巻81 元和元年5月6日~7日

元和元年(1615) 

5月小第81.jpg

6日 午前6時ごろ、木村長門守重成は再び若江に出撃し、この村を本陣として、5色の大旗、5本銀の瓢箪の馬印を立てた。

先発隊の山口左馬助弘定と内藤新十郎玄忠は、若江から2町東の小堤で火砲360挺、弓25張を備えていた。その中で青木奈々左衛門、長屋平太夫、牟禮彦三郎、佐久間蔵人、黒川源太夫、杉森市兵衛、佐藤八左衛門、中西佐助、飯田一郎兵衛、古田次郎左衛門など20人余りが抜け駆けして、西郡村から小堤に沿って進軍し、藤堂方の藤堂新七郎や同玄蕃允などが南方の味方を援護するために隊が乱れているところを狙って、横やりを入れて襲い掛かり、その2人の武将をはじめとして50騎を討ち取った。また南と北の藤堂勢は、それまでに雑兵も加えて71人が命を落としていたので、この隊は敗北してしまった。

木村長門守は、先発隊があまりにも早く出過ぎていると平塚五郎兵衛に命じ、彼らを若江の村まで撤退させた。

そのとき、渡邊勘兵衛吉光は、高虎隊が乱れているところを撃とうと、北側の三戸村や阿野村へ進軍し攻撃したので、長曾我部勢は敗北を喫した。一方、矢(*八)尾の方では、徳川方の4組が旗を棄てて大敗北を喫した。

渡邊は横の方向に2,4町進軍して、矢尾の地蔵堂の西側にいた長曾我部勢を堤の上まで追い詰めた。さらに南方では、藤堂仁右衛門や桑名彌次兵衛の敗残兵を追って敵の後続を断つと、敵も少し戻ってきて矢尾の敵の村の中で、渡邊と交戦した。しかし、兵が疲れていたので、八尾から南方向へ敗退した。この頃各前線で敗退した藤堂勢も、流石に精鋭揃いだったので、塩川某は引き返して戦った。

渡邊勢は敵の五分の一の勢力だったが、2度の戦いで兜をかぶった首を2個取った。先に敵の首を取った者は首を高虎の旗本へ持ち込み、また負傷した者も帰したので、残った兵は30騎と高虎の本陣から来ている使い番の士たちだけになってしまった。

しかし、彼らは矢尾から大和川の欄干橋に向かい、敵の捨てた槍を拾って、はだしで西へ逃げる敵を追って1町あまり進んだ。渡邊が退くのを見て敵は2,30間まで追いついてきたが、渡邊は東の方に小高い畑を見つけたので、そこへ移ろうと堤から4,5間降りると敵が襲って来た。そこで渡邊は引き返して奮戦しながら、堤の下まで降りて来た。この時、砌母衣の士が1騎命を落とした。渡邊は小勢なのを敵に見透かされないように、畑の中に伏せていると、24,5町離れた高虎の本陣からの援軍が加わったので、兵力は300騎になった、敵は交戦しなかったので、双方抜き差しならなくなって睨み合いとなり、時が過ぎた。

〇この戦線の2陣となった井伊掃部頭直孝は、昼食の兵糧を腰にさげて河内郡松原村の陣を予定通り、藤堂の後から出撃した。しかし、平野辺りは目的地ではないので、道明寺へ南西(*南東の間違い?)に向って高安道(*八尾から信貴山へ向かう道)の末端に行こうとした。その時斥候の般若内膳が、「木村長門守重成が今若江に出て来ている。彼等が八尾に行って若江にもどる時間を見積ると、どうしても深夜に八尾に着き、それから引き返すはずである。軍勢は疲れているので、朝食の時を狙って襲撃すれば勝てるはずである」と2度本陣へ進言した。

そこで直孝は、若江に向かったが、行く手の玉串村までには深い田があり、その先に大和川の支流の玉串川の両岸には高い堤があり、敵にここを取られては困るので、騎兵500をすべて馬から降りさせ、皆槍を持ち、馬は1間離れて後から続かせて、2町を急いで進軍し、それから再び馬に乗込んで、粛々と進んだが、2町行くと、また深田のあぜ道があった。隊列を組んで整然と進んで玉串川を渡ろうとすると、川は浅く、馬の腹やひざ程度の深さだったので、一行は馬に乗ったまま忽ち渡って対岸で休息した。

敵は遠くから大銃を発射して攻めて来た。掃部頭の先発隊の将の、川手主水成次は、左右に駆けまわって、「誰も抜け駆けするな、地合いを見て一列で戦え、軽率も勝手に鉄砲を撃たず、隊長の指令を待て」と指示した。

さむらい大将の井伊十郎兵衛が斥候から戻り「そろそろ敵は槍で攻めてきそうだ。白母衣の指し物を隠している士たちが、陣からしきりに出入りしている。彼等は皆顔に見覚えのある者ばかりだから、よく見届けて討ち取るように」といった。これは敵の武将たちは、木村長門守が、以前から見込みのある浪人に米や金を配って面倒を見て来た連中で、今回の大坂の陣には実は加わりたくないが、木村の恩恵を受けてきたので、恐れながらも付き合いで参戦しているということだったからである。

朝になって両軍勢は激突した。井伊家の河手、菴原、木俣は一列になって火砲を発し、多くの敵を撃ち殺した。また勝鬨と共に鳥銃を2度発射した。河手主水は、両陣営の間を乗り切って馬3頭を敵に向かわせて、「皆は村の中では戦うな」と命令した。これには「凄い大将だ」と敵も感心して褒めた。

さて、皆川老圓の子、志摩守隆庸も、当時京都に住んでいたが、仲間20騎と共に直孝の隊に加わっていた。彼は駿馬にまたがり、敵中に乗り入れ代々受け継いできた刀を振るって、敵の兜を断ち割った。また徳川の旗本の浪人、河野権右衛門通重は最初に首を取った。皆川の従士の宇賀神八郎兵衛も首を取ったが、家康に叱られている身なので本陣へは届けなかった。

旗本の幸島若狭、大橋因幡、柏倉兵部左衛門、幸島左門、中島八兵衛、膝付大膳、安生彦内、金田瀬左衛門、大鶴主馬が奮戦した。

皆川志摩守は大坪流の馭者で、縦横に馬を走らせて指令を出した。彼の隊は7個の首を取った。

山口修理亮重政の嫡子の伊豆守重信、次男の長次郎広隆も、蟄居の身ながら直孝の隊に加わっていた。川手主水成次が堤に登った時に、井伊家の萬座七左衛門、遠山甚次郎、向坂彌五助、と山口伊豆守も続いて登った。敵方の山口左馬助、内藤新十郎、川崎、平塚、牟禮、知恩院眞驀が駆けて来て、川手は平塚熊之助に突き伏せられた。そこへ萬座七左衛門がかかってきたので、平塚は従者に川手の首を取るように命じ、萬座と対決した。山口伊豆守は平塚の下人を突き伏せて、川手の首を本陣へ送った。萬座七左衛門も平塚に突き倒されたが、遠山甚次郎が来て平塚を討ちとった。

堤に登った木村長門守を、井伊家の庵原主税が手持ちの銃を撃つと玉が命中し、長門守は堤から落とされた。

庵原勢が大勢堤に登ると、地元の高井田村の弓の名手の飯島太郎左衛門高定と同三郎右衛門は、遠くから矢を2,300本を射て、徳川軍が多数死傷した。

庵原勢が敗北する頃内藤新十郎、佐久間蔵人、山口佐馬助と、その兵300人が、猪の勢子を破るように井伊掃部頭の先発2,3隊を突き崩した。

その時井伊家の10人が槍で対戦して(これを井伊家の10本鎗という)、山口伊豆守が川崎和泉を討ち取った。(ある説では、大河内茂左衛門が討ち取ったという話もあるが、間違いのはずである)

その時、木村長門守重成は、「深田の中の畑で戦え」と命令すると、山口伊豆守はそこへ目がけて畔を伝っていくと、そこに沼があった。しかし、そこへ踏み込んで重成と鎗で対戦した。しかし、伊豆守は木村によって命を落とした(22歳)。

彼の家来の角村三右衛門は、伊豆の遺体を肩にかけて撤退した。父の修理亮重政は、畔の陰にいて息子重信の戦死を知らなかったが、指し物が見えないので尋ねると、次男の長次郎弘隆が来て事情を知らせた。修理亮は奮激して木村と決戦しようとかかって行った。

木村は、今日を最後と母衣を台に揚げて冑の緒をすべて切っていたが、味方が戦っているのでしばらく命を惜しんで、長屋平太夫や大塚勘右衛門とともに修理亮と何度か戦って退却した。この時、山口の従兵の小坂十太夫(後の山口木工左衛門)、寺西十兵衛(後の山口と改めた)、住山三右衛門(後の山口志兵衛)が負傷した。水野茂太夫(17歳)、千野八十郎(18歳)、長谷川兵左衛門(31歳)が戦死した。井伊家の川手主水成次は強豪で知られた主税の養子で、実は野見の松平石見守康安の子であるが、深傷を負って陣営に戻ってから戦死した。皆が彼の死を惜しんだ。

掃部頭の家来の向坂彌五助は、内藤新十郎の首を取った。井伊掃部頭は山手から徳川に先発隊が敗北する様子を見て、すぐに旗本を進めて突撃した。庵原助右衛門は歴戦の勇士で、敗残兵を集めて反抗し、敵を敗走させた。木俣清左衛門は、昨年の冬の陣で鉄砲に当たって傷がまだ治っていなかったが、輿に乗って出陣し、よく皆に指示を送って、敵をすべて討ち破って、先鋒の2,3隊は、玉造まで敵を追討した。

このように木村勢は敗北したが、若松市郎兵衛や齋藤加右衛門などは引き返して抗戦した。彼等は山口修理亮に抗戦され、山口は本庄川まで彼らを追ったが、敵方は地理に詳しく脇道を回って撤退してしまった。

〇藤堂の武将の渡邊勘兵衛は、今日の昼前から多勢の長曾我部を食い止めて矢尾堤で対峙し、高虎の本陣へ「早くこちらへ来て敵が撤退する前に討つと、須臾(*すぐ)に大勝できる」としきりに使いを送って進言した。

しかし、高虎は、勘兵衛が何が何でも自分だけが手柄を挙げようとして、左右の先発隊の諸将を見殺しにした、と憤慨していたので、矢尾の地蔵堂に火を放って、煙に紛れて早々に撤退するように何度も命令した。

渡邊は非常に憤慨して7度も催促した。旗本から派遣された軍使も敵までは4,50間あるのを見て、若い者に渡邊の言っていることを高虎へ報告し、勘兵衛の陣に滞在した。そこで旗本からは、援軍が2千ほど到着したが、その頃には敵は撤退を済ませ、大阪の諸軍と合体して戦いを準備した。

その頃、井伊掃部頭の旗本と遊軍が矢尾に進軍し、長曽我部の黄色地に黒餅の旗、朱三桃灯の馬印を見つけて攻撃すると、敵も色めきだった。

渡邊治太夫、吉田竹左衛門、渡邊三之助、早水四郎兵衛が堤の上に登るのを見て、渡邊勘兵衛の陣から一斉に槍で突貫した。そうすると長曾我部も流石で、戦列を纏めて先日藤堂方を追い返し、堤から久寶寺村まで整然と撤退した。

渡邊勢は後を追って何度も追撃すると、ついに隊列が乱れ平野から20町ほどの間に300人ほどが戦死した。敗残兵は右往左往して逃亡し、朝には5千もいた勢力が、大阪へ逃げ帰った時にはわずか500にも足らないほどになった。

渡邊は午後には平野を支配し、道明寺で大和組、伊勢組、美濃組に負かされて、平野へ逃げ帰る敵を南へ追い立てた。

自分の勢力もだんだん増えて7,800になったので敵を食い止め、高虎の旗本が来れば平野を譲り、敵を尚追撃しようと準備したが、高虎は来なかった。

使い番の永井彌右衛門白元と小澤瀬兵衛忠重が駆けつけると、渡邊は彼の計画を告げた。両使いも尤もだと、高虎の陣へ報告したが高虎は認めず、若江郡矢尾村から動かなかった。そこで渡辺も矢尾に帰った。この戦いで得た首は560余りだったが、その内渡邊の隊だけで300を取った。徳川方は、雑兵も含め195人が死亡し、負傷者は400人余りだったという。

〇井伊直孝の先発隊は、敵を追撃して久寶寺村に駐屯し、堤下の戸祭村の泉の水を飲み渇きを潤した。また、城兵二の味の勝負(*リベンジ)を遂行しようと、隊を整えて芝居を踏まえ(*形式を踏んで)首実検をしていると、味方の諸将が集まってきた。午後には取った首を本陣へ送られた。井伊家の討ち死んだ者は、騎士が60余り、兵卒が50余り、負傷者は奇兵も歩兵も合せて307人、雑兵180人ほどだったという。負傷者は夜のうちに松原村へ運び治療された。

直孝は藤堂と共に矢尾に陣を張った。今日直孝が得た首は山口左馬助、内藤新十郎、佐久間蔵人、牟禮孫兵衛、内藤監物など総数315だったという。

〇今朝、榊原遠江守康勝は、松平丹波守康重、小笠原兵部大輔秀政父子、仙石越前守好俊、銸(*諏?)訪安芸守忠恒、保科肥後守正光、丹羽五郎左衛門長重、および監軍の藤田能登守信吉などと共に、河内の松原村から小川を渡って、若江郡吉田と菅江の村の間に進軍した。

矢尾や若江で井伊や藤堂らが戦いを始めたころ、同じ郡の岩田村へ、木村主計宗明が騎士300余りで出て来た。(この地は若江の東の方向にある)康親の先発隊の村上右衛門と原田権左衛門は槍で攻撃し、敵味方が戦った。榊原の家来の三持勘兵衛が一番首を取った。貴志角之助は敵と組討したが、獲った首を味方にとられ怒って敵の中に飛び込んで、金梨子打鳥帽子形の兜をかぶった敵と組討した。使い番の久世と坂部が来てこの証人となった。

敵も必死に抗戦してなかなか強く、榊原家の元老の伊藤忠兵衛、高津長右衛門、工藤助左衛門、畑仁右衛門、安松矢之助、江波四方之助などは逃げなかったので死亡した。

康勝は、風毒腫を患い、鞍が膿で濡れている状態で我慢して指揮を執り、敵に横から攻めて破った。村上彌右衛門、原田権左衛門、小笠原孫六郎(左兵衛重廣の子)、伊藤宮内(忠兵衛の子で18歳)、丹羽四郎左衛門、伊奈新兵衛が奮戦して、昼頃に敵はついに逃亡した。康勝の一手は168個の首を取った。更に彼は進軍して藤堂を救援し、大阪勢を殲滅しようと望んだが、監軍の藤田能登守は関東や北國筋の戦いの経験によって、敵の行く先には必ず伏兵がいると、何度も進軍を止めて藤堂を救えなかった。

〇ある話では、今日榊原組の小笠原兵部大輔の陣の先に水があったが、深さが分らなかった。藤田信吉は不注意にここに踏み込むなと止めたが、榊原勢がこれを渡ると浅かった。小笠原の兵はそれを見て続いて渡り、木村主計の本隊と交戦しようとした。藤田はまた止めた。それは自分の兵が負けた時に小笠原勢に敵を撃たせるためだった。しかし、敵が敗れてしまったので、秀政はやることが無くなり、秀政父子は明日は戦って恥をぬぐおうと望んだ。

〇別の話として、本多美濃守忠政と小笠原秀政の妻は、ともに岡崎三郎信康の娘である。本多出雲守忠朝は美濃守の弟になるので、秀政は今夜出雲守の陣所を訪れ、上の考えを語り明日戦死して今日のことを償うと述べた。

忠朝もまた以前に家康に献上した蝋燭の事で、「榊原忠朝は亡父(*信康)に似ずがさつだ」として、ある処置をされた。更に去年の信幾野(*鴫野)の攻撃がついでだとうっかり口にして、これも父に似ず、「地形を知らないので嫌いだ」といわれたと聞いて、もう明日討ち死にしてもいいと思っていると話して互いに話し込み、「明日は死のう」と約束して別れたという。

〇今朝、道明寺、矢尾、若江で戦いが始まる前に、秀忠は須奈を出陣した。そして、高木九兵衛家政と久貝忠三郎忠俊に、敵が夜中からこの方面に出ていると家康に伝えた。

須奈を那須の7人の武将たちに守らせ、家康は、星田の陣所を市橋下総守勝長に守らせ、大番士加藤傳兵衛正信を監使とした。小雨が降っていたが家康は出発した。本多三彌正重、久世三四郎廣宣、坂部三十郎廣勝などに、藤堂と井伊に対して敵が間もなく戦いを始めると伝えさせた。ところが使いが到着する前に戦闘が始まった。

家康は星田から2里進んでいたが、須奈辺りでは、先発隊が大軍なのでなかなか進軍できないので、しばらく進軍を止めた。

その時、かつて不祥事によって家を出た河野権右衛門通重が、折掛け4半に朱の丸の指し物を馬に付けて駆けて来て本多上野介に会い、今日井伊掃部頭に属して一番首を取ると述べた。上野介は感激して家康に会わせると、家康は喜んで彼を傍へ呼び、彼の過去を許し、父の庄左衛門盛政を呼んで権右衛門に会うように命じた。

盛政は72歳で使い番として元気な武将だが、感激して涙を流した。そして通重は父と共に家康に従軍するように命じられたが、このことを掃部頭に伝えるまでは、しばらく暇をもらいたいと述べて、また戦線に戻った。そうして彼の得た首の数を増やした。

家康は「盛りを過ぎた勇士の晩年は、このようであるべきだ」と褒め、豊臣家から取った首を持ってきてみせた。彼は「三好因幡守、堀田若狭守、猪子内匠の首とははっきりしないが、物頭の中内藤監物の首だろう」といった。家康は機嫌よく「監物とは新十郎の一族か」と尋ねた。若狭守はすぐに「新十郎の伯父だ」というと、「この首は目利きが掘り出したのかな」と笑った。

家康は更に進軍した。掃部頭は路地に首150、捕虜5人を献上した。中でも木村長門の首は、舊臘(*新年)からの戦で長髪であるが、髪にはいい香料をしみこませて歯をつめていた。これは秀頼の乳母の子だからである。

山口玄蕃允宗永の次男佐馬介は、色白で角前髪だが、松平右衛門太夫正網の小舅である。しかし昨年妻子と離別して縁は切れていたが、木村の首をもらって葬りたいと申し出た。家康は彼の望みを許して、首は星田あたりの寺に送って、戦いが終わったのち追善供養されたという。

生け捕られた5人の内3人は本多上野介へ、2人は松平右衛門太夫正綱へ預けられたが、結局4人は斬られ、1人は長く右衛門太夫に預けられたが、後に赦されて正綱に仕え、永井源太夫として200石をもらった。

水野日向守の使いの松田金兵衛と竹本廣助が、家康の陣へ来て、「大科口の軍が勝利して多くの首を取ったので、首実検した後に目録を添えて献上する」と報告し、一番首と敵の武将薄田の首を献上したという。家康は喜んで両使いにそれぞれ黄金1枚を与えた。

途中から摂津の高槻の城を守った石川主殿頭忠総に、家康は奉書で、「両京極とともに大阪の裏手の京橋へ侵攻するように」と指示した。主殿頭は夕暮れにすぐに高槻から出撃して、幕府の租税徴収の役人喜多見五郎左衛門に小舟20隻を用意させ、徹夜で三島口柱本から兵員を送って、出口村に駐屯している両京極と共に大阪城へ赴いた。

秀忠は午後藤堂の疇昔(*ちゅうせき、昔の)駐屯地千塚の丸山に着いた。家康は昨夜そこを離れて秀忠の陣のある須奈まですでに着いていた。(家康は平岡の庄官の家に本陣を置いた)その他の軍勢は全て野営だった。家康は加賀少将利常に明日の先鋒を命じた。

家康は越前の老臣本多丹下成重、本多伊豆守富正、吉田修理、山川讃岐、小栗備後、萩田主馬らを呼んで、「今日井伊と藤堂が戦っていることを、おまえたちは昼寝していて知らなかっただろう。彼等の跡に詰めて戦えば城兵をほとんどを殺して今日にも城を抜けたにもかかわらず、手をこまぬいていたのは大将が若かったからではあるが、それを許した老臣は、皆日本一の臆病者といわれても仕方がないだろう」とカンカンに怒った。

各人は退室したが、吉田修理はすぐに忠直の本陣に行き、「今日は軍の決まりにこだわって戦いに参加しなかったので、家康に叱責されて世の非難を受けた。明日はぜひ死戦に挑んでほしい。自分は以前大和大納言に仕えていたので、この辺りの地理に詳しい。まず加賀勢の前に吾軍勢進めて最初に戦いを決すべきである」と述べた。忠直は非常に奮起して、明日は当家の大名、老臣、物頭も一人残らず忠直と共に屍を戦場の土とするつもりで、今日の汚名を払おう。各自はよく兵を導いて、加賀勢より先に戦いを始めるように」と血眼になって指示した。武将たちはもちろん雑兵に至るまで彼のこの一言に奮起して、明日は大阪城を乗っ取るか、当家の兵は一人残らず命を落とすかの2つに1つだと決意した。

〇家康と秀忠は、横田甚右衛門尹松から藤堂と井伊に、今日の戦いによって従兵が多く負傷しているので、明日の戦いでは先陣を加賀と越前に決めた。高虎と直孝は将軍家の旗本の前の守護を務めるようにと命じると伝えた。

直孝の家来の安藤長三郎は、木村長門守を討ち取ったので秀忠から黄金20枚と時服3着を与えられた。

八田金十郎は、山口左馬助と彼の部下弓頭の飯塚太郎左衛門を討ち取ったので、黄金3枚と馬1匹をもらった。

近臣は「木村長門守は去年からずっと多忙だったと聞くが、今日も死を覚悟しての事だろうか、前髪を剃らなかった」と呟いた。家康はすぐ木村の兜を取り確かめると、冑のすべての紐が切られていたので、長門守の必死の覚悟を察して歎美した。

〇山口休菴の説によれば、6日の昼に長曾我部は、討ち取った首を秀頼に献じた。すぐに実検され三の丸の西大手にそれを掲げた。その中の藤堂の3人は三方に掲げられた。

井上小左衛門利定は、眞田の部下だったが、日ごろ後藤又兵衛と約束することがあって眞田に暇をもらい、従士の浪人たちにも暇を与え、郎従の善四郎と小姓の源太郎の3人で道明寺に行き戦死した。奴隷が駆けて帰ってそのことを報告した。

夕暮れに長宗我部はわずか6、7人の騎士でなんとか玉造口から帰ってきて、その足で道明寺の戦場へ向かった。大阪方の武将はおおかた戦死して、帰還した者はわずかだったという。

7日 越前少将兼三河守忠直は、決死の戦いを挑もうと早朝から大阪の城から西一里半の地に陣を張った。

茶磨山に向かう徳川軍は、一番の左が本多丹下成重組、右は同伊豆守富正組と軽率頭三組と家臣の大禄、小禄の子弟を合せて騎士300人。これに続く2番の左右は吉田修理亮、山本摂津守、片山主水、萩田主馬の各組と軽率頭の3組に家臣の子弟250騎である。さらに3番の左右は松平庄五郎(後の出羽守忠政)、国枝頼母、菅沼大膳、岡淡路、原隼人」、大番の3組の騎士133、軽率頭4組、これに続いては旗本で前後の備えは近習、外様の遊兵が取り囲んだ。後の備えは山川讃岐守、氷見右衛門の両組で、騎馬は千500、雑卒1万5千が茶磨山へ順に向かった。

その布陣の右には本多出雲守忠朝の備えで、秋田城介實季、浅野采女正長次、松下石見守長綱、眞田河内守信吉、六郷兵庫頭政乗、監軍の須賀瀬摂津守勝政は天王寺に向って備えた。その2陣は榊原遠江守康勝の備えの小笠原兵部大輔秀政父子、諏訪安芸守忠恒、保科肥後守正光、松下丹波守康長、北条出羽守氏重、成田左衛門佐次忠、丹羽五郎左衛門長重、監軍の藤田能登守信吉、同左軍は酒井左衛門尉家次の備えの松平甲斐守忠良、山内佐助、小笠原若狭守政信、水谷伊勢守勝隆、仙石兵部少輔好俊、内藤帯刀忠興、稲垣平右衛門重辰だった。

東の岡山に向かう1陣は、加賀少将利常と兵3万、2陣の右は本多豊後守康紀、同縫殿助康俊、遠藤但馬守慶利、その左は片桐一正且元、同主膳正貞隆、宮城丹波守豊盛、石川伊豆守眞政、蒔田権佐正時であった。その西には井伊、藤堂が秀忠の前の備えとして平野道を挟んで駐屯した。それらの中間に細川越中守が少数の兵で備えた。秀忠の本陣は平野道から西で馬印の先に大番衛3組、書院番衛3組、左には酒井忠世の組の土井利勝の組がいて、それらの後ろに本多大隅守忠純、本陣の後は安藤対馬守、その東に黒田長政、加藤嘉明が控えた。

〇大阪方の布陣は、大野修理亮の組が眞田幸村を右軍の先鋒で、その西に彼の子の大助幸昌、同姓采女、福島伊予正鎮、同兵部正守、古田玄蕃允、篠原又右衛門、石川肥後守数矩、津田左京、結城権佐が谷を後にして駐屯し、こちらが最初に戦いを仕掛けることに決めた。

また東方の森豊前守勝永の1陣は、彼の子の式部や同勘解由などは谷を後にして大助と采女と並んで2陣とした。豊前守は谷を隔てて北側に配備され、眞田左衛門の本陣は茶磨山に置き、後の勝利のための3番の合戦に挑んだ。

一心寺と天王寺の間には、槇島玄蕃允昭光、藤掛土佐、本江左近、早川主馬、福富平左衛門、更に秀頼の家臣団が7組の頭の内1と2の後を詰めて陣を張った。

森の先発隊の東には、浅井周防守政賢と竹田榮翁、その東には、大野治長の右軍が並び、その後ろには修理亮、旗本から小長谷山の北西に寄合の7組の頭が詰めた。

岡山の前線の主将は大野主馬治房、1番合戦はこの組の新宮若狭行朝(50騎)、園部大学則綱(60騎と足軽20人)岡田縫殿(30騎)、中瀬掃部(30騎)、根來の正徳院、知恩院が、岡山道の左右に駐屯した。

秀頼の金の切裁の付いた旗12本、茜の吹き流し50本、主馬の鉈(*なた)の紋の旗を岡山になびかせ、御宿越前正倫を2番合戦と決めた。

その裏の小橋の東北には、大野主馬の旗本がある。岡山と茶磨山の間には一面は大軍で埋まり、戦う場所がないので、徳川の2陣の榊原遠江守、本多出雲守も越前勢の左へ進んで茶磨山に向かった。井伊と藤堂も越前勢の保ダリへ向かって並んで、大野修理亮の左軍に向かった。

家康は「秀忠は敵の動きに応じて変化し、味方は一面に進軍し、本陣の指令に従って一斉に集まって岡山と茶磨山を占領せよ」と諸軍へ指令した。

これは、家康が三河や遠州にいたころにいた老巧の武将は、皆すでに死んでしまい、この当時は足纒(*あしでまとい)の大軍だから、二の勝(*リベンジ)なんて考えられないので、誰でもいいから有利なときがあれば先鋒になって一回で勝負をつけるように」といっていたからである。また、家康は「今日は何よりも将軍家の指示を守って背かないように」と命じ、かつ「二の勝は、徳川の旗本が果たす仕事だ」とそのように取り仕切った。

〇高敦は小幡景憲の著書『中興源記』を読んで、その内容に打たれた。それによれば、上杉謙信が越中を征服するときに、武田信玄に対抗できる強力な装備でいながら、先鋒が地元の一匹狼の集団を相手にして敗北を喫した。そこで翌年謙信は軍を多数の分隊に分け、それぞれが独自に戦う構えで、再び越中へ攻め込み勝利を得た。この作戦を家康はいつも褒めていた。大阪の夏の陣ではこの作戦によって成功できたという。

越中の戦いは、天文23年だから輝虎が25歳の時で、亡くなった父長尾為景の仇を討つために越中へ出陣したのだが、板屋、神保、瀧、寺崎、齋藤、土屋、遊佐、土肥、倉光などの越中の士たちに加賀の奥郡の一揆衆が加わった6千余りの軍勢が、越後の先鋒に破れて多数が斬り殺された。そこで輝虎は兵を戻し翌年の秋にもう一度越中を討とうと出陣した。

彼はその時よく考えて、前回の相手は大将もなく千とか2千とか、ある時は300人とか500人とかの一揆衆で、前後からバラバラに攻撃をかけられ、上杉方は大将一人で抗戦して負けたので、今度は部隊を細かく分け、それぞれが好機を捕えて戦えと指令を出した。そして魚津の城を落とすに際して、前と同様に地元の士が一揆を後援として攻めて来たところを撃退し、首を2千ばかり取った。

この作戦を家康はいつも気に入っていて、「今度の大阪の戦いでは、10万の浪客も所詮烏合の衆だから、北越の一匹狼の一揆集団と違わないとして、前田、伊達、藤堂の外は10万石以下の外様と譜代の諸将を主力の多数の別隊として編成し、各隊が独立しながらも一斉に戦いを開始して、互いが競い合って戦うように、また敵が負けなければ、二の合戦は、家康と秀忠の旗本が担当して、大敵も瞬時に壊滅させる」という小幡の考えの通りだったことは明らかである。

『難波戦記』、『三河風土記』、『徳川歴代記』、『本朝中古治亂記』の類では、以上のことが書き洩らされていて、いい加減な説に紙を費やしている。家康は今回、四国や九州の有力な武将が大阪へ着陣するのを待つこともなく、佐竹、南部、津軽、相馬などが参戦するのを待つこともなく、又上杉景虎も遊軍として雄徳山に配し、森美作守忠政には山崎を警護させ、播磨や備前の大軍も西方の抑えと称して尼崎や西宮に陣を取らせて、大阪城の攻撃には使わなかった。また、天満にはいずれの隊も、攻撃しなかったということを論じた書物もない。

浅羽成議が、自分の父の根岸直利に伝えた、5月7日の天王寺戦線の敵と味方の布陣図が我が家にあるが、これは秀忠の使い番の中山勘解由昭守の秘書の長、賀古豊前が、秀忠の命によって書いたものである。これを見ると当時の戦場の様子が手を取るようにわかる。

武徳編年集成 巻81 終(2017.6.18.)