巻78 元和元年3月15日~4月13日 大坂夏の陣~
元和元年(1615)
3月大
15日 淀殿と秀頼の使者として青木民部少輔一重、常光院、大蔵郷局、二位局、正榮局などが駿河へ行き、家康が無事に帰還した祝意を伝えた。また、冬の戦いで摂津、河内、和泉の農作が出来ず、家来たちを養えないのでできれば援助してほしいと申し出た。
家康は「尾陽侯の婚礼が間もなく予定されているので、自分は尾張へ行きたい。あなた方も先に名護屋へ赴く用意をするように。また関東の婦女は礼儀に疎いので、青木も尾張へ行って待っているように。義直の婚礼が終われば、自分も京都へ行くので、その時に摂津、河内、和泉の住民の状況を調べてしかるべき処置をしよう」と答えた。そこで、大阪の3人の女性は名護屋へ行って、義直の母や成瀬、竹腰らと婚礼の準備をした。
今日、京尹の板倉から急ぎの手紙が届き「大阪勢は再び兵を挙げるために浪客を募集していて、亡命者や郷民、流れ者が喜んで雲霞のように集まっている」と知らせて来た。家康は「弱い兵が集まるのは、自滅の始まりだ。そんな連中が集まるといって心配するな」と指示した。
16日 板倉内膳正が京都から戻ってきて、秀頼の誘いに応じて15万人が集まったらしいことや、そのほか大阪の様子について集めた情報を家康に報告した。(*『駿府記』では秀頼方の状況の仔細は書かれていない)
〇『小幡家伝』によれば、勘兵衛の計略によって、大阪方はここ14,5日の間に武藤丹波が協力して、火砲の下手な軽率600名ほどを追放した。そのために城では軽率が不足してすぐに京都へ兵を出せなくなったと、景憲は松平定勝の家来の酒井三右衛門に密かに連絡した。そこで定勝はすぐに京尹へそれを伝え、京尹は今日駿河へ急ぎの手紙を送ったという。
17日 伊達政宗は冬から大阪に留まっていたが、今日駿河に来て、家康に会った。家康は長い滞在の労を労って盃を与えた。
〇『小幡家記』によれば、今日の早朝から大阪の景憲の宿の周辺がにわかに騒がしくなり、橋本彌右衛門からも食事が届けられず、景憲が殺されるような情勢となった。しかし、彼は別に動じることもなく、小鼓を取り出して謡などを楽しんだという。
18日 江戸からの使者、土井大炊頭利勝が駿府へ来た。(*『駿府記』では密談したとある)
〇『小幡家記』によれば、勘兵衛が徳川のスパイであることを大阪の大野主馬治房が聞いてきて、夜明けに橋本彌右衛門を小幡の許に行かせて様子を窺わせ、朝に景憲を主馬の館へ呼んだ。景憲は奴隷を1人連れてやってきた。
岡部大学、武藤丹波と随雲院が彼に会って、妙心寺の長老と弟子の佐蔵王が送って来た手紙を見せた。それには「小幡勘兵衛という徳川のスパイが、この2月4日に伏見から大阪に着いて28日に伏見に戻り、松平定勝に大阪の極秘情報をすべて報告した。大阪では近江へ行くといいながら実は伏見へいったのである」と書かれていた。
これを見せて3人は勘兵衛を尋問したが、彼は動じず、一つ一つ弁明をした。3人はそれを主馬に話した。主馬は自分で小幡に会って「お前は徳川のスパイでないのを知っている。板倉勝重の陰謀で佐蔵王にこの手紙を書かせ景憲を殺そうとしたのだな」といった。お陰で勘兵衛は虎の尾を踏まずに済んだ。
主馬が小幡の計略にはまった理由の一つは、一昨日、秀頼が景憲に騎士を50人付け、家来の杉山八蔵と村上庄次郎に、弓や鉄砲の兵と合わせて300人を組みにして軍功をあげよと命じた時、主馬は景憲の連れている軽率も雇いあげようと、黄金200枚を与えようとしたが景憲は固辞して、「自分の任務は大将ではなく、ただ軍監とか斥候を職務として、作戦をアドバイスすることである。だから自分の兵は村上と杉山と24,5人の騎士と、軽率100人で十分である。秀頼が天下統一するまでは、只の雇われの家臣である」といって黄金を返した。それから景憲はスパイではないと主馬が疑いを持たなくなったということである。
その二には、先月28日に勘兵衛は、大阪から伏見へ戻り従者は大阪に残していた。そして本人は伏見の腰曲輪の酒井三右衛門の家に潜伏して、今月11日に大阪へ密かに戻ってきた。しかし、妙心寺の僧はその実情を知らなかったために、主馬へ送った密書には勘兵衛の伏見へ往復した日付が実際と違っていたことである。
そして第三には、景憲が昨日小鼓を鳴らして、今日も奴隷一人だけを連れてすぐに治房の家に来て、なにも慌てた様子がなかったことである。
そんなことで、主馬と竹田榮翁は疑いを解いて景憲を仲間として酒宴を設けた。その席で主馬は勘兵衛に「あの家には長く住んではならない、家を主馬の領地の中に造って、彦根の老母を移して質とすれば悪いうわさも起きないだろう。その家ができるまでは堺に住むように」といった。そんなわけで勘兵衛は間一髪で逃れて堺に赴いたという。
22日 家康は、駿府の鹿子花水車で石火矢の銅の筒を鋳造したという。
24日 大野治長の使いの米村権右衛門が駿府へ来た。
25日 この頃すでに近辺で流行していた神踊(*伊勢踊り)というものが、今日から駿河の城内や市中で大いに開催された。非常に美しく風情のあるものだった。
〇堺の港から小幡勘兵衛は大阪に戻り、大野治房に会って、今月27日に領内の新居へ移ると約束した。そこでこれまで治房は彼に監視人2人を付けていたが疑いを解いたので、この監視人も付けなくなった。そこで勘兵衛はその夜は京極備前守の従者の許に泊って、朝になって堺へ戻った。
26日 小幡景憲は夜中密かに堺を出帆し、家来たちは陸路で尼崎へ向かわせた。
27日 朝、景憲は尼崎について、茨城へ向かった。
28日 昼頃景憲は伏見に着いて城代の松平定勝に大阪の企てをすべて報告した後奈良へ赴いた。(後に大阪方が奈良へ討手を派遣するという噂があり、松平定勝は景憲を近江の坂本へ移動させた)(*『駿府記』には小幡景憲に関する記事はない)
29日 江戸の使いの井上主計頭正就が駿府へ来た。(*『駿府記』には密談とある)
〇晦日に家康は彦坂九兵衛光正に、駿府での神踊を禁止させた。これは巫祝(*巫女)が民を騙すからである。
〇太田備中守資宗と安藤治右衛門正次に、それぞれ500石を加えた。
〇大阪の大軍が今月京都を攻め滅ぼしに来るという噂が広がり、商人たちが大騒ぎした。彼らは御所や仙洞御所は攻められないだろうと財宝を運び込み、月卿雲客(*公家や殿上人)の家に妻子を隠し、鞍馬や愛宕、高尾の山中へ資財を隠すなど、動揺が半端でなかったので、駿河から井伊掃部頭直孝、本多美濃守忠政、松平下総守忠明は、近江と伊勢の勢力を連れて京都へ来て、東寺に駐屯するように、また藤堂和泉守高虎は、淀の城へ入り大渡の橋際に検問所を設けて往来を監視するように命じられた。
和泉の岸和田の城主、小出大和守吉英には、援兵として小出伊勢守吉親、金森出雲守可重、伊東掃部介治時を行かせた。その他諸国の老臣へ手紙を送って、大小名は戦いの用意をして、駿河と江戸へ集まり、また京都や難波へ向かうように指示した。
〇伝えられるところでは、小笠原元且は、「夏の陣で家康が駿府を発ったわずか5日前に、下総の古河の小笠原秀政の許に出兵の指令を受けたので、すぐに発った。この例に習って武士たるものは平時にも戦いの準備を怠るな」とかねがね話していたという。
4月大
朔日 執事が畿内の大小名に指令を回した。
『急告:大阪から落ちて来た男女や子供を問わず、誰かまわず逮捕するように。もし彼らを隠したりすれば曲者とみなすので十分注意すること』
4月朔日
土井大炊頭、酒井雅楽頭
2日 片桐且元は、領地の摂津茨城から駿府へ行き、家康に面会した。
大阪から来ていた3人の女性は駿河を出発した。
3日 尾陽侯の婚礼の為に、家康は明日名古屋へ向かうことが通知された。(先月21日には伴の者に密かに連絡された)
4日 家康は護衛の将兵500騎余りで駿府を発って、午後に田中城へ入った。駿府の留守番は庶子の鶴千代(水戸頼房)、その他の警護は冬の陣の時と同様であった。藤堂高虎は今日淀に行き、城を修理し大渡の警護を固めた。
5日 雨で田中に滞在中、大野修理亮が使いをよこして、秀頼を、大阪を避けてほかの国へ移す許可を求めた。淀殿からも常光院禅尼を通じてそれが伝えられた。家康は許さないと答えた。伏見の町の司の長田喜兵衛から届いた、大阪方は伏見まで出て来て市中で騒動が起きているという話を、永井右近太夫直勝が家康に報告した。
6日 家康は中泉の宿に着いた。秀忠は板倉周防守重宗を家康の許に派遣し、家康の指示を聴かせた。
本多上野介正純は、東海道の諸将は淀とか鳥羽へ兵をあらかじめ進めておくようにという指令を発した。
秀忠の先鋒5隊はすでに東海道へ入っている。
1番、酒井左衛門尉家次の組:松平甲斐守忠良、山内豊前守忠豊、小笠原若狭守政信、水谷伊勢守勝隆、仙石兵部少輔忠久、仙石大和守久隆、相馬大膳亮義胤
2番、本多出雲守忠朝の組:眞田河内守信吉、秋田城介實季、浅野采女正長重、松平石見守重綱、六郷兵庫頭政乗、植村主膳正康明、須賀摂津守勝政、一色宮内少輔直氏
3番、榊原遠江守康勝の組:松平丹波守康長、小笠原兵部少輔秀政、諏訪出雲守忠恒、保科肥後守正光、成田左衛門佐長忠、北条出羽守氏重、丹羽五郎左衛門長重、藤田能登守信吉、
4番、土井大炊頭利勝の組:掘美作守親吉、佐久間備前守安政、佐久間大膳亮安次、谷大学頭衛政、北条久太郎氏利、由良信濃守貞繁、溝口伊豆守宣政、
5番、酒井雅楽頭忠世の組:牧野駿河守忠成、鳥居土佐守成次、新庄主殿頭直好、杉原伯耆守長房、細川玄蕃頭興元、土方掃部介雄豊、稲垣平右衛門重辰、脇坂主水正安信
以上の5組は予定を早めて京都へ行って、秀忠の着陣を待ち受けるようにと宿ごとに伝えるために、江戸からは使い番の近藤勘右衛門用政が京都へ派遣された。
7日 家康は吉田の城へ入った。(*『駿府記』には濱松とある)
8日 家康は岡崎城へ入った。(*『駿府記』には吉田とある)
9日 名護屋の城中の平岩主計頭の館へ着き、しばらく滞在したという。(*『駿府記』には岡崎とあり)
10日 秀忠は大阪城を落とすために、護衛300騎で江戸を出発した。(*『駿府記』にはこの日に名護屋着とある))
旗奉行は三枝平右衛門昌吉(後の土佐守)、屋代越中守勝永、
槍奉行は米津梅干之助康勝、小林勝之介正次、多門縫殿介信清、永田善左衛門長利、
大番頭は阿部備中守正次、高木主水正正次、
書院番頭は青山伯耆守忠俊、水野隼人正忠清、松平越中守定網、
花畑番頭は水野監物忠元、井上主計頭正就、成瀬豊後守正武、
持弓頭は内藤右衛門正重(後の外記)、
持筒頭は青山善四郎重長、
総弓鉄砲頭は、近藤登之助秀用、久永源兵衛重頼、本多太郎左衛門、山角亦兵衛正勝、加藤喜助正次、森川金右衛門氏信、細井金兵衛勝吉、布施孫兵衛重次、駒木根右近利政、兼松源兵衛政成、倉橋内匠久次、
使い番は、中山勘解由照守、村瀬左馬介重治、近藤勘右衛門用政、青山善四郎重長、山田十太夫重利、青山石見守清長、石川久四郎政信、鵜殿石見氏長、牟禮郷右衛門勝成、今村彦兵衛重長、中川半左衛門忠勝、渡邊半四郎宗網、久貝忠左衛門正俊、小澤瀬兵衛正重、溝口外記常吉、安藤治右衛門正次(内藤右衛門正重も使い番を兼任した)などである。(ある話では弓鉄砲の軽率は500人足らずだった)
目付は、山岡五郎作景永、永井彌右衛門白元、高木九兵衛正次、木村源太郎元政、加藤伊織則勝、
歩卒の頭は、阿部左馬介忠正、松平半四郎重利(後内膳亮、大隅守)、同左馬介乗次、三井左衛門、
諸道具奉行は神谷與七郎清正、小野次郎右衛門忠明、荒川又六郎忠吉だったという。
今夜は神奈川の宿に泊った。
江戸城には大獣公(後の駿河亞相)、蒲生下野守氏郷、最上駿河守家親、鳥居左京亮忠政、内藤左馬介政長、酒井河内守重長、大番頭は松平丹後守重忠、土岐山城守定吉、それに町司などだったという。
11日 大阪の3人の女性と青木民部少輔一重と常光院を家康は呼んで、「秀頼が浪人どもを集めてまた戦いを始めようとしているという噂がしきりにある。そして京都を焼こうとしている。このために人々が恐れて不安に陥っている。すぐに京都へ行って、大阪が本当にそうしようとしているのかを確かめてほしい」と常光院と二位局を大阪に行かせた。また、大蔵局と正榮尼と青木一重には、京都に行って家康の命を待たせた。(*『駿府記』には10日の記事に相当する)
秀忠は藤澤に着いた。
12日 京尹の板倉伊賀守から急ぎの連絡が入った。それによればこの9日の夜、大野修理亮が大阪の本城から出るときに何者かが修理亮を刺した。しかし傷が浅かったが、彼は従者の肩に乗って追いつこうとした。その時治長の従者がその刺客を斬り殺して、翌日死骸を改めると、大野主馬の組の成田勘兵衛のスパイの中村権次郎だった。そこで大野は成田を呼んで糺そうとすると、成田は家に駆け戻って火を放って自殺した。その理由は分らなかったが、主馬は兄に対して犯意を起こしたのだろうと城内には疑心暗鬼が生じたという。
〇今日の夜中義直の正室(浅野紀伊守幸長の長女)は、熱田の宿から名護屋城へ輿入れした。(女用の輿50、女騎馬43人、長持ち300枝)家康には白銀千両、美服10着が献上された。(*『駿府記』と定量的に一致している)
今夕、秀忠は小田原城へ着いた。
13日 大阪から織田有楽と三男の武蔵守尚長が名古屋に来て、「大阪の諸軍は3部に分割され、7組の頭は後藤又兵衛が1部となった。大野修理亮がそれを管轄し、眞田左衛門佐、渡部内蔵介と明石掃部の一部になった。木村長門守がそれを管轄した。長曽我部祐夢と森豊前守、仙石宗也が一部となり大野主馬がこれを管轄している」と報告した。
〇この日、大阪城内で大野兄弟、木村、渡邊、薄田などが集まって、客将の長宗我部、眞田、後藤、森の4人を呼んで作戦会議をした。眞田は「この城は非常に堅固な名城であって、冬には籠城も固くできたが、今はすでに本城の外はなにも守る手立てがない。また味方も減ってしまって、味方となって恩賞を約束された者も、今度はわれわれ4人にその証書を返してきている。このような状態だから秀頼も早く京都へ行って参内して、伏見の城を豊前守内蔵助に7組の兵を付けて、5千ばかりで抑え、全軍は宇治と瀬田の橋を落として、志賀の辛崎で陣を敷くと、味方に加わる者も増えて運も開ける」としきりに勧めた。
長曾我部も後藤もこれに同調したが、大野は相変わらず乳臭さが消えない馬鹿で、これに同意しなかった。眞田は「われらの軍が京都を取り仕切って近江へ出れば、大昔から多勢には内部で問題が起きるものなので、徳川軍も禍は蕭墻(*せいしょう)より起きる(*禍は身内から起きる)かも知れないが、保証はできない。無防備になった大阪城で大敵を受け自滅してどうするのだ」としきりに諭したが、治長はいうことを聴かなかった。
かねがね秀頼に咫尺する(*ししゃく、近くにいる)輩は、清韓長老雲和尚(*南禅寺の長老)のいう老佛の道を聴き、今出川春季のいう有職(*文化)の事を云々しながら三軍の道(*軍事戦略や戦術)に耳を貸さないので、秀頼の運命がここに極まっているというのに、何も対応が出来ず漫然と時を過ごしていた。それで他から城へ来た武将たちは皆「どうなってるの」と眉を顰めて退席した。
七組の隊長たちは、「この城は東に深い沼、西には海があり、北は帯ように川がある。したがって徳川軍は必ず南の平地から攻めてくるだろう。いまはもう濠はないけれども吾らは10万の兵を左右に開いて城の外へ出て、徳川の旗が見えれば一気に戦いを決しよう。徳川軍は大勢なので油断をするが、吾が軍は一か八かなので必ず勝つ」といった。
秀頼は喜んで、秀吉の金の切り割の指し物の使用を許された小原石見守(町の司も兼ねていた)、布施屋飛騨守と経営の吏長(*?)を呼び寄せて、天王寺の辺りを平らにして、井櫓を埋め戦場にするように命じた。
大阪の旗本の騎兵は一隊50人もいないので、7組といっても家来15人を1隊としてせいぜい3組しかできないほど、秀頼の旗本の親兵は少なかった。そのため新たに募集して集まった浪人たちが何万人集まっても、昔からの徳川に忠誠を誓った、死を恐れない優れた武将軍団に対してどうして勝てるといえるのだろう。
武徳編年集成 巻78 終(2017.6.13.)
コメント