しく撃たれた。しかし彼は全然動じず、しばらく堀の底をみてから帰って来たという。

28日 家康の参陣を見舞うために、勅使の廣橋兼勝と西三條實條がくるというので、住吉からは板倉内膳正、平野からは阿部備中守が小濵光隆の船をまわして出迎えた。

〇諸軍への糧米を増やして配給した。おおよそ30万人分で、一日あたり2千500石となる。また遠国から参陣している勢力にはその1.5倍を支給した。

〇先に秀頼が江戸の福島左衛門への使いとして送った雨森三右衛門と、蒲生下野守へ送った岩瀬長兵衛が、今日無事に大阪まで戻ってきたが、蓮華、寺村、関長門守一政の3人に捕えられた。しかし、雨森と岩瀬は奮戦して3人を斬り殺し、自分は鼻を削られたままで城中へ戻ってきた。秀頼は大感激で秀吉が残した金札の鎧をそれぞれに与えた。

〇家康が野田と福島を巡視する予定だったので、昨日から砲卒300人を現地へ派遣していたが、今日勅使が着くというので巡視を中止し、本多正純と成瀬、安藤を代理で行かせた。

戦況は、前に永井直勝と水野勝成が見て来た様子と大差なかったが、「蘆島は多勢を配置できないので、少数の譜代勢で守らせると危険だ」と報告した。その時、石川主殿頭忠総は「逼塞(*ひっそく)されていたところを許されて出陣出来た恩に報いるために、自分が蘆島へ行って守りたい」と秀忠と家康に申し出たので、永井直勝がすぐにそのことを報告すると、家康は感心してそれを許した。

29日 石川主殿頭忠総は2千200人の兵を率いて蘆島で備えた。この場所は川と海に接した潮が満ちてくる湿地帯なので、少し高い場所に本陣を置いて、芦を刈り取って、兵は足を水に浸して終夜馬食ヶ淵に火砲を撃ち続けた。その結果、敵はむやみには蘆島へ攻めてこなかった。

池田宮内少輔の家来の北川久太夫は、ただ1人小舟に乗って馬食ヶ淵を監察していると、砦の中かそれを見つけて火砲を浴びせて来たので身を沈めていた。そうこうしていると潮が引いて船が動けなくなった。そこで彼は身をかがめながら、腰から弾丸を10個ばかり取り出して、砦から火砲が発せられるたびに川の中へ投げ入れた。すると敵は弾がどれも川の中に落ちていると思って、火砲を少し上に向けて撃つようになった。お陰でどの弾丸も船の上を通過するので、北川は潮が満ちてくるのを待ってなんなく漕ぎ帰ったという。

〇この日、薩摩の少将家久の使者の伊集院半右衛門が住吉へ来た。去る8月下旬に大阪は川北四郎左衛門を薩摩へ派遣し、正宗の脇差を贈って、家久がすぐに秀頼の命令で渡海し、戦いに参加するようにと連絡した。

家久は大野兄弟などに手紙を書いて、「あの関ヶ原の戦いでは、父の兵庫守義弘は豊臣の命に従って石田方についた。これはひとえに祖父の義久入道龍伯が、家康と手を組まなかったためである。このため家が滅びるところだったが、家康に助けてもらって滅ばずに済んだ。当時父は秀吉の命令を守って伏見や関ヶ原で戦ったが、自分は今度は家康に世話になってきた温情に感謝する意味で、1万の兵を万一のために備えたい」と述べて脇差を返し、船を出して近く大阪に到着すると、家康に報告した。

〇ある話では、薩摩へ川北が向かうについて、薩摩の家臣たちがいろいろ協議したとき、「秀頼から離れるのはまずいよ」とか「関ヶ原の後、家康に助けられたのだから背けないよ」とか、「川北と一緒に駿河からスパイがきて、薩摩の意思を探りに来るかもしれない。だからその様子をよく見てから対応しようよ」とか、色々な意見が出てすぐには結論が出なかった。

さて、義久入道道龍伯の養子に兵庫頭義弘入道維新という人がいて、関ケ原の戦いの頃には大阪にいて三成についていた。そのために戦後彼は龍伯と絶縁して京都に住んでいた。彼はこの時鹿児島を訪れたが龍伯は会わなかった。

ところがこの一件は島津にとっては存亡にかかわることなので、龍伯は人を通じて兵庫守入道へ「関ヶ原ではあなたは秀頼のために尽くした。だから家康に罰せられるはずだったが助けてもらって家が滅ぼされずに済んだ。今はそれに報いるときではないか。この考えの筋ははっきりしているので、今どうのこうのといっている場合ではない。早く家久に難波へ渡らせて、家康に尽くすようにいってくれ」と伝えた。維新は何もいわずに承知したので、薩摩の家臣たちもみな龍伯の考えに従った。

〇福島備後守の駐屯地にきた秀頼の使者は、10本の指を落とされ追い返された。使者の持っていた印章は家康へ渡された。しかし、福島父子は、大阪城方に通じていて前にも糧米を秀頼に差し入れていたという噂が陣内にしきりだった。そこで備後守は城方に頼んで、使いを出させその指を斬って下心のないことをデモしたのだという。

〇宇都宮家説によれば、治部左衛門末房は、浪人578人が家康陣営にきたと報告すると、家康は700人分の月給を一日から支給し、秀忠は末房の伝承している弓の儀式を、大阪城へ向かって行ったという。

〇島津など九州の諸侯の大勢力が、秀頼の策略で大阪へやってくるという噂が巷に流れた。家康は使い番の一族を呼んで「摂津の木津から和泉の堺の間に、大きな船が着く場所があるか調べよ」と指示した。

皆が席を離れようとしたとき、「おまえたちは船が着く場所をどのように見つけるのかわかっているか」と尋ねた。しかし、それぞれが黙っていたのでムッと来て「船を着ける磯を見つける方法がある。入り江や港でない浜辺では船を着けられない。干潟では潮が引けば船が動けなくなって着岸できない。また急に船を出すこともできない。また港でも5間ほど岸を離れてしまえば船を止めることができない。入り江や渚の深さや砂、石、泥の様子なども十分周知しないと、どこが適地かを見分けることなど出来ない」とこまかく指導した。そして秀忠の使いも一緒に行くように命じられた。しかし、秀忠の使者が2日ほど待っても来なかったので、家康の使者だけが見回って帰ってきて、「木津から堺までの間には船を着けられる場所はない」と報告した。家康は「秀忠の使者も連れて行ったか」と尋ねた。「どういうわけか秀忠の使いの者が来ず、道中でも会わなかった」と答えた。家康は「若い奴はこういうことは、一緒に行って習得しなくてはならんので指示したのに来ないとは不届きだ」と怒ったという。

〇昨日 松平周防守と岡部内膳正の組、山陽道の勢が長柄川を渡って、天満の川辺に進軍して前線を構築したという。

鹽町通に向かう惣構(*城の外構)西南の角櫓へ、藤堂和泉守は命を受けて大銃を発して、城兵を脅かした。

福島備後守正勝と毛利長門守秀就の兵を使って、春日井堤を築切る(*堤を切きって濠の水を抜く? 堤に堤防を築いて水をせきとめて、濠の水を抜く?)ように松平主殿頭忠利と片桐兄弟に命じた。これは先日伊奈筑後守忠政にやらせたが、今まだできていなかったからで、今日忠政を呼んで叱責し、彼の代わりに命じたからである。

〇石川主殿頭忠総は、蘆島の洲崎まで進軍すると、馬食ヶ淵の井櫓から薄田の兵が火砲を雨のように撃ってきた。石川が実父から受け継いだ金の蝶の指し物にも弾丸が7発当たり、従士が多数死傷した。馬印を持った者も胸を撃ち抜かれ死亡した。

忠総の伯父の大久保権右衛門忠為は、三河以来の武将だが、当時彼は忠総の後見としてしきりに止めたにも拘わらず、忠総は彼の忠告を聴かず、馬食ヶ淵を急襲して抜こうとした。ところが潮が満ちてきて水が深くなり、馬は住吉に残してきたので渡りようがなくなった。そのとき焼け残った小舟が流れて来たので、石川の家来の平手市之亟、中黒兵衛、神田九兵衛、大河内木工右衛門、坂部輿五左衛門、鹽屋源五郎、浅井佐次右衛門、坪井七郎兵衛がこの船に取りついて槍を棹にして砦に一番乗りした。続いて幾艘かの船が流れて来たので、大久保忠為らもこれで渡った。

丁度その時、九鬼氏が船を貸してくれたので忠総は喜んでこれに乗って檄を飛ばして砦に乗込んだ。敵方は油断していたので、大慌てで右往左往して逃げるところを、石川は一番に本町の北側の上馬食が淵を乗っ取り、土佐座へ逃げる敵を多数追撃した。又、本町から南の馬食が淵へは、陸側から蜂須賀家の中村右近、裏側からは同家の舟大将の森甚五兵衛とその子の甚太夫や同藤兵衛などが攻め込んだ。

石川勢に先を越されて腹を立てた中村右近は、河に飛び込んだが水が深くて足が立たず、冑脱ぎ捨て槍を浮きにして泳いで砦の塀に取りついた。

その頃甚五兵衛父子はしきりに指図して、砦に船を着けて攻め入り、廣田嘉兵衛と森長左衛門は首を取った。至鎮の婿の池田宮内少輔の家来の箕浦右近は、敵の番船を乗っ取り、家臣の横川治太夫が一番に砦に乗込み、塀の裏で大野主馬の組の小田四郎右衛門と森甚五兵衛が槍で対戦して、甚五兵衛が敵の槍を払い落とすと、小川は「戦いはここだけではない本城で力を尽くす」といって撤退した。森は「もどれもどれ」と叫ぶと、阿部右衛門は立ち止まって「本城のことを忘れて砦の小競り合いなんかに関わりたくないわ」といって静かに撤退した。これは中々勇気のいることである。

その他の敵は敗北した。平子主膳定詮を横川治太夫が討ち取った。平子の息子の茂兵衛も戦死した。

この地は乾に大河が流れ、西は蘆島、南北に堀があり、東西の虎の口として薄田隼人兼相という強力な武将が頭となって6,700の兵で守っていたが、今夜薄田は密かに仙波で遊んで、従軍は皆油断して甲冑を付けているものも少なかった。それで石川と蜂須賀によって上下の馬食ヶ淵の砦がたちまち落とされ、薄田は弱虫の汚名を得た。そうして夜になって蜂須賀は阿波座へ、石川は土佐座に乗り入れ、とうとう両方の砦を陥落させた。

〇池田左衛門督忠継は、天野兵庫と佐布利九之丞に蜆江の土地の様子を調べさせると、左右が沼で前方が狭く後ろが広がっている場所なので危険だと報告した。そこで丸山豊後と田井伊豆、渡瀬淡路も行かせると帰ってきて「忠継は敵が襲ってくることを望んでいる。ここは出て来た敵を防戦するには便利なところだ。こちらが奇兵を出して敵を誘き出し、細長く伸びたところでこちらの本隊が撃破すれば、望み通りになる。そして敵が出ている間に急いで蜆江の狭い地を利用して一気に攻めに出て、武蔵の利隆も呼んで後陣になってもらえば、両家の大軍で必勝確実である」といった。忠継はそのアイデアが気にいった。

忠継の軍の戸川肥後守達安と花房助兵衛職之父子は、、新家居に駐屯していたが、連日野田と福島の敵に向って堤を隔てて火砲を撃ち続けた。敵の両砦から蜆江村へ糟藁を取りに来ることを戸川方に通報した者がいた。達安は伏兵を置いて彼らを斬って、首を住吉に献じた。

その後、老臣の花房助兵衛は、敵の砦をよく見ると旗が動かず煙が少しだけ上がっているのを見て、「兵が撤退しているはずだ」と忍びを送って調べさせたが、帰ってきて「兵は撤退して旗だけを飾っていた」と報告した。早速忠継に伝えると左衛門督は喜んで、戸川と花房を魁として夜の風雨の中を水と陸から蜆江に進軍し、野田の砦まで進んで塀を破り乱入した。

大野の部下の小倉作左衛門行陰は、すでに撤退していて兵は誰もいなかった。そこで戸川らは船を進めて福島へ赴いた。福島の西の入り江には大野治艮の軍が大きな船2隻を着けていたが、そこへ戸川や花房などが乗り込んだ。戸川の士の岸原某はその船を乗っ取ると、九鬼、千賀、向井など水軍がやってきて船に乗り込んできた。岸原は「この船2隻は戸川が取ったから、あとから乗り込んできて取るのはおかしいから、さっさと退去せよ」と槍を振って怒鳴った。肥後守はそれを見て「この船の一番乗りは自分の家来だ」といったが、水の上は舟手の領分なのですぐに2隻とも彼らに渡し、福島の砦を焼払って敵の首7個を取って福島に駐屯した。

そもそも左衛門督忠継の勢力は7千余りだったが、戦場が広く、左右が川で、味方からは離れていたのでなかなか危険だった。先日は早朝に阿部四郎五郎正之は、神崎の武蔵守利隆の陣へ来て地図を書いて築山に登ってみると、戸川達安などが魁して、備前勢が蜆江村から野田へ赴いて砦を乗っ取った風だった。

利隆は指を差して「自分たちが救援に行く時だ」といったが、監軍の城和泉昌茂はしきりに制止したので、カンカンに怒って正之にいうと、正之はすぐに和泉に向って「まず、忠継と利隆は兄弟なので、利隆が救援に行くのは間違っていない。次に備中と備前勢は敵地の奥に入って敵に滅ぼされたら後悔するほか何もいいことはない、むしろ秀忠や家康の為にもならない。そして、最後に忠継だけが野田福島を抜いて乗っ取れば、利隆は弱虫の汚名を被らないとも限らない。だから早く兵を進めて忠継を救援すべきだ」と諫めた。

しかし、昌茂は信玄や謙信の兵法における戦の対処基準をたてに、自説を曲げなかった。阿部は歯ぎしりして席を立って上福島へ行って、戸川達安に面会した。そこへ監軍がやってきて、「豊前備中は離れた蜆江まで撤退せよ」と指示した。正之は「それはならん。敵は外塁を棄て兵はいない。敵を恐れている証拠だ。決して撤退してはならない」といった。また戸川も生きている限りは上福島から撤退はしないと、左衛門督の兵と共にここに駐屯した。

老臣の本多上野介は各隊を視回り、家康に「南方の天王寺の味方はすでに城の近くまで迫っている。東方は鷺島の戦線は濠際まで迫っている。神崎から参戦している池田武蔵守、加藤式部少輔、山内佐介(後の但馬守)はまだ長柄川を越えていない」と報告した。

家康は「今朝備中備前勢が福島を撃破して要害へ深く攻め入っているのに、どうして彼らは救援にこないのか」と詰問した。彼は「諸将が監軍の城和泉守がいたずらに川をわたるな、敵の動静を見極めよと指示しているからだ」と使い番の成瀬正成と安藤重次に弁明した。正成と重次は浅野但馬守の今宮の陣へ行って、「そこに兵を残し早速野田福島勢を救うように」と指示した。また野田へ行って忠継にそのことを伝えると皆は手を打って喜んだ。

このようにして浅野長晟はすぐに大きな船10艘あまりを出し、旗をなびかせ鐘を鳴らしながら野田と福島へ行くために馬食ヶ淵までやってきた。そのようにして味方の大軍が両方の土地に集まった。家来の浅野左衛門を戸川と花房の救援に向かわせ、長晟は「海上からもしまた攻めてきた場合には受けて立とう」と上機嫌だった。

安藤と成瀬は「仙波口の石川主殿が大銃を発して塀櫓を打ち壊すと、城内からも火砲で応戦して味方の死傷者が増える。昨日は大手柄だったが、敵地に深く入って死んでしまうのは良くない。早く上馬食ヶ淵から撤退するように」と指示した。しかし、石川忠総は「このように攻め口を破壊して乗り入れようとしているのに、やめろといわれるのは黙っておれない」として、成瀬や安藤とともにすこし撤退したが、彼らが帰ったのちにまた戻って大銃を発した。

家康は、忠総がどういっても引き取らないだろうと察して、瀧川豊前守忠往と近藤石見守秀用に騎士40人、軽率200人をつけて石川を援護させた。忠総が味方から孤立して川を隔てて城の近くまで進んでいるので、城から夜討ちされてしまうと思ったからである。忠総は喜んで火砲を2段に発射させ、援兵は後ろの川べりに配置し、軽率を前線にして、夜中中火砲を発し続けた。

阿部四郎五郎は五分一という所から参戦し、九鬼小濵向井千賀の水軍の様子を観察し、備前備中の勢力が味方を離れて深く敵陣へ入っているが、海や西の諸軍がバックアップしていないのは家康の考えと違うと聞いて、後軍がすぐに野田と福島へ来るだろうと考えて、平野の陣営に帰り秀忠へ報告した。

そこへ本多佐渡守が住吉へ使いとして帰ってきて、海西の諸将が備前と備中を救援しないのを家康が怒っていると伝えた。そこで諸軍はすぐに野田と福島を川から乗り込むと報告した。秀忠は「お前は初めて戦場へ出ていろいろ考えて行動したのは、老功の士におとらないなあ」と感心した。

正之は「今夜、仙波と天満の敵は撤退するだろう」と述べた。正信がその理由を聞くと、「自分が考えるに、まず上福島を攻める備前勢は7千で、後攻めがないことを敵は知らない。こんな馬鹿さはいうまでもないことだし、このことを仮に知っていても戦うと弱い相手なので恐れる必要がないと。そして、備前勢を味方が救援しないのは、家康の怒りを聴くのと同じなので、必ず攻めてくるはずだと考えるだろう。味方の軍が中津川を越えて南中之島へ出てくる様子をみると、仙波と天満の砦は城壁もなく、大きな川に橋もなく、大軍が攻めて来て囲まれてしまうので、それを恐れて夜陰に紛れて城内へ撤退するのではないか」と答えた。秀忠は自分が予想していることと違わないと述べた。本多と土井も正之の見通しの詳細な論理を褒めた。

家康は、住吉の陣から花房助兵衛職之の末っ子の榊原左衛門職直(後の飛騨守)を派遣して、花房父子の功績を褒めた。

城内では馬食ヶ淵、阿波座、土佐座の4か所の砦が破られ、浅野の船団が参戦してきたのに驚いて諸将が会議した。

大野治長は、後藤又兵衛に「敵は4つの砦を破り競い合って前進している。天満と仙波は広い場所なのでこちらは持ちこたえられないだろう。だから城の外郭に配備している兵は城の中に納めるべきか」といった。

後藤は「そもそも籠城するときには郭が広くてはいけないので、自分は最初からそうしたかった。早く外郭の中に火を放つべきだ」として、森豊前とともに天満と仙波へ行き、地下人や商人などすべては城内へ入るように命じた。夜中なので多くの人は迷って右往左往していたが、そこへ後藤と森が馬で駆けて来て数百の民家に火を放ったので、煙にまかれて数え切れないほどの人が死んだ。朝になって石川主殿頭の使いが平野へ来て、天満と仙波の敵は辺りに放火して撤退したことを報告した。

秀忠は安陪正之を陣から呼んで、「石川からかくかくの知らせがあったが、昨夜お前が考えた通りだ。お前は初陣なのに調査をもとに状況を的中させたのは非凡な才能を持っている」と感心し、また、本多正信に「お前は若いが流石に四郎兵衛忠政の子だな」といった。

天満と仙波は、商家や花街が多く火の回りが早くて翌日まで燃え続けた。後藤又兵衛は「池田家の備前勢が競って天満へ攻め込んで来たら奇襲をせよ」と指示した。そこで伏兵を配置したが、池田勢はむやみに攻めてくることはなかった。そこで後藤が功名を狙って命令したのだという噂が流れたので、又兵衛は「何でも予想が外れることはある。備前がかならず攻めてくると予想するのは訳があるので、忠継のところへ花房助兵衛がまだ救援に来ていないとすれば、自分の考えが足らなかった」といった。その通りである。(阿部正之のことについては阿部家の説による)

〇ある話では、薄田隼人正は馬食ヶ淵を蜂須賀に乗っ取られ非常に憤慨した。城中の諸将は彼を嘲笑したので、森豊前守に向って「今夜蜂須賀の陣を破るべきだ。お前は後殿をやれ」といった。森は「新座の戦力はわずか300程なので、自分が先鋒を務めるのが当然だ。隼人の勢力は多いので本座を攻めるべきである。なぜ自分がお前の後攻めなんだ」と引き受けなかった。薄田は元気がなくなりそのまま黙ってしまったという。

〇今月末に東西の和平が整って後、戸川彌左衛門は、陣へ城から知り合いの後藤又兵衛を招いて宴会をしたが、そのとき後藤が「今回城方は天満と仙波を焼払って城内へ撤退した時、どうして備前と備中は城兵を追撃して討たなかったのか」と尋ねた。

彌左衛門は「兄貴、肥後守が煙に紛れて追撃しようとしたが、花房助兵衛が城内には後藤という凄い武将がいてしっかり守っているので、うっかりできないといったのでやらなかったのだ」と答えた。やはり又兵衛の想像通りだったという。

武徳編年集成 巻72 終(2017.6.9.)