巻73 慶長19年12月朔日~4日
慶長19年(1614)
12月小
朔日 蜂須賀阿波守は、昨日馬食ヶ淵で討ち取った首を2個献上した。池田宮内少輔は、平子主膳貞詮の首を簑浦右近に持たせて献じた。家康は両家の使節にそれぞれ黄金10両を与えた。
平子は、高祖父以来貞詮まで6代戦場で命を失った勇士ゆえ、若い者はよくこれを見ておくようにと命じ、彼の首を懇ろに葬るように命じた。人々は、家康が敵の首にも敬意を払う仁徳を感心した。石川主殿頭は昨日討ち取ったのが皆奴隷だったので、三河の武士の習わしで家康に献じなかったが、その報告を受けて家康は使者に黄金を与えた。近藤石見守秀用と高木筑後守正次を通して(*石川)忠総の功績を褒めた。
大阪の城兵が本町橋と今橋の間に出て来て、昨夜は西南から北仙波と東北の市店が燃やされたが、彼らは再度この地域を焼払った。
朝に池田家の士卒と備中勢が天満に侵攻し、逃げ遅れた雑卒や奴隷を200~300を斬り殺した。蜂須賀と石川を魁として浅野勢が、仙波へ侵攻したが、今朝城方が放火した煙で、蜂須賀勢は進めなかった。石川主殿頭忠継は煙をくぐって進み、放火のために出て来た敵を高麗橋に追い込んだ。敵方も寄せ手が湟の傍に来ないように、仙波へ激しく大銃を発した。仙波と城郭との間には橋が2,30あるが、後藤が自分ですべての橋を焼払ったが、今橋と高麗橋だけを残した。石川は、高麗橋の前に陣を張って、橋を燃やされないように橋の傍までよって火砲を発した。双方が猛烈に撃ち合って、忠総の士卒に多くの戦死者が出た。そこでこの状況を小栗又一が住吉へ行って、家康に報告した。
傍にいた永井右近太夫直勝が、「石川勢は少ないが、幸い蜂須賀勢が傍にいるので、急いで阿波勢に主殿頭を救援させて、橋を燃やされないようにしたらどうか、と進言した。家康は「お前は戦に疎いくせに、どうしてそんないい加減なことをいうのか」と非常に怒り、傍においている長刀を取ったので、永井と小栗は退席した。
松平右衛門太夫正綱がその長刀を受け取って元の場所に返すと、家康は「味方がこの橋を焼こうとすると、何も知らない連中は、攻め手が橋を落とすときは城攻めはないと思う。だから敵は自分から橋を焼いたりしないものだ。そもそも総攻撃の際に1,2カ所の橋を使ったりしない。敵が橋を落とせば、敵が城から出てくる心配がないので安心してよい。今、敵は橋を燃やさず残したので、そこにいる味方は夜中に寝ることはできない。敵が橋を焼こうとするのを妨げてはならない、と石川に伝えよ」といって、山城宮内少輔忠久と佐久間河内守政實を高麗橋へ行かせた。2人は大急ぎで現地へ行き、家康の言葉を伝えたが、主殿頭は今のように敵と戦っているときには後には引けないと返事した。
家康は重ねて加々爪民部少輔直澄と豊島主膳信満に、「お前の勢力は小さい。それで敵陣深く乗込んで負けようものなら味方の恥になるではないか。今は仙波の兵と歩調を合わせて、敵の様子を見定めるように」と命じた。忠総は了解して、虎の口を撤退して城兵も結局橋を焼くことは出来なかった。(果たして敵はほどなく本町橋から夜討ちに出て来た)秀忠は内藤外記正重と近藤勘右衛門用政に忠継を慰問させた。そのため石川忠継は大いに面目を保つことができた。
家康は水野日向守勝成を呼んで、「色々な橋が燃やされて、天満橋も燃え落ちたと聴いたが、天満には商家が多く、焼け残った大きな材木もあると島彌左衛門と服部権太夫が報告してきた。これはまさに諺にいう「6日の菖蒲(*無用になった物)」である。それを持ってきて、攻撃に役立て鉄砲隊を配置して本隊を呼び込め」と命じた。
勝成はすぐに天満へ来て、池田武蔵守、加藤式部少輔、森美作守などに伝えた。天満橋を遠くから見ると焼け落ちたように見えるが、近くに寄ってみると、橋の3分の2は焼け落ちているが城の方の3分の1は残って、その傍には焼け残った材木を積んで、いざという時にはすぐに燃やせる様子だったので、勝成はその様子を戻って家康に報告した。
〇『小栗家傳』によれば、仙波の橋を見下ろせるように、櫓多門が設けられてそこから火砲が頻繁に撃たれたので、使い番が来ても橋の傍まで行けず、様子をはっきりと通報する者がいなかった。そこで家康は又一忠政を派遣したが、その時、河野権右衛門通重は内輪もめに加わって家を逃げ出していたが、今度その罪を償おうと忠政についてきた。
彼らは連れ立って橋の傍へ寄って、火砲を恐れずにじっと様子を監視していたが、権右衛門は歩いて橋を渡って城門まで行って平気な顔で帰ってきた。その様子を櫓からはるかに彼を見ていた後藤又兵衛と上條又八は感心して、「こんな勇士をみだりに殺してならん」と撃つのを止めた。忠政は本陣へ帰ってこのことを褒め、橋がまだ残っていることを報告した。
〇本多上野介、成瀬、安藤は、諸陣を巡視し天満の地は狭くて、仙波は広いと家康に報告した。そして今宮、新家居、野田、福島の勢力を仙波へ移すべきだと進言したという。
家康は中井大和を呼んで、「近々本陣を茶磨山(*茶臼山)に移動する。仙波に焼け残っている商家を壊して本陣を急いで建設せよ」と命じた。夜に大阪城内の大野修理亮の家で失火したが、すぐに消し止められた。
蜂須賀阿波守は西本願寺に駐屯した。そこは本陣から本町橋まで7,8町のところで、火砲に当たって死傷する者が多かった。淡路橋の櫓堀門は桑山十兵衛が500騎で守っていたが、中筒の射程範囲なので寄せ手は近づけなかった。本町橋にはすでに蜂須賀勢が迫って、虎の口先を除いては、左右に竹の束を設けた。島津義弘は朝鮮国で、このような竹の束を設けて敵が出てくれば、左右から火砲を浴びせて横から攻めたという。家康は「本町橋が焼け残っているので、蜂須賀は夜の守りを怠るな」と指示した。
天満橋は明智光秀の家来の並河喜庵が守っていた。彼は寄せ手の駐屯地の位置を測ってから、「味方が多くの橋を焼き落として、守備に徹して城から出て戦う意思のないことを敵に示したので、濠際から2,3町の間に敵が前線を張ることになった。これは城方にとって非常にまずいことではないか、早く本町橋と高麗橋から兵を出して、濠際に迫っている敵を撃退すれば、敵もいたずらに濠へ近づかないはずだ。そうしておいてから、時々兵を出して戦うと、敵も安閑としていられないので、こちらにとっても便利である。自分に500の兵を付けてくれれば、敵の情勢を伺って討ち破ることは手の内になる」と訴え申し出た。
しかし、大野兄弟、木村、渡邊らは青臭い連中で、新座の老将の長宗我部、眞田、後藤、森が威張っているのを嫉んで、7組の頭は互いに疑心暗鬼してついに結論を出せなかった。特に喜庵の子の志摩は、当時加藤忠廣に仕えていたので、大野らは彼を疑って喜庵の考えを妨害した。水野日向守の異種同胞の弟、平井七兵衛や木下左京秀規などが籠城しているので、彼らはこの人たちも疑うようになったという。
2日 家康と秀忠は、茶磨山に登って大阪城を眺めているときに、本多佐渡守正信は路免(*?)の羽織に裏付きの袴で衛府の太刀を差して籠で登場した。家康はその様子を見て、坂上まで籠で来るように命じた。藤堂和泉守が迎えに出て「佐渡早く来い」というと、正信は「おれの武者振りはどうだ」とふざけて登ってきた。秀忠は家康の傍で城攻めについて相談した。永井右近太夫直勝は身体を損なって、杖を突いてあとから来た。家康はその杖を取って、大阪城の方に向けた。本多正信はやはり杖で攻め口の良し悪しを論じた。
畿内の代官の喜多見長五郎重恒が台に黄橘を乗せて献じると、家康は片手にそれを3個取って食べた。そして家来にそれを秀忠に献じるように命じた。秀忠は2個取って懐に入れた。それから2人はそれぞれ別のルートで諸陣を巡視するとして、まず家康が出て秀忠が続くとき、本多正信は呼び返して家来が多くついてはいけないと諫めた。(是微為有)
家康は仙波から少しずつ順番に巡視した。政宗と高虎が馬の後に続いた。諸将が出迎え見送った。石川主殿頭の陣を通過する時、彼の家来が三河以来の顔見知りが多く、皆が挨拶した。
家康は彼らが馬食ヶ淵、土佐座を乗っ取り高麗橋での戦功を褒めた。さらに家康らは城の周辺を巡視していると銃撃が激しく、弾丸が馬の周りに散乱した。ある兵士が「弾丸がたくさん飛んでくるので進むのをやめては」と進言したが、家康は同意しなかった。
安藤治右衛門定次が来て、信幾野(*鴫野)の方の城壁に進んで、敵の城の状況を前線から見てほしいというと、家康は自分で手綱を引いて北に向かった。これは、鴫野辺りは、城から遠くてめったに球が飛んで来ないからである。家康は仙波から天満の池田武蔵守の陣営に行き。そこで食事をとった。
池田左衛門督の家来の花房助兵衛職之は、老衰して人に支えられてようやく歩ける体だったが、今度も輿に乗って前線へ出て行き「もし戦いが激しくなれば、自分の輿を敵に向けて置き去るように。お前たちは死んではならぬ。自分はここを墓場と定めて出陣したのだ」と述べた。家康が巡視して来たというので彼は、炉端に輿を下させその上に座っているのを、戸川肥後守が「助兵衛は弱っているにも関わらず一大事の時なので無理して出て来ている」と家康に紹介した。家康は喜んで「職之は以前から戦いが好きだ。だから老身をかまわず出陣して来たとは実に心丈夫だ、彼に及ぶ者はいない」と感心した。
午後に、信幾野から片桐兄弟の陣のある備前島、片原町の坂口に着き、そこで前線の備えをみてから、秀忠と同じ道を戻ったが、そこでは家康は籠を使った。
〇ある話によれば、家康が信幾野の上杉の陣所を訪れた時、景勝は城へ向かって一斉に火砲を発した。これは大将軍が巡視するときの昔からのしきたりだという。また、前線や道路には酒を撒き掃除をして所々に砂を盛り上げ、上杉の家臣では直江以外は家康の前には出ず、景勝が跪いて家康と話をした。家康は「お前の家臣が今回の戦で骨を折っている」と言葉を与えると、景勝は「これは子供の戦のようなもので、苦労するようなものではない」と答えたという。
〇『小栗家傳』によれば、家康が巡視の折には、いつも又一と忠政が伴をし、銃撃が激しい時は馬の前に出ていた。ある時弾丸が鎧の草摺(*くさずり、鎧の裙のたれ)に命中し、その弾丸は死ぬまで股に残ったという。
3日 天満や今宮、野田、福島に散らばっていた各隊は、順次仙波へ結集し、高麗橋の前線は南北へ通じる要地なので、少人数では足らないと、石川主殿頭の隊を南へ移して、池田左衛門督忠継と備中勢を合せた7千余りを高麗橋へ向かわせた。忠継はただちにそこへ移動し、竹束を盾にして徐々に城へ迫った。城兵は火砲を激しく放ってきた。
忠継は「昨日は石川忠総が小勢で奮戦した。今日は多勢だから働きが彼に劣れば恥だ」といって家来に檄を飛ばして、鉄の盾5台を橋の上に並べて、大銃の台として櫓を破壊し、その盾を押して虎の口まで攻寄ろうとした。城中では激しく抗戦したが、橋を落とすより手がないので櫓からたくさん藁を落として火矢を放って橋を焼こうとした。忠継の兵は鉄の盾を放置して撤退した。城中からは「鉄の盾は城を攻める道具だったのじゃない。どうして捨てていくのかねえ」と嘲った。すると、忠継の家来でめっぽう怪力の河田八助が橋の上へ走り出て、城を背に盾を押して味方の陣へ押してきた。弾丸が彼の方に当たって倒れたが鎧が厚くて元のように押して来た。向井十太夫と古屋善兵衛、渡邊数馬などが一緒になって盾を味方の陣へ押し入れた。村山越中はいつもヤクザな男で、よく人と喧嘩した。今日も前線へ来るのが遅れ、しかも楯を橋の上へ置いてきたのを恥じて、自分の組の軽率を連れて橋の上に行き、味方の置いて来た棒や縄などを拾い集め、箒で橋の上の埃を掃除して帰った。それで敵も味方も備前勢は凄いと感じない者はいなかった。松平右衛門太夫正綱が仙波、天満、備前島、瀑布、今市、青屋口、玉造、榎並を巡視して帰り、この話を家康に報告した。家康は喜んだという。
〇大阪城内は十分食料が足っていた。これは寄せ手の大小名の中に差し入れる者があるらしいという疑いが絶えなかったという。小出大和守は、瀑布の堤から京都や伏見へ自由に行き来できたという。(*『当代記』に、大阪城内には生鮭が多数ある。これは寄せ手が密かに秀頼にプレゼントしているのだろうか? とある)
〇家康と秀忠は今月6日に陣を移し、家康は住吉から茶磨山へ、秀忠は平野から岡山へ引っ越した。また、これらの陣の他大阪城を囲む11カ所の砦を建設した。今泉に2カ所、穢多崎と傳法院の2か所、大和筋今橋、若江口と森口と天満の間に3カ所だった。
さて、岡山の土の中から小さな壺が掘り出された。中には黄金30両、金の金具が9個、南鐐の銀判100両が入っていた。阿部備中守正次が見つけたと、、伊丹喜之助が家康に献上した。5、60年前に埋められたものという。後藤庄三郎がそれを家康に見せた。家康はすぐにそれを備中守に与えた。
大阪城内から織田有楽の返事が届いた。本多上野介と後藤庄三郎が家康の前で読み上げた。そこには「和睦の件を数回,秀頼に進めたけれども承知しなかった」とあったという。家康は「更に有楽にがんばってもらって、淀殿と秀頼が受け入れることを願う。それでもなお受け入れられなければ、有楽は城外へ出て、上野介とよく相談するように」と両人に答えた。
〇このところ使い番が茶磨山と岡山の間を頻繁に行き来した。大阪城から後藤又兵衛が見て、一両日中に総攻撃があるだろうと秀頼に伝えた。そして各方面に援兵を加え、游兵は弱いところへ適宜回す様にと指示したという。東八丁目はもともと平地で、そこに城壁を築いていた。しかも寄せ手は手ごわい越前勢なので、ここはやばいというので石川数矩の陣を2町後退させ、彼の率いる8千の兵を3段に構えて、矢狭間を一間に6か所ずつ置き、其の1カ所には火砲を3挺ずつ備えた。また櫓の間には井櫓を設けて火砲を同様に配置した。
〇伯耆羽衣石の城主、南條中務少輔光明は、関ヶ原では石田三成属したので家康に領地を取り上げられて蟄居していた。その子の中務は、今度大阪方に属して南方の持ち場に付いていた。寄せ手の藤堂和泉守と中務は、伯父の隠岐守と友達だったので、和泉から手紙を送って中務が味方へ鞍替えすれば伯耆の一円を与えるという家康の密令があると伝えた。
隠岐守が了承したという矢文が中務の目にとまり、驚いて許さなかった。しかし、隠岐は激怒してここは一大事の時だといって父のいうことを聴かず、「このまま黙っておくか、ともに刺し違えて死ぬか」と父に迫ったので、中務はしかたなく息子の考えを認め、病気になったとして城へは行かず、伯父と甥は相談して「掘の柱の根を切って、寄せ手を引き入れる」と藤堂方へ矢文を返した。
その翌日、天王寺口の門の脇から西の方の角櫓は、根來の智徳院が守っていたが、ここから南條が守っている乾掘を眺めると、柵木の上に鼻紙のような白い紙が一枚掛けられていたので皆が不審に思った。そこへ母衣役横目(*監視役)が来て、問題の場所を眺めると、指し物をもった寄せ手の軽率が堀の中を見まわっていて、その紙のかかった場所に指し物を突き立てて帰った。このことは木村重成から秀頼に報告された。
早速秀頼は渡邊内蔵助にそれを調査させた。内蔵助は予告なしに南條の陣へ行って取り調べると、彼の持ち場の掘に4尺四方の大きな狭間に簾がかけてあった。渡邊は微笑んで「籠城するには不用心な大きな狭間だな。もう少し小さくしたら」といって堀の中を伺うと、新しく塗った土居から紙のあった柵までに人が行き来した跡があって、母衣の衆がいっていた通りだった。そこで杖で柱の根を上げてみると、上から5寸ほど地中で根が切られているのを見届け、本丸へ戻って報告した。
その後、用があるといって中務を呼び、玄関で大野修理亮が出向いて「お前の兵に用がある隠岐と共に京橋口の援兵に回れ」と命じた。中務はすぐに歩卒を呼んで陣営に伝え、自分は秀頼に呼ばれて中へ入ろうとした。そこを渡邊と薄田隼人正が待ち構えて、南條の両手を捕え両方の刀を取り上げて詰問すると、彼は伯父が謀反した事情を話した。
隠岐はすぐに事情を察して、陣屋から飛び出し抗戦したうえ持ち場へ帰って自殺した。また彼の家来たちはそこで殺された。こうして南條の持ち場は、後藤又兵衛の組の手の空いた兵が入れ替わって守らされた。しかし、旗は元の南條の旗のままだったという。
〇味方の兵が、城から脱出して来た者を捕えて尋ねると、信幾野で後藤又兵衛が火砲に当たり、大野治長も出向いたがどうにもならず諸軍の意気が衰えたと述べた。
4日 秀忠は明後日の6日に岡山へ移ってくるというので、今まで岡山に陣を敷いていた加賀少将利常や越前少将井伊掃部頭、藤堂和泉守も城際へ陣を移すことになり、早朝から用意が始まった。
藤堂は城で南條の裏切りがばれたことを知らなかったので、明け方に南條の持ち場へ進軍すると、城内から狭間一個に火砲3挺を据えて猛烈に撃ってきて、藤堂勢は忽ち死傷者が増えた。高虎の先隊の士大将が命令して兵を撤退させた。しかし、加賀と越前、彦根の隊は、藤堂が兵を出したので、彼らに負けないようにと早速兵を挙げたが、朝霧が深くて何も見えず城内でもわからず、味方の3隊も藤堂が撤退したのが分らなかった。
越前の先鋒の本多飛騨守、同伊豆守、井伊家の木俣右京などは、空堀の際と中と向いの掘の下の3カ所の柵を破って城壁に取りつき、使いを本陣へ送って、城の総構えを乗っ取るので、旗本の本隊に来てほしいと要請した。
そこで霧が晴れ、城兵は仰天して雨のように火砲を撃ってきた。そこで味方の兵が多数死傷した。しかし、彼らはそれ臆せずがんばっていると、秀忠からは「勝手に軽率なことをするな、早く撤退せよ」としきりに命が下った。しかし、加賀勢としては中條又兵衛父子、川面喜兵衛、田村助右衛門、平野彌次右衛門、葛原主殿、旗本の浪人小幡勘兵衛景憲と其の従者の村上庄次郎、杉山八蔵が最初に乗込んだ。堀下の攻め口は、眞田丸で左衛門佐幸村が守っていた。彼らは眞田の左右の虎の口からは攻め込んで破ろうとした。利常は八丁目の臺に控え、先鋒の富田越後は眞田丸の道筋の掘から180歩離れ、当時砲卒の頭だった旗本浪人の小田切所左衛門で改名して才伊豆といって僧になって道二と号した者が、横から攻めようと軽率を配置して、敵の出てくるのを待ち受け、自分は先に来た9人と共に堀下に取りつくと、流石の眞田も出てこられなかった。そこで彼は隣の小屋に火を放って、合図の煙を上げた。(これは大きな狼煙である)
そこで城の中から游撃隊が出て来て救援した。八丁目門櫓からは石川肥後守数矩が眞田丸へ向かう加賀勢へ火砲を横から浴びせたが、火薬が2斗入った箱に間違って撃ってしまい、爆発したので肥後守数矩勢は狼狽し、数矩の鎧の綿にも火がついて身体が焦げてしまった。それで慌てて守りが甘くなった。
それに乗じて越前家の強烈な士たち200人余りが堀を破って攻め込んだ。しかし、木村長門の組の遊撃隊が駆けつけて、全員を討ち取ってしまった。しかし越前勢は屈せず野口靭負は柵に取りついて手を離さず火砲に当たって死亡した。先鋒の軽率頭の伊達輿兵衛定鎮など多くが戦死した。しかし、堀下に竹束を置いて本陣へ使いを送り、早く旗本を送れば先に攻め込んだ隊が城内へ乗り入れたいと伝えた。
家康は午前中でいつものように鎧兜は付けず、老臣や使い番6、7人を控えて住吉を出て、仙波からの使者も返してすべての前線を巡視した。
藤堂高虎は住吉で家康に会おうとしたが、途中で家康が巡視と聴いて駆けつけ、伊達政宗と一緒にひざまずいた。秀忠も諸隊の前線を巡視したが、昼頃2人は茶磨山に登って御三家の兵が城の壁に取りついて乗り入れようとしているのを目撃した。
家康は非常に怒って「馬鹿たれたち、指令もないのにあの堅い城をいたずらに攻めて犠牲者を出すのか!越前と彦根の両家には旗本からの戦士をだしているのに、このような馬鹿な城攻めをしてはならん。すぐに引き揚げろ」と安藤帯刀と使い番を派遣した。
帯刀直次は枯れ葉色の母衣をかぶって、堀際まで行って命令を伝えた。非常に火砲が激しかったがひるまなかったという。
越前少将は水谷兵部を送って早く家康の命に従って兵を引けと命じたが、両本多は互いに殿したいと拒否し時間が経過した。そこで忠直は近臣の小栗五郎左衛門正高を送って、撤退するように命令した。萩田主馬も家康の命を伝え引き取るように、紺に蛇の目の指し物で二の手から掘まで行くときに弾丸を2発身に浴びたが、傷は浅かった。しかし、指し物は簾のようになった。また、胴輪を横から切り裂かれ倒れたが、これも傷は浅かったので起き上がった。
忠直の軍使の森川内蔵允も来て家康の命を伝えた。
両本多は火砲で城の狭間を塞ぎ、堀下まで竹束を立て引き取らなかった。忠直の舎弟の松平伊予守忠昌と同出羽守直政(当時24歳)は空堀の中でしきりに指図をして掘を破ろうとした。その時、萩田主馬が駆けて来て、本多飛騨守の馬印を取り上げた。小栗五郎左衛門は本多伊豆守の馬印を取り上げると、越前の面々は順に撤退した。その時身体にも、指し物にも、弾丸が当たらない物はなかった。
井伊掃部頭の先手にも使い番が来て、空堀に入って早く撤退するように指示したが、兵はいうことを聴かなかった。そうなると使い番もそこを動けず、帰る者はなかった。岡本半助宣就は掘りの端に馬を立てて、家康の命令は重いので、撤退せよと直孝の命令を伝えた。岡本は使節の役を働いたと人々は称賛した。加賀の使節に才伊豆入道は「眞田も自分も甲陽の士だ。今撤退すれば眞田は後殿の弱みを見て飛び出てくるに違いない。それなら槍を合せれば出丸を抜くのはたやすいので、早く体勢を立て直して攻寄れ、その様子を見て撤退しよう」と答えた。
夜になって堀下で控えて耐えていた眞田も飛び出して、前線の兵を撃とうとしたが、利常の武将の山崎長門守吉家入道閑齋が丘の上に控えていて、幸村が出てくればその後後続を断って付けいろうと相談している内に、家康の命令に従わせるために本陣からの使いが居並んだので、それを実行することは出来なかった。
そこで先に攻め上っていた兵たちは城に向って名前を叫んで撤退した。才伊豆入道道二と平野彌次右衛門、小幡勘兵衛が後殿したが、火砲が小幡の酒林の指し物に多く当たり棹が折れた。道二は流れ弾に当たって倒れ、小幡が肩に背負って静かに撤退した。道二は休みたいといって道端に座って、ようやく指し物を落としたのに気づいて立ち戻ってとったが、狙撃が激しく傷を負いながらも名前を名乗って帰った。
家康は政宗が献じた生の鱈を料理させて、老臣や高虎と政宗に与えた。
家康は越前の両本多を呼んで、不注意な城攻めについて尋問した。彼らは「若い者が軽はずみにやったとだ」と陳謝した。
小栗五郎左衛門正高が味方を撤退させた勇気と知恵を褒めて、自分の肌着を与えた。
井伊の先鋒の木俣右京が不見識に先に攻め上ったことを、秀忠は憤慨して罰しようとしたが、家康は本多正信に「このようなときは決まりを破る跳ね上がりものが出るものだ。ここは我慢すべきだ」と止めた。そこで秀忠も収まったという。とにかく、家康の賞罰は厳しいような緩いような、時に応じて柔軟に対処するところは、凡人には測りかねない。
〇今日城内には石川肥後守が火薬で鼻をやけどしたので、松田理介は小岩井蔵人に守備を交代させた。
〇秀吉に世話になった諸士の長臣などが、質子を伏見の城に納めた。それぞれの国や郡に応じて、5,7人または10人ずつを献じた。(浅野長晟は12人を献じた)中坊左近に命じて和泉の山林に隠れている大阪城に籠城している者の妻子を捕えて、連れてくるように命じた。
〇井伊家の書によれば、ある人がふと掃部頭直孝の陣に来て話に来たという。この人は今寝床から出て来たような顔つきだった。皆がこんな陣中で、ただ昼寝しているのはどうしてかと訳を聴いたところ、「夜討ちを警戒して、終夜起きていて陣営を回っている者は、昼には必ず寝るものだ」と直孝がいったので、みんなは感心したという。
武徳編年集成 巻73 終(2017.6.10.)
コメント