巻88 元和元年7月9日~8月28日
元和元年(1615)
7月大
9日 勅令によって、豊国大明神の号を取り消し、秀吉を国泰院俊山雲龍居士として方廣寺大仏殿の後方に廟を建て、遺体を葬った。その墳墓は阿彌陀嶺の鳥部野の山上にある。豊国の社務所の聖護院門主二品興意は、徳川に呪いをかけた疑いがあるので、住職はクビにされ蟄居させられた。祭主の荻原二位兼敬は領地千石はそのまま宛がわれたが、職は解かれた。後に、彼は許されて、白川に照高院を開き寺には千石が寄付された。
〇この日、家康は、源氏物語の秘密事項を冷泉為満に尋ねた。定家直筆の本が冷泉家に伝わっているという。講義が終わってから、そこは秘密として隠されたという。
10日 伏見から秀忠の使いの土井大炊頭が家康を訪れた。家康は「今月27日に家康が駿府へ戻るために出発するので、その前後に秀忠は伏見を発つように」と秀忠に伝えさせた。また、傳長老多門院を呼んで、「高野山に賊がいて大阪の財宝を隠し持っているという噂があるので調査せよ」と命じた。
11日 秀忠は二条城へ行き、家康と歓談した。本多佐渡守と本多上野介が同席した。秀忠は今月19日に伏見を発って江戸へ戻るという。
13日 元号が元和となった。
17日 家康はかねて二条関白昭實と相談していた公家の法制17条を決め、秀忠が今日二条城へ来て、両傳奏に公家を招集させてこれを発布した。
『禁中並公家衆法度』 元和元年7月 13条
19日 秀忠が伏見を発った。
大阪方の捕虜、山川帯刀が肥前の平戸へ、北川次郎兵衛は同じく大村へ流された。
〇この日、渡邊半蔵重綱の嫡子、国松勝綱が早世した。(母は水野太郎作清久の娘)
22日 秀忠は岐阜に着いた。川遊びをして鵜飼を観た。御家人の内藤甚八郎と市川傳三郎が斬り合って両人共に死んだ。
23日 秀忠は名護屋に着いた。国主の義直は直ちに則重の刀と行光の脇差を献じた。秀忠からは大原眞守の刀と新藤五国光の脇差を与えた。
家康は、和泉の宇田郡秋山の3万石と上州甘羅郡小幡2万石を織田内府常眞に与え、織田信長の後継ぎとした。
27日 水野日向守勝成は、家康の外祖父の右衛門太夫忠政の孫の優秀な武将で、今回の戦いでも非常に活躍した。そこで、三河の刈谷の城3万石から、和泉の郡山の城地6万石に移された。同隼人正忠清も上州小幡に1万2千石をもらった。これは今度の貢献の恩賞として、もともと持っていた領地7千石に加えられたものである。
29日 二条城の数寄屋で中院黄門通勝は、源氏物語の帚木(*ははきぎ)の巻を家康に講義した。侍女の何人かが同席して聴いた。
京都の妙見寺で岡越前守眞綱(備中に8千石を領する浮田の家来である)が誅殺された。嫡子の平内も斬り殺された。二男忠兵衛は江戸で殺された。これは平内の舅の明石掃部介全登がキリスト教徒で平内も帰依して、去年家康がキリスト教徒の原主水を逮捕しようとしたときに、主水が逃亡して平内の許に隠れていたのを見つけられ、平内は放逐されたが、大阪城へ籠城した。このために今回3人は殺された。
前田徳善院玄以の孫2人、氏家内膳入道道喜の二男左近、三男内記、四男八丸が、京都の妙覚寺で誅殺された。末子はただ1人天海の弟子として死を免れ、後に愛宕山の康楽院の住職となった。
晦日、大阪の秀頼の妻(*千姫)が京都を発って江戸へ向った。阿茶局など随行した。道中の警護は安藤対馬守だった。今月27日の出発の予定が大雨によって延期され、今日になった。
〇榊原遠江守康勝が病死したが、妾は平十郎勝政という人を生んだが、事情があって元老は幕府に断っていなかった。そのため康勝の甥の遠州横須賀城主松平国丸(本当は大須賀)が榊原の家を継いで、上州舘林10万石を領地とすることになった。
横須賀の5万石は、遠州参議中将頼宣につけ大須賀の家来たちを家臣とした。国丸は五左衛門と改名して翌年の春元服し、式部大輔忠次となった。一方、康勝の実子の平十郎勝政は、家光に仕えたが俸禄が少ないので憤慨してついに隠遁し、従弟の備前守光政の家に隠れて住んでいた。厳有公(*家綱)のとき、彼の2人の息子伊織時直と采女政喬に各2千石が与えられた。常憲公(*綱吉)のときには兄弟そろって砲卒の長となった。
〇三河の田原城主戸田土佐守尊次が51歳で死亡した。
〇大久保相模に連座して改易された青山大蔵少輔幸成、朝比奈彌太郎泰重(実は幸成の庶兄)、森川内膳重俊(後の出羽守)、大久保左馬允忠知、同半助忠當、その他にも同助左衛門忠益、河野権右衛門通重、別所孫次郎友治、林三十郎は、今回の戦いで活躍して罪を償ったので、家来に復帰した。中でも青山は領地に加えて1万石を加えられ、書院番、花畑番、小十人組の三等の頭を兼任した。
〇堀豊前直明は、室町将軍家の家来の奥田七郎兵衛利宗の子で、堀帯刀直政の外孫であり、今度の戦では叔父の淡路守直昇に従って手柄を上げたので、領地をもらい書院番に加えられた。
〇羽柴壱岐守正利(以前は勘左衛門と名乗っていた)は、父の下総守勝雅が石田方に付いていたので領地を没収されていたが、今度手柄を上げたので御家人に加えられた。(大小名はこの頃はすでに羽柴の称号を避けて元の姓を名乗っていたので、正利も瀧川にもどっていたが長門守利貞の養父である)
〇関東では古河香春齋田代三喜といって武士ながら髷を落としていた名医がいた。この三喜の親戚に養玄は今度の戦で安藤対馬守の部隊で手柄を上げた。彼は以前から宇都宮、下妻あたりでの武功が家康に届いていたので、幕府の医者にプロモートされ300石を与えられた。
〇大阪の7人組の1人、青木民部少輔一重は、この春秀頼の使いとして京都へ来たが、家康に捕えられ、大阪城が落ちたと聞いて断髪して、高野山へ隠れていた。
この人は昔今川の家来だったが、氏眞が落ちぶれた時からは家康に仕え、姉川の戦いで眞柄十郎三郎直隆(十郎左衛門の子)を討ち取った。彼の弟も徳川の家来の河澄氏養子となって、源五重徑と名乗って味方が原で戦死した。また、彼の末の息子の次郎右衛門可直も、ある時から家康に仕えた。一重は最近徳川家を離れて丹波長秀に仕えていたが、その父の民部少輔重眞入道法印が秀吉についていたので、秀吉の近臣の7隊の長となって活躍した。そこで家康は彼をプロモートして、大阪に領地をもらって諸侯の仲間入りをした。
〇同様に大阪7隊の長、伊東丹後守長實も、大阪落城のあと高野山で蟄居していたが、家康にプロモートされて領地をもらい諸侯に加えられた。
この彼について世間でいわれていることとして、京都所司代の板倉伊賀守が謀略を尽くして、冬の陣で自分の家来の朝比奈兵左衛門を伊東に送り込み、夏の陣でも、彼を樋口淡路守方に送り込み大阪方の作戦を聴き出して家康へ報告した。そのため丹後守は許されて恩賞をもらった。一方、樋口淡路守の方は板倉が家康に赦しを乞うたが、家康に赦してもらえず、秀頼の妻(*千姫)の料理人大隅與五郎左衛門と共に浪人となった。
佐々孫介は、秀頼を裏切ると約束しながら果たさず、戦後いろいろ嘘を言って恩賞を得ようとしたが、家康は彼を非常に嫌って殺した。
〇織田主水信高は、信長の親戚の武蔵守信行の孫で、七兵衛信澄の子である。2歳の時父の信澄は舅の明智光秀方について大阪城で死んだ。その時、信高の乳母がその子を匿って助けた。成長してからは藤堂高虎の許に隠れ、関ヶ原の際には高虎の留守を預かって、伊予の今治での戦いで活躍した。その後は秀頼に仕え、今度の戦いでは茶磨山の麓から思い切った撤退を敢行した。家康は敵ながらも勇敢だったので、御家人に加えた。(その後名前を三左衛門と改めた)。これには彼の母が当時千姫に仕えていた関係で、戦後に彼女のサポートがあったためという。
〇常徳院(*足利義尚)、恵林院(*足利義植)の2代にわたる官領だった畠山尾張守政長の4代目の子孫、次郎四郎政信は、当時大阪を旅行し、片桐は彼の家来だったのでその援助を受けていた。片桐兄弟が大阪から退去したので、政信も退去した。去年の冬の陣や今回の夏の陣に参加して活躍したので、秀忠にプロモートされて禄をもらい、上層の武将の仲間入りをした。(政信は後に民部となり、結局入道となって休山と号した)
〇秀吉の時代から片桐市正の与力だった毛利兵衛重政(織田掃部助信昌の外孫)、小林太兵衛元長、長井介十郎正次らの領地は、元のままに置かれ市正の嫡子の出雲守高俊の組に属したが、彼の子孫はある時から直参となった。同じく主膳正貞隆の与力で、大阪城から退去させられた矢野十右衛門(丹波730石)、西川八右衛門(摂津120石)、伊藤猪右衛門(摂摂津160石)も領地を元のままに、やはり貞隆の家来とされた。しかし、彼らの子孫は常憲の時に直臣になろうと直訴したが、それぞれは改易された。
〇斎藤新九郎利之入道道三の庶子、長井隼人利道の子、井上小左衛門利定は、秀頼の家臣として500石を領し、騎士を50人預かって今回の戦で戦死した。家康はこの家が絶えるのを惜しんで、彼の子の治兵衛利儀(12歳)を二条城へ呼んで、御家人とした。
〇秀頼の家臣、田屋茂左衛門政高の子の三好左馬介直政は、母が関東の大御台所と従妹同士除絵に結局100人扶ちをもらって御家人となった。この人の子は石見守政盛という。
浅井周防守政賢は、備前守長政の落胤で、淀殿や関東の大御台所の親戚だったが、大坂の陣の後家康の許しは得られず、京極忠高の領地の若狭の小濵に蟄居して髪を剃って作菴と号した。
〇堀伊賀守利重は、大久保相模の連座で改易され、宇都宮で蟄居していたが、今回の戦では密かに参戦し大きな手柄を上げた。そのため許されて元々の領地は8千石だったが、1万石を加えてもらい、後に年寺社奉行となった堀市正は、この人である。
〇山口修理亮重政も利重と同様改易されて武蔵の越生に住んでいたが、父子で密かに戦いに参加して嫡子の伊豆守は26歳で戦死した。重政はまた越生に帰って密かに暮らしていたが、寛永5年に赦されて1万5千石をもらい、重政の弟の小平太重光は家来の士だったが、今度の戦で30歳にて戦死した。
〇皆川山城守廣照入道老圃斎とその子の志摩守隆庸は、そのころ改易されて京都の知恩院で蟄居していたが、今度の戦に隆庸が参加して大きな手柄を上げたので、彼らも天和8年に赦され、老圃斎には常陸の府中に1万石を、志摩守には常陸の武田5千石を与えられた。
〇秀頼の秘書、大橋長左衛門重保は、片桐市正と共に秀頼から離れ、片桐の部隊に属して冬の陣の備前島で火砲に当たって傷を被ったので、夏の陣には参加できなかった。しかし、元和3年に直訴して御家人になれた。家光の代では2千石をもらって、式部卿法印に仕え、龍慶と名乗った。彼は、荒木志摩守元清の騎術の門弟であり、剣術は小野次郎右衛門忠明の術を受け継ぎ奥義を極めた。また、歌道や茶道にも習熟していた。(能書、長左衛門良政の父である)
8月大
朔日 公卿や殿上人が二条城に来て家康に面会した。
南蛮の商人が長崎から京都へ来て、家康に会った。
秀忠は伊豆の三島の宿場に着いた。
2日 中院通勝は二条城の数寄屋にて、源氏物語箒木の巻を講義した。
4日 正午、家康は駿河へ発った。夕方膳所に着いた。
秀忠は今日江戸城へ帰還した。応仁以来、世が混乱して多くの人が死んだが、家康によって全国が統合され、秀忠も生まれつきの性格によって誠実に務め、裏切り者を断ち、絶えていた家を復活させて恩恵を広げた。この様子はちょうど火が水で収まるようである。
5日 家康は矢橋で琵琶湖を渡り水口に着いた。ここでこの4月に森山の宿で、秀忠の10人の士たちが、越後の少将に殺されたことを聞いた。そこで本多正純を呼んでその事情を聴いたが、正純は「聞いていない」と答えた。そこでその地の租税の長、長野内臓介と小野惣右衛門に尋ねた。すると「長坂六兵衛(または半十郎)、富士太郎兵衛、伊丹彌兵衛が、偶然忠輝の軍夫進前方を通過したときに、越後の兵が駅馬に乗って通過するのは奇妙だといって、彼らを斬り殺した」と答えた。家康は「小禄の士だけれども将軍の家来を勝手に斬り殺すのは、上総介の行き過ぎだ」と非常に怒った。
〇ある話では、秀忠が江戸へ帰る途中で、長坂血槍九郎信宅(後の丹波守)が森山の宿で秀忠に弟が無実の罪で忠輝に殺されたと、直訴したともいわれている。
6日 家康は水口に着いた。暴風雨によってこの地に滞在している間に、林道春(33歳)が論語(学而)を講義した。
10日 正午、家康は市場へ着いた。租税使いの水谷九左衛門が昼食を献じた。それから桑名まで海を渡って、夕方名護屋の城へ着いた。洪水によってここで2日ほど滞在した。その間、美濃の岐阜あたりの3万石を義直に与えた。義直は滞在中に世話に尽くしたからである。
13日 岡崎の城へ着いて1日滞在した。
15日 家康は中泉に着いてここで滞在したという。中島輿五郎重春が家康に面会した。父の與五郎重好が戦死した時、彼はまだ2歳だったが、このように成長したことを家康は感心したあまりに、幸い小笠原何某の後任の大崎の水軍を父がそうだったように努めるように命じた。しかし、彼の親戚の板倉内膳正重昌は、「與五郎がまだ若いのでその役は出来ないので、成人してから努めさせたほうが良いと」と進言した。家康は同意した。後に秀忠がもの春に大崎の水軍を命じた。
松平安房守忠吉は伏見城の加番だったが、成田左衛門佐長忠と交代して江戸へ向った。
20日 家康は掛川に城へ着いた。
千姫は今日江戸へ到着した。これからは大姫君と呼ばれ、後年本多中務大輔忠刻に再婚した。忠刻が亡くなったのち、天樹院と呼ばれた人である。
21日 家康は田中の城へ着いた。(翌日はここに滞在した)
23日 正午、駿河の城へ帰還した。人々が集まり踊りながら万歳をした。
24日 凱旋を祝して江戸の使い酒井備後守が駿河に到着し、十六夜の壺を届けた。
家康は夏の戦いで味方が負けた時の逃亡者を糺し、家来たちが見おぼえていることを、えこひいきなしに申告するように命じて、一人一人に文書で申告させた。
〇この日に集めたこのアンケートの結果を家康は見てから封印した。
〇越後の忠輝が帰国後、10日に本多正純の正式の指示書が越後に届き、森山の駅で御家人3人を斬り殺した犯人を差し出すようにと命じた。そこで越後の老臣は驚いて、当時のもめ事は山田将監、富永大学の組の2人の歩卒と石谷縫殿助の組の鳥見役1人がやったことであるが、大勢が集まって斬り合いをしたので、相手がよくわからなくて迷惑していた。しかし、その3人が逃げてしまったのでどうにもならず途方に暮れて対処を相談した。そこで忠輝の為にと、安西右馬允と平井三郎兵衛を無理に犯人にして駿河へ連れて行こうと考えた。しかし、此の2人も逃げ出してしまった。すると小澤水左衛門と松岡清右衛門と歩卒の3人が忠輝の危機を救いたいと志願した。そこでこの3人を歩卒20人で警護して駿河へ行かせた。しかし、家康はその虚偽を察して許さなかった。
そこで、今度は、花井主水が山田将監と富永大学を連れて駿府へ赴いた。しかし、家康は使いの松平忠左衛門勝隆(後の出雲守)を今日24日に越後高田へ行かせ、「夏に森山の駅で下級の士ながら幕下の士を殺したことは犯罪なので、自分が生きているときはともかく、後では必ず追放されることになろう。また、参内の時には病気として欠席し、実は鴨川で遊んでいたではないか。また、帰国は本道を避けて裏道を使った。これは裏道を通るなという決まりを犯している。このようなことで自分はお前との父子の縁を切る」と伝えた。
〇ある話としては、この時勝隆は、父の大隅守重勝の住んでいる三条行き、父と共に高田の城へ行って家康の意向を伝えたという。
〇一説には、これ以前に家康は近藤平右衛門秀用を越後へ行かせて、親子の縁を切ることと、森山での3人を殺した犯人を早く出すことを催促したという。
27日 家康は駿河城に越後の老臣花井主水と山田将監を呼んで、忠輝が大阪の陣で戦いに参加しなかった理由を糺した。主水はいい加減な言い訳をしたが、「山田将監を誤って改易させ、森山では江戸の御家人を殺した。更に忠輝の大阪の陣での行軍を怠らせた」と家康は非常に厳しく咎めたという。
28日 筑後から田中筑後守忠政がこっそり駿河に来ていたのを密告され、滞在していた桜井庄之助勝成を連れて駿府の城へ出頭した。家康は彼らを呼んで、「亡くなった父庄之助勝次は本多忠勝のもとで戦いがあるごとに大活躍をした。その時は陣代として5千とか3千とかの兵を指揮してくれた。今も生きているのなら非常な人材だから、これまでの功績によっておまえをもう一度家臣としたい。今後は秀忠の為に尽力するように」と述べたという。
武徳編年集成 巻88 終(2017.6.25.)
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