巻79 元和元年4月15日~5月4日

元和元年(1615)

4月大第79.jpg

15日 午前、家康は名護屋を発った。佐屋の渡しを経て午後に桑名の城へ着いた。本多出雲守忠朝が、秀忠の先鋒を命じられ家康を拝謁した。

夕方、秀忠は駿河の田中の城へ着いた。

〇この日、大阪方の箸尾宮内重春、萬財備前友興、布施太郎左衛門春行は、細井兵介に対して和泉郡山の臨時の守護、筒井主殿介定慶と弟の紀伊守慶之へ、「兄弟が秀頼に付けば、兄には大和一円、弟には伊賀一円を与えてすぐに援兵1万を送る。もし応じなければ、大軍を出してお前たちを殲滅する」と申し入れた。しかし、兄弟は応じなかった。

その訳は、一番上の兄の伊賀守定次が無法者で国から追放され、兄弟は落ちぶれてしまっていたが、家康は彼等の家が途絶えるのを惜しんで、去年の春に与力35騎を付け、郡山の砦を守らせたからである。彼等は喜んで仲間を集め、弟の紀伊守慶之は、関越えの狭い地に陣取って近寄る敵を防ごうとした。しかし、兄の主殿助は許さず、松倉豊後守に援兵を要請して郡山の砦で敵に対抗することを望んだ。

〇『榊原家説』によれば、大須賀国丸は若干11歳だったから、居城の遠州、横須賀に残り、家来は遠江頼宣の部下として戦いに向かうように命じられていた。しかし、国丸はやはり後から出陣した。このことを家康は耳にして非常に感心し、「流石に大須賀康高のひ孫、榊原康政の的孫だ、子供でも英雄の兆しが見える。『一寸の松に棟梁の姿』という諺はまさにこれだなあ」といった。

16日 家康は亀山に、秀忠は掛川の城へそれぞれ着いた。(*『駿河記』には、板倉伊賀守から飛脚が来て、大阪方が12日に浪人たちに金や武具を配って俄かに慌ただしくなっていることが報告されたとある)

尾張義直は旗本453騎、総騎兵6千370騎、雑卒1万5千余りを率いて名古屋を発った。

17日 家康は水口、秀忠は新井の宿に着いた。

尾陽侯は土山、遠江頼宣は永原、越前少将忠直は坂本、酒井家次の組は木幡山に着陣した。

秀忠に使いの成瀬豊後守が水口に来て、「秀忠は24日までに京都へ入る予定である。それまでは大阪へ行くのを待ってほしい」と伝えた。秀忠は藤堂高虎へ手紙を送った。元和1年4月17日秀忠ー藤堂高虎.jpg

18日 家康は矢橋で琵琶湖を渡って京都へ入り、二条城へ入った。家康の命で越前忠直は西の岡の向こうの明神まで呼び出された。

織田信長の庶子の武蔵守信吉入道道下が43歳で死去した。嫡子の美濃守高登が家督を継いだ。

19日 家康は後藤庄三郎光次を大阪へ派遣して、もう一度和平の交渉をさせた。また大野壱岐守治徳を呼んで、兄の修理亮が突然約束を破ったので、急いで大阪へ行って真偽を確かめるように命じた。これはこの人が家来にいると害があるので、大阪へ追放するという意味があったという。(*『駿府記』と概略一致)

〇小幡勘兵衛は京都へ来て、板倉勝重に「家康に面会したい」と申し出たが、家康は許さずまた、摂津と河内の境に柵を設けるように命じたという。元和1年4月摂津河内高札.jpg

〇秀忠の通る道筋の伊勢の四日市場で、池田武蔵守利隆の妻が一町離れて籠を置き、前に二男の三五郎が座り、長臣の伴大膳は平伏していた。これは利隆の妻は柳原康政が秀忠の養女で、昨年利隆に嫁いだが、今回の戦いの期間、質として二男の三五郎5歳を連れて、江戸へ向う所だったからである。

秀忠の命によって、大膳はすぐに三五郎を篭の傍へ呼ばれ膝にのせ「父親によく似ている。女性が子供を連れての長旅は大変だろう」と三五郎に中堂来光包の脇差を与え、道中の安全の為に、御家人を付けて江戸へ向わせた。この三五郎は成長した後は、備後守恒元として従5位下松平をもらった。

20日 秀忠は近江の土山に着いた。上杉中納言景勝と伊達少将政宗も到着した。

秀吉の近臣だった福島左衛門太夫と平野遠江守は、今度の戦でも江戸に留まらされた。黒田甲斐守と加藤左馬介は、人目に付かないように少人数で江戸から本多佐渡守の組にはいって京都へむかったという。

所司代の板倉伊賀守は雑色(*蔵人)を建仁寺へ行かせ、佐蔵主を逮捕しようとした。しかし、去年の冬の籠城の頃から、彼は戦後の事を考えて暫くの間、團蔵主から佐蔵主と改名し、城を出て妙心寺に入ってからは、また團蔵主と名前を戻していた。そのため、「去年の冬から建仁寺から大阪城で籠ったという僧の該当者はなく、中でも佐蔵主という僧侶はここにはいない」と爾長老は丁寧に雑色を帰らせたという。

〇今夜、家康は板倉勝重から小幡景憲に、「自分が大阪へ出陣すると敵は出て来て戦うだろうか」と尋ねさせた。景憲は「二や三の丸まで壊された後で、敵は城外に木の柵を設けて籠っているので、必ず城から出て戦うだろう。大方の武将や浪人たちは戦いの仕方を知らないので、7人の大将の命令など聴かずに、また敵の勢力や備えを見もせずに2,300人が束になって、1,2町をまっしぐらに槍を構え、息の切れるのもかまわず突っ込んでくるはずである。また、平地に伏せて敵を迎え撃つにも、地元民は伏せているのは、強盗だと考えて非常に嫌うので、徳川の勝利は間違いない」と述べた。

21日 秀忠は、京都に到着して伏見城へ入った。

今夜また小幡景憲は、板倉勝重の問いに、「大阪勢は戦い方を知らないといっても、後藤、眞田、森がいるし、長岡監物は若いながらも、中々の武将で非常に夜討ちが上手い。したがって、今度大阪へ着陣するときは、午後にならないようにすべきである。こちらとしては細い竹で柵を補強し、火砲を備えて夜間の守備を固くすると、敵は夜討ちできなくなる。一方、荷物の輸送では雑兵しかつかないので、敵はそれを狙ってくる可能性がある。そうなれば隊列が崩れて、諸陣がばらばらになる危険がある。そこでここは自分の意見を聴いて、当初は糧米を隠して荷は3日後に動かすように」と指示した。

そしてその時「敵が出て来なければ、陣を固めてから4日目に荷が着くようにすればなお安全である。すでに敵方には10万を越えた兵が集まっているので、敵の糧米は続きそうもない。しかも、大野兄弟が互いに権力を奪い合っているので、敗色は濃厚になっている」と答えた。勝重はこのことを家康に伝えた。

22日 この時期、諸国の軍勢が次々と大阪へ到着した。家康と秀忠は二条城で作戦を相談した。彼等は初鹿野傳右衛門正備と米倉主計忠継に、家康と家忠の出陣の経路の段取りをするように命じた。その際、町の中や民家を避けて、信玄流に野陣とするようにとも命じ、その見張りとして伏見在番の大番頭石丸六兵衛と深津彌左衛門正吉を行かせた。森美作守と木下宮内少輔利定は、山崎の要路を守るように命じられた。

また面白いアイデアとして、常光院と二位局には、「秀頼が和解に応じて7年間和泉の郡山に移ってくれれば、大阪城の濠を元通りにして、砦などを復元して、人々を安心させて秀頼を帰還してもらうようにする」と申し渡すために大阪へ行かせた。

23日 大野道犬(治長の父)は、兵を連れて泉南の堺の港を焼払い、民家や商店をすべて燃やして焦土とした。去年の冬、ここを焼かなかったので、徳川軍が根拠地として城攻めが便利となったからである。徳川方の水軍、九鬼長門守守隆、小濱民部光隆、向井将監忠勝、千賀與八郎信勝は、船を進めながら大銃を放って陸に近づくと、道犬は驚き慌てて大阪へ逃げ帰った。

24日 常光院が大阪から戻って「秀頼は大阪城から郡山へ移ることを受け入れそうもなく、城中の諸将は、去年の冬の和平に懲りて、自分のいうことを受け入れなかった」と報告した。

25日 当時、摂津の高槻城には城主がいなかった。ここは重要な場所なので、家康は誰かに守らせたいと考えていると、石川主殿頭忠総が板倉勝重に志願した。家康は彼が敵に近い場所にある城へ自ら入ることを志願したので感心して許した。忠総は高槻城へ入って、三島口に土居を築き、番兵を置いて、大阪から出て来た15人を捕えて秀忠に献上した。また、星野長太夫という家来をスパイとして、大阪城内へ潜入させて敵方の戦略を聞いて報告した。

この春、秀頼の使者として7組の頭の1人の青木民部少輔一重は、去年一度家康に仕えた事情があり、家康も彼の才能を認めて、京都に留め置いていた。彼の宿の周辺に所司代の家人などを置いて、それとなく監視して大阪へは返さなかった。そしてもし逃げれば、弟の次郎右衛門可重を殺すと厳命していたので、一重も詮方なく京都に住んでいた。

26日 秀忠は昼前に二条城を訪れた。

藤堂高虎は淀を発って、河内の枚方へ進軍した。

井伊直孝は橋本へ着いた。

播磨、備前、淡路の池田家と備中の兵は、大阪城の西から海に出る通路を遮断するために、尼筒崎(*尼崎)と西宮に来た。

毛利甲斐守秀元は、長門の豊浦(*下関)を発って長府(*下関)から船で大阪へ向かう時、摂津の室ノ津(*室津)に大阪方の海賊が待ち受けて防ごうとした。秀元は怯まず通過すると、明石の岩屋港の敵の船から火砲で攻撃された。秀元はこれを追い払って、西からの諸軍に先立って轉法院口(*天保山)に入港した。毛利長門守秀就は海上で停滞して遅れたが、先鋒の福原越後守廣俊、児玉豊前守は兵庫に入港した。

紀州の浅野但馬守も和泉まで兵を進めた。

〇家康と秀忠は、「明後日二条城と伏見城から出陣する」と全軍に連絡した。(*『駿河記』に一致)

杉浦内蔵允正友は代々鉄砲の名手で忠実な家来なので、家康は呼びよせ、相模の東郡の600石を与え弓卒50人をつけた。

〇和泉の郡山の砦を守っている筒井主殿助定慶は、与力36騎と仲間の浪人を集めて20日までには大阪勢が攻め寄せてくると待っていたが、なかなか来なかったので、集まった者が退屈してバラバラになっていた。

そこへ今日大野主馬の手勢やその組の者、大和の一揆衆、箸尾、窪庄などが一緒になった2千人あまりが、関越えから郡山までの7里を夜中に攻め込んできた。筒井家の斥候がいい加減で、敵3万が攻めてきているというと、主殿助は慌てふためいて、弟の紀伊守慶之の止めるのも聞かず、領地の山辺郡福須美へ逃げようと、奈良の興福寺の妙喜院まで撤退した。しかし、兵は皆離散してしまった。敵は槇ノ島に来て二手に分かれ、奈良口と九條口から郡山へ向かおうとした。

27日 板倉加賀守勝重は、小幡勘兵衛景憲の密告によって、二条に侍大将を留守番としておくように進言した。

家康は、「今京都にどんな用心するようなことがあって警護するのか」と述べた。ところが尾陽参議義直の家来の甲斐庄三平と今井猪兵衛が、放火を企てる賊を見つけて捕え、成瀬隼人正正成に報告した。すぐに板倉勝重が尋問したところ、勝重の屋敷の後ろの町中に、仲間が43人隠れていると白状した。そこで彼らをすぐに捕えて獄に処した。

こんなことがあったので、家康は伏見の城代の松平隠岐守定勝を呼んで、二条城の留守番を命じた。そして、弟の河内守定行、大番頭の渡邊山城守茂、砲卒の長、根來右京守次、同愛染院、柘植三之亟廣次、さらに加番の者に、城を固く守るように指示した。

〇ある話では、越前家の浪人、御宿勘兵衛正倫は、去年秀頼の募集に応じて、戦いに勝てば越前をもらえる約束で籠城し、名前も越前と変えた馬鹿者である。しかし、その子の右馬助は以前江戸をうろついていたが罪を犯して牢獄に入れられ、今もつながれていた。

越前は今度の戦いをつらつら考えても、大阪に勝ち目はないものの、一度秀頼を主人としたからには秀頼を裏切るのは本意ではなかった。しかし、右馬助の刑を遁れさせるために、とりあえず家康に付こうと考えた。そこで一昨日の25日の夜に大阪の城から京都へ忍び込んで、板倉勝重にその考えを告げた。板倉は喜んで必ず息子の刑を許すと約束して、正倫を大阪へ帰した。しかし、彼は今日になって正倫の関係者を京都の市内で捕えたという。その真偽は明らかではない。

上で述べた40人ほどの賊は、古田織部正重然の茶道の師匠の宗僖を頭としていて、あす28日に家康と秀忠の留守を狙って御所に放火し、十文字の島津の旗を偽って揚げて、二条城など京都中を焼払おうとしていたと白状した。

そこで家康は急遽本多上野介を伏見に呼んで、明日の出兵を来月3日まで延期すると各隊に通知させた。また、「秀忠は大和路へ向けて出兵するように。おまえは先陣を望むか?」と尋ねさせた。秀忠はすぐに伏見から安藤対馬守重信を上野介と共に家康の許へ行かせ、「河内路から行こうと、大和路から行こうと、どちらの場合も先に戦いを始めさせてほしい」と伝えた。

そこで家康は、「大和路の田尻越えの魁の水野日向守勝成には、大和勢を付け、2陣は本多美濃守の伊勢組に、3陣は松平下総守忠明の美濃組を秀忠の先鋒とし、藤堂高虎には河内の讃良郡須奈で藤堂と井伊と合同で戦うために、河内の交野郡枚方から須奈村へ進軍してそこに本陣を設けさせ、そこは本多伊勢守康紀(後の豊後守)と同彦次郎忠利に任せて守らせるように。井伊直孝も交野郡橋本から洞が峠を越えて同郡津田へ進軍するように。松平和泉守乗壽の組の、妻木、高水などの小禄の衆と信州の小笠原鞆負清、知久座光寺、宮崎太郎左衛門信重は藤堂の出た後の枚方を警護させ、京極若狭守高知、同丹後守忠知は茨田郡出口村に陣を設けるように」と中川半左衛門と山田十太夫に指示させた。

又「両京極が出口に駐屯するところを大阪方が攻めてくれば、美濃衆が枚方から援軍として抗戦せよ。伏見の加番の松平安房守信吉は飯森へ行って守るように、そしてその代わりには関東衆、一色、菅谷は伏見へ来させるように」と、二条城で本多上野介、安藤帯刀に、口頭と書面で伝え、伏見では酒井雅楽頭、土井大炊頭に伝えた。

その夜、家康は水野勝成を傍へ呼んで、「和泉の葛下郡田尻越えの魁として、大和の地元の武将を付けると先ほど命じたが、昨年の冬に勝成の老臣に藤堂を大和組の頭に据えたところ、大和組が勝手な真似をしていたという噂があって、勝成も心配しているという知らせを聴いた。しかし、藤堂はおまえの仲間同然の重臣じゃないか、どうして大和の士がお前や藤堂を馬鹿にしたりするものか、みんなで任務を遂行して、昔の一本槍のような働きをしたらよい」といった。そして家康は彼の望みを聴いて、去年の冬に組となった掘丹波守直寄と丹羽式部少将氏澄も付けたので、勝成は感激して、山城の長池まで進軍し明日大阪に向かうことになった。

一方、大阪から大野治房の組が、大和の浪人衆と共に下郡郡山の町口へ攻め込んできて、坂上清兵衛が指揮して大砲を連発して放火した。彼等は非常に強力で、南口から東南方向2里まで進攻して南郷寺田の家々を侵略し、奈良へ攻め込もうとした。しかし、今日中に関東勢が奈良へ来るという噂があったので、高市の今井村を攻略しようとした。すると一向宗の僧徒の今井兵部が地下人とともにそこへ出向き、激しく火砲を発したので、彼らは村に放火することが出来ず、百済村を焼いて南東へ引き返し、法隆寺あたりを放火した。

家康の代官、雨宮三郎右衛門は、地元民を集めて郡山の城に入って衛った。

宇治郡二見の1万石の領主、松倉豊後守重政は、筒井順慶とその子の定次に仕えた優秀な武将である。騎士60雑卒500人余りで3里ほど進軍して、五所の西三本松で、御所の桑山伊賀守定晴(3万2千石)と高取の本多左京亮政武(2万5千石)の許に使いを遣って、大阪勢と戦うための兵糧を乞うたが2人共も応じなかった。

重政は非常に怒って馬を進め、藤堂将監高久も150ほどの兵に加わって、10里の道をどんどん進み夜になって片岡谷に着いた。重政の弟の十左衛門重宗は先頭に立って、奥田三郎右衛門忠一とわずか80騎で奈良へ着いた。大阪方は今井へ向かって、奈良へは攻めてこなかった。しかし、奈良奉行の中坊左近時祐と代官の藤林市兵衛は、奈良を逃げ出して長池まで避難し、水野日向守勝成が丁度陣を敷いていたので会って、大阪勢はすでに般若坂まで襲って来ていると告げた。

勝成は「奈良を敵に焼かれては武士としては恥である」と、長池から一騎で木津まで駆けて行ったところ、松倉十左衛門と奥田三郎右衛門が派遣した使者が、「敵は今のところ奈良には来ていないので大急ぎで、奈良へ来て守ってほしい」と頼んできた。勝成は馬に鞭をいれて、法隆寺に駆けつけ陣を敷いた。

このようなときに、中坊左近の留守宅に泥棒が入って、家康から預けられていた器や自分雄財産が全て奪い取られたという。

〇この日、紀伊の国主、浅野但馬守長晟(ながあきら*長政の子)の先鋒の亀田大隅高継と上田多湖らは、和泉の安松に進軍した。

浅野左衛門が樫ノ井へ進軍すると、和歌山から園部彦右衛門が駆けて来て、「紀州の地元の士多賀羅五兵衛、戸津川八蔵、大會孫四郎、湊惣左衛門、湯川五兵衛、山口喜内、堀田村の若狭、高石村の次郎兵衛、脇村の半左衛門などが一揆を起こし、和歌山の留守を狙っている。吉野の郷士もこれに同調して長晟が今の陣を払って帰るなら、大阪から大野主馬の下、同修理亮の兵が攻めて来て彼らを挟み撃ちにしようという計画で、修理亮の家来の北村善太夫が、スパイとして紀州へ潜入し、国内を密かに探っている」と連絡した。

長晟は、海と陸から寺内清左衛門と原官兵衛の2千余りの軍勢で紀州へ戻り一揆衆を攻撃しようとした。又長晟の留守を預かっていた者たちは、修理亮のスパイなど30名ほどを捕えて山口の陣所(*?)へ報告した。また、一揆衆の内、高石村の次郎兵衛が、尾崎村の九右衛門に「明日28日、大阪から大野治房の2万余りの軍勢が、長晟が紀州へ戻るところを追するために、和泉を出発した」といった。

九右衛門は驚いて五更(午前3時~5時、深夜)に、安松に来て、浅野の魁の武将らに連絡した。上田と亀田は驚き、また知らせてくれたことに感謝して、大阪とどう戦うかを相談した。

九右衛門は農民だけれど賢い人なので、彼らは土地の地理を尋ねた。すると「この地は天正12、3年の頃、紀州の一揆衆と根來寺の僧徒が和泉を侵略したときの戦場に近く、陣所の後ろの船岡山の濱の手には21町四方の池があり、この辺りは皆沼で守るにも戦うにも便利で、出たり引いたり回ったりして敵を負かすにも容易である。だから信達まで撤退して、川の前で戦うべきだろう」と答えた。そこで亀田、大隅、上田主水正、多湖助左衛門は安心して、旗本へ連絡した結果、先陣は信達村に陣を張り、左衛門太夫などは樫の井まで撤退することに決まった。

28日 松倉豊後守は和泉の長池を発ち、奈良からは藤堂将監と高久駆けつけ奥田三郎右衛門忠一も到着して夜中中、敵を追って片岡谷へ行き、敵が河内の国分へ向かっていると聞いて、一揆で追いかけたが、すでに敵は皆国分へ撤退したので、逃げ遅れた士を1人、雑卒6人を虜にして引き返し、この7人の首をはねて使者から二条城の家康に献じた。これは今回の戦いの一番首だったので、家康は喜び、使者に黄金を与えた。翌年松倉は5万石に増やされ、肥前の島原の城へ移ったという。

家康は高力摂津守忠房、鳥居土佐守成次を奈良の守衛として行かせ、本多家神康紀は昨日の指令を変えて、河内の讃良郡松原村へ行って奈良への口を遮るように命じられた。松平和泉守は美濃信濃の小禄の士たちを連れて、讃良郡の枚方に進んだ。彼の組の稲葉佐渡守正成は老巧の士なので、家康は高札を彼に立てさせた。元和1年4月28日枚方高札.jpg

『大阪に籠る者の妻子は、どこに隠れていても逮捕して斬首刑に処す。また城から逃げ出してきた者は許されて、その態度によって知行や褒美が与えられる。4月28日』

〇丹波篠山の城主松平周防守康重は、同じ国の亀山の城主岡部内膳正長盛の援兵であった。摂津の曽根の士が一揆を起こしたので、康重は家来にこれを鎮圧させ、首30余りを亀山の城外に晒した。

秀忠の命令によって、河内路の布陣は遠山六左衛門、加藤傳兵衛が仕切った。遠山は渡邊山城守成の組である。加藤は最初御膳番として秀忠に従っていたが、当時は牧野内匠頭信成の組にいた。

〇この日、大野主馬治房は、兄の修理亮の部下の兵1万5千を和泉の佐野に駐屯させ、宮田三七照定に岸和田の城を抑えさせ、主馬は貝塚に駐屯していた浅野勢が安松から攻めてくるというので、それを追撃するために、主馬の先鋒は、上総養老の郷素生で若い時から加藤佐馬介嘉明へ仕えて手柄を上げていた塙團右衛門を、隊長に淡輪六郎兵衛、岡部大学など3千の兵を向かわせた。浅野方は八町畷を少しずつ引き取っていると、亀田大隅守高網は鷺の蓑毛で織った羽織を着て殿をつとめた。

樫ノ井の町中3町ほど通過した時、樫ノ井の東の河原へ敵の分隊長岡部大学が攻めて来たので、大野大隅守眞驀を呼んで岡部を追撃させた。しかし町の中にも塙團右衛門の組の7,80騎が駆けて来た。浅野家の隊長の上田主水正重は20騎ばかりで、火砲50挺を町に隠して待ち受けていた。彼等は後から強力な4万の加勢を得た。

敵はどんどんと町に侵入してきたので、主水正は前進して、團右衛門と最初に槍を合せ、互いに怪我をした。彼の伴の高河原小平太、水谷又兵衛、横江平左衛門、横関新三郎、一丸小平太、庖厨人市右衛門と軽率の小頭3人が、敵を突いて7,8間退却させた。敵はまた攻め戻ったので、主水正はまた槍を合せた。その時亀田大隅が川原から駆けて来て馬を降り、並んで槍を揃えて敵を退却させ、樫ノ井から下がって橋爪で敵を待ち受けた。三度目に敵がかかってきたときに、主水正は最初に乗込んできた坂田庄次郎を突き倒し、伴の横関新三郎に首を取れと命じ、新三郎は庄次郎に駆け寄って斬り殺して、軽率の小頭芝橋金右衛門に首を取らせ、同彦右衛門に持たせて本陣へ持たせた。

亀田は、敵の山田五郎右衛門と金丸小膳に向って突いて出て、2人を退却させた。塙の長臣の山形三郎右衛門も槍を合せたが上田、亀田、多湖助左衛門、貴志九兵衛、安井喜内と争ったので、山形も少し退却した。そこで上田に声をかけられたので引き返したが、主水正が槍で突いた。しかし、槍の柄が中ほどで折れてしまった。そこへ山形が飛び込んできて取っ組み合い、主水正の上に被さったのを見た横関新三郎が駆けてきたが、山形は屈せずに主水正を組み伏せた。

横江平左衛門は敵を軒下へ突き寄せて振り返ってみると、主水正の兜の半月の飾りが地に付けられていた。そこで彼は突き寄せていた敵を離して主水正を押さえ込んでいる山形の股を斬り落とした。主水正は起き上がって、ついに新三郎に山形の首を取らせた。山形の下人が救いに来たが、横関が突き伏せ、最初に槍を合せた敵とともに首を3個取った。

松宮庄次郎は組討して手柄をあげた。

浅野長晟は、信達まで撤退したが、上の戦いの話を聞いて進軍し、浅野左衛門は上田の三度目の戦場の左の方に進み、小野慶雲の采配で横から攻めて、軽率の仙石角左衛門がこの隊として一番首を得て長晟の本陣へ届けた。しかし、その組の軽率を棄てて旗本へ来たことは、やり過ぎだと非難を浴びた。

このような次第で、淡輪六郎兵衛は永田治兵衛に討たれ、岡部大学則網、金丸小傳次等も戦死した。塙團右衛門は鎧の上帯の上を、2間ほど離れたところから多湖助左衛門が射た矢がかすったが、すぐに向っていって多湖を突いた。しかし、彼は身を開いて槍を避けたが、團右衛門はすぐに多湖の弓の弦を十文字の鎌で切った。そして浅野左衛門の従兵の八木新左衛門が出て来て、團右衛門と突きあった。塙はもともと強い武将だったが、上田によって怪我をさせられたので結局八木に討たれ、敵は全て敗北した。

大将の大野主馬は、貝塚の願泉寺で酒宴をしていたが、味方が敗北したことを聞いて救援するかどうかを話し合っている間に、浅野勢は樫ノ井から椿坂まで撤退し、その後を追うことが出来ず、仕方なく樫ノ井あたりを焼払い、安松の蟻通し宮の前で敗残兵を集め大阪に帰った。

しかし、昨日の未明から出兵していたので、将兵は疲れ果てて、ようやくのこと岸和田の浜辺あたりを通過していると、岸和田の城主の小田大和守吉英と援兵の同伊勢守吉親、金森出雲守可重が城から兵を出して彼らを追撃した。敵は振り向きもせずに逃亡し首33個を取られた。

さてここで活躍した上田主水正重安は、最初は丹羽五郎左衛門長秀に仕え、天正10年、明智光秀の反乱の時、大阪城で光秀の甥の織田七兵衛信澄を攻めた際に、重安は一番乗りして信澄を討ち取り、それ以降秀吉について主水正従5位下となって1万石を領していた。しかし、関ヶ原の戦いでは石田方に付いたので、家康に領地を召し上げられ、髪を剃って宗古と号して茶道で余生を送っていた。しかし、浅野幸長が彼を呼び寄せて1万石を与えた。

幸長の家中にも戦功のあった者がいたにもかかわらず、浪客を招いて1万石を与えるとはどういうことかと皆が憤慨したし、世の人も「高い給料を取る茶道の坊主」と嘲笑っていた。家康はもともと宗古が優秀な武将だと知っていたので、ある日彼に会った時に「おまえはすぐに還俗して幸長に尽くせ」と述べた。そこで彼はさっそく髪を伸ばして家康のいうことを聞いて、幸長に仕えるために今日自ら3度も槍を合せ敵を負かしたので、彼をプロモートした幸長の目利きを世は賛美した。

29日 藤堂高虎は、枚方に進み井伊直孝は須奈に着いた。

今日浅野長晟の手紙が着き、大野主馬のスパイが北村らを捕えたと家康に伝えた。

晦日 浅野の樫ノ井での戦勝を家康に報告するために、寺川佐馬介と関市兵衛が二条城へ来た。家康は2人を呼んでその様子を尋ね、長晟へ感謝状を贈り、老臣に奉書を送って2人の使者には馬が与えられた。元和1年4月晦日 本多・板倉・本多ー浅野但馬守.jpg

5月小

朔日 大小名が二条城を訪れた。そこで「家康が明後日に大阪へ向けて出陣する」ことが伝えられた。

家康は板倉勝重から小幡勘兵衛に対してまず、「大阪城の糧米が欠乏している訳」を尋ねさせた。勘兵衛は「鍵の掛けられた倉庫の数から糧米の量を見積もり、総勢を考慮すると僅か2,3か月以上はもたない」と説明した。

前に家を飛び出して罪を許された隊長の日向守半兵衛は、島田清左衛門直時に従って戦いに参加するように命じられた。

尾張参議中将義直の家来増田兵太夫盛次は、右衛門尉直盛(*長盛の誤り)の子なので秀頼に従って死を共にすることを望んだ。家康の許しを得て大阪に赴いた。

浅野長晟は、樫ノ井の戦場の図や戦いの詳細の記録そして塙、淡輪、山形、横江治右衛門、山内権三郎、須藤忠右衛門、熊谷忠大夫、徳永浅右衛門、坂田庄次郎、岡部大学、金丸小傳次などの首11個を献上した。本多上野介がその首を見ると、塙の首は両目を開けていた。このような首は首実検できないと、家康には見せず、暑い時節で首が傷んでしまったと説明した。秀忠もまた、長晟に感謝状を贈った。元和1年5月朔日秀忠ー浅野但馬守.jpg

〇浅野は急いで帰国して、蕭墻(*せいしょう、身内、自国)の中の殃(*わざわい)を解決するようにと命じられ、紀州へ帰国した。先に紀州へ帰した寺西清左衛門も、一揆が大きく広がらない前に滅ぼそうと急いで駆けつけ、険しい鹿が瀬、蕪坂(*かぶらさか)を越えて、一揆衆を急襲すると、彼らは和泉へ向かった。しかし、大阪方が敗退したので、見込みが外れ、忽ち形勢不利となって山林に逃げ込んだ。寺西は彼等を討って首を取ったり、生け捕りにしたりして長晟へ送った。長晟は首21を京都の家康に献じ、捕虜は紀州路で磔にして晒した。しかし、一揆の棟梁湊宗左衛門は行方不明となった。

樫ノ井の戦いで大阪方は負けたので、堺の警護の槙島玄蕃允照光、赤座内膳正直則は早々に大阪へ撤退した。

〇この日、秀頼は天王寺の前線を視察するために、本座、新座の大将、7組の頭、弓鉄砲の長を連れて大手門から出て八町通りを茶磨山に行き、遥かに地形を眺め、戦いの便利を相談し、更に平野、岡山辺りを巡視して玉造から城へ戻ったという。

2日 家康の旗本の先発隊、本多佐渡守の組の戸澤上総介政盛、六郷兵庫頭政乗、イ賀保兵庫介舉誠、立花左近将監宗茂、前田大和守利孝、日野根織部正吉明、秋元越中守富朝、那須左京太夫資影、大関、太田原、福原、蘆野、岡本、伊王野、千本父子、甲斐衆、武河衆、武蔵の東金の鈴木党が京都を出発し、綴喜郡木津まで順に進軍した。

今日は雨で、夜になって家康は使いの秋元但馬守泰朝を伏見に行かせ、明日に出発を延ばし、5日に秀忠と共に河内路から出陣すると伝えさせた。秀忠は家康の考えが分らず、どうして明日にするのだろうと驚いた。本多佐渡守はまだ伏見にいたので、「とにかく家康に従うように」と諫めた。秀忠はすぐに安藤対馬守を秋元に付けて二条へ行かせ、家康の考えを尋ねた。家康は阿茶の局からその理由を説明させた。

〇ある話では、秀忠の御家人で、以前に出て行った岡村喜左衛門が、密かに大阪から来て、板倉勝重に「自分は京都に住んでいるが、徳川の為にわざと大阪城に籠って敵の計略を探っていた。すると城内の空気が急に変わって、家康と秀忠が京都を出た後に御所に放火し、去年のように大和路、河内路から家康と秀忠が大阪へ向かうだろうから、大和路で旗本軍へ無理矢理に襲い掛かり決戦に挑もうとしている」と訴えた。そのため、明日3日の家康は河内路、秀忠は大和越で出陣する予定を急遽変更して、5日不成就日だけれど、鎌倉幕府の時、大元国の兵船数千関隻が筑前博多の沖に来て日本を占領しようとしたが神風が起きて、異国船は全て壊れ軍隊が海に沈んだ縁起のいい日なので、出立を5日と決めたという。

3日 家康は大和路の総大将は、越後少将(*忠輝)と決められ、彼は政宗に続いて兵を進めた。ここで、奈良の警護の鳥居、高力は、再び秀忠の軍に入り土居大炊頭を援護するように命じられた。

4日 秀忠は大和口の先鋒の水野日向守を伏見の城へ呼んで、黄金50両を与えた。彼は夕方に退出し夜中に和泉の法隆寺の陣へ帰った。

武徳編年集成 巻79 終(2017.6.15.)