巻89 元和元年9月朔日~12月29日

元和元年(1615)

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朔日 夏の陣へ従軍した徳川の諸士は今日まで休暇をもらっていたが、今日から勤務が再開された。

7日 九鬼長門守が、大阪の捕虜の喜多十右衛門の関所で所蔵していた黄金30枚を、幕府に納めたという。

8日 関東から水野監物が駿府へ来た。家康は「大阪の戦いで負けて逃亡した味方を調べたか」と尋ねた。忠元は近日中にアンケートを取って糺すと述べた。

9日 秀忠の名代の水野監物などすべて諸臣が集まり、重陽の節句の祝賀を行った。

今晩家康は、数寄屋に日野輝資入道唯心、大澤少将基重、畠山長門守義眞、土岐左馬介頼勝、同、市正持益、三好因幡守一任、堀田若狭守重氏、堀丹後守直寄、市橋下総守長勝、猪子内匠介を呼んで、尾張義直が鉄砲で撃った、白鳥を料理して与え、志賀の壺で茶を立ててふるまった。

10日 松平忠左衛門勝隆(後の出雲守)が越後から帰り、「忠輝と老臣たちは陳謝しそうもない」と報告した。先日駿府からの内々の指示で、忠輝は罪を償うために高田の城を開けて、上州の藤岡に来て蟄居した。

17日 江戸の使いの神尾刑部少輔が駿河へ来て、近日中に家康が関東へ放鷹に出るというので、秀忠が非常に喜んでいると伝えた。

19日 家康は自分の鷹の獲った鶴で、日野唯心入道と安西衆をもてなした。

23日 金森長門守重頼が、家督の相続が認可された礼として、銀2千両、また弟の内匠頭可次と左京重勝はそれぞれ銀100両を献上した。重頼は、父の遺物の刀(国次作)と脇差(正宗作)および茶壺を献上した。秀忠にも脇差(吉光作)と小柴肩衝を父の遺物として献上した。あとで秀忠は重頼を呼んで、家宝にするようにと肩衝を自分で返した。

〇この日、小野左馬介高政が享年58歳で死去した。

〇この頃、酒井雅楽頭忠世、青山伯耆守忠俊、土井大炊頭利勝を竹千代の元老として付けた、という江戸からの急ぎの連絡があった。

24日 江戸からの急ぎの連絡で、21日に毛利秀就の桜田の家で失火があり、伊達と島津の館が類焼したという。

29日 家康は駿河を出て清水に着いた。

10月大

朔日 午後家康は善徳寺へ着き、翌日ここに滞在した。

3日 三島に着いた。

4日 小田原城へ着いた。(江戸から安藤対馬守重信などが箱根山で迎えた)

5日 相模の中原へ着いた。ここで数日滞在した。

9日 神奈川へ着いた。秀忠が迎えて先日帰ったという。

10日 家康が江戸に着くというので、竹千代(家光)、国丸(駿河忠長)が幸橋まで出迎えた。家康は西の丸へ入り、秀忠が本城から来て対面した。

13日 家康は、最上駿河守家親に、腹違いの兄の大蔵少輔義成(2万7千石)の居城清水へ山形の城から急襲させ、滅ぼさせた。これは義成が密かに秀頼に通じていたことが露呈したためである。義成の子の孫一郎(26歳)は、山形の屋敷にいたが、これを聞いて300余りの兵で山形城へ押し寄せたがすべて戦死した。残った残党は屋敷に籠って、家親の家来の輝度周防守が攻めてくるのを待って、討ち死にしたり自殺したりした。

15日 家康は、江戸の本城で饗応された。

21日 家康は戸田の村へ行き、この日から鴻巣、忍、岩附(*岩槻)あたりで放鷹することになった。

23日 三宅宗右衛門康貞入道が享年72歳で死去した。三河時代からの家来である。その子は越後守である。

24日 秀忠は、幕下の者で大阪の戦場で敗北した者の調査のアンケートをとるについて、私的なえこひいきのないように諸士に誓約書を書かせた。

25日 秀忠は上のアンケートの結果を見た上で、放鷹中の家康の宿へ届けた。

今度の調査で、永井右近太夫の部下の成績が吟味された。この人は文武を兼ね備えた武将として上に立てる度量を持った人だからである。

11月小

2日 秀忠は鴻巣へ放鷹に行った。その前に井伊直孝に領地を加える保証を与えた。元和1年11月2日 秀忠ー井伊直孝.jpg

9日 家康は岩槻で放鷹をした。秀忠は鴻巣から江戸城へ戻った。

10日 家康が越谷へ行くと、水が溜まって放鷹の邪魔になったので、その地の租税の役人は勘気を受けた。家康はここから葛西、千葉、東金で放鷹をした。輿を担ぐ人夫3人と、馬に乗った奴隷18人、また蜂屋九郎左衛門の軽率50人が従った。

16日 秀忠は船橋へ行き、そこから佐倉あたりで放鷹を行った。

19日 秀忠の使い、太田備中守資宗が東金の家康を訪れた。彼は家康から新作の下坂康継の刀をもらった。

23日 秀忠は江戸城へ帰った。

25日 家康は再び舟橋で放鷹を行った。夜中に宿が焼けたが無事だった。(*『駿府記』では船橋の町が全て焼失したが、家康の宿は無事だったとある)

26日 家康は葛西で放鷹を行った。

27日 夕方家康は西の丸へ戻った。夜になって、この秋から老弱で床についていた、本多佐渡守正信が快復したので、家康の招きに応じて城へ来てしばらく面会した。

29日 家康は来年から駿府の城を参議中将頼宣に譲り、自分が隠居する場所を探して城を建てために、伊豆の三島が望ましいとして、段取りをさせた。

〇この日、秀忠は、今後諸国へ3年ごとに監察の使節を送り、諸国の家来たちの行状に間違いがないか、庶民の困窮度はどうかを問わせ、すでに天下が統一されたのだから、諸州の大名の居城以外の城はすべて焼き払うように細かな決まりを発令した。しかし、奥州の会津領は、元の通り数か所の城をそのまま残した。今年は蒲生家の監使いとして、豊島主膳信満と永田庄左衛門正利を派遣した。

〇高敦が調べたところ、この後、元和戌午には会津には跡部民部良保と今村傳四郎正長が行かされ、同6庚申には、曽我喜太郎右祐と神尾内記元勝が監使となった。これは蒲生下野守が幼少だったためである。

12月小

朔日 家康は青山伯耆守の組の今村傳四郎正長を呼んで、この5月7日の活躍の褒美として、「梶原景時が2度戦ったのは子の源太郎景季を助けるためだった。お前の2度の戦いは近藤の馬を道義として取り返すためだった。お前のやったことは梶原をはるかに超えている。お前の一騎は千騎に値する」と、家康が着ていた胴着を自ら与えたという。

〇『今村家傳』によれば、正長の父の彦兵衛重長は、使い番として千270石を領していた。次のひのえ辰の年には、褒美で千石が加えられた。寛永4年5月に死亡した傳四郎正長は、今月下旬千石をもらい、自分の持っていた300石と合わせて、伊豆の下田の海を守護した。

〇又傳四郎正長が持っていた十文字の槍は、夏目次郎左衛門吉信が味方ヶ原の戦いで奮戦して家康の代わりに戦死した時に持っていた物である。次郎左衛門の子、長右衛門信次は傳四郎正長の伯母の婿であるが、正長が生まれつきの素質によって将来武功があるようにと、父の吉信が槍を与えたが、やはり非常な功績を残したという。

3日 秀忠は江戸の本城から西の丸へ行き、家康に会った。本多佐渡守が同席した。

4日 家康は稲毛に行き、翌日まで放鷹をして、多くの獲物を得て満足げだった。

6日 家康は相模の中原に行ったところ、朝から大雪で従者の中に凍死者が出た。伊豆の三島に着いた。(*『駿府記』では伴の者が5,6人が凍死したとある)

15日 日柄がいいので隠居場の土地の泉頭(三島の西*いずみがしら)を見回った。来春から工事を始めるようにと、午後に駿河の善徳寺まで戻った。

この日江戸では、秀忠が藤堂高虎の領地を増やす証文を与えた。元和1年12月15日 秀忠ー藤堂高虎.jpg

16日 家康は駿府の城へ戻った。頼宣が清水まで出迎えた。

19日 江戸から節分の祝いの為の使いとして、土井大炊頭が駿府へ来た。また、秀忠は伊豆の泉頭は素晴らしいところなので、春からその地の城は秀忠が作らせると伝えた。

25日 江戸から年末の儀式の使いとして神尾刑部少輔が駿府へ来た。

26日 大阪の陣での戦功について、一番槍から敗退時の手柄まで詳しく吟味して恩賞を決定した。

1000石 太田善太郎吉信
500石  山田十太夫重利
500石  渡邊半十郎宗綱
500石  川口長三郎正武
500石  中山勘解由昭守
500石  菅沼主殿定吉(後田中)
服部権太夫政信(政信の父が亡くなったので遺領3千石に合わせて3500石となった)
400石 石谷重蔵貞清
400石 中山介六郎直之(勘解由長男)
400石 小栗平吉久玄
300石 間宮権左衛門伊治

小姓、手水番
400石 安藤甚助
300石 喜多見半三郎重恒
300石 八木勘十郎宗直
300石 藁村孫九郎

小姓、手水番、目付
200石 木村源太郎元政(源太郎嫡子はこの時まで無禄)、
200石 同甚九郎勝元

大番、阿部備中組与力頭
500石 坪内五郎左衛門利定
500石 大久保新八郎忠村
200石 近藤権左衛門正吉

大番、高木主水正組
500石 山田清太夫重次、兼松彌五郎左衛門正直(後下総守)、渡邊半六郎直綱(後六左衛門、下総守)(志摩守一豊嫡子はこの時まで無禄)、高木忠右衛門為信、金田宗八郎正吉

300石 筧助兵衛為春、権田小三郎為清、小笠原久左衛門正直、高木茂右衛門、近藤金蔵(後忠右衛門)

伏見在衛大番
200石 加藤傳兵衛正信(この正信は陣の割り振り役を務め、市橋下総守長勝の隊の監使として矢尾で敵を破り、このような加恩があった。組頭にもなった)

書院番、水野隼人正組
1000石 水野多宮守重、天野佐左衛門雄得、東惣右衛門、横田五郎三郎、赤見猪右衛門、平井文右衛門
2000石 土方宇右衛門勝直(勝直は加藤義明、金吾秀秋に歴代仕え手柄を上げていた。徳川の家来になって今まで無禄だったが、今度2千石の内500石は一連の貢献によるもので、残りの千500石は金吾家に仕えていた時の分だとして与えられた)
500石 三木十郎兵衛近綱、本郷庄三郎勝吉(後庄右衛門)、堀田勘左衛門正利、柴田三左衛門、齋藤左源太利政
200石 天野権十郎光則(光則は無禄だったが父の佐左衛門と伴に出陣して活躍したので新たに200石をもらった。家督を継いで後に佐左衛門となった)

書院番2番青山伯耆組
1000石 大久保四郎左衛門忠成(後玄番頭)、中根傳七郎正成(後大隅守)、高木善次郎(後肥前守、主水正)、今村傳四郎正長
500石 松前隼人忠廣、安藤傳十郎定智、川口茂右衛門宗重、花房又七郎正榮(後右馬介)、大久保牛之助長重(後甚右衛門、この時まで無禄)、井戸左馬介良弘

書院番4番松平越中守組
1000石 戸田藤五郎重宗(後備後守)、三浦権太郎
500石 駒井右京親直
300石 駒井次郎左衛門昌保、跡部民部良保

花畑1番水野監物組
500石 松平五左衛門正吉(五左衛門近正の二男、慶長17年以来無禄で仕えたが新たに禄をもらった)
300石 石丸権六郎、朝比奈彌一郎泰澄

花畑2番井上主計頭組
500石 土屋左門友貞(後忠兵衛)
400石 山崎権八郎
200石 岡部庄九郎長綱

花畑3番板倉周防守組
400石 稲垣藤七郎重大(後若狭守)、彦坂平九郎重定
200石 高田庄右衛門

花畑4番成瀬豊後守組
300石 中山内記信吉(後市正)、安藤與八郎

〇安藤仁左衛門有重はまだ無禄だったが、天王寺の戦場で軍功を牧野駿河守が証拠を糺して報告したので書院番となり、領地ももらった。(後の江戸の町司の石見守はこの人である)この人は先祖から3代にわたって苗字と名前は同じである。(皆仁左衛門有重である)

〇大阪の戦場で敗北して逃亡したものはすべて改易となった。その姓名は次の通りである。

書院番青山伯耆守組
村越内蔵介、佐久間孫四郎、青山五郎、青山小兵衛

書院番水野隼人正組
土橋孫六郎、杉山三右衛門、堀田清十郎

〇本多三郎と西山清三郎も上の連座で改易されたが、後で申し開いて家来に戻った。

〇膳番の家来で臨時の使い番だった田上右京進秀行と山上彌四郎も、敗退時に後の備えの食料を運んでいる雑卒の中に乗込んで、多数を踏み倒したことを取り調べられ蟄居させられた。大竹郷右衛門正重に頼んでこの件を謝罪したが、証拠不十分で禄を取り上げられた。そこで田上は、大坪流の馬術を極め、奥州の岩城で有名になった。山上は寛永年代に、肥前の島原の役で松平信綱の隊で活躍したので復帰を要請したが、運悪く陣営で失火して復帰できず、そのままどこで死んだかは不明である。因みにこの2人は近江の生まれである。

〇青山善四郎重長は活躍したが、決まりを破ったので改易され、後に赦された。

〇石川嘉右衛門重之は三河の泉の庄の生まれで、家康に近く儒学が好きでよく勉強し、中でも詩が上手かった。しかし、気性が激しく同僚からは嫌われていて、弱虫だと蟄居させられたが、今度の戦は幸いと出陣したが、決まりを破って桜の門へ抜け駆けして首を2個取ったが、その罪によって改易させられた。後年老いた母を養うために安芸で就職して禄を得た。浅野長晟が亡くなると安芸を離れ、京都の四明(*比叡山の西側の山)の麓にある一乗寺村で庵を構えた。眺望が非常に良い場所で、六六山人丈山と号して、中国や朝鮮の詩仙36人を選んで額に書き、それぞれの詩を壁にかけたので、そこは詩仙堂と呼ばれた。20年間世間を断って、御水尾天皇が彼を仙洞御所へ呼んだが断り、院にも出向かなかった。彼の詠んだ瀬見の小川の和歌(*渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし)は人口に膾炙した。

〇旗奉行の保坂金右衛門は、指示不徹底で士卒を混乱させたために改易された。(後に赦された)

〇槍奉行の永田善左衛門重利も同様な罪で自宅監禁となったが、許される前に死去したので、家が断絶した。

〇八王子千人頭は、甲州で活躍した武将たちである。今度の戦いでは虎皮の鞘の槍を数本歩卒に渡して後援した。そこで家康は「彼に50石を与えるのがいいか、当面の褒美として白銀がいいか」と尋ねた。当時は食料が切迫していたので、彼は「白銀が望ましい」と申し出た。そこで白銀20枚ずつもらった。しかし、志村勘左衛門は50石の領地を望んだので、すぐにそれをもらった。

27日 大阪の質子の大野彌十郎(修理亮の子)、速見出来丸(甲斐守の子)、古田山城守(織部正の長男)は、江戸の本誓寺で殺された。

村上周防守頼勝の大阪の屋敷の守衛の富田次左衛門も、敵方へ内通していたのが判明して、周防守に連絡して殺させた。

〇秀忠の近臣の小山長門守と成瀬豊後守正武は武功があったにもかかわらず殺された。この2人は非常な親友だった。この閏6月21日家康が参内したときに伴をしたが、豊後守の妻は伊東修理太夫裕慶の妹で縁者に官女が沢山いた。そこで豊後守を寝所に呼び込んだときに正武は、長門守を連れこんで無礼講で宴会をした。

小山は大変なイケメンだったので、年頃の官女が大勢で大騒ぎをした。このことがずっと後に駿府の家康に聞こえて、豊後守は土井利勝に預けられ、享年22歳で新知恩寺にて自殺させられた。友達の井上清兵衛政重が介錯した。長門守は安藤重信に預けられ吉祥寺で自殺。友達の細井金兵衛勝吉が介錯した。

28日 新庄主殿直好と島田清左衛門直時がそれぞれ従5位下となり、いずれも越前守となった。

29日 今度の元旦の出仕から、駿河でも江戸でも諸臣は官位に応じた烏帽子狩衣で大紋付を着用の事となった。平の士は単衣の直垂である。(*『駿府記』の記述はこの日で終わっている)

〇この日小野傳三郎高行が初めて城へ登り秀忠を拝謁した。

〇今年、大阪の陣での手柄によって、内藤帯刀忠知には1万石が与えられた。(2年にわたって全体で2万石をもらった)、坂崎出羽守成正と本多大隅守忠純にも各1万石が与えられた。(坂崎は本来石見の津和野に加えて4万石、本多は本領下野の長沼と合わせて2万8千石となった)、本多能登守忠義は美濃守忠政の三男で無禄だったところに2万石を与えられた。本多出羽守正胤は上野介正純の二男でやはり無禄だったが、ここで1万石をもらった。保科甚四郎正負は兄の養子だったが、2人は仲が悪かったが協力して戦場で手柄を上げた。それで3千石をもらった。(後に弾正忠になった)植村新六郎家貞(出羽守家政の子)には5千石が加えられた。

〇成瀬伊豆守之成は、父の隼人正の領地1万千石をもらってずっと幕府に勤めた。これは父がすでに尾陽義直の補佐で、今年までは家康の仕え政務を仕切っていた。その後尾張の犬山の城へ移り、嫡子の半左衛門正虎とともに尾張の政務を仕切りようになり、隼人正正成の領地が伊豆守に与えられたためである。(之成は寛永11年39歳で死去し、家は途絶えたという)

〇内藤豊前守信政(紀伊守信成の子)は、近江の坂田郡長濱の城から摂津の茨木郡高槻の城をもらった。

〇三河の加茂郡松平郷の主、太郎左衛門在原の尚榮の長男太郎八郎信正に200石が与えられ、近臣となった。(信正は元和2年の夏に早世し、跡が絶えた。父の本領は弟の重和が相続した)

〇高木主水正の組で戦死した間宮将五郎正秀の正勝は、当時21歳だったが家康の前に出て庄五郎となり父の遺跡を継いで、安藤重信に命じて一族の後見人となった。また、100石を加えられ成長の後には秀忠から大阪城の米蔵係となって、さらに200石を加えられた。(この人は庄五郎政信の父である)

〇大岡忠右衛門忠代の長男忠種(4歳)を呼んで、同忠四郎忠行が大阪で戦死して子がなかったのでこの子に家督を与えた。また実父はこの子を十分養育するようにと命じられた。(後の忠郎)

〇杉浦藤次郎時勝は大阪の戦で左の手を火砲で痛め、三河の郷に戻って療養した。後に秀忠が京都へ行った帰りに時勝に仕えるように命じられが辞退した。

〇尾陽侯の長臣の渡邊重綱の次男、忠七郎忠綱(12歳)が秀忠に仕えた。

〇間宮若狭守網信の孤児の忠左衛門重信は大獣公に仕えた。

武徳編年集成 巻89 終(2017.6.26.)