巻82 元和元年5月7日
元和元年(1615)
5月小
7日 家康は明け方に平岡を発った。道端で足に綿入れを纏ってきた者がいた、「お前は何者だ」と尋ねると「武田の穴山の従者だったが今は遠江参議頼宣に仕えている者だ」と述べた。家康は武田の武士は戦いに慣れているので、決戦が始まる前にこちらの勝を見通して夜に戦場に踏みとどまる時に輸送隊が来ないことを予想して寒かろうと綿入れを取らずに来たのだろう」と話した。
家康は大野壱岐守氏治を呼んで「秀頼は城外へ決して出てはならない。7組の頭が皆裏切る約束をしている」という手紙を彼の軽率に持たせて兄の修理亮へもって行かせた。
味方の後陣が混雑しそうになったので何度も使い番を送ったが、その中の横田甚右衛門尹松は「輸送隊は右へ、兵は左へ行け」と指令すると隊列が整った。
家康が道明寺へ着いた頃、伊達政宗は国分から進軍し道端で家康に面会した。家康は非常に機嫌がよく、政宗に昨日の戦いの様子を尋ね、「これから撤退する敵を討ちに行くのか?」と尋ねた。政宗は「敵は大阪へ撤退することだけを考えていて、引き返してきて戦う様子はない」と述べた。本多上野介は「敵も相手によって、鳥のいない島の蝙蝠だ(*強いものがいると何もできないのだ)政宗に戦いを挑んだりしないだろう」と会釈すると、政宗は「味方に裏切り者がいるという話がある。自分は去年の陣所の仙波に駐屯して討ち取りに行く」といって仙波へ向かった。
〇こうして、家康の先に進軍している本多正純と永井右近太夫の組や弓や鉄砲隊は順序正しく進み、板倉内膳正重昌、植村大膳政春、内藤掃部が左右を守り、後ろは尾張義直の兵が1万5千、遠江頼宣の兵が1万で乱れなく進んだ。
天王寺の前線ではすでに激しい砲声が聞えたので、槍奉行の大久保彦左衛門忠教と若林和泉直則から旗奉行の保坂金右衛門と庄田小左衛門安次の許に使いが駆けて来て、「天王寺で戦闘が始まったようだ。家康が住吉へ向かって南東へ進むと敵に背を向けることになるので、すぐに南に向かって切村へ向かうように」と伝え、旗本へも連絡が届いた。
安藤対馬守も急遽先陣から駆けて来て、「天王寺では双方が交戦寸前である。さっそく決断して戦闘を開始するように」と進言した。そこで家康は直ちに久世三四郎と坂部三十郎から「加賀越前の先鋒は馬を降りて馬を2,3町後に置き、槍を以て静かに戦場へ向え」と連絡させた。また、尾張と遠江参議中将家へ戦いの指南をするために、家康は戦線へ向かい、「戦いを始めるように」と指示を下した。そして両参議の隊の成瀬半左衛門正虎と永野淡路守分長へ使い番を送ってそれを連絡した。
家康が輿より降りると松平右衛門太夫正綱が鎧を渡そうとしたが「勘違いするな」と叱って、直に浅黄の帷子(*かたびら)、茶の羽織、編笠に武者わらじを履いて馬にまたがって戦場へ向かった。
〇秀忠は歩卒10人ばかりを伴い十文字の槍と薙刀を持って、黒糸の鎧に山鳥の尾の羽織を着て、本多上野介の領地の宇都宮桜野の8寸3分の駿馬(*4尺8寸3分≒153cmの大きな馬)(戦の後は元の牧場へ放した)に孔雀の馬鎧を付け、抛(*なげ)頭巾の兜を傍に持たせて先発隊を巡視した。
家康は黒田筑前守長政と加藤佐馬介嘉明を今回は伴に加えたが、彼らは関東から意識的に少人数で参戦し本多佐渡守の組に加わって戦場へ出た。しかし、おびただしい人数の軍隊で兵卒が右や左へ駆けるので、誰が誰だかわからないような状態の中、兵をかき分けかき分け前進した。
秀忠が来たと聴いて馬を降り道端で秀忠に会った。秀忠は2人を見て馬をよせると2人は秀忠のの傍に来て、「昨日は敵を取り逃がして無念だ。今日は大勢が伴をして戦っているので、考えの通りに存分に残らず敵を打倒されるように」と述べた。秀忠は終始機嫌よくいろいろと指示をしながら馬を進めた。
秀忠の後には本多佐渡守正信が〇(*?)乗物に冑をかぶり、柿渋染の夏服を着て渋団扇でハエを払いながら伴をした。黒田長政は「秀忠のいで立ちに比べてえらく軽装だね」というと、加藤嘉明は「これは徳川家の癖だね」といった。長政は「実にいい癖だ」と感心した。
長政は「天王寺の前線の場所はあまりよくない」と心配したが、嘉明は「われらは少人数で来ているが、元はといえば秀吉の恩を思い出して来たので、家康に疑われても仕方がない。今日の所は敵に会わないのがいいことだ。ここは自分に任せ」と答えた。
〇茶磨山に駐屯している眞田左衛門佐幸村の陣所に大野修理亮治長が急いできて敵の様子を尋ねた。
左衛門佐は「天下分け目の決戦の勝負は今日決まる。秀頼が出て来て号令を発しなければ皆の戦意があがらない。これを秀頼に伝えてほしい。そして天満と仙波に徳川軍に対抗する兵を置いているが、家康は城兵の注意を分散させるために尼崎と兵庫の軍勢を参戦させないつもりだから尼崎や兵庫の徳川勢は天満や仙波には攻めてこない。だから仙波にいる明石掃部助を西高津、今宮から旗を降ろして密かに天王寺を経て瓜生野(*うりゅうの:住吉区瓜破辺り)に行かせて合図の狼煙を揚げさせると、幸村は正面から徳川勢へ攻め込む。そうすると家康も我慢できずに旗本の兵を出すだろうから、そこで明石軍はその隙に家康の本陣を襲撃するとたぶん勝てるだろう」といった。修理亮はそのアイデアに感心して、その趣旨を明石に伝えさせ、自分は城へ戻って秀頼に出陣を勧めた。
茶磨山の眞田は、明石が瓜生野で狼煙をあげるまで軽率にも戦わせず、自分の兵で戦いを始めることもなかった。
越前家の軍配者の赤尾新兵衛は「今日の良い時間帯は正午過ぎである。西南から攻撃するのがよい」といった。越前勢の16隊は決戦を覚悟して加賀勢の狼煙の合図を待たずに敵に詰め寄っていた。その前方に丘があったので登れば、茶磨山の眞田の赤一色の軍勢が躑躅花(*つつじ)の咲いているように堂々と陣を張っていた。
忠直は梶原美濃政景、太田安房守政氏、菅沼伊賀入道休也、水谷兵部に敵の情勢を探らせた。本多丹下成重は「それぞれは場数を踏んだベテランであるが、もう戦いは始まっているか?」と尋ねた。4人は「自分たちは関東で戦いがあるごとに200とか300の敵と戦っていた。しかし、今回のように広大な戦場で52万の敵を相手に戦うとなると、それぞれが別の見解を持っているので本当の事がわからないのはあなたと同じだ」と答えた。本多伊豆守は「昨日は家康の指示を待っていて井伊と藤堂が手柄を上げたのでこちらは叱られた。だから今は一刻も早く戦うべきだ」と侍大将、物頭、使い番の外は皆馬を降りて槍を持って敵を攻撃した。
すると茶磨山の西に陣を張っていた眞田の組の福島伊予と同兵部、吉田、石川、篠原は、足軽を出して火砲を発した。眞田幸村は非常に驚いて、森豊前守に使いを走らせて「修理亮と約束したように仙波から明石掃部を家康の本陣の方へ回って合図の狼煙を上げたら、その時が決戦の時だからそれまで時間稼ぎをしていたのだが軽率な足軽どもだ」と伝えると、豊前守も火砲を撃つのを何度も止めた。しかし結局砲撃は止められなかった。しかも秀頼は今になっても出馬せず、敵軍の動きがだれた。そこで眞田と森は我慢しきれず自ら福島と石川に何度も砲撃を止めさせた。しかし、彼らは同意しながらも軽率を増員して火砲を発した。眞田は怒ったがどうしようもなかった。
先に大野修理亮が城へ帰る時、途中で弟の壱岐守の足軽に出会った。それを見て彼は彼等を皆殺しにして城へ帰った。しかし、7組の頭を疑っているのか、秀頼はなお出兵をしなかったので、眞田は自分の一族が皆徳川についているので秀頼が自分を疑っているから出兵しないのではないかと子の大助幸昌を質として城へ送った。しかし、すでに越前勢が攻め込んで来たので、眞田は「もうだめだ。しかし、最後の戦いは気持ちよくやろう」と、森豊前守の隊を巽の方にいる本多出雲守の隊の方へ向かうように命じた。そこで豊前の隊の持ち場に眞田勢が替わって入ることになったが、両陣営の兵が混乱した。
その時、越前の幌の士の藤田大学と山木清右衛門が戦いを開始すると家康に連絡した。そこで松平伊予守忠昌、監軍の和泉昌成と豊島主膳信満は馬に乗り4、5騎と足軽を少し連れて戦闘をはじめると、越前の隊長の宇都宮半七が鳥銃を発し槍で攻撃した。益田作十郎がすぐに一番首を取った。越前の2番の斥候の大川某、原藤太夫、江川安左衛門、伊藤長左衛門、3番の斥候の真砂丹波は馬に鞭を入れて忠直の本陣へ行って、戦いが始まったことを伝えた。忠直は立ったまま真砂平馬の給仕した湯漬けを飲んで、渡邊半兵衛の持ってきた兜を付けながら丹波に「兵糧をば食す餓鬼道へは落間敷也 死出の山を越えるも心易し」とすぐに馬にまたがった。實に無双の猛将である。
松平忠昌は敵の首を取って関治兵衛に持たせて家康の本陣へ献じた。また、敵の中の黒い鎧の大柄の士が眞驀(*いきなり)斬りかかってきたので、忠昌は舎人を袈裟懸けに斬り殺しその刀で自分の腰当を切った。そのとき歩卒頭の安藤次太夫が駆けてきたが、敵が安藤の首を半分切ったが喉が残って死ねなかった。
歩兵の吉田五左衛門と同竹右衛門、小人頭の戸田六郎兵衛も深傷を負ったが笠持彌右衛門が駆けて来て敵の腕を斬り落とした。そこを忠昌は馬を降りてその敵を切伏せ首を取って小人の茂右衛門に与え、家康の陣へ送らせた。(笠持彌右衛門は士の高瀬となった)。
永見志摩は騎馬戦で首を取った。彼は貂(*てん)の皮の指物を落としたが引き返して拾った。
弟の毛受将監(庄介の孫)と従士の来栖長太郎も活躍した。
相良と田中は相討ちし首を得た。忠昌は少人数の部隊だったが従士が157個の首を取った。
岡部豊後は戦死した。
忠昌の弟の左五郎(14歳、後の出羽守直政)は自分で敵を生け捕りにした。
越前の2陣の吉田修理亮と萩田主馬の兵は馬を眞田勢に突き進め、二手に分かれた。一方は加賀の隊へ、もう一方は家康の旗本の先鋒へ流れ込んできた。越前勢は必死になって黒い煙を上げて眞田の本陣を討ち破った。
その結果、茶磨山の麓から庚申堂まで連なっていた眞田軍がばらばらになって逃げたが、城方の武将御宿越前昌倫は元々嗚呼の者(*感激屋、調子者?)であるが、彼の隊は以前越前少将家の老臣などに手紙を送って、忠直から馬をもらって討ち死にしたいと申し込んだ。その豪放さが認められて荒浪という馬をもらった。今回彼はその馬にまたがって走り回って奮戦したが、従軍は全て戦死した。
その時わずかに生き残った山良壽斎、小泉主水、加藤次太夫、上田権兵衛、足洗藤内、生田外記も結局命を落とした。御宿は昔の同僚の野本右近に戦いを申し込まれ奮戦したが、首を右近にとられた。(野本も手の指を少々斬り落とされた)
伊藤左近は越前の山懸伊賀に殺された。
眞田左衛門佐幸村は大塚清安、眞田勘解由、高梨主膳らと疲れて畔に腰を掛けて奴隷に傷薬を与えて休息しているところに、越前家の隊長の西尾甚左衛門が軽率を連れて駆けて来て幸村(享年46歳)を討ち取り、彼の家来300人も命を失った。越前勢は安居の天神前まで眞田勢を追撃して大勢を斬り殺した。
〇平野筋岡山の戦線の魁将は加賀少将利常である。右の東方の先手の本多豊後守康糺、同縫殿助康俊などは連携して戦えという指令を使い番の安藤治右衛門正次が伝えた。
70騎の敵が攻めて来た。彼等は偵察隊だった。正次は彼等を殲滅するように加賀の兵に命令したが、彼らはまだ食事をしていないので躊躇した。「正次と利常とで一か八かで敵を挟み撃ちにしよう」と我慢できず馬を進めると、敵が3人戻ってきて対抗した。正次は馬を降りて向かってくる敵の額を3太刀斬った、すると敵も正次の頬を3カ所斬って互いに目がくらんで尻もちをついて座り込んだ。正次は気を取り直して相手に乗りかかり首を取った。そこへ敵が2人助けに来たが正次の従士の半田右衛門が駆けつけてその敵を追い払い次(*治)右衛門を肩にかけて撤退した。
加賀の先鋒などは前から越前家軍が戦いを始めると合図の狼煙を上げる約束になっていたが、越前軍が急いで戦いを始めたので狼煙を立てなかった。しかし、西の方に埃が立って銃声が響いたので利常の先鋒の本多安房守政重、横山山城長知、山崎長門守長入道は急遽戦いを始めた。
敵将の大野主馬(兵は3万)と部下の小倉と長岡が応戦して加賀の先鋒は敗退した。利常は本陣を進めて自分で指揮を揮って2,3隊で反撃したので敵の大軍はすっかり負かされ、さんざんに崩れた。味方の監使の今村九郎左衛門重良は長久手の戦いで2番槍桁之介といわれた人物である。今日もまた大手柄を上げた。
利常の砲卒の長、安藤長左衛門(37歳)は次右衛門の弟である。敵の大将を狙い撃ちにして槍傷を負った。
利常が勝ちに乗じて敵を追撃して稲荷の前に来た時、敵将大野主馬勢が反撃して死戦に挑んできたが、その時片桐兄弟、宮城丹波守豊盛、石川伊豆守貞政、蒔田権佐正時が横やりを入れたので敵は大敗した。加賀の猛勢は城際まで迫り、取った首は3千200余りに及んだ。利常方は騎士が50あまりと多数の雑兵が戦死した。
〇今朝早く、本多出雲守忠朝の組は茶磨山の麓へ出た。右には40間ほどの深田、左は小高い岡があって忠朝は必死の覚悟で他のどの隊よりも早くと競って出ていた。そこへ安藤帯刀が駆けて来て、「どうしてそんなに出るのか」と咎めた。忠朝は「出ている隊を戻せというのか?他の隊を出させよ」と答えて越前軍は戦いを始めた。
森豊前守勝永の黒半月の赤装備の4千人は、筋違いに進んで40間ほど隔たって杉状に撤退したが、忠朝の先手が攻めて来て日ごろの修練はこの時のためだと、家来たちも前進して来た。
また砲術の名手の三宅軍兵衛と窪田傳十郎などが指揮を執ってしきりに火砲を発した。しかし相手の豊前守は戦いのベテランで鳥銃を2、3発発射すると、いきなり勝どきを上げて槍で突撃してきた。そのために本多の軽率70人余りが突き殺された。また、鉄砲隊も突き割られて森の隊は左右に分かれた忠朝の隊を包囲しようとした。三宅軍兵衛は一番槍をと進むところ、太刀を持った2人の武者に左右から襲い掛かられたので、槍を棄てて太刀で交戦して手柄を上げた。
続いて、窪田傳十郎、大原惣右衛門、押田左馬介、山本唯右衛門、原田四郎兵衛と旗本の榊原加兵衛が出て来て槍で交戦しようとした。小鹿主馬は紫の幌をかけて敵と味方の間を馬で走り回り、指示を飛ばした。その時上の5人がそろって槍を構え敵に突撃した。
森の兵は横に走って出雲守の隊の秋田六郷、浅野采女正、植村主膳正康明、須賀摂津守勝政の隊へなだれ込んで来た。松下石見守重綱の30騎は忠朝の組に加わって、茶磨山の右の方の他の隊より10間先に進み鉄砲で撃ち合ったので、雑卒が多数死傷した。しかし、その時一番の槍を開始した。敵7,8人が襲って来て馬上の石見守を鎗4本で着き落とそうとすると、石見守はすぐに馬から降りて敵1人を斬った。その時馬が放されてしまって茫然としていると、従士の梶塚主殿が駆けて来て自分の馬を譲ってくれたので、石見守は後のことは目にくれず敵を突き破って城へ向かって駆けて行った。
〇秋田城介實季の隊へ向かってきた秀頼方の隊長、岩村清右衛門は、佐治と内藤の隊に「秋田の軽率は堤に隙間なく詰めて火砲を撃ってきているが、われらは堤の下にいるので弾は頭の上を通過して当たらない。こちらはいたずらに銃撃するのではなく、心を鎮めて銃口を下げて撃つように」と指示した。
しばらくして岩村は立ち上がりやおら銃を2発撃った。佐治もこれに応じた。岩村は堤の上に駆け登り槍で対戦しようとし佐治も続いた。秋山の方も4人の兵が出て来て槍で対戦したが、岩村と佐治の為に20間ほど撤退した。その兵の1人が堤の上で槍を投げるとそれが岩村の胸に命中して倒れた。
秋田の兵がその首を取に来たが、佐治が横から助けてその兵を殺した。そこへ森豊前守の本陣から全軍が勝鬨を開けて吶喊してきて堤の上の秋田勢を討ち破り、六郷、浅野、植村、須賀と眞田河内守信次の隊をすべて突き崩した。
本多出雲守は非常に怒って悔しがった。松平丹波守康長は救援しようとすると、忠朝は「それは自分が死んでからにせよ」と答えて百里という馬にまたがって、大屋竹左衛門と歩卒20人を連れて敵に向かって駆けだした。
長臣の小野勘解由が苦戦しているのを見て、忠朝は自分の歩卒から7人を分けて救援に行かせた。しかし、勘解由は槍に刺され弾丸を受け、助けに来た7人の内5人は殺され、2人は負傷した。
忠朝は睨みながら「出雲守はここにいる。我が兵は戻って一緒に戦え」と呼んだのを聞いて、森の組の秀頼の隊長雨森傳右衛門、中川彌次右衛門、徳永甚左衛門など7,8人は束になって忠朝に向って来た。
忠朝は槍を持っていなかったので、傍にあった槍を取って馬の上から敵2人を突き倒した。そこへ紺の羽織を着た軽率が2間ほど離れたところから銃撃すると、忠朝の胸に弾丸が当たった。しかし、猛将の彼はひるまず馬から降りて太刀でその兵を斬り殺した。さらに舎人は持っていた鉄の筋金入りの大鼻捻(はなねじ:馬を制御する棒)を忠朝に手渡すと、彼は左手に持ち、右手には刀を持って敵を7,8人打倒して小さな溝を越えたが、最初に撃たれて傷を負った上に重ねて槍での切り傷があって転倒した。そこへ敵が首を取りに来たので、大屋作左衛門と浪客の匹田道師が揃えを遮って抗戦したが、2人共に直ぐに討ち殺された。そしてとうとう忠朝の首は雨森傳右衛門が取った。(忠朝の享年は34歳、雨森は戦後蒲生忠知に招かれて千石をもらった)。
忠朝の旗本の戦いはこのような乱戦だったが、先発隊は敵陣の後ろを回って大阪城の傍まで攻め登った。しかし、その頃忠朝の戦死が伝えられたので、元の陣まで引き返した。百里の鞍に主人の遺骸を載せて平野へ向かって田高吉右衛門が涙を流しながら付き添った。しかし、ともかく今度の戦いで忠朝の隊は70個の首を取った。
〇小笠原兵部大輔秀政と嫡子の信濃守忠修、二男の大學助忠眞は、共に3段に分けて敵と戦った。敵の眞田左衛門佐の組の左側に攻撃すると、竹田榮翁の1番隊は天王寺の東門に沿って他の隊より早く勝ち進んだ。その頃森豊前守は本多忠朝を討ち取り榮翁へ使いを遣って、急いで戦線を立て直す様に要請した。しかし、榮翁は受け入れず、「自分は戦いを始めたので、とにかく指揮をすべきだ」といった。そこへ小笠原兵部大輔秀政が襲って来たので、榮翁はしばらく応戦したが天王寺の東門の方へ敗退した。秀政はその勢いで溝を越えて追撃しようとした。徳川勢の右方軍が大野修理亮の組の福島伊予守正守や石川肥後守数矩らと戦っているのを見て、秀政は旗本隊が横から西方軍を救援に向かい、彼の家来の高瀬六左衛門らは首を取った。
森式部勝家は大野の救援隊を連れて秀政の左側から攻め込み、結城権佐と橋本十兵衛は縦横に駆けまわって小笠原を負かそうとした。秀政父子は昨日の戦いに参加しなかったことを恥じて、決死で戦ったが、敵の大軍に包囲され、家来の金子某と歩卒1人とともに命を落とした。
嫡子の信濃守忠修は敵に10本の槍で突き揚げられた。小笠原主水や征矢半彌などの兵士に救われたので、戦死はしたが敵は彼の首を取ることは出来なかった。
原四郎兵衛は馬で駆けて奮闘し敵方を乗り崩してから元の陣へ戻った。すると信濃守忠修らしい金の三団子の立て物の兜を付けた武者が倒れていた。驚いて馬から降りてみるとまだ息がわずかにあったので肩にかけて帰った。
忠修の弟の大學助忠眞(20歳)はもともと勇猛な武将だったが、今回も奮戦したが、敵に胸板と肌に横やりを入れられ尻もちをついて立てなくなった。しかし脇差を抜いて手裏剣を投げたので敵は槍を抜いて撤退した。そこへ澁多見縫殿と安積角兵衛と歩卒2人が駆けつけ彼を助けた。
信濃守は深傷を6か所受けて死んでいた。
大學助は深傷が4か所、浅い傷が3カ所あって半死半生だった。
老臣の二木勘右衛門、鳥立内膳、武者奉行の岩波平左衛門、二木庄左衛門、安積太左衛門、白岩市左衛門、大日向次郎左衛門、森下善兵衛、百束次郎左衛門、清原彌次右衛門、武井治兵衛、多々井六兵衛、青木内蔵介、鈴木八郎右衛門などが戦死した。
一方、取った首は47個だった。橋本十兵衛という豪傑を生け捕りにしたが、後に赦されて小笠原家に仕えた。
保生太夫(*能楽師)の弟の服部左源太はしっかりした人物で秀政の近習となって仕えていたが、彼は戦場の様子を詳しく見届けて武将たちの手柄の証拠を提供したので、後日土井大炊頭は彼を招いて家臣とした。
保科甚四郎正貞は兄の不幸を我慢して出陣したが、小笠原信濃守が討ち死にするときに駆けつけて助けようとした。あと2間ほどのところで左の脇を弾丸にかすられ、玉送りの板で弾丸は止まったものの、振り返ったところを兜の内側を突かれ、股も突かれ落馬した。家来が肩に背負って引き下がろうとした。ところが彼はそれを振り払って槍を取り家来に首を取らそうとした。そこへ敵がまた来て彼を鎧の上から突き倒した。そこでようやく彼は軽率の肩に背負われて引き下がった。
老臣、保科隼人が戦死した。(隼人は信州で前に滅んだ小笠原の支流の藤澤次郎頼親の子で、小笠原長時の外孫である)
〇酒井左衛門尉尉家次の隊の内藤帯刀忠興は自分の禄1万石で騎士17人、雑兵300人で松平丹波守康長の隣に陣を張っていた。丹波は帯刀の陣へ来て、「敵は戦いを急がず時間が経っているが、味方は勝手がわからないので夜が最も危険だ。先発隊はなぜさっさと戦いを始めないのか? こっちは退屈だ。うちの陣へ一緒に来ておしゃべりをしようよ」と忠興を誘った。そこで忠興は馬廻りの士を7人連れて丹波の陣へ行くと、先発隊が戦いを始めた。帯刀は自分の陣へ戻る間に本多出雲守の隊が負かされ、水谷伊勢守勝隆の隊も負かされて、隊が崩れて離れてしまった。そこでさっきの騎兵5人と歩兵2人だけで森豊前守が戦闘をしているところへ駆けて行った。すると、水谷の士の奥村與兵衛が一騎で忠興に声をかけ再びリベンジへ向かった。
先頭の酒井家次の隊も負かされ、森の家来たちは勝利して裸に玉襷(*たすき)をかけて帷子の袖を絞って兜をかぶり、全員が笛巻きの槍を持ってまっしぐらに突進して来た。内藤忠興(23歳)は勇敢で騎馬術に優れた武将で、あしげの馬に黒い鞍を付けて朱色の具足に茜色の指物、金棒作の鎌槍を揮って地面に降り敵9人に向って行って4人を突き殺し、1人を畔に突き落として槍にすがって一休みをした。家来の穂鷹吉兵衛は敵の首を取った。
安藤清兵衛と吉田小兵衛も手柄を上げた。穂鷹も敵を鎗で押し詰めたが首を取る暇がなかった。
酒井隊の松平左近将監成重も騎馬で奮戦した。
水谷勝隆の家来の稲葉市助の成重に声をかけて戦った。
松平丹波守康長も10騎で奮闘したが、その内の3騎はすぐに戦死した。康長も傷を被って危ないところを家来の近藤兵右衛門に救われた。そこへ内藤忠興の兵も駆けて来て、大島半兵衛、忍四郎兵衛、子供の家来原田武蔵守、丹羽才三郎は何度も敵と交戦して、森豊前守の敗兵を討ち破った。
〇榊原遠江守の兵も騎馬戦をして、榊原若狭清定、老臣の原田権右衛門、中根善次郎、伊藤宮内、大久保喜六郎(後の丹波守)、丹羽四郎左衛門などが手柄を上げた。またその隊の諸将や軍監の藤田能登守信吉なども敵を斬り殺し、手柄を上げた。
武徳編年集成 82巻 終(2017.6.20.)
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