巻83 元和元年5月7日
元和元年(1615)
5月小
7日 家康の使い番の豊島主膳信満と間宮権左衛門伊治は、河内の国分から出陣した水野日向守(*勝成)、本多美濃守、松平下総守の3つの部隊を道で待ち受け、「昨日の道明寺の戦場では皆が奮戦したが、死傷者が多数出た。今日は家康の本陣が先鋒になるので、住吉へ行って、家康の指示を待つように」と伝えた。
そこで、各将は住吉に向かおうとしたが、ちょうど「天王寺の前線で越前勢が馬を降りて、槍を構えて茶磨山へ攻撃しようとしている」と水野の斥候が駆け戻って連絡すると、日向守は、「それなら住吉へ行く必要はない。阿部野に出て茶磨山を攻撃しよう」と、大和衆や堀丹後守、丹羽式部少輔とともに天王寺の前線へから茶磨山攻撃への陣営を立て直した。そして美濃守と美濃衆や、下総守の隊の伊勢衆も順に陣を張った。そこへ大番士の米倉助右衛門昌継が来て、「尾張と遠江の参議の隊が戦う準備できるまでは、合戦を始めないように。とにかく将軍家の指示を守るように」と命じた。
こで水野勝成は馬を1,2町後に残し、座って待機していた。そこへまた久世三四郎と坂部三十郎が同様の指示を伝えに来た。勝成は「もう昼になるが、最初は茶磨山の敵も手薄に見えたが、段々増強されているように見える。こうなれば今は攻撃を仕掛けるときだ、とよく伝えるように」と述べた。2人は了解して家康に伝えるために引き返した。
その後、越前勢が騎士や足軽を走らせているのを眺めて、勝成の先発隊の大和衆へ、越前勢のように2,3騎と軽率を出すようにと命じたが、ままならなかった。そうすると越前勢と本多出雲守の隊が槍で対戦が始まり、大和組も負けじと戦を始めたが負けそうになった。勝成は、旗本の部隊を分けて敵陣へ向かい、茶磨山の麓を駆け回った。その後、勝成は後ろへ回って嫡子の美作守に敗走する敵を追わせ、黒川通り8町目を大満の川端まで追撃した。
勝成は長らく浪人となって諸国を巡っていたので、この辺りの地理に詳しかった。彼は、黒川筋は大阪城までわずか14町ではあるが、敵味方の兵の数が多いので込み合うことを予想して、自分の旗本を天王寺の石の華の前線を越えて左へ回し、仙波へ向かった。
そこは去年の冬に藤堂が陣を張っていた辺りで、そこで敵方の明石掃部助に行き会った。これは眞田の戦術として、明石が仙波から天王路を密かに通過して、今宮から瓜生野に出、家康の本陣を奇襲するために、騎兵300、雑卒もあわせて3千で進んでいたからである。
彼等は一斉に火砲を発し大和衆は蹴破られた。勝成勢からは、廣田図書と尾崎佐右衛門が槍で抗戦したが突き倒された。勝成は馬を駆けて廣田を突いた敵を鎗で突き、岸豊左衛門にその首を取らせて図書を救った。また、右から来た烏帽子形の兜の敵を突き倒し、成瀬久太夫に首を取らせた。明石はこの場所で戦うことは避けたので互いは分かれ、勝成は城の中へ乗り込もうと仙波の通りを進んだ。
仙臺の政宗はここでは戦わずしばらく休んでいたが、神保長三郎相茂が騎馬で戦いながら政宗の先を横切った。すると政宗勢は火砲発した。相茂は「これは味方だ」と怒鳴ったが伝わらず、彼ら36騎兵は全てすぐに撃ち殺された。
〇本多出雲守が戦死する前の事、天王寺東北で、大阪の7組のうち眞野と青木が徳川勢が戦った時、旗本の先鋒の井伊掃部頭(*直孝)が攻めようとすると、花畑番の成瀬豊後守の組の安藤彦四郎重能が駆けて来て、掃部頭の士大将の庵原助右衛門に「急いで戦いを始めよ」といった。助右衛門は「戦いには潮時のいうものがある。敵がこのように待っているときに最初に手を出すものではない」と答えた。彦四郎は「こういう時にこそ出て行くのが武士だ」と敵の中へ飛び込んだが命を落とした。
この彦四郎はかねがね「武士というのは純粋に死を求めなければ手柄も上げられない。場数を踏んで点を稼いだものをうらやましいとは思わん。今度の戦で最初に首を取ったものはといえば、この重能だと思え。最初に死んだ者もこの俺だ」といいまわっていた。実に血気盛んな士である。
当時掃部頭(*直孝)の兵はベテランぞろいだったが、流行りの煙草をつけて直孝に勧めた、直孝は受け取って火の消えた煙草にまた火をつけさせて吸ってから、もう一度ほしいといった。これは彼が落ち着いていることを兵たちに示すためだったらしい。
三浦與左衛門は、自分の隊の軽率40人に、1人あたり5,6本の矢を配ってから直孝に「足軽にも花を咲かせて見せなきゃ」と矢箱から矢を1本とりだして、静かに戦いの始まるのを待っていた。直孝の家来の岡本半介宣就は、敵の動きを見て戦いを始めた。
7組の内の青木民部少輔は、家康によって京都で幽閉されていたが、彼の陣代の青木駿河守と眞野豊後守頼包の隊が非常に強かった。井伊直孝の旗本の廣瀬左馬介(美濃の子)と孕石備前(主水の子)は、彼等から一歩も引かずに戦おうと旗を1本ずつ立てて奮戦したが、2人ともその旗を持ったまま戦死した。
この廣瀬を討ったのは、青木の隊の稲葉伊織で、その時捨てられていた直孝の旗馬を、八田金十郎と菅沼郷左衛門が拾って、長臣の庵原助右衛門に手渡した。
直孝の先発隊が多数戦死して崩れようとしていた時に、三浦與左衛門は48人の軽率を率いて矢をしきりに放ち、長坂十左衛門に火砲を撃たせた。軍監の安藤帯刀直次が丁度来ていて、直孝の隊に加わって勝ち誇った敵に抗戦した。
去年家康の怒りに触れた青山大蔵少輔幸成も、直孝の隊に加わって自分も手柄を上げたが、家来の芝原源左衛門、堀江六兵衛、野村七右衛門、鈴木佐五右衛門も奮戦して首を4個取った。やがて直孝の隊は反撃に転じて、騎馬戦で勝利し、敵は敗北した。
安藤帯刀の下僕が駆けて来て、帯刀の子の彦四郎が戦死したことを告げた。帯刀は「君の為に山野に屍を晒してよい。驚くようなことではない」といった。安藤帯刀は勝に乗って直孝と敵を追撃しているとき、彦四郎の遺骸が道端にあったのを家来が見つけて伝えたが、直次はまるで聞こえないかのように振る舞った。
藤堂高虎の先発隊も崩れて、その中の兵4人が踏みとどまって態勢を立て直し、結局敵を撃退した。
〇久世三四郎廣宣、屋代越中守勝永、服部権太夫政光、青山石見守清長と秀忠の近臣の永井信濃守尚政(29歳)は、使い番として先発隊の将に命令を伝え、自分たちも活躍して首も取った。
〇本多佐渡守正信は、秀忠の旗本で3軍の指揮を執った。そこで自分の兵は二男の大隅守忠純に預けようとしたが、大隅守はまだ若かったので、立花左近将監宗茂に頼んで代役を頼み込んだ。そこで立花は天王寺の前線で奮戦した。大隅守も騎馬で戦い、自分の隊に首16個をもたらせた。
秋月種宗(後の長門守)は、この時6歳で、彼の兵は佐渡守の部隊に加わり参戦したが、その隊も大隅守に従って戦っていた鳥居土佐守成次は、野々村伊予守と戦って、従士13騎が命を落としたが、敵の首28個を取った。
甲陽の武河衆と津金衆も参戦し、甲州の先方の依田五兵衛盛繁や平原五郎兵衛などが首を取った。
酒井忠世の組の牧野右馬允忠成は、駿河守忠辰と朝倉仁左衛門(後の石見守)と3騎で足軽を連れて敵に向かって駆けていくと、白幌に半月の印を入れた敵と桟竹の捺物の敵と出会い、数十間を隔てて立ち会った。そこへ朝倉仁左衛門が駆けつけて、桟竹の捺物の敵を討ち取とり冑も分捕った。
坂部三十郎廣勝の養子の作十郎勝宣(15歳)は、初陣で天王寺の前線で雑卒を討ち取った。実兄の久世三郎廣當(後の三四郎)は「弟は何か手柄を上げたか」と家僕に尋ねた。すると、「彼はすでに冑付きの首を取った」と答えた。作十郎は「自分は久世家にいる時ならこの首で十分だが、世間は久世も坂部も同じ程度の手柄を上げているのだと思っているので、坂部の家を継ぐものとしては、実兄よりも劣っていると養父に申し訳ない。もう一度戦って兜首を取りたい」といった。その場の者はやめさせようとしたが、すぐに敵に乗り入れて戦死したという。
〇本多佐渡守の隊の細川越中守は、鉄砲頭と3人の近習と共に天王寺の毘沙門池に駐屯した。大阪7人組頭の1人、堀田、眞野、伊藤、野々村の軍勢と火砲の銃撃戦となった。家来の清田七介(後の石見守)、村岡縫殿(後の長岡河内)、藪新太郎忠利(後頼宣に仕え三左衛門となる)の3騎は、隣の陣が崩れるときに馬を進め、最初に七介、2番に縫殿が馬を降りて槍で戦った。新太郎は細い道を越えて左の田の中へ乗り込んで、芝土居にいる敵に向かった。敵も応戦したが、新太郎が名を語ると相手は「内匠助の子か」と聴いた。彼は答えながらその敵を鎗で突き兜とともに首を取った。
その時、酒井左衛門尉の隊は敗北し、細川勢も動けなくなったが、松井左近ただ1騎が反撃して兜首を取った。左衛門尉の家来も1人で反撃し、左近と言葉をかけあって戦った。細川家の吉任半四郎は冑付きの首を得て、佐方與左衛門と都筑庄助が立派な手柄を上げた。
浪人の筑紫主水(上野介義冬の次男)、朽木與五郎友綱(河内守元綱の次男)、および加賀山半兵衛は騎馬で戦い、それぞれが首を取った。特に主水の若い家来の亀之助は首を2個、主水の従者は首を3個取り、越中守の隊では全部で12個の首を取った。
〇土井大炊頭利勝と酒井雅楽頭忠世は秀忠の執事だったが、彼らは本陣に控えて、利勝の士卒を佐久間備前守安次と同大膳亮安藤に命じて指揮させ、忠世はその子の阿波守忠行を陣代として、細川玄蕃頭興元の補将とした。
参戦の順序は、最初が利勝の部隊、次に忠世の部隊と決まっていた。しかし前線では細川玄蕃頭は雅楽頭の部隊を土井の左に配した。佐久間備前守は「これは決まりに反している」と怒ったが、玄番頭は従わなかった。
安次は軍の使いを大炊頭に連絡すると、大炊頭はすぐに雅楽頭に連絡して態勢を立て直す様にと述べた。雅楽頭は自分の部隊のところへ駆けて行き、玄蕃頭に「家康の命に背くことになるぞ」と述べた。すると興元は、「ここ一番という戦では、どちらが前だ後だなどどうでもよい。敵が傍にいるので決まりの通り利勝の隊の後で攻めるつもりだ」と一度配置した態勢を、利勝の部隊と入れ替えた。
ところが相手の敵は強くて利勝の部隊はさんざんに負かされて、黄色の旗があたりに散乱し、寺田與左衛門、土井内蔵助、長尾但馬守などが敗退した。
そこで佐久間がいろいろ指令を発したが、軍は立て直すことは出来なかった。そこで細川玄蕃頭は雅楽頭忠世の兵を縦横に動かして奮戦した。忠世の嫡子の阿波守忠行は、自分で手柄を上げ、この部隊は首を30個あまりを取った。しかし、敵が襲って来て、土井の部隊も総崩れとなり、雅楽頭の部隊もバラバラになったが、谷大學頭衛友は1騎で走り回り、戦場を離れなかった。そこへ細川玄蕃頭も戻ってきて戦い、態勢を盛り返そうと奮戦した。
雅楽頭の部隊の稲垣兵右衛門(後の摂津守)は、この辺りにいた味方の酒井左衛門尉や牧野右馬允や土井の隊が負けそうなので、わざと自分の部隊を彼らから1町下がって駐屯した。そこへ城兵が千余りで攻めて来て、先の3つの部隊を突き崩した。稲垣はわずか雑兵150で横から攻めてこの敵を倒し、自分も白幌の敵を突き落とし、従者に首を取らせ、彼の部隊は35個を取った。
土井利勝の隊の由良信濃守貞繁は、槍で抗戦して手柄を上げた。彼の家来の松原庄左衛門は首を取った。田村五郎右衛門は負傷した。
大谷五郎兵衛と大澤監物が戦死した。
大炊頭の部隊の田付兵庫且定が首を取った。(これは近江の佐々木承禎の一族で、神崎郡田付の城主である。後日落ちぶれて徳川の御家人となった)、
大澤右京大夫基重が手下を連れて奮戦し、自分で首を取った。
〇秀忠は先発隊を視察してから本陣へ帰った。その時安藤対馬守が駆けて来て、先発隊が敵に負かされたので、加賀と井伊掃部頭の備えの隙間に大番、書院番の諸士を進めて戦わせるようにと進言した。秀忠はすぐに左の先発隊の大番頭、高木主水正次の隊と右側の先鋒の阿部備中守正次の部隊を向かわせ、そのことを朝比奈源六正重から家康へ連絡させた。
折から茶磨山の敵、眞田の部隊の先手が劣勢になったので、味方は競って攻め込み、天王寺の西の勝蔓堂を越え、1番に高木の部隊が紺地に金の紋三〇折掛の捺物を日に輝かせて、生玉の祠の方へ攻撃した。そこへ明石掃部助全登が攻めて来た。というのは、彼は先に水野日向守と戦ったが互いに別れ、明石は家康の本陣へ駆けて行ったが、天王寺の大阪勢が代々負けてしまったので、全登は今更今宮筋や堺道へ行く必要はなく、天王寺の戦場で戦う積りで生玉に来たのである。彼は坂の上から勝鬨を上げて、高木の部隊へ突撃して来た。
主水正の番士の岡忠行、林藤四郎吉正、米倉小傳次義継(27歳)、筒井甚之助、間宮将吾郎正秀秀(31歳)は逃げずに戦死した。
渡邊平六直網(後の六左衛門下総守)、兼松彌左衛門正直(後下総守)、金田惣八郎正吉、高木忠右衛門為信は奮闘して傷を負った。與頭の山田清太夫重次と小笠原久左衛門正直、近藤金蔵、権田小三郎(泰清の子)が首を取った。主水正の従士の小林庄兵衛は命を落した。木村次郎左衛門、小田喜之助は深傷を負った。
この戦いでは大阪の7人組の頭は非常に強くて、土井大炊頭の敗残兵と大番頭の阿部備中守の部隊は崩れかかった。備中守は、緋縅の鎧に白桟竹の捺物、駽(*あおげ)の駿馬にまたがり、黒白の段々の筋の旗に六〇(*田の下に町:尺か?)四方黒に餅の馬標を立てて、大声を上げて「黄色い旗は見覚えがある、返せ返せ」と呼びかけたが、味方の敗残兵は聴かなかった。敵はまっしぐらに攻めて来て、備中守はここが死に場だと火砲を発した。白地に朱紋三〇(*田の下に町)折掛の捺物の番衆と、扇に白黒横筋の捺物の手勢は皆馬を降りて、槍を構え、明石掃部助の部隊の浅井周防守政賢と三浦飛騨守義賢の部隊と交戦した
阿部の従士の近藤五郎介が1番首を取った。組頭の坪内五郎左衛門秀定が2番首を取った。組頭の大久保新八郎忠村と番士の近藤権左衛門正吉が手柄を上げた。
敵はしきりに攻めてきたが、備中守は大声で「自分たちは長い行軍で顔は真っ黒で冑も汚れている。城兵の顔は白くて冑もきれいだ。これを目安に撃て」と指示し、馬の上から敵を3騎突き落すと、敵も相手が大将だと知って取り囲み、非常に危うかった。しかし、家来の内藤覚右衛門、下宮利右衛門、栗飯原庄右衛門などが奮戦し、内藤は首2個を取った。下宮は槍で突いた敵を、栗飯原が斬って相討ちだといった。
下宮は笑って「それには及ばない」といってまた敵を討ち取った。備中守の嫡子の修理亮正澄は、最初は先鋒の兵に道を遮られ、横へ馬を走らせて、一丈もある高い岸から馬で飛んだが、降りたところで馬から転げ落ちた。しかしすぐに馬に乗って敵を見かけたので駆けていき、馬の上から相手も突き落とした。山本新兵衛という従者に首を取らせた。その時敵が襲ってきたが、山本はすぐに敵を突いて首を取った。ここで味方の騎兵が大活躍したので、流石の敵も敗北を喫した。
番士の酒井與左衛門重治は、首2個を、富永喜左衛門重吉、御手洗五郎兵衛盛重、坂本久五郎、前島十三郎、加藤権右衛門はそれぞれ1個首を取った。こうして備中守の隊は全部で首58個を取った。その他彼の家来たちも25個を首を取った。
〇そんな中、秀忠の本陣から土井大炊頭が駆けて来て、秀忠の本陣の2,3の部隊を立て直し、いろいろと指令を出して戦ったので、とうとう敵を負かし98個の首を取った。
本多出羽守正勝は、父の上野介正純の兵を率いて戦い、馬の首を斬られたが、替わりの馬に乗って敵に中へ突っ込み手柄を上げた。
書院番は秀忠の控えの部隊だったが、岡山の前線の加賀の陣の左方向の空地へ、水野隼人正忠清(白い幌)、青山伯耆守忠俊(黒い幌)、松平越中守定綱(鳥毛半月標)の3つの部隊が進み互いに競いながら交戦した。
去年の冬の戦では、水野と青山の組の番士が競り合い、水野が1番だった。しかし、青山の部隊は加賀の先発隊の本多安房守の部隊が東へ向かって、敵と戦う後に割り込んで青山の旗を立てた。
忠俊は「出過ぎだから後へ引くように」と命じた。すると組頭の久保四郎左衛門忠成(後の玄蕃頭)はそれには従わず、出した旗を後ろへ引く様子も見られなかった。番士は「先に出て何とかせねば」と大声で叫ぶと、忠俊は「もっともだ」と答え、番士たちは先に進んで旗を後ろへ引き戻したので、この守備は非常に堅固に見えた。ここは敵を正面に受ける場所で、忠俊の部隊は決死の戦いをした。水野隼人正忠清は加藤肥後守忠廣の叔父で、忠廣の鉄砲隊100人とベテランの武将を連れていたので、こちらも非常に堅固だった。
青山の部隊が加賀の部隊の後ろへ割り込んで、先へ出ようとするのを見て、水野の部隊の松平助十郎秀信は「青山の部隊が道筋に張り出すと、敵はすぐそこにいるのでこちらが先に槍で突き須すべきだ、こちらは部隊を二手に分けて進んで敵陣へ突き進み、青山より先に戦いを始めよう」といった。
もともと忠清は、青山に負けられないと歯を食いしばって知恵を絞ってきたので、助十郎の考えを受け入れて、部隊を2分して道を進んだ。いつも助十郎は「今度の戦では敵に最初に突っ込むのは俺だ」といっていたが、水野多宮守定は笑って「そんなことを言いふらしてはならない。この部隊の士は皆、お前に負けはしないぞ」といった。秀信は「われらの部隊には、自分の馬より速い馬は持っている者はいない。自分は上田吉之亟重秀から騎馬術の奥儀を皆伝されているので、自分より先に出られるものは誰もいない」といった。皆はその言葉に感心もし、嫌な奴だとも思った。
この戦線は非常に混みあっていたので、秀信は敵に近い深田を越えて、敵の中へ突入したが戦死した。
彼の家来の高松四郎左衛門も同様に戦死した。続いて松平庄九郎忠一、山崎介次郎、山口小平次重克、梁田平七郎、同平十郎も沼を渡ったが討ち取られた。
敵の能勢九郎右衛門と名乗る士が、番士の天野佐左衛門雄得の幌に槍を突き込んだが、佐左衛門はその槍をもぎとると敵は逃亡した。
番士の水野多宮守定、東惣右衛門、横田五郎三郎、吉見猪右衛門、平井久右衛門、土方宇右衛門勝直、三木十郎兵衛近綱、本郷庄三郎勝吉、堀田勘左衛門正利、柴田三左衛門、齋藤左源太和政と天野雄得の嫡子権十郎光則は奮戦して、それぞれ手柄を上げ、首を取った。
隼人正は「戦いは急を要す。突撃して敵を斬り殺せ」と叫んで馬の上から槍を構えて戦った。5,60人の敵が魚の鱗のように一段となって襲って来た。特に忠清が武将だと知ってからは、討ち取ろうと何度も攻めかかってきた。彼の家来の小田加右衛門と浅井惣右衛門は、忠清の馬の前に駆けつけ、惣右衛門が敵の槍を奪い取り、忠清は敵を2人突き伏せて、加右衛門に首を取らせた。鬼子左衛門など従士は奮戦した結果、激戦を制して敵を破った。忠清の家来10数人が戦死した。
青山伯耆守の部隊も、忠清の部隊に続いて深田を乗り越えて攻撃した。中でも組頭の大久保四郎左衛門忠成は、素早く馬を走らせて敵に向かった。番士の中根傳七郎正成(後の大隅守)が続きて、敵の首を取ろうとしたところ、敵に突き倒されて深傷を負った。そこへ高木忠左衛門信為が駆けて来た。正成は「知り合いだから助けてくれ」といったけれど、忠右衛門は渋った。正成は「今おれを助けなければ男が立てられないぞ」というと、忠左衛門はすぐに助けた。そうして高木はまた敵に立ち向かって行って首を取った。その他高木善次郎正成(主水正正次の子で、後に主水正になった)、今村傳四郎正長(後の彦兵衛)、松前隼人忠廣、安藤傳十郎定知、川口茂右衛門宗量、花房又七郎正榮(後の右馬介)、大久保牛之助長重(後の甚右衛門)、溝口半左衛門重長、近藤金蔵、城織部信茂、井戸左馬介良弘などの番士が、奮闘して何度も敵に乗込みそれぞれが首を取った。
中でも今村伝四郎正長は、武功で名が高い彦兵衛重長の子で、父に負けず敵の中に馬で乗込んだが、弾丸が馬に当たった。彼は馬を降りて戦った。その様子を番頭の伯耆守が見つけて「どうしてそうなったのか」と尋ねた。正長はその訳を話した。近藤金蔵が傍を通り、彼の葦毛の馬を傳四郎に与えた。今村はこの馬に乗って早速敵を突き殺して、馬を降りて首を取ろうとすると、馬が逃げ出して行方不明になった。傳四郎は自分の取った首を近藤に渡し、「おかげで首を取れたが、譲ってもらった馬を逃がしたので馬を取り返すまでは決して帰らんぞ」と叫んで再び敵の中へ出て行き、その馬に乗っていた敵を見つけて討ちとってから帰ってきて、近藤に「首は自分の記録に載せるに及ばない」といって馬を返した。
高木善次郎は数か所傷を負って死にそうになった。そこへ従者が2人駆けつけて相手に殺されたが、その間に善次郎はそこを離れて命拾いした。
野一色頼母助義、別所主水、大島左太夫光盛、松倉蔵人、古田左近、服部作十郎は戦死した。
伯耆守の士卒も18人が戦死した。児扈従(*小姓)の島田惣五郎が冑付きの首を最初に得て忠俊に見せると、そこに伊與田與四右衛門が首を持ってきて、自分の方が1番首だと述べた。それで忠俊に恥をかかされた忠俊はまた敵陣へ飛び込んで冑付きの首を取った。
同僚の佐野助左衛門、伊佐半左衛門、丸井五太夫などが、10人ほどの首を取って手柄を上げた。家康に勘気を被っていた大久保左馬允忠知は馬で敵陣を破った。
松平越中守定網は兵を連れて敵陣を破り、弟の信濃守定眞は、馬の上で槍を構えて敵陣を破り、定網は敵の首を取った。定網の隊の士の戸田藤五郎重宗、三浦権六郎、駒井右京親直、同次郎左衛門昌保、跡部民部良保が首を取った。牧野傳蔵成信らは奮闘した。
〇藤堂和泉守高虎と井伊掃部頭は、再び交戦したが、勝ち戦に転じてから天王寺の南方へ攻め込み、大野修理亮の陣と森豊前守の間を討ち破った。先日は本多出雲守の隊と酒井左衛門尉の隊など多数を負かし、家康の本陣にも散々な目に合わせた森の軍隊もとうとう敗北を喫した。
そこで徳川勢は阿倍野筋から天王寺を挟んで、大阪城へ攻め上った。徳川の旗本の5つの部隊も道を選んで追随した。
〇伊勢の部隊の頭の本多美濃守と美濃の部隊の頭の松平下総守も競って手柄を上げ、馬に乗って槍を構えて、敵を突き破った。弟の能登守忠義はこの時まだ若くて無冠だったが、彼の家来の大原儀太夫は敵の木村彌一右衛門秀望を鎗で突き落としたところを、川口又兵衛と大屋彌左衛門が駆けつけ、忠義に首を取らせた。
家康の勘気を被った堀伊賀守利重今日は、松平下総守の隊に加わり、敵の首を2個得た。彼の家来の陰山彌次右衛門正信、堀半兵衛、吉村兵右衛門、山田藤左衛門は首を7個得た。伊勢の部隊の菅沼織部正定芳は敵2人を斬った。その従兵は皆苦戦したが首83個を獲った。
武徳編年集成 巻83 終(2017.6.20.)
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